伝統板・第二

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今・ここ① - 伝統

2015/04/05 (Sun) 04:34:06

*光明掲示板・伝統・第一「今が時なり (54)」からの継続です。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=35

・・・


一等すばらしい機会は「今」

         *「人生読本」(P31~33)より

<絶えず伸びれば天を摩す>

生命は日に日に伸びている。 
生きているものは、ジッとしているように見えている植物ですらも、 
一瞬一瞬伸びているのです。 

天に届くほどの大木でも、いっぺんに伸びたのではありません。 
見ていると眼に見えない程に少しずつ伸びて、あれほどの高さにまでなったのです。 

眼に見えぬ程の伸び方でも、一瞬一瞬少しでも怠らずに伸びて行く者は、 
天に届く程の大木になるのです。 

一瞬一瞬伸びないでいて、何か素晴らしい機会(おり)があったら、 
伸びてやろうと思っている者は、結局いつまでも伸びることが出来ないものです。 

一等素晴らしい機会は、「今」だ、ということを知らなければなりません。 
「今」が一等すばらしい機会なのです。 

今伸びないで居て、花咲く時期が来たときに、いっぺんに素晴らしく伸びてやろうと思っても、 
そういうわけにはゆかないのです。 

花は、花咲くときに咲くのではありません。 
花は蕾の中にあるのです。まず蕾を用意しなければなりません。 
蕾は、蕾の出来たときに初めてできるのではありません。 

梅の蕾を見てごらんなさい、 
まだ葉も出ないうちに、点のような小さな芽の中にその蕾はあるのです。 
しかしその点のような小さい芽は、その芽が出来たときに初めて造られたものではありません。 
その栄養は土地の中にあったのです。 
また日光の中にあったのです。 

それを絶えず植物の生命(せいめい)が吸い込んで、小さい芽の形に造り上げ、 
蕾の形に造り上げ、やがて花の形に造り上げたのです。 

どんな大きな仕事でも、でき上がったときに できたのではありません。 
不断に、一瞬一瞬を、自分の伸びる素晴らしい機会としてでき上がったのです。 

世の中の偉い人という偉い人、真に偉人といわれるような人は、 
皆こういうようにして自分を伸ばした人なのです。


<関連Web>

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「人生の時間銀行 」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357 

(2)「光明掲示板第一」内スレッド「「今」を全力を出して戦いとれ」。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=302

(3)「光明掲示板第二」内スレッド「“今”を生かせということ (28)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=16

(4)光明掲示板・第三「今を生きよ! (135)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=58

             <感謝合掌 平成27年4月5日 頓首再拝>

「今」天地一新したのである。 - 伝統

2015/04/15 (Wed) 03:54:37


        *『生命の實相』37巻幸福篇上(P5)より


すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。
「今」の中にはあらゆるものが輝いている。

「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。
過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。

「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き曝されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。

             <感謝合掌 平成27年4月15日 頓首再拝>

今、自分は強いのである - 伝統

2015/04/21 (Tue) 04:50:32


       *『 生長の家 』昭和24年11月21日の法語より


神は自分の肉体及び精神のすべての力の根源である。
神が根源であるから 決して自分は弱いということはあり得ないのである。

神の無限に強力なる力が自分を常に強力ならしめ健康ならしめ、
永遠に疲労せしめ給うことはない。

自分は今日、肉体的にも精神的にも自分自身の力が有限であるという考えを
捨てたのである。

今 自分は無限の力がある。

ここに無限の富がある。

ここに無限の能力がある。


「 ここに 」 というのは 自分自身の実相のことである。

今ここに自分は 無限の健康なのである。
無限に調和しているのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

             <感謝合掌 平成27年4月21日 頓首再拝>

生長の家とは『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。 - 伝統

2015/04/29 (Wed) 03:47:05


          *「生長の家」(昭和23年2月号)より


生長の家を米国光明思想の受売りだと思っている人もあれば、
古事記の解釈より出現したる日本古道を本とすると考えている人もあり、
クリスチャン・サイエンスを祖述したものだと考えている人もある。

併しその何れも正鵠を得ていない。

叙述の素材は以上のいずれよりも引用してあるし、
佛教の諸経典更に老子、孔子、孟子、菜根譚や心霊学の諸著書から博引傍証してある。

併し、それを渾然融合せしめたものは、
『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。


今・此処の一点 ― 時間・空間未発の一点に久遠生命を把握する深さは
《ニューソート》や《クリスチャン・サイエンス》には見られない。


よく似た所まで往っている人もあるが、
それでも〃Here and Now〃位か〃Eternal Now〃位の所である。 
『神の国は汝の内に在り』と云うイエスの言葉が、それ故に空転するのである。


