伝統板・第二

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谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉② - 夕刻版

2015/04/05 (Sun) 20:03:25

《「唯神実相論」の神髄に触れる》


生長の家長老(全国講師)
渋谷 晴雄

日時:2012年06月21日 6月19日御逝去
享年 89歳

            ・・・

〈プロフィール〉 大正13年、仙台市生まれ、昭和24年東北大学卒業。
37年生長の家本部奉職。40年本部講師。同年、米国ハワイ駐在本部講師。
46年、東京第一教区副教化部長、47年沖縄教区教化部長。

53年生長の家本部・文化局局長。同年、生長の家理事。
その後、国際部長兼広報・編集部長、講師部長など数々の要職を歴任。

平成3年、ラテン・アメリカ教化総長としてブラジルに赴任し、教勢の拡大に尽力。
11年、生長の家長老。13年2月に全国講師に就任。

著書に詩集『噴水』『祝福』『光の楽譜』、
評論集に『光と風を聴く-宇宙意識時代の夜明』『日本の息吹』などがある。
著書は英訳され、海外でも広く読まれている。

            ・・・


《「唯神実相論」とは何か》

生長の家の教えを哲学的に言うと「唯神実相論」であり、
これは生長の家の教えの根本であります。
それについて、私の解る範囲でお話させて頂きたいと思います。

谷口雅春先生は、「唯神実相論」について『實相研鑚』という本の第2集で
次のように述べておられます。

生長の家独特の教えを、まず第一に哲学的に言いますと、単なる唯心論ではなくて、
唯神実相論というように説かれているのであります。

唯神実相論は単に、“心”でこの 世界はできているという唯心論じゃないのでありまして、
神のみが本当の実在であって、外のものは存在しないのである、というところの、
そういう哲学であります。

それは同時に神は“善”であるから、悪は無い。罪も無い。病気も無い。

(中略)

われわれは罪も業もない、病いも無いという真清浄の実相の奥の院に入る。
そして、さらにもうひとつ、端的にひっくるめて表現して、“現象無し”と言う。
(同書253~254頁)

「唯神実相論」とは、先ほども触れたように
谷口雅春先生のお悟りになられた真理の、哲学的、包括的な呼称であります。
従って、谷口雅春先生の御著書、御講話すべてが唯神実相論を説いておられるわけであります。

また『人間そのものの発見とその自覚』(谷口雅春先生著)の
「唯神実相論哲学の神髄」(114~125頁)にはですね、
問答形式でこの哲学について述べられています。


≪問 唯神実相論とは一体どういう哲学ですか。簡単にわかり易く教えて頂きたいものです。≫

≪答 実在するものは、唯「神」と「神の生命または愛または智慧」の表現のみであって、
神は善であるから実在するものは全て善ばかりである。このことが存在の「實相」
すなわち「本当のスガタ」であるという哲学なのです。(後略)≫

この「実相」に関連しまして、谷口雅春先生がある日、
若き日の故・河田亮太郎氏(元生長の家長老)に言われたことがあります。

河田先生は本部講師で、大変偉い先生でしたけれども、
この先生は大学生時代に谷口雅春先生がまだ生長の家を始めていない時から、
先生の弟子だった方なんですね。

そこで河田先生はご自分で「弟子第1号だ」と言っておられ、谷口雅春先生も
いろんな時に河田さんに真理のお話をしていたのですね。

その中で雅春先生は「生長の家の本を読んで実相世界があるということが解ったから
と言って、それで真理が解ったことにならないのです。その実相世界をここに持ってくる
ことが大事であります」と言われたそうです。

つまり、「実相世界がある」というだけではなくて、
「実相世界は今ここにある」という認識と実践が大切であるというわけですね。

(つづく)

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59 

(2)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105

           <感謝合掌 平成27年4月5日 頓首再拝>

真理を理解するために必要なこと - 伝統

2015/04/07 (Tue) 17:52:20

《真理を理解するために必要なこと》

私は若い時に生長の家に触れ、谷口雅春先生のご講話を拝聴し、
そして色々な体験を頂きました。

家族ぐるみでいろんな病気が消えてしまったこととか、
家庭教師をした頭が悪い生徒さんが「コトバの力」により素晴らしい能力を発揮して、
天皇陛下の通訳をするようになったということとか、

それから仙台で空襲にあった時に、私の家だけが焼けないで1軒だけ残った・・とか
いうような沢山のお陰を頂きました。

ところが、どうも生長の家の教えの神髄が解らない。
谷口雅春先生がお書きになっている言葉は頭では解るんですね。

しかし、本当に、「そうだ!」ということにならない。
そこで、何とかして「本当の教えを我が物にしよう・・」と思っていました。

ある時、谷口雅春先生が、真理が解らない理由として、
次の3点を上げられたことがありました。

(1)その人の生き方が現象のよろこびを追求しているから

(2)その人が物質欲や所有欲で動いているから

(3)その人が自己中心の生き方をしているから

こういう生き方では、真理が解からないと、先生は云われるわけですね。

私は当時は、「真理とは、頭が良ければ解る。どんな哲学でも、著者が矛盾していない限り、
理解可能なんだ」と思っていました。

そこで先生の説かれる真理を一所懸命、理解しようとしたのです。
しかし、どうしても喜びが湧いてこない。
「神の子だ!」という気持ちがお腹の底からしないんですね。

考えてみたら、当時の私は現象の喜びを優先していた。
若かったから、随分悩みました。
そのことが私の著書『光の国から』の「私の実相体験」(23頁)という所に書かれています。

こうした魂の彷徨を10年以上も続けた後で、ある1つの喜びの体験をすることができました。
その体験によって、私は自分というものが肉体ではなくて、
「一切のものがすべて1つだ」ということを教えられたわけです。

この体験の後で『生命の實相』を読んだら、今までと違って
「先生はこういうことを仰っているんだ」「こういうことなんだ」と自分なりに解る。
つまり、人はそれぞれの形で、実相というものを体験するわけですね。

ちょうど、私の後に研修を担当される大下貞雄・栄える会担当理事がお作りになった
レジメの中に、新版『希望を叶える365章』の素晴らしいご文章が引用されていますので、
少し紹介させて頂きます。


《実相に直接触れる》  

あなたが常に健康で若々しく、年齢が老いても、青年の如く強く、
愉快な生活を送ろうと思うならば、一つの秘訣があるのである。

その秘訣と言うのは、あなたが「心の世界」で
如何なる想念感情をもって生活するかと云うことである。

あなたの「心のレンズ」が、 実相の“既に完全なるもの”を現象界に投影する過程に於いて、
どんな歪みを与えるか、どんな色着けをするか、それともレンズの収差なしに完全精細に
現象の画面に実相の完全な姿を写し出し得るか否かにかかっているのである。

私たちは、常に心に実相をみつめることによって、
心の波を修正し、レンズの不精確さを訂正することができるのである。

私たちは「実相」の書を読み、実相に就いて語り、実相の哲学をわが者顔に説くのであるが、
実相に直接触れた実感を得た人は少ないのである。
換言すれば徹底的に神想観を行ずることが不足しているのである。(同書204頁)

 
つまり、本を読むだけでは駄目で、
神想観の実修を通して「実相に直接触れる」ことが極めて大切だというわけですね。


(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月7日 頓首再拝>

《実相に直接触れた人々》 - 伝統

2015/04/09 (Thu) 19:42:30

《実相に直接触れた人々》


この「実相に直接触れる」ということに関連して、
かつての『聖使命』1987年1月15日号には、
実相に直接触れた4人の体験が紹介されています。

例えば海上マコトさんという方は、初めて実修した神想観で、
瞑目合掌した途端、暗いはずの目の前が、光に満ち満ちた感じになられた。

導師が唱える“肉体はない、物質はない、現象はない、
あるのは光明一元の完全な世界のみ”という言葉がそのまま心の底からうなずけた。
そしてよろこびが溢れてきて、嬉しくて嬉しくてたまらないよろこびが湧いてきた。

神想観を終えて目を開けると、壁も机も天井も畳も花も、
そして周りの人々も、すべて黄金色に輝いて見えた。
音楽も、本当に美しく心にしみるように聞こえてきた、という体験をされたそうです。


また谷藤貴子さんという方は、神想観、聖経読誦を一心に行ない、終えると、
滝に全身を打たれ、きよめられたかのようにすがすがしく、さわやかな感じになった。
そして憎しみに囚われていた心が、いつのまにか晴ればれとしたものになっていた。

そしてこれまでの自分は本当の自分ではなく、この静かで穏やかな心の自分が
本当の自己であることを発見した。
そして“感謝することの素晴らしさ”を身をもって実感することができたというのです。
 

このような感動的で、宇宙と自分とが一つあるということを如実に感じる体験を
アブラハム・マズローという心理学者は「至高体験」(ピーク・エクスペリエンス)と
名付けました。

これは前記の方だけでなく、著名な文学者や哲学者、宗教家、芸術家なども
これと似たような「至高体験」をした方がいっぱいおられます。
 
人々はこのような強烈な体験により、「一体、今まで何十年間、何をやっていたんだ。
こんな素晴らしい世界があり、神の命に生かして頂いていたのに・・」
というような感動を味わうわけですね。

 
やはり「人間は神の子である」という真理は、
感動をもって全身心で把握する必要があるわけですね。


しかしながら、その体験を絶対のものと思って、
そこに留まっていると、悟りは本物になっていきません。

この悟りの段階について『光の国から』224頁に、
禅の本である『十牛図』について書かれています。
少し紹介してみます。

禅の本に『十牛図』という禅の修行者のための手引書があります。
それは牧人が牛を求める姿が十枚の絵に表わされている。
牛というのは「真の自己」つまり実相の自己である。

第一図は尋牛と題されていて、求道の出発である。

第二図は見跡。彼は牛の足跡を見つける。それは教えをうけて道理を学ぶ段階である。
自他は一体であるとか、実相は完全円満であるというような真理を頭で知った段階である。

第三は見牛。行において実相をかいま観た段階である。

第四は得牛。われ実相を得たり、の段階である。
先ほどの体験談では、こうした悦びが表現されている。
ところがここは頓得の悟りであって究極ではない。

ここから第五牧牛。
第六騎牛帰家。
第七忘牛存人。牛を忘れて人がいると。

第八人牛倶忘。人、牛、倶に忘れるという境地ですね。
第九返本還源。
第十入 垂手。 とは街のことで、垂手とは手をさしのべて衆生のために尽すことです。

つまり第十図では、悟りの体験で止まるのではなく、
街へ行って世間の人に愛行することの大切さが示されているわけです。

これは皆様が普段からやっておられることですね。
一番の悟りの心は、愛行をすると。そこに行くまでに一杯いろいろあるわけですね。

それで「私は、実相を知った」という段階に満足しているだけでは駄目ということですね。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月9日 頓首再拝>

《求道者の進むべき道》 - 伝統

2015/04/12 (Sun) 20:04:37

《求道者の進むべき道》

前にも触れた心理学者のマズローは晩年、至高体験はピークに高まるがその後、
谷の状態がきたり、自分の意志によって自発的にそのような体験を持つことができないなどの
欠点を挙げて、「高原体験」(プラトー・エクスペリエンス)という永続的な悟りの状態が
あると説きました。

そしてその「高原体験」には訓練や修練によって到達できると述べています。
それは単なるエクスタシーではなく、覚醒した状態であり、
ありのままの存在を認知できる状態であるという。

私たちも生長の家の信徒としてみ教えを学び、生活に実践して行くならば、
明るい感謝に満たされた「高原体験」を持つことは困難ではないと思われます。

谷口雅春先生は私の『光と風を聴く』という本に「推薦の序文」を寄せて頂いていますが、
その中で先生はラーマクリシュナや聖パウロ、小林秀雄氏、岡潔氏などの宇宙の神秘を
直観した天才たちを讃えられたあと、普通の求道者の進むべき道を次のように示して
下さっています。

  
  しかし、宇宙精神の中にある光を見、神を見、神の国の秩序を見、美を見、荘厳を見ること
  ができるのは、これら特殊の天才に限られていることではないのである。
  すべて 人は神の生命と智慧と愛とを自己の内に宿して生きているのである。

  真剣に、利己的動 機ではなく、神の万徳のうちの何らかを生きる目的で生活するとき、
  その人はきっと自 己の個性に叶った姿で生命の光を見、真理を見、美を見、
  それを生かす事によって人類に 何らかの貢献をなすところの働きができるであろう。

 
谷口雅春先生は常に実相世界を見据えて生活しておられた。

それは先生のご日常もそうでありましたし、
人類光明化運動の使命を生き切っておられたわけです。 

ですから、私がハワイに赴任していた時に、2年余りも休暇をとっていないから日本に
一時帰国するようにと、ハワイの信徒さんたちが本部に嘆願してくれたことがありました。 

しかし先生からの返事は、「渋谷君が休暇をとりたければ、本部講師を辞めて帰ってきなさい。
私は日曜も、祝日も休んだことがない」というものでした。

私は、「やられた!」と思いました。まさに“頂門の一針”でした。 

先生はまた、アメリカを巡錫された時に、
ホルナディ博士のリリジャス・サイエンス教会で講話をされた。

その時に、家出した夫に裏切られ、乳飲み子を抱えて、
もう死ぬしかないと思い詰めた若い婦人が、フラフラと教会に入って来た。

すると、谷口雅春先生がちょうど、神想観の指導をされていた。

その婦人も一緒に祈っていると、突然、夫への愛が湧き起こり、夫に懺悔し、
夫を放つ愛の祈りをした。そして帰宅したところ、その日の夜、半年ぶりに夫が帰ってきて、
二人は新たな出発をしたということがありました。 

だから実相を観ずるということは、単に観じるだけでなく、
それが実相を表す素晴らしい行動になるわけですね。

祈りというのはすごい力を持っていることを教えて頂いたわけです。 

これはホルナディ博士が谷口雅春先生と会食しつつお話になったのですが、
この話を通訳したところ、先生はあくまでも謙虚に、微笑んで「神のみ業です」と言われ、
私は目頭が熱くなりました。

先生はそのような婦人がいることもご存知なく、
ただ実相世界の円満完全な姿を祈られたのでした。
光の広がる所、闇は消えていくのですね。 

また、ハワイの信徒の一人は、谷口雅春先生と握手した時に、
先生が何ともいえない慈愛に満ちた眼で自分を見つめ、握手して下さった。

それはただ私ひとりのために、かげがえのない存在としてして下さった握手だと
はっきり解りました・・と、感動を述べていました。

このような一人ひとりをかけがえのない「神の子」として拝み、
その「実相」を観ることがそのままその周囲に天国浄土を現わすことになるのです。 

(以下略)


(以上で、《「唯神実相論」の神髄に触れる》についての紹介を終わります)

(なお、この資料は、平成16年飛田給道場で実施された講演録です)

           <感謝合掌 平成27年4月12日 頓首再拝>

澁谷晴雄先生についての追加の情報 - 伝統

2015/04/14 (Tue) 17:50:17

(1)本流宣言掲示板「悼 澁谷晴雄長老 (10442)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2471

   ”志恩 さま”による追悼の辞


   渋谷先生の最後の著書である詩集は、「光の四季」(H23年、日本教文社)ですが、
   以前に出された他の詩集に「噴水」「祝福」「光の楽譜」(日本教文社)が、
   ございます。

   他の著書は「光と風を聴く」「超能力の子供たち」「光の国から」(日本教文社)
   その他あります。 

   渋谷先生の本からの情報ですが、光明思想家のR・E・デーヴィス氏(アメリカ人)、
   ブラックソン氏(アフリカ人)が、雅春先生を慕って来日されたときも、
   通訳として活躍されたり、通訳としてお二人の講演のお仕事も手伝われたり、
   英語もぺらぺらの秀才でいらして、ハワイ、とブラジルと2つの国の
   生長の家の教化総長としての大役も果たされました。

   雅春先生時代からご活躍されていた生長の家の巨星のお一人が、また、旅立たれましたね。
   私も、渋谷晴雄先生のご冥福をお祈りいたします。


(2)本流宣言掲示板 ~”コスモス さま”による追悼の記事です。
    「渋谷晴雄先生を偲んで――『光の国から』より ①②③④⑤⑥⑦ (10659)」
     → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2519

  ①「生長の家にふれる」
  ②「仙台で空襲に遭う」
  ③「人間はみな天才」

  ④ 私の実相体験
  ⑤ ハワイへ行きなさい
  ⑥⑦忘れえぬ人――榎さん


(3)”童子 さま”による追悼の辞と、
   『光と風を聴く』への谷口雅春先生が寄稿された序文について
   → http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22989764.html


   (以下、谷口雅春先生による序文の後半分を抜粋)


    いずれにせよ、真摯に生きる人はその人の天分に従って、この書が語る用語を
    借りるならば、宇宙的感覚を以って、宇宙意識の中にある光耀に触れ、感じて、
    それを〃光〃の姿で見、神の姿で見る。

    数学者は岡潔氏の如く実相の世界に於ける〃数の秩序の理念〃を見、
    物理学者は、物理の世界に於ける真理を見る。

    湯川秀樹博士は夕食後、縁側の椅子にもたれながら心が静謐の世界に入ったとき
    宗教的天分のある人が神を見たごとく、〃中間子理論〃の真理を見たのである。
    これが基礎になって、近代の素粒子物理学は急速の進歩をとげたのであった。

    この本の著者が指摘しているように、三十一歳でノーベル物理学賞を受けた
    ハイゼンベルク氏は二十三歳のとき、ヘルゴランド島で、量子力学の数学的解明に
    成功したとき、「世界の中心的秩序の壮麗さを心眼で見た」というのである。


    しかし、宇宙精神の中にある光を見、神を見、神の国の秩序を見、美を見、荘厳を見る
    ことができるのは、これら特殊の天才に限られていることではないのである。

    すべて人は神の生命と智慧と愛とを自己の内に宿して生きているのである。

    真剣に、利己的動機ではなく、神の万徳のうちの何らかを生きる目的で生活するとき、
    その人はきっと自己の個性に叶った姿で生命の光を見、真理を見、
    それを生かす事によって人類に何らかの貢献をなすところの働きができるであろう。

    最近わたしはテレビでその人の横顔を見、「美しく愛の深い容貌をしている婦人だな」
    と見惚れていると、その横顔が正面を向いた時、その婦人は嘗てわたしが、舞台で
    度々見た俳優であり今は多勢の孤児を独力で教養している「ねむの木学園の園長」
    をしている宮城まり子さんだとわかった。

    そして更めて「美しい慈愛の眼をしている」と感動したのだった。
    やがて、すべての人々が、こんな愛の深い心と容貌となって全人類が睦び合い
    扶け合う時が来ることをわたしは想望して、そのことを祈りつつ此の推薦の序文を終る。

    昭和五十二年十一月四日     』

          <感謝合掌 平成27年4月14日 頓首再拝>

「なにがあっても皆善・・」~奥田寛先生 - 伝統

2015/04/18 (Sat) 20:08:58


       *Web:TAKASHIエッセー集目録(01/10/16)より


本日、本部内報の『ひかり』秋季号を閲覧しておりますと、
とても心動かされる言葉に出合いました。

それは、去る7月1日に逝去された奥田寛先生(前生長の家富士河口湖練成道場総務)が
日頃、口癖にしておられたという次の文句です。


 「・・皆善、皆善、なにがあっても皆善・・」


相愛会部の本田恵さんの「追悼の言葉」によりますと、
奥田先生は10億円近い借金で来られた練成参加者にも
笑顔で「10億円も借金できるのは、それだけの力があるからですよ。

あなたは神の子で素晴らしい!皆善、皆善ですよ」と励まされ、
解決へと導かれたということです。(『ひかり』17頁参照)

 
言うまでもなく、私たちは「善一元」の実相世界を教えられていますが、
とかく現象世界の千変万化を見ておりますと、そのことを忘れて「
善もあれば悪もある」との二元論的な考えに陥りやすいものです。

 
それだけに、日頃から奥田先生のように「言葉の力」で、
神の創造された「善一元の世界」を讃美し続けることは大切ですね。

 
ちなみに『生命の實相』頭注版第4巻には、
どんな出来事も悟りを深める「必要な与財」であることが、次のように示されています。

「何が起きてきても、こういうことだけはいえるーー各人にとって救いとならないことは
一つも起きない、つまずく人はつまずくことによって悟り、苦しむ人は苦しむことによって
救われ、悩んでいる人はその悩んでいることが光明を拝する一過程になっているのです。

みんな神の子であって救われないものはない。あらゆる苦しみも、
結局その人が神の子である実相を悟るために必要な与財であります」(同書168頁)

http://www.geocities.jp/taka19602001/ESSAY18.htm


・・・

『生命の實相』は一大生命の教育書

           *光明掲示板・第一より転写

現代教育に光をあてる生長の家の教育運動
~ 奥田寛 元・(財)新教育者連盟理事長



昭和4年12月13日、「生命の実相を知れ」「人間・神の子」「今即久遠」
「天地一切のものと和解せよ」との天啓を受けられた尊師谷口雅春先生によって、
翌昭和5年に『生長の家』誌が発刊され、革命的な人類光明化運動が発進しました。

更に谷口雅春先生は、昭和10年6月「生長の家教育者連盟」を創立され、
同時に『生命の教育』誌を発刊されました。

この発刊の辞こそ、現代教育に光をあてる生長の家の「生命の教育」の源であり、
基本理念であります。


もちろん私たち人類光明化運動の典拠となるものは、
生長の家の根本教典『生命の實相』全40巻〈頭注版〉でありますが、

その第25巻には、

「わたしはこの『生命の實相』を宗教と云うよりも
一大生命の教育書と云いたいのであります」

「わたしは『生命の實相』は偉大な生命の教育書だと言うのであります」

したがって、生長の家の教育 ―― 「生命の教育」の所与の根本教典もまた、
『生命の實相』であると言うことができます。


『生命の實相』全40巻のうち、

教育篇として特に第13、14巻には、教育のよってたつ土台としての
倫理観、人生観、世界観について論及されており、

第14巻後半には「生長の家の児童教育法」が総括的に述べられております。

第25、26巻は教育実践篇、
第29巻は女性教育篇、
第30巻は再び児童教育について、
第40巻には胎教及び胎教以前の重要性について、又乳幼児の教育について

それぞれ論述されております。


初歩、入門の方は、これ等教育篇のどの一冊からでも読みすすんで下さるか、
あるいは教育篇からの抜粋による『生命の教育』を先ずお読み下さるのも一方法でしょう。

(光明掲示板・第一「生命の教育」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=681

          <感謝合掌 平成27年4月18日 頓首再拝>

生かす心 ~和田英雄講師 - 伝統

2015/04/22 (Wed) 20:12:26


          *光明掲示板・第一から転写

《和田英雄講師の47年栄える会九州ブロック大会講演録からです》
 

・・・・私がまだ本部にプロとして奉職する前のこと、役員会があって上京し、
谷口先生にお会いして、またお山へ伺おうとしたときに、
清都理門先生からこう言って叱られた。

「和田さん、東京へ来た以上、あなたも東京の方式をやって下さいよ。
谷口先生はお忙しいんです。なのに初中終お山にでかけて、あなたが行ったら、
谷口先生も会わないという訳にもゆかんでしょう。
本部では、便箋で先生とやりとりしているんです」

不断におめにかかれないから、せめて上京した時くらい先生にお会いしたいと思っていた。
が、為ん方なく、便箋に用件を満たして封筒に入れたところ、また怒られた。

「谷口先生は、郵便局を使わない内々の通信には、新しい便箋を使うな、
サラの封筒は使うな、と言われているんです。用済みの封筒を不断から貯めておいて、
その封筒に紙を貼って、谷口先生と書けばそれでいい。
便箋にしたって新しいものを使わずに、そのへんにプリントした紙が一杯あるでしょう、
それを裏返しにして使いなさい」

