伝統板・第二

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生命の實相① - 伝統

2015/04/07 (Tue) 04:35:40

*光明掲示板・伝統・第一「『生命の實相』 (51)」からの継続です。
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=32

・・・

《真理を知るには》


          *『生長の家』誌(昭和22年12月号 巻頭言)より

真理を知るためには、文字そのものに捉はれず、

行間又は字間の間を縫って沈黙の間に鳴るヒビキを聴く事を要するのである。

釈迦は四十年説法して『一字不説』と云い
禅宗では『言詮不朽・不立文字』と云う。

不立文字と云いながら数千数万言を長広舌するのも禅であり、
世尊陞坐して一字説かずして、文殊菩薩撃槌して『説法終れリ』と云う。

われ既に『生命の實相』を説いてあますところなしと雖も、いまだ一字も説かず、
これから益々長広舌を揮わんとする所以も茲にあるのである。

言語は沈黙にまさり、沈黙は言語にまさる。
  
共に真理にして真理に非ず。

黙して神想観して天地の啓示を受け沈黙のうちに得たる啓示を文章にあらわす。

不言にして多言、多言にして不言。
真理は無にして有、有にして無。
説いて説かず。

聴き方上手読み方上手が必要である。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17904500.html

・・・

<関連Web>


(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「生命の實相 (226)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=67

(2)「光明掲示板・第一」内スレッド「『生命の實相』 (773) 」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=199

(3)「光明掲示板・第二」内スレッド「『生命の實相』 (122)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=58

(4)「光明掲示板・第三」内スレッド「『生命の實相』 (72)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=37


           <感謝合掌 平成27年4月7日 頓首再拝>

『生命の實相』を通して働く高級霊 - 伝統

2015/04/17 (Fri) 04:31:44


「奇蹟」 はなぜ起るか ― 生長の家の運動に参加する高級霊

            * 『實相研鑚』 第1輯 より


さて、ときどき、3次元の世界に生きているわれわれにとっては、
奇蹟と思われることが出て来るんです。

『生命の實相』 をまだ読まないでいるのに、この体験は、私が東京へ移転して、
その年か次の年でしたけれども、その 『生命の實相』 を読んで、
病気が治ったというのなら、まあ悟りを開いたと言いうるんですけれども 

『生命の實相』 の本を買ったか、求めたかして机の抽斗に入れておいただけで、
それだけで気がついて見たら、自分の眼の乱視が治っておったというような奇蹟も
実際にあったりしましてですね、

こういうような奇蹟が出て来るということは、なぜであるかというと、
この生長の家の人類光明化運動は、住吉大神の運動であるけれども、
この運動に参加しているところの無数の高級霊があるわけです。

これは宇宙普遍の神様とか、法則とかいうのじゃなくって、一々個性があって、
そして意志を持っておって、「あの人にこうしてやったら、あの人が神様があるということに
気がついて、悟りをひらく便宜になるだろう」 というような考えをもって、

また、『生命の實相』 を抽斗に入れておいただけで、そこに奇蹟が現われたりする
ということにもなるわけで、そういう高級霊の働きによって、火葬場で摂氏1200度の高熱で
4時間焼かれた 『甘露の法雨』 でも、それを高級霊のある霊質で包んでしまう
ということにすれば焼けない。


このような、われわれの3次元的知識をもってしては理解することのできないような奇蹟が
現われて来るのは、それは宇宙普遍の神の実相が現われたというよりも、生長の家の運動に
参加している高級霊たちがそういう働きをして、この世界にはわれわれの3次元的常識を絶する
世界があるんだと、

高級霊もあれば、そのまた上の高級霊もあり、さらにまた上の宇宙普遍の神もあるんだと
いうことを自覚せしめるために、おのおのの役目を持って人類光明化運動に参加している
ところの高級霊が、ときどきわれわれの常識を絶する奇蹟を現わして、われわれを正しい信仰に
導こうとしているのであると、そういうことになるわけなんであります。


それで病気が治るのもですね、悟りをひらいて治るのもあるけれども、
霊というものは直接患部に侵入して、手当を加えて癒すこともできるのでありまして、
そういう治し方もあるわけです。

まだ本当に癌が消えるほどの悟りには達しておらんけれども、この人は治してやったら
大いに目覚めて人類光明化運動の役にたつ人であると、こういうように高級霊が思った時に、
患部の中に侵入して癌細胞を取り除くこともできる。 

取り除くといっても、“物質は物質ならず” で、それは “想念の塊” ですから、
霊がわれわれの中に侵入して、ガンという想念の塊を取り除くということは
何もむつかしいことではないのであります。


              
 『實相研鑚』 第1輯 
    「『自然流通の神示』について」  昭和45年1月18日 御指導
                 
    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19027844.html

           <感謝合掌 平成27年4月17日 頓首再拝>

毎日『生命の實相』のような真理の書籍等を読むことが大切 - 伝統

2015/04/23 (Thu) 04:41:10


         『生命の實相』第3巻生命篇上(P88)より

本当の神というものはいかなるものであるかということを、神を十全の相(すがた)において
理解して拝まなければ、神と自分とを完全に照準できないから、神からの十全の神徳を
この現象世界にお受けすることができないのであります。

神を祭ってもおかげがなかったとか、神を拝んでもおかげがなかったとかいう方は
こういう方であります。

この、神からの十全の神徳を真っ直ぐに射(さ)し込ましていただくに必要な条件である
ところの、神を完全の相(すがた)において理解した上で神を信ずるというのが
「生長の家」の信仰なのであります。

ただ、なんでも彼(か)でも怪力だから信ずる、御利益(りやく)があるから信ずる、
霊力があるから信ずるというのでは生長の家の信仰ではないのであります。

それで、神をその十全の神徳において理解し、同時に神の創造(つく)り給える
「実在世界」の実相(ほんとのすがた)を理解して、本当のおかげを得ていただくために、
わたしは聖典『生命の實相』を世に贈り出したのであり、
また毎月の『生長の家』誌を書いているのであります。

われわれは「存在の実相」を知る心の眼を開くために『生命の實相』や『生長の家』の
ような真理を書いた書籍雑誌を、毎日数ページは読まなければならない。

           <感謝合掌 平成27年4月23日 頓首再拝>

『生命の實相』体験 ― ピアニストの手が動かなくなった時 - 伝統

2015/04/29 (Wed) 03:34:01


          *『生長の家』(昭和63年5月号)より
            ~オーストリア・ウイーン  田中 七子

私は音楽の道を志し、ウイーンに出てまいりましてから10年になりますが、
まがりなりにも、ひとり立ちして何とか生活してゆけるようになるまで
色々のことがありました。

病気や挫折や別離、貧乏など人並の苦労はひととおり体験させられましたが、
中でも一番苦しかったのが病気の体験です。

しかしこの苦しい体験を通して、真理を知り、生長の家の教えに
出会うことができたのですから、今では感謝の気持でいっぱいです。

私が、自分の職業の上でいちばん大切な手が動かなくなるという
奇妙な神経系の病気にとりつかれて、医者にも薬にもみはなされ、
半年間悶々と苦しい日をおくっておりました時、そしてようやく手に入れた
大学の勤務も、手放さねばならないかという所まで追い込まれました時、

ふとした御縁で友人宅で 谷口雅春先生 の書かれた
 『生命の實相』 が眼にとまったのです。


その第1巻の1ページをめくった時から、私は真理の言葉の力にくぎづけに
されてしまい、その御本を借りて黙々と読み続けました。

今まで、ひとりでヨーロッパ生活をするうちに、心のよりどころは
信仰しかないという信念が強まり、聖書を毎日の生活の糧として生活しておりました。 

しかし、谷口雅春先生の御本を読むに従って、私の信仰とは何て自分勝手な
御都合主義の、ないものねだりの間違った信仰であったかを思い知らされました。

病気や不幸は、人のせいでも世の中の責任でもない、
すべて自分の心の現れであるとわかった時に、私は病気の中に
あぐらをかいて僻んでいたそれまでの自分を恥じ、反省しました。

こうして動かなくなる今まで何年もの間、故障一つせず私にピアノをひかせてくれた
この大切な手や指にも、全く感謝の心がなかったことにも気づかされました。

そして、音楽とは霊的に高いもの、そもそも人の心をなごやかにする神様の調べなのに、
私は自分の成功や目先の華々しい舞台などにあこがれて、人生の上でも目的や生きがいが、
全く神の道すなわち真理からかけはなれての、まちがった方向へいっていた事に
気づかされました。

今まで、やることなすこと、すべてうまくいかなかったのも無理はない。 
私は自分が大切なあまり、それが逆にあだとなり、悪い結果ばかりもたらし、
結局自分を粗末にしていたことにも気づいたのでした。

すなわち、自分が大切なら、
まず他を大切にしなければならないということに気づいたのです。


聖典を読みはじめてから、私は真理の言葉の力の素晴しさに圧倒され、
自分の病気のことなど全く些細なこととわかり、心からふっとんでしまったのです。

手の動かない事などだんだん気にかからなくなってしまいました。 
もうピアノがひけないならそれもまたよい、きっと違った人生があるでしょうと、
全てを、私の明日をも神様にゆだねることにし、
自分の欲と思い煩いを捨ててしまいました。

そして今までの人生、ピアノばかりひいていた自分が、
人間としてどんなに偏っていたかがわかりはじめ、逆にピアノがひけないこの期間を、
自分を磨く良い機会にしようと決心しました。 

次の日から私は、早速聖典に書いてあることを
素直に順々に実行するようにつとめました。

例えば、今まで殆どしたこともなかったトイレ掃除や、埃のたまった窓ガラス磨きや、
汚いナベ磨きなど、自分の下宿だけでなく、友人宅にも行って、頼んでトイレ掃除など
させていただきました。 友人は、私がおかしくなったと噂していたそうですが、
私にはそんな事がどうでもよかったのです。

はじめは動かない手に腹が立ったり、今までの思い上がりからトイレ掃除など
軽蔑していた私には、やさしいことではありませんでしたが、
汚ないものを磨ききれいにすることは、私の汚れた迷いというベールに
とりかこまれた心を磨くことだと思い、一心に働きました。

そうこうするうちに、半年間も動かなかった手が、不思議なもので、
毎日聖典を読み、心から感謝して働くことによって、
だんだんと動くようになったのです。

心は平和になり、楽しくなり、人のためにこんな自分でも何か出来るのだと思うと、
心が歓びでいっぱいになりました。 『生命の實相』 により、聖書の言葉も
私にとってもっと身近なわかりやすいものとなり、神様との距離が近くなりました。


 今ではどこへ行くのも 『生命の實相』 と一緒です。

毎日の読書、祈りはかかしませんし、演奏会の前など神経が高ぶって
ねむれなかった自分が、神様の手に全てをゆだねてしまうものですから、
何ももう心配することがなくなりました。 
舞台でも、あがってガタガタすることもなくなりました。

そんなことよりも一番大切なことは、私の心に起った大革命は、
真理を知ることによって、もう何も、恐れたり悲嘆にくれたりする必要はない
ということが解ったことです。


私には友人が多いもですから、独語や英語訳の 谷口雅春先生の著書 を
皆さんにさしあげるようにしています。 
皆さんとても感激し、よろこんで下さいます。

はやく 『生命の實相』 全巻が独語訳で出版され、
この国の苦しんでいる多くの病気の人や、心が頑なになってしまった
お年寄り達にも読んでいただき、そして世界中の人達がこの正しい信仰と真理を知り、
心の平和を得、一人一人の心の中に、神の王国が達成されることを、
祈り願う次第であります。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/a054fb7083399675e023993109adbac5

           <感謝合掌 平成27年4月29日 頓首再拝>

悟後の修養として、真理の書を繰り返し読む - 伝統

2015/05/04 (Mon) 04:58:54

悟後(さとってから)の修養として、真理の書を読むことの重要性

         『生命の實相』第3巻光明篇(P90~91)より

このようにわれわれはいったん、真理を知り、生命の実相(ほんとうのすがた)を
知りましても、悟後(さとってから)の修養ということが大切でありまして、
そいつを怠れば退転して来ることがあるのであります。

そのためにわれわれは常に一方には真理の書を読み、他方には「神想観(しんそうかん)」
による体験的自証(じしょう)によって自己の生命の実相(ほんとうのすがた)を
忘れぬようにする必要があるのであります。

それは何も病気直しばかりに必要なのではない、戦乱の巷(ちまた)にいて
弾丸に当らぬためにも必要である。

戦乱といっても上海のように本当の戦乱ばかりではない、
人生は一つの戦乱の巷であるともいえる。

われわれは現実の世界に於ては常に戦っているともいえる。
その戦乱の巷にいても或る人は傷つき、或る人は傷つかないのは、
上海の戦場に於けると同様、正しき信仰の有無によるのでありまます。

誌友の中には一冊の『生長の家』誌。1冊の『生命の實相』を二十数回も繰返し読んで、
読むたびごとに新しい真理を悟るといわれる方もありますが、文章というものは
あまりたびたび繰返し読んでいますと、ともすればその印象になれてきて、
読んでも感銘が薄れてくることがあります。

そのために同じ「生命(せいめい)」の実相(じっそう)が説いてあっても、
信仰を深め、信念を高めるためにまた別の方面から新しい書き方で説いて欲しい
といわれる。

『生命の實相』全集が全二十巻もあるのはそのためであって、熱心な誌友からは
機関雑誌も毎月数回、あるいは毎週1冊ずつ出して欲しいという要求すらあります。

が、色々時間の都合もあり、現在は毎月1回、『生長の家』『白鳩』『理想世界』
『光の泉』『精神科学』の五誌と『生命の實相』の全集を発行しているのです。

           <感謝合掌 平成27年5月4日 頓首再拝>

生命の實相を全身全霊で読む - 伝統

2015/05/12 (Tue) 04:24:50


         『生命の實相』第3巻生命篇上(P98)より


なぜわれわれが「生命の実相」の扉をひらく時、
医術などではとうてい及ばない驚くべき自然療能が発揮されるかと申しますと、
人間は本来、神の子としてつくられているという真理を見いだすからであります。

