伝統板・第二

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神癒① - 伝統

2015/04/06 (Mon) 06:41:47

*光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」からの継続です。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42

・・・

《神癒のための祈りの言葉》

          *童子さまのブログより


 神よ、わが神よ、われを生み給ひ、すべてのものを創造りたまひし、御親なる神よ。
 われを無くならせしめ給ひて、神のみとならしめたまえ。

 あなたの思ひを私の思いひとならしめ給ひ、あなたの智慧を私の智慧とならしめ給ひ、
 あなたの愛を私の愛とならしめ給ひ、あなたの行ひを私の行ひとならしめたまえ。

 もし今まで過ちて、あなたの御心にかなはざる思ひを起し、あなたの御心にかなはざ
 る行ひをしておりましたならば、それを赦したまへ。

 愈愈深く導きて、われを誘惑にあはせたまふことなかれ。

 私の愛が自我愛でなく、執着の愛でなく、本当に公けなる愛となることが出来ますよ
 うに、あなたの大いなる公けなる愛をわれに流れ入らしめた給ひてすべての人間の悩
 みを救ふことを得せしめ給へ。

      (右の祈りの言葉を念じたる後、次の如くメディケーションを行うふのである)

 今、神の玉座よりいと清きいと清き神の愛われに流れ入るのである。

      (その光明燦然たる霊光の流れが、天空の神の玉座より現實に滔々と流れ下り
      わが全身に流れ入り、全身ただ神の愛に満たされてゐる有様を如実に心に
      描きてそれを見詰めるつもりで観想する)

 われは神の愛に満たされて今光明燦然と輝いてゐるのである。 
 わが全身より放つ霊光は神の愛であって無限に広くひろがりて虚空に満ちわたる
 のである。
 
     (わが全身の愛の霊光ひかりて虚空に満つる状態を観想する)

 わが愛の霊光虚空に満ちわたって世界の生きとし生ける者を、すべての人類を愛
 の霊光で包むのである。

 わが愛の霊光は病める人の悩みを包んでこれを健やかならしめ、苦しめる人の悩
 みをつつんで苦しみを和らげ、悲しめる人の悩みを包んで、その悲しみを和らげ、
 貧しき人の迷いを消して、富める實相をあらはさしめるのである。

 吾は今全人類を愛する。 吾みずから愛するに非ず。

 神の愛を受けて、神が吾を媒介として全人類を祝福したまふのである。

 すべての人類よ平安であれ。
 健やかであれ、幸福であれ、豊であれ、
 これはわが思念する言葉に非ず、神がわれにやどりたまうて、全人類を祝福したま
 ふのである。

 自分は今、全人類と完全に和解してゐる。
 ありがとうございます。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17791707.html

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065 >

(2)光明掲示板・第三「神癒」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243


             <感謝合掌 平成27年4月6日 頓首再拝>

神愈のための祈りの言葉~その2 - 伝統

2015/04/16 (Thu) 04:30:22

(神愈のための祈りの言葉)

             *童子さまのブログより

(かつて『生長の家』本部で、特定の人を癒さんがために念じていた思念の言葉です)

神よ、すべてを善につくりたまいし神よ。

すべての生きとし生けるものを創造りたまい、すべてのありとしあらゆるものを
創造りたまい、そのすべてを『善し』と観たまいし全智にして全能なる御親なる神よ。

○○○○(姓名/kazさん、エバリンさん)の病を癒し給え。

あなたの造りたまいし世界に病は本来存在せざることを實語せしめ給え。
彼の心の中にある病ありとの迷いを取り去りたまえ。

          (この祈りの後次の如く光明思念する)

神の癒す力、われに流れ入りたまいて、今、即刻汝を癒すのである。
われが癒すのではない。わが内に宿るところの神が癒すのである。
神が癒したまうのであるから間違いなく癒るのである。

われはただ媒体である。
神の愛と癒しの放送室に過ぎないのである。
神がこの放送室に入りたまい、今や、癒しの霊波を放送していられるのである。
だから、この雰囲気に近ずく者は悉く癒されるのである。

神の愛と癒しの力とによって、癒されないところの、どんな病気も存在しないである。
病は、神の創造の世界には、存在しないのである。
無いものは無いのである。 それは消えるほかはないのである。

それは自分が定言するのではないのである。
自分に宿る神がかく定言したまうのである。

人間は神の生命である。 
だから病気になりようがないのである。

今、神の愛われに流れ入り給いて、霊光燦然としてすべての人類を照らし給う。
この光を受くるものはすべて救われ、すべて癒されるのである。

○○○○(姓名/kazさん、エバリンさん)よ、

今、汝は神の愛の霊光につつまれ、神の愛に同化せられ、悉く迷いが消え、
悩みが消え、家庭の不調和は解消し、あらゆる人と人の争いが解消し、
汝の周囲にはそのままそこに神の国の愛の世界が実現していることを自分は観るのである。

既に病気も、心の悩みも存在しないのである。
    

    (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17806573.html


             <感謝合掌 平成27年4月16日 頓首再拝>

神癒を授かるために - 伝統

2015/04/22 (Wed) 04:49:12


             *”童子 さま”のブログより


我々は信仰と希望と祈りによって引き出すことの出来る無限力を
自分の内に蓄えているのであります。
    
体力というものは〃心の中の勇気の一形態〃であり、
勇気は〃信仰の一形態〃なのです。

「出来ると心に考える者に出来るのである」
「信ずる者にとりては全てのことが可能である」といいます。

〃生命〃は使えば無くなるというものではなく、
使い尽くしてしまうということは決してありません。
    

米国の光明思想団体に
『レリジャス・サイエンス Religious Sciennce』がありますが
宗教の真理を独特な『詩』にて わかりやすく説いているのです

聖書にある言葉・・・ 
   
 『エホバを待ち望む者は新たな力を得ん。また鷲の如く翼をはりてのぼらん』
                      
                        (イザヤ書第10章31節)



F・L・ホルムス博士は
『神癒を授かるための詩(Healing Treatments in Verse)』の中で


   神を信ずる者は己が力を新たにならしめる、
   彼らは鷲の如く翼をはりて登り行き、
   走れども疲れを知らず、
   歩めども倦むことを知らず、
   彼無尽の泉より出づる命の水にて渇きを癒し、
   日毎日毎に真理の力を手に執りて歩む。

   彼らは迷妄の批判を毅然として退け
   さらに内在無限の生命の流れを瞑想し、
   その瞑想を繰返して止まず、
   〃われは生命であり、生命は苦痛を知らず、
   而して苦痛は五官の幻である〃と念ずる。

   われは内に宿る内在のキリストの血によって
   癒されているのである。

   わが信仰は不動であり、鞏固である。



『生長の家』創始者 谷口雅春師は さらに解り易く

  《神はわが生命であり、神は今既にわが生命なのである》

   あなたの肉体のあらゆる腺と諸々の器官は
   更にあなたの神経と筋肉は
   必ずこの真理の言葉に反応を示すのである。
   あなたは所謂〃元気挽回〃し
   人生のレースを迅速なる大股にて走ることができるのである。と

     (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17835256.html

             <感謝合掌 平成27年4月22日 頓首再拝>

神癒祈願部で活躍する高級霊 - 伝統

2015/04/28 (Tue) 03:29:26


           *『光の泉』誌(昭和38年4月号)より

肉体を構成している物質は最初は精神という動力によって一定の方向に動いて、
肉体を健康にしたり、病気にしたりしていますが、
その病気にしていた精神 〈心の持方〉 を抜いてしまっても、
その後、ある期間は惰力でやはり同じ方向に働いているのです。

それだから吾々の内蔵に行われている病的傾向も、最初は自分の心の憎しみや怒りが
動力になって生じたものであっても、その後、憎しみや怒りを棄てても、
惰力が働いて居るから、一遍には良くなる方向には向わないことがあります。

その場合、人間だけの反省や努力によって、簡単に自分の家庭が良くなった
というだけでは、治らん時があるのでありまして、それを治すには、
神からの癒しの霊波を直接受け、神様からつかわされたところの高級霊に
援けて貰うことが必要なのであります。

その為に 聖経『甘露の法雨』 の読誦をお勧めしているのであります。 

『甘露の法雨』 を読誦しますと、『甘露の法雨』 の言葉のリズムに乗って、
生長の家の人類光明化運動に携わって居られる所の観世音菩薩をはじめ、
霊界の諸々の天使・高級霊たちのうちに病気治しに特に優れていられる霊がやって来て、
他力的に癒してくれることになるのです。

 
霊界の諸霊のうちには天分に従って色々の働きをしているのがあるのです。 

皆さんは私の訳した 『霊界の妻は語る』(※1) という本をお読みになった
と思いますが、あの中に 「霊界に逝った自分の妻」 が、今は病気治しに
非常に興味を持っている高級霊の 「ランニング・ウォター」 〈流れる水〉 
と自称せる高級霊が、しきりに病気治しに懸命になっている。

霊媒的な霊的能力をもった人間が患者に思念したり、触手したりして治すようですけれども、
実は、その人間は一つのラジオ・セットのアンテナ的な媒介になっているのであって、
そこに実際、神癒力となって働いているのは高級霊の中の病気治しに非常に優れたる霊魂が
来ているのであります。

そのような高級霊は一つの目的をもっている。 

即ちこの人を治したならばこの人は将来人類光明化運動の為に、
働きになる人だから治さねばいかんというわけで、吾々の本部の講師とか地方講師とか、
神癒祈願部の職員とかを仲立ちとして霊界から派遣された高級霊が治すわけであります。


高級霊の上には宇宙普遍の霊があります。 
即ち 「宇宙を貫く法則、真理、光明、智慧、絶対の愛」 と 『聖経』 に
示されているところの宇宙本源の神様の御心の人格的顕現としてのミカエル大天使、
或は観世音菩薩、或は住吉大神と称せられる方を総帥として、その下に無数の霊 
〈英語ではスピリット〉 が配属されて居るのです。 

その中には色々の役目があり、教をするのが上手な霊もあれば、
病気を治すのが上手な霊もいるし、色々の天分ある高級霊があるのであります。

それらの高級霊のうち特に優れたる病気治しの力を持っている霊魂が、
神癒祈願部に於ける先生がたや講師のうち、特に治病に興味をもつ講師を助けて
病気を治しているわけなんです。

それによって肝臓癌でも、膵臓癌でも、もう医者が駄目だと言って試みに開腹してみたが
手術の仕様がないので、そのまま縫い合わしてしまったような重症の患者も癒されたと
言って、講習会の席上その奇蹟の体験をお話しになる方も現れて来るわけであります。


こんな奇蹟があらわれるのは、霊というものは物質を超えた存在であるからであります。 

例えば幽霊というような 「迷っている霊」 でさえも、幽霊を恐ろしがって、
部屋にとじ籠って、ネジ釘で一所懸命に鍵をかけ、その上、蚊帳を釣ってその中に
隠れて居ても、その蚊帳の中へでも、ドロドロと入って来ることができるのですから、
高級霊は肺臓の中へでも膵臓の中へでも這入ってそこを修繕することができるのです。

霊というのは、三次元の縦・横・厚みの隔壁(しきり)以上の世界に住んで居りますから、
物質的な縦・横・厚みのひろがりの世界に入口がなくとも、肺臓の中でも膵臓の中でも
腸の中でも自由に入って来て、そこを治してくれるということになって居るのであります。

まあそういうわけで、あの時の福岡の講習会では肝臓癌、膵臓癌というような
絶対に治らんものが治ったという素晴しい体験の発表者が出たわけであります。 

又、渡辺さんという方は坐骨神経痛が治ったという体験を発表されましたが、
これは生長の家本部の神癒祈願部に申し込んだら治ったという話でありました。


◆神癒祈願部ではこうして祈る

神癒祈願部では、どのようにして病気の治癒を祈るかといいますと、
先ず “人型” にその人の住所姓名と病名を書き、神癒係の職員がそれを
掌の中に挿んで合掌し、その人と一体感になります。 

そして神想観をその人に対して20分間厳修するのであります。 
そしてその神想観中に本来病気‘なき’ところの“神の子”の姿をジィーッと
念ずるのであります。 

その念ずる言葉を本部では、 
『神癒への道』(※2) に示されているように念じているのであります。


あの本には病気を治す時にはこのように念じなさいということが詳しく
書かれておりますから、皆さんも、そのようにおやりになりますと病気が治るので
ありますが、

「自分の念力」 だけに頼っておりますと、過去の 「迷いの念」 の惰力に 
「自分の念力」 だけでは打勝てないことがありますので、必ず 招神歌 を唱えて
神霊の降臨をお願いして神想観をせられることが必要であります。