無限供給を説きながら、何てケチな教団だろう、と思いつつ、
私は清都先生に言われるままやり直して、谷口先生にお出ししたんです。


しばらくするうちに、〃お急ぎだと思うから、すぐ返事を渡します〃とご回答がきました。
下さったそのお返事をみますと、私が紙を貼って〃谷口先生〃と書いたところを消して、
赤ペンで〃和田英雄様〃と書かれてあり、同じ封筒が送り届けられた。

〃ああ、先生はお忙しいからこういう手もあるなあ〃と思って、中をあけてみますと、
私が〃お伺い〃として認めた便箋の横に、また赤ペンでご返事をスーッと書いて下さっている。

先生の偉さを知らない最初のうちは、〃いくら何でも改めて書いて下さればいいのに〃と
思っていた。また、こう考えた、〃先生はお忙しいから、時間を活用されているんだ〃

このことを先生にお会いしたときに何かの調子にフッと話しましたら、
「君、違うよ!」と先生は言われる。

「僕は何でも生かしているんだよ。君のくれた〃お伺い〃の質問に対して
改めて便箋を使って出したら、質疑応答にならないだろう。質問のあとにチャンと
答を書いておくから、はっきりするんです。そして、紙も無駄がない。
しかも、赤でキチッと書いておいたらはっきりするでしょう」


先生の深い考えに私は打たれたのです。
ケチでもなければ倹約でもなかった。

すべてを生かす、ということから考えたら、何もかもがそういうう具合に生かされて、
そして気がついてみたら、無駄なものは周りに一つもなかった ―― ということです。

私は、こういうところに〃握れば一点となり、開けば無窮となる
〃経営の一番大事な〃生かし〃というもの、生命の実相の〃生(なま)〃の姿が
現れているのだと思わせていただいたのです。


(光明掲示板・第一
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=71

          <感謝合掌 平成27年4月22日 頓首再拝>

意義深い昭和五十七年~和田英雄(理事長) - 伝統

2015/04/24 (Fri) 17:30:06


意義深い昭和五十七年 
~生長の家理事長 和田英雄先生( 聖使命新聞より一部抜粋)

     *掲示板「生長の家「本流復活」について考える」より転写

『生命の實相』というのは、次元を超えた絶対の世界、時間、空間を超えた世界、
そこに唯々生命が躍動している世界であります。

しかし、ともすると、吾々は人類光明化運動を傍観者的な立場で論じ、又、
アウトサイダー的な活動をやっていないだろうかと、
反省してみる事が大切だと思います。

 
例えば、吾々は日本国実相顕現を叫び続けてきていますが、
果して、どこまで日本の実相が、現実に顕現してきたでしょうか。

現実は、依然として、主権在民の占領憲法下にあって、
「明治憲法に復元せよと叫けべも声いたづらに街に消えゆく」
状態がそのまま続いているのであります。

そうしたことをじっくりと考えると、
一時たりとも安閑としてはいられないのであります。

『生命の實相』発行満五十年に当る今年、
今年こそ徹底した光明化運動を展開していかなければならないと思います。
幸いにして、『生命の實相』初版本の復刻版が、今度発行されることになりました。

皆様一人一人が、この復刻版を手にされて、
総裁先生がお受けになられました「今起て!」の啓示そのままを、
吾々も改めて感得して、体当たりで昭和五十七年に臨んで頂きたいと思います。

今年、総裁先生は九十歳即ち卒寿をお迎えになられます。
大変すばらしいおめでたい事で、今年こそ総裁先生の御悲願にお応えすべく
吾々信徒は、思いを尽くし、誠を尽くし、五感を超え夫々の組織を通して、
無限の可能性を爆発的に開発し、一大飛躍的に教勢拡大を図ってゆこうではありませんか。

   (http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2267

          <感謝合掌 平成27年4月24日 頓首再拝>

いのち立つ法悦(よろこび)~和田英雄先生 - 伝統

2015/04/27 (Mon) 18:44:10


          *『生長の家』誌(昭和56年6月号)より

《いのち立つ法悦(よろこび)  ―  “天の御中”の心を自覚すること》
 ~ 生長の家本部理事長  和田英雄


生長の家が立教10年目を迎えた時の『生長の家』誌の3月号がございます。 
谷口雅春先生がこう書いていらっしゃいます。


『愈々生長の家創刊満拾周年の3月1日がまゐりました。 
創刊頃私は、自分の専用する机一脚もないのにこの仕事を始めたのでした。 
子供の専用机を子供が夜間眠ってゐる間に借りて執筆したものです。 

寒中炭火もなくひとり起きて筆を走らすこともありました。 
尤も昼間は会社の仕事に鞅掌してゐたのであります。 
物資統制の今の皆さんの状態よりも、まだまだ峻しい、行だったのでした。 

それは苦行と言ふ意味ではありません。 
生命(いのち)が‘ひとり立つ’ところの、厳粛な訓練時代だったとも言へるでせう。 
その中に法悦があったのでございます』


この 「生命がひとり立つ」 という、ここが大事なところですね。 
生命(いのち)そのものが出て来るところ、条件がどんなに厳しくとも辛くとも、
その中に“法悦”がある。 

これこそが信仰の真髄であり、本当の文化か亦ここから出て来るのです。

戦後になりまして、日本はそういう霊的な文化の伝統や慣習を全部捨ててしまって、
間接的な喜びばかり追い求めるようになった。 
いわゆる間接認識による喜怒哀楽ばかりです。

私の家なんかでもそうですが、例えば夫婦の会話が大事なのに、それが少なくなっている。 
少しの時間があれば、ついテレビを見てしまう。 
何処かへ行くのでも、今までは直接そこへ出かけたものが、
テレビで間に合わせてしまうのです。 
テレビ電車に乗っている。 

そんなふうに、何か全てが間接的になってしまっているのですね。

自分が感じた事よりも、マスコミを通じての意見の方が多いようなのです。 
皆さん注意した方がいいですよ。 

「建国記念の日」でも、吾々が計画して明治記念館で立派な式典をしましたね。 
沢山の人が集って、国の誕生日をお祝いしました。 
政府の方や大臣も多数列席された。 

片方、反対派も極く少人数で集って集会を開いていました。 
ところがマスコミは同じように取材して、
恰も反対派が賛成派と同じだけあるように報道している。 

そういうことを通じて見ていると、随分反対があるんだなあと思ってしまうわけです。 
実際には少ししかないものでも、間接的になると沢山に見える。 

自分が直接で感じてみれば、日本人なんていうのはまだまだ、
どんな教育を受けたからといっても、伝統的なものを愛している
深い霊的な民族性というものが、一杯残っているのです。 

ですから、中学生が親を殺したとか、色々暴力をふるったとか問題になっていますが、
それはほんの僅かで、素晴しい子供たちがいっぱいいるわけです。 

先祖伝来から受けついで来たものをちゃんと有っている。 
なのにそういうことをちっとも取り上げないで、ちょっと悪いことをしたら
そればかり大きく報道するのです。

確かに現代は、教育も環境も吾々の子供時代とは随分ちがっていますが、
大事なものは変っていないはずです。 

ですから、吾々のこの霊的な運動、叫びをもっともっと拡げて、
そして続けて行けば、いくらでも本来の善いものを掘り出せると思うのです。

 
私はあらためてこの谷口雅春先生の立教10周年の時の御文章を拝読させて頂いて、
本当に勿体ないことだなあと思うのです。 

先生がそのように厳しい御環境の中から、ひたすら神の声をお聴きになって、
已に已まれずに綴られて来たものが、
吾々の 『生命の實相』 であり、吾々の運動である。

だから、吾々の運動を展開する中で一番大切なのは、先生がお示し下さったように、
その中に “法悦” がなければ本物でない。 
本当に霊的に目覚めたところに法悦があるのです。 

にじみ出て来る何とも言えない喜びがある。 
法の悦び  ―  宇宙に充ち満ちているところの法に一つに溶けこむ悦びであります。

 
では、その法とはどんな法であるか。

天の御中の心です。 
谷口先生が立教以来ずうっと説き続けて下さっているのは、
この “天の御中の心” である。 

「天地の初発の時高天原に成りませる神の名は天之御中主神」
  ―  これが‘法’なのです。 
ここから出て来る悦びでなければなりません。 

天の御中とは宇宙の御中です。 
この‘中’とは、未だ表(おもて)に出て来ないけれど、
そこに全てが含まれている中心である。 

支那では中庸といいますが、これを‘未発の中’という。 
ここからすべてが展開して来るわけですが、吾々の先祖はそこに
宇宙の根元というものを、霊的に直観したわけです。

それはまた先祖だけが自覚したわけではない。 
吾々の中にも同じ霊的な流れがある。 

ですから、谷口先生から『古事記』の御講義を聴いて、
またこうして御本を通じてお話をきけば、皆様方、この大真理が解るのですね。 “
ああ、中の心だ”と ・・・・・

これをもっと簡単に言えば、“中心”ということになります。 
私たちの日常生活でも、夫婦の仲の悪い人、親と子の仲の悪い人、
会社の中でも閥を作ってゴチャゴチャしていたり、政党なんかでも同じですが、
それぞれ仲が悪いですね。 

それは、この「中」の心を知らないからです。 
皆なそれぞれが中心だと思っているからズレて来る。

例えば、なぜ夫婦の仲が悪くなるかと言えば、夫中心になっていないからです。 
妻がえらそうになって両方の役目をやろうとする。 
子供は子供で自分たちが中心だと思っている。 

そのように中心がたくさんあってバラバラになっている。 
中心が一つになっていないのです。 
やはり父親というものが、霊的にキシッと一つの中心にならなければ、
家庭はうまく行かないわけです。

 
谷口雅春先生は、52年間、この創刊の時の御心とちっともお変りなく
世の中にどんな厳しい環境が出て来ようとも、ただ道ひとすじ、
生命(いのち)ひとり立つところの御生活と御叫びを続けていらっしゃるのです。

ですから、生長の家というのは何かと言えば、中心帰一教と言ってもよいと思うのです。 
小さくは、自分が宇宙の中心である。 それが “神の子” ということです。 
少し広がれば家庭、その中心は夫であり、父親である。 
地域社会の中心、そして国の中心というふうに広がるわけです。 

その国の中心は勿論天皇さまでいらっしゃるわけです。

こうして、どこまで行ってもみんな一つの中心というものがピシッと立っていて、
初めてそこから全ての善きものが展開して来るということであります。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/604d2016899f084977431ecb380ed577

          <感謝合掌 平成27年4月27日 頓首再拝>

本流・光明掲示板からの紹介~和田先生 - 伝統

2015/05/07 (Thu) 20:06:36

以下に、和田英雄先生に関し、光明掲示板にて触れている部分を紹介させていただきます。

(1)光明掲示板・第一「体験的信仰論、神想観と時間」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=716

和田先生は、かつて谷口先生に神想観は何時ごろしたらいいかを
尋ねられたことがあると言います。

その時、先生は「一般の信徒にはそんな早い時間は言っていませんが、
神様との交流は、本当は物や人が寝静まった丑三つ時が一番いいのです」と、
おっしゃったそうです。

            ・・・

本部の早朝行事で朝の光明講座を開かれたのも和田英雄先生でしたし、
私も毎朝先生のユーモァにとんだ笑いの耐えない講話に魅せられ通いつめました。

本当に愛の深い最高の講師であり、理事長でもあった先生の事が偲ばれます。

            ・・・

和田先生は宗教の垣根を越えて谷口先生の弟子になられた方だけあって、
求道心は人一倍熱心なものがあったと思います。



(2)光明掲示板・第一「「神秘面より観たる生長の家四十年史」
    ⑩ 仏耶の教えを更に完成して 谷口雅春先生著 (37)
   日時:2012年08月02日 (木) 13時09分
   名前:龍
   →http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=28

   この中にも、和田先生のことを、谷口雅春先生は引用しております。


(3)本流青年掲示板

   本部講演会時での和田理事長の講話のポイント

  ①子孫に残すのは信頼。

  ②生命の教育に必要なのは厳しさ。

  ③ケチはいかん。

  ④実相の世界はデラックス。

  ⑤人間神の子に同情はいらない。

  ⑥何が出てきても妥協せず実相直視。


          <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

わが魂の目覚めの決定的瞬間 ~嘉村俊煕先生 - 伝統

2015/05/10 (Sun) 17:39:28

わが魂の目覚めの決定的瞬間
~生長の家宇治修練道場  嘉村 俊煕


         *『生長の家』誌  昭和36年新年号 より

昭和10年4月25日、前夜大喀血をした妻が最悪の状態に追いこまれた昼さがり。 
ふと手にしたのが5月号の 『主婦の友』 であった。

中に 「奇蹟的精神療法の真相を語る」 
「話を聞くだけで難病が全快するという “生命の實相” とは何か」 と書いてある。

一読して全く驚いた。 これこそ‘天の御使い神の導き’であったか。 
満州新京の本屋という本屋を探し廻り 『生命の奔流』 という一冊の本を手にした。 
余りの嬉しさ感激に、二夜一日同じ本をくり返し3回夢中で読みつづけた。

越えて27日の朝、妻は澄んだひとみを輝かして 
「今朝はとても気持がよい。 ‘きっと’今日は起きられますから銀行へ出て下さい」 
と言うのであった。

出ては見たものの帰心矢の如く、早引して帰宅すると、
家内は既に起ち上り、妹と共に大掃除をしているのである。 
余りの奇蹟に二人相擁して泣いた。 

嬉し涙は止めどなく流れる。 16年来の難病一瞬にして消ゆる。

「人間は神の子だ、そのまま健康だ」 生きている間、いや永遠に忘れまい。 
堅い誓いは今も二人の胸に焼印の如く刻まれている。

春夏秋冬二十有六年、くじけんとするとき、よく二人を支えてくれたのはこの自覚であった。

      (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/bf992de68f8df334e04a5b18102e5234)

          <感謝合掌 平成27年5月10日 頓首再拝>

個人救済から国家救済へ - 伝統

2015/05/12 (Tue) 18:51:05


          *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-03-15)より

生長の家神奈川県教化部長  吉 田  武 利


ある年の全国代表者会議の御結語に、谷口雅春先生が、

他の宗教でも人間・神の子という意味のことは説いている。 
仏教でも本具仏性と言っている。 
生長の家は、人間の実相のみならず、天皇の実相、国の実相を説いている。 
ここが他の教えにないところです ──

という意味のお言葉を言われました。

「実相」という言葉は、仏教でも従来言っております。 
しかし仏教書を読んでも、この「実相」は有るものやら、無いものやら、
なにか空々漠々としたもののような説き方です。

ところが谷口先生は「実相世界」とは、そんな、有るような、無いような、
空空漠々たる世界ではなく,無限荘厳の、大調和の極の極の世界であり、
中心帰一の秩序整然たる大調和の世界であり、その中心に一柱(ひとはしら)の主神
しろしめす実相日(ひ)の本(もと)の国であることをお悟りになられたのであります。


「実相世界は一つの神に創造られ一つの神の叡智によって支配されているから、
秩序整然たる相(すがた)である。実相世界を空無の世界、虚無の世界、茫漠の世界だ
と思うのは誤りである。 ・・・

実相世界にはただ一つの国があるだけである。 
その国は日の本(ひのもと)と名附けられ、また高天原国と名附けられている。 
唯一人の君がいまして高天原国を治(しろ)しめしている。 ・・・

実相世界が現象世界に迷いなく映れば、現象世界も一君に統一せられ、
悉くの国が大和合して一つの大日本国を顕現し、現実世界にも獅子と羊が相戯れ、
蚊も蚤も人を螫(ささ)ず、幽界、霊界の諸霊悉く相和して調和し其の処を得る。

かくの如くなることを指してキリストは
『御心の天に成るが如く地にも成る』と言ったのである」 
            (谷口雅春著『秘められたる神示』72~73頁)


と「実相金剛身の神示」で示されております。 

そして谷口先生は、この神示を解説されまして、次のようにお説き下さっています。

「『日の本(ひのもと)』とは実相世界でいう“超次元”の霊的世界そのものであり、
それが現象界に“救いの慈光”の放射される光の本(もと)の国であり、
その中心者たる神は“一つ”であるから、『実相世界にはただ一つの国があるだけである。 
その国は日の本と名附けられ』とあることの意味がよくわかるのであります。 ・・・

実相の世界の神は、本来“一つ”であり、その神が八百万の神仏とあらわれて
いられるのであるから、唯ひとりの“主神”がましまして、
完全なる秩序ある統一が得られていることも当然であります。 ・・・

キリスト教でいう『天』とは『実相世界』であるとことがわかりますと、
キリスト教の“主の祈り”の『御心の天に成るが如く地にも成らせたまえ』と
言うことが『既に神の御心が実相世界に成っている。 
その通りに、現象世界にも成らせ給え』ということを意味しているのであります。 ・・・

『御心の天に成るが如く地にも成らせ給え』というキリスト教の祈りが実現すれば、
現象世界にも、“一柱の主神”の投影として地上に“一君”が連邦国家の主権の象徴
としてあらわれざるを得ないことになります。

そこで、この連邦国家の主権の象徴として一君を選ぶ場合に、
どなたを世界連邦国家の中心象徴とすべきかという問題が起ってまいります。

世界連邦の中心象徴となるべき者は、野心ある国々の元首や支配者ではいけない、
其処に何か神聖なるものをもって来なければ連邦国家の主権の神聖性を象徴するに
ふさわしくないのであります。 ・・・

日本の皇位は、天祖の詔勅によって連綿としてつづくべき宇宙意思によって
定められていますから、“日本敗戦”というような古今未曾有の大自壊作用が
起ってさえも天皇制は廃止せられず、皇位の連綿性は保たれているのであります。 ・・・・

やがて出来る世界連邦統合の象徴として何か神性なるもの、永遠なるものを求むれば、
日本の皇位のほかにはない。 

その皇位の上に神孫が降臨し、キリストが再臨し、弥勒が下生(げじょう)し、
それが世界連邦の中心象徴としての“神の主”となるとき、『黙示録』に
予言されたるキリストの再臨が成就するのであります」 (同書89~91頁)


 
谷口先生が、そのお悟りの眼をもって、聖書をひもとき、仏典を読まれたとき、
釈迦が霊鷲山上で金波羅華を拈じられたのも、聖書の「黙示録」の言葉も、
「イザヤ書」の文章も、実相日の本の国を示し、それが地上に実現し、
大調和の世界が顕現することを予言したものであることを把握されたのであります。

やがて必ず、全世界の大多数の人々が、日本皇位の神聖性を本当に認識して、
やがて出来るであろう世界連邦政府の神聖主権の象徴として、日本皇位を
推戴するほかに何処にも神聖なものはないと気づくようになります。

そして、そのとき地上天国が実現します。
(しかし、その実現まで幾多の自壊作用があることも予言されています)

生長の家の運動を「日本実相顕現運動」といい、「地上天国建設運動」というのも
ここにあると思います。

地上天国を実現する大真理・一大秘義が生長の家で明らかになったのであります。



私は、初めは、個の魂の救済・解放を求めて、生長の家の道場に参りました。

しかし、だんだん谷口先生の御講義を承り、御本を読ませていただいて、
生長の家は個人の救済にとどまらず、国家・社会・世界を救済する教えである
ことが分ってきました。 

そして、私が生長の家を選んだのではなく、神様が、地上天国建設運動のため、
私をお選び下さったのであるということが次第に分ってまいりました。

 
しかして、現在、この実相日本顕現に最も大きな障害になっており、
日本の社会を混乱と危機に陥れ、諸悪の原因となっているのが「日本国憲法」
であることも 谷口先生の御講義・御著書で分ってきました。 

そしてこの明治憲法復元改正、日本実相顕現のために、
一人でも多くの人に生長の家の真理を知ってもらい、生長の家の教えにふれた
私達の使命、生き甲斐、悦びがあるということを知った次第であります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/06d278d42e076f37f3462f8fb2b47d6e

          <感謝合掌 平成27年5月12日 頓首再拝>

弟子たちが教祖の教えを歪めた - 伝統

2015/05/14 (Thu) 17:52:29


           * 『奇蹟を生ずる実相哲学』 生長の家入門講義 上 より
              (昭和48年 ブラジルに於ける御講演録)


インドに釈迦世尊が現れてから約2千数百年、
又ユダヤにイエス・キリストが現れてから約2千年も経っているのであります。

その間仏教の教祖や釈迦の弟子である坊さんは、その釈迦の教えを説いて来たし、
イエス・キリストの弟子であるところの宣教師・牧師たちはキリストの教えを
説いて来たのであります。

それにもかかわらず、2千年3千年の伝道にもかかわらず、
人間の道徳性は進歩したかというと一向進んでいないで、
今も大量の人類を殺戮する原子兵器をこしらえているというような状態であります。

そんなことになったのは釈迦の教えが間違っておったか、
イエスの教えが間違っておったかといいますと、
決して間違っていなかったのであります。

それを伝える弟子たちが教祖の教えを歪めて伝えたからであります。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/3fd7a202d08a5880f66f56ade98b1af4

          <感謝合掌 平成27年5月14日 頓首再拝>

「一源三流」~大山昌平先生 - 伝統

2015/05/17 (Sun) 20:13:28


           *「道はひらける」大山昌平・著 <はしがき> より
            ~生長の家本部講師  大山 昌平


生長の家の生活に入って三十余年。

人生五十年という言葉もありますが、私はもう七十三歳という年齢(とし)になって、
人生のあわれさも、また喜びも、私なりに、ゆたかに経験してきました。

もしも生長の家の御教えにふれなかったら、どんな人生を送ったでありましょうか。

糸の切れた凧のように舞い落ちて破れ朽ちるような生涯を送ったのではなかったか、
あるいは港から出帆する船のあと路にのこる白波のように、
はかなくも消える一生であったかともおもわれます。

人生何の意義あるかも知らず、
ただ不平不満の何の価値もないような一生で終るのではなかったろうか。

妻あったればこそ生長の家を知り、
御教えにふれたればこそ今日皇恩に感謝し、師に感謝でき、親に感謝でき、
妻に、子に、一切の人に物に感謝できる「神の子」の自覚を悟らしていただきました。

このありがたさはたとえようもありません。


「一源三流」という言葉を聞きました。 
人によっていろいろに解釈されますが、私は次のように思っております。

 一.皇恩に感謝して涙し、

 二.父母 ― 親に感謝して涙し、

 三.師に感謝して涙を流す。

この三流の源は誠であり、「そのままの心」であり、
その和敬静寂の「寂」の心こそ源である、と思っております。

 
日本人が「そのままの心」に徹したら、限りなく日本を愛し天皇陛下を仰慕し奉る、
中心帰一の精神になり、

身近に結べば親に孝をつくし師恩に報いる、

ひたむきの真実一路の感謝の心が表われなくてはならないと思います。


生長の家の谷口雅春先生の尊い御恩と、同信の友愛に恵まれた三十有余年。

私の生活は全くこれらの恩人の恵みの賜ものであります。
数えきれないたくさんの人々の限りない御恩に心から感謝しております。

第三者から見ればいろいろの批判もある生きかたでありましょうが、
私自身は感謝と悦びに、やすやすと今日まで歩んで来ることができました。

私が実際に歩んで来た生活のひと筋の道が、現在社会に生きる人々の中の一人にでも、
何かの参考の足しになり、力になることができましたならばありがたいと思います。

谷口雅春先生の御愛念によって、この記録を出版させていただけるとは、
思いもよらなかったありがたさで、感謝で一杯でございます。

本書刊行に御尽力下さいました、日本教文社社長・辻村彦次郎先生、
編集局の中島省治氏ならびに岡正章氏の一方ならぬお骨折りに深く御礼申し上げます。


 昭和四十二年五月一日     著者しるす

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/eba1a2a7215bee0c8420a65d6ccd6b2b