人間の本質は神であり霊的実在である。
「神なる人」こそ人間自身の實相であります。
自由自在の霊性こそ人間自身の本来の面目であります。

われらの本来の面目は神本来の面目にひとしいのでありますから、
われらは自己の全存在のすみずみまでも完全であり、
自由自在で不悩不苦であるはずであります。

この真理を知ることは、
人をして、あらゆる束縛から解放せしむることになるのであります。

しかもこの真理は、人の生命の実相に穿ち入る者には、
誰でも知ることができるのであります。

人の生命の実相に穿(うがち)ち入るには
これを霊的に理会(りかい)する事が必要であります。

頭で真理を理会するということは、真理の周囲をどうどう廻りして
真理の外的なすがたを知るにすぎませんが、霊的に真理を理会するということは、
「生命」の実相そのものに全身全霊をもって貫き入り力の本源をつかむことになります。

全身全霊をもって、生命の実相に貫き入るには、
この書を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、黙読する、朗読する。

目で読み、声で読み、声のリズムのなかに自分を溶かし込んで読む、
そして静かに端坐して「神想観」を行じ、行じ終わって動きだすとき
神(愛)の生活を活きる、

かくする時、知恵と愛とのそろった生活が実現するのであります。

           <感謝合掌 平成27年5月12日 頓首再拝>

聖典『生命の實相』を読んで、難病が治るは科学的なのです - 伝統

2015/05/19 (Tue) 04:51:00


         『生命の實相』第3巻生命篇上(P125~126)より

《心的要素を無視せる医学は科学に非ず》


前節に挙げた女事務員の例におけるように、
医師が三ヵ月安静治療を要すると宣告し、その宣告によって
意気沮喪(いきそそう)して動けなくなっている患者に、

1時間ばかり真理を話したら急に解熱して元気が出、3日目にはもう自由に銭湯で入浴し、
三十町を徒歩で往復して疲労せず、1週間目に肋膜炎の痕跡をほとんどとどめないくらいに
なるのであったならば、

はたしてこのような医者の医学というものは
一つの「科学」であることを当然の権利として主張することができるでありましようか。

わたしにいわせればこれらの患者は、医者が最初診察したときに
患者の病的訴えをそのまま肯定して、それに大袈裟な取り扱いをし、
大袈裟な病名をつけ、大袈裟に投薬したために、患者の恐怖心を刺激し、

その心理的影響によって病気を拡大し、恐怖させずに自然的経過に委せて
放置せしめたならば、数日にして自然に消滅する症状だのに肉体に
薬という不自然なものを服用せしめ、

心に恐怖という病的原因を注射しつつ、たんに物質的服薬と症状との相互関係のみを
記録にとって、自分が患者に示した態度および言葉の影響を考察せず、
すなわち有力なる原因となるべき一要素を閑却し、

この薬はこの病気に対してこのような結果をもたらすと発表するがごときは、
はたして科学的な医学ということができましようか。

科学というものは、すべての要素を考慮に入れねばならない。

1回の対話だけで3カ月の病の経過を1週間に縮め、
5カ月の病気を1日に縮めることができるという実例がある以上、
医者が患者を診察するときにいかなる言葉を発したか、

いかなる表情態度で患者を恐怖させたか、あるいは安心させたかということこそ、
治病の原因的要素として記録にとり、それがいかに病気の経遇に影響するかを
統計にとり、もっていかなる言葉をいかなる病気に用いるのが、
最も適薬であるかを決定することこそ、いっそう科学的な医学というべきでありましょう。

これがすなわち精神身体医学でありましょう。

かくのごとき科学的医学を創始したのが、生長の家でありまして、
その出版部の発行している聖典『生命の實相』や、や諸種の小冊子を読んで、
それに書いてある真理を心のうちに飲んだ患者は、物質的医学で治らなかった難病が、
断然物質的治療法を無視して治っているのであります。

そしてまた、それに書いてある真理をよく理解した人が他の人に伝えてあげれば、
それだけで、物質的医学のもてあました病気が治っているのであります。

話をするには遠い所にいられるために不便であれば、
手紙でその「真理」を書いて送ってあげても、それでも有効にそれは効くのであります。

生長の家にはかような文書指導係がいて、本を読んでもよく体得できない患者には
奉仕的に返事をさしあげているのであります。

文字(または言葉)にあらわした、
「真理」の力というものは実に不思議なものであります。

その言葉の調剤にはちょっとも秘密がないので、
手紙で送っても、本に書いても、言葉で話しても、
受ける方さえ反抗しなければ同じように効くのでありますから非常に科学的なのであります。

           <感謝合掌 平成27年5月19日 頓首再拝>

聖典読誦は善き精神的リズムを生み出す - 伝統

2015/05/25 (Mon) 04:48:41

           *『生命の實相』第4巻生命篇下(P101)より

聖典を読むということは、覚えてしまったら
もう読まなくともよいというふうなものではないのです。

これは仏教のお経でも、神道の祝詞でも、キリスト教の讃美歌でも、
この『生命の實相』でも同じことです。

お経でも、讃美歌でも、言葉に出して唱えるところに、
そこに言葉の力で、自分の心のなかと、この大宇宙のなかに
善き精神的リズムを生み出す ―― それが肝心なのであります。

「言葉」に出すと申しましても、必ずしも「音読」しなければならぬ
というわけではなく、黙読もまた言葉です。

ともかく、読んでいるその時に起こる心のリズム「精神波動」が大切でありまして、
真理を読めば真理の精神リズムが発生し、それにしたがって
迷える霊魂に悟りを開かせ、神および高き霊魂を招(まね)き寄せ、
病的念霊を退散せしめて、病気が治ることになるのです。

だから、もう原理を知ったなら、記憶したなら、
読まなくともよいというわけのものではありません。 

           <感謝合掌 平成27年5月25日 頓首再拝>

「生命の實相」読誦による功徳の例 - 伝統

2015/05/26 (Tue) 03:31:56


       *「生命の實相」第36巻幸福生活篇功徳篇(下)(P64~66)より

今からちょっと前のこと、東京の五反田というところから来られました
珍しいお名前のお爺さんがありました。60幾歳だといわれまして黛権八(まゆずみごんぱち)
といわれる方でありましたが、珍しいお名前でありますのでわたしは覚えております。

(中略)

この黛さんは炭屋さんではありますが、今までいろいろの宗教を渡り歩いてこられた方で
ありまして、宗教方面の造詣の深い方なのであります。
ことに禅宗の方はお詳しく坐禅などもおやりになったり、
老師について禅学の提唱などもお聞きになった方のようであります。

その人がわたしの話を聞いて感心されなかったのであります。
「ハハア、やはり生長の家も禅宗みたいなことをいうな。なんにも引っかかるなと言っている。
そういうことなら、俺(わし)は前から知っいるのであって、別段珍しいこともなければ
教えられるところもないのだ。」

こうお考えになりまして、私の道場の講義が終わるやサッサとお帰りになろうとしたのであります。
しかし表面の心では別に新しく得るところはなかったとお考えになりましたけれども、
何物か心を惹きつけるところのものがあったのでしょうか、
帰り際に『生命の實相』全集15巻を全部取り揃えて買ってお帰りになったのであります。

そうしてその最初の一冊を5,6ページお読みになりますともうとうてい卷を擱(お)くに
堪えぬというくらいの感激を覚えられまして、実に短時日のうちに、なんでも1週間ほどのうちに
全巻15冊を完全に読破されたそうであります。】


『生命の實相』をこういう感激に満たされてお読みになる方は時々あるのでありますが、
そういう人は必ず心境一変という境地におなりになり、生活や肉体の上にも
奇跡的な変化がありがちなのであります。

話を聞いても感心しなかったが、『生命の實相』という本の文章になると惹きつけられて
心境一変するという方が多いのは、これは文字の芸術であるからであります。

黛さんの心境が一変いたしますと不思議なことに、
その時まで病気になっていた子供が突然治ってしまったのであります。

なんでも一人は5歳の子供ともう一人10歳から11歳くらいの子供と二人が病気になって
おったのでありますが、そのうちの一人は水泡性結膜炎といって眼科の方では
執拗なちょっと治りにくい病気だったのです。

それが黛さんすなわち、一家の中心である人の心境が一変しますと消えてしまったのであります。
それから「不思議なことがあるもんだな」こう思っていました。誰に宣伝されたのでもなく、
そのことが近所へ伝わっていったのであります。

(以降の文章については、本日の「聖経『甘露の法雨』の功徳」での文章につながっていきます)

           <感謝合掌 平成27年5月26日 頓首再拝>

「言葉の薬」としての『生命の實相』 - 伝統

2015/06/01 (Mon) 04:18:52


           *「生命の實相」第24巻参考篇/質疑篇(P89~94)より

「現象は《ない》」という言葉をわたしが使うようになるには霊感的な導きはむろんありますが、
わたしとしては人間的にもよほど苦心したのであります。

第一、「実在」という言葉は哲学上の言葉でありまして、
普通の人には(少なくとも中学程度卒業くらいまでの哲学的素養なき人には)
理解しがたい言葉なのであります。

「実在」とは何を意味するかということになりますと、大変むずかしいことになりまして、
『生命の實相』のような大衆の光明化を目指している聖典には、
こんなむずかしい言葉はなるべく少なく使いたいと思いました。

ある信徒の方はわたしに「生長の家は高遠の真理を驚くほどやさしく書いてありますが、
どうもまだ言葉がむずかしいと言う人が多いから、できるだけやさしく書いてくれ」と
いうような注文もせられたのであります。

いろいろ考えたすえ、この「実在」という哲学上のむずかしい言葉を、
わたしはたんに「アル」または「本当にある」という言葉に代えたのであります。

これを哲学的に理屈を捏ねて、実在で《ない》というのと単に「《ない》」とは
大いに意味が違うような言葉の穿鑿(せっさく)問題に浮き身をやつすのは
まちがっているのであります。

わたしの使っている言葉にはいろいろ平易化の上に苦心があるのですから、
言葉で引っかかって揚足をとらずにその真意を知って
実相に直参していただきたいのであります。

が、「実在」と「アル」とはそんなに問題にするほど違いません。
また、その逆、「実在でない」と単に「ナイ」とはそんなに違いません。

「実在」という言葉はむずかしそうな言葉でありますけれども、
英語では、“Being”すなわち「在ること」という字を使って「実在」と言うのであります。

わたしはこの英語の易しさに感心しました。
「実在」と言わずに「アルコト」とは平易で要をつくしています。

「実在」が「アルコト」であれば、「実在でない」ことを「ない」と平易に言ったら、
かえって平易でわかりやすいと思います。

むろん、英語の“Being”を「実在」と読ませるにはBを花文字にしてあります。
日本語には花文字がありませんから、花文字を使うわけにゆかないので、
前後の関係で「実在でない」という意味をわからすように苦心した上で「ない」という言葉を使い、
また時々、花文字の代わりに、その「《ない》」という言葉の所に傍点を付したりして、
それとなく解るようにしてあるのであります。

生長の家で、「現象は無い、肉体は無い」とハッキリ「無い」と言いきることに
反対する人に二種あります。

その一説は、色即是空の「空」という字は単に「ない」という言葉と異う、
アルにはアルのであって何かアル、それは実在でないと言うだけだ、と言う人であり、
その二は「諸法実相」という仏教上の言葉を「現象即実相」と解する人であります。

ところが、仏典には「空」をハッキリ「無し」と断言してあるところもあります。
『般若心経』にも「五蘊皆空」と書いてあって、その「空」を説明するためには、
「色受想行識もまた無し」とか、「老死無し」とか、「老死の尽くることも無し」とか、
仏教でもやはり「無い」という言葉を持ってきて説明するほかに仕方がないのであります。

「老死」すなわち老いたり死んだりすることは現象でありますが、
『般若心経』には「老死というものは単に無いのではない、現象としてはあるのである。
実在でないだけである」というように、長たらしい緩慢な表現の仕方をしてないので、
端的に簡明直截的に「老死無し」と一喝し、始めから人間に老死は無いのだから、
これから悟って無くなるというようなものでないという意味をふくめて
「老死の尽くることも無し」と言っているのであります。

『般若心経』の用語などでも「空」とは単に無とはちがうというような批評をせられる人から
見たら、「老死無し」というのは言葉が奇矯である。

老死は実在に非ずと言わなければまちがっている。
もし「老死無し」というような奇矯なことを『般若心経』に書いたら人心を惑わすものであると
経文の結集者に抗議を申し込まねばならぬでありましょうが、

その当時は言葉に引っかかる人がなく、用語がまずくても経文の神髄をつかむ人が多くて、
その経を読んでも気狂になる人もなく、かえって気狂が治るくらいで、今に至るまで、
この経文が改竄されたということを聴かないのであります。

 
実際に『生長の家』を読んで「不完全な現象はあるように見えてもないのだ」また
「ただ至妙の実相のみがあるのだ」と教えられても、続々と病気が治る、環境が治る、
経済状態がよくなる実例があらわれるのはなぜでしょうか。

はたして「現象は《ない》」「病気は《ない》」「不幸は《ない》」等々……というふうに
「《ない》」という言葉を使うことが、不適当なのであれば、
そういうよい結果が起こることはありません。