生長の家本部では 服部仁郎先生 を神癒祈願部の部長として、
その下に 西岡茂泰先生、井上如水先生 など、
真剣に人類愛に燃えた人々が祈っています。

服部先生が病気中に服部先生に手紙を書くだけで治った人もある。 
これで人間自身が治すのではない、神 〈高級霊を含む〉 が治すのだということが判る。 

またあの井上如水先生は真心の人で、信心強く朝から晩までズーッと祈って居られる。 
生長の家では断食水行のような苦行はいらぬという事になっているのに、
井上先生は人類愛が深い為に、体を清めて、神癒の媒介に純粋になれるようにと、
3週間も断食水行せられたということもききました。


このような神剣な祈りというものが一つの媒介になりまして、
そして祈願に従って適当な霊がつかわされるわけです。 

そして病的精神波動によって色々の病気が起っているのを、
その病的な波を破砕するということになるのであります。

そういうように病気が、忽然と神癒祈願によって治るというような奇蹟が
出て来るのは高級霊の加護が加わるからであります。

        ‐‐‐‐‐‐‐‐

(※1)『霊界の妻は語る』 
     R・M レスター 著   谷口雅春先生 訳
         日本教文社  昭和32年 初版 

(※2)『神癒への道』  谷口雅春先生 著
         日本教文社  昭和24年 初版 

 (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/b219f02db36d8908f720c45d9e0fabd2

             <感謝合掌 平成27年4月28日 頓首再拝>

今日の祈りの言葉  - 伝統

2015/05/03 (Sun) 04:30:08


          *”童子 さま”のブログより
 
神の癒す力、われにながれ入りたまひて、今、即刻汝を癒すのである。

われらが癒すのではない。
わが内に宿る神が癒すのである。
神が癒したまふのであるから間違ひなく癒るのである。

われはただ媒体である。
神の愛と癒しの放送室に過ぎないのである。
神がこの放送室に入り給ひ、今や癒しの霊波を放送してゐられるのである。

だから、この雰囲気に近づく者は悉く癒されるのである。

神の愛と癒しの力とによって、癒されないところの、
どんな病気も存在しないのである。

病は、神の創造の世界には、存在しないのである。
無いものは無いのである。
それは消えるほかはないのである。

それは自分が定言するのではないのである。
自分に宿る神がかく定言し給ふのである。

                   『聖光録』
       (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17593560.html

             <感謝合掌 平成27年5月3日 頓首再拝>

病いなきことを自証すべし - 伝統

2015/05/10 (Sun) 04:59:00


              *『静思集』(P131)より

(病人のために ―― )

なんじ病い無くして病むなり。
なんじ現象なくして病むなり。

なんじは生き通しなり。
死せざるものなり。
不滅なるものなり。

なんじ肉体なくして、肉体病むなり、生き通しなり。

今起(た)つべし。
起ちて病いなきことを自証すべし。

             <感謝合掌 平成27年5月10日 頓首再拝>

無我本然の状態に還れ - 伝統

2015/05/16 (Sat) 04:53:30


         *「生命の實相」第2巻實相篇(P62~64)より

で、われわれが身体のどこかが健康でない状態になつたとしますと、
その時にぜひなさねばならぬことは、心を肉体のどこにも滞らせず、
身体のどこからも心を放ち去って、無我本然(むがほんねん)の状態に
還ることであります。

われわれの本然の生命(せいめい)の相(すがた)は無我でありまして、
形によってここからここまでが自分だというような、
そんな限られた窮屈なものではありません。

それだのに身体という有限のものを描いてそれに「心」を滞らせて
病気になったのでありますから、「その限られたわれ」の感じを放下し去って、
大生命―大無我に帰一しなければならないのであります。

大生命―大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りますと、
忽然(こつねん)として無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て
病気がなおるのであります。

日本古来の「鎮魂(たましずめ)」の術と申しますのも、
「肉体の感覚を蕩尽(とうじん)してひたすら天之御中主神と一体になる」
のが本義でありますが、仏教の禅定(ぜんじょう)でも同じことであって、
自己の本然の「無我」を体証することであります。

キリスト教の祈りと申しますのでも必ずしも
「神様、どうぞこの事をわがために成就したまえ」と一つのことに執着して
それを頼み込むことばかりではないのであります。

本当の祈りは「無我」になって神に抱かれて神とひとつになることであります。
賀川豊彦(かがわとよひこ)氏も昭和六年1月中の大阪毎日新聞に
「神の乳房」と題して次のようなことを書いていられます。

深き体験のお言葉だと思いますので次に引用させていただきます。

   「年久しく私は、神との対坐を祈りのうちにつづけてきたが、四十を越えて今日、
   端坐(たんざ)して祈るときの嬉しさと、平安と、休息をこよなくよろこんでいる。

   これまで、祈りをすることが何か特殊な変態の世界にはいって行くように
   思われていたが、このごろになっては、睡眠と同様に一つの本能であることに
   気づかれてきた。綿(わた)のように疲れたか体を床柱に凭(もた)らせ、

   しわがれた血の出る喉の呼気(いき)をしずめ、しずかに神にすべてを
   うち任せてせて孤坐(こざ)すれば、醒(さ)めたる霊に、睡眠以上の安息が
   与えられる。

   邪気は逃げ去り、神秘の霊域は眉聞(みけん)にせまり、火気なき
   トタン屋根の下にも、春陽の暖かさが通うてくる。

   求むるでなもく、せがむのでもなく、母の二つの乳房の間に、
   小さい顔をねじこんでいる赤ん坊のように、ただ神の乳房を両手に握り、
   静かに静座すると地震も地辷(じすべ)りも暴風も、洪水も、災厄も、
   疾病もこわいものではなくなってしまう。

   わたしはもうすでに、無窮の愛に吸い込まれ、すべての不浄を忘れて
   神の懐(ふところ)に帰ったものである。壁も・トタンも火鉢の灰も、
   それらは神の乳房の毛孔のように考えられる。

   神の乳房に吸い付く事を知ったわたしには、徹夜の労作も、
   神の与え給う睡眠に均しい。

   ただ祈りはつづく、祈りはつづく。わたしの生命の祈りはつづく。
   神の乳房に吸い着いたわたしは、両眼をうち開いて、眠りより
   なお安らかな安息を味わう。」

             <感謝合掌 平成27年5月16日 頓首再拝>

神癒 - 伝統

2015/05/22 (Fri) 03:56:57


           *『静思集』 より


 神の癒す力、われにながれ入りたまひて、今、即刻汝を癒すのである。

 われが癒すのではない。 わが内に宿るところの神が癒すのである。

 神が癒したまふのであるから間違ひなく癒るのである。

 われはただ媒体である。 神の愛と癒しの放送室に過ぎないのである。

 神がこの放送室に入り給ひ、今や、癒しの霊波を放送してゐられるのである。

 だから、この雰囲気に近づく者は悉く癒されるのである。

 神の愛と癒しの力とによって、癒されないところの、どんな病気も存在しないのである。

 病は、神の創造の世界には、存在しないのである。 無いものはないのである。 

 それは消えるほかはないのである。 それは自分が定言するのではないのである。

 自分に宿る神がかく定言したまふのである。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17807457.html

             <感謝合掌 平成27年5月22日 頓首再拝>

生命の本質は無限に生きる力 - 伝統

2015/05/28 (Thu) 04:53:20


         *『生命の實相』第2巻實相篇下(P29~31)より抜粋

(1)人間の本体は、調節力の無限に自由自在な生命であることを
   根本的に自覚しなければなりません。

(2)元来、われわれの「生命」(生きる力)は神から受けたものであります。

   そして、われわれの「生命」は常に神とつながっているのでありまして、
   その神なるものは無限の生命力であると同時に、無限の知恵であり、
   また同時に無限の愛でありますから、常にわれわれを愛してわれわれよりも
   賢き知恵をもって、必要に応じて善きようにお計らいがあるのであります。

(3)肉体というものは決して物理的法則に支配されるものではなく、
   心の法則にこそ支配されるものである。

   信念を変えれば、肉体が変わる。
   信念で「善い」と信ずれば、物理的には害のあるような行為も
   かえって健康によい結果になるのであります。

   それではわれわれは、「こうしたらば健康に悪い」とか「よい」とかいう
   判断を物理的にはしないようにし、

   心の力によって、いっさいを「健康に善い」と信じ、
   信念の力によって実際そうならせようではありませんか。

(4)ただ『生命の實相』や『生長の家』誌を読むだけで肉体の健康状態が一変し
   不治の病も全快する実証が続々あらわれるゆえんも、真理を書いた本を読めば
   皆さまの信念が変わるからであります。

(5)病気の読者はできるならば本書を三度でも五度でも、
   信念が心の底から大いに変化してくるまで繰り返しお読みになれば、

   今までの「病的信念の影」であるところの肉体の病的状態は一変して
   健康状態に化するのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月28日 頓首再拝>

《自然療能力を呼び出すには》 - 伝統

2015/06/08 (Mon) 04:25:10


            *『 生長の家 』(昭和26年5月29日の法語)より

   吾々の肉体の内には無限の自然療能力が宿っているのである。
   その自然療能力こそ、心臓も肺臓も胃袋もなき一個の卵細胞からこの無限に複雑なる
   内臓諸機関を作り出したところの不可思議力なのである。

   この不可思議力の活動を喚(よ)び覚ますことに成功するならば、
   如何なる病いも癒(い)えないと云うことはないのである。

   想念は不可思議力を自分の欲する形にまで誘導するところの力である。

   この不可思議力を「療能力」として想念し、その方へ想念を集中するならば、
   その不可思議力は癒やす力として直(ただ)ちに働き来(きた)るのである。

   病気の時には、却って病気を思わず、

   「 神の生命流れ入りて今、癒やし給(たま)いつつある 」

   と思念すべきである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

             <感謝合掌 平成27年6月8日 頓首再拝>

個人的意識を空っぽにする - 伝統

2015/06/15 (Mon) 03:30:38


          *「神癒の原理―ヒマラヤ大師の教え」より

(1)あなたの心(マインド)と胸(ハート)とを空っぽにすることである。

   必要なのは、真理と愛とが顕現しうるように、
   心(マインド)と胸内(ハート)とを自由であるように保つことである。

   自分自身を諸々の観念や渇欲、模倣や制限から解放したときに、
   真理と愛とは現成する。
   生命が自由となり、無為自然にそれ自身を開顕する。(P46)


(2)『心を鎮め、完全なる想いを内なる神によって生み出させよ。
   小我の心を鎮めよ。』(P56)


(3)『神の非人格的意識をあなたの個人的意識に浸透させるがよい。
   そうすれば諸々の制約は自ずからにして消える。』(P66)

             <感謝合掌 平成27年6月15日 頓首再拝>

調和した本来の相(すがた)を現わすには - 伝統

2015/06/24 (Wed) 03:12:20


              *『生命の實相』第2巻實相篇下(P33~34)より

われわれの生命というものは焦ったり力んだりしなければ、
調節が完全にできないようなそんな不完全なものではない。

われわれの生命は「神の子」であるからそんなに不調和にはできていない。
ただこの真理がわれわれの心の底に「信念」になってさえおれば、
その「信念の影」として肉体が調和した完全な調節したものとならねばならぬはずであります。

われわれが焦(あせ)ったり力んだりするのは、まだ自分の「生命」(生きる力)が
神の生命の「分け生命(いのち)」であって、神そのもののごとくに完全である
という真理(ほんとのこと)を知らないからであります。

焦ることも力むことも何もいらない、肉体は観念的存在(こころのかげ)でありますから、
心が正しき真理を知っておちついていると肉体はなんの感じもない、
「影」に感じがないのは当然のことだからであります。

だから肉体はどこに胃があるか、心臓があるか、肺臓があるか、
感じがない時に一等健康なのであります。

神想観でも坐禅でも鎮魂でもするとその深い境地に入れば
肉体があるかないかわからなくなる、これが本来の面目なのであります。
 
「生命」は全体として調和した渾一体(ひとつ)でありますから、
「生命(せいめい)の実相(ほんとのすがた)」を自覚したならば、
肉体は渾然とした「一つ」として感じられるのが当然で、

「ここに肺臓がある」とか「ここに胃がある」とか「ここに心臓がある」とか
個々別々にその存在が感じられる時は、「生命」の渾然とした統一感 ――
「真理の自覚」が心に失われた時で、