          <感謝合掌 平成27年5月17日 頓首再拝>

“今までの自分” に暇乞させること - 伝統

2015/05/20 (Wed) 17:42:18


        *『白鳩』誌(昭和37年3月号)より


環境は自分の心的状態の投影である。 
これを仏教では “三界唯心” と謂い、
生長の家では “環境も境遇も皆心の影” と謂うのである。 

 
吾々は四方すべて鏡でつくられた部屋の中に住んでいるようなものである。 
周囲と自分とは不可分の一体なのである。

環境をかえることよりも、自分自身が変ることが必要なのである。 
自分自身が変れば、環境も自然に変るのである。 
“今までの自分”に暇乞させることが必要である。 

環境は自分の心の影なのである。

 
自分の愛が足りなかったことを反省せよ。 
境遇の善悪は“場所”を変えることによって得られるのではなく、
“心”を変えることによって得られるのである。 

愛はすべてを好転する万能薬である。

 
「自分」は自分自身の環境を自分の行くところへ持って行くのである。 
「自分」が変らなければ環境の変わりようはないのである。 

 
「自分」自身からのがれるために映画を観に行く。 小説を読む。 性的遊戯をする。 
しかし、そんな事では「自分」自身を一時的に胡魔化すだけで
「自分」自身から完全に脱却する訳にゆかないのである。

何故なら、小説を読むのも、“旧い自分”〈旧我〉 であるし、
映画を観るのも、セックスを楽しむのも 「旧我」 であるからである。 

其処には 「旧我」 からの脱却は全然ないのである。

 
「旧我」 からの脱却は “肉体的自我” の自覚から、
“霊的自我” への自覚に生れかわらなければならない。 

「旧我」 は憎むかれども “霊的自我” は愛するばかりである。 
「旧我」 は恐れるけれども霊的自我は愛するだけである。

 
“無我”になったとき「旧我」が消滅する。 
「旧我」が消滅するとき“新しき霊的自我”があらわれる。 

それを“新生”すると云うのである。 

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/c7df22474665eaa628fccfbcb194186c

          <感謝合掌 平成27年5月20日 頓首再拝>

御教えの中に生かされて~金戸栄先生 - 伝統

2015/05/22 (Fri) 18:11:12


         *『生長の家』誌(昭和47年3月号)より
          ~ 生長の家山梨県教化部長  金 戸  栄


■真理を求めて

或る日熱心な方のお誘いを受け生長の家の講習会に参加した。 
そこできいたことは全く耳新しい話ばかりである。 

「人生とは他の人の悦びの中に自己の幸せがあり、
此の世の一切は自己の写し鏡であり、悪い人は存在せずすべて己が心の影である」 と。 
その言葉の権威の前に脳天を打ち砕かれ、叩きのめされた様な感動を覚えた。

その足で熱心な幹部の方の誘いのままはるばる宇治練成に参加した。 
今の宝蔵神社建立以前のことである。 

「霊魂は不滅であり、父母の声は神の声であり、一切の現象は自心の展開である」 
との高邁な真理の数々に触れた。 

更に人間は神の御栄を地上に顕現するのが人生の目的であり
人間は神の自己実現であるとの言葉に至っては

完全に自覚の大革命が行なわれた様な気がして
雀躍し手の舞い足の踏むところを知らずであった。

しかしこれは神性開発というよりも真理の上塗り程度の把握であったのであろう。 
帰宅して青年会活動に入ったが迷いの‘あざ’がにじみ出てきてすぐ行き詰ってしまった。 
こうなると以前より自分が惨めに感じて、とうとう家を飛び出してしまった。

 ―  家業も省みず、父と弟妹と妻と二人の子供を故郷に残して  ―  
宇治道場の長期生の一員に加えて貰ってはっきり人生の目標を確立し
不退転の信仰を身につけたかったからである。 

虚栄のベールを脱ぎ捨てなまかじりで得々としていた
天狗の鼻をへしおってしまいたかったからでもある。

妻子と別れての生活は2年程続いた。 
その間煩悩が台風の如く襲いかかってくることも再三再四、
子供への愛着のため枕を子供の代りに抱きしめて寝た夜も数え切れないくらいである。 

しかし人間神の子、善一元、真の愛国者たれの大真理の魅力はそれを克服していた。


■大和の地に引かれて

神武建国の地、橿原に練成会が開始され楠本講師の補佐役として
その責任の一端を担うことになり大和の地に足をふみ入れることになった。 

青山四周を廻る美し地(くに)、かつて塩椎老翁あらわれて神武天皇に 
「東に美し地あり ・・・ 蓋し六合の中心か」 と教え奉ったと
『日本書紀』に伝えられている伝承の地三山とりよろう万葉の地である。 

魂の奥底から湧き出ずる感激と胸のときめきは言語を絶するものであった。 
地下三尺に静かに眠っていたと言われる縄文弥生時代の数々の遺品を目にするに
及んで最早や他事ではなく先祖の血の流れをありありと自分の中に感じた。

 
此の地で拝する尊師の “人類光明化運動の選士に熱願す” 
の御言葉は血潮の躍動となりその都度涙が頬を伝う。


『人類光明化運動の選士よ、神に選ばれたる若人よ。 
諸君は神武天皇建国の日本国に生まれたることを誇りとし、慶びとし、
この誇りと慶びとを若き人たちに分ち子々孫々に伝えることを名誉ある使命とするのである。  

・・・  生長の家の信徒たる青年は、塩椎老翁の分身分霊として、
日本危急の場合に処して国を護らんがために、神縁深く、神意に導かれて
引き寄せられたのである。 

まことにも諸君は祖国の危き際に処して国を護らんがために、
神に選ばれたる選士であるのである。 諸君よ必ずその神縁を空しくすることなく、
大神の召喚に応えまつりて祖国守護の第一線にわれらと倶に立たんかなである』

  ・・・ 嗚呼。


『日本を築くもの』 『第二青年の書』 の御著を座右の銘として、
とり執かれた如く延150余日朝な夕な神武天皇の御神霊鎮まる畝傍御陵前の
玉砂利の上で神想観を勤修する。 

一面雪野原となり神想観をしたその場だけがくっきりと跡を印した厳寒の日もあった。 
しかしそれは楽しく、神武建国の理想に耳を傾け、血湧き肉躍る一瞬であった。 

天空に舞う白雲、梢のささやきの中に無言の説法を聴き
橿原の宮神域を清掃奉仕するのは法悦そのもの、感激そのものであった。

特に飛鳥の地は歴史と伝統の金箔を散りばめたような輝きに感じられ
私を完全にとりこにしてしまった。 
大和路は歴史の国、美し地(くに)、故里の国である。 
一時も私の脳裏から離れなくなった。 

古都の史蹟と古美術巡礼に時間を費やすことおびただしい。 
この頃になって尊師の愛国の書 『限りなく日本を愛す』 『秘められた神示』 
『日本を築くもの』 等々が素直に全身で把握出来るようになった気がする。 
その時の歓喜は天をつくばかりであった。 

日本国実相顕現と大和の心の回帰には何が必要であろうか。 
そこで歴代天皇の御陵を巡拝し無条件に地にひれ伏して年輪の原点に
立ち戻らねばならぬとの結論に到達し、御陵巡拝特別練成会開催の運びとなり、
全国から馳せ参じた70名の方々をバスで4日間にわたり大阪京都奈良の地を
案内させていただいたのも此の頃である。 

この機会を与え育てて下さった嘉村、楠本両先生に今も満腔の感謝を捧げている次第です。


■“小父さん”

ここに於いて生長の家とは離れ難くなってしまった。 
その後2年振りに墓参の機会が与えられ故郷の駅に降り立った。 
身内の者が首を長くして迎えに来てくれている。 

先ず子供の頭を撫でながら抱きあげようとすると、
子供は 「小父さん」 小声でいいながら家内の背後に逃げていってしまった。 

2年の間一度も忘れたことのなかった子供の顔、
又子供も決して忘れてしまったのでもない。 
会った瞬間に父らしい生活をしていないものに
子供の純粋な魂が父と呼ばせなかったのであろう。 

がく然とし心の中で男泣きに泣き子に詫びた。

子供の言葉は吾が家のすべてを代表したものであったろう。 
一家を整えずして信仰も愛国運動もあり得ない。 
欺瞞そのものである。 

限られた日時を子供と打ち溶け父と呼ばれる幸せをかみしめながら過し
再度上京しようと身支度をしていると子供はしげしげと私を見つめ
ふりしぼるような声で言った。 

「お父さん、帰るの? またおいでね」 と、
その言葉には切なく身が切られる様な思いであった。 
思わず子供を抱きしめ考えこんでしまう。 

右するか左するか祈る以外にはなかった。 

往復切符を持っていたので一旦車中の人となった。 
青函連絡船の中で絵はがきに便りをしたためる。 

又宇治の地につき急ぎ自分の写真を大きく引きのばしてその裏に 
「お父さんだよ、忘れないでね」 と書き添えて送った。 
子供に忘れて貰いたくないし一時でも子供の側にいてやりたい悲願のせめてもの表現である。 

そして無我夢中で悔いなき一瞬を過そうと祈り続ける。

その時家内から一通の便りを受取る。 

「前略 ― 宇治へ発った後二人の子供は一心にお父さんのことを話しつづけております。 
先日もテレビのチャンネルを廻しながら群集が写るとお父さん出てこないかなあと
一人つぶやいていましたよ。 

船が写るとお父さんの船だとはしゃいでいました。 
連絡船から送ってもらった絵はがきを思い出していたのでしよう。 ―  」 

父を求める子供の姿が痛く胸にこたえてギリギリのところまできてしまい
意を決して帰郷し、在家の中で御教えを生きようと帰りの日時も考えていた。 

その時銀行に勤めている弟が訪れてきて 
「兄さん、家業は自分が銀行を退めて継ぐから一日も早く親子揃った生活をしたらどうか」
と言ってくれた。 

将に神の声である。 
お蔭で思いもよらぬ事態に急転直下し父や親戚の方達の暖かい御理解の中に
生長の家の御教えに一生を捧げることの出来る光栄の身となった。

その後3人の子に恵まれ計5人の父親とならせていただいている。 

これひとえに母の霊に導かれ祖国の風土にただよう愛国の諸霊の声なき声に
ムチ打たれての賜であると信じます。 今後今までお世話になった数々の方々の御恩に
感謝を捧げ御教拡大の使命に身命を賭して精進することを誓います。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/897b0652b4733d518a4cfce0193c8828

          <感謝合掌 平成27年5月22日 頓首再拝>

組織における問題 - 伝統

2015/05/24 (Sun) 19:44:02


         *『聖使命』新聞 昭和44年年6月11日号 より

たしかに現象人間には、色々の欠点もあるものだ。 
弱点をもっている人も多いし、失敗もあるであろう。 
それをお互いに助け合い、補い合って行くのが組織活動の本質である。

 
間違った因果関係を念頭において、成功したためしはないのである。 
ことに人事問題に関してはそうである。

先入見をすてよう。 
小さな個人的利害にひっかかって、全体的「聖使命」を忘却してはならないのである。 
吾々は個我をのさばらせて、自我の見解に執していてはならない。

 
自分と他人とが意見の対立を生じたとき、自分が「正しい」と思うのは誰しもである。 
その反対であれば、最初から議論にならないからである。 

しかし、いくら自分が「正しい」と思っていても亦「正しい」と思っていることを
考えるならば、お互いに相手を「わからずや」だと考えるだけでは、不十分である。

「相手がわからずやである」という一つの「因」から
「対立意見」が出る場合もあるのであろう。 

しかし「対立意見」は「相手がわからずやである」という
たった一つの「因」からのみ生ずるのではないのである。 

 
もう一つの「因」は「自分がわからずやである」という場合である。

さらにもう一つの因は「両方ともわからずやであった」という場合である。

さらにもう一つの「因」として、双方とも言っていることは正しくても、
対立見解を生ずる場合もありうる場合を知らなければならないのである。

      (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/5345183a919f422c4d5df22bcb26bce3

          <感謝合掌 平成27年5月24日 頓首再拝>

谷口雅春先生の信者ですから - 夕刻版

2015/05/26 (Tue) 18:14:49


           *『み教えにいのち捧げて』長村 婦美子・著 より
            ~生長の家長老  長村 婦美子


信徒の方々は、谷口雅春先生の大切な信者様ですから、
私が指導するというような不遜な気持が少しでもあってはならないと思います。

相手はみな観音様ですから、
何としても 『生命の實相』 をお伝えする以外は何もないのです。 
私はそれしか知りません。

私は神に導かれていますのか、なさしめられているのでしょうか、
お話をさせてもらっている間に、私の知らない間に、
痛みが消えたり、高熱が下がったりします。

生命の實相は神様ですから、どこまで相手の実相を見つめる得るか、
如何に相手に実相を知って貰うか、如何に自分は 「神の子」 であったかを
納得して貰うかということだと思います。

この現象世界は現世(うつしよ)ですから、
神の世界の完全円満な実相の表現の場ですから、

「実相を観じたら実相が顕われる」 というみ教えの通り、
常に実相を観ることだと思います。


生長の家の 「信徒行持要目」 の中に 
「毎日1回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし」 とありますように、
一般の信徒さんでも1日1回の神想観をしていますのに、
講師が祈らない日があってはならないと思います。

 
尊師 谷口雅春先生 は 『ヨハネ伝講義」 の179頁に、祈り方を説いておられます。

「この(ラザロ)復活の奇蹟を喚び起したイエスの祈りの順序こそ、
後世の祈りの模範とすべきものなのです」  と、
正しい祈り方の順序を5カ条で示されています。

その5条目は、ラザロの死や病気を見ないで 

「『ラザロよ、出て来たれ』 と言っているだけで、
病気が治ったとも、治すとも言っておらず、病気を全然心から離してしまって、
ただ 『健康で生きている者』 としてラザロに呼びかけていることであります」  

とお説きいただいております。

私はこの祈り方を手本として、個人指導をさせて頂いて来ましたが、
個人指導はイコール講師のお勉強だと思います。 

そして相手の神性をどこまで拝みきれるかということだと思います。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/0a1a37313b7af422456a4934f0dc9c23

          <感謝合掌 平成27年5月26日 頓首再拝>

憎むと云うこと - 夕刻版

2015/05/28 (Thu) 18:04:11


           *『白鳩』誌(昭和22年3月号)より

私も 『天地一切のものと和解せよ』 と云う生長の家の教を説き乍ら、
人間には「理性的個性」と「動物的個性」とがある。 

理性的個性は人間の実相であるが、動物的個性は、ニセ物の存在であるから、
私はこれを憎むのである  ――  と云う意味を書いたことがある。


これについて常に 『天地一切のものと和解せよ』 との教えを受けている生長の家誌友達から、 
「常に憎んではならないと教えられているのに、憎んでも好いのであるか」 
と反問の手紙を多数いただいたのである。


この場合、言葉のアヤに胡麻化されてはならないのである。 
この場合、私の云った「憎む」と云う語は、興奮することでも、憤激することでも、
立腹することでもない、それは 「否定する」 と云う意味である。

 
「動物的個性を憎む」 と云うのは 「利己的自我を否定し、厭離すること」 である。 
それは「自分は利己的自我を否定する」と云うのに等しい。 

或は自分は「肉体を憎む」と云っても、肉体を憎んでそれに残虐を加えると云う意味ではない。 
肉体的な欲望を否定しそれを厭離することを「肉体を憎む」と云うのである。

 
パウロの云った「肉は益なし」と云う意味が、「動物的個性」を憎むと云う意味である。 

そして私に云わせれば、「動物的個性」を否定し、「利己的自我」を否定することそのことが、
人間の 『實相』 に和解することであり、‘真の人間’を愛することなのである。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/880b3bc612c91f0d7cc4c48996c90b29

          <感謝合掌 平成27年5月28日 頓首再拝>

生長の家は「拝み屋」ではない - 伝統

2015/05/30 (Sat) 18:30:56


            *『すべてを癒す道』(P91~92)より
             ~生長の家本部講師  藤 原  敏 之


谷口雅春先生は、「生長の家は大乗の極致である」 と御教え下さいます。 
大乗とは絶対他力ということであります。 

相対他力 「迷信」 はちょっと見ると他力信仰に似ていますが、本当の信仰ではありません。 
本ものの信仰に至る過程であります。 だんだんと自力の空しさが判明し、
まちがいであることが明確になるに従って、本ものが表面に現われてくるのであります。

ここで大切なことは、偽ものの自分とは一切妥協せず、ごまかさないことです。 
安易な道を選ばず、徹底的に解決にいどむことです。

誰かに頼んで祈ってもらって、苦難から逃れようとするくらい卑怯なことはありません。

生長の家は、世間一般にあるような祈祷宗教ではありません。 
「拝み屋」 と間違えてはなりません。

谷口雅春先生は、「神は私たちに真剣を要求し給う」 とも御教え下さり、
「価を払わずして受けることだけを求めてはならない」 とお示し頂きます。

お金だけを払って、かわって祈ってもらうことによって、
幸せになろうなどと考えることは楽で、よいでありましょうが、
そんなところから自信も安心も絶対に生れません。 

正しい信仰が生れる道理がありません。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/b058cc1dd3079230ef389cf48e45f0d3

          <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

神様は恋人、常に私を護り、導いて下さる - 伝統

2015/06/02 (Tue) 19:43:34

            *『白鳩』誌(昭和21年2月号 23頁)より

今日本は方向転換をしなければならない。

如何に方向転換すべきか、それには神の御心を現すようにすることが必要なのは、
国家に対しても、個人に対しても当嵌る道理であります。

『何よりも先ず神の御心を、今、此処に実現せしめ給え』 と、
吾々は祈らなければならないのでありますが、利己的な人には、
そんなに云って祈るのは、何だか危いような気がするでありましょう。 

利己主義の人にとっては、神様の御心にまかせて置いたら、
「○ね」と云われたり、「貧乏になれ」と云われたら大変だと思い、
『どうぞ健康にならしめ給え、無限供給を与えたまえ』 などと祈る方が確かだと思う
  ―  これはまだ利己主義が無くなっていない証拠であります。


吾々は神意ならば絞首台上へでも素直に上らねければならない。 
イエスキリストはそう云う心境になって居られたのです。 

キリストはゲッセマネの国に於て
 『神よ希くば御心ならばこの苦き杯を吾より取り去り給え』 と祈ったのであります。 
併し、『わが意を為さんとには非ず、神の御心を成就せん為なり』 と言ったのであります。 

此所に肉体の要求と魂の要求との微妙な戦いがある。 
『御心ならばこの苦き杯を吾より取り去り給え』 と言った時には
まだ旧き我が残って居り、自分の我を主張して居ります。 

併し乍ら 『御心ならば』 と前提して居るのであって、
決して強く我を主張している訳ではないのであります。 
兎も角、神様の 『御心のみ』 を此所に成就することが必要なんです。 

斯くの如く皆さんが祈って居りますとだんだん我欲と云うものがなくなって、
神様が自分の恋人であり、自分の内にあって微笑していられるような気がして来るのであります。 

恋人と言えば形容が奇矯だけれども、神は常に私を護り、導いて下さるのだと云う
本当にぴったりした気持になって参ります。

皆さんも皆こうならなければならないのであって、その為にはどうしても 
『自分の内に神が流れ入りたまいて、神の智慧に導かれているのである。 
我が意をなさんとするに非ず、神意が我に於いて実現するのである』  
と云う感じを常に失わないようにしなければならないのであります。

一番好い方法は、『神様』 と呼びかけて、
神の子が親様に呼びかけるような気持になるのであります。 

そして 『神よあなたの生命を私に流れ入らしめ給え』 と念ずる。 
それは招神歌の第一首目の歌に当るのであります。 

あの歌を一生懸命に黙念して 
『神よあなたの大きな生命を幸え給え、我に神の生命を流れ入らしめ給え』 
と云う気持になり、本当に神の生命が吾に流れ居ると云う気持になった時に  
『我が生くるは我が力ならず天地を貫きて生くる祖神の生命』  
の2番目の歌を念ずるのであります。

自分がやっているのだ。 自分の力で何事も出来るのだ。 
この心がスッカリ無くなってしまって、
神の『生命』が今ここに生きていると云う自覚を得るのであります。 

これが何よりも大切であります。 
無我が神であり、我のある間は神との絶縁体が介在しているから、
祈りが成就しないのであります。 

つかんでいたものを放したときに与えられる実例は度々あります。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/0599335075b10e7ef0db92d3e1f53999

○:死
          <感謝合掌 平成27年6月2日 頓首再拝>

僕もアワテモノだよ  ―  「今」を生かせ - 伝統

2015/06/04 (Thu) 18:58:50


          *『生長の家』誌(昭和26年6月号)より 
            ~生長の家教団理事 青年部長  徳久 克己


 「君は随分アワテモノだね」

 とニコニコお笑いになりながらおっしゃるのである。

 「はあ! 幼い時からで御座いまして!」

 と頭をかくと、

 「僕もアワテモノなんだよ!」

 「 ・・・・・ 」

 私はポカンとして先生のニコニコしておいでのお顔を見詰めていると、
 側においでになった清超先生が、

 「僕もアワテモノですよ!」

 と仰言る。 

 益々私はポカンとして、
 私はお二人でなぐさめて下さるものと思って胸が熱くなりつつ立っていると、

 「時は今以外にないのだからね。 
 今、安全にわたれる踏切も5分後には安全でないかも知れない。

 いや2分後、1分後でも安全でないかも知れない。 
 今やるべきことは、今やる以外にはないのだ。 

 だから僕はアワテルのだよ!」

 とニコニコとお笑いになる。 
 私は合掌したまま何も申し上げることがなかった。 

 私のアワテモノと先生のアワテモノとは根本的に違っていたのだ。 

 外に出てきた私の姿は同じアワテモノでも、
 それをかくあらしめている根本的なものが違っていたのである。 

 私のは現象に捉われてのアワテモノ、
 先生のは「今を生かす」という真理から出たアワテモノ、

 私は又再びそこで、

 「今を生かす」  ということについて教えられたのである。

 「今、安全であることは、次の瞬間には既に危険であることがある」

 そうだ、それまで「今を生かす」という言葉で教えられていたことを、
 違った面からの言葉で表現しただけではあるが、何とすばらしい表現であろうか?