世間普通の人は、現象界の出来事は皆そのままあると思っているのです。
それで、現象の一種である病気もあると思っている。老死もあると思っている。
不幸も災難もあると思っている。

あると思うがゆえに捉われ、捉われるがゆえに病気にかかりやすく、
かかった病気が治りがたく、かえって老死を速め、不幸災厄の前に屈服してしまうのです。

しかしそれらの不完全な現象は、「あるように見えても《ない》んだぞ」と
わたしが掛け声をかけてあげると病気に崩折れていた人が妙に立ち上がり、
もう老衰していたと見える人が若返って白髪まで黒くなり、
不幸の前に勇気を失っていた人が勇気を回復して事業に邁進成功し、
意地悪の姑や、放蕩の良人なども、あるように見えても《ない》んだぞと掛け声をかけると、
そんな悪い姑や良人はない、

神の子たる本当に深切な姑や良人ばかりがあると思って姑や良人に隔意なく事えるようになって、
今まで地獄状態であった家庭が光明化した実例もたくさんあります。

「ない」という言葉と「実在でない」という言葉は哲学上の論議を交す場合には、
あるいは厳密に区別して使わなければならぬ時もあるかもしれませぬが、

生長の家でわたしが「ない」という言葉を現象に関して使う場合は、
哲学上の理屈をこねるためではなく、老病不幸等(現象)を《ある》と思って執着していて、
かえって迷い苦しんでいる人に、

その迷い苦しみを取り去るために、応病与薬的に投げかける喝であって、
それが「言葉の薬」として実際的に迷いを去る上に効果を顕わして迷いが去り、
老病不幸が治っていれば、それでわたしの目的はとげられ、

信徒が『生長の家』や『生命の實相』を読む目的を達せられているのであります。

           <感謝合掌 平成27年6月1日 頓首再拝>

「言葉の薬」としての『生命の實相』② - 伝統

2015/06/08 (Mon) 04:34:45


           *「生命の實相」第24巻参考篇/質疑篇(P94~96)より

たとえば、薬というものはたいてい毒性をもったものですが、
病気に応じて、適当に調合して適量に用いると効くことがあります。

現象界をあると思いすぎて執着し、苦しんでいる人に対しては、「ない」という
端的直截な言葉が一等よくきくのであって、

「ない、ない」と幾度繰り返しても、五官の方では常にあるように見えていて、
「ある、ある」と主張してくれているのですから五官の方での「ある」という主張と、
生長の家での薬語「ない」とが適当に中和して、迷いや執着を去る上に効果を奏し、

事実上、実効上、病気が治り、不幸その他がいちじるしく癒やされているのですから、
生長の家で、「現象は無い」という言葉を使うのは、その用法がまちがっていると
言われないのであります。

およそ薬というものは、
薬それ自身に毒性があるから使ってならないというわけのものではないのであります。

モルヒネは毒薬であっても、本当にそれがよく効いたら人間に適するようにして
それを使えば、かえって胃腸病が治ったり神経衰弱が治ったりすることがあります。

そうすると、モルヒネのような毒薬でも、本来毒であるか薬であるかは
容易に分かるものではない、使いようによって毒ともなれば薬ともなるのであります。

 
それと同じく、「無」という言葉も下手に使えば、人を気狂にするかもしれない、
今まで哲学にかぶれて厭世自殺をしたり、仏教の「空」をさとったと思って
隠遁生活をする人が出たりして、仏教は厭世思想だという悪評を受けたのも
無を説き「空」を語る言葉の薬剤が、効きすぎたり、効かなすぎたりしたからであります。
 
上手にこれを使えば、現に、生長の家のように病を治し、運命をよくするのであります。

同じヨードでも、ヨードは普通なら細胞を破壊する激毒性がありますが、
ある操作をこれに加えておくと強壮剤となります。

 
「無」の言葉は今まで「ある」と思っていた現象を「ない」と言いきるのですから、
ヨード以上に峻効をもっている。

それを適当の効果を持たすように、文章の中にいわばコロイド状に組み込んであるのが
『生長の家』であり、『生命の實相』であります。

だから『生長の家』を読んで効くか効かぬか、薬になるか毒になるかは、
読んだ多数実験者の実際例によって証明せられているのです。

かくのごとく「無」の字は峻効を有するので、
生長の家では、それが人間に働きかけて、生命を生かすので、
有効無害の働きをするように、文章中に巧みに他の言葉と混ぜて調合してあるのであります。

「無」の字、「ない」という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。
釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、「無」の字、「ない」
という言葉を、文章全体の中に織り込んであるその織り込み方にあるのであります。

この織り込み方はわたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって
書いてゆくので、誰にも真似はできないのであります。
思想は真似はできても、言葉の調合は真似ができないのであります。

だから、今までお経を読んでも聖書を読んでも治らなかった病気でも、
その同じ真理が説いてある生長の家では、聖典を読んだり話を聴いただけで
病気が治るのであります。

「現象はない」とか「病気はない」とかいう言葉は、語法が不穏当であるとかいって
注意して下さるのはありがたいが、毒性峻烈なヨードでもヨード剤として特殊の分子構造の
うちに結合せしめてヨードを安定せしめたときには無害有効となるがごとく、

「無」の字の効果は峻烈であっても、わたしの書きまたは話す特殊の文章組織の中に
結合せしめたときに効力が最も卓絶した薬物となるのであります。

           <感謝合掌 平成27年6月8日 頓首再拝>

「言葉の薬」としての『生命の實相』③ - 伝統

2015/06/16 (Tue) 06:13:43


           *「生命の實相」第24巻参考篇/質疑篇(P96~99)より

それで、『生命の實相』を読む人にはその人の心の中に、
こちらで処方した「無」の字の一定刺激を連続的に与える方が効果がよいのであります。

それで、生長の家で説いている「無」の字や、「現象はない」という語だけを抽出して
その「無」の内容や効能を理屈でいろいろ詮議しても「無」の字の効果は、
わたしの執筆全体にひろがっていて、はじめてヨード剤のように効果を現わしますのですから、
単に「無」の字や「現象はない」の語句だけを抽出して語句の適否を非難することは見当外れです。

ヨード剤でもその成分中のヨードだけを抽出して激毒性であると言って批評してみても、
ヨード剤全体が効果を現わせばその薬は優良であるではありませんか。

薬剤に併用禁忌の薬があります。
たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、
鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。

生長の家で「病気はない、老死はない、不幸はない、
あるように見えても現象はない」と言いきるところに
飲み易い(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、

その「ない」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、
その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、
そのタンニンがせっかくの「ない」という言葉の鉄剤と結合して
吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、
心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。

近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、
その全体の思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、
かつあまり同じことを書いても受売りであると一見わかるので、

同じ意味を異なる文章で書き表わし、「何々会」等という別異の名称で
雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の
調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので
『生長の家』を読んで万事好転していた人が、その種の雑誌を併用したために
「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。

そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、
心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、
集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。
キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。

生長の家と、それらの宗教とどこがちがうかと言いますと、
「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」が
わたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、

古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、
病を即座になおすほどに心の解放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、
厭世的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

むつかしい複雑な「無」の理論をお読みになりたければ仏典にはいくらでも
複雑なものがありますから、『大乗起信論』でも、『大般若経』でもお読みになると
よいと思います。

この問題については「善き樹はよき果実を結ぶ、果実を見てその樹の良否を知れ」という
キリストの言葉でお答えしたいと思います。

理屈でその樹は悪い果を結ぶはずだという理論が通りましても、
実際その樹が善き果を結ぶ場合には理論の方にまだ気づかれない欠陥があるのです。

理論で宗教で病気が治るはずがないと結論されても、
実際に治る以上はその理論の気のつかないところに真理があるのです。

真理というものは多数決の理屈で定まるものではありません。
そういう論議を読むのに費やす時間がありますならば、言葉をよく調合せしめたる

――「無」字を巧みに調剤してある聖典『生命の實相』を幾度でも繰り返し読んで、
少しでもいっそう深く悟りに入られるよう希望致します。


           <感謝合掌 平成27年6月16日 頓首再拝>

引き続いて読まれ、信用が殖え続ける『生命の實相』 - 伝統

2015/06/24 (Wed) 03:16:11

(良い本と悪い本の鑑別け方)

       *「真理」第1巻入門篇(P144~146)より

最初、私が心の修養に出した雑誌『生長の家』は、とうとう何か病気を治すような
魔術のある本だと思われるようになって来ました。

そしてその雑誌が古くなると品切れになっても、次から次へと読みたいと云う人が出来、
普通の雑誌ならば古くなると紙屑の値段でないと買ってくれませんが、

そのふるい『生長の家』と云う雑誌に載せた記事を順序だてて全集本にして欲しいと
云う人が出来て、最初全十巻の『生命の實相』と云う全集本が出来、
やがてそれが殖えて全ニ十巻の全集本が出来るようになりましたが、

全集本では雑誌よりも順序が立っていて一層よく分かるので、益々それを読んで
病気の治る人や、仕事や勉強の成績の上がる人などが出来、
とうとう『生命の實相』は最初の3年間に三百万冊売れたのです。

それは当時未だ嘗て日本の出版界にないレコード破りの出来事だったのです。

(中略)

『生命の實相』は発行以来、米の飯のように20年間も引き続いて読まれても
信用が殖え、売れ行きが殖えるのは、場当たりに書いた一時的な興味本位の
本でない証拠であります。

           <感謝合掌 平成27年6月24日 頓首再拝>

心楽しまぬ時には良書を - 伝統

2015/07/02 (Thu) 03:32:52


           *「女性の幸福365章」(P81)より


人には時に、自分で好きこのんで憂鬱の感情の中に浸っていたいような
感情が起こることがある。

しかし憂鬱の感情の中へ浸れば浸るほどその人の生活は不幸となるものである。


そんな時には極力憂鬱の感情から脱却するために『生命の實相』や『眞理』のような
光明思想の本を読んで、自分の心を光明面に転回するがよい。

心に「光明」を描けば、やがて”実際人生”にも光明が具体化するのである。


真理の書物は、多読するよりも精読することが肝腎である。
文字(もんじ)の表面を越えてその奥にある深い意味を充分味わって、
それを生活に実践するところに霊(たましい)の向上があるのである。

一般的に多読するのは、多くの食物を咀嚼せずに嚥(の)み込むようなものである。
栄養物は少しも吸収されずに下痢してしまうのである。

常によき書物を読むことは、常によき食物によって肉体が養われる如く、
魂を常によき思想によって肥えしめることになるのである。

           <感謝合掌 平成27年7月2日 頓首再拝>

『甘露の法雨』『生命の實相』を読み、荘厳なる生活をせよ - 伝統

2015/07/09 (Thu) 04:23:31


          *「光明法語」<P135>より

吾等は吾が生活を荘厳なるものたらしめるべからず。
何となれば人間は神の子であるからです。

魂を高揚せしめる大思想家の文章は汝の魂をして荘厳ならしむべし。

低卑なる市井(しせい)の俗語に耳傾くべからず。
闇の話、脱税の話、野卑の話、猥褻なる話きくべからず。

仏典を読むべし。聖書を読むべし。
『甘露の法雨』を読むべし、
『生命の實相』を読むべし。

すべて天啓、神示に基づく荘厳なる文章を読むべし。

猥雑極まる近代のエロ文学読むべからず。

言葉の力は恐ろしき迄強き也。


           <感謝合掌 平成27年7月9日 頓首再拝>

『生命の實相』をくり返し読む - 伝統

2015/07/16 (Thu) 04:48:10


         *「生命の實相」第39巻佛教篇(P24)より

わたしは、「何よりもまず『生命の實相』をお読みなさい。
再読または再読飽くまで真理に徹してください」とこう申すのであります。

八回であれ、十回であれ、反復熟読してくださいましたならばおのずから悟るところがあり、
その心境に従って病気その他いっさいの現象的不幸も自然自消することになるのであります。

要するに現象界は遷(うつ)り変わる波の相(すがた)でありますから、
悟りによって善き波を起こすことが必要になるのであります。

           <感謝合掌 平成27年7月16日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2015/07/24 (Fri) 04:17:10


          *『生命の實相』第三十八巻幸福篇下(P40)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

           <感謝合掌 平成27年7月24日 頓首再拝>

本当の宗教的情操のない先生より良書がよい - 伝統

2015/08/01 (Sat) 04:51:12


           *『生命の實相』第26巻教育実践篇下(P153)より

善き指導者は今の教育界ではなかなか少ないですよ。

そこで、下手な指導者につくくらいならば、
「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。
宗派に偏した儀式も儀礼もいらないで、簡単に宗教的情操が養われる。

10年坐禅しても得られなかった悟りが得られたというような人が
たくさんあります。

(中略)

読み物はやはり芸術品なんですから、言葉の韻き(ひびき)というものが
―― 本当に書いた人の韻きが入っていますからね。

           <感謝合掌 平成27年8月1日 頓首再拝>

言葉の芸術『生命の實相』 - 伝統

2015/08/08 (Sat) 05:00:31


          *『生命の實相』第27巻久遠仏性篇上(P136~137)より

「肉体なし」の思想は別に生長の家の新発明でも何でもないのであります。
ただ新発明のところはその表現の仕方が違うのであります。

その表現方法に力があるので、心が端的に、生命の本当の相(すがた)にぶっつかるので
『生命の實相』を読んだら病気が治ったりすることが頻々(ひんぴん)と起こるのです。