今・此処・我が渾然一体となって、肉体無の無字の一点に全実在を把握しなければ、
『汝の内』とは『外』に対する『内』になって真の意味は把めない。

『汝の内』とは『外』に対する『内』でもなければ、
肉体に対する『心』でもないのである。

『心』に幸福を思い浮べたら、その人は既に天国にいるのも同様であるから、
キリストは『神の国は汝の内にあり』と云ったのだと云うように解するのは
余りにも浅い解釈である。

『汝の内』とは『外』に対するものではなく、
『内外打成一片の生命』の端的であり、實相である。


『内外打成一片』の今此処に真の神の国があり、天国がある。
身心脱落・脱落身心である。身心一切が十字架にかかるのである。

《ニューソート》にはこんな境地はない。

心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、一切があるがままに脱落する。
それをそのままと云う。

『そのまま』と云うような言葉は外国語には翻訳が困難である。
外国語に翻訳が困難であると云うのは、それに適当した観念がないと云うことである。

『そのまま』は不来であり、不去である。そのままにして肉体無しと悟る。
敢て肉体の抹殺を必要とせず今、此処に、無時・無空間の生命の実在を悟るのである。

これをキリストの十字架の真義とする処に、西洋哲学と東洋哲学との一致を見出す。

《クリスチャン・サイエンス》や《ニューソート》にない教えで
生長の家にある教えは『中心帰一』の思想である。

多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起っている。

頭痛を訴える或る婦人は医師の判断では脳髄の中に出来ている腫物にあると云うことを、
脊髄液をとって検査することによって診断した。

ところが良人に対して絶対無我になる事をすすめて
良人に対する不平の心を取去るように教導したのである。

話しているうちに、その婦人のなやましき頭痛はやまってしまい、
それ以来その頭痛は再発することがなかったのである。

上に従順なる思想、中心者に服従の思想を戦犯的思想だと考えるのは間違いだ。


平和愛好の天皇陛下の御意志を曲げて横車を押して戦争を始めたのは
軍閥であった事を戦争裁判は暴露しつつある。

陛下の『平和に事を解決せよ』との御心に真に従順に従う心
 ― 即ち上意に素直な心 ― があったならば、

戦争は起らなかったに相違ない。

八月十五日に日本が無条件降伏を行って、上陸連合軍に対して
何らの抵抗も暴動も演じなかったのも、国家の中心者に従順である心からである。


吉祥寺のS氏の嫁が内耳に真珠腫が出来て脳髄を圧迫するので、
放置するといつ突然脳髄の故障が起って死ぬかも知れぬと云うのであり、
手術をしようと思ったが、その手術も脳髄に接近している部位なので重大な手術であり、
躊躇しているとき、或る人が生長の家の話をきいて見ないかと勧めてくれた。

頭の痛むのは目上に対して反抗心がある、
耳の中に真珠腫のような塊が出来るのは、目上の人に対して
『我』の塊をもっていて聞きたくない心があるからとて、
そのような『我』を取去るよう指導された。
話しているうちに頭痛は治り再発はしなかった。

『クリスチャン・サイエンス』はただ肉体の無を説き、病気の非実在を説くだけである。
そしてどんな病気は、どんな心の誤りだと云うことを説かなかった。
そしてクヰンビーの方法を踏襲したエディ夫人は按手して思念する療術行為的なことをやった。


エディの著書の中には粘膜の炎症は恐怖心のあらわれだと
云うようなことが説かれているだけで、各種の病気に対する
心の細かい対応などは説かれていない。


これを詳しく説いているのが生長の家である。
生長の家は触手的な療術行為と誤れる虞れを避けて全然按手的触手的方法を用いることを、
その講師又は指導者に禁止し、全然教えのみを説くことにし、各々の病気に対して、
それに相応ずるような精神の持ち方を改めるように説く。それで病気が治るのである。


エディ夫人が『肉体の無』を説きながら、なぜ、触手的に患者に触れねばならなかったか
に就いては彼女からクヰンビー方法(メソッド)を教えて貰った
講習生から盛んに反駁的質問が来たのでエディ夫人も困ってしまったが、