 「今は、今以外にない」

 再び私は強く心の奥底深く「今」の真理を先生から直指された。 
 それ以来、私は正しい意味での「アワテモノ」になることを心に誓ったのである。


 「打てば響くような人間」

 という言葉があるが、先生の説かれる真理で自分を打って戴いて、
 すぐ響く人間になることが私の行くべき道であると確信している。 

 「何故?」 はないのである、 
 真理に向って「何故」と反問していると、真理は次の瞬間自分から遁げてしまう。

 『生命の實相』に説かれていることは、「何故」と反問する必要は絶対にないので、
 その説かれている真理そのものを、自分がすぐ行じてゆきさえすればそれでよいのである。 

 今をそのまま生きればそれでよいのである。

 「今を生かす」というこの真理に無限の段階があって、私は牛の歩みの如くではあるが、
 先生の実相直指の御教訓により一つ一つ 「今を生かす」 ことを教えられるのである。


 一つの真理もそれが現象の世界に表現される場合には、無数の表現があるのであるから、
 その一つ一つを深く味ってゆくことこそ、真理を体得する唯一の道である。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19304148.html

          <感謝合掌 平成27年6月4日 頓首再拝>

あなたは毎日 “食前の祈り” をなさいますか? - 伝統

2015/06/06 (Sat) 19:39:09


          *『白鳩』誌(昭和57年5月号)より

「あらゆる供給の奥に、神の無限の愛と、無限の智慧と、無限の力とがあり、
それが現実化する過程において、無数の人間の愛と智慧と生命力との協力があるのである。

私はすべての供給を見るのに、その形のよろしさや、味のよろしさや
、美しさを見る前に先ず、その背後にある神の愛と智慧と生命とが注がれている
実相を見て礼拝するのである。 われらは万物を礼拝し、万物はわれを豊かに育むのである。」

          (『真理の吟唱』 「神の子・萬徳圓萬の祈り」より)



皆さんは毎朝、あるいは昼でも夜でも、食膳の前に坐って、食前の祈りをなさいますか。 
これからなるべく食前の祈りをして頂くといいと思うのであります。

いま朗読いたしましたように、食物の形のよろしさや、味のよろしさや、
美しさを見る前に先ず、その背後にある神の愛と智慧と生命を見て礼拝し、
しかもその神の生命に加わったところの無数の人類の愛と智慧と生命とが
それに注がれている実相を見て礼拝し感謝するのがよいのであります。

神の愛と生命との現れであるお米は、お百姓さんの手によってお米となって現れ、
それに更に炊事の人の生命が注がれて、おいしい御飯となって出ている。 

いろいろのお菜(かず)もみなそういうようにして現れているのでありまして、
その味が自分の嗜好に適しないからといってブツブツ言う代りに、
食物の奥にある神様の愛と智慧と生命とが宿っていることを見、
それに加うるに衆生の愛と智慧と生命とが宿っているのを見て拝むのです。

そうすると、この世界は心の世界でありますから、観る通りにそれは現れてくる。 

“唯の物質だ”と見ておれば、物質の栄養作用だけしか出てこないけれども、
それが “神の愛と智慧と生命と更に加うるに衆生の愛と智慧と生命とが宿って、
私を生かさずにおかないという ・・・ 
その愛念に生かされてここにこういう食物が現れているんだ” 

という気持で、その食物を摂取なさいましたならば、それは魂の栄養になるのであります。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/26a43774d1528b33bd60ff2f048b4450

          <感謝合掌 平成27年6月6日 頓首再拝>

谷口雅春先生の 《こころ》 - 伝統

2015/06/08 (Mon) 19:35:24


             *『心の持ち方一つ』 上 「心の力」(18頁 ~  )
              ~ 生長の家長老   徳久 克己


(『生命の實相』を) もう40年以上も読みつづけ、講話の時にはテキストとして
使わせていただいているのですが、最近になりまして、谷口先生が、真理を私たちに教えるために、
どんなに細かく気を使われ、またイロイロと工夫をしておられるか、ということを、
ツクヅク教えられます。 

本当に恥ずかしい話ですが、40年もつづけて拝読している 
聖経 『甘露の法雨』 や 『天使の言葉』 の中で、 《こころ》 というコトバに、
先生は、イロイロの漢字を使っておられることに気がつきまして、今さらのように驚きました。

ほとんど暗記するぐらい覚えていますのに、
先生の教えようとしておられる真意、本当に理解せず、
うわのそらで読んでいました。 

「フリガナ」を読んで、その漢字を余り注意せずに読んでいたのです。 
「心」という字を 《こころ》 と読むのは、あたりまえのことですが、

「肉体を去りたる 『念(ねん)』 は、
 その念(ねん)の力にてなお一つの個性を持続し、
 幽界に於いて生活をつづけん。
 汝らの霊魂と称するもの是にして、
 『念 《こころ》』 の浄まるに従って
 それに相応しき高き霊界に入り、
 『念 《こころ》』 の浄まざるものは
 それに相応しき環境を 『念(ねん)』 の力にて仮作し
 その環境にいて苦しまん」  
           (聖経 『天使の言葉』)

ここでは 『念』 という漢字に 《こころ》 と (ねん) と
2種類のフリガナをつけておられます。



「汝ら近頃の心霊科学の実験を見しことなきや。
 被実験者は椅子に緊縛せられて一毫もその肉体は動く能わずして、
 尚、凝念 《こころ》 の力によりて
 或は机を空中に浮揚せしめ ・・・ 」
           (聖経 『天使の言葉』)

ここでは「凝念(ぎょうねん)」 という漢字に 
《こころ》 というフリガナをふっておられます。 

自分が動くことができないで、机を空中に浮揚さしたり、手風琴を空中に飛翔せしめたり、
そんなことをする 《こころ》 は、「凝念」 なのである、ということを教えておられます。



「人この理をさとれば
 意 《こころ》 のままに自己の肉体を支配して変化せしむることを得ん。(中略)
 万のものことごとく意 《こころ》 に従って出現し、
 用足りておのずから姿を消す」
           (聖経 『天使の言葉』)

ここでは 「意」 という字に、《こころ》 とフリガナをしておられます。

 

また 「久遠いのちの歌」 のなかに、

「この身は心性 《こころ》 なし、心性 《こころ》 ありと見ゆれども、
瓦礫の如く心性 《こころ》 なし」

 このように書かれています。 そして、

「すべての病を癒やす道は
 先ず汝の感情を平和ならしむるにあり。
 憎みによる心の不調和により生じたる病いは
 憎みに代うるに愛を以てすれば癒えん。
 不平に伴う心の不調和により生じたる病いは
 不平に代うるに感謝をもってすれば癒えん。
 悲しみによる心の傷より生じたる病いは
 悲しみに代うるに悦びの情 《こころ》 を起せば癒えん」

と 『続々甘露の法雨』 のなかに、「情」 という字に 《こころ》 と、
フリガナをつけておられます。 


そして 『甘露の法雨』 の終りの方に、

「人間は生命なるが故に
 常に死を知らず。
 想念 《こころ》 に従い
 時に従い
 必要に従いて
 肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、
 生命そのものは病むに非ず、
 生命そのものは死するに非ず、
 想念 《こころ》 を変うることによって
 よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり」

「想念」 という字に、《こころ》 とフリガナをつけておられます。



病気の伝染を聴き恐るれば、恐怖の心境 《こころ》 の影としてその病気はあらわれん」

『続々甘露の法雨』 のなかに、「心境」 という字に、《こころ》 とフリガナをしておられます。

 

また 『甘露の法雨』 の 「霊」 の項に、

 「一切苦患の源となるべき顛倒妄想 《こころのまよい》 を摧破すれば」

と顛倒妄想に 《こころのまよい》 と、フリガナをつけておられます。 
また 『続々甘露の法雨』 のなかには顛倒妄想を、「まよいのかげ」 とフリガナしておられます。



 「彼の肉体の耳は聾いたれど心 《こころ》 の耳ひらけたれば、
  こころの耳はピアノの鍵盤に触るるに従いて
  その微妙なる奏曲を分別し得たるなり」
           (聖経 『天使の言葉』)

《こころ》 が2行ならびました所は、
一つは 「心」、一つは 《こころ》 とカナで書いておられます。 


このように聖経のなかから、《こころ》 という 「字」 をひろってみますと、

「心」 「念」 「意」 「心性」 「凝念」 「情」 「想念」 「心境」 と、
8種類の漢字を使っておられます。 

そして 「こころ」 というカナを一つ使っておられるのでありまして、
同じ発音の 《こころ》 というコトバが、細かく意味を分けられまして、
私たちにその真意を教えるために、イロイロの 「字」 を、その所にふさわしく、
より分けて使っておられるのです。


また 「実相」 という字でも、「そのまま」 「ほんとのすがた」 「じっそう」 と、
3種類のフリガナをつけておられます。 


このように、先生は私たちに真理を教えるために、漢字を使われて、
それにフリガナをつけられ、漢字とフリガナをあわせて、「生命の実相」 の真理を、
わかりやすく教えておられます。


私のように 『生命の實相』 を読みはじめた時には、反発ばかりしていたのに、
いつの間にか 『生命の實相』 の虜になってしまったのも、
結局は、谷口先生の 「文章の力」 によるものであることが、後からわかりました。

 
この 《こころ》 という、自分では、わかり切ったように思っている、
いつも使っているコトバの中に、まことにイロイロの意味があることが教えられます。 

そして、つくづくと日本語のスバラシサがわかります。 

『生命の實相』 の英語訳、スペイン語訳、ポルトガル語訳というように、
これから世界のあらゆるコトバに訳されなければならない、この 『生命の實相』 の真理を、
《こころ》 という字一つを例にとりましても、その訳がどんなに難しいものであるか、
ということがおわかりになると思います。


そのような意味から考えますと、日本語の真意を訳するということは、ナミナミならぬことです。 

日本語で、微妙な、そして深い意味を表現された、この聖典 『生命の實相』 を、
そのまま読める日本人として生まれた、ということだけでも私たち日本人は、
どんなに感謝しても感謝し切れません。 

それにもまして、人類を真の意味で救われる真理を説かれた、谷口雅春先生が、
日本人として生まれられ、御自分で日本語で真理をお書きくださったことに、
ただただ感謝するのみです。


「生命の実相」 につらぬき入る、つまり 「真理をさとる」 ためには、
とにかく聖典 『生命の實相』 を、繰り返し繰り返し、ただ読むことです。 

私など 『生命の實相』 にふれて、聖経を拝読しつづけて、もう40年をこえていますが、
最近になって、ようやく 《こころ》 とフリガナしてある 「字」 が、
こんなに幾種類もあることに気がつき、

聖経を1万回以上も拝読していながら、
先生の御文章の真意が、まだわかっていなかった、と気づきました。 
そして、再び 『生命の實相』 を第1巻から拝読しなおそうと決心しました。

文章のウワツラだけを読んで、行と行の間、書かれた文字の奥にある真意を、
読みとっていなかった私に、心からはがゆく思っています。 

先生は、わからない所は、そのままにしておいて、次を読みつづけてください、
後で必ずわかってくる、と書いておられます。 

とにかく、もっともっと、繰り返し繰り返し、拝読して 
「生命の実相」 につらぬき入ることです。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/6f3c8cf104b8cb1f840196cc3efb3b80

          <感謝合掌 平成27年6月8日 頓首再拝>

『天地一切のものと和解せよ』 という意味 ―  杉浦慶一講師の誤り - 伝統

2015/06/10 (Wed) 19:51:09


            *谷口雅春先生ご講話集等より


生長の家の初期時代に活躍した講師で 杉浦慶一君 という人があった。 
賀川豊彦氏 に師事していて浜松市に、共同組合などを作って民衆の日常必需品の配給を
安価にする試みをやりつつ、自宅を日曜学校として子供にキリストの愛の精神を
植えつけていたまことに敬虔なクリスチャンであった。

彼は 『生命の實相』 を読んで非常に共鳴して、
生長の家の第1回講習会に受講すべくやって来て、
次のような体験談をのべたのであった。

 
「日曜学校を経営している自分の自宅に家ダニが発生して、それが日曜学校に集ってくる
子供たちについて螫すものだから、子供が痒い痒いというので、消毒薬で殺虫するのは
殺生で可哀相であるから、『生命の實相』 の本に書いてある原理にしたがって、
家ダニに和解し、家ダニを拝んでやろうと思って、私は家ダニを拝んで次のように念じたのです。

“家ダニさん、家ダニさん、あなたも何らかの使命があって地上に生まれて来たのですから、
別に私はあなたを殺そうとは思いません。 

しかしあなたが、処かまわず、吾々人間の住む世界を侵されるのでは、
子供が痒がって仕方がありませんから、出て往って頂きたい。 

しかしあなたも住む所がなかったらお困りでしょうから、この4畳半の部屋だけは、
あなたの住む世界として貸してあげますから、この4畳半だけに住んで下さい。 
そして、この部屋の外へ出ないようにして下さい”

このように念じましたら、何万という家ダニがぞろぞろと集団移動をはじめて、
指定された4畳半の部屋だけに集って、他の部屋にはいなくなり、
子供も家ダニに螫されなくなりました。 

生命体というものは、皆、神のいのちが宿っているから、心が互に通い合うものであります」


この話は、まことに 『生命の實相』 の真理の具体化として、
真理を実証するものとして、私は非常に共鳴感動をした。 

それで私は杉浦君に、

「君、生長の家に来て本部の講師にならないか」  といった。


「先生が本部講師になれと被仰るのなら何時でも上京します」  
と杉浦君は即座にこたえて、私の住む“お山”の下の環状道路を隔てたところに
貸家があったので、そこへ引越して来たのであった。

 
当時、杉浦慶一君 と 吉田國太郎君 とは真理の理解に深い青年講師として
各地で悦ばれ迎えられていた。

 
ある年のこと、横浜市の記念館で私の講演会がひらかれて、
杉浦慶一君が前座に立って講演してくれた。 

私はそれを演壇の横の席から聴いていたのであるが、
杉浦君は “病気の非存在” を説いて結核菌など決して恐るるに足りないことを
聴衆にわからせようとして次のようなことをいったのである。

「すべての生物は、内に神の生命が宿り、神によって生かされいるから、
互に兄弟姉妹であってバイキンといえども、吾々を、本来害するものではないのである。 
それなのに、かれ等を害するものであると恐怖して、敵として立ち向かうから、
彼らは敵としてあらわれ、ついに吾々を害する病菌となってしまう。

私などは結核菌とも和解していて、兄弟姉妹だと思うから少しも恐しくない。 

吾々の肺臓は左が2室、右が3室、合計5室もあるアパートみたいなものだ、
だから私は結核菌よ、もう3室ぐらいは空間があるから、
君たち、来たかったら何時でも来て住みなさいと結核菌に呼びかけている」


私はそれを聴きながら、これは間違った、考え方で、
本人を呼んで訂正しなければ危険なことになると思った。

何故なら、 『天地一切のものと和解せよ』 とは 味噌も糞も、
“そのあるべき場” を混同して一緒クタにすることではないからである。

天地一切のものと和解するとは、あるべきものが、あるべき位置に配置され、
互に犯し合う事なく調和した姿で仲良く各自個性を発揮しながら、
その個性が他から侵害されることなく、生かし合いの関係になる事なのである。


人間には人間の生きる“場”があり、結核菌には結核菌の生きる“場”がある。 
人間の生きる“場”に病菌の生きる“場”を与えることは、
これは和解ではなくて侵害なのである。
 

人間が結核菌 〈その他を病菌を含む〉 に対して抵抗を示すのは、
自己の個性的存在を守るための 「拒絶反応」 の一種なのである。 

「拒絶反応」 を生命体が失ったとき、生命体として存在するための条件である
全身の生理作用を統制する意識の統一がなくなるのである。 

つまり多数意識の共存ということになり、脳髄の中枢意識の統制に従わない細胞が
出て来て生理作用が撹き乱される。 そして癌細胞や、癌腫、肉腫等の発生となり、
ある部分に潰瘍を生じたり、中枢神経の統制に服しないで勝手に手脚が動き出すところの
舞踏病の如き症状が起って来るのである。


私は杉浦慶一君に、 「結核菌に肺臓への侵入を招待するようなことをいってはいけない。 
それは人体の拒絶反応を自己放棄することになるから」  と注意しようと思ったが、
演壇をおりた杉浦君は直ぐ次の講演場所へ駆けつけるために自動車に乗って姿を消した。

私は、すぐ演壇に立って講話することになっていたので、私と杉浦君は、
その後久しく逢う機会がなくて、その問題も私の意識の表面から忘れさられてしまっていた。

 
ところが、その後、杉浦君は結核菌が、彼自身が招待した通り、
彼の肺臓の3分の2位の範囲に移転して住みつくことになり、
重症の胸部疾患に罹って死んでしまったのであった。


日本国家が統一意識を備えた生命体として存続して行くためには、
日本国家の個性に反する「意識」の侵入を拒絶しなければならないのである。 

即ち、日本国家の個性ある精神形態を破壊する如き思想の侵入及びかくの如き教育を
行っては、国家は国民の意識統一を失い、舞踏病的状態に陥り、生命体として
完全なる機能を果すことができなくなるのである。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/c6bf1f6149e9f804ae17d494f3e15d79

          <感謝合掌 平成27年6月10日 頓首再拝>

自己を “神の自己実現” として ― 真善美の追求 - 伝統

2015/06/12 (Fri) 19:27:26


              *『人生を前進する』 より


人間は神の自己実現である。 最高の自己実現なのである。

自己実現ということは坐して手を拱いていて 「神の実現」 が出て来る
ということではなく、日々の行持を通して行動化してあらわれて来ることなのである。 

人間は神の自己実現であるから、先ず尊厳の自覚をもつことが必要である。

単に呼吸し、鼻孔より空気を出し入れし、口より食物を入れて肛門より脱糞し、
時々性欲を遂行して子を生むだけの肉体的かたまりが人間ならば、
何という人間はつまらないものであろう。 
虫介魚鳥ならびに獣類と異ならないのである。 

そのような食と性だけの本能的欲情を基本人権だなどと大袈裟に考えているから、
そのような欲情が満足出来ないときには生き甲斐が感じられないで
自殺する連中が出て来るのである。

そういう肉体本能を追求しても、それは魂にとっては本来、空なるもの、
むなしきものであるから、結局、本当の魂の満足が得られないから、
ますます飢え渇く心で満足を得ようとしてそれを追求する。 

そしていくら本能を満たし得ても、また満たし得ないでも、肉体本能や、物質本能は
魂そのものの要求ではないから、魂は益々飢えかわく、そして更に満足を得ようとして
焦燥に駆り立てられる ・・・ 

結局魂は肉体的欲望の追求だけでは、空気によって渇を癒そうとするようなものであって、
全き満足の得られる時は来ないのである。


人間には食と性との欲望以上に魂のねがいというものがあるのである。


美の追求のねがいもあれば、善の追求のねがいもあり、真理追究のねがいもあるのである。 
この真善美の追求のねがいこそが真に人間の魂の底からなるねがいなのである。

科学や哲学や数学上の真理を追求して、ひとつひとつ法則を発見し、
それを組み立て積み上げて新しい論理や新しい構成を見出して行く喜びは
獣類などには味わい得ないところの人間のみに与えられた魂の喜びである。

 
真理は神であり、その発見は 「神の発見」 であり、
法則を応用して現実界に新しい構成をつくり上げて行くことは、
神を現象界へ延長し実現するところの神聖なる行事(こうどう)であり、

それは魂の喜びであるから、一つの法則を発見し、一つの法則を応用し、
一つの新しい論理を組み立てて行く毎に魂の喜びは追加するのであって、

肉体的欲望の満足のように、
食欲を満足し過ぎたら満腹の感じで苦しいということはないのである。


また善に対する追求も真理に対する追求と同じく魂の内からなる要請であるから、
いくら善を積み重ねて行っても、善は満腹感でウンザリすることはなく、
善を重ねて実行すれば実行するほど魂の喜びは殖えて行くのである。

 
私は爰に 「善」 の語をもって 「愛行」 の意味もふくめていうのである。 
単に 「愛」 といえば、現代の混乱した用語例では 「セックス」 の愛と
混同するおそれがあるから、私は 「善」 の枠の中にふくまれる愛を特に
 「愛行」 ということにする。

若し、諸君が、近頃、生き甲斐が感じられないならば 「愛行」 が足りないからである。 

人間は神の自己実現としてその本質は 「善」 そのものであるから、
行為の上に 「善」 を行うならば、自己の本質がのびのびと伸ばされるのであるから
自然に “生き甲斐” 即ち “生きている悦び” が感じられる筈である。

諸君は今日一日、1回以上誰かに対して愛行をなすべきである。 
愛行をなしたとき、そのあとの心の満足は何にたとえようもない満ち足りた感じ
 ― 生き甲斐が感じられるのである。

「愛行を行う」 ということは 「誰かに何か深切にすること」 「誰かの役に立つ」 
ことをすることである。 

人間はすべて一つの 「神」 から生れて来たものであるから、
彼我一体、自他一体であって、決して孤立したものではないのである。 

だから、ただ孤立して自己のみを楽しましめようとするとき悦びは逃げてしまい、
他の人を楽しましめたり、他の人の役に立ったり、他の人に深切をつくした時にこそ
本当の魂のよろこびが感じられて来るのである。


美に対する追求
 ― 美的感情の満足も魂の悦びであって、単なる肉体の欲望の満足ではないのである。

人間に感じられる快感には、美感と肉感とがあって、人体美に対する追求などの場合には、
美感と肉感とが混淆して、その区別が不鮮明になるものであるが、

美感というのは 「離れていて鑑賞できる快感」 であり、
肉感は 「肉体が接触して感じられる快感」 であると大別することが出来るのである。

美感は魂的であり、肉感は肉体的である、 美感は激情を伴わないが、肉感は激情を伴う。 

美感は静かなる落着いた悦びであるが、肉感は激しく振動する悦びであり、
そのかわりに、それを満足し終った後には魂の空虚さを感ずるし、
満足し過ぎたときに快感が苦痛や憂鬱に変ってしまう。 

これに反して純粋なる美感は、ただ満足のみあって、
いくら満ち足りてもその快感が苦痛や憂鬱に変ったりすることがないのである。 
それは永遠に変質することなき悦びである。


かくの如く真・善・美の追求は自己の内にやどる真・善・美の実相を媒介として、
宇宙普遍の真・善・美 〈その本体は神である〉 を現象的に引き出し延長し来って、
これを行為化し具体化して実現することなのであるから、

自己に宿る実相と宇宙普遍の実相とがカチカチと触れ合って
実現する此の上ない魂の悦びが感じられて来るのである。

これが遂げられたとき本当に諸君自身を 「神の自己実現」 だといい得るのである。 

されば、

(1)毎日必ず、少しでも科学的真理または哲学的真理をもとめよ。 
   そのために1日数頁でもよいから良き哲学書または 『生命の實相』 
   または 『真理』 の書を読め。

(2)毎日、必ず、誰かに対して深切をせよ。 
   誰かに役に立つと思う行為をなせ。

(3)肉体的快感を求めず、離れて味わう美感を養うために毎日幾十分間かは
   絵画美、音楽美、建築(けんせつ)美、文章美などを味わうことに費やせ。 
   単に鑑賞するだけではなく、創作、製図、作曲など積極的に行うがよい。 
   創作と享受とは、美感を養う上に車の両輪となるものである。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/a71a434a6382e012f2903cd4e346774e

          <感謝合掌 平成27年6月12日 頓首再拝>

伝道こそは吾が使命 - 夕刻版

2015/06/14 (Sun) 18:53:35

伝道こそは吾が使命 ― 治療室の片隅に掛けられた 『光明日訓』 の一語が私を変えた

          *『生長の家』誌(昭和62年新年号)より
           ~生長の家北見教区教化部長  赤 倉  寛


昭和26年4月のこと、坐骨神経痛が再発しました。

当時、私は名寄駅の案内係として国鉄に勤務していましたが、
戦時中の体力検定の際、砲丸投げの測定でギックリ腰を起したのが原因らしく、
毎年坐骨神経痛を繰返して来たのでした。 

それまで、医者だ、指圧だ、電気治療だと色々試して見ても、どうしても治らなかったのです。

そこで、その年は笹〇野一色総合治療所という処に毎日通って、
味噌灸という珍しい治療を受けていたのでした。 (中略)  たまたま治療室の隅に 
『光明生活の日訓』 がさりげなく掛けられていて、それがふと目についたのです。


 『吾れは宇宙の中心であり、我のみが我が世界を改善する』 


私はその言葉を口づさみ乍ら、素晴しいことが書いてあるなあ、と思っていました。 
一体こういう言葉を誰が書いたのであろうか、そして、この “吾れ” とは
書いた人自身の吾れなのか、また、人間に共通している生命的なものを指して言っている
ことなのだろうかと思い、この‘吾れ’ということにひかれたのです。

笹治療師に聞きましたら、「これは生長の家の谷口雅春先生がお書きになったのである」 
と教えてくれました。 私は、この先生の書いた本を読むか、お話しを聞いてみたい、
それでこの歌のスランプ状態が解決出来るかもしれないと思い立ちました。