真理を心に自覚し、自己生命の完全な統一感が得られれば、
どこに胃があるとか、心臓があるとかいう「統一自覚の分裂」が消えて、
肉体は渾然とした調和した生きもの(生々の実在)として感じられて来るのであります。


             <感謝合掌 平成27年6月24日 頓首再拝>

《実相を諦観せよ!》 - 伝統

2015/07/02 (Thu) 03:38:15


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(P174~176)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、未だかつて憤ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、本来円満完全なる仏身なり」
                               (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。


             <感謝合掌 平成27年7月2日 頓首再拝>

《神癒の根源をつかめよ》 - 伝統

2015/07/10 (Fri) 03:28:30


             *『 生長の家 』(昭和26年6月22日)の法語

   すべての癒(い)ゆる第一歩は、
   神は到る処に満ちている云う根本原理を知ることにある。

   その次には 神は善であって、神のいます処に
   如何なる悪も存在しないと知ることである。

   神は善であっても、力が足りなければ
   其の善を実現することが出来ないが、
   神は全能であるのである。

   「 神に於いては何事も不可能ではない。
   その神は吾が内にましまして吾を癒し給いつつあるのである 」

   と となえながら眠ってしまうことは、眠っている間に
   内なる真の癒力(いやすちから)を発揮する方法である。

   色々、罪や過ちの観念で悩んでいる人は、

   「 神はわれを赦したまいて 愛の慈手(みて)をもて抱き給う。
   吾は既に癒されたり 」

   と念じながら眠るのも好(よ)い。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

             <感謝合掌 平成27年7月10日 頓首再拝>

治病霊力の根源 - 伝統

2015/08/09 (Sun) 03:17:20


        *「真理」第9巻生活篇(P140~141)より

他人を祝福しましょう、あなたは他より祝福されます。

私達は時々他の人が自分に冷淡であったり、利己主義であったり、
過ちを起こしたりするのを見て、腹が立ったり、嫌気がさしたりして
祝福することを忘れがちです。

そのために私達は神から放送される祝福の霊を受けえない心の波長になるのです。

神は我が家の「戸の外に立ちて」祝福の扉を叩き給えども、
自分自体がその絶縁体で扉を閉ざしてしまうのです。

祝福するとは、讃美し感謝し、相手の幸福を祈ることです。

キリストの治病伝道の歴史を見ますと、
彼は先ず神を讃美し、つぎに感謝しそしてその人の幸福を祈っているのです。
この3つを忘れてはなりません。

「自分の霊力で病気を治す」などと考えてはなりません。

イエスの驚くべき治病力は
「われ自らにては為し得ず、天の父われに在して御業をなさしめ給う。」と
神を讃美している処に根源があるのです。


             <感謝合掌 平成27年8月9日 頓首再拝>

善き言葉の力で、無限の生命力を働き出させる - 伝統

2015/08/16 (Sun) 03:53:56


          *『生命の實相』實相篇下(P17)より

医者にかかれ、物質的薬剤をのめ、光線療法をせよ、滋養物をとれ」などと、
八方から暗示してもらって、人間自体の内に宿っている無限の「生命力」「治癒力」「精神力」を、
なんでもない病気や、薬などよりも弱いものであると信ぜしめられているのであります。

だからわれわれは無限に治す力をもっていながら、小さな病気一つが治らない。
それは小石の目方に比べれば無限大ほどの腕力をもっている人間でも、
暗示の力でその小石を持ち上げえないと同じであります。

 
この「なんじは弱いぞ」という暗示の力を、善き言葉の力によって消滅させてしまい、
人間自身の本体が「完全な、無限の生命力」であるという真理を自覚さすようにしますと、
もともと外から与えられたのでもなく自分のうちに宿っていた無限の生命力が働き出して来て、

「なんだ、いままで持ちあがらないと思ったのは、こんな小石であったのか!」と
自分自身の病気をなんの雑作もなしに小石のように捨て去ることができるのであります。

             <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

愛は癒す力 - 伝統

2015/08/27 (Thu) 04:49:34

          *「生命の實相」第24巻参考篇(P28~31)より

愛は癒す ―― 聖書はなにごとよりもこの事実を一等力説しているのである。
子供の恐怖をしずめ、すべての小さな傷や病気をたちまち癒してしまう母の愛に
われらは今もその小さき実例を見ないであろうか。

小児がころんで打ったといっては母の手でさすってもらい、何か恐ろしいものが
あるといっては母の腕の中に駆けこんで来るのは当然なことである!

 
もし小児に母の愛が癒す力をもっているならば少しも私心のない神の愛に
無限の癒す力があるのは当然である。

聖書は「完全な愛」が恐怖を掃滅することをわれらに確説しているではないか。
そして恐怖の去るときわれわれの生理的不調和と病気との最大根源の一つは去るのだ。


人類最大の敵なる恐怖心に苦しむ人にとって、
「詩篇」第九十一篇の研究とその実生活上の応用にまさる良薬はないのである。

この大詩篇の冒頭 ――
 
至上者(いとたかきもの)のもとなる隠れたるところにすまうその人は全能者の蔭にやどらん。
という言葉ほどわれらにとって力強いものはないのである。

至上者すなわち神を信じ神の愛に抱かれるものは全能力者に護られているのである。
そこにはもうなんの恐怖も心配もない。
そこには憂鬱も躊躇もない。

あらゆる恐怖も心配も憂鬱も躊躇も、この「詩篇」を正しく理解し正しく
実生活に生かせば癒されてしまうのである。 

失望落胆の深淵に沈んでいる人もこの真理をさとるならばいかに力強いことであろう。
「全能力者の御手にいだかれている」ほどに頼り甲斐あることがほかにあろうか。


神 ―― あらゆる善 ―― に抱かれている人々、
神の愛に護られている人々は何物をも恐れない。

悲しみも心配もない。
なぜなら全智全能の力と無限の知恵にまもられていることを常に如実に感じているからだ。

          ・・・

<参考>

詩篇 91篇

(1)いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。

(2)私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。

(3)主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。

(4)主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。
   主の真実は、大楯であり、とりでである。

(5)あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

(6)また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

(7)千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、
   それはあなたには、近づかない。

(8)あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。

(9)それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

(10)わざわいは、あなたにふりかからず、なやみも、あなたの天幕に近づかない。

(11)まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、
   あなたを守るようにされる。

(12)彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

(13)あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

(14)彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。
   彼がわたしの名を知っているからだ。わたしは彼を高く上げよう。

(15)彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。
   わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

(16)わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

          ・・・

かくしてわれらがあらゆる善きものの根源の泉と結びついているという信念にて全心全霊を
浸すとき、またわれらが健康とは外にある物をもってきてわれらに蔽(おお)い着せねば
ならぬようなものではなく、われらが健康そのものであるということを自覚するとき、

また、われらの「調和」とは、かなたこなたに落ち散っている外物(がいぶつ)をあつめ
合わせて得(う)るようなものではなく、われら自身がそのままで「調和」ある生命(せいめい)
そのものであることを自覚するとき、

またわれらが真理そのもの、生命(せいめい)原理そのものであるということを自覚するとき、
この時われらは真に完全に生活しはじめるのである。


およそ人間はその本質の底深きところにあらゆる病を癒すところの不思議な力を備えている
ということを知っているのだ。ただこの力を発現させだけの強き信念がないのにすぎない。

すべての人間は自己にやどる聖なる《あるもの》―― 肉に属しないところの《あるもの》、
肉の背後にあって絶えずわれわれを愛してくれるところのあるものを感じている ――
この力をわれらがうすうす本能的に知っているのは、われらが神の子であり生命(せいめい)
の子であるからなのだ。

われらの人間生活の一大目標は、このすべてを生かしすべてを若返らすところの
「生命(せいめい)の火」を自己のうちに発見し、これら日常生活を生かすように
自己を訓練するにあるのだ。

             <感謝合掌 平成27年8月27日 頓首再拝>

光明思念 - 伝統

2015/09/08 (Tue) 04:03:17


         *「聖光録」<四月の吾が祈り>より

神よ、すべてを善につくりたまいし神よ。
すべての生きとし生けるものを創造りたまい、すべてのありとしあらゆるものを創造りたまい、
そのすべてを「善し」と観たまいし全智にして全能なる御親なる神よ。

☆☆☆☆(姓名を念ずる)の病を癒し給え。
あなたの造りたまいし世界に病は本来存在せざることを実現せしめ給え。
彼の心の中にある病ありとの迷を取り去りたまえ。

(この祈りの後に次の如く光明思念<メディテーション>をする)

神の癒す力、われにながれ入りたまいて、今、即刻汝を癒すのである。
われが癒すのではない。わが内に宿るところの神が癒すのである。
神が癒したまうのであるから間違いなく癒るのである。

われはただ媒体である。神の愛と癒しの放送室に過ぎないのである。
神がこの放送室に入り給い、今や、癒しの霊波を放送していられるのである。
だから、この雰囲気に近づく者は悉く癒されるのである。

神の愛と癒しの力とによって、癒されないところの、どんな病気も存在しないのである。
病は、神の創造の世界には、存在しないのである。無いものは無いのである。
それは消えるほかはないのである。

それは自分が定言するのではないのである。
自分に宿る神がかく定言したまうのである。

人間は神の生命である。
だから病気になりようがないのである。

今、神の愛われに流れ入り給いて、霊光燦然としてすべての人類を照らし給う。
この光を受くるものはすべて救われ、すべて癒されるのである。

☆☆☆☆よ。今、汝は神の愛の霊光につつまれ、神の愛に同化せられ、悉く迷いが消え、
悩みが消え、家庭の不調和は解消し、あらゆる人と人との争いが解消し、汝の周囲には
其の儘そこに神の国の愛の世界が実現していることを自分は観るのである。

既に病気も、心の悩みも存在しないのである。

           <感謝合掌 平成27年9月8日 頓首再拝>

自分自身の生きる力が最上の名医 - 伝統

2015/09/17 (Thu) 05:02:13


          *「生命の實相」第2巻實相篇下(P87~88)より

何をしても神の聖意(みこころ)が自分を通して働いてくださる
―― このことが祈りによって、自分の心の内に確立して来ますならば、
われわれは自由な無恐怖な状態になれるのであります。

神に導かれて立つ腹ならば腹を立ててもそれがかえって人の救いになる。
それと同じように、神に導かれて出る熱ならば、熱が出てもそれがかえって病気の救いになる。

咳が出てもよいし、下痢をしてもよいし、患部が痛んでもよいし、
そのほかどんな容体が出て来ても恐れることはないのであります。
熱は徽菌(ばいきん)という「迷い」を消滅さすために起こる。

咳は徽菌の死体や不潔物を吐き出すために出る、下痢は今まで全身の細胞を中毒さし
弱らしていた毒素を瀉出(しゃしつ)するために起こる、痛みはその刺激によって
病患部の治癒(ちゆ)に必要な血液を集中さすために起こる

―― こういうふうに今まで、病気の徴候だと思って怖(お)じ恐れていたものが、
実は病気の徴候ではなく、隠れていた病気の原因をいったん形に現わして外に
浮かび上がらせた上でさらにそれを消滅さすための徴候だということがわかって来る。

こうなると、熱はけっこう、咳はけっこう、下痢はけっこう、疼痛はけっこう
―― そのたびごとに自分はいっそう今までよりも健康になりつつあるということが
わかって来るのであります

―― すると熱があっても熱さましはいらないし、咳が出ても咳止めはいらないし、
下痢があっても下痢止めはいらないし、そのほかどんな薬もいらない

―― 自分自身の「生きる力」こそ、自分にとって一等の名医であることを信じて、
その施術に委せきりますから、自分自身の「生きる力」も自分に信頼して委された以上は
責任をもってぜひ自分自身で治さねばばならぬということになり、

たとい熱が高まっても、脳膜炎を起こすほどにはならず、
脈搏が速くなっても心臓を麻痺さすほどには速くならず、
結局薬を用いたときよりも、自然療能という名医が、病気に応じていかなる他の療法よりも、
迅速(じんそく)に適宜(てきぎ)の処置をとってくれるのであります。

なぜなら、自然療能という医師は自分の外にある人を招(よ)んでくるのではなく、
自分の内にチャンといる名医だからいかなる医師よりも、迅速に処置がとれ、
外から患部を想像するのではなく、内にいて患部の状態を知りつくしていて、
それに適応する抗毒素の製造や体温の調節や便通の調節をするのでありますから、そ
の処置をまちがえるということは決してないのであります。