その説くところは天地と共に存する古き真理でありますが、
表現ということに重きを置きますと、哲学とか宗教というよりも芸術と言わねばなりません。

わたしは宗教家と言われるよりもこの点で芸術家とか文芸家とか言われたいと思うのです。
そんなに新興宗教が起こったなどといって周章狼狽することは要らないのです。

表現が巧みであるから、いままで禅宗などで「不立文字、言詮不及」と言い、
「曰く言い難し」とか「言亡慮絶(ごんもうりょぜつ)」とかいって、
言葉では現わすことはできないと言われておったところの真理を

言葉で端的に人間の魂にブッつけることができ、
悟りのための修行を非常に簡略化することになったのであります。

今まで何年も座禅し、修行して、棒をくらわされたり、喝をくらわされたりして、
やっと悟っていたところの真理が、本を読んだだけで悟れる ―― 全部の人がそうでもないが、
白隠禅師が自己の肺病を治したくらいの程度に悟れる人ならザラにある。

これが一つの芸術であります。
わたしは新興宗教などと言われるよりも、新興芸術と言われたいと思うのです。

繰り返し言いますが、生長の家には新しい真理は一つも発明していない。
ただ古今の教えを言葉の芸術で読ませるので人の魂を生かす力が這入っている。

ここに『生命の實相』の力があるのであります。

           <感謝合掌 平成27年8月8日 頓首再拝>

『生命の實相』の本当の著者は「久遠を流れるいのち」 - 伝統

2015/08/15 (Sat) 04:54:36


          *『生命の實相』第27巻久遠仏性篇上(P158)より

わたしは釈迦、キリストがそうであったろうところの
「久遠を流れるいのち」に触れんことをつとめ、かくつとめつつ、
「久遠を流れるいのち」の啓示を『生命の實相』に書き止めたのである。

だから『生命の實相』の本当の著者は谷口という
、いつにか生まれていつかは死滅してしまうような儚い人間が書いたのではない。

その著者は「久遠を流るるいのち」である。
わたしはただ「久遠を流るるいのち」の流出口となったにすぎないのである。

谷口という名はよくつけてくれたものだと思う。
わたしは老子が、「谷神不死」と言ったところの、死なず不滅の
「久遠を流れるいのち」の喇叭口(らっぱこう)になったにすぎないのである。

           <感謝合掌 平成27年8月15日 頓首再拝>

生命の實相と申候事は - 伝統

2015/08/23 (Sun) 04:52:15


              *『生長の家40年史』 より
                ~愛媛県 二重光輪会員  秋 月 輝 子

私は昭和14年2月1日、誌友会に出席させていただいたのが幸福への入門の時でありました。 
信仰深い近藤シゲ子様〈故人〉が初めて誌友会に誘って下さったのでございます。 

何度か出席させていただいているうちに、その年の8月の比叡山の御講習会参加を
申込む勇気が出て、夫婦そろって申込みました。

ところが、その許可書が来た日〈6月26日〉、突然主人が他界致しました。 
悲しみの中をおして主人の霊位を持って、主人の代りに姉を連れて、
子供は母に預け、悲壮な心で御講習会に参加いたしました。 

熱情溢るる神のお声は、光明燦然として降りそそぎ、胸うたるるばかりで、
このご法話を1ヶ月前に聞いていたなら主人を死なせなかったであろうと後悔やる方なく、
体験談に、御法話に、悪者は私一人と悔悟の涙を滂沱として流しました。 

あの感激はその後何百回受けたかわからない御講習会でも味わったことはありませんでした。

文字通り雀躍する思いで、うれしさ一杯で帰りました。 
しばらくの間、主人がなくなって間もないので、
常識ある人にはパァーになったかなどといわれたりしました。 

けれども、今までのように暗黒ばかり見ていたのでは、よくなる訳がない。 
徹底して明るくなることだ。 悲しんでもよくならないと思いました。 
笑いお稽古も自宅を開放してやりました。 

また、学校の裁縫室を借り、又ある時は公会堂を借り、よき協力者を得まして
資金の許すかぎり誌友会、講演会をやり、夜は寝ずに 『生命の實相』 を読みふけりました。 
そして力を得ては一人でも多くの人にと神誌や聖典をおすすめいたしました。

私は地元に組織をつくる一方、自分は法輪をたずね、昭和15年8月に高野山の御講習会に、
そして翌年も参加し、その当時はお米を持って行きました。 

一人4升で1週間、姉と子供と私と3人で1斗2升、
汗をふきふき姉とかわるがわる背中に負って行きました。 
懐しい思い出の一つです。 

そして神戸の七生会館、尾道、広島、高松、坂出、丸亀、観音寺、川之江、西条、
今治、松山、八幡浜、宇和島と総裁先生の御来光下さる所へは必ず参らせていただきました。

昭和22年の正月、新居浜へ初めて御巡錫いただきました時の嬉しかったことは
決して忘れることが出来ません。 

その時谷口先生から  「会員も少なく、幹部もないのに、実相のみを見つめて、
よくここまでやってくれた」  と、お賞めの言葉を給わり、
その宿舎でさらさらと実相の霊筆を下さいました。  

「読んでみなさい」  といわれましたが、  
「感激の涙でうち震えて読めません」  と申し上げますと、
先生御自らお読み下さり、  「誠心に差上げます」  と言われました。 

居合わせた人々も感謝感激で  「有難うございます」  の連続でした。 
早速表装していただき、毎日その前で神想観を励み、み心に応えるべくつとめています。 
それには次のようにお言葉が書かれてあります。


   『生命の實相と申候事は此の世界が此儘神の国であり人間は其儘神の子なりと申事に候  
   さればこそ心を静めて實相を見よと申すに御座候  

   現象に如何なる悪顕れ申候ともいづれも神の作り給へる實在には無之候
   間気にかけずに唯實相円満なる相のみを観ずれば結局は円満なる實相現るるものに有之候
   敬白』

     ( http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18626045.html )


           <感謝合掌 平成27年8月23日 頓首再拝>

『生命の實相』は「生命の花園」 - 伝統

2015/08/31 (Mon) 03:30:22


       *『生命の實相』第二十四巻参考篇/質疑篇(P68、質疑篇扉のことば)より

今までの枉屈(おうくつ)した人類の「生き方」「考え方」、経典の解釈の仕方等に、
断然、価値顛倒を行ない、前人未顕の真理を開顕し、人類に真生命を吹き込むに急であった私は、
まず最初に私が真理を知らされたとおり真向から説いてかかるより仕方がなかった。

こうして私は信徒の魂の底に生命(せいめい)の種子(たね)を蒔いた。
その生命の種子によって、読むその日から歓びに満たされ、病の癒えた人もある。

けれども病気の治癒だけが私の蒔いた生命の種子から萌え出た美花ではない。
生命(せいめい)は一(いつ)にして多である。
信徒の生命(せいめい)には色とりどりの美しき花が咲きつつある。

生長の家家族がみんな善くなって下さる通信を聞くのは慶びの限りである。
われらは実相(じっそう)を知れば知るほど善くなるほかはないのである。
実相には善いものばかりが満ちているからである。

生長の家では外から悪癖を矯め直すのではなく、心が実相に貫き入り
、実相から自然に善きものが汲み出されて来て、行ないがかわるのである。

みんな生長して、みんな相寄り、互いに生命を讃美し、実相を讃嘆し、
声をかけて励まし合い、すくすくと伸びて行く生命の花の姿を見ることは喜びである。

そのとりどりの花の姿の中には、まだいろいろの駁論や質問も混じっている。
十弟子の質問があるので釈迦の説法が光ってくるのである。仏典の中では「如来の神力を
受けて問いて申さく」というような言葉があるが、質問もまた生命(せいめい)の花
なのである。

その生命(せいめい)の美しき花模様を私は本書の上に集めて多くの読者と共に楽しみたい。
それはげに生命の花園ではないか。

地下を流れる大生命においては一つであるが、
それを吸うて伸び出でる生命(せいめい)の相(そう)は無限である。

生長の家は何物をも価値ある者は排斥しない。
いっさいを包容して成長してゆくのが生長の家である。

           <感謝合掌 平成27年8月31日 頓首再拝>

『生命の實相』は、「真理の光」を魂の中へ射し込ます - 伝統

2015/09/10 (Thu) 04:57:54


            *『生命の實相』第35巻下化衆生篇(P71)より

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば必ず真理の光が
たましいの中へ射し込んでくるのである。
その光は太陽の光よりもなお明るい光である。

自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。

その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている
生き通しの生命こそわが生命であることが悟られる。

これこそ自分の本当の生命であったのだ
――今生きつつある地上の生命の小さきことよ。

それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間を洩れて、
地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。

迷いの雲間は裂ける。
本当の自分は輝き出でる。

地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

           <感謝合掌 平成27年9月10日 頓首再拝>

『生命の實相』読誦で、真理の自覚を研いておくこと - 伝統

2015/09/16 (Wed) 04:45:24


            *『生長の家』誌(昭和36年新年号) より

聖書や仏典を心読すれば、人間の本質 〈実相〉 が如何なるものであるかを知ることが
できる筈であるが、なかなかその解釈がむつかしいのと、何処にその真理の中心があるのか
不明なために、その真理を捉え得ないのが普通である。

ところが 『生命の實相』 を読めば、聖書や仏典に書かれている真理を開く鍵が得られ、
それによって今まで難解であった聖書仏典の章句の意義があきらかになり、
祖先伝来の宗教のよさがわかり、それがそのまま有り難くなるばかりでなく、
宗教が実生活に応用できることになるのである。

だから真理を自覚する最善の道は 『生命の實相』 を1日数頁は必ず読むと云うことが、
幸福生活を実現する道だと云うことになるのである。 

その次に必要なことは教えの集り 〈誌友会〉 に出席して、
真理に一歩でも多く到達した人に接触し、その座談を聴き、体験に接することである。


私たちの日常生活は、大抵、物質の争奪や、虚栄、虚名をもとめる煩労に汚されている
のであるから、1日のうちの或る時間を、それらの汚れた生活から離れ去って、
『生命の實相』 を読み、神想観をし、或は真理を求める同信者との会合に列席して
心を清めることが必要であるのである。

人間は神の子であり、霊的実在であることは、1度でも 『生命の實相』 を読んだり、
講習を受けた者には明かなことであるが、その真理を知っていながら、
その真理が日常生活の煩労によるゴミに掩われてしまって役に立たないような状態に
なっていることが実に多いのである。

嘗て読んで知っている真理は、整理箪笥の抽斗の中に入れてあって忘れている道具のような
ものであって、‘ある’には在るのだけれども、何処に入れてあったか急にそれを持出して
実用に使えないのである。 

大工はつねに自分の道具を磨いて整備して置くものであるが、
真理を有効に使おうと思ったら、常に真理の自覚を磨いておかねばならぬ。

 その磨きが 聖典読誦 であり 神想観 である。


        (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18986111.html より転写)

           <感謝合掌 平成27年9月16日 頓首再拝>

毎日1時間真理の光で心を照らせ - 伝統

2015/09/25 (Fri) 05:00:17


         *「生命の實相」第2巻實相篇下(P70~71)より

毎日1時間ずつ「真理の光」で自分の心を照らす ―― それにはどうしたらよいかというと
『生命の實相』のように生命の真理を書いた本を読むのが一等よいのであります。

われわれの「生命(せいえみ)」とは「神の子」であります。
神の分身(わけみ)、分魂(わけみたま)がわれわれの「生命(せいめい)」であります。

だから決してわれわれは病気になれない本性をもっているのです。
このわれわれの尊い無限力の神の子としての本性を知ることが真理を知るのであって、
真理を知れば知っただけの力が出るし、知らなければ知らないだけの力しか出ないのであります。

仮にわれわれが百万円の金を財布に入れて持って歩いていましても、
十円しかこの財布にはないと信じている限りは、十円以上のものを買う力は、
湧いて来ないでありましょう。

この財布に二十円あると知ったときにわれわれははじめて二十円のものを買う力が湧いて来る。
三十円あると知ったら三十円のものを自由にする力が湧いて来る。
百万円あると知ったら百万円のものを買って自由にする力が湧いて来る。

それと同じことでわれわれの生命(せいめい)は徽菌に負ける力しかないのだと
思っている限りは黴菌に負けるだけの力しか出て来ないのであります。

肺病になると思えば、肺病になるほどの力しか出ないし、
胃病になると思えば胃病になるほどの力しか出ないし、
腎臓病になると思えばまたそれだけの力しか出て来ないし、
糖尿病になると思えばまたそれだけの力しか出て来ないのであります。


           <感謝合掌 平成27年9月25日 頓首再拝>

あなた、『生命の實相』を読んでますか - 伝統

2015/10/05 (Mon) 03:41:20


     *昭和46年12月3日 白鳩会座談会での御指導  生長の家本部大道場

『甘露の法雨』 を誦げて病気が治るのは、本来病気が無いから消えるのです。 

病気がある、と掴む心がいけないのです。 
本当にあるものは消えやしないのです。 

生長の家では “病気は無い” と云うのです。 
無いから消えるのです。

『甘露の法雨』 には “病気は無い” ということが書いてあります。 
それだから消えるのです。 
病気があるという病気を掴む心を放すことです。 

他のため、他のためと尽していれば生命が自由自在になり、病気も自然に消えるのです。


あなた、『生命の實相』 を読んでいますか。

『生命の實相』 が入口なんですよ。 
病気を治すことだけを目的で 『甘露の法雨』 を
薬みたいにして治そうというのが、いけないのです。 

教えの根本を悟って “病気はない” という悟りに入ることが必要なのです。

兎も角、教えの根本は 『生命の實相』 に詳しく書かれてありますから、
それを読んで病気が本来無いということが解ったら、病気は無くなるのです。 

薬を飲むみたいな気持で 『甘露の法雨』 を誦げたら治るなんて思っておられたら困ります。

生長の家は病気治しじゃないのです。 
人間として本当に識らねばならぬ真理を説いているのです。 

真理が解ったら、病気は本来無いから消えるだけのことです。 
病気を治すのが目的ではないのです。

兎も角 『生命の實相』 を読んで、人間とはどういうものか、魂とはどんなものか、
病気はどういう訳で出てくるかということを良く識って、心を変えなければならないのです。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17619497.html からの転写)