これが縁となって、翌月5月27日、名寄で開かれた田中イサノ講師の生長の家講演会に、
未だ治りきらない腰をかばい乍ら杖をついて足引きずるようにして参加しました。

そして、田中イサノ先生の情熱ほとばしる生長の家の “人間・神の子、無限力” の講話に、
深く感動しました。

講演会が終って、私は持参した自作の短歌5,6首を田中先生にお目にかけました。 
この作品を通じて、精神面の個人指導をお願いしたいと思ったのです。 

すると、田中先生は暫く御覧になって、突然に 「素晴しい青年が現われましたよ」 
と周囲の人々に向って言われ、讃嘆して下さったのです。 

そしてあっけにとられている私の手を握りしめ、
「日本の再建のため、人類光明化のため、共に頑張りましょう」 と ・・・・

私は、参考のために聞いて見よう程度で参加したのが、
思いがけない宝物に出合った如く、その場で、これこそ、日本国を再建し、
世界に真の平和をもたらす偉大な御教えであると確信してしまったのです。 

不思議に歓喜雀躍の想いが湧き上り、“生涯この御教えに捧げて、
一人でも多くの人々に伝えながら人生を前進しよう” と決意していました。

そして講演会場を出た瞬間から何かしら体が宙に浮いた様な軽さを感じ、
わが家に帰って気が付いてみると、坐骨神経痛はあとかたもなく消えて了っていたのです。


私は、短歌のスランプ状態を解決しようと思って生長の家を訪ねたところ、
どうにもならなかった坐骨神経痛が消えてしまったのだから、
これは儲けものをしたと思っていました。 

しかしその後真理を勉強している内に判明たのです。 
『信仰の活人剣』 という本に 『生命の實相』 第4巻 〈頭注版〉 の抜粋があり、
“愛行の決意が病気を治す” とハッキリ書いてありました。

「 ・・・ この病気が助かったら今度こそ世の中の人のためになるために、
本当の神性ある人間として働かせてもらおうと一大決心すればよいのであります。 
この決心が純粋であれば、その瞬間心の世界ではもうその病気が治ってしまっているのであります。 

心が変わってしまっている、心は治ってしまっているのですから、
心が投影して客観化している肉体もその瞬間からめきめき快方に向かうのであります。 ・・・ 」

 
こうして、私は生長の家の青年会活動に飛びこみました。  (中略)


昭和47年の7月1日付で、私は道東帯広・釧路・北見教区 〈第三教区〉 担当の
特務講師の辞令を戴くことになり、愈々光明化活動のプロとしての出発となりました。 

その直前の6月には、プロになるための心構えを養う意味で、月始めの飛田給練成会に参加、
本来性に磨きをかけ、11日からは富士河口湖練成道場で一般練成会を受け、
引続き総仕上げの意味で伝道練成会 〈2泊3日〉 に参加したのです。


20名近くの伝道者はマイクロバスに乗せられ、やがて見ず知らずの街で次々に降され、
決められた時間内での伝道が開始されました。 

最初は3人一組で戸別訪問し、要領が判るにしたがって最後は只一人での伝道となります。 

ところが、自分では一所懸命に祈っているつもりなのに、何軒訪問しても、冷たく断られる、
なかなか本を買って呉れそうもない。 まさに、伝道には、過去の仕事の経歴も肩書も、
信仰の深浅さえも通用しない。 ただ、私を無くすることだけでありました。

初日の終った夜に、私は静かに反省しました。 
自分の祈りに真剣味が足りなかったのかも知れない。 
傍に大きな犬が寄ってくると逃げ腰になったり、気になったりして、
祈りはどこへやらではなかったか ・・・・

2日目からは真剣そのものでした。

訪問先では先ず標札を見て、何もかも忘れてただ、
「住吉大神 〇〇家の上に天降り給いてご家族一人一人を祝福し給う。 
而してこの持参した神誌・聖典がご縁となって、本当の幸せが得られますように」 と、
ひたすら祈りました。

そしてそのまま訪問しますと、不思議に軒並といってよいほど、
次々に本を買って下さったのです。 
私にとっては、この時の伝道が最高のものとなりました。

伝道を終えて帰途についた時、天上から声が聞えて来ました。 
それは 「よかったわねぇ」 という、なぜか女性言葉でした。 
平和の女神様がよろこんで祝福してくれたかのように感じられ、
私は、何か心に深い安らぎを覚えたものでした。

 
こうした数々の体験を糧に、近き将来に必ずや偉大なる輝ける神の栄光と祝福に人々が気づき、
神への感謝として応え、全ての人類の幸福と平和が招来されるであろうことを確信して、
今日もこの道を驀進して参ります。


  わが願い産めよ増やせよ地に満てよ ひとつとなって只にぎやかに

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/72b44f3dc7964979c940c55cfe73f1cf

          <感謝合掌 平成27年6月14日 頓首再拝>

何故、人間は“神の子”で“お父さんの子”か - 伝統

2015/06/16 (Tue) 20:17:34


            *『白鳩』誌(昭和42年5月号) より

人間は“神の子”だと子供に教えましても、
人間はお母さんから生まれたのであって、お母さんから生まれた子供が
どうして“神の子”なのかわからないと思う子供もたくさんあるでしょう。

それどころか、「私はお母さんのお腹から生まれたのに、どうしてお父さんの子なの?」 
と訊く子供もあります。 
これにはお母さんも時には返事に困ってしまうことがあり勝です。

神様は、“生命の種子”を天降して、お母さんになる人のお腹に宿すのです。 
それをお腹に宿してから育てる役目がお母さんです。 
それは植木鉢に朝顔の種子を植えるようなものです。 

“生命の種子”は神様の生命が天降って来るのです。 
その種子が植えつけられて育てる植木鉢の働きをするのが母親の胎内です。 

しかし朝顔の種子は植木鉢に植付けてさえ置けばそれで立派に生長して花咲くでしょうか。 
それを立派に生長させて花を咲かせるためには、
太陽の温い光に毎日多少とも当ててやらねばなりません。 

曇っている日も雨の降る日も、気がつかないかも知れないが、
太陽の温い光はふりそそいで来ていて、植木鉢の朝顔は生長するのです。

それと同じように父親の温い愛情が常にお母さんのお腹の中に宿っている“生命”にそそがれて、
その“生命”が生長して胎児となり、更に赤ん坊として花咲くように生まれ出るのです。 

だから、子供はお父さんとお母さんとの合作みたいなものなんです。 
だからお父さんにも似ているし、お母さんにも似ているのです。


《お父さんがいないでも“お父さんの子”だ》

お父さんとお母さんになる人間がいても、
神さまから、「生命の種子」ともいうべき“生命の原理”が天降って来ないと、
お父さんとお母さんとの努力だけでは子供は生まれません。 

だから子供は神から来た“生命”ですから、“神の子”というのです。 “
神さまの生命”は“種子”、お母さんは“土”、お父さんは“日光”というようなものです。 

お母さんのお腹に子供が妊娠してからお父さんが死んだり、
どこかへ往っていなくなったりしても、一度そそがれたお父さんの愛情の温かさは
お母さんのお腹に残っていて、その子供を日光のように育てるのです。 

お父さんはたとい此の世から死んでしまっていても、
霊界でその子供のことを思い愛情をそそいでいるものです。 

お父さんは何かの事情で家庭を離れていても常に太陽の光が注いでいるように、
お母さんのお腹にいる子供のことを思っているものです。 

だからその子供は育つのであり、従って、
お父さんがその家庭にいない子供でもやはり“お父さんの子”なのです。

 (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/3d6501753b0b10133e6d3a47686d1c6a

          <感謝合掌 平成27年6月16日 頓首再拝>

絶対の信 - 伝統

2015/06/20 (Sat) 18:44:27


             *『生長の家』誌(昭和56年11月号)より
              ~ 生長の家本部理事長  和田 英雄


谷口雅春先生は一貫してお説き下さっておられます。

 「人間は神の子なんだよ、肉体ではないんだよ、物質ではないんだよ」

そこで 「ハイ!!」 と言って信仰を有つと、深いところで人間を把えることが出来るのです。 
「本当にそうでしょうか?」 と言って疑う人もあるが、
「疑うなら徹底的に疑ってごらん」 と、先生は仰言る。

 疑って疑って行きますと、しまいに何が何だか分らなくなってしまう。 
分らなくなって 「どうしてだろう、不思議だなあ、妙だなあ」 とそこに妙が出て来る。 
結局、疑って行った先も、妙だけしかなくなってしまう。

この 「妙」 の世界というのは、結局、何も無くなってしまう世界である。 
空っぽの世界であり、真空の世界であり、未知の世界である。 

そこにはもう ‘芯’ であり、ここまで辿りついたらいよいよ 
‘信’ の世界、信仰だけの世界に入って来るわけであります。

 
谷口雅春先生は、『生命の實相』 の中でニュートンのことを述べておられます。 
ニュートンは “妙” の天才であった。 誰も妙だと思わないのに、彼だけが、
リンゴが落ちるのを見て “妙だなあ” と不思議に思った。 そうしてついに、そこに万有引力の法則があることを発見した。 しかし、もっと奥へ入ってみたらどうだろう。 

どうせ妙だと思うのなら、もっと徹底的に奥まで入ってみたら、
そこでこの法則を司っている本は一体何なのだろうと思うにちがいない。 
そう思った時に、神を発見できたであろうに ――

 こういう内容のことを、先生は書かれています。

私たちだって同じことですね。 
ものごとの門口だけでウロウロしているのではなく、
徹底的に奥まで入って行かなければ、真実は分らない。 

無の門関をとび超えて行かなければ、真理はわからない。 
だから禅では難しい公案をわざわざこしらえては、何とか無の門関を超えさせようとするわけです。

 
ところが、谷口先生はもっと素晴しく教えて下さっている。 
はじめから門なんかない、ただ “ハイ” と言って神を信じてしまえばよいのである  ――  と。

谷口清超先生の今日の御法語に書かれていますね。 
「信じて行なうことと疑って行なうこととの間には、結果に差があることが分ったからである」 と。

そこで、吾々が 「信じて行なう」 とき、何を信じるかというところが問題になります。 
科学のもっと奥にあるところのものを信じて行かなければならない。 
それは何であるかと言えば、‘実在’ であります。

スペンサーという哲学者は 「第一原理」 という言葉を使っています。 
何か原因があってそこから作られているもの、はじめから在るものである。 
それが実在であり、実相である。 

そこに厳然として在るのだから、疑いようもない。 
しかし、在ると言っても、吾々の五官や六感でつかまえられるものではなくして、
無限に存在しているものであって、もう信じるより他に仕方がないわけであります。


弥陀和讃の中には 「信心喜ぶその人を如来と等しきと説き給う」 とあります。 
信心することが、もう嬉しくって嬉しくってたまらない、それがそのまま如来の世界である
 ― 「大信心は仏性なり、仏性即ち如来なり」 ― 徹底的に信ずるとき、
そこにみ仏の御いのちが顕れて来るのである  ――

 
それが私達の生命の実相であると、谷口雅春先生は教えて下さっているのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/fd96e492308629e6272557ea47cacd16


          <感謝合掌 平成27年6月20日 頓首再拝>

人を救う道 - 伝統

2015/06/24 (Wed) 18:16:01



           *『生長の家』誌(昭和40年10月号)より 

人々を救う道には、大体三種ある。

その一つは、その人に必要な “物質的なもの” をその人に差上げて、
その人の急場を救ってあげるということである。 

これを “物施” という。

 
その第二は、「人間・神の子」 の真理を説き聞かせて
その人の内部に宿っている無限の力を引出してあげることである。 

これを “法施” という。


その第三は、祈り又は神想観 (瞑想) によって、
その人の実相の完全さを心に念じ、観じて、
実相の完全さを喚び出してあげることである。


誰かが困難に陥っているとき、
その困難に、此方(自分)が巻き込まれてしまってはならないのである。

現象の困難を超えて、既にその困難の解消せる 「実相」 の完全な姿を、
祈りと瞑想とによって念じ観じなければならない。

例えば、病人に接して、その病苦に同情して 
「ああ、重態だな、気の毒だな。 全く手の施しようがない」 
などと言ったり思ったりしては却って病気を増悪するだけである。

最初に同情するのはよいが、その次には病気に自分の心を同調させずに 
「彼は病めるに非ず、神の子にして既に健康なり」 と、
実相を観じ念じて、健康の姿をあらわすようにしなければならない。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/d69e7988b38617d1253bdf5a8be1dc92

          <感謝合掌 平成27年6月24日 頓首再拝>

『生命の實相』 が嫁入道具 - 伝統

2015/06/27 (Sat) 21:15:06


          *『生長の家』誌  昭和55年3月号 より
            ~ 生長の家宮崎県教化部長  浜田 邦明


私は青年会支部執行委員長として、初めて上京した。 
その時ふと見上げた生長の家本部正面玄関の光明の塔に、
夢で見たあの御神像が立っていた。 

まぎれもなく夢に現われた神様だった。 
この御神像は昭和28年に造られた由である。 

まさに私は、生長の家大神によって、住吉大神によって救われていたのだった! 
そして父は、私を本当の信仰に導くために自ら生命を縮めてまで
私を救って下さった観世音菩薩だった。

まことに父の愛は神の愛であった。 
そして神様は、生長の家大神様は、現実に人格神として居られることも
私にははっきり分ったのである。

 
昭和53年11月21日、生長の家総本山で住吉大神様を現実界にお迎えするための尊い 
「龍宮住吉本宮鎮座祭祝詞」 が総裁谷口雅春先生によって奏上された。 

その中で総裁先生は  「ああ住吉大神、住吉大神、住吉大神」  と3度言われた。 
私はそのお言葉の中に、父なる神を呼び給う総裁先生の切々たる御心を感得させて頂いた。 

父と子、神と神の子の誠に尊い御対面であった。 
この深い深い交りの中から千古不滅の御教えが湧出していることが
ひしひしと身にしみわたった。
 
 
イエスの祈りの中で、最も私の心に残るものは、『神 真理を告げ給う』 の中で
総裁先生がお示し下さっている、

 「父よ、まだ世のあらぬ前に、わが汝と偕にもちきたりし栄光をもて、
今御前にて我に栄光あらしめ給え」 という祈りである。 

この祈りは、イエスが愈々十字架に釘けられる時が近づいて来たことを
自覚せられた時に祈られたお言葉であるという。 

この現象生命が今将に終らんとする時、この天地創造以前より神 〈父〉 と偕にある
自己の実相を自覚し、愛を貫き得て、父の御名を呼びつつ父の御許に、天国に帰りゆく、子、
イエスの荘厳な生涯を思う時、深い深い感動を私は覚えるのである。


嘗て私も病床で現象生命の将に終らんとする体験をしたことがある。 
が、その時に至っても自己の実相を自覚し得ず、愛を貫き得ぬ人生の末路の
何と悲しく淋しきことかと、只懺悔の涙に真夜中の病床を濡らしていたのだった。

然し、その一瞬の中にも、住吉大神の救いはあった。 
自宅で私の臨終の念に感応した妻が、即座に私のために神想観をしてくれていたのだ。 

それは、“夫をこの淋しい思いの中で霊界に送ってはならない” 
という深い愛念にもとづくものであった。


 「一切大調和の大海原の中に神の無限の生命を頂き、
  如来のみ懐に抱かれて、喜びに輝いているのである」

と、妻は如来来迎の祈りを真剣に祈ってくれた。

私は今でも、その時の妻の愛と信仰の深さに頭が下る。 

この妻の深い信仰に支えられて、私の病床の懺悔の涙は一瞬にして深い感謝に戻り、
翌朝、気が付いた時、死線を越えて私は生かされていたのだった。 

これが逆の立場であったとき、果して妻の真の幸せのために、
心を平静に、只 “実相を観る” の一点に全精神を集中出来るかどうか、
私には誠にもって厳しい設問である。


かつての実相研鑚会で総裁先生より有難いお言葉をいただいた。

 「浜田邦明君が健康を恢復し、再び仕事を始めることが出来たのは、
 奥さんの、一切を拝む力ですね。 相即相入、夫と妻とは本来一つである ― 
 それが生活の上に実際に実現している」 と。

 
妻は入信以来、神を知るための愛の実践として、天皇陛下の大御心をお手本とし、
万人祝福の生活に生命をかけたという。 

その精進が、相即相入、夫の非常事態に実を結んだ。

 妻は後に、涙を流しながら私に語ったことがある。

 「私は神様から頂いた 『生命の實相』 の真理を嫁入道具として嫁いで来ました。 
  私の願いは、夫婦共々真理の道を歩ませていただくことです」 と。


 
同じ実相研鑚会で総裁先生から、

 「浜田邦明君が病気になったのは、
時間、空間面に於いて起った出来事に心をとらえられて、
“実相を観る” ということに心が至らなかったからだ」

と厳しくも、愛深くお教え頂き、神想観の重要さを深く心にきざんだことだった。

 
神はかくも、私の悟りのために、よき師、よき妻、よき友を使わし給い、愛し導き給う。 

私も又、神の御愛に応え、縁あるすべての人々への報恩のため、
総裁先生の如く、イエス・キリストの如く、父なる住吉大神の御名を呼びつつ、
今日も明日も明後日も、ひたすら、“実相を観る” の悟りの大道を歩みたいと思う。

  合掌

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/caf3be7772e8afa9ca3b07fb1582f6d2

          <感謝合掌 平成27年6月27日 頓首再拝>

「入龍宮不可思議境界」 - 伝統

2015/06/30 (Tue) 17:50:14


             *『白鳩』誌(昭和21年7月号) より

諸君よ、あなたの心の波が「聖の世界」の波長に合うためには他の幸福のために祈れ、
「最大多数を幸福にするためには、神よ何をなすべきかを教え給え」と祈れ、
微塵も我を用うること勿れ。

 
その時、諸君のうちにある「真理の霊」が目覚めてくるのであります。 
そして、宇宙に満つる真理の霊と波長が合います。 
そして諸君のフト思うことが真理となり、それを実行することによって
幸福の世界が実現するのであります。

それは波長の原理の喩えをもって説明したのですが、
実際は‘すべてのもの’が貴方のうちにあるのですよ。 
貴方が真理を理会し得るのは、真理と等しきもの、
否真理よりも偉大なるものがあなたのうちにあるのです。 

それが今迄顕れなかったのは、ただ潜んでいたからです。 
心の塵埃(ごもく)に覆われていたからです。 
心の塵埃を清掃すれば露堂々と、真理の示唆が、あなたの心の耳にきこえるのです。 


「聖の世界」は‘あなたの内’にあったのです。 
これこそが 「入龍宮不可思議境界」 と云うものです。

 
汝の心の内なる「真理の霊」の囁きに耳を澄ませよ。 
心の埃を去れ。 
素直にそのまま、真理の啓示に従うべし。

 
「殺す勿れ」 「盗むなかれ」 「姦淫する勿れ」 ・・・ などは真理の霊の啓示であります。 
あなたが真理の導きを受けて幸福になろうと思ったならば、自分の都合のよいように、
真理の霊の囁きを曲げてはならないと云うことです。

戦争中だから殺しても好い、戦争中だから盗んでも好い、戦争中だから姦淫しても好い ―
 などと、真理の示唆を自分の都合のよいように曲解したために、
多くの犠牲者を生じ、国をも滅ぼす結果となったのです。

真に道徳的な人、真に科学的な人は、真理の全体を愛するのであって、
真理と見ゆるもののうち、自分の都合のよい部分のみを受入れて、
他を捨てようなどはしない筈です。 

ですから、真理は常に、その全貌を示して其の人を導いてくれるのです。

 
善き考えが浮んだならば、それを蔵(しま)って置くだけでは、
やがて次なる善き考えが出なくなります。 
善き考えを与えられたら、それを次に伝えることが、
次なる善き考えを引き出すための最善の方法となるのです。 

「与えよ、さらば与えられん」は如何なる場合にも永遠に真理であります。


小説家がよき考えを与えられたならば、それを小説に表現し、それを社会に発表すれば、
尚一層よき小説の構想があとからあとから其の小説家の心の中に浮んで来るでありましょう。 

併し、こんな珍しい考えは発表するのは惜しいと思って、それを小説に実現せずに
空しく心のうちにたくわえて置くならば、その人の小説の創作力は鈍って来、
善き構想は浮ばなくなり、結局その人は小説家としての能力を失ってしまうことになるでしょう。

 
あなたが若し発明家でありますならば、
心の中(うち)に与えられた考案を必ず「実現」にまで与え尽せ。 
それが金が儲かるとか儲からぬとかで躊躇してはならないのです。 

与えられた考案や発明的考えは、それを世の中に発表して、世の中に与え尽したとき、
次なる一層立派な考案や発明があなたの心の中に与えられることになるのです。

 
それは作曲家であるにせよ、宗教家であるにせよ、詩人にせよ、歌人にせよ、
よき考えは発表し、実現し、人に与えることによってのみ、
次なる一層よき構想が、作曲が、脚色が、詩藻が、情操が湧き出てくるのです。

 
幸福は自己に与えられた善き考えを形に実現して次に伝えること、
それによってのみ善因循環して善果となって永遠に幸福の尽くることがなくなるのであります。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/cf81ac86dfd3f5c6d288263187e1623d

          <感謝合掌 平成27年6月30日 頓首再拝>

「実相の自覚」 を深める神想観 - 伝統

2015/07/03 (Fri) 17:31:18


           *『心の持ち方一つ』 下 「心と病気」(P88~90)
             ~ 生長の家長老   徳久 克己


聖経 『天使の言葉』 のなかに、

  「汝ら『生命の実相』を知り、
   迷滅すれば恐怖滅し、
   恐怖滅すれば
   一切の不幸と病おのずから滅せん」

このように説かれております。 

谷口先生は、よくこの聖句を引用されまして、
「恐怖が一番いけない」 とお話してくださいました。 

「人間・本来神の子」 の 「生命の実相」 を知りますと、
恐怖がなくなり、迷いがなくなり、「神の子・病なし」 の
本来の人間の姿が現われてきます。


聖経 『続々甘露の法雨』 に、

  「病気を癒すとは、
   畢竟、本来完全なる『神の子・人間』を顕現することに他ならず」 と示されています。

「病気は無い」 という深遠な真理を自覚するために、必要なことは、
『生命の實相』 を繰り返し、繰り返し拝読し、聖経を読誦し、愛行をすると共に、
最も必要なことは 「神想観」 をすることであります。

「招神歌」 〈かみよびうた〉 を唱えて、生長の家の大神を招(よ)び、
その御守護のもとに行う神想観は、谷口先生が、神より授けられた、
最高の 「祈り」 であり、「瞑想」 であります。 

谷口先生はアメリカで、神想観のお話をなさいます時には、
 Prayerfull meditation と英訳しておられました。 

「祈りに満ちた瞑想」 とでも、訳しましょうか、
アメリカ人にわかりやすく、英訳された言葉です。


神想観は、招神歌を唱えて、「吾れ、今、五官の世界を去って、実相の世界に入る。 
此処がこのまま、実相の世界である」 と念じてはじまります。 

これは、私たちがまことに簡単に唱えていますが、よく考えてみますと、
「今、五官の世界を去って」、そのまま、すぐ 「実相の世界」 に入る、
すばらしい 「行」 なのです。 

つまり、私たちは 「五官の世界」 を去れば、
今、ここ、そのまま 「実相の世界」 なのです。 

「実相の世界」 は、「神の創造された、そのままの世界」 ですから、
「不幸も、病も、争いもない世界」 です。 


生長の家の 「神想観」 とは、今、ここで、五官を去って、そのまま、
すぐ 「実相の世界」 に入る 「行」 なのです。 

ですから、毎日、必ず 「神想観」 を実修して 「病気のない世界」 に入り、
「病気のない世界」 が今、ここに、そのまま 「ある」 という自覚を深めることが、
「病気は無い」 ということを、知的にしるだけではなく、本当に自覚することができるのです。 

これはまことに、スバラシイことでありまして、「永遠の生命」 の自覚につながるのです。 

生長の家に入信して、本当に 「幸福な生活」 を送り、
また、多くの人を、幸せに導くためには、
どうしても、「実相の自覚」 をふかめる必要があります。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/95b820bba0744c96113b49f4b5b79485