依然として触手的方法を捨て得なかった実情は
『世界光明思想全集・第十四冊、初期のクリスチャン・サイエンス』に詳しく書かれている。


生長の家を単なる日本のクリスチャン・サイエンスだと思ったら間違いである。
クリスチャン・サイエンスの真理も内に包容しながら、それ以上に飛躍しているのである。


エディ夫人の伝記を読む者は、彼女が如何に周囲の人々と不和であったか、
事毎に摩擦を生じ、迫害と裏切りとに取囲まれていた事を知って驚く。


そこにも生長の家の根本的中心教義たる『天地一切のものと和解せよ』の教えと
クリスチャン・サイエンスとが甚だしく相異することが示されている。


エディの主著たる『真理と健康(サイエンス・アンド・ )』の中にも
『天地一切のものと和解せよ』の思想はない。
ただ物質無、肉体無、病気無、を主張するだけで、
如何なる心が如何なる病気を起すかの解明はない。

グレン・クラーク博士の著述の中には『心臓』は愛の象徴的存在であり、
血液循環は歓喜の表現、肺臓は生命の霊の流れ入り流れ出ずる表現、
肝臓は真理の霊の象徴、胃の腑の作きは調和と力の霊を受けて同化する事の表象である。

嫉妬及び憤怒、恐怖は真理の観点を損い偏寄せしめる、
それ故忽ち肉体の消化機能に激しい影響を与える ― この程度の説明しかない。

これも一面の真理であるが、生長の家の説く様な
聴きたくない心が耳の病気を起すなどの事は書かれていない。


生長の家の光明思想の根幹を流れるものは米国的な明るい光明思想であるが、
決して単なる受売りや寄せ集めでもない。


奥太利の精神分析も取入れてはいるが、フロイドの精神分析のように
神経病や神経障碍のみが治るのではなく、実質的病気も心の改造によって治るのである。


先般、脚が充分立たない人が生長の家に入っても治らないのはどう云う訳かと、
自分以外の治らぬ人の実例も挙げて反駁して来られたが、
治らぬのには治らぬ訳があるのであり、『生命の實相』を読んでも心の変らぬ人は治らぬ。

  (http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/28655808.html

             <感謝合掌 平成27年4月29日 頓首再拝>

いつでもあなたの運命を変えることができる - 伝統

2015/05/06 (Wed) 04:56:35


            *『幸福をひらく鍵』(P43)より


思い立ったが吉日、遅すぎることも早すぎることもない。
信念をもって断じて行えば其の通りになるのである。
自己限定をやめるがよい。

「今」を生きよ、「今」のほかに時はない。
人類のためになることなら、いつはじめても遅いということはない。

「今」があなたの生きる時である。
「明日」と言うなかれ。

「明日」と常に言う者は、毎日「明日は」と言いながら、
ついに生きる時を失ってしまうのである。

             <感謝合掌 平成27年5月6日 頓首再拝>

今・此処 - 伝統

2015/05/12 (Tue) 04:16:04


           *『生命の讃歌』(P27~28)より

神はあなたを必要としているのである。
それであればこそ、あなたを地に生んだのである。

今・此処、あなたのいる所が、
神があなたを遣わした任地である。

あなたはもっと高い位置につくべき人であるけれども、
すべては第一歩から始めねばならぬ。

第一歩を進まなかったら、
二歩、三歩、四歩、五歩も・・・・・
すこしも前進しないではないか。


それゆえに、その第一歩を、勇敢に
いのちの足を踏みしめて進むがよい。

はじめが大切である。

はじめに正しく足を運べば
あとはその方向に
ズンズン進んで行けば目的地に達するのだ。

今・此処があなたの任地である
そこをおろそかにしてはならぬ

今・此処を中心として
第一歩を勇敢に踏み出すのだ。

神はそのために、あなたを
今・此処に遣わされたのである。


          <感謝合掌 平成27年5月12日 頓首再拝>

時事々刻々千載一遇 - 伝統

2015/05/17 (Sun) 04:40:09


            *「人生読本」(P185~186)より

一日のお料理をいたしますにも、
今、この時間にお料理をする事その事が
千載一遇(せんざいいちぐう)の機会であります。

別の時は別の機会であって、「今」は「今」しかないのであります。
私達は常に時々刻々が千載一遇の好機会であるという事を
知らなければならないのであります。

或いは難しいお姑さんのところにお嫁に行ったという事がありましても、
こんな尊い経験は又とないのでありますから、
それは実に千載一遇の機会であると喜ばなければならないのであります。

そういう口喧(くちやかま)しい姑さんの家に嫁に行って生活するという経験は、
他の処へ嫁に行っては味わうことのできない又とない尊い経験なのであります。
これが千載一遇の機会で、その機会を失ったら、又同じ機会は来ないのであります。