           <感謝合掌 平成27年9月17日 頓首再拝>

重症胃腸炎癒ゆ - 伝統

2015/09/25 (Fri) 04:50:44


          *「生命の實相」第一巻實相篇(P100~102)より

神癒の骨髄となるのは「真の人間」たる完全なる「神人」を
自分において観るとき自己治療が行なわれ、
相手においてみるとき他人治療が行なわれるのであります。

生長の家発祥当時、朝鮮の支部のお世話をしてくださった池田房治さんは、
そのころ支部はこしらえてくださるし、集まった誌友の名前は知らしてくださったけれども、
なんら支部としての活動を開始してくださっているような様子がなかった。

それで支部をこしらえてくださった以上、支部としての実力を備えておいてもらわねばならぬ
と思いましたが、遠方であって来ていただくのも大変でありますので、朝鮮にいられるままで
「神想観」を五日間実修してもらうことにし、こちらから祈りと思念を送って、
それを助けることにしたいといってあげたのです。

すると池田さんからの返事に「実は生後11ヵ月になる自分の子供が重症胃腸炎で、
40日間も赤十字病院に入院しているけれども少しも快方におもむかないし、自分としても
手をつかねて見ているよりほかに手をくだす力もなく困っているさいであるから、
仰せにしたがって『神想観』を実修し自分の霊力がどれほど出るか試してみたいと思う」
との返事であります。

それでさっそく、実修の時間を定めて「神想観」の実修をしていただいたのであります。
すると数日後「5日間の実修を指導せられたことを謝す。昨日子供は病院を退院させました」
というハガキが来たのであります。

それでは、池田君は子供を病院から引きとってこれから自分の「神想観」の癒す力を
試す考えであろうと察していたのであります。
ところが、それから一ヵ月ばかりも便りが池田君からは来ないのであります。

では、やはりまだ子供が悪いので知らせるのも気の毒と思って、
なんとも便りがないのであろうなどとも思いましたが、
そんなはずはないがなあ、という気もするのであります。

すると1ヵ月後、その池田さんがとつぜん朝鮮から「生長の家」出版部へたずねて来られた。
で、「坊ちゃんのご病気はどうです?」とたずねると、
「あれから急によくなりまして、いまでは元気です」と答えられる。

「それでは手を按(あん)じて、祈ってあげられましたか?」ときくと

「実はまだそれをやってみないのです。やってはみないけれども、わたしが神想観の実修を
始めると同時にメキメキ快くなって、もうわたしが手を按じて祈る必要がなくなったのです。
神想観をやると実に自信がでますね。

実はこんど郷里の母が病気で悪いというので、なんだか自信ができたようで治してみたい
と思って帰って来たんです。ところがわたしが帰郷すると急に母がまた元気になって
食欲が進んできて、またこれも手を按じて祈る必要がなくなっているのです」

などと答えられたのであります。

 
イエスが手を按じて祈ったということは聖書のところどころに出ていますが、
神想観にて実相を観じて病気を治すには、手を按ずるということは
必須のことではないのであります。

手を触れず按ぜずに病人の前で「神想観」をやっているだけでは、病人自身にとっては
なんだか頼りない気がするだろうと思って、手を按じて思念してさしあげてもよい場台か
ありますが、このごろのように「手のひら療治」や触手的治療法がはやるときには、
手を按じない方が混同されなくてよいのであります。

手のひらという物質で治るのなら物質治療であって
超物質治療(メタフィジカル・ヒーリング)ではないのであります。

ただ神想観によっておのずから自分または病人の生命の実相たる「神人」が輝き出すことによって
病気が消滅するのであってこそ、メタフィジカル・ヒーリングであります。

ことに池田さんの場合のように子供がまだ乳のみ児のような場合には、
その子供はまだ独立した人格ではなく親の人格の一部分たるにすぎないのですから、
親が自身で神想観をするか親の心をこっちから神想観で治せば、
子供の方は放っておいてもよくなるのであります。

 
相手にある「神人」を、こちらからハッキリと観ずれば、
相手の病気が治るばかりでなく相手の人格などもすっかり変わってくるのであります。

「神想観」を病気治療法だと思っていられるとまちがいであります。

病気が治るのは、ただそのごくごく随伴的の功徳にすぎないで、
神想観の功徳は実に宏大無辺、性格でも運命でも境遇でも、
この「神想観」によって改善されてくるのであります。

           <感謝合掌 平成27年9月25日 頓首再拝>

「神癒について」 - 伝統

2015/10/04 (Sun) 03:25:43


            *『白鳩』誌 23年4月号 より
             ~ 生長の家長老 徳久克己 先生


 神想観をする前と、神想観をした後では、すっかり人相の変わった相手を発見することがある。

 神の生命の虚の人に、神想観を通じて神の息吹が流れ入ると、
 瞬間にして病気が消えて明るい神の生命が顕現してくるのである。

   「病とは神の生命の顕現していない姿である」

 と云うことを、生命の世界で知らして戴く。

   「病がない」

 と云う事を、少し判らして戴いて、神の世界が一層広くひろがったように感じる。

 生命の實相を条件つきでなく、全面的に信じられるようになった私は幸福である。

   「谷口先生が云われるのだから間違いはない」

 今の私は、ただこの喜びに包まれている。

 神癒と云うと、何か悪いものがあって、それを神の力で修理してなおした。
 と云うように感じるが、そうではなく、神の生命があらわれて、
 生き生きとした「神の生きる力」が、流れ入ることである。

 空気の抜けたゴムマリに、空気を入れるよりも、もっともっと力強く入るもので、
 光に満ちあふれたようになる姿である。

 「病はない、神の生命のみあるのだ」 


           <感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>

聖癒の力は何処から来るか - 伝統

2015/10/13 (Tue) 04:56:30


          *『人生は心で支配せよ』(P15~17)より
 
生命の実相哲学は万教帰一の哲学である。

何宗の人であっても、それが読者の魂の栄養になる事は、
何人に対しても、御飯が栄養になると同じである。 

吾々の哲学は神道や、佛教や、儒教を一つの神髄的真理に帰一せしめた点に於いては、
各々それぞれの典拠と流れに汲(く)んではいるが、基督教を一つの神髄的真理に
帰一せしめる方法や典拠においてはニュー・ソートの流れを汲んでいるのである。 

そしてそれが更に大乗日本化されていることに注目しなければならぬ。 

吾々の哲学は、吾々は如何にすれば吾々の国家を、社会を、肉体を、環境を、
すべての者の運命を支配してこれを栄えあらしめる事が出来るかを明らかにするのである。 

と云うのは、吾々の光明哲学は人間が小宇宙であること、
大宇宙において行われた創造の過程は小宇宙においても真であること、
―― 換言すれば想念は物に化(な)ると云うことを明らかにするからである。 

そして宇宙を支配する法則を暁(さと)って、これと調和するならば、
人間は無限の自由を獲得し、あらゆる制約を超越して、無礙無縛の状態となり得ることを
明らかにするのである。

 
本書の論講が進んで行くに従って、人間精神の創造作用と、宇宙精神の創造作用とが
決して二つではなくむしろ本質的に連関していることが明らかになって来るだろう。

このことが了解されれば、吾等は、吾々自身が自力で思い煩うことなくして、
宇宙精神の創造力に委(まか)せ切って自分の欲する事物をほしいままに得ることが
出来るのである。 

吾らは創造力を自分で造るのではない。 
大生命に委せ切って宇宙の創造力に働いて頂くのである。 
吾らの委せ切りの心が深まれば深まるほど、その程度に従って
宇宙の自浄力(いやすちから)が吾らのために無限にはたらいてくれるのである。


すべて癒す力は宇宙の自浄力(いやすちから)であるから、神聖である。  
「それは求むるに従って与えて下さるのである」。  
それは賜(たまもの)であって、自己の力がなすのではない。 

人の心は自分の欲するものの観念を描く、すると聖なる力がそこに顕現し、
描かれた事物を創造してくれるのである。 

この場合人は決して本源ではない。 
宇宙の力を通す管(くだ)である。 
光ではない、窓である。 
電流ではない、線である。

 
それゆえ、実相哲学の聖癒力は ―― 人は神の子であり、既に完全であるのだが、
その肉体及びその運命は心に描かれた通りに顕れるのだ―― と云う
法則から抽(ひ)き出される。

心は神の子なる「人間」の像(すがた)を描くとき運命をきずきあげ、
反対に罪の子なる「人間」を像を描くとき自己の運命を打摧(うちくだ)く。 
しかして現象世界を創造(つく)り出す力は想念(コトバ)によってその行く道を定められる。

イエスは最大なる哲学者であったと言うべきである。 

何故なら彼は権威ある言葉(コトバ)を人の心に実に積極的に与え得た ―― 
彼が「起きよ、しかして寝床をあげよ」と言えば、
全身不随の病者がたちまちその命(めい)に従った。 

彼は神の子なる人間の完全なる実相(ほんとうのすがた)のみを見て、
それを心に描いたのである。 そして、十余年間不随の病人の像を
心に描かなかったからこの奇蹟を生じたのである。

 
イエスは決して彼だけに許された法則を使用したのではない。 
彼はあきらかに何人にも許されている法則を使用したのである。 

またイエスの人間としての構成や本質が異(ちが)っていた訳ではない。 
それ故にこそ吾々の団体においては現に幾多の人々がこの力を実証しつつあるのである。

誠にも吾らの光明思想は現下人類の注目を惹(ひ)きつつある人類最大の業績であって、
それは単に病気の治癒のみではない。 
必要に応じて無くてならぬものを得るための知識の進歩と言うべきである。

           <感謝合掌 平成27年10月13日 頓首再拝>

《神癒の根本は愛にある》 - 伝統

2015/10/20 (Tue) 04:49:52


           *『生長の家』(昭和25年10月3日)の法語より

   神癒の根本原理は「愛」である。神は愛であるからである。

   若(も)し、誰(だれ)かを自分が憎んでいることがあるならば、
   愛に反することがあるならば、それを今直ちに是正し、

   憎んでいる人を赦(ゆる)し、
   愛に反する行為を愛に置きかえることが必要なのである。

   真理の書を浴びる程読んでも、
   若し自分の心の中に愛の心が喚起されなかったならば、
   それはただ真理の外形だけを掴(つか)んでいることになるのである。


   感謝と云(い)うことも、愛をしみじみ感ずるところから湧(わ)いて
   来るので、神の愛を先(ま)ず感じ、神の子である人類を先ず愛する
   ことから始めよ。


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           <感謝合掌 平成27年10月20日 頓首再拝>

大乗仏教の神髄、キリスト教の神髄 - 伝統

2015/10/28 (Wed) 04:56:46


          *「生命の實相」第一巻實相篇(P98~99)より

《大乗仏教の神髄》       

物質は無い! 
何という大胆きわまる宣言でありましょう。

しかしこの真理こそいつの時代にも大切であって、
この真理がいよいよはっきりするにしたがって人間は本当の自由がえられ、
自己の霊的自在性が完全に発揮されるのであります。


釈迦は三千年前にすでにこの真理を明らかにせられた。
「物質は無い!」色即是空だ。
大乗仏教の経文の中心となっているのは、
この五字の真理につきるといってもよいのであります。

しかし釈迦は相手しだいでいろいろの方便をお使いになったらしく、
薬を欲しがっている病人には薬をやって病気をお治しになったということも
経文には出ているのであります。

信仰さえあれば体温計であろうがボタンであろうが、
口に入れさせておけば病気は治るのですから、
釈迦は物質を仲介にして病人の信仰を喚起して治されたものとみえます。

だからわれわれも決して薬剤を排斥するものではありません。

       
《キリスト教の神髄》

キリストになると病気や薬に対する態度はいっそうハッキリしているのであります。
キリストはどんな病気でも難病だといわれたことはない。
キリストにとっては、病(物質)は無いのだから、病に重いも軽いもないのであります。

弟子が難病者の病気を癒しそこなって帰って来ると、
「おお、なんじら信仰薄きものなるかな」と彼は嘆じているのであります。

これは病の治ると治らぬとは「病の物質的軽重にあるのではない。
信仰の深い浅いによるのだ」という意味であります。

キリストは病の軽重をみなかったばかりでなく、死をもみなかった。
ラザロが死んでいるのをみても「死せるに非ず、眠れるなり」と断言した。
この断定的な信仰の言葉によってラザロは肉体的にも復活してきた。