          <感謝合掌 平成27年7月3日 頓首再拝>

「フト」思うこと - 伝統

2015/07/05 (Sun) 17:57:00


           *『白鳩』誌(昭和21年7月号)より

何を吾々が心の中に考えるか、それによって一家は滅び、一人(いちにん)は栄えます。

何を吾々が想念するか、それによって或る人は小発明しか完成し得ないのに、
或る人は大発明を完成致します。

フト思いついた善い考えは、その人の全生涯を幸福と繁栄とに導き、
フト思いついた悪しき考えは、その人の全生涯を不幸と衰頽とに導きます。 
その「フト」と云う神秘的な‘しろもの’こそ重大なものであります。

文豪スティーヴンソンは常に手帳を携帯していてフト思いついた名案をそれに書き止め、
それが後の大創作の材料になったと云います。 

生長の家の 『智慧の言葉』 は、
私が道を歩きながらフト思いついたインスピレーションの言葉を
その頃常にポケットに携帯していた手帳に書きとめて置いたものです。

 
フト思いついて左方に寄ったため敵弾に触れないで助かった人もあります。 
すべてはフトの想念が支配しています。 

軍閥は「戦争すべく」フト思いついたために、ついに日本を滅亡に瀕せしめ、
国民全部を塗炭の苦しみの底に投じたのです。

この「フト」の咨嗟こそ吾々の運命を左右するものであります。 
この「フト」の想念が過るまらば吾々は不幸のドン底に叩きのめされるのでありますから、
不幸にならぬ為には「フト」の世界を清めなければならないのです。

「フト」思いつくと云うのは決して「偶然」ではないのであります。 
「フト」と云うのは心理学的に云うならば、「潜在意識」の世界であります。 
心霊学的に云いますと、これは守護霊 (guardian angel) の導きと云うのです。

 
ホーマーや、ヴァージルや、、ミルトンは、守護霊の囁きを聞いたと云います。 
それを彼らはミューズの神 (Muses) の囁きを聴くと申しておりました。 

ソクラテスは、自分の守護霊をデモン (Demon) と呼び
常にその教えに傾聴し実行したのです。 

セネカは自分の守護霊をジーニアス (Genius) と呼び、
毎日ジーニアス(天才の神)の囁きを聴いてそれを日常生活の指針にしたのです。

 
旧約聖書の預言者ならずとも、神の声を聞く人は、少しく精神統一の修行や、
宗教的修行をした人はザラにあります。 

生長の家で神想観の実修をした人にも沢山あります。 
神想観の実修をすれば、インスピレーションに感じ易くなります。 
精神が浄化しますから、悪い想念や、破壊の想念と波長が合わなくなります。

 
大体、心理学で「潜在意識」と呼び、心霊学で「守護霊」と呼んでいるものの中には
幾多の種類があって、必ずしも「聖の世界」からの天使の声ばかりではありません。 

そう云う場合、フト思いついた事を実行したために
飛んでもない不幸に遭うことがありますから注意せねばなりません。

 
吾々はそう云う守護霊や、潜在意識の世界をきよめて、ただ「聖の世界」(実相の世界)の
放送のみを自分の心の受信機に受取るようにしなければなりません。 

そのためには潜在意識の世界を浄めることが必要なのです。 
ただ何でも潜在意識の世界からの「音ずれ」に耳を傾けたら好いと云うのではありません。 

神のお示しならざる雑音を聴いて、
それをフト心に思い浮かべた場合には貴方の生活に不幸が来るのです。

この場合にも当嵌るのは「先ず神の国と神の義(ただしき)を求めよ、
その余のものは汝等に加えられるべし」と云うことであります。 

「自分の我欲や欲張り根性を満足せしめるために、必要なる智慧を神を授け給え」と
云うような心境では聖の世界の波長とあなたの心の波長とが合う筈がありません。 

そして寧ろ、迷える悪魔の世界と波長が合いますから、貴方の心の中にフト浮ぶことは、
悪霊の念であり、障碍霊(さわりのれい)の念であり、随って貴方がフト思い浮かべて
為す事が面白からざる結果になるのは当然のことであります。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/0a3bd305d5be82b866791e7b02fd18c4

          <感謝合掌 平成27年7月5日 頓首再拝>

死中につかんだ黄金の綱 『生命の實相』 - 伝統

2015/07/07 (Tue) 18:28:39


            *『ざっくばん』 より
             『理想世界』誌 昭和59年1月号 
             ~生長の家本部講師  東山 半之助


〈死! そうだ。 それよりほかに私の逃れる道はない。 
人間は誰でも必ず死ぬ、ただ幾年か、幾月か早目に失敬するだけだ。 
なに? 自殺は罪悪だって? 冗談じゃない。 私の生命を私自身が始末する、

それも長生きして社会に御迷惑をかけようというのと違って、
早目に“さようなら”して消えようというのがなんで罪悪だ! 

自殺は罪悪なのか、そう、聖書(バイブル)か西洋小説かなんかにそんな文句があったが、
それは人生の絶体絶命の窮地に追いこまれた苦しみを知らない人間の意見であって、
今日ただ今の東山半之助を拘束する力があるものか ―― 。〉

 
これが当時(昭和9年の冬ごろ)の私の強い感情であり、意志であり、理論だった。

 
学歴は小学校だけで新聞配達夫、貸本屋、田舎新聞社の時間ぎめ(パート・タイム)の
校正助手など、いわば櫛風沐雨の20年。 

辛くもかちえた新聞社長  ―  たとい田舎の郷土新聞にせよ、
大学の卒業生を8名ほどもわが部下とし、わずか百人内外の社員工員にせよ、
何かの機会には全員に敬礼せしめて一場の訓示を述べる、権威ある「社長」として、
報道界の一国一城の主と齧りついた自分が、借金とともに姿なく声なく、
唯一の遁路を“死”に選ばんとする最悪の非常時なのである。 

悩むだけ悩み、悶えるだけ悶えた究極が「死」への逃避だ。

ただし、いかに郷土新聞社の田神(でんしん)社長といえども、
自殺したと社会に知れたら、その日から読者も広告主(スポンサー)も
晩秋の落葉のように落ちて、新聞社は数ヶ月もしないで倒れてしまう。 

自殺とわからずに死ぬうまい方法は? ・・・ 沈思黙考の末、やっと名案? を案出した。 
それはラッシュアワーの商店街で疾走する自動車に体あたりして死ぬこと、
つまり自製交通事故である。 

それが死後 “さては東山君は自殺したか” などと夢にも思わせないために、
ステッキを七三に逆に提げること、左手には吸いつつある煙草をキッと指にはさむこと等々、
細心周到にゼスチュアを研究して、街頭に立った。

後事を託すべき社内幹部、6つの銀行の頭取または支店長、大先輩と大株主、
それに妻子(一人子裕はまだ中学3年生だった)等々に7通の遺書を、
5日間もかかってひそかに墨書し、帳箪笥の袋戸の中にきちんと並べて鍵をかけ、
死後すぐ発見される所に鍵は糸で釣るしておくなど、舞台装置と演出には私らしい細心を尽した。


そうした一日(あるひ)、ふとひらいた新聞 ― 記憶では朝日新聞だが、
当時谷口雅春先生にさし上げた手紙には讀賣新聞と書いてあるから讀賣新聞が本当であろう ―  

一面の下5段ぶっ通しの広告に、黒地に白抜きの雄渾な行書で 
『生命の烈風 (いのちのはやて)』 の額下に、初号活字で 
「神も抹する能わず」 左下に 「それが金剛不壊の汝自身である」 と
やや小さい字で副題してあるキャッチフレーズに私の目は吸いつけられた。 

それは人間の胸をガーンと殴るほどに雄渾な文句だ。

この書籍に対する待望の一念で自殺は一時中止して、真に一日千秋の思いで待つこと10余日、
やっと到着したのは昭和10年1月号の 『生長の家』 誌であった。 

『太陽』や『キング』や『文芸倶楽部』を見なれた目には、64ページB6判の雑誌は
はなはだ貧弱に見えて、ちょっと物足らぬ感がしたものの、あの日から11日間
私を自殺から引きとめていた雄渾なる広告 ――。 

雑誌の体裁が貧弱であろうと、この神秘なる魅力ある広告文を作るほどの
広告作成者(アド・プランナー)を使う谷口という人は非凡の人にちがいないと、
心の感激をかきたてて雑誌を読み出す、読むうちに驚いた。 

感心した、敬服した、うなり出した。

一字一字が宝石のように輝き、各行から光を発するようである。 

「と云うことになる筈であるのであります」 といった回りくどいクネクネした文体が、
チョウを捕えるクモの網のような魅力をもって私を恍惚たらしめる。 

新聞社の社長室で一気に読んでしまい、その感激で自宅に走って帰り、
2階書斎でまた2回繰り返して読む。 

奥付のすみずみまで読みおわるや、思わず大声で 「助かった! ありがたい! 
ああ、死ななくてよかった」 と、‘ひし’と雑誌を抱きしめ、狂喜して、子供のように
畳の上をあちらへコロコロ、こちらへコロコロと転げつつ嬉し泣きに泣きむせんだ。


やがて涙をふいて縁側に出ると、早春の空の深い碧さ、銀色に光る白雲、
松葉がことごとく金銀に輝き、夕雀の群れがみな一様に私に話しかけているようで、
その啼き声の意味が何だか私にわかるようだ。 

一体この世界は、今までもこんなに荘厳な美しさだったのか ―― 。 
「そうだ。これが今読んだ実相世界の風光そのものだ。 私はすでに菩薩なんだ!」 
私は涙に頬を濡らしながら、呵々大笑した。

10年ぶりに今晩からお仏壇拝礼を復活しようと、夕飯後、お仏壇の前に坐って
御灯やお線香を焚きはじめると、妻はその後ろ姿を不安な瞳でじっと見る。 

お鈴を鳴らして 「帰命無量寿如来 ―― 」 とはじめると、
うしろで縫い物の手を止めてじっと私を見つめる、その視線が背筋にひりっと感ずる思い。 

今日読んだばかりの 『生長の家』誌 で、一偈一偈の意味がありがたく
身に沁みてわかるので、つい涙声にもなる。

 「極重悪人唯称仏、我亦在彼摂取中、煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我 ・・・ 」

 
ああ、ありがたい! 私のような凡愚不信のものでも、実相の如来は一瞬のお見放しもなく、
常にお慈悲の光でつつみ護って下さっているとは、何というもったいないことだ。 

嬉しさ、ありがたさがこみ上げて、ついに泣きむせぶ、と、妻はとっさに、

 「しっかりして! すぐ電話しますから」

 「え? どこへ電話する」

 「あなたは私にかくして晩酌の中に毒薬を入れて服んだんでしょう。 
  もう今日は昼からようすが変なので、さてはとわたしは気を配っていたんだけど、
  いつの間にか服んでしまって、医者を呼びますから」

 「おいっ、待て、毒なんか服まんよ。 私がなんで自殺するもんか」

 「いいえ、新聞社のことで苦しんでいるのはわたしだってよくわかっていますけど、
  女でどうにもしようがないし、実家の父に言ったとて手に合わぬ大金だから、
  黙っていたんです。 手おくれになったら大変です。 お医者さんを呼びます」

 
私は丹前のふところにしまっていた 『生長の家』誌 を出した。

 「今日、東京から送ってもらったこの雑誌で、10年この方の不信心と事業の不振とは
  同じ心の裏表だったとわかったんだ。 それでおわびのお読経(つとめ)だよ。 
  これっぱかりの負債で自殺するような東山半之助だと思うか。見くびるなよ!」

 
昂然と肩を張ってそういうと、せがれの裕も、

 「そうじゃ、お母さん、東山空洋(筆者のペンネーム)は四国の千早城主だと
 徳富(蘇峰)先生さえほめているじゃないか。 自殺なんて馬鹿な、ハハハ ・・・ 」

と笑う。 自分より背の高い我が子を見上げ、

 「うん、裕君はえらい! そうだとも!」

と豪傑笑いはしたものの、遺書7通を並べた帳箪笥の袋戸棚をそっと見上げる‘うしろめたさ’。 

やっと安心して笑顔になった妻と肩をならべて 「帰命無量寿如来」 から
またやり直しのお読経のほのぼのとした法悦境。 

こうしてこの夜は、私の転心・新生の日となった。 
7通の遺書は、翌朝妻を郵便局へ行かせた留守に、台所のかまどで全部焼きすて、
奉書巻紙の残灰を溝に流して淫滅した。


やがて、待ちこがれた 『生命の實相』 の、黒紬貼りに金線の重厚な装幀の
第1巻、2巻、3巻と配達され、私は貪りくらうように家庭でも、社長室でも、寝床の中でも、
‘しゃにむに’一心不乱に読みふけった。 

死の深淵の崖にさまよった私は、ここに黄金の太綱にすがりついたのだ。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19416130.html


          <感謝合掌 平成27年7月7日 頓首再拝>

真理の前に跪く勇気を持て! - 伝統

2015/07/09 (Thu) 17:55:38

思想を混乱させて不幸になっているのではないか? 真理の前に跪く勇気を持て!

          *『生長の家』誌(昭和13年7月号)より


思想することは自由である、幸福になるように、或は不幸になるように。 
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随いて来るものは幸いである。

すべてのものが吾が内に在る。 
本当に在る。 

ただそれだけを知れば可いのである。 
ただそれだけを直視すれば可いのである。

 
思想として、宗教として、哲学として、生長の家は全ての全てである。 
このほかにもっと何か好いものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出づるものである。

色々と変った思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱して来る。

罰を当てるのではないが、いちどお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。


元の思想に還ればまた幸福がその人のために蘇ってくるのだが、
一旦光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することが出来ない。 

そこでその人はいつまでもグヅついて不幸の中に身をまかせているのである。


真理の前に跪くことは、不幸の中に身をまかせていることよりも
一層勇敢なことであることを知らねばならない。


本当の平和はわが心が神に結ばれたときのみ得られるのである。

 
神さえあれば何も要らない。 
心に神を持つことは『全て』を持つことである。 
神は『全ての全て』であるからである。


    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19406419.html

          <感謝合掌 平成27年7月9日 頓首再拝>

龍宮住吉本宮鎮座落慶大祭の奇蹟 - 伝統

2015/07/11 (Sat) 19:25:06

「帰れ!」 と亡父の声がした。 そして 「ついて来い」 と神様は仰った
  ―  龍宮住吉本宮鎮座落慶大祭の奇蹟

           *『白鳩』誌(昭和58年10月号) より 
            ~生長の家秋田教区教化部長  岡本 光生

昭和53年11月21日、九州長崎の総本山で、
龍宮住吉本宮の鎮座落慶大祭が荘厳にとり行われた。 

その式典に、参加出来ればもうこの世に思いのこすことはない
との必死の思いで参加した婦人があった。 
それは秋田県男鹿市の長谷川アキ講師である。

昭和46年12月、御主人が亡くなられた。 
その時、二人の子供は大学生。 
これから女手一つで二人の子供を無事卒業させなければと思った。 

主人は保険に入っていたから、その金でどうにかなると思った。 
ところが、調べてみると、知らぬ間に解約されていて、一銭も入らないことがわかった。

 「ああ、だまされた」

ショックであった。 だが、

 「このことは誰にも言うまい」

と心に強く思った。 

その瞬間、心臓が肺の中に入ってしまい、瀕死の状態となり、声が出なくなってしまった。 
病院でレントゲンをとった。 レントゲンを見た医者は、あと3ヶ月の命だという。 

医者で駄目なのなら、3ヶ月しかもたない命なら、医者にたよらず、薬も飲まず、

 「一切を神様にまかせて生きてみせる」

と決心した。 

それからは、床につかず、毎朝4時に起きて行じはじめた。 
心臓はぜん息のように咳をし、ごはんもろくに食べられず、
幽霊のように生きている毎日であった。

ところが、龍宮住吉本宮の建立の為の献資活動がはじまったことを知った長谷川さんは
保険を解約し、百万円の高額献資を行った。 
そして、昭和53年11月、高額献資者の長谷川さんにも招待状が来た。

たった一度きりしかない鎮座落慶大祭にどうしても参加したいと思った。 
ところが、医者をしている息子さんが、そんな身体の母親を
医者として九州まで行かせることは出来ない。 

又、途中で他人に迷惑をかけることになるから行ってはいけないと言う。 
しかし、どうしても行きたい。 その熱意に動かされて、息子さんも、
誰かつきそいがついて行くなら行ってもよいと言ってくれた。 

そこで、娘さんがつきそって、秋田県の幹部達と共に、飛行機にのり、
骨と皮だけのようなやせた身体で肩で息をしながら、九州の総本山へむかったのだった。

本山へ着き、石橋を渡っている時に

 「あと3分で式典がはじまります」

との放送があった。 

片方の手を娘にささえられ、もう一方の手を青年会の人にささえられ、
ひきずられるようにして会場へ入った。 

頭はくらくらするし、目には星がとびちる。 
心臓は激しく動悸している。

 「かあさん、ついたよ」

との娘の声に、

 「ついた、ついた。 ここさ来た。 もう死んでもよい」

と思った。 

その瞬間、冷たいような暖かいような霊風が、サァーと吹いて来た。 
その霊風にあたった時、今までの心臓の動悸がピタリと止った。 

その後は、心も落着き、九州へ行く時は半病人だった人が、
意気揚々と、両手にお土産をもって、秋田へ帰って来たのだ。

秋田へ帰った次の日の朝、神想観をしていると娘が2階からかけおりて来て、

 「かあさん、声が出ているじゃないの」  と言う。

それまで、声もかすかに出るだけで、招神歌を唱えても、声が出なかったのが、
その朝の招神歌は、はっきりとした声で唱えていたのだった。 
その娘の言葉に、声がはっきり出ていることに気づいたのだった。

 
11月21日、霊風をうけて動転していた心臓がおさまり、式典の会場を見た時、

 「あれ」

とおどろいた。 

神官達が壇上に並んでいるその情景、それは以前、すでに見たことがあった。 
話は20数年前にさかのぼる。

 
昭和25年の3月、長谷川さんは脊椎カリエスになった。 
傷口からうみが流れ、死に水をるとほどの状態であった。 
明日死ぬのではないかと思いつづける、死と直面した闘病生活であった。 

そんな時、小学校へ入学する子供のことを思った。

 「夫には良い妻ではなかった。 子供には良い母ではなかった。 
  せめて、子供が小学校へ行く時には、母として入学式について行ってやりたい」  と思った。

 「神様、子供がランドセルをしょって、学校へ行くまで生かして下さい。 
  もし、病気が治って、元気になることが出来たら、
 一生を神様のお仕事にささげさせていただきます」  と心の底から思うのだった。

 
危篤状態となり、魂は身体から抜け出して、
あちらこちらと知人の所へ別れをつげに飛びまわった。 
が力もつきてしまった。 

花が一ぱい咲いている広々としたところを通りすぎ、濁流が流れる河にたどりついた。 
その河には一本の丸木橋がかかっていた。 
三途の川である。 その丸木橋を渡ろうとした時、

 「かえれ」

との亡き父の声がした。 それでも渡ろうとした。 
また 「かえれ」 との父の声。 3回も 「かえれ」 との父の声がした。 
それで橋を渡ることを思いとどまった。


その時、そこに神様が立っておられた。

 「ついて来い」

とその神様はおっしゃった。 

その声があまりにも恐ろしかったので、神様の言われるままでついて行った。 
それも疲れて歩けないので、はいながらついて行った。 

山道にさしかかった。 
山道はとても登れないと思った時、山道を 「登れ」 との神様の声であった。 
必死に山道をはいながら登った。 

途中で神様は消えてしまわれ、いつのまにか、苦しかったのも楽になり、頂上にたどりついた。 

その頂上には、神官達が並んでいる荘厳な情景があった。 
そして目が覚めた。 
それは昭和27年の9月27日、“大調和の神示” の日であった。

その日から、一日一日と、うす紙をはがすように病気が回復し、元気になったのであった。 
この神様の声に導かれて山頂に登り、そこに見た荘厳な情景、
それは、まさに龍宮住吉本宮の鎮座落慶大祭の情景であった。 

神の世界では、すでに25年も前に、住吉本宮は建立されていたのであった。


それから、長谷川さんは、毎年かかさず団参練成会と、
11月の大会にはかならず参加している。 
すでに8回本山へお参りしている。 

そして、団参ッ練成会に参加するたびに健康となり、
医学的にはもう駄目だと言われた肺に入っていた心臓は、団参練成に参加するたびに
位置が変わり、現在では、正常な位置で、正常に動いている。

現在、長谷川さんは白鳩会の副連合会長として活躍しているが、
どんなに忙しくても神様のお仕事が最優先、
無条件で 「ハイ」 を行ずる生活を行じている。

    ( http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19420422.html )

          <感謝合掌 平成27年7月11日 頓首再拝>

生長の家には棄てるべき宣伝紙は1枚もない - 伝統

2015/07/13 (Mon) 18:00:26

生長の家には棄てるべき宣伝紙は1枚もない  ―  “光”の領域をひろげるために

         *『光の泉』誌(昭和46年新年号) より


アイディアは言葉となって展開するのであるから、所謂宣伝戦や、コマーシャル放送や、
新聞広告や、ポスターや、機関雑誌、機関新聞等となってあらわれ、
その言葉の鋭利さや聡明さや量の大小によって結果に優劣を来すのである。

『生政連新聞』 や 『生學連新聞』 や 『占領憲法下の日本』 
又は 『続占領憲法下の日本』 を出来るだけ多く有効に配布する努力が
われわれの手で進められているのも、人類光明化のアイディアと、
日本建国の正しいアイディアを現象界に速かに具体化し実現せんがためなのである。

 
諸君は無駄に1枚の宣伝紙も棄ててはならないのである。 
棄てなくとも、自分が読み了ったらそのまま机上や書棚の隅にジッと置いとくだけでは、
それに盛られた良きアイディアはそこで停頓したままになって前進することはできないのである。

 
アイディアは行動化することによって実現する。 
人類光明化のアイディアを載せた機関紙や書籍雑誌は、次から次へと、
伝えられ回読せられることによって、神から遣わされた “光の軍隊” は前進するのだ。

その前進する程度に従って、“光” の領域は殖え広がり、
ついに地球上全体が、真理の光で照り輝くようになるのである。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19361599.html

          <感謝合掌 平成27年7月13日 頓首再拝>

ホンモノを知らないからニセモノが解らない - 伝統

2015/07/15 (Wed) 19:02:49


        *昭和62年1月
         ~生長の家富士河口湖練成道場総務 鹿沼景揚

神の子の実相が現実にあらわれてくる上に、重要なプログラムがあります。 
それは、実相界の秩序を完全に理解し、それを現実の人生にあらわす実行をすることです。

第一は、中心帰一です。 特に父母への感謝、先祖への感謝。

第二は、陰陽の調和です。 夫婦が徹底して仲よくすること。

第三は、創造の原理です。 赤ちゃんが生れることへの感謝、流産児があれば、
             これに対する徹底供養をすることです。

以上の三点は『古事記』神話の冒頭にでてくる神の名によって示される
宇宙の法則が家庭教育に示されたものです。


多くの人たちは、何が「ほんとうの幸福か」ということがわからないことでしょう。
 
病気の人は体が丈夫になったら幸福になれると思う。 
貧乏な人は、金さえあったら幸福になれると思う、 
夫婦の争い、子供の反抗などで困っている人はそれさえ解決すれば幸福になれると思う。 

しかしながら、それらが解決すると数ヶ月は幸福感はあるが、
それが過ぎるとまたまた不幸になってゆく。

結局、肉体や富や ・・・ そういう物質の上の幸福は
ほんとうに長続きする幸福ではないとわかります。 

本当の幸福は現象の奥にあるホンモノ ・・・ 実相がわかるということに尽きるのです。

ホンモノ(実相)をつかめば、健康も富も、家庭のよろこびも、
社会的な地位も名誉も、あとからぞろぞろついてくることになるのです。 
子供の教育も、この実相の把握が肝心です。