           <感謝合掌 平成27年10月5日 頓首再拝>

世紀の大発明  『生命の實相』 - 伝統

2015/10/13 (Tue) 04:46:12


         *『光の泉』誌 平成元年3月号 〈“神誌” 最終版〉
          ~漫画家  杉 浦 幸 雄

《たのしきかな人生!》          

最も難解といわれる宗教哲学を、最もわかりやすく説かれたのが
不世出の大天才 谷口雅春先生の 『生命の實相』 です。

後には類書が続出しましたが、昭和5年は不景気のドン底、
ロシア革命直後の唯物思想大流行の時に、敢然と唯心論いや唯神論を掲げられたのは、
まさに世紀の大発明でした。

私が 『生命の實相』 を初めて拝読したのが昭和9年、23歳頃でした。 
お蔭であの戦争、戦後等の不幸な時代を神様に守られて無事に突破して幸福に暮らして来ました。 
これ以上の有難いことってあるでしょうか。

難解な宗教哲学をわかりやすくした 『生命の實相』 を
さらにくだいて私の本職である漫画にしたいとは、私の生涯の念願でした。 
今それが出来て何億万分の一の御恩返しをしたかと思うとうれしいのです。


「悟る」 とは迷いを去って真理を知ることです。 

真理を知るとは、「人間は神の子である」と悟ることです。 

それだけです。

 
ほかにも 「物質は無い」 「魂は老いず、死なず」 等々、
古い宗教ではやたら難しく言っていることを、やさしい日常語で教えてくれます。 
これでもう、あなたも私もお釈迦さんや達磨さんと同じ悟りを得たのです。 

こんなにあっさり真理が伝わっていいんでしょうかね。 

いいんですよ。 

真理は天地万有のものなんですからね。

寒中に水垢離をとって難行苦行の荒行をしても悟れなかった真理を、
暖房完備な快適な部屋で、ソファーに掛けて 『生命の實相』 を読むだけで
悟れるんだから、昔テクテク歩いた所を、ジェット機で行くようなもんです。

 
日本の知識人には、昔からやさしく言えることを難しく言って庶民との差をつけて、
特権階級ぶりたい癖があります。 

本がよく売れたと言えばいいものを 「洛陽の紙価を高めた」 なんちゃってね。 
マルクスの 『資本論』、セルバンテスの 『ドンキホーテ』 も日本語訳では難解だが、
英語で読むとよく分るそうで、傑作は 『源氏物語』 も英訳の方が分りやすいそうです。

このデンで今までの宗教家は、あの尊い真理を民衆どもにそうやすやすと教えちゃ損だと
ばかりに、ことさら厳かに演出して、大伽藍、金襴の衣でオドかして経典をさも
難解風に読むが、実は 「人間神の子、物質は無い、魂は死なず」 と言っているんです。

 
私なんざ 「魂は老いず」の御教えの勢いで、77歳で再婚しちゃいましたよ。 

イヤハヤ、どうも ・・・・・ 。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18753613.html より転写)


           <感謝合掌 平成27年10月13日 頓首再拝>

知っているということと、自覚を得ていることとは別 - 伝統

2015/10/19 (Mon) 04:12:30


《あなたは生長の家信者ではない。》

          *『人間そのものの発見とその自覚』(141頁)より

“『生命の實相』はもう読んで知っている。 
一時は幾多の奇蹟を生じたくらいなんだもの” 

と、それで、もうわかったぞと、卒業した気になって、
易々加減な生活を送って来て、その易々加減の心境の反映で不幸があらわれて来て、
最後に “『生命の實相』は私には効かなくなった” と言って、
やがて生長の家から離れて行く人があるのですが、

これは『生命の實相』が効かなくなったのではなく、
信仰がマンネリズムに陥った結果であります。

 
『生命の實相』を読んだ当初は、はじめて『人間神の子』の大真理に触れ、
空気の美味しさがわかるように、『人間神の子』の嬉しさを満喫して感謝一ぱいになる
のであり、その心境の程度に応じて、幾多の奇蹟もあらわれるのでありますけれども、
いつの間にかそれが形式化してしまう人があるのです。

 
食前に感謝する行事でも、最初は本当に感謝の心を起こし、感謝の黙祷を捧げて、
合掌して食物を『戴く』気持ちで食するのですけれども、それが段々形式的になり、
瞬間的にパッと合掌して終わるということになります。 

これは食前の祈祷における一例でありますが、
生活の全体がこの調子に、『信仰』という内容のない、形式ばかりになるのであります。


こういう信仰内容のない生長の家信者は、生長の家信者であって信者ではない。


『人間神の子』の真理は、嘗てものの本で読んだことがあり、
そう書いてあったことは覚えているけれども、記憶しているということと、
自分が『人間・神の子』の自覚を得ていることとは別なのです。
           
   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17457030.html より転写)


           <感謝合掌 平成27年10月19日 頓首再拝>

奇跡の成就 - 伝統

2015/10/31 (Sat) 03:46:13

奇跡の成就~それは『生命の實相』をはじめとした真理を語る書物の言葉の効果

        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P80~82)より


(二)
   諸君がもし絶対健康を求むれば、絶対健康の秘訣は、まず自己が絶対健康である
   ことを知るにある。汝の生命を今、神の生命なり、ぜったい健康なりと信ぜよ。
   信じかくして絶対健康として行動せよ。

   その時汝は絶対健康となり、病める者も自癒するのだ。
   キリストの奇跡はこの真理を実証しているのであります。(『生命の實相』生活篇)


   視よ、12年血漏(ちろう)を患いいたる女(おんな)、
   イエスの後(うしろ)にきたりて、御衣(みころも)の総(ふさ)にさわる。
   それは御衣にだに触(さわ)らば救われんと心のうちにいえるなり。

   イエスふりかえり、女を見て言い給う「娘よ、心安かれ、汝の信仰なんじを救えり」
   女はこの時より救われたり。(「マタイ伝」第9章20~22)』


この驚くべき奇跡が成就したのは、一つは患者自身の信仰によるのであって
「汝の信仰なんじを救えり」である。

さらにその信仰が現実的力となって神癒を完成したのは、
「娘よ、心安かれ」という言葉の力であります。

かつて帝大病院の真鍋嘉一郎教授が同病院で診察していたとき一人の老婆が田舎から
教授の名声を慕って自分の難病を治してもらいに来たのであります。
真鍋教授は型のごとく診察して、処方箋を書き、
「これを10日分に分けて服みなさい」と言った。

その老婆は一ヵ月ほど後に、わざわざ上京して同教授の許へ訪れて、
「先生、お蔭さまでスッカリよくなりました」とお礼を言った。

真鍋教授が「あの薬はよく効いたでしょう」と言うと、
「先生様に頂きましたあの紙を10日分に刻んで服みましたら、本当によくききました」
としきりに感謝している。

この老婆は薬剤を服むかわりに、処方箋を服んで治ったのである。
まことに「汝の信仰なんじを救えり」であります。

しかし、その信仰を喚起したのは教授の「これを服んだら治る」という
「言葉の力」であったのです。処方箋や、御衣(みころも)の総(ふさ)は
信仰を喚起する媒体になったのであります。


言葉の力で、人間が健康になるのは、
人間の本来が「健康」《そのもの》であるからであります。
本来内在している「健康」《そのもの》も、それを自覚せざる人には顕われない。
これが「もたざる人はなお奪われる」真理であります。

健康の自覚をもてば、その自覚がその表面にあらわれて健康を増進する。
これがもてる者はなお与えられる真理であります。

キリストは申されました。
「心安かれ」と。
「心安かれ」 ―― これが、病気を治す最大最有効の心の持ち方であります。

心に心配や恐怖をいっぱい詰め込んでおいて健康になろうと思うのは、
草の上に大きな重石(おもし)を置きながら、その草を伸ばそうとするような
ものであります。

人間の生命(いのち)は本来円満完全であるのに、
その円満完全さの上にいろいろと心の迷いの塵埃(じんあい)をもって覆うているが
ためにその円満完全さが発露しないのであります。

心の迷いの中で最も大なる塵埃は「心の不安・恐怖」であります。
多くの人は不安と恐怖とのために地上の生命(せいめい)を縮めているのであります。

その不安と恐怖とを取り除くのは真理の言葉によるのであって、
キリストの言葉や真理を語る書物の言葉は大いに効果があるのであります。

アメリカのクリスチャン・サイエンスの本や、『生命の實相』の本などは
読んだだけで無数の病気の治った治験例が発表されておりますが、

これは「人間本来神の子・病気本来無し」の真理が、言葉の力をもって
あらゆる方面から自由自在に説いてあるために、「病気あり」と信ずる迷妄(まよい)が
吹き消されて、恐怖が消え、不安が去って、雲の晴れた後に輝く満月のように、
明皓々と、人間本来の実相たる円満完全さが輝き出でるからであります。

              <感謝合掌 平成27年10月31日 頓首再拝>

『生命の實相』を繰り返し読んでいるうちにスッカリ病気(癌)がなくなった - 伝統

2015/11/10 (Tue) 04:46:55


         *『生命の實相』第24巻 質疑篇(P143~144)より

この船岡さんはそれから10日ほどして5月30日、
突然「生長の家本部」へお越しになりましたが、

聞いてみると最初胃が悪いというのでまず鳥取病院で診ておもらいになりますと、
幽門狭窄症だと診断されたのです。胃袋の出口のところに癌ができて、そこが狭くなっている。

そのために食物の通過が悪くて長く胃部に停滞した食物が発酵腐敗して胃粘膜を刺激し
一方では胃潰瘍を起こしつつあるから、幽門の癌部を一寸ほど切除して
胃と十二指腸との吻合手術をしなければならぬ。

しかし鳥取病院にはそれだけの手術の設備がないから岡山の医大病院へ行けと言うので
岡山医大の稲田内科へ入院されたのです。

岡山医大の稲田博士は東京帝大の稲田博士の弟君だそうで最近院長になられたのだそうですが、
この稲田博士が診て下さったが、診断の結果はやはり前同様である。

ただあまりに病人の衰弱が甚だしいので今すぐ施術しては体力がこれに耐えまいから
体力の回復を待とうということになったのです。

ところが同室に糖尿病患者があって、誰からか聖典『生命の實相』をお見舞いに貰って
病院へ持ってきていました。しかし枕頭に置いてあるだけで自分は読まないのです。

この糖尿病患者の人が船岡さんが入院するとすぐ「この本を読んでみませんか」と、
全集『生命の實相』を貸してくれた。

船岡さんは『生命の實相』を貪るようにお読みになったのです。
読んでいるうちに不思議に病気が回復してきた。

この分ならもう切開手術してもらっても大丈夫それに耐えられるという自信が
船岡さんにできてきたものですから、船岡さんは医者に早く施術して下さいと催促し出した。

ところが今度は医者の方が小首を傾げて、これは施術しないでも治るかもしれぬというのです。
癌だと思われていた塊がだんだん小さくなってゆくつつあるのです。

入院60日間、船岡さんは幾度か『生命の實相』を繰り返し読んでいるうちに
スッカリ病気がなくなったのです。

              <感謝合掌 平成27年11月10日 頓首再拝>

1日24時間、果して自分の生活は『生命の實相』の上に立っているか!? - 伝統

2015/11/19 (Thu) 04:26:13


               *『精神分析の話』 より

この「唯有難い!」という感謝の念が私共には極めて大切なのでありまして、
この感謝の念こそ一切の「内心の錯綜」(インナー・コンプレックス)を
溶かし去る力となるのであります。

だから 『生命の實相』 をいくら読んでも、病気や環境がよくならないというような人達は、
先ず 『生命の實相』 全集の冒頭に引返して、あの 「天地一切のものと和解せよ」 との
神示に照らして、深く自己を内省されるが好いのであります。

これまでもいろいろと病気のよくなった実例を挙げて参りましたが、
とにかく、こうして心を変えると病念が去るという事実は、結局、病気は「象徴」としてのみ
存在するのであって、「実際」として存在し得ないという証拠なのであります。

 
生長の家で「病気は無い」というと異常に感じる人がありますが、
「病気は常恒の実在ではない」それは「象徴」としてあらわれているという意味であります。

生長の家は象徴主義の人生観ともいうことが出来るでしょう。 
人生一切のもの悉く象徴だと観るのであります。

かく病気は象徴であるからこそ、象徴の原因たる「念」(こころ)を変えれば、
象徴たる病気が消える事実に理論付けが出来るのであります。 
そうしてそれは象徴であるから、一つの「啓示」であるとも云えるのであります。

そしてその「啓示」の奥には 「念の具象化の法則」 があるのであります。 
これが 「理としての神」 であります。

各人には凡てこの「理」即ち‘神性’が宿っているのでありまして、
その神性に照らし、「理」に照らして、自分の間違い、自分の欠点、
自分の悩み、苦しみ、悲しみといった「内部錯綜」を解きほぐしてゆけば、