これをみても肉体は信念の影だということがわかるのであります。

またキリストは誰にも薬を処方してあげられたこともなければ、
食養法を説かれたこともなく、あべこべに、
「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩うことなかれ」と切言せられているのであります。

ラザロは万人の目からみて現に死んで数日たつのに、キリストにとっては、
「物質は無い! 」のであるから、死んで腐りかかっているラザロの肉体などは
心の目に触れなかったのであります。

彼はラザロの霊なる「真の人間」(real-man)を見た。
神によって造られたる神の子たる「神人」(God-man)を見た。

「真の人聞」「生命の実相」「神人」を認めることによって「
真の人間」が現象的にもノコノコ立ち上って動き出した。

これがラザロの復活であります。

           <感謝合掌 平成27年10月28日 頓首再拝>

『生命の實相』が感謝を引き出し、癒しを成就する - 伝統

2015/11/07 (Sat) 03:37:16


        *「善き人生の創造」第七章「健康のため心理学」(P100~103)より

<人間の体質と云うものは実は心質である>

皮膚に傷をしても自然に内部から肉がもち上がり新しき皮膚が構成されて行く
其の神秘がわかれば、人間の内部にあってすべての肉体の欠損を癒してくれる神秘的力を
了解することが出来るのであります。

しかしその内部の癒す力が速やかに働く人と、
なかなか容易に働かない人があるのであります。

第二次大戦中、呉の海軍病院に入院していた人で、
脚に弾丸を受けてその脚を膝関節の所から切除した人がありました。
その切口からどうしても中から肉が持ち上がって来ないのであります。

軍医はその傷口が化膿して来るのを見ますと、その部分を切り取って新しい瘡面とし、
消毒して黴菌の侵入を防止し、其処から肉芽の発生を促す方法を度々繰返しましたが、
どうしても肉があがらないで化膿してくるのであります。

この化膿現象と云うものを貴方は黴菌の外部からの侵入だとお考えになりますか。

あなたは牛肉や鶏肉や魚肉がどんなに古くなって黴菌が無数に外部から侵入して
腐敗して来ましても化膿すると云うことを御覧になったことはないでしょう。

化膿すると云う事は生命あっての現象であって、
死んでいる肉体には起らない現象でありますから、
其処に生命が働いている現象だと云わなければならないでしょう。

生命が働いているのに、甲に於いてはその生命力が治癒力となってあらわれ、
乙に於いては化膿や糜爛となってあらわれるのはどう云う譯でありましょうか。
それには何らかの原因が生命力の働く方向又は姿を変化するものだと
云わなければならないでしょう。


<心の変化で瘡面が急速に全治した事実>

人間のひとりひとりは生命力の働きに可成り一定の傾向性と云うようなものを
備えているものであります。

或る人はどんな栄養分をとっても下痢してしまって痩せていますし、
或る人はそれ程栄養ある食物をとらないのにぶくぶく肥えています。

傷が出来ても直ぐ治る人もあれば、直ぐには治らないで必ず化膿するような人もあります。
これを普通人は「体質」と称するのでありますけれども、これは体質と云うよりも
「心の傾向」であります。「心の傾向」を変化すれば体質が変化して来るのであります。

先に書きました海軍病院の隻脚切断の患者について見ましても、
この患者は自分が負傷したことについて国家を恨んでいました。

自分が戦地へ往っている間に妻は脊椎カリエスになって臥床していまして、
自分が戦地から帰って来ても病院へ見舞いにも来ることが出来なかった。

それについて妻の心境をも疑って、彼の心の中には、
じめじめした悲しみと憤りと恨みの感情とが一杯になっていたのでした。

その感情が肉体の血液循環に影響し、内分泌に変化を起し、じめじめした漿液を
瘡面から分泌せしめて、黴菌に繁殖しやすい状態を惹起し、「憤り」は心の一種の
「インフラメーション(炎症)でありますから、それが肉体にあらわれては瘡面に炎症を惹起し、
怨みの心は其処に具象化して、呪わしい嫌らしい腐乱状態を呈せしめていたのであります。

これを単に外傷又は切断部に於いてのみ起る現象だと思ってはなりません。

それは肺臓に於ける炎症又は黴菌の寄生(肺炎、肺結核等・・・)や、
胃腸に於ける炎症又は潰瘍なども其の人の心の状態によって黴菌の寄生し易い状態を
誘起して起るのでありますから、若し前記の人の外傷又は切断面の瘡面が心の変化によって
速やかに治癒することが出来れば、肺臓や胃腸に於ける糜爛、炎症、結節等も
心の変化によって速やかに変化するものだと云うことを知らねばなりません。


さて前記の隻脚切断の人の夫人は一時脊椎カリエスで寝ていましたが、
たまたま知人から『生命の實相』を読むことを勧められ、それを精読するに従って、
心に変化を生じ、脊椎カリエスから立ち上がって海軍病院へ見舞いに来て、

自分が『生命の實相』を読むことによって癒されたことを良人に告げ、
良人にも『生命の實相』を読むことを勧めて、それを一冊枕頭に置いて
帰ったのであります。

するとその患者は妻が置いていった『生命の實相』を読んだのです。
そして「天地一切のものに感謝せよ」と云う教えに触れた。

環境も運命も自分の心の反映として起るものであって他の人や他の者を恨むべき性質の
ものではない、天地一切のものに感謝する心境になったとき、天地一切のものとの和解が
成立することになり、天地一切の何ものにも害されるのではない、自分の隻脚の切断も、
自分にそう云う人を斬りつけ非難するような心持があったから起ったのである。

妻が見舞いに来ないと思ってその冷淡を恨んでいたが、それは冷淡なのではなかった、
神様のお引廻しによって彼女は『生命の實相』読ませられ、癒されて、その体験によって
私を導いて、私の心を転換して私自身がまた癒されるように神様の摂理が働いたのだ。

それなのに自分は妻が冷淡であるなどと思って恨んでいた。
あぁすまなかった。

こんな逆恨みをするような自分であるのに神様がこんなにまで御引回しをして下さるとは
何という無限大の御慈悲であるのだろう。

こう思うと、「すまない、すまない」と云う気持ちで一杯になって来ると共に
「神様ありがとうございます。妻よ、有難うございます。病院の医師よ、看護婦よ、
ありがとうございます。」と感謝する気持ちになったのであります。

すると今まで幾度瘡面を切除しても肉芽が発生せず、化膿していたのが、
むくむくと新しい肉が盛り上がるように発生して1週間のうちに新しい皮膚が出来、
傷口が治ってしまったのであります。

私は、傷をしても、よく治る人と、なかなか治らないでしきりに化膿する人とがあるのは、
体質だと思われているが、実は「心の傾向」だと申しましたが、心が変化すれば、
このように化膿(黴菌が寄生)し糜爛していた瘡面も忽ち治ってしまうのであります。

これを推し及ぼしてまいりますと、胃腸の中や肺臓の中の炎症や糜爛や黴菌の寄生も、
心の持ち方の変化によって治ってしまうと云うことは明らかなのであります。

    (http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15462218 より転写)


           <感謝合掌 平成27年11月7日 頓首再拝>

懺悔と感謝の感情が病を癒す - 伝統

2015/11/15 (Sun) 03:44:45


        *「善き人生の創造」第七章「健康のため心理学」(P104~107)より

《不安、恐怖、憤怒、不快の感情の持続は慢性病を惹起す》
  
以上は唯の一例でありますけれども、実例を挙げれば無数に挙げることが出来るのであります。
簡単な実例では、吾々が一寸恥ずかしいと思ったとします。
すると顔が真赤になるのであります。

これは明らかに心の働きが血行を変化し肉体の一部に充血を起す実例であります。

また吾々が一寸恐怖心に満たされると顔が蒼褪(あおざ)める、心臓がドキドキします。
これは心の働きが人体の一部に貧血を起し、内臓の一部に異常状態が
起ったことをあらわしております。

その恐怖がただ夜半に人の足音を聞いたのを盗賊と思い間違えたような簡単なものであり、
それはただの樹の葉のそよぎであて何でもなかったのだとすぐ判って安心出来るようなもの
でありましたならば、その心臓のドキドキも、顔面の蒼白も、
容易に消えてしまうのでありますけれども、

若しその恐怖が慢性的なものであり、「良人がお妾をこしらえているらしいが、
もし本当だったらどうしよう」と云うように、いつまでたっても晴れぬ疑いである
ような場合では、或は、誰かを憎んででおり、憤っていながら、その憤りがいつまでも消えないで、
互いに敵を有つような恐怖を荏苒と持続しているような場合には、

その感情によって起る内臓の異常運動も身体一部の充血又は貧血状態も、
そのほかまだ外面にはハッキリ見えぬけれども必ずやその感情の変化によって伴われて
いる内分泌液の成分及び分量に変化が起り、身体のどこかの細胞が刺戟され興奮せしめられている
状態が長く継続しますために、

その器官、血管、細胞等の一時的異常状態に習慣性が起り、いつまでもその細胞の
一箇所への貧血状態、充血状態、細胞の異常結集状態、組織の腫脹状態が習慣になりますと、
ついに外から検診してはっきり判るような臓器の異常状態――癌腫、潰瘍、贅肉、
脳腫、肉腫、血腫――の如きもの生じ、或る場合には外部の病菌への抵抗力が失われて、
結核、チフス、赤痢等々となって現われて来るのであります。


この道理がわかりますならば、病気を治す方法は、その逆を行くこと、

精神を平和にし、心のうちに歓びを満たし、遂げがたき意欲などに悩むことなく、
「既にわが願いは成れり」と信じて、つまらないことに悲しみ、憤り、呪いなど
しないことによって、病を内部の自然療能によって癒す道があることが判るのであります。



《「すみません」と「ありがとう」の感情が病いを癒す》

憤りを無くし、怨みを無くし、更に恐怖心を無くすためには、
自分の心が貧しくなければなりません。

「幸いなるかな心の貧しき者」とか、「幸いなるかな悲しむ者」とか
イエスが教えているのは、心の謙虚な者の事を云っているいるのであります。

前節に於いて、隻脚切断の手術を受けた男が「すみません、すみません」とお詫びの心を
起したとき自然療能が盛んに起り、病気が治ったと云うことを述べましたが、

この「すみません、すみません」と云う謙虚な心になった者が
「幸いなるかな心の貧しき者」「幸いなるかな悲しむ者」なのであります。

どんなに処刑されても仕方がない自分だと云うほどに自分の我が打ちくだかれてこそ、
憤りも憎みもなくなり、すべてを赦し、すべてに感謝出来るようになるのであります。

そしてどんなに処刑されても仕方のない自分だと謙れればこそ
俎上に平然として恐怖のない鯉の様に、恐怖がなくなってしまうのであります。


だから病気を起していた心の原因を一掃するには、

「あぁ、すまない、どんなにされても仕方のない此の自分だのに、
こうしてまだ生かされているのは有り難い」

と感謝の念をかき起こす事が必要なのであります。

これが親鸞聖人の所謂「善人なおもて救わる、況んや悪人をや」の悪人正機の真理であり、
悪いと自覚する者ほど却って救われやすい事になるのであります。

    (http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15462218 より転写)


           <感謝合掌 平成27年11月15日 頓首再拝>

<宗教でどうして病気が治るか> - 伝統

2015/11/25 (Wed) 03:26:15


        *「善き人生の創造」第七章「健康のため心理学」(P107~108)より

有史以来、多くの病人が宗教に連関して癒されて来たことは事実であります。

それは厳かな宗教
的儀礼に伴う催眠術的暗示の効果に帰することも出来る場合もありますが、
懺悔と云う方法により、心の中に鬱結していた恐怖、憤怒、憎悪等の悪感情が
洗い浄められるからであります。

また、祈りにともなう、「赦された」とか、「わが願いはきかれた」とか云う
釈放の感じによっても病気が治るのであります。

懺悔し、祈り、ゆるされたと思うその感情が宗教的儀礼の厳かさをもって
深く潜在意識に入って来るのであります。

既に罪がゆるされたと云う深い感じがしてまいりますから、
自己処罰によって病気をつくる事もなくなってしまうのであります。

こうして根本から病気を起していた感情を消滅させる
――― 爰(ここ)に自然療能が旺んに起るのであります。

どんな治癒作用も内部の作用であります。
外から黴菌の入らないように消毒して包帯しても、
内部に治癒力のない患者はなおらないのであります。

どんな滋養物を食べても、どんな薬剤を飲ませても、
自然療能が内部から去ってしまっていたら治りようがないのであります。

死骸に薬を飲ませても何の効果もないのは自然療能が去ってしまっているからであります。

だからどんな治癒もことごとく内部の自然療能力 ―― 自然の生命力 ――
神の力だと云うことが出来るのであります。

内部の自然療能を邪魔していたのが、色々の誤れる感情、抑圧されたる願い・・・
等でありますから、それ等を洗い浄めてしまえば、
内部の自然療能によって病気は治ってしまうのであります。