 
昔、シナの商人は、ホンモノの金貨とニセモノの金貨を識別し得るか否かで、
成功するか否かがきまったということです。 

ホンモノとニセモノをどうしたら区別する力ができるか。

ホンモノとニセモノの二つの金貨を投げて、その音のちがいで区別するのですが、
交互にホンモノとニセモノの音を比較して区別しようとしていると、
何万回練習しても区別する力がつかないのです。

 
どうすればよいかと言えば、
何千回、何万回となくホンモノの金貨の音だけを聞けばよいのです。 
そうしてからニセモノの音をきくと、一ぺんでピシャリと区別できるようになるのです。

 
教育の原理と方法もここにあります。 
たえずホンモノを観る。 
それは 『生命の實相』 全40巻 を繰返し読む。 

他の本をしばらく読まない。 
そして、神想観によって実相を観ずる練習に徹する。 
そうすると、ほんとうに教育の真髄が骨のシンにまでしみこみます。

ここが大切であります。 
『生命の實相』 と神想観に徹しないで、比較検討している間は、
どうしてもホンモノの教育者にはなれないのであります。


今、練成道場のスローガンとして毎日朗唱しているのが
 
一。 私は神の子です。 あなたも神の子です。 使命をもって生れてきました。 
   日本の国のお役に立ちます。

二。 生命の実相の自性円満を自覚すれば大生命の癒力が働いて神癒となります。


 
生きることがたのしい、生き甲斐があること、それが幸福生活の基盤です。 
そのもとにあるのが人間観です。 神の子の大自覚があって使命感がある。 

そして自分の個の‘いのち’が、国の‘いのち’にまで拡大するようになると、
本当に幸福になるのです。

ゆたかな物質生活に飽いた人達がほんとうに求めていたものはこれだ  ―  
それを与えるのが生長の家の正しい人間観であり、
正しい生活法であり、正しい教育法であります。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19411857.html)

          <感謝合掌 平成27年7月15日 頓首再拝>

師を選べ - 夕刻版

2015/07/17 (Fri) 19:23:25


         *『放送 人生讀本』(P154~157)より

いつか、リーダージ・ダイジェストの日本版に出ておりました。 

フラナガン神父の 「子供の町」 に収容されたところのエディ少年といわれる
8歳のピストル強盗の話ですが、まだ8歳の少年でありますが、刑務所へ入れるわけにもゆかない。 そこで感化の町であるところの、そのフラナガン神父の所に連れて来られた。

フラナガン神父は、罪人でも罪を認めないで、人間は神の子である、「お前は神の子である」 
この言葉の力、この信念の力によって、どんな悪い少年でもいい少年にするのでありますけれども、

その少年に、「お前は神の子である。 すばらしいんだ。 立派なんだ。 完全なんだ、
いい子なんだ」 と言ったて、なかなか素直に聞かない。

「おれみたいな悪党のどこが神の子だ、どこが完全なんだ、どこがいいんだ、
いいところなんかちっともないじゃないか。 いい加減な、でたらめばかりいって
いいくるめたって、そんなことにいいくるめられるようなおれじゃないんだよ」 
というようなことで、どうにも始末に終えないのであります。

その時にフラナガン神父が祈られたのですね。 
「神様、この子供を善導するにはどうしたらよく導くことができますか」 
と祈られたわけなのであります。 

そうすると、その時に神様から閃くようにインスピレーションが降ってきた。 
それで神父はこういわれた。

「お前は、素直という事はいいことか悪いことか知っているか。」

「素直はいいことだよ、そんなことぐらい知っているよ。 
しかし、おれは素直なんていうものは微塵もないんだよ。 おれは悪党なんだよ。」

こう言うのであります。 すると神父が、

『そうじゃないよ、お前みたいな素直なものはないよ、ただお前を導く先生が悪いだけなんだよ。 
お前の先生は、港の悪者や、町のならず者みたいなものが先生で、そんな悪いやつらを先生として、
その先生方のいうことですら、お前は素直に聞いていたんだ。 

そんな悪い人のいうことさえ素直に聞いて、そのいう通りの事を素直にやって居るんだから、
お前は実に素直なんだ。 ただお前は先生を換えればいいんだよ。 
先生を換えれば、お前は素直なんだから好いことをするしか仕方がない。』

こういわれた時、そのエディ少年は、

「おや、わしの内に素直が居る、やはり素直だね。 あのごろつきの親分のいうことを
わしは素直に聞いて居った。 素直だ、素直というものが、わしの内にあるんだ、
素直はいいことだ。 わしにも善いものがある、わしは罪人ではない、善いものがある。」

とその時気がついた。 

自分は罪人ではない、善いものが内部にあると気がついたそのときに、
その子供に宿っているところの神性、仏性、神なるものがわらわれてきて完全なる子供になって、
優良なる青年として、欧州戦争に参加して大いに戦功を樹てたという話が書いて
あったのであります。


ここが大切なところであります。 
「自分は罪あり」 という観念から、「素直という神なるものが自分の内に宿っている」 
ということに自覚を転換させた時に罪が消えるというのは此の実例でもあきらかであります。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19357427.html

          <感謝合掌 平成27年7月17日 頓首再拝>

毎日一回は神想観を実修して、心を光明化すべし - 伝統

2015/07/19 (Sun) 19:48:30

八。 毎日一回は神想観を実修して、心を光明化すべし

            *『ここに禅の生き方が』(P254~257)
             ~日本教文社編集長   田 中  忠 雄 


もともと人間の本質は神の子であり、仏の子である。 
そうして人間性の本質は神性であり、仏性である。 
この光明燦然たる本質を人間はよく蔽いかくし、みずから自分を縛っている。 

そこで、その本来持っているところの神性・仏性を、いまここで直ちに現前させるのだ。 
これがすなわち神想観なのであります。

私たちは現象の世界、相対の世界、いわゆる世間というものの中に入って、
人と交わりながら与えられた仕事をするのでありますが、それは一方では魂の向上であり、
他方では多くの汚れを浴びることでもあります。 

知らないうちに利己的になっていることもあるし、
人との張り合いに夢中になっていることもあります。 

人間を神の子・仏の子としてではなくて、利欲の権化として見ているようなこともあります。 
そういう汚れを、きれいに洗い浄めて、本来の神性・仏性に立ちかえることが必要であります。

それゆえに 「毎日一回は ・・・ 」 とあります。 

現象界には、日々付着する‘まがごと’、つみ、けがれがある。 
そこで 『毎日一回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし』 
と言われるのであります。 

まがごと、つみ、けがれ、わざわい、やまい、行きつまりなどが現象界で形を成し、
頑固な塊になる前に、毎日神想観の実修によって消してしまい、
これを光明化するのであります。 

かくのごとくして光明化された新しい心をもって、再び世の中に出て行くのであります。 
そうすれば、世の中がまた光明化されることになります。 わざわいを未発のうちに防ぎ、
自他共に順調に事を運ぶという大きい功徳が、ここに現われるわけであります。


私は、このような日々の実修が、現代になっていよいよますます必要になってきたと思います。 
というのは、時代は恐ろしく忙しく、せせこましい時代で、殊に都市生活者は人ごみにもまれ、
スピードにせき立てられ、個人的及び集団的な利害に油断もすきもならず、
公害の災いに苦しみ抜いております。 

これは近代の物質文明につきまとう弱点で、根本的な解決はなかなか困難であります。 
そのうえ巨大産業機構ができあがると、人間は 「いつでも取り替えられる歯車の一つ」 
になってしまい、まるで機械みたいな仕事をやらされることになります。

こうして現代人の生活には、人間の本質を失わせるような要素が一ぱいあります。 
「ストレス病」 というのも、それでありましょう。 

ですから、このような社会であればあるほど、毎日神想観の実修が必要であります。 

ストレス学説の創始者として有名なセリエ博士が、特に 「感謝の哲学」 を説き、
ストレス病の解消には感謝という心の働きが一ばん効果的だと言ったのは、
この意味からも理解できましょう。 

天地一切のものにたいする感謝は、まさに神の愛、仏の慈悲に満たされる心を
根源とするのであって、それは日々の神想観の実修によって完全に実現されるのであります。


神想観については述べることがたくさん残っていますが、
ここでは「毎日一回は ・・ 」 ということに重点を置きました。 
くわしくは 『詳説 神想観』 に書かれています。


 ■ 一跳直入如来地

最後に、この観法は、むろん日々の実修であり、次第に神仏との一体不二を実現すべく 
「坐功を積む」 のであります。 

しかしながら、初心でも姿勢を正して瞑目合掌し、神の無限の愛と生命と智恵とに
満たされていると観ずるときは、一躍して五官の現象世界を超えて実相世界に入り、
たちどころに神の子・仏の子となり切るのであります。 それを信じて坐るのであります。

永嘉(ようか)大師に 「一跳直入如来地」 という素晴しい言葉があります。 
一跳即ちひととびで、一ぺんに如来 〈仏〉 の境地に直入(じきにゅう)するというのです。 
決してだんだん如来地に入るのではない。 

人間には仏性も魔性もあって、仏性の分量をふやし、魔性の分量をへらして行けば、
最後には如来の境地になるだろう、というような間抜けな神想観ではダメです。 
坐ったとたんに、一ぺんに直入如来地であり、かく信じて坐るのです。 

なぜなら、ありとしあらゆるものは仏性であり、生きとし生けるものは神の子であって、
魔性や悪魔との二元的対立は本来あるべきではないからです。

 
しかし、一切の事物の神性・仏性を信じ、自己を神の子・仏の子なりと
決定(けつじょう)することは、容易なことではありません。 

「私はまだ1年も坐っていないのだから、とても神の子・仏の子には成り切れません」 
と言って、逃げようとする人もよくあります。 こういう人のことを 「神の子辞退組み」 
とか 「仏の子辞退組み」 とか申します。 

「私はまだまだ ・・・ 」 と言うて、逃げまわるわけですね。 
逃げ廻っているうちに、いつしか10年たち、20年たち、気がついてみたら
棺桶の中に入っておったということになります。 

それでも、まだ辞退しつづけて、とうとう神仏との一体不二は成らず、
ついに成仏できなかったということになります。

 
そうではなくて、坐ったら一ぺんに如来地に直入して、仏子になり切るがよいのです。 
疑い深い人は、よく考えてください。 

例えば人間が泥棒になるには、どうすればよいですか。 
人の見ていないときに、人のものをちょいと取ればよい。 
取った瞬間に、一ぺんに泥棒になれるのです。 

刑事が捕え、検事が調べ、弁護士が弁護し、判事が判決するにつれて、
だんだんと泥棒になるのではありません。 つまり一跳直入泥棒地です。 

さればこそ心を光明化すれば、一跳直入如来地であります。

かく信じて、日々神想観を実修するのであります。 
その修業が、すなわち神仏と一つになった悟りであります。 
修業が直ちに是れ悟りであります。 

それゆえに 『毎日一回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし』 ・・・ 
この行持を行持する、これを 「行仏」 と言うのであります。

     (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/9f5ecb9c1f763ad2b41d41e45fc69ffb

          <感謝合掌 平成27年7月19日 頓首再拝>

環境と交友を選べ - 夕刻版

2015/07/22 (Wed) 19:38:32

環境と交友を選べ  ―  “孟母三遷” を他山の石として

                *『理想世界』誌(昭和47年1月号)より

カメレオンという動物や、あの可愛らしい小さな雨蛙は、
周囲の色によって、自分自身の体色が変るのである。

みどりの樹の葉の繁みの中に暫くいると、その体色は緑色となり、
斑点のある御影石の上に暫くいると、御影石同様の斑点が体色にあらわれる。 
赭土の上に生活すると赭土同様の色になる。

 
人間は必ずしも周囲の色と同様な体色にはならないけれども、
人間の心は周囲の人たちの心の状態を鋭敏に感受して、
周囲の人たちの心の感化を受けるのである。

その感化を受ける程度は若いほど鋭敏なのである。 
それ故に、諸君は、周囲を選ばなければならないのである。 
環境を選ばなければならないし、交友を選ばなければならないのである。

何の気なしに友達が話している言葉が自分の潜在意識に沈積して、
その人の行為や性格を一変してしまうこともありがちなのである。

 
それ故に孟子 (支那で孔子と並び称せられる聖者) の母は、「孟母三遷」 といって、
孟子の周囲に悪影響を与えそうな人がいると、三度も、そこから居を遷して、
その悪影響を避けるようにつとめたのである。

       (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19354621.html

          <感謝合掌 平成27年7月22日 頓首再拝>

親に感謝するとが神の御心である - 伝統

2015/07/30 (Thu) 17:20:28

 
         生長の家富士河口湖練成部長  楠本 加美野


「大生命の愛が生きた肉体を備えて眼に見え、手で触ることができるように
現われて来ましたのが両親の愛であります。」 (『生命の實相』 第1巻)


神の愛が両親に宿り、両親は神の愛そのままの愛をもって
子供を愛し育てて下さっているわけである。 

ですから深く切なる両親の愛を見出すことができないような人は、
両親以外のすべての人、すべてのものの奥にある愛がわかるはずはないのである。 
私達は両親の愛を通してのみ神の愛を知ることができるのである。

親からどんなに冷たい‘しうち’をうけた体験があろうとも、
今まで憎んでいた親に感謝の祈りを捧げているうちに、
その‘しうち’の奥に愛を見出すことができるようになるのである。 

そのとき憎んでいた自分が冷たかったのだと懺悔し、
本当に感謝できるようになるのである。 

私は自分の体験によって、また私の話を聞いて感謝を実行した人の
いくたの体験によって確信をもって言えるのである。

感謝したとき、むごいとさえ思っていた親も愛深い親となって、
愛の言葉や行動を与えてくれるようになる。 

その貴重な体験は親だけではなく、
あらゆる人にあらゆるものにもあてはまる真理であることがわかったとき世界が変る。 

今までこの世界は生存競争・弱肉強食の世界であると思っていたが、
生かし合いの世界である。 
自分の力で生きていたのではなかった。 

空気にしても、水にしても、太陽にしても、
生きてゆく必要なもの何一つ自分がつくったものはなかった。 
自分は生かされていたのだと、自分を生かそう生かそうとしている
天地一切のものに感謝できるようになるのである。

そしてすべての人を、ものを生かすところに自分の生きる道があったのだと、
愛に目覚めることができる。 
愛行こそは自分の使命と、使命感に燃えた生甲斐ある生活が送れるようになるのである。 

そこに人間として生れた真の幸福を発見することができるのである。


冒頭にかかげてある “『七つの燈台の点燈者』の神示” は生長の家の根本教義である。 
“汝ら天地一切のものと和解せよ” の言葉こそ、
人類が永い間願っていた争いのない世界が実現できると宣言した言葉である。 
共存共栄・生かし合いの道があることを宣言した言葉である。

“天地一切のものと和解せよ” と言った神は、
すべての兄弟、つまりすべての人に感謝せよと言い、
さらにすべての人の中で最も大なるものは父母であると言い、
“神に感謝しても父母に感謝せぬものは神の心にかなわぬ” という。 

親に感謝することが神の御心であると示されている。

つまり天地一切のものと和解するためには、
親への感謝よりということが示されているのである。


   昭和50年3月

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19427606.html


          <感謝合掌 平成27年7月30日 頓首再拝>

心に “智慧の耳” ある者は聴け - 伝統

2015/08/03 (Mon) 19:38:42


           *『生長の家』誌(昭和46年2月号)より

智慧なき者の百年の生活は、智慧ある者の一日に及ばないのである。

智慧ある者の一日の説法は、
智慧なき者が百年かかって集めたところの知識よりもすぐれているのである。

何故なら、そのような知識は幾百万人殺すけれども、
智慧ある者の説法は幾百万人を生かす事が出来るからである。

智慧なき者の知識によって堕胎は行われ、
毎年幾百万人の胎児の生命が殺されているのである。

併し 「堕胎が悪行である」 という智慧は、
多くの国民の声ともならないし、政府の要人の心の耳にも入らないのである。

心に “智慧の耳” あるもののみ真理を聞くことができるのである。

“智慧ある者” も時には “人間ごころ” に誘惑されて罪を犯すことがある。

しかし “智慧ある者” はそれが “間違いの行為” であったことを 
“智慧の鏡” に照らし出して反省し、
再びその過ちを犯さないようにつとめるのである。


“智慧なき知識人” は、罪を犯しながら、
それを “間違いの行為” であったということを自覚しないから、
幾度びも罪を重ねるということになるのである。

そしてその過ちが重なるに従って自分自身の魂の蒙る傷は深くなるのである。

 
だから釈尊は 「知らずに犯す罪は、知って犯す罪よりも悪い。 
例えば焼火箸と知らずに握った時の火傷は、焼火箸と知りながら
用意して握った時の火傷よりもひどいのである」 と教えていられるのである。

 
堕胎を “悪い” と知りながら堕胎した婦人は、
その罪の歎きに、二度とそれを繰返すまいと心に誓うのである。

しかし堕胎を “悪い” と知らないで堕胎した婦人は、
幾度びでもその罪悪を繰返すのである
  ―  だから知らずに犯す罪の方が深く重いのである。

現行の優生保護法で堕胎を公許しているために、公許されているから 
「悪事」 でないと思いちがえている婦人が多くて、毎年 “胎児殺害” の罪を
繰返しながら、それが悪事であると知らないのである。  

優生保護法を改正する必要がある所以である。

  (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19344525.html

          <感謝合掌 平成27年8月3日 頓首再拝>

先祖供養と光明化運動、日本国実相顕現運動は 「一」 である - 伝統

2015/08/14 (Fri) 19:58:23


         *平成3年7月28日 「練成会指導者研修会」講演より  宇治別格本山
          ~生長の家宇治別格本山総務   楠 本  加 美 野


先祖供養で大切なことは、形式を重んずる事ではなく、
先祖供養がどんなに大切なことであるかということがわかることです。

先祖は根であるということ、これは 『人生を支配する先祖供養』 の169頁に、 
「大地は神、根は祖先、幹は父母、自分は枝」 と書いてありますが、
枝葉が子孫ということです。 

つまり枝葉が繁栄しているということは、根がしっかりとはっているということです。 
根は見えないけれども、樹木にとっては一番大切なところであります。

そこで、供養とは根の肥料に相当するものです。 
『霊供養入門』 の “はしがき” には次のように書かれています。


「布施と云うのは施すということで供養とも云う。 
布施には物施といって物を施すのと法施といって真理を施すのと二法がある。 
聖経を祖先霊の悟りのために仏前で読誦するのは法施である。 
仏前に物をお供えするのは物施である。」


この二法の中で、供養の法施が非常に大切であります。 
特に 『甘露の法雨』 はただ読むだけではだめなのです。 
心から感謝の気持を込めて読誦することが大切です。 

『甘露の法雨』 を読んで、「迷っている先祖よ、早く悟れ」 ではだめなんです。 
また親に感謝しないで先祖に感謝することは出来ません。 
なぜかというと、先祖の初めは親であるからであります。 

 
生長の家式に先祖供養をしますと霊界で先祖が生長の家になり、
光明化運動をしてくださるようになります。 

霊界と現界の関係は、現界は霊界の写しであり、密接な関係がありますから、
霊界を変えれば現界が変わるということです。 
生長の家総本山の龍宮住吉霊宮建立の意義もそこにあります。

先祖供養と愛国心、つまり日本国実相顕現、天皇の実相顕現が一つであるという事、
これが非常に大切です。     

          (中略)

私が以前飛田給にいた時に、親孝行の話ばかりさせられて、あきてきちゃって、
徳久総務に 「別の話をさせてください」 とお願いをしましたら、

徳久総務は 「広沢虎造を知っているか。 広沢虎造は森の石松しかやらないよ」 
と言われましたので、私は親孝行の話を続けていました。 

そのうちに使命感がだんだん湧いてきまして、 
「私は日本の国から親不孝を追放する使命があるのだ」  と思うようになりました。

そうしますと、高級霊が天降って来まして、
講話していましてもぜんぜんその効果が違うんです。 
体験がどんどん出るようになりました。 
ただ単に体験談を話すのと、使命感を持って話すのとでは、内容が違ってくるんですね。

今、日本で問題であると思うのは、大東亜戦争で亡くなった人達が犬死になっていることと、
戦後堕された6千万の無縁の流産児のことです。 
それがわが国に於ける霊界の問題ではないかと思います。 

それで 谷口雅春先生 が精霊招魂神社 と 流産児無縁霊供養塔 をお建てになったのです。

日本国は2600有余年の間、国が変わっていないでしょう、
これが例えば、千年前に国が変わっていましたら、
我々は愛国心と先祖の愛国心が違うことになります。 

それが2千何百年という長い間続いているということは、
日本の国には愛国者の高級霊が満ち満ちているということです。

だから、ここで流産児の供養をしようと思って、供養していたのですが、
そうだ、精霊招魂神社も大切なのだと気が付きまして、供養をすることにしました。 

1年と少し経った頃、谷口雅春先生が夢に現れられて、
私に 「愛国心の話をしなさい」 と言われたのです。 
目を覚まして、不思議な夢をみたものだと思いました。

 
その頃は、精霊招魂神社で 『甘露の法雨』 を誦げ、
流産児無縁供養塔で 『甘露の法雨』 を誦げると、道場の起床の時間となるのです。 

そこで、皆さんとご一緒に大拝殿で神想観をして、又 『甘露の法雨』 を誦げて、
それが一日の出発になっていました。

月に1回は一般練成会の人達が入龍宮幽斎殿で早朝行事を行うことになっていました。 
その日も 『甘露の法雨』 を読みおえた時に起床放送があり、 
「本日は幽斎殿で早朝行事がございます」 という放送がありました。

  
私はそれまで幽斎殿には1回も行った事がなかったのです。 
私は宝蔵神社と流産児無縁供養塔、精霊招魂神社に使命があるのであって、
末一稲荷神社は関係ない、幽斎殿も関係がない。 

まあ、あのだだっぴろい大きな建物がなんで造られたんだろうかと言うので、
幽斎殿には行ったことがなかったのです。

ところがその時、何か不思議な気持になって、幽斎殿に行って神想観をしましたら、
ああ、そうだったのか幽斎殿は八角になっている。 

あれは八絋一宇なんだ。 

お祭りしてあるのが天照大神様で、これは谷口雅春先生が
日本の実相顕現の切なる願いをこめてお建てになったのだ。 

我々の先祖の切なる願いは日本の実相顕現なのだ、
だから宝蔵神社の境内に幽斎殿があるのだということが、
その時、初めて判りました。


我々は、ただ単に生長の家の運動を進めているのではなく、
日本の国を救う為に、天皇を中心とした2千何百年来の日本の素晴らしさを
子々孫々に伝えるために、この教えを伝えているのだ、という気持を持つということは、
霊界に於ける愛国の霊が全部協力してくれると言うことであります。 

我々の人類救済への努力と、霊界から導いて下さる力と併せて、
何倍にもなる素晴しい運動になるのです。 

特に国を救うという願いをもつということは素晴しい事です。


我々は御陵巡拝を行いました。 
124代の天皇の御陵が厳然として残っている姿を拝し、御陵の前に額ずく時、
身も心も浄まるような雰囲気になります。 
どこの御陵に行っても同じで、素晴しいことです。 

例えば、中国の皇帝の陵とかエジプトのピラミッド等は、ほとんど荒されていると聞きますが、
それに比べて、日本の国の御陵は連綿として残され、守られている、
それどころか、実に清らかな雰囲気に保たれています。

 
これは、御皇室が御先祖様を大切にしておられるということです。 
そのお姿を全ての国民があらゆる機会を通して知っているという事が、
御陵が守れられて来ているという事になるのだと思います。 