肉体は心の投影(かげ)にしか過ぎませんから、
内的錯綜の解決した程度に従って多くの病気が快くなってゆくのであります。

 
そのためには何といっても 『生命の實相』 を読んだら、
一つ一つ教えを素直に行じてゆくことであります。

そして静かに自分の一日を振り返ってみて、一体自分の生活の何分の1が 
『生命の實相』 の真理の上に、道の上に立っていたかを思うべきであります。

1日24時間の間、果して自分は教えそのものの上に起って来たかどうか、
今迄信じていた唯物的な物の観方、考え方、感じ方、即ち肉体もあり、病気もある、
不幸もある、といったよな立場に立ってはいなかったかどうか、
ここのところをはっきりと見究めることが必要であります。

ここのところを疎かにしていて、病気が去らないとか、或いは環境がよくならない
とかおっしゃられても、それは教えが悪いのでも、道が間違っているのでもなく、
その人自身の生活の中に 「道」 が無いのであります。

     (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ce97fa570340f456c8a1a0cc4009def6 より転写)

              <感謝合掌 平成27年11月19日 頓首再拝>

人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』 - 伝統

2015/11/29 (Sun) 04:32:21


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。
「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と
考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。
肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、「心」という
指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は
『人間の心』の中で釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

              <感謝合掌 平成27年11月29日 頓首再拝>

『生命の實相』は独特の言葉の調合で成り立っている - 伝統

2015/12/07 (Mon) 04:36:29


          *『生命の實相』第24巻≪参考篇・質疑篇≫(P95~96)より

かくのごとく「無」の字は竣効を有するので、生長の家では、それが人間に働きかけて、
生命(せいめい)を生かすので、有効無害の働きをするように、
文章中に巧みに他の言葉と混ぜて調合してあるのであります。

《「無」の字、「ない」という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません》。

《釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは「無」の字、「ない」という言葉を、
文章全体の中に織り込んであるその織り込み方にあるのであります》。

この織り込み方はわたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって
書いてゆくので、誰にも真似はできないのであります。

思想は真似できても、言葉の調合は真似ができないのであります。

だから、今までお経を読んでも聖書を読んでも治らなかった病気でも、
その同じ真理が説いてある生長の家では、聖典を読んだり話を聞いただけで
病気が治るのであります。

              <感謝合掌 平成27年12月7日 頓首再拝>

『生命の實相』が道場であり、教化の師である - 伝統

2015/12/14 (Mon) 04:09:26


          *『生命の實相』第25巻≪教育実践篇上≫(P101~103)より

人間の実相は神の子である。
仏子である、生きとおしの生命(せいめい)であるというようなことは
「生長の家」の発明でもなんでもない。

古くから善き宗教はほとんどそのいずれもが口をそろえて説いてきたところであります。

では「生長の家」はどこがちがうかというと言葉の力、文章の迫力がちがうのであります。
臨済の一喝といって臨済禅師の一喝をくらうと悟る弟子が多かったという。

(中略)

「生長の家」で説くところの宗教的真理が、どこがちがうかというと、
文章による一喝を与える点であります。

本を読めば病気が治るということも、文章による一喝によって読者の生命の実相が
開かれて心の病気が治る、肉体の病気が治るのもこの随伴的結果なのであります。

この《生命の実相》というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、
言詮不及、不立文字であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の実相を悟らせるように
させたところが生長の家の独特なところであるのです。

今までは真理と言葉とが二つに分かれていて、
言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心でないと悟ることもできない真理を、
ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命(せいめい)あり、
生命の中に文字あり、文字と生命と一体というような域にまで
達せしめえたのだろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに
到達する人が多勢あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、
肉体の病気も治り境遇環境まで変化してくるというようになってきたのであります。

(中略)

生長の家では活字が道場である。
文章が教化の師である。

活字を印刷した新聞紙の行くところ、活字を印刷した小冊子の行くところ、
そこが道場化して人を救うというところになるのであります。

              <感謝合掌 平成27年12月14日 頓首再拝>

人生の”海図”としての『生命の實相』 - 伝統

2015/12/22 (Tue) 04:34:11


              *『栄える生活365章』(P33~34)より

人生の航路に羅針盤を忘れてはならない。

感謝は不毛の土地に、美しき花を咲かせ、
砂漠に裕(ゆた)かなる収穫を来(きた)すような力をもっているのである。

あなたは自分の運命の支配者であり、人生の航路を進み行く
船の船長だということができるのである。

しかし船長に羅針盤がなく、またどの方向へ進んで行けばよいかの海図がなかったならば
その船は難破するか暗礁に乗りあげるかするより致し方がないのである。

その”羅針盤”にあたるものが、”心の法則”であり、
その”海図”にあたるものが『生命の實相』の聖典である。


『生命の實相』をよく読んで、人生の海図とし、幸福の青い鳥に速やかに到達せられるがよい。

              <感謝合掌 平成27年12月22日 頓首再拝>

真理は経典にあるからとて貴いのではない、真理は真理だからこそ貴い - 伝統

2015/12/30 (Wed) 04:11:18


         *『女の生き甲斐』(P226~233)より

私が『生命の實相』の中にこんな仏典の中の物語や譬喩を引用して置きますと、
「それは仏教の何というお経の何の品に書いてあるのか教えてくれ。 
信者からたずねられた場合に返答に困ることがあるかも知れぬから」 
というようなお尋ねの手紙を時々頂くのであります。

私が『生命の實相』の中で処々に引用した仏教経典の言葉は沢山あります。 
それは少年時代から始まって今から30数年前頃まで、私の書斎にあった 
『國譯大蔵経』などを片っ端から読破した中から、これこそ真理を伝えるのに都合がよい
と考えた章句を『生命の實相』の中に随意引用したものでありますが、

最近では信者又は誌友の数が増え来信が増加し、中には数10ページの便箋にこまごまと
書いたものもあり、その1通を読むだけでも数時間を費して、
それだけを読むのにくたびれてしまうようなものも混っております。 

外国からの手紙を読んで、それに返事することもひと仕事です。

そのほかラジオ放送の吹込や、講習のための長期連続旅行や、講習旅行から帰って来ると
総裁としての承認事務又は決裁事項に関する書類が山積していて、
それを一々読んで認証したり決裁しなければならぬ上に、期日の迫っている5雑誌には
相当の分量の原稿を書かなければならない。 

自著の単行本の編集及び校正、殆ど息をつくひまもない。

そんな訳で、ここ20年ほどは仏典など読む暇がないので、
仏典の文章の大体の文句は憶えていても、その文句が数多くの仏教経典の、
どのお経のどの辺にあったのか、こぐらかってしまって憶い出せない事が多いのである。 

ところが幸いにも、この焼火箸の話は南伝大蔵経に収録されている
「ミリンダ王問仏経」にあると或る信者が教えて下さいました。


併し、ここで私が読者諸賢に申上げたいのは、真理はそれが真理だから貴いのであって、
お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。 
宗教的真理の悟りは、学究的研究や、典拠の渉猟とは何の関係もないことである。


天理教祖は「学者と金持あと廻し」といわれたそうであるが、
イエスも「学者と頴(さと)き者には隠し給う」というような意味をいっておられ、
アダムとイヴとは「知識の樹の果」を食したためにエデンの楽園から追放されているのである。

色々の聖句を寄集めて楽しむことは、良い趣味ではあるけれども
一種の高級な蒐集癖に過ぎないのである。 


仏典の全部は釈尊が逝去されてかた7百年も、或はもっと後に、結集されたものであって
釈尊直接の口授の真理でもなく、その直接の弟子が口授したのでも筆記したのでもない。 
釈尊の直弟子などは皆死んでしまった後で編纂されたものである。 

だから釈尊が阿難に「焼火箸を握る教訓」をせられたということも歴史的事実ではない。 
そうなれば、それはお釈迦さんが仰せられたから貴いということは結局ナンセンスのことである。 
だから、その聖句が何経の何章にあるかなどということは重要な問題ではないのであります。

 
キリスト教の聖書であるイエスの伝記である4つの福音書も決して
イエス自身の直接の弟子の書いたものではなくイエスの直接の弟子は皆漁師のような
無学の人ばかりで聖書の書けるような人はない。 

福音書のイエス伝は弟子から聞き伝えたことを後の人が書いたのであるという投書を
吉田長祥さん から頂いたことがある。 まことにもっともなことである。

現代のように録音機や速記術が発達していた時代の記録ではないし、最初に伝えた弟子も、
自分の理解の程度にしか次の人に伝え得ないものであるから、聖書にどの程度
真実が伝えられているかは不明なのである。 

4福音書の中の「ルカ伝」の第1章には

「我らの中に成りし事の物語につき、始めより目撃者にして、御言(みことば)の役者と
なりたる人々の、我らに伝えし、其のままを、書き列ねんと、手を着けし者あまたある故に、
我も凡ての事を最初より詳細に推し尋ねたれば、テオピロ閣下よ、汝の教えたる事の
慥(たしか)なるを悟らせ為に、これが序(ついで)を正して、書贈るは善き事と思わるるなり」

と、序文のようなことを書いているのであるが、
ルカはキリストの直接の弟子であったか、どうか曖昧なところがあるのである。

「我らの中に成りし物語」としてイエスの伝記の中に「我ら」として「イエスの団体」全体を
含んでいるような書き方をしているから、ルカはイエスの直弟子らしくもある。 

ところが、自分が目撃者としてこの物語を書いたといわず、
最初よりの目撃者よりきいたことを書いたとあるのである。 

だからルカはイエスの教団に最初からいた弟子ではなく、後年イエスの教団の仲間入りをして、
イエスの伝記のどこかに「我ら」一同という複数の人間たちの中にいる人らしいのである。

釈尊でもイエスでも、自分で教を書かなかったことはまことに残念なことである。

それだから、それを伝えた人たちの悟の程度や、間違いや、伝え誤りや色々のものが
混入しているのである。 そこで一ぺんそれらの混入物を取除いて本当の純粋な人間を救う
真理だけを抽出する必要があります。

経文や聖書の章句のどこに重点を置くかによって
諸宗諸派がわかれて来ることになるのであります。 

併し諸宗、諸派に分れた宗教も、偏ったところに重点を置かないで、
生粋の真理だけに重点を置くことを見出すならば、諸宗諸派は共通の同一真理に
到着するのであります。 

これを 生長の家では 「萬教帰一」 といっているのであります。

甲の宗教と乙の宗教と、丙の宗教があるとします。 
どの宗教も人間の魂を救う力があるとするならば、すべての人間はその生理的構造や形態が
同一である点から見ても、一つの同じ神秘力 

〈これを神と称しても、久遠の本仏と称しても、
アラーの神と称しても、ゴッドと称しても、それは人種により宗教により、
人間が勝手に名称をつけるので、何と名付けようとも好い〉 

から生れたということは明かであります。 
だからそれを救う真理は、宗教、宗旨、教派等の名称教義の如何に拘らず、
同一の真理であるということであります。 

だから人間を救う真理が何であるかということを知ろうと思うと、
共通しないところのものを‘ふるい’にかけて排除して、共通のものだけを残せば、
それが本当に人間を救う真理だとわかる訳であります。


これを譬喩をもって説明すれば、人間を物質的方面からそれを生かしている成分又は条件は
何であるか、つまり生物発生の必要条件は何であるか、生命が生きていられる条件は何であるか

 ―― を知ろうと思えば、その生物の名称が、犬であろうと、牛であろうと、魚であろうと、
鰐であろうと、ミミズであろうと、はた又人間であろうと、その共通的条件をさぐれば、
およそ生物を生かしている真理 〈この場合は物質的方面からの科学的真理〉 は共通になる。 

即ち其処に空気があること、水分があること、窒素化合物なるアミノ酸又は蛋白質があること、
ある程度の温度があること ―― というような共通の生化学的真理に到達するのであります。 

そして共通でないものは、その生活する環境の特殊事情によるものであります。 
つまり眼があるとか、手はないかわりに鰭があるとか、脚がないかわりに尻尾があるとか、 

・・・ そんな色々の生物によって共通しないところの異るところは、
必ずしも生物になくてはならない ―― それがなくては生きられない、
生命顕現に必須のものではないということであります。


それと同じように、宗教上の人間の魂が救われる真理も各宗に共通でないところの教義は、
それはその宗教発生の時代、環境、人種、常識、一般の教養及び理解の程度に従っての
特殊事情による派生的なものであって、それがなければ魂が救われないという
根本的なものではないのであります。

そして真に各宗に共通的な真理こそ本当に、“人間を救う真理”
 ―― それがなくては人間は救われないというところの真理 ―― なのであります。 

萬教帰一というのは、生長の家では、このようにあらゆる宗教に共通する真理を純粋に
抽出してそれを説いてあらゆる宗教の神髄は共通同一の真理に帰一するということを
示すのであります。

だから、生長の家に入教なさいましても、本尊は宇宙を貫いて存在する「生命の本源者」で
ありますから、それは仏教では大日如来とも阿弥陀仏とも称する訳であり、
キリスト教では“天の父”又は“神ゴッド”であり、神道では天之御中主神

 ―― その御顕現としての天照大御神・住吉大神・塩椎神であり、
マホメット教ではアラーの神であり、名称は異れども、その御本体は同一でありますから
改宗する必要はないのであります。

《生長の家が果す役割》

こういう訳ですから生長の家に来られれば先祖代々の宗教は改宗はしないでよい、
祖先の宗教のそのままで“ありがたい”とわかるのであります。 

改宗しないことによって、その宗教を信じて安心を得て来られた祖先の霊魂が救われ
祖先の意思を尊重し、祖先に対する報恩が完うされるのであります。

このように申しますと、萬教は同一の真理を説くのであり、改宗しないでもよいとわかったら、
別に生長の家に行く必要はないではないかと思われる方もあるかも知れませんが、