    (http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15462218 より転写)

           <感謝合掌 平成27年11月25日 頓首再拝>

<自己自身の本質の霊的生命力を自覚すること> - 伝統

2015/12/04 (Fri) 04:50:27


        *「善き人生の創造」第七章「健康のため心理学」(P108~110)より

宗教で病気が治る原因のもひとつ根本なる理由は、
自分自身の「生命の本質」即ち「実相」の発見で
あります。

(尤も、ある種の治病宗教では其処まで到達しないで、色々の儀礼や、教師の言葉や
お札の暗示だけで治るのもありますが)

本当の宗教では自己自身の本質が霊的実在であると云うことを自覚し、
自己自身が物質ではないと云うことを覚るものですから、
心に病いを描かなくなり、病気と死の恐怖を超越するによるのであります。

心に病気を描かなければ病気はそれだけ現象界にあらわれなくなるのであります。

アメリカなどでは随分医学が発達し、病気の予防法も治療法も発達しており、
その予防注射や、治療注射の新薬の発見された病気は激減しているのに、
精神的病気の数は非常に多いのであって
(K・メニンジャー著日本教文社発行『おのれに背くもの』参照)

病気の統計について云えば、医学いよいよ発達して病気いよいよ多くなるように見えるのは、
病気を恐怖する宣伝が行き届いているから、病気恐怖のために精神的疾患に罹るものが多いのだ
とも云えるのであります。

今迄の医学はあまりにも人間を物質的存在だと考え過ぎて、
病気に罹る物的原因のみを探求し、病気を癒す物的方法のみを
研究し過ぎていたうらみがあるのであります。

だから病気の精神的原因は概ね忘れ去られていたのであって、
従って精神の方面から病気を治す者があると
それは詐術、欺瞞、インチキ、迷信であるなどと考えられていたのであります。

しかし最近アメリカの医学界に於いてはサイコソマチック・メディスン(精神身体医学)と称して
心の肉体に及ぼす影響について研究されることになり、

何事も「外国でもやっているから」と云うと賛意を表する日本の医学界に於いても、
この精神身体医学が取上げられるに到ったのは、今迄見落としていた病気に対する
精神的方面の原因が取上げられるに到ったこととしてまことに慶賀に堪えないのであります。

それは兎に角、ソクラテスも云ったように

「汝自らを知る」ことこそすべての病気を癒し、
此の世にあるかぎり肉体の健康を維持するに必須の根本的条件なのであります。

    (http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15462218 より転写)

           <感謝合掌 平成27年12月4日 頓首再拝>

<治癒の最大なる根本条件> - 伝統

2015/12/10 (Thu) 04:49:36


        *「善き人生の創造」第七章「健康のため心理学」(P110~112)より

あなたはあなた自身を「何者」だと思っていられますか、
あなたは決して単なる物質ではないのであります。

単なる肉塊(たとえば牛肉)の上に白いご飯を置いたときには何事も起こりませんが、
あなたの胃袋の中へ白いご飯を置いたときには、単なる物質では起らない、或る種の働き
――消化、吸収、同化などが起るのであります。

だからあなたは生きています。
生命があるのであります。
生命は霊的なものであります。

更に、その生命が肉体を創造して肉体を操縦する場合に生ずる精神作用と云うものがあります。
即ち人間には肉体(物質)としての面と、生命(霊)としての面と、精神としての面と、
3つの面があるのでありまして、その健康の維持に当たっても此の3つの面のうち、
どの面からでも治療して行くことが出来るのであります。

精神治療の面から行くのは、
精神作用によって生理作用を多少とも左右して行こうと云うのであります。
しかし精神作用と云うものは絶対無限の力をもっているものではありません。

たとえば飯を食ってから一所懸命「この飯は絶対に消化しない」と思念いたしましても、
或いは食事中にある不快な出来事で精神が顛倒いたしましても、尚、消化作用は多少行われる
のでありまして、多少その消化作用が阻害されるに過ぎないのであります。

これは内部にある生命力(霊)が、
その生命の顕現の機関としての肉体を維持するように出来ているからであります。

更にその際消化剤を胃中に投入いたしますと、多少とも消化効率は殖えるのであります。
これは物質面から生理作用に影響を与えたのであります。
だから人間は三つの面から病気を治す事も、健康を増進することも出来るのであります。

しかしながら、いずれが主であり、従であるかと申しますと、
人間から生命が去ってしまったら、精神作用も物質的薬剤も効果をあらわすことが
出来ませんから、生命力を発揮し易くすることが治病と健康への最初にして最後、
そして最大なる根本条件だと云わなければならないのであります。

多くの人は宗教で病気が治ると申しますと、
大抵、精神の働きで治るのだぐらいに考えますが、

そう云う暗示的面もあるにはありますが、本当の宗教で病気が治るのは、
人間が霊的実在(宗教的に云えば、神仏そのもの)であることを自覚することと、
その生命力の発現を妨害していた精神状態を取り去ることによって、
生命それ自身の自在無碍なる働きを発揮することになるのであります。

これが本当の宗教を知り、「生命の実相」に目覚めることの功徳でありまして、
それは精神が治すのではなく、精神が生命力の発現を妨害していたその妨害観念群が
除去されるため、生命力が完全に働くからであって、何処までも行っても、
癒す力は生命(霊)の力なのであります。

 (http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15462218 より転写)

           <感謝合掌 平成27年12月10日 頓首再拝>

【家族に病気が出た場合 】 - 伝統

2015/12/17 (Thu) 04:56:27


             *『生長の家』誌(昭和44年12月号)より

誰か家族のうちに病人が出たときには、
それが一層悪くなるであろうと考えて恐怖してはならない。

病気は「病める氣」即ち「不調和な心」の状態のあらわれであって、
恐怖すれば「心の不調和」が増大するばかりであるからである。

そこで病人が自分の家庭にあらわれたとき、家族同士の中に「心の不調和」がなかったか、
互に「不平不満足」の念を起したことがなかったかを反省してみるがよい。

そして「心の不調和」や「不平不満足」があったならば、家族互に心を調和させるがよい。 
そのために何か互に気まずい事があって腹が立ったりしているな らば、
あなたが先ず率先して詫びるがよい。 

そして互に詫び合って、
互いの心のもつれが解きほぐされたときの心の爽やかさを味うがよい。

その時“神癒の力”を完全に受けとる“心の波長”が起るのである。


“神癒の力”は常に宇宙に充ち満ちているのである。
何故なら、神は、何時でも、何処でも、到る処に、常にいますからである。

それはラジオの放送が常にあるようなものである。
しかし常にあるラジオ放送も、こちらがスイッチを入れて、
波長を合わすまでは、それを受信することはできないのである。

あなたが神に祈ることは、受信セットにスイッチを入れることに当る。
しかしスイッチを入れただけで、波長を合わせねば、
神癒の霊波の放送を受けとることはできないのである。

神癒の霊波を受信するためには、あなたの心の波長を調整する必要があるのである。
その調整の道が 『天地一切のものと和解する』 ことである。

誰かを恨んだり、憎んだり、不平に思ったりしていたならば、
そのことに対してお詫びの心を起して、新たにその相手の人に感謝の念を起し、
感謝の言葉を心の中で繰返すがよい。

あなたが相手の人に感謝の念を起していることを
相手が知っておろうと、知らないでいようと、そんなことはどうでもよい。
あなた自身の心の波長の問題である。

   (http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11939/1367099976/3 より転写)

           <感謝合掌 平成27年12月17日 頓首再拝>

《神の愛はすべての渾(すべ)て》 - 伝統

2015/12/25 (Fri) 03:22:13


         *『生長の家』(昭和26年10月4日)の法語より

   神はすべてのすべてである。
   これが神癒の原理の第二の根本である。

   神は愛であるから、愛の展開としての世界に、
   人間に不幸感を与えるような病気や災難や貧乏が
   存在しようがないのである。

   先ずこれを信ぜよ。「 信 」 が茲(ここ)に必要である。

   神の愛を信ずるや否やと云うことである。

   人は信ずる通りのところのものになるのである。
   神の創造(つく)りたもうた世界に悪が決して存在し得ない
   ことを信ずることが出来るものは、
   神癒の根本原理を把握したものである。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

           <感謝合掌 平成27年12月25日 頓首再拝>

《病気の治る中心課題》 - 伝統

2016/01/03 (Sun) 04:22:16


          *『生長の家』(昭和25年11月25日)の法語より

   真に「人間神の子」の自覚に到達したならば、
   自分自身を「神の子」と知るだけでなく、
   他の人をも悉(ことごと)く神の子だと尊敬しなければならぬ。

   それが出来なくて、「人間神の子」の真理を悟ったのに
   病気が治らないのは 何故だなどと云う勿(なか)れ。

   病気を治すよりも何よりも、
   すべての人間を神の子として尊敬し、愛し、それに好意を持ち、
   柔(やさ)しき言葉を使い、和顔を以て人に接し、
   泣き言を云わず、褒めることと、よき噂(うわさ)と、
   真理のみを語るようにせよ。

   その時こそ真に「神の子」の実相を行の上にも自覚したのであって、
   病気も必ず治り、運命も必ず好転するのである。

                    (別著『神癒への道』参照)


           <感謝合掌 平成28年1月3日 頓首再拝>

《あなたの自然良能を旺(さか)んにするには》 - 伝統

2016/01/12 (Tue) 04:29:04


          *「神と偕に生きる真理365章」(P327~328)より

   神は直接その”癒しの力”を内部から行使し給うこと(自然良能)も
   あるが、その癒しを完成するために外部から何を為すのが適当であるか
   を知らせ給うこともあるのである。

   医術というものは自然良能の進行の妨げとなっているものを
   取り除く作業をするのがその本業であって
   癒しそのものを行なうのが医術ではないのである。

   自然良能の進行を妨げるものには、間違った心の持ち方
   ―― 憎しみ、慍(いか)り、争い悲しみ、嫉妬、貪欲、不平、憂鬱、
   失望落胆その他一切の暗い破壊的な感情想念が含まれているのであって、

   これらの潜在的なくらい感情想念を除去して、
   それを明るい建設的な積極的な感情
   そして更に一切感謝の感情に置き換えてしまうならば、

   自然良能が完全に働き始めて速やかに病気の進行が止まり、
   間もなく完全治癒に向うのである。

           <感謝合掌 平成28年1月12日 頓首再拝> 

「神癒」の骨髄 - 伝統

2016/01/23 (Sat) 04:56:07


          *『生長の家』(昭和31年)より

皆さんが「生長の家」の説くところを読んだり、「神想観」を実修したりして
神の子たる自己の生命の実相(ほんとのすがた)に触れ、真理をさとって
病気〈その他の人生の凡ゆる不幸〉が治るのは、
他の類似の治療法の及びもつかぬ根本的な治療であります。

何故なら、それは自己の生命の実相が自覚されてくるにしたがって、
本物でない、ウソの、仮の、迷いの、実際は有りもせぬのに有るように見えている
色々の凡ゆる人生苦が恰も光が輝きだせば闇が消えてしまうように
消えてしまうからであります。

 
他の治療法はすべて、毒をもって毒を制するとでも言いましょうか、
無明をもって無明を征服するとでも言いましょうか、ともかく一つの間違った信念  ―  
たとえば、病いは有るという信念を、他の間違っている信念  ―  物質〈薬〉が
生命を補うという信念  ―  によって破壊するという方法であります。

 
「神癒」の骨髄となるのは「真の人間」たる完全なる「神人」を自分において観るとき
自己治療が行なわれ、相手において観るとき他人治療が行なわれるのであります。

相手にある「神人」を、こちらからハッキリと観ずれば、
相手の病気がなおるばかりでなく、相手の人格などもすっかり変ってくるのであります。

 
「神想観」を病気治療法だと思っていられると間違いであります。

病気が治るのはただその極々随伴的の功徳に過ぎないで、
神想観の功徳は実に広大無辺、性格でも、運命でも、境遇でも、
この「神想観」によって改善されてくるのであります。

吾々がもし、間断なく実相に対して目を開き
常に完全なる実相世界の事柄のみを心に描いているならば、

常に人間は完全に健康であるべきはずであり、
その他のことはあり得ないのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/6f61ed273c3e5d77d13762d54c895d9e より転写)