又厳しい工場監督さんの下に雇われて働くにしましても、
厳しい先生に叱られつつなにか勉強するにしましても、
厳しい監督さんや厳しい先生に逢わしていただくのも、

それでなければ得られないところの千載一遇の機会を恵まれて、
神さまが私にここにこいいう経験をさせてくださるのだと思えば、
その難しい監督さん、その難しい先生をありがたく拝みたくなるのが
当たり前であります。


          <感謝合掌 平成27年5月17日 頓首再拝>

「時は今」 - 伝統

2015/05/23 (Sat) 03:39:42

       *「運を拓く教え」尾形幸弘・著より


お前はろくでなしか

いつになったらやるんだ

一体、何が起きなきゃならないのだ


そのために

家族が死ななければならないのか
会社がつぶれなくてはならないのか
ガンの宣告を受けなければならないのか

学校を出れば・・・
いい職につければ・・・
結婚したら・・・

・・・ができたら・・・
金ができれば・・・
運がめぐってきたら・・・


・・・そういって一体何年経ったんだ


(中略)


人のせいにする時は過ぎた

環境のせいだからといって
それでお前の一生が
不満でぬりたくられて
それで終わりでいいのか

親のせいにして
不満足な自分で一生を過ごすのか

何かのせいにする時は過ぎた

過去はないのだ
お前が勝手に思い出しているだけではないか


不満を改善するために・・・
自分をより成長させるために
今、この時が与えられているのだ

過去の妄想を忘れ
素晴らしい未来のために

今生きようではないか

それをするのは

他でもない

お前なのだ

その時は

『今』しかないのだよ

          <感謝合掌 平成27年5月23日 頓首再拝>

【一期一会を大切にする】 - 伝統

2015/05/28 (Thu) 04:47:00


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年04月30日)」より

   (諒純也氏の心に響く言葉より…)

   多くの文学者が「日本文学の骨子は『源氏物語』で大枠が完成した」と述べている。

   ご存知の方も多いと思うが、紫式部の著作による、
   この宮廷文学の根幹をなすテーマは「もののあはれ」である。

   すなわち、
   「どんなものでも永久、永遠なものはなく、必ず、はかなく終焉を迎える運命にある」
   という、世の中の現実を直視した考え方で、
   後の平家物語にも「諸行無常」という言葉で表現されている。


   そうしたはかなさを直視して受け止める考え方が日本文化の底流となっている。

   実際、日本の国土は湿潤な気候のため、西洋の建築物のように
   れんがや石造りをもって千年単位での使用に耐えうることは不可能である。

   同じような建築物であれば百年単位で浸食されてしまうであろう。

   また、度重なる嵐や地震ですべてが灰燼(かいじん)に帰すような悲惨な体験を、
   日本人は長年にわたって経験してきた。

   このように、
   民族が大自然の厳しさに耐えてきた歴史そのものが反映されていると考えて良い。


   よく、西洋人が「桜の花」を見て不思議に思うそうである。

   「美しいことは確かだが、わずか数日で散ってしまうような花のどこが良いのか?」

   西洋人の感覚としては、花といえば
   「派手で、艶(あで)やかで、ある程度の期間にわたって目をたのしませてくれるもの」
   という意識が強いのであろう。

   英国風のローズガーデン(バラ庭園)などが好例といえる。


   だが日本人はソメイヨシノのパッと咲いてパッと散ってしまう、
   このなんとも「あはれ」な姿にこそ共鳴する精神を有しているのだ。

   まさにソメイヨシノに代表される桜の花こそ、
   「源氏物語」において紫式部が看破(かんぱ)した「日本人の精神の根幹」を
   表現していると言って良いだろう。


   日本人の心に宿るこの精神こそ、
   明日をも知れぬ世の中で今日という一日を大切に生きる、
   目の前の仕事に真剣に取り組む、などの行動を産み出しているのではなかろうか?

   ぜひ、この伝統は大切にしたいと思う。

         <『なぜ、この日本精神は世界一なのか』コスモ21>

              ・・・

『平家物語』の冒頭に「盛者必衰の理(ことわり)」という言葉がある。

この世に存在するありとあらゆるもの中で、永遠に続くものはない。
どんなに勢いのある者もいつかは衰え、滅びる、ということ。
それを「無常」といい、はかないことをいう。


「もののあはれ」とは、しみじみと深く感じる情感や哀愁をいうが、
まさに無常であり、はかなさを惜しむ心でもある。

人の一生も同じで、「一期(いちご)は夢」という言葉の通り、
夢のように一瞬のことともいえる。

だからこそ、この今、この一瞬を大切に生きるしかない。


何事も、生涯に一度限りという気持ちで…

一期一会を大切にしたい。

          <感謝合掌 平成27年5月28日 頓首再拝>

【目の前の現実だけを生きる】  - 伝統

2015/06/02 (Tue) 03:34:53


             *『致知』2009年1月号 より
              ~鈴木秀子(文学博士)