万教は同根であり、同一の真理を説くとわかっただけで、その同一の真理とは
「単に共通の本尊を拝む」とわかるだけでは、真理の内容が詳しくわからないのであり、

その真理を如何に応用し、如何に生活することによって、自己の魂が本当に救済され、
生老病死の四苦から解放され、幸福に豊かに健康に自己が生きながら、
その幸福を他の人々に頒ち与え、ひいては社会国家に貢献し、
人類全体に貢献するその真理の応用法がわからないのであります。

(中略)

ただ本尊を拝むだけでは、本当に救われない、本尊の説きたまう真理をわかりやすく解説し、
それを生活に実践するように導いてくれる人がなければならないのであります。

イエス御自身

「主よ主よというもの必ずしも天国に入るに非ず、
父の御心を行ずる者のみ天国に入るのだ」

と聖書の中で教えていられるのであります。

その「父の御心を行ずる」には如何に生活すべきかを教えているのが生長の家なのであります。

              <感謝合掌 平成27年12月30日 頓首再拝>

文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である - 伝統

2016/02/07 (Sun) 05:07:04


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(P20~21)より

病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。

生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。

《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。
そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。
そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。
この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。


読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが『生命の實相』である。
これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

学と術とはちがう。
現象学は現象を正確に告げる必要があるし、人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる

病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。

病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。

              <感謝合掌 平成28年2月7日 頓首再拝>

『生命の實相』は、人事処三相応で説かれている。それに躓かざる者は幸いなり。 - 伝統

2016/02/21 (Sun) 06:16:25


           *「光明道中記」(2月21日)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。(生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

              <感謝合掌 平成28年2月21日 頓首再拝>

あなた、『生命の實相』を読んでますか - 伝統

2016/03/05 (Sat) 04:18:34


         *昭和46年12月3日 白鳩会座談会での御指導  生長の家本部大道場

『甘露の法雨』 を誦げて病気が治るのは、本来病気が無いから消えるのです。 
病気がある、と掴む心がいけないのです。 

本当にあるものは消えやしないのです。 
生長の家では “病気は無い” と云うのです。 
無いから消えるのです。

『甘露の法雨』 には “病気は無い” ということが書いてあります。 
それだから消えるのです。 

病気があるという病気を掴む心を放すことです。 
他のため、他のためと尽していれば生命が自由自在になり、病気も自然に消えるのです。

 
あなた、『生命の實相』 を読んでいますか。

『生命の實相』 が入口なんですよ。 
病気を治すことだけを目的で 『甘露の法雨』 を
薬みたいにして治そうというのが、いけないのです。 

教えの根本を悟って “病気はない” という悟りに入ることが必要なのです。

兎も角、教えの根本は 『生命の實相』 に詳しく書かれてありますから、
それを読んで病気が本来無いということが解ったら、病気は無くなるのです。 

薬を飲むみたいな気持で 『甘露の法雨』 を誦げたら治るなんて思っておられたら困ります。

生長の家は病気治しじゃないのです。 
人間として本当に識らねばならぬ真理を説いているのです。 
真理が解ったら、病気は本来無いから消えるだけのことです。 
病気を治すのが目的ではないのです。

兎も角 『生命の實相』 を読んで、人間とはどういうものか、魂とはどんなものか、
病気はどういう訳で出てくるかということを良く識って、心を変えなければならないのです。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17619497.html より転写)

              <感謝合掌 平成28年3月5日 頓首再拝>

”生命の実相”を現代語で詳しく書いたのが『生命の實相』 - 伝統

2016/03/19 (Sat) 05:07:05


            *『光の泉』(昭和40年7月号)より

『實相』 というのは皆様の生命の“本当のすがた”というものであります。 
それを現象界のコトバで説明するのは大変むつかしいのです。 
禅宗などでは長い間坐禅をしてそれを悟る。

「一切の諸法は空にして所有なし」と法華経に書いてある。 
紙や墨や樟の木の「板まんだら」も、皆さんの肉体も諸法の中に属する。 
そんな「空なるもの」を拝んでも役に立たないというのが「空にして所有なし」ということです。

諸々の現象  ―  肉体なる現象も、「板まんだら」も本来‘ない’と知る。 
そして肉体も物質も本来ないということが分ったら、それでも、
‘ここに生きている生命がここにある’ということが分るでしょう。

その生命の実相のことが書いてあるのが、法華経の方便品と如来寿量品である。 

それを現代語で詳しく説いてあるのが 『生命の實相』 の本であります。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19715281.html より抜粋)

              <感謝合掌 平成28年3月19日 頓首再拝>

『生命の實相』が道場であり、教化の場である - 伝統

2016/03/27 (Sun) 04:00:49


             *『生命の實相』第25巻教育実践篇上(P102~103)より

「生長の家」で説くところの宗教的真理は、多くの善き宗教の神髄をなしている
宗教的真理と同じであり、むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、
どこがちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。

本を読めば病気が治るということも、文章による一喝によって読者の生命(せいめい)の実相が
開かれて心の病気が治る、肉体の病気の治るのもこの随伴的結果なのであります。

この《生命の実相》というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、
言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんじ)であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の実相を悟らせるようにさせたところが
生長の家の独特なところであるのであります。

今までは真理と言葉とが二つに分かれていて、
言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心でないと悟ることもできない真理を、
ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命(せいめい)あり、生命の中に文字あり、
文字と生命と一体というような域にまで達せしめえたのであろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が
多勢あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、肉体の病気も治り境遇環境まで変化してくる
というようになってきたのであります。

この点では「生長の家」は宗教というよりも文学とか芸術とかいう方が適当かもしれない。
生長の家は宗教としては今までの多数の宗教に対してあえて別意を説くのではない。

根本において神髄において同じことでありますけれども、その表現がそういうように
今までに見ない強い迫力ある芸術になっている。

今までの宗教のような直接説法、直接指導でなければ功を奏しないようでは
このおびただしい世界の人類をいつまでたったら教化しうるかすこぶるおぼつかない話であります。

これが今までたくさんの宗教があるのに、新しく「生長の家」の出現した所以でありまして、
生長の家では活字が道場である。文章が教化の場である。

活字を印刷した新聞紙の行くところ、活字を印刷した小冊子の行くところ、
そこが道場化して人を救うということになるのであります。

              <感謝合掌 平成28年3月27日 頓首再拝>

咽喉元すぎて熱さを忘れてはいかぬ - 伝統

2016/04/08 (Fri) 03:56:05


          *『真理』第10巻 實相篇 より 
 

生長の家に入って、一度正しい物の考え方になり、病気が治り、家庭が調和し、
人生が楽しくなったからとて、信仰に入ってから後いつの間にか、

心がなまけ、聖典を読まず、神誌を読まず、神想観せず、外界から入って来る不健全な
病的暗示に晒されて、いつの間にか其の人の潜在意識に病的観念がみたされるようになると、
元の黙阿弥になってしまって、運命が逆転することが往々ある。

何しろ、近頃のラジオの商業広告や、新聞広告の中には“病気”の存在を暗示して、
「人間は此の薬に頼らなければ決して健康にはなれないぞ」 と云うような観念を
植えつけるものがザラにあるからである。

人間が薬剤の前に跪いて、その憐れみを乞わなければならないような
心的状態になったならば、既に其の心が病気なのである。

 
だから私たちは常に毎日わずかづつでも 

『生命の實相』 を読んで 「自分は神の子である」 

と云う自覚を深めなければならぬ。

         (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19637630.html より転写)

              <感謝合掌 平成28年4月8日 頓首再拝>

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である - 伝統

2016/05/29 (Sun) 03:44:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、
それに理論が透らないという理由で、また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って理論が透らないようなものは
頭から排撃してしまって、いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる一大生命学の理論体系をなしているのである。
この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は医者が一つの事実を肯定するに
用うるモルモットの実験頭数よりも多く、数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮
せしめるのであるから、宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

            <感謝合掌 平成28年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』の力はその表現にある - 伝統

2016/06/08 (Wed) 03:56:35


          *『生命の實相』第27巻久遠仏性篇上(P136~137)より

「肉体なし」の思想は別に生長の家の新発明でも何でもないのであります。
ただ新発明のところはその表現の仕方が違うのであります。

その表現方法に力があるので、心が端的に、生命(せいめい)の本当の相にぶっつかるので
『生命の實相』を読んだら病気が治ったりすることが頻頻と起こるのです。

その説くところは天地と共に存する古き真理でありますが、
表現ということに重きを置きますと、
哲学とか宗教というよりも芸術と言わねばなりません。

わたしは宗教家と言われるよりもこの点で芸術家とか文芸家とか言われたいと思うのです。
そんなに新興宗教が起こったなどといって周章狼狽することは要らないのです。

表現が巧みであるから、いままで禅宗などで「不立文字、言詮不及」と言い、
「曰く言い難し」とか「言亡慮絶(ごんもうりょぜつ)」とかいって、
言葉では現わすことはできないと言われておったところの真理を

言葉で端的に人間の魂にブッつけることができ、
悟りのための修行を非常に簡略化することになったのであります。

今まで何年も座禅し、修行して、棒をくらわされたり、喝をくらわされたりして、
やっと悟っていたところの真理が、本を読んだだけで悟れる ―― 全部の人がそうでもないが、
白隠禅師が自己の肺病を治したくらいの程度に悟れる人ならザラにある。

これが一つの芸術であります。
わたしは新興宗教などと言われるよりも、新興芸術と言われたいと思うのです。

繰り返し言いますが、生長の家には新しい真理は一つも発明していない。
ただ古今の教えを言葉の芸術で読ませるので人の魂を生かす力が這入っている。

ここに『生命の實相』の力があるのであります。

            <感謝合掌 平成28年6月8日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 - 伝統

2016/06/26 (Sun) 04:06:41


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。

何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。
有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いてじっと2、3行見つめていると、
それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。

あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのはポンプの迎い水のようなものですねえ。

水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。病気のことはほとんど書いていない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、生活が整ってくると自然病気が治ってくる。
朗々と読むとよいのですよ。だからあの部分だけ集めて『光明の生活法』という一冊に纏めて
あるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」

           <感謝合掌 平成28年6月26日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む - 伝統

2016/08/01 (Mon) 04:30:03


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月1日>(P38)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。
そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、遠隔治療をしてくださいと
いうような不誠実な人たちもあるのである。こういう人にかぎって、治ったらもう用がない
と言って去り、治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。
真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

            <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2016/08/03 (Wed) 04:04:32


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月3日>(P40)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

       <感謝合掌 平成28年8月3日 頓首再拝>

『生命の實相』読誦の功徳について - 伝統

2016/08/23 (Tue) 03:33:43

        *『真理』第9巻 生活篇(P397~398)より

『生命の實相』を読んで病気が治る。
これは無数の礼状が実証するところである。

しかしこれは谷口雅春の功績ではない。
「わが神殿は既に成れり、名づけて『生命の實相』と称う」
と神は仰せられているのである。

『生命の實相』は神がその御栄えをあらわしたまうための道具である。
其処に奇蹟を生ずるのである。

しかし、心が頑固で其処に書かれている真理を
素直に受容れることの出来ない人には治病の奇蹟は起らない。

神の力が及ばないのではない。

光は充ち満ちていてすらも、眼を瞑じている人には
光を受容れることができないのと同じことである。

しかし、眼を瞑じている人にも光があれば明暗ぐらいは分るのである。

明暗をたよりに、其処に光があることを自覚して眼をひらけよ。

          <感謝合掌 平成28年8月23日 頓首再拝>

《すべては神の恩寵である》 - 伝統

2016/09/05 (Mon) 04:04:58


        *『真理』第9巻 生活篇(P398~399)より

『生命の實相』を読んで”病気本来無し”と
豁然と悟りをひらいて病気の治る人もある。

しかしそれは、自分が偉いので自分の力で悟りをひらいたのだと
高慢な心を起してはならないのである。

神の恩寵なければ人は何ごとをも為し得ないのであり、
『生命の實相』も、神が人を救いたまう道具として書かしめられたのであり、
その人の”真理を悟る力”も神が与えたもうたのである。

何処(どこ)にも人間だけの力で為し得るところのものは存在しないのである。

神の恩寵を自覚しない人のみが、
自力で何でも出来るなどと高慢な考えを起すのである。

高慢な心を起したところが、恰もパイプの中の沈殿物のように、
神の恩寵の流入を不完全にするのである。

高慢な心を捨てることである。

無我になって神に無条件降伏したときのみ、
神の恩寵は一層ハッキリあらわれるのである。

          <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

『生命の實相』大聖典物語 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 04:26:36


『生命の實相』大聖典を推める

         *「生長の家」(昭和11年6月号)より

既に皆様のお手許に到着したことと存じますが、数日前各誌友宛、
『生命の實相』大聖典の内容見本(兼、表紙画原色版見本、活字刷見本)を
一冊づつお送り致しました。

表紙は原色版ではまだまだ実物の純絹厚地緞子、、
古代紫の高雅重厚な厚味の感じが出ませんが、
実物は何と云う立派な聖雅な味を湛えていることでしょう。

兎も角お送り致しました大聖典見本を、もう一度御覧下さい。

これを見るだけで病が消え、運命が更まり、永遠に家宝として子々孫々に伝えて、
子孫が永遠に栄えると評されるのも無理からぬ超豪華の大聖典です。

無論小さな縮刷版でお読みになっただけで無数の病気が治ってはいますが、
この超豪華の大聖典でドッシリ落ち着いた文字を御覧になる感じは叉格別です。

それは恰も自宅の小さなお宮で神様を拝せられるよりも
本山の檜造りの大社殿で神様を拝せられる方が一層心が淨まる思いがする
のと同様でありましょう。

特にお目の薄い老人がおありでしたら一冊を予約して差し上げて下さい。
何よりも無二の孝養となります。

三界は唯心の所現であり、真理を悟れば神の供給は無限でありますから、
大聖典の為にお支払いになっただけは、必ずや更に幾層倍に増殖して、
誰方かの手を通じて循環して帰ってくるに違いありません。