           <感謝合掌 平成28年1月23日 頓首再拝>  

《大自然の浄化力》 - 伝統

2016/02/02 (Tue) 04:53:57


          * 『 生長の家 』(昭和26年1月6日)の法語より

   悪しき現象は 煙のようなものである。
   濛濛(もうもう)と立騰(たちのぼ)る煙の中にいる時に、
   その煙を消そうとして 更に 燃料を注ぎ込んでは ならないのである。

   煙をして 煙自身を 処置せしめよ。
   必ず煙は 薄くなり、やがて消えてしまうのである。

   宇宙には 自浄作用と云うものがある。
   その自浄作用が 神の癒(い)やす働きであり、

   傷をしたときに 中から自然に癒(なお)って来る働きであり、
   大掃除をしたときの空中の埃(ほこり)が
   自然に消えて行く働きであり、

   諸君が 病気や不幸に見舞われたとき、
   それに 心を捉えられなければ
   自然に それが癒されて行く根源力である。

   この根源力を 吾々は神と云うのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

           <感謝合掌 平成28年2月2日 頓首再拝>  

《人間本来〃無罪〃の宣言》 - 伝統

2016/02/09 (Tue) 04:20:22


          *『白鳩』誌(昭和49年1月6日)の法語より

   私は、昨年〈※47年〉6月下旬から7月にかけ1ヶ月間ブラジルに滞在して、

   「今已(すで)に人間は神の子であって、本来〃罪無き者〃である」

   という生長の家の教えを説いて来たのであったが、

   だいたいブラジルはカトリック教が旺んであって、
   殆ど国教の如くなっている国であり、今までのカトリック教は、
   「人間は”アダムの原罪”を生まれつき背負っている”罪の子”である」
   と説いて来て、

   幼少時代からその”罪の子”の教えの下に、精神的に抑圧せられ、
   罪悪感で、自分で自分を枉屈しつづけて来ていたのであるのに、
   突然、生長の家の講話を聞き、

   人間は”神の子”であって、決して”罪の子”ではない、
   神は”罪人”も、”罪”も、そんなものは決して創造し給わない。

   神の創造らないところの、”罪”も”罪人”も存在しないのだ
   という真理を知らされるに至って、

   今まで自分を圧迫しつづけていた罪悪感が消えて、歓喜無限、踊りあがって悦ぶこと、
   恰も釈尊が「汝らは既に如来なり」と仰せられたとき舎利弗が感激して

   「未だ聞かざるところの真理を知り、心意泰然(しんにたいねん)として
   安穏なることを得たり、吾ら真に仏子なり」と

   讃歎感泣したと同じような喜びの状態で、

   罪悪感が原因となっている病気などは、
   罪悪感が消えるとともに即座に治ってしまったのであった。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

           <感謝合掌 平成28年2月9日 頓首再拝>  

先ず”魂の病気”を治しましょう - 伝統

2016/02/18 (Thu) 04:50:38


          *『真理』第9巻生活篇(P396)より

肉体の病気を治そうと考えるよりも、魂の病気を治そうと心掛けよ。

肉体の病気は肉体が死んでしまったら無くなるのであるから百年も続く病気はない。

魂の病気は肉体が死んでも無くならないから永遠につづくのである。

だから宗教で救われようと思う人は、
先ず魂の病気を消したいと云う念願に燃えなければならないのである。

而も宗教に来て肉体の病気を治して貰いながら、
肉体の病気が治ったら用が済んだと、恩を忘れて
”魂の病気”を背負ったまま去って行く人があるのはまことに気の毒である。

”恩を忘れる”と云うことは”魂の病気”のうちでもすこぶる悪質の重病であるのである。
肉体の病気の治ることを求めるよりも先ず”魂の病気”を治せ。

報恩と感謝行とは、忘恩と云う”魂の病気”を治す特効薬である。

           <感謝合掌 平成28年2月18日 頓首再拝> 

聖癒の力は何処から来るか - 伝統

2016/02/27 (Sat) 03:24:32


            *『人生は心で支配せよ』  より

生命の實相哲学は萬教帰一の哲学である。

何宗の人であっても、それが読者の魂の栄養になる事は、
何人に対しても、御飯が栄養になると同じである。 

吾々の哲学は神道や、佛教や、儒教を一つの神髄的真理に帰一せしめた点においては、
各々それぞれの典拠と流れに汲んではいるが、基督教を一つの神髄的真理に帰一せしめる方法や
典拠においてはニュー・ソートの流れを汲んでいるのである。 

そしてそれが更に大乗日本化されていることに注目しなければならぬ。 

吾々の哲学は、吾々は如何にすれば吾々の国家を、社会を、肉体を、環境を、
すべての者の運命を支配してこれを栄えあらしめる事が出来るかを明らかにするのである。 

と云うのは、吾々の光明哲学は人間が小宇宙であること、
大宇宙において行われた創造の過程は小宇宙においても真であること、
  ―  換言すれば想念は物に化(な)ると云うことを明らかにするからである。 

そして宇宙を支配する法則を暁(さと)って、これと調和するならば、
人間は無限の自由を獲得し、あらゆる制約を超越して、
無礙無縛の状態となり得ることを明らかにするのである。

本書の論講が進んで行くに従って、人間精神の創造作用と、宇宙精神の創造作用とが
決して二つではなくむしろ本質的に連関していることが明らかになって来るだろう。

このことが了解されれば、吾等は、吾々自身が自力で思い煩うことなくして、
宇宙精神の創造力に委せ切って自分の欲する事物をほしいままに得ることが出来るのである。 

吾らは創造力を自分で造るのではない。 大生命に委せ切って宇宙の創造力に働いて頂くのである。 
吾らの委せ切りの心が深まれば深まるほど、その程度に従って宇宙の自浄力(いやすちから)が
吾らのために無限にはたらいてくれるのである。

すべて癒す力は宇宙の自浄力(いやすちから)であるから、神聖である。  
「それは求むるに従って与えて下さるのである」。  
それは賜であって、自己の力がなすのではない。 

人の心は自分の欲するものの観念を描く、すると聖なる力がそこに顕現し、
描かれた事物を創造してくれるのである。 
この場合人は決して本源ではない。 宇宙の力を通す管(くだ)である。 

光ではない、窓である。 
電流ではない、線である。

それゆえ、實相哲学の聖癒力は  ―  人は神の子であり、既に完全であるのだが、
その肉体及びその運命は心に描かれた通りに顕れるのだ  ―  と云う法則から描き出される。

心は神の子なる「人間」の像(すがた)を描くとき運命をきずきあげ、
反対に罪の子なる「人間」を像を描くとき自己の運命を打摧く。 

しかし現象世界を創造(つく)り出す力は想念(コトバ)によってその行く道を定められる。

イエスは最大なる哲学者であったと言うべきである。 

何故なら彼は権威ある言葉(コトバ)を人の心に実に積極的に与え得た 
 ―  彼が「起きよ、しかして寝床をあげよ」と言えば、
全身不随の病者がたちまちその命(めい)に従った。 

彼は神の子なる人間の完全なる實相(ほんとうのすがた)のみを見て、それを心に描いたのである。 
そして、十余年間不随の病人の像を心に描かなかったからこの奇蹟を生じたのである。

イエスは決して彼だけに許された法則を使用したのではない。 
彼はあきらかに何人にも許されている法則を使用したのである。 

またイエスの人間としての構成や本質が異(ちが)っていた訳ではない。 
それ故にこそ吾々の団体においては現に幾多の人々がこの力を実証しつつあるのである。

誠にも吾らの光明思想は現下人類の注目を惹(ひ)きつつある人類最大の業績であって、
それは単に病気の治癒のみではない。 

必要に応じて無くてならぬものを得るための知識の進歩と言うべきである。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e032def6ddc9d85e453a62c4d3c46f71 より転写)


           <感謝合掌 平成28年2月27日 頓首再拝>

《イエスは斯(こ)うして病気を癒した》 - 伝統

2016/03/05 (Sat) 04:11:49


          *『 生長の家 』(昭和26年2月15日)の法語より 

   キリストも単に言葉によって病いを癒しただけでなく、
   或る場合には手を按(あん)じて祈り、
   或る場合には、唾液を患部に指にて塗っているのである。

   手を按じ、手を触れ、指にて唾液をつけて行うことが
   時として治病に効果をあげるのは、その動作が暗示となって
   患者に信頼感と安心感とを与えることになると同時に、

   手掌からはプラナ(生命磁気)が放射されるために、
   プラナの欠乏から起っているところの病気には
   著しく効果を奏することがある。

   それは恰度(ちょうど)、
   ビタミン欠乏症にビタミンを注射するような
   対症療法的効果を生ずるのである。

   一種の動作によって病気が治る場合にも色々の要素が含まれている。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7757b2e44128b380ac6e75715f104b2c

           <感謝合掌 平成28年3月5日 頓首再拝>

《病気が治らない訳は? 》 - 伝統

2016/03/12 (Sat) 04:15:36


           *『 生長の家 』(昭和26年2月19日)の法語より

   あなたの病気が治らないのは、
   浮浪者が一ぱい其の部屋につまっていて
   ほかの人が入る余地がない家のように、

   「 健康 」 の観念と全然反対な恐怖観念、罪悪観念、
   憤怒憎悪の感情等が一杯につまっているからである。

   福来友吉(ともきち)博士が云ったように
   「 観念 」 は 「 生物 」 であり、
   観念に描いた通りの形があらわれて来るのであるから、

   不用な観念は悉(ことごと)く自分の心から
   追出してしまうようにするのが好いのである。

   「 若(も)し君が隣人に対してどう云う考え(想念及び感情)を
   もっているかと云うことを正直に告白するならば、
   君の健康状態や、経済状態や、家庭状態を私は言い当てることが出来る 」 と

   ユニティの教祖チャールズ・フィルモアは云っているのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/09c6fba34bce0fa629ed42e8664fd83c

           <感謝合掌 平成28年3月12日 頓首再拝>

癒しと云うのは神の創造の顕現である - 伝統

2016/03/21 (Mon) 03:35:09


            *「光明道中記」(P242)より

神の《いのち》なるわが《たましい》は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを知らねばならぬ。

恐れることはひとつもあり得ないのである。

われは神と偕であるからである。

神はすべてのところにましますが故にその癒しもすべてのところにましますのである。
癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、これはただ病気をみとめている
人々に対してのみ言うところの方便的語(ことば)に過ぎないのである。

癒しと云うのは神の創造の顕現であり、神の完徳(まったきとく)が現象世界面に
あらわれて来ることに過ぎないのである。

だから吾等が神の完き創造の《ちから》と《めぐみ》と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。

不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
神は無限の智慧、無限の愛、無限の生命(いのち)であり、世の終わりまで
《常に》吾等と偕に在り、吾等を愛し、吾等を護りつづけていられるのである。

此の不思議なる神または仏の護りを受けようと思う者は
常に神または仏を憶(おも)うことである。

仏典に「衆生仏を憶念すれば、仏衆生を憶念す」とある。
神を、仏を、憶おうとするには常にそれを思い起こさしめる書物を携帯して
少時間を利用してそれを読むことである。

          <感謝合掌 平成28年3月21日 頓首再拝>

「懺悔の心」と「甘露の法雨」 が病いを癒す - 伝統

2016/03/28 (Mon) 04:50:19


          *『 生長の家 』(昭和24年12月27日~28日)の法語より

《子宮癌も 「 甘露の法雨 」 で治る》

一昨年私が九州を巡錫(じゅんしゃく)して 宮崎市の 「 平和の塔 」 の前で、
多勢(おおぜい)の信徒と一緒に平和の祈りをして その高地から降りて来ると、

小山戒三(かいぞう)氏の奥さんが、その親類の婦人と一緒に来られて
お礼を云われるのである。

「 この婦人は子宮癌で手術しても、もう駄目だと医者から云われておりましたが、
『 甘露の法雨 』 で治りましてこんなに元気で働いております 」 と。

その病気の由来をきくと、その婦人は28歳のとき
良人(おっと)に 子供を遺(のこ)して死なれてから、

「 貴郎(あなた)は極楽へ行って結構か知らぬが、
子供を遺してあとに残った私はどうなるのです 」

と恨んでいたのだった。


《懺悔の心が病いを癒す》

大体、泌尿器及び生殖器等にあらわれて来る病気は、
夫婦関係の不調和、先夫先妻の関係、三角関係などの心の悩みが、
その心の影として、夫婦関係の機官にあらわれて来るものなのである。