そして日本の国が繁栄している原動力は、
そのような日本人の御皇室に対する気持の顕われであると思います。 

そういう事からも、先祖を供養することの大切さがわかると思います。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19032715.html

          <感謝合掌 平成27年8月14日 頓首再拝>

日本民族の理想と教養 - 伝統

2015/08/16 (Sun) 18:05:36


              *『人生を前進する』 より
               Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-04-26)からの転写

教育の目的は知識を得るためではあるけれども、その知識がバラバラな偏った知識たるに
とどまらないで、それが人格にまで、そして更に民族の精神にまで融合して渾然一体なる
教養とならなければならないのである。

知識がバラバラの状態から人格を融合した教養となるとき、
その知識は偏った破壊的なものとはならないで、建設的なものとなり、
暴力的なものが排除され、何人にも宿るところの神性が平和な優雅な姿をもって
あらわれて来るのである。


近頃の学校教育はおおむね日教組の支配下にあるために、
受持教師の人格にもよるけれども概して唯物論的教育が行われているのである。 

従って、そのような学校に学びながら、学び得た知識をバラバラなものとしないためには、
そしてその知識を暴力的な方向に組織しなためには、みずから常に日本人たる自覚と 
「神の子」 たる高き理想とを把握して、与えられた知識を日本人的に再組織するよう
心掛けなければならないのである。

日本人たる自覚は、諸君自身が神が如何なる国土に生みつけたかという
その人の使命の根本的なものにつながる中心自覚でなければならないのである。

神は、或る人をアメリカに生みつけ、或る人をソ連に生みつけ、
或る人を支那大陸に生みつかたが、あなたは日本国土に生みつけられたのである。 

ここにあなたは偉大なる神意を汲みとらなければならないのである。 
あなたが神から使命づけられたことは先ず日本人であると言うことである。 
あなたが日本人であると言う事実こそ、あなたの 「魂の王冠」 に輝くところの宝石を
ちりばめた最高至尊の徽章のようなものである。


あなたは、「先ず日本人であるよりも人類であれ」 
などという赤い側の標語におどらされてはならないのである。 

自己が生みつけられた其処にその人の天分があるは、卑近な例ではあるが、
毛虫はその親なる蝶が生みつけた樹の葉を食して其処で生長するとき、
何の消化器の故障もなく、食あたりの憂いもなく健全にそだつのと同じことである。 

其処に生みつけたところの不思議な力は、
其処に彼が果すべき使命があるということを指示しているのである。

若人は 「人類」 という言葉が好きであり、「平和」 という言葉を愛好する。 
若人は経験の少さから、「人類のため」 「平和のため」 という標語で踊らされると、
「人類のため」 「平和のため」 と叫びながら、「平和」 とは全然別方向に走り出し、
敢えて “平和のための暴力” のながれの中に巻き込まれて戦争のお先棒をかつがせられる
ようなことになる人もあるのである。


だから諸君は 「人類」 というような抽象概念におどらされてはならないのである。 
また 「平和」 という抽象概念に奉仕するために 「暴力」 を用いてはならないのである。 
「暴力」 によって実現したものは、やがて暴力によって報いられる時が来るのである。 

「人類」 というものは抽象概念であって、ただ、あなたの頭脳の中に存在するだけである。 
諸君は実際には日本人であるか、中国人であるか、ロシア人であるか、イギリス人であるか
 ・・・ 等々であって 「人類」 というようなものは実際には存在しないのである。

また一般的に 「虫」 というようなものは存在しない。 
それは紋白蝶であるか、あげは蝶であるか、甲虫であるか黄金虫であるか、
蟻であるか、蜂であるか ・・・ 等が具体的な存在である。 

蟻は蟻のごとく生きるのが、神が彼らを蟻として生みたもうた種族の使命に忠実なわけである。 
蜂は蜂のごとく生きるのが、神が彼らを蜂として生みたもうた種族の使命に忠実なわけである。 

もし譬えば、蟻が蟻としてその特殊性を生きず、蜂が蜂としてその特殊性を生きず 
「自分は虫であるから」 とて、単に虫としての概念を生きようとするならば、
もう蟻はなくなり蜂はなくなり、彼らは生活の特殊性を失って生活出来なくなり
死滅してしまうに相違ないのである。

 
それと同じく、日本人が日本民族としての具体的特殊性を生きようとせず、
ただ 「人類」 という抽象概念を生きようとするならば、彼は日本人としては
滅んでしまうであろうし、恐らく人類としても生きることは出来なくなるであろう。


日本人としての自覚と誇りとをもって生きるということは、
「神の子」 の自覚をもって生きるということを意味するのである。 

何故なら日本民族は古代より、人間は天照大御神 《日の神。 日本民族の霊的祖先である》 
の子孫として日子 〈彦〉、日女 〈姫〉 の自覚を伝承し来って、
男性は何々彦命、女性は何々姫命とする慣例になっていたからである。 

そして日本民族は天孫民族 《天のみこころを実現する民族》 と称して
みずから天意実現のために天降ったその魂の使命を自覚していたのである。

 
日本民族は利己心の満足のために地上に出現したのではなかったのである。 

神武天皇が大和の橿原に都をはじめ給うたのも自己の野心を満足せしめるためではなく、
「遠くはるかなる国いまだ天皇の恩徳(みうつくしび)にうるおわず」 して、
国境争いにいそがしきさまを見たもうていずれの地に都をつくれば、
統一国家を造るのにふさわしいであろうかと天意をきかれたとき、

塩椎翁なる住吉大神 《海の神。 「海」は「生み」であり創造のはたらきを表わす》 
があらわれて道案内せられたのである。 
しかも其の統一国家実現の過程は 「刃に血ぬらずして」 ということであった。

 
即ち勅してのたまわく 

「日の神の威を背に負いたてまつり御影のままにおそいふまんにしかじ。 
かからば即ち会て刃に血ぬらずして、仇かならず敗れなん」 とて、
神示のままに進みたもうて、ついに血ぬらずして平定したのであった。 

この刃に血ぬらざる武力こそ 「神武」 なのである。 
かくて大和の建国は実現したのであった。 

その建国の詔勅には 

「上は即ち天津神の国を授け給う徳に答え、下は即ち皇孫、正しきを養いたまう心をひろめん」 

とある。 

私たちが日本人として日本民族の理想を高くかかげて、それを誇りとするのは
かくの如く日本民族の優れたる特殊性を古代より伝承し来ったことを
知っているからなのである。


諸君は、学校で受けるところのあらゆる知識と課目とをバラバラにすることなく、
二千六百年来伝承来れる日本民族の特殊なる優秀性と、その特殊なる使命の自覚の中に、
それらの知識と課目を統一融合して、日本民族の大和建国の理想実現に奉仕せしめるように
しなければならないのである。 

かくの如く為した時、諸君の知識はバラバラな断片的な統一のないものではなく、
有機的な生ける日本民族の万国を生かす大智慧となり教養となるのである。


    ‐‐‐‐‐‐‐

 『人生を前進する』 昭和38年1月発行  日本教文社
 第15回 生長の家青年会全国大会 記念出版
  (此の年は1月4日~6日開催されました)

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/99a617778b45c1efb8f853b7a971c0b0

          <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

運命の転換 - 伝統

2015/08/19 (Wed) 19:56:42


           *昭和63年2月 「第14回 繁栄特別ゼミナール に寄せて」 より
             ~生長の家鳥取教区教化部長  原 田  昭


今日に至る迄如何に多くの人々が、生長の家の説く真理によって救われ、
繁栄を実現し、運命を好転させていることであろうか。 
それは数々の体験が物語っている事実である。 

運命を好転し、無限の繁栄を得るには、神意を展開することである。 
神意に叶った繁栄でなければ、一時は栄えても、結局は長続きするものではない。 
神意ですべてを行ずるとき、無限の繁栄が得られるのである。

 聖経 『甘露の法雨』 に、

 「神があらわれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、
  一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、
  乏しきものなし」

 と示されている。

乏しきものがないのが、神の創造された世界である。 
それは、繁栄のみの世界である。 
即ち “神は愛なり” であり、愛を実践するところ必ず、無限の繁栄が展開されるのである。 

今や世界には数知れず宗教があるが、ほとんどが、現象論であり、“人間は罪の子”と言っている。 
我が国では宗教団体が18万4千あるそうであるが、わが生長の家の教えは唯神実相哲学である。 
実にすべての繁栄も人間の運命の転換も、ここから始まるところの大真理である。 

神と神のみ実在であり、神ならざるものは無いという哲学である。


さて、富とは人のお役に立つ働きを最大限に行ずることである。 
人の為になる働きが、愛であって、愛を行ずるところ富に変るのである。 
即ちとの貢献度の高いものほど繁栄しているのは事実であり、栄えている企業皆然りである。

生長の家の説かれている繁栄の原理の第1に父性原理  ― 奉仕し与えること、 
第2に母性原理  ― 受けて感謝する、との2大原理が説かれている。 
この原理は古今天地の法則であり、永遠に変らざる大真理である。

“蒔かぬ種は生えぬ” という言葉とおり、真に繁栄を享受しようと願うならば、
繁栄の種を蒔かなければならない。 

真に幸福を願うならば、幸福の種を蒔かなければならないのである。 
人の幸に貢献する。 
如何にすれば人が喜んでくれるだろうか、如何にすれば人類が幸福になってくれるだろうか、と。 

即ち、愛を実践するところに、神の力、神の智慧が天降り、凡てい於て好転し、
協力者があらわれ、“不思議”という妙智力が、展開するのであり、
たちまち此の世は光明浄土となる。 

経済の原則は 「自然、労働、資本」 であるが、自然即ち神は、ただ与えているのみである。


さらに、清貧礼讃の心は人間を貧乏にする、と 
『生命の實相』 第8巻〈※頭注版〉 に示されてある。 

貧乏でいることが高徳であると思い、富んでいることを恰も罪悪の如く考える。 
そして宗教家が富んだりすると悪評が渦巻く。 
しかし、宗教家が富まなければ、一体誰が富むのか。 

宗教家こそ常に神の国の無限の愛と、無限の智慧と、無限の創造力に直接触れているのであり、
宗教家こそ富んで当り前の筈である。 

にも関わらず、宗教家が自ら富んでみせることが出来ないようでは、
その教えは空理空論であり、その信仰は実を結ばない信仰と言わなければならない、

と説かれているのである。

 
運命の好転も結局、「人間・神の子、円満完全」 であり、既に富んでいる、
という自覚から展開するものである。 

吾々は大いに無限の繁栄の実を上げ、天下に生長の家の説く真理を素晴しさを、
展開し実践して参りたいと思う次第である。

国と共に栄え、教えと共に栄え、中心帰一の真理をしっかりと行ぎ、
無限力を発揮して繁栄の実を上げて参りたいと熱願する次第である。

 (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/644f2a938f87263347f34bee8114c692

          <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

心の焦点 - 伝統

2015/08/21 (Fri) 18:30:58


             *『生活改善の鍵』 より


我々は外見に捉られると中味の立派さがわからないことが随分あるものである。 

倉田百三が生きていた時、こんなことを話していたのをきいた事がある。 

彼がゴッホの油絵をもっていたが、最初これを、誰からか譲ってもらった時、
非常に立派な豪華な額縁の中に収められていたのであるが、絵そのものは
その豪華な額縁の金色燦然たる光にけおされて充分そのよさが判らないのである。 

いつもその絵を眺める時、何か不調和なあるものを感ずるのである。 
もっとゴッホの絵は感じのいい筈であると思うのであるけれども
それがそのよさが充分感じられないのである。 

何故だろうと数日間不思議に思っていたが、
ある日それが絵と額縁との不調和から来るものだということに気がついたのである。 
余りにその額縁が絢爛すぎて、目が額縁にとらわれて
絵のよさがわからないのだと気がついたのである。 

そこでその額縁をやめて、今度は余り目立たない淡色の額縁にはめ変えて
書斎にかけることにしてみると、その単純な額縁の中に中味がもり上がって
いかにも生命溌剌と迫ってくるような感じに見えたということをいっていた。

これは何を意味するかというならば、中味のよさは、外見にとらわれていたならば
決して本当にわかるものではないということを教える所の適例であると思うのである。

 
人の欠点を見るものは、額縁にのみ目をとめるものであって、
真にその人の中味である所の値打を見るものではないのである。 

我々は人間の額縁のみを見て、人そのものを見る目を失ってはならないのである。 
然も我々は自分の心に従って人の周囲に額縁をつけて見て、
自分の心の影だとしらずしてその額縁を批判してみようとするのである。 

ここにイエスが 「汝らさばく勿れ、汝らもさばかれん」 といった真理があるのである。 
他が悪いとさばいている場合、実は自分自身をさばいているのである。

これに反して神の目は余りに純粋であるがために決して人の悪を見給わないのである。 
「光」は「暗」を見ることができないと同じように神は悪を見ることができないのである。 
神は罪を見ることができないのである。 

神は決して人間の額縁を見給わないのであって、人間そのものを見給うのである。 
だから神の前には罪はないのである。 
神が罪の故に人間を罰し給うというが如きはあり得ないのである。 

神の前には罪がないのであるから、神は人を罰し給うのではなく、
光が暗を消すように罪を消し給うのである。

だから我々が神に向う時、過去の罪を恐れることはいらないのである。 
誰でも神に直々対面する権利があるのである。 
人間は神の子であるからである。 

神に対面する時、すべての過去の罪は消え、人間は新たに生れるのである。 
だから人間は毎日新生であり、毎日が新しき祝福の曙である。 
だから吾々は過去のことをくよくよ思ってはならないのである。 

太陽のさしのぼる前にはどんな昨夜来の暗黒も消え失せ再び存在しないのである。 
我々にとっては毎日が祝福であり、毎日が新生である。

一見神罰と見えるようなことは決して神から来るのではないのである。 
それは人自身の罪の観念から生じた所の自己処罰の相(すがた)にすぎないのである。 
総ての罪と悪とは中味の絵そのものにあるのではなくして、ただ額縁にあるのみなのである。 

我々はすべての額縁をはずしてしまって、
神の子なる人間そのものに対面しなければならないのである。

もし我々の前に不深切な人や自分のためにならない事をする人などが現われたならば、
それはその人そのものではなく、その人の額縁であると思わなければならないのである。 

そして次の如く念ずるがいいのである。

『あなたは神の子である。 
正真正銘の神の子である。 
凡ゆる者の本源である所の神の子である。 

善なる本源から善なる結果のみが現れるのである。 
あなたは神の子であり、善であり深切であるのである』

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/aee902cffd10b2c54a6f9c14e1fe3689

          <感謝合掌 平成27年8月21日 頓首再拝>

先ず神に与えよ!  什一献金の秘密 - 伝統

2015/08/24 (Mon) 18:27:34


              *Web「『生命の實相』哲学を学ぶ」(2015-07-28)より転写
               ~生長の家沖縄教区教化部長  林  光 彦

『常に他の人たちのために尽し、他の人のためにはかり、他を祝福し、他の人の幸福のために、
「自己を与える」ならば、自分もまた、他から祝福され、他から持ち上げられ、
自然に自分が幸福になるのである。』  (谷口雅春先生著 『人生の秘訣365章』 より)


すべて善きものは神よりきたる。 
これが根本真理である。 

私たちの生命は神よりきたる不滅の生命である。 
その生命の本源である神が、すべてのすべてであることを知るとき、
私たちは渾てを神にささげたくなるのが本当である。 

供給の源なる神に感謝し、神にささげる。


 “与えよ、さらば与えられん”

の根本は、先ず、すべてのすべてなる神に与えることでなければならない。 
供給の本源に与えることを忘れてはならない。 
これが初めであり、すべてのすべてである。

神の恵みにつつまれていながら、その恵みに盲目になって、
感謝することを忘れているとしたら、それは忘恩の徒ということになる。

忘恩の徒にならないで、本源の神に感謝をささげるとき、
一層ゆたかに神の恵みは与えられることになる。 
与える心ゆたかな人に、ゆたかさは与えられるのである。 

神はえこひいきはされない。 
しかし、与える心ゆたかなる人は、その与えるという価値によって、
より多くゆたかに返されるのである。 これが心の法則だ。

 
イエスは、

「人に与えよ、さらば汝らも与えられん。 
人は量をよくし、押し入れ、揺り入れ、溢るるまでにして、汝らの懐中に入れん。 
汝等おのが量る量にて量らるべし」 (ルカ伝 6ー38) といっている。

さらに、「与える者は、より多く与えられ、今与えられている以上を求めて
与えることをしない者は、欠乏をのみ味うのである。 
自由なる魂は肥え太るのである。 水そそぐ者は、自らも水注がれるのである」  

と教えている。


さて、ユダヤ人の繁栄の秘密はどこにあるかといえば、
それは神に対する献金として収入の10分の1を什一税として
必ず捧げるところにあるといわれている。

ユダヤ人は、これを旧約の時代より実行して、
すべての農民が繁栄し、富者が無数に続出したのである。

ところが、あるとき、アダムのように人間智に賢しい者があらわれ、
この繁栄は、何も什一献金するから神が祝福し給うたというわけではない。 
ユダヤ民族がすぐれた智能をもっているからである。 
だから什一献金をやる必要はない。 
ただちにやめるように、というわけで什一献金をやめることにした。

そうしたら、それからまもなくのこと、イナゴの大群がどこからともなく発生して、
天日をおおいかくす雲のごとくやってきた。 
そしてユダヤ全土の畑の作物をすべて食い荒して、どこへともなく消えさって行った。 
作物はなに一つ残らず、荒れはてた田畑のみが残ったというのである。

こうしてユダヤ全土が飢饉に襲われ、ユダヤ人はいっぺんに貧しくなったということである。

この飢饉に陥ったとき、マラキという預言者が立ち上り 

「 ・・・ ひと神の物をぬすむことをせんや。 されど汝らわが物を盗めり。 
汝らは又 “何において汝の物をぬすみしや” といえり “十分の一” および献物に於てなり。 

汝らは呪詛をもて詛わる。 
〈イナゴの大群の襲来をいう〉 また汝ら一切の国人はわが物をぬすめり。 

わが殿に食物あらしめんがために、汝ら什一をすべて我倉にたずさえきたれ。 
而して是をもて我を試み、わが天の窓をひらきて容べきところなきまでに
恩沢を汝らにそそぐや否やを見るべし」 (マラキ書 第3章)  

と神啓を伝えた。

ユダヤ人は、これに従い、再び神に什一献金をし始めたのであった。 
やがて古えの繁栄と富は恢復し、いまにいたるもユダヤ人は富み、
全世界の金融を支配する大きな力をもつようになったのであった。


この話からも分るように、神を無視して、
みずからの智能だけに頼る者は、やがて自壊するときがくる。 

すべての繁栄と幸福はことごとく神よりきたるのであるから、その初穂を神に献資し、
神の御用に献納するということは、神をわがものとすることにつながるのである。


 「我れにかえれ、われ亦なんじらに帰らん」 (マラキ書 第3章) 

ということになるのである。
 

もとより、神は霊であり、一切をもち給うのであるから、
神が献金や献げ物を必要とされるのではない。 
それは人間自身の心の問題である。 

報本反始の心を大切にするとき、
循環の法則、与えよさらば与えられんの黄金律が実現し、
われらの供給も無限となるのである。

箴言にも、 

「汝のたましいと、汝の収入の初穂をもって神をばほめまつれ。 
かくて汝の穀庫はゆたかに満ち、汝の大桶は新しき酒にあふれん」 

ということがしめされている。

収入(みいり)の初穂をもって神をばほめまつると共に、
わたしたちは時間、労力、能力などの初穂をも神に捧げて、
神をほめまつりたいものである。


与えよ、さらば与えられんは、幸福生活の第1ヶ条である。 
受けるのみで、与えなければパイプの中は閉塞してしまう。 

それゆえ、私達は、先ず第一に神に還元することによって、
私達のごとく救われる人々をふやして行きたいもの。

むくいを求めず、惜しみなく与えるとき、神からの無限の供給のパイプは閉塞されず、
滔々として新しき供給は流れいる。 

わたしたちがつながる神は、「一切の宝、一切の美、一切の生命」 の本源なる神であり、
多宝無限供給の神である。  〈※参照:無限供給の神示〉 

その神に直結して、人類光明化に献資する聖なる菩薩となるとき、
われらの前に常識をこえた驚異的な繁栄と幸福が、訪れてくると信ずるのである。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ec73d5dcb91a2dd2d934bd41b2f0a2b8


          <感謝合掌 平成27年8月24日 頓首再拝>

自分の心にあるものだけが見える - 伝統

2015/08/26 (Wed) 19:39:29


           *『維摩経』 を現代に生かす 第4回 より
            ~Web「『生命の實相』哲学を学ぶ」(2015-07-30)より転写

お釈迦さんが舎利弗から、

 「お釈迦さん、あなた様が住んでおられる世界がこのようにきたない状態(すがた)であると
  致しますと、矢張りあなたの心がきたないんじゃないんですか?」

と一本やられた。 

ところがお釈迦さんは、

 『日月豈不浄ならんや、而も盲者は見ず』  と応じられた。

 「なにも日月が汚れているんじゃない、日月が暗いんじゃない。 
  いくら明るく照っておっても、盲者すなわち盲人は見ることが能(で)きないのである」 

とおっしゃたわけであります。

その時に、螺髻梵王がですね、言葉を挟んで舎利弗に言ったというのであります。

 「舎利弗さん、あんたそんな馬鹿な考えを起してはいけませんよ。 
  この仏の国土を不浄だなどというなんて真にけしからん。 
  私が釈迦牟尼仏のこの国土を拝見しますと、その浄らかなることは、
  譬ば他化自在天の宮殿のように清浄に見えまするぞ」 

と、こう言ったのであります。

すると舎利弗が、

 「わたしが此の国土を見ますと、突兀とつき出た丘があり、窪んだ坑があり、
  荊棘が生い茂る、石ころが道に散乱していて歩行に不便であり、平野少なく、
  山岳重畳して、色々の悪が充満しているように見えるのでございます」 

と、こう言って現象の色々の悪い状態を話したのであります。

その時に螺髻梵王がこう言った。

 「人間の心に高い低いがあって、仏の智慧即ち実相を観る智慧によって見ないで、
  五官の感覚の眼で見るから、この世界を不浄であると観るのであるぞ。 

  舎利弗さん、菩薩は一切衆生に対して悉く平等の偏頗のない心をもって見るのであるから、
  平等に見えるのである。 

  突兀として凸凹の山岳重畳した、荊棘が生いしげり、窪んだ坑があり、つき出た石がある、
  そんな世界を見るのは、お前の心が平等でない突兀した心を持っているからであるぞよ。 

  深く実相に徹する心、清浄の心をもって、仏の智慧を得て、この国土が実に平かな世界
  であるということが見えるように、まあ、精進努力しなさいよ」

こういうように言われたというのであります。 

すべて自分の心の世界を見るのであります。


例えば色盲というのがありますね。 
この世界に爛漫と美しく桜の花が咲いておっても、その桜色の美しさを見ることができないのである。 あるいは若葉の緑が美しく薫るように輝いておっても、その緑が薄黒く見えるのである。 
つまり紅緑色盲というのがありますね。

それは、自分の心の中に色々の美しさを素直に受け入れる心がなかったから、
その色々の美しさを見ることが能きないのである。 

この世界に美しい色が無いというのではないのである。 
見る心に‘それ’が無いのである。 

自分の心に在るものだけが見えるのである。


ここは非常にむずかしい真理なんでありますがねえ。 
それがわからないと、生長の家で説いていることも、
『維摩経』 で説いていることもよくわからないということになるのであります。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ed6e4df17b1654c5f13239591b582937


          <感謝合掌 平成27年8月26日 頓首再拝>

Re: 谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉② - xobvrhpkpMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:10:27

伝統板・第二
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