生長の家の出せば出す程殖えると云う無限循環の経済学を今直ぐ御実行下さい。
遠隔の地もありましょうから、申し込み締め切りは、本誌到着後一週間以内の
郵便消印のものに限り受付けます。

尚、大聖典には谷口先生の肉筆の大聖典三倍大の揮毫がつくことを
お忘れにならないで下さい。

   (http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/165/ より転写)

             ・・・

『生命の實相』大聖典その後の事情

         *「生長の家」(昭和12年4月号)より

『生命の實相』大聖典は実物出来後、締め切り後の申込者多数にて
いづれもお断り申し上げたのでありました。

再販希望者が多数でありますが、

馬場前蔵相の経済政策以来の諸材料の急騰で、
現在再版すれば原価百円以上を要することになっていますので、
『生命の實相』縮刷大聖典の発行を思い立ちました。

それは目方が軽く、しかもどんなに薄くとも裏の文字が透いて見えない
最上薄葉(はくよう)のインデアン紙に、精巧写真転写刷りにて
大聖典の文字そのままを九ポイント活字(本誌の講話欄の活字)の
大きさに転写したのですから普通革(かわ)表紙聖典よりも文字大きくして
老人にも読み易(やす)くし、

大聖典の三千三百六十頁を総革表紙菊判豪華装幀(そうてい)、
一冊僅か二寸余の部の厚さ、目方約二・二五キログラムにまで縮小し得ましたので、

大聖典の床の間装飾用、又は大集会用に適するに対し、

この縮刷大聖典は机上装飾用又は書斎(しょさい)に置ける
常時の披見用(ひけんよう)として、いつでも既刊の『生命の實相』全巻を
一冊の形で手にとり得る極めて軽便至極(けいびんしごく)のものとなりました。

巻頭には木版転写の私の『生命の實相』の文字が題辞(だいじ)して載(の)せられます。
三千部限定で既に印刷中でありますので、増刷不可能でありますから、
今度こそ品切れにならぬうちに普及会へお申し置きください。

(「明窓浄机」草創篇・昭和五年~十二年 P.248より)

 (http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/299/ より転写)

             ・・・

         *Web:山ちゃん1952(2016年09月24日)より)

『生命の實相』大聖典物語(生長の家宮城教区の歩みより抜粋)

昭和10年の主婦の友の特集記事の反響         佐々木幸太郎編

『生命の實相』大聖典の発行は、昭和11年11月22日より発送開始だった。
手造りの部分が多く大量生産不能で、完成次第逐次発送することになった。

『生命の實相』の合本は大聖典発行前に過去に1回あります。
昭和7年1月1日に発行された本文サイズ縦15センチ、横10.5センチ1,077ページに
黒の山羊皮で装丁した豪華版だった。

内容は序篇、光明の眞理篇、生活篇「生長の家」の生き方などで、
受付には(非売品)(有縁の方に限り特に金4円にて頒布す)となっている。

(発刊50年記念版)として、
昭和57年5月1日に復刻版初版(特別頒価10,000円)が発行されている。

その頃の生長の家は、雅春先生始め信者は、この素晴らしい教えを広めようとする
気運が高まっていた頃に特筆すべき出来事があった。

昭和10年の主婦の友5月号で同社の記者が書いた生長の家の
「奇跡的精神療法の眞相を探るという14頁に亘る特集記事が掲載された。
それには「読むだけで、話しを聞くだけで難病が全治する」

「生命の実相とは何か」など反響が大きく、
発行所の光明思想普及会の前は長蛇の列をなした事は有名で、
さらに反響は、朝鮮、満州、台湾、支那からも注文が殺到している。


宮城県内にも反響の一端があった。県内の先導者で第一人者である仙台の蟻坂仲氏が、
主婦の友昭和10年5月号の広告を見て『生長の家』誌を求め、
それが県内伝道の先駆けとなった。

その頃台湾で行政の仕事をしていた石巻地区の和渕出身の千葉正志氏は
県内の地方講師第一号となった方であるが、蟻坂氏と同様『主婦の友』誌から
『生命の實相』を読み真理にふれ感動し、役所を辞職し郷里に帰り
「生長の家」の伝道をしたいという念にかられた県内先駆者の一人である。

県内のこうした背景のように全国的にも生長の家の説く真理は広まり、
万教帰一、心の法則など一般にわかり易い文書伝道が浸透していった。

当時の『生命の實相』の全集は12冊に分立していた。
これを一冊に纏めた大聖典を作り、礼拝帰一の中心標語になるようにと
信者の代表が、谷口雅春先生にご相談された結果実現することになった。

その青写真は豪華なもので次の様である。

一冊一冊谷口先生に上質の日本紙に題字を肉筆で墨色鮮やかに書いて頂く。
元帝展審査委員山根八春先生の典雅高尚なる図案をそのまま織物模様とした
極厚地別織太線絹布の表装三方金箔を用い、
同じく山根先生意匠の聖典台座を附けて、熱心な方々にのみ頒布することになった。

また、雅春先生の揮毫についてや大聖典の特長について等、次のように記されている。

「谷口先生に近来無数に揮毫をお求めになられる方がありますが、
多分本聖典の題字をお書きになるのに御多忙でありますので
谷口先生の御揮毫を頂きたい方は、この大聖典をお申し込み下さい。

先生の「書」を無代で頂いても、
立派な表装をすれば表装代だけでも三十円、五十円と要します。

しかもこの大聖典は先生の肉筆の「書」を扉として、
それを表装するに『生命の實相』全集の全文字無量三百九十四万文字の曼荼羅をもって
荘厳したものであります。

活字は12ポイント50字詰め18行3,360頁總振仮付、活字が大きいために
老人の眼にも適し縦1尺2分、横8寸、厚さ4寸6分余りの後世子孫に伝うべき
曠古の大聖典であります。

これは地方誌友会を催す際の中心台座に置かれると又大変結構です」

と結んでいる。


限定部数三千部以内

一般の書籍と違って、大聖典は谷口雅春先生の肉筆や揮童などや
山根先生の聖典宝蔵台座など手造りが多いなどから、次のように規定が発表された。


大聖典頒布者規定

一、教化団体「生長の家」本部に聖典結集費として一時に65円以上醵金したる者。

一、教化団体「生長の家」本部に聖典結集費として申込と同時に10円也を払い込み、
  以後、10円也づつ宛毎月6ケ月間に亘り合計70円也醵金したる者。

一、部数により、生産費の増減を来せども、醵金が生産費より多き時は
  その残額を教化団体の経費として使用す。  
         
一、谷口先生肉筆の題は次の文字の内より随時選擇
  天照大神、生命の實相、生長の家大神、神力無礙、南無阿弥陀仏、南無妙法華経

一、申込み期日 昭和11年5月末日迄(部数の大略必要なる故、なるべく早く申込みの事)。

一、申込部数 三千部以内。肉筆なる故、大量生産不能、申込み以上作らず。

一、発送期日 昭和11年11月22日より発送します。


この規定に付け加えて次の様に述べています。

元、帝展彫刻部審査員山根八春先生に聖画宝蔵凾兼台座の設計及び制作をお願い申した所、.
陶器七宝の生長の家紋章を鏤刻せる三度漆塗の壮麗典雅なるものを制作下さることになり、
一つ一つ精巧に制作する必要がありますので、大量生産の方法を用い得ず、
須要(ぜひとも必要)の部分はどうしても手工によらねばならないので、

一ケ月に二百箇以上は制作困難とのことでありますので、申込み順により、
制作のできる分だけ、一個づつ発送しなければなりませんから、
成るべく至急、挿入の振替用紙で御申込み下さい。

谷口先生の肉筆とは云え、山根先生の聖画宝蔵凾台座と云え大量生産品ではありませんから、
此の好機を逸したら何時得られるか判りません。

大聖典配慮増刷二百部(昭和11年9月1日発行の生長の家誌で次のような発表がありました)

「限定部数三千部以内でスタートした『生命の實相』
大聖典(12ポイント大活字全集12巻を一冊の霊光絢爛なる大冊に纏めたるもの)は
予約申込みを締め切った際に、都合があって申込みの遅れた人にお断りしなければならぬこと
を気の毒に思えまして二百部だけ余計に用意いたしておきました。

内百二十部は期日後到着の申込みに充当しました。
あと八十部だけ追加申込みに応ずることが出来ます」

大聖典は全部で三千二百部発行されることになります。

製本作業に手問どり発送大幅遅れる

『生命の實相』大聖典の発送期日の最初の献本が、昭和11年11月22日より発送
という予定でしたが、入念な手作業の工程などで予定の配本が大分遅れ、
昭和12年1月号の生長の家誌の「編集室だより」で次の釈明記事を出してあります。

『生命の實相』大聖典は製本所で余りに入念に作っているので一日の仕上げ数が
極々僅かであるので発送が遅れて申し訳がない。

しかし、遠地の方から順次に発送して、東京を除く各地方の方々には
本年末までに全部発送済みになる筈です。
東京付近の方々だけが最後に廻っています。
一月中には東京市内も発送を終わります。

尚一百部限り追加申込を受付、この分は二月末必ず配本します。
部数厳守、以後追加申込みに応じません。


宮城県五冊の『生命の實相』大聖典
昭和11年12年頃発行された大聖典は、全国で3200冊であるが、
現在までに宮城県内で確認出来たのは五冊である。
その所有者の記録をしておくこととする。

第一冊日は、蟻坂  仲 氏(明治14年10月21日~昭和44年4月、88歳)
住所 仙台市小田原金剛院町(現宮城野区)
氏所有の大聖典は、平成16年10月24日開催の「愛と祈りのシンフォニー」の
展示コーナーに出品され、信徒の皆さんに閲覧されています。
昭和31年3月二重光輪賞・宮城に最初の一灯を点じた人。


第二冊目は、菊地 雅子 氏(昭和11年5月15日生)
住所 石巻市塩富町2-5-5
氏所有の大聖典も。平成14年10月開催の、
「愛と祈りのシンフォニー」の「お宝展」に出品され、皆さんも観ておられます。

この大聖典の最初の所有者は、石巻市の、阿部純四郎氏とコンビで
生長の家で活躍されていた、長栄良一氏に譲られ、現在は長栄氏の娘さんの
菊地雅子氏に所有者が変わり、大事に保管されております。

 (→ 日時計ブログ 宮城(2014年3月29日)
    『生命の實相大聖典』寄贈される!
    http://www.sni-miyagi.or.jp/wp/?p=7382 )


第三冊日は、小笠原 寧氏(大正6年1月8日~平成19年2月28日逝去、91歳)
住所 石巻市穀町1-1-3
氏所有だった大聖典は現在教化部に寄贈されておりますが、
小笠原氏の手に入るまであるエピソードがありました。

平成5年頃、ある大阪の生長の家の家族がある事情で『生命の實相大聖典』を手離し事になって、
生長の家の本部に依頼があった。そこで石巻の小笠原氏に問い合わせがあった。
「百万円でどうか」と「百万円は無理だが五十万ならすぐにでも良い」と
回答されて忽ち商談は成立し、小笠原道場に収まることになった。


第四冊目は、大友 章義(末吉)氏(大正10年6月7日生、平成12年2月9日逝去)
宮城練成会の第一回目は、昭和20年7月でした。
その第一回目からの練成主任として大友氏が就任しています。
彼は又、古物商も営んでいる関係から『生命の実相大聖典』との出会いもあったのでしょう。
ただ彼が漏らしていたのは「漆塗りのケースが無いので作って貰わなくちゃ」と。


第五冊日の 白鳥 慶吉 氏(昭和7年8月30日生、平成19年5月1日逝去、76歳)
氏は大聖典の所有者ではないが、相愛会宮城教区大会(国際会館)に
親しい知人から借りて持参して来て、生長の家の信徒さんに見せたい一心からの事でした。
然し、それは時間的にも突然でしたので実現しませんでした。
そして白鳥氏の奥さんから聞いても、大聖典の持ち主が今だに不明です。

  (http://tecnopla1011.blog.jp/archives/66010121.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

『生命の實相』大聖典~その2 - 伝統

2016/09/28 (Wed) 04:42:06


             ・・・

動画:生命の實相 大聖典(生長の家 谷口雅春先生著)
   → https://www.youtube.com/watch?v=uXGI8xQ0Qdw

             ・・・

その豪華本の最後を飾る奥付に、
谷口雅春先生は次のように書かれているのである。


「真理が一つの経典にのみ書かれていると思うのは偏った考えである。
救いは或る特定の宗教でないと得られないと思うのも偏った考えである。

若し或る一定の宗教でないと救われないと云うのであれば、
其の宗教に属しない何億と云う人間を救う神が必ず出て来るだろう。

哲人は一本の草花にも真理を見出し、預言者は星の瞬きにも真理の黙示を聞く。
かく真理は草花や星の輝きにすら宿っているのに、
或る一つの聖典以外の経典には真理がないと云う筈はない。

“生長の家”はあらゆる宗教の真髄に、救いの原理を見出し、
諸宗を却って生き生きと生かすのである。」

          <感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>

Re: 生命の實相① - cogxygggdjMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:58

伝統板・第二
[url=http://www.go745713j1e48rp5wcu0cnf089r49zpjs.org/]ucogxygggdj[/url]
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cogxygggdj http://www.go745713j1e48rp5wcu0cnf089r49zpjs.org/

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