「甘露の法雨」を読んでも、この問題が解決しない限りは
それが治らないこともあり得るのである。

さきに述べた婦人も亡夫の仏前で、今まで恨んでいたことを懺悔して
お詫びし感謝の心を起して「甘露の法雨」を誦(よ)んだとき、
亡夫の霊も浮ぶことが出来、その妄念の凝結としてあらわれていた子宮癌が
消え去ってしまったのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

          <感謝合掌 平成28年3月28日 頓首再拝>

懺悔と感謝で、病いは癒える - 伝統

2016/04/05 (Tue) 04:32:16


          *『 生長の家 』(昭和24年12月29日~30日)の法語より

《懺悔やまいを癒す》

荒井英太郎講師が佐世保で 「 懺悔の神示 」 を講義したとき、
長い間、脚が硬直していて まがらなかった人が、
脚の関節が柔かになり、自由に動き出したような奇蹟とも見える神癒が行われた。

柔かい心になれば肉体が柔かくなり、その硬直がとけるのである。

懺悔は今まで、

「 これで何が悪いことあるものか 」 と頑張っていた頑固な心がほぐれて、やわらかくなり、
「 ああ、済まなかった 」 と今迄(いままで)の悪い心を打消してしまうのであるから、
過去の罪が消えてしまうのである。

みずから 「 善し 」 として 「 病いを起していた心 」 を肯定しては病いは治らない。



《懺悔は心の浄化である》

懺悔は、自己の心の中に凝結していた
「 間違いの心 」 (精神分析の言葉をかりて云えばコンプレックス)を
洗い流すところの浄化作用を完成するのである。

「 すみません、すみません 」 と両親に今までの不孝の罪を懺悔したとき、
良人は今までの行届かなかった我侭(わがまま)の心を懺悔したとき、
多くの病気は癒されているのである。

「 あなたならこそこんなにして下さるのに、私の尽くしようが足りませんでした。
こんな不つつかな私でございますのに、こんなにも愛して下さいまして、有り難うございます 」 と、

真に全心全霊、お詫びと感謝とをしたとき病いは癒えるのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

          <感謝合掌 平成28年4月5日 頓首再拝>

人の病気を治すには - 伝統

2016/04/15 (Fri) 03:33:42


           *「光明法語」(P60~61)より

人の病いを心で治そうと思ったならば、その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。

観たとおりに現れるのが心の法則であるから、吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。

病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが病気を消滅することが出来るのである。

此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。

          <感謝合掌 平成28年4月15日 頓首再拝>

《神を生きる自分》 - 伝統

2016/04/24 (Sun) 04:02:31


         *『 生長の家 』(昭和25年3月18日)の法語 より

   吾が生活は 神の生活である。
   吾が身は 神の身である。

   吾が全身の細胞は 頭の先から足の爪先(つまさき)に到(いた)る迄(まで)、
   神の霊にみたされているのである。

   それ故に永遠に新生し、永遠に復活し、常に若く、常に愉快に、
   常に健かなる力が みちみちているのである。

   神の癒す力が 我が全身に みちみちているが故に、
   自分の全身の如何(いか)なる部分も老いるということはないのである。

   神の癒す力は 自分の中に宿ってい給うが故に
   わが話す言葉は人々の病を癒し、
   人々の運命を幸福にする力が宿っているのである。

   常に神は わが血液とともに全身をめぐる。
   わが全身は常に健やかであるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

          <感謝合掌 平成28年4月24日 頓首再拝>

「虚妄の念」を一蹴し去ってこそ罪は消え、病は消える - 伝統

2016/05/04 (Wed) 03:44:02


          *「生命の實相」第23巻常楽篇(P23~25)より

《病気とはなんであるか》

人間は神の子であるから本来病気はないのであります。
だから生長の家の多くの信徒は、「神の子に病気はない」という真理の霊感と共に、
自分も家族も共に病気が癒えたのであります。

その理由は、人間の本性なる生命は神より来れるものであり、
それ自身完全でなければならないからであります。

そして人間の肉体なる物質はそれ自身生命なく、感覚なく、
したがって、それ自身痛むことなく、それ自身物質が移動して
炎症を起こすこともできないものであるからであります。

だから、病気とはなんであるかと言いますと、
ありうべからざるものを「有る」と信ずる盲信が形にあらわれたものであります。

盲信が原因であり、病気が結果であります。
本性を包みて知らざること、すなわち包み(罪)こそ
病気の原因であり、症状は結果であります。

だから病気のときは狼狽(うろたえ)るといけない。
心静かに、自分が肉体でないことを観ずるのがよい。
肉体というものと、自分というものとを分離して考えるがよい。

肉体を過去の自分が描いた絵画だと観ずるがよい。
痛いは痛いまま ―― それは自分が痛いのではない。
如実に痛い姿を自分の「念」の画筆が描いたのである。画かねば、もう痛まない ―― 
かく観じて、すでに痛んでいる肉体より《心を放下し》、

一転して、本来痛まない自己の実相
 ―― 円満完全無病なる神の子の実相を、静かに静かに観ぜよ。 ―― 
かく実相を静観することは、過去の病念の画筆を抛(なげう)って、
《新たに、健康の「念」の画筆をとって健全なる肉体を描き上げることになるのであります》。


《心の力を萎縮させない》

病気を実在とし、一つの積極的(ポジチーヴ)な力と観ずるために、患者及び医者は
まず病気の実在感に打ち負かされ、その威力に打たれ、これこそ自然療能の指導者たる
人間の心の力を萎縮させて自然療能を鈍らせることになるのであります。

されば、その反対に自己に宿る自然療能力は、神より来(きた)る大生命の力なるがゆえに、
為さんと欲して能(あた)わざるものなきことを信ぜよ。

抗病細胞の総帥たる「自己の心」の自覚を百パーセントまで強めて、
心の力にて全身細胞の構築力を誘導し、自然療能を完璧にまで高めしめよ。

「こんなにひどい病気になったならば心で肉体を変化さすなどということはできない」
などと、まず病気に対して兜を脱ぐな。病気の威勢に降服するならば「病気」をして
自分の肉体の支配者たることを許したことになるのである。

かくのごとき弱音を断じて許すな。
自分の心が「肉体」の描き手なることを断々乎として主張せよ。

自分の心がこれまでは「病気」の絵を描き出したのであるから、
その病気の絵を塗り消して、健康の絵を描き出すのはいと容易(たやす)いことであると
心のうちに主張せよ!


《病人は無意識のうちに病気を肯定している》

普通病人は、その病中常に、
「今自分は病気である。この病気は実在している。苦痛は実在している。
これは否定することは出来ない。」

―-というふうに、どちらかと言えば、無意識のうちにその実在を肯定しており、
病気の自壊作用を妨げて逆に病気を積み立てて行きつつあるのであります。
それでさえも大抵の病気は徐々に回復します。

これを逆に、自己の念の働きを病気の実在を否定する方向に強く働かせれば
病気の自壊すなわち治癒がいっそう速やかに行われることは
論を俟(ま)たないのであります。


《病気は無い、存在しない!》

病気を一つの実在とし、何か見たり触れたり、つかまえどころのある「《何か》」だと
認めながら、それを念の力で破壊しようと考えるのではまだ足りないのであります。

「病気は無い! あるように見えてそれは実在しない。
それは夢だ。夢が形を顕(あ)らわしたのだ! 」

こう断々乎として、

「人間神の子」の実相智の炬火(きょか)を振り翳して、
その迷いの夢を照破しうるようであってこそ、
はじめて迷妄照破の大威力を現すのであります。

かくのごとき実相智をもって照見し、かくのごとき「実相の念」をもって 
罪と病の「虚妄の念」を一蹴し去ってこそ罪は消える、病は消えるのであります。

なんじの罪は許されたり矣! 罪は無い! 病は無い!
ないものがあるように見えているのはなんじの心が掴んでいるからだ。

心の把握を離せ、離せ!
自己または他(ひと)の病を治すのは、虚に対する実々々――、
一分の隙があってはならない真に真剣勝負であります。

          <感謝合掌 平成28年5月4日 頓首再拝>

《病気を癒(いや)すには》 - 伝統

2016/05/11 (Wed) 04:53:12


         *『 生長の家 』(昭和25年3月28日の法語)より

   吾々が何か病気に罹(かか)っているならば
   それは決して神がこしらえた病気ではないのである。

   それは唯 自分の心の影であるから、心を平和に落着けて合掌して

   「 神はすべてのすべてである。
   神は善であるから神の造り給いし世界には病気はないのである。

   自分の体は神の完全なる生命の最高の自己実現であるから
   病気になどなる筈(はず)がないのである。

   病気は自分の心の迷いである。今自分は心の迷いを去って
   神の姿そのものの完全なる姿をみるのである 」

   かく心の中(うち)に深く念じて 神の姿そのままに完全な自分の姿を
   心に描いてみつめるようにするならば やがてその病気は消えてしまうのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

          <感謝合掌 平成28年5月11日 頓首再拝>

《我みずからにては何事をも成し得ず》 - 伝統

2016/05/18 (Wed) 03:42:53


          *『 生長の家 』(昭和40年3月27日の法語)より

   イエスは

   「 我みずからにては何事をも為し得ず、
   天の父われに在して御業(みわざ)をなさしめ給うなり 」

   と訓(おし)えている。


   諸君は、自分が生まれて来ようと努力して、
   母親の胎内でその栄養分を自分で整理し排列して
   自分の人体を造ったのではないのである。

   「 われみずからにては何事をも為し得ず、
   天の父われにいまして、この人体を造り給うたのである。」

   それならば、私たちが母親の胎内から出て来てからも

   「 われみずからにては何事をも為し得ず」であって、
   自分の力では胃液を製造することも、各種のホルモンを製造することも、
   そのホルモンの精妙なバランスを得させることもできないし、

   自分の力では腎臓で不浄物を択(よ)り分けて
   排泄(はいせつ)することもできないのである。


   これらの働きは悉く神授のものであるのである。

   この真理が理解できるならば、私たちが病に罹(かか)ったとき、
   自己の内に宿っているこの無限の智慧の御(おん)はたらきに全托して

   「 神よ、み心の如くならしめ給え 」と、人間的心配を棄て去ったとき、

   神癒の力がこんこんと内部より湧き出でて
   速やかに癒される理由がわかると思うのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

          <感謝合掌 平成28年5月18日 頓首再拝>

《自然療能に感謝なさい》 - 伝統

2016/05/25 (Wed) 03:19:12


           *『生長の家』(昭和26年4月19日の法語)より 

   取越し苦労をやめなさい。

   脳髄で心配しないでも、脳髄なんか存在しない卵の間から、
   ちゃんと 「 神の力 」 は貴方(あなた)の身体のすべての
   内臓を設計し構造して来たのです。

   取越苦労するだけ、
   胃袋でも心臓でも肺臓でも働きが悪くなって来るのです。


   それよりも其の 「 神の力 」 を信じなさい。

   そして取越苦労をするひまに、寝ている間(ま)も忘れている間も、
   血を循(めぐ)らせ、消化をつづけ、呼吸をつづけさせていて下さる
   不思議な力に感謝しなさい。

   病気を思い出す暇があったら、その不思議な力を思い出して、
    「 今もその不思議な力が自分を生かしていてくれ、
   内部から自分を治しているのだ、有りがたい 」 と心の中で感謝しなさい。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12221336.html

          <感謝合掌 平成28年5月25日 頓首再拝>

《愛は神の癒す力を喚起する》 - 伝統

2016/06/02 (Thu) 03:39:44


          *『生長の家』(昭和26年4月21日の法語)より

   愛は癒す絶大なる力をもっている。
   その反対に憎みは絶大なる破壊力を有しているのである。

   多くの人達の病気は何時(いつ)の日にか誰かに対して
   憎しみの感情を起して、それを赦していず、
   その念が鬱結(うっけつ)しているために起っているのである。

   先ずすべての憎んでいた人々を思い起して、心の中でその人を赦すべし。

   その人々を憎んだことを詫(わ)び、その人たちを祝福せよ。

   多くの病気は人を愛することによって癒されているのである。

   「 愛 」 は神であるから、 「 愛念 」 を起すことは、
   神の癒す力を揮(ふる)い起すことと同じ効果があるのである。

   人のみならず、仕事を愛することも亦、病いを癒す力がある。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12231413.html

          <感謝合掌 平成28年6月2日 頓首再拝>

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