   「あすのことを思い煩ってはならない。
    あすのことは、あす思い煩えばよい。
    その日のご苦労は、その日だけで十分である」
             (『新約聖書』「マタイによる福音書」の一節)


私たち人間は過ぎ去った出来事を思い出しては、
どうなるか分からない未来のことを思い煩うという、
頭の中でつくり上げた苦しみに、いつも苛まれ続けています。

しかし、過去と未来に心を奪われることなく、
目の前にある現実だけに生きていけば苦労は3分の1に減ってしまいます。

過去と未来を一緒に背負おうとするから3倍の重荷になるのです。

冒頭のマタイ伝の中で、イエスは

   「あすのことを思い煩ってはならない。
    あすのことは、あす思い煩えばよい。
    その日のご苦労は、その日だけで十分である」

とおっしゃっています。

それは苦労がなくなるのがすべてではなく、
頭で考え出した苦しみを手放し、
きょう一日を精一杯生きる事が大事だという教えです。

 また、

   「神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい」

という言葉があります。

「み旨」とは「愛」をいい、
それを行う生活とは、神様の愛に応えるような生き方のことです。

愛なる神は、
私たちに苦労を乗り越えられる力を与えてくださっています。
 
それを信じ、いま、この時の恵みに感謝しながら生きることこそ
神の国とみ旨を行う生活なのではないでしょうか。

このように『聖書』の言葉は遠い世界の物語ではなく、
私たちの日常にあって、大きな力を与えてくれるものなのです。

          <感謝合掌 平成27年6月2日 頓首再拝>

今ここで、「私はし・あ・わ・せ」といいましょう! - 伝統

2015/06/09 (Tue) 03:33:55

       *「「大丈夫!」は幸せになる魔法の言葉」福田純子・著(P17~18)より

「幸せになりたい」と思わなくて大丈夫!

「幸せになりたい」というには、
いまは幸せを感じていないということなのです。

人生は「いま、ここ」の連続でしかありません。
つねにいま、いま、いま・・・が続いているだけなのです。

人生は山あり谷あり。
上り坂、下り坂、まさかの坂もあるかもしれません。

でもどんなところにいてもつねに、
「いまここ、私は生きている、生かされている。
ああ、なんてありがたいんだろう」

という満ち足りた思いをもって、感謝する心でいれば、
「私は幸せ」という言葉がついついこぼれ出るのです。

いつ何時でも「いま、ここ」しかないということは、
いまここで「私は幸せ」といい切ることができたら、
いま、いま、いま、・・・がずっと続くのです。

今ここから、 「幸せになりたい」 と言うのではなく、
今ここで、 「私は し・あ・わ・せ」  といいましょう!


          <感謝合掌 平成27年6月9日 頓首再拝>

其のまま其処が進撃の姿勢 - 伝統

2015/06/15 (Mon) 04:12:19


           *「真理」第1巻入門篇(P122~125)より

吾々は倒れた時、その倒れた姿勢そのままが次の進撃の姿勢になるのです。
それは柔道でも剣道でも世の中でも同じことです。
倒れたら倒れた位置を利用して、それが却って敵手を打ち倒す有利な位置となるのです。

こちらが倒れたとき、敵手の下半身は防御が無くなっています。
倒れた方のこちらは手のほかに足が自由になっています。
此方(こちら)の足で相手の防御の無い下半身の急所を蹴上げることも出来るでしょう。

倒れた時には倒れなかったら得られないような有利な位置にあるのです。 

今ある位置を完全に利用することが処世の極意であります。
「今」を見逃したら機会はありません。

「もっと良い機会が来たら起き上がろう、こんな倒れた時には起き上がれるものではない」
と考えるのは間違っています。 

どんな逆境でも、墜落でも、それが皆さんを一層生長させる好機会なのです。

倒れたその場がそのまま進撃の姿勢となることは今までも申し上げたことですが、
どこに進撃するか方向が定まっていなければなりません。

墜落した柿の種でさえも、墜落した瞬間に其の儘そこを足場として
進撃の方向を定めることを忘れはしません。

根は必ず地の方向に向かって進撃しますし、芽は必ず「光」の方に向かって進撃するでしょう。
根が伸びるのは立場をしっかりするため、根が生(の)びるのは新しき生長のためです。

新しき生長は是非とも「光」の方向へ伸びねばなりません。
「光」を見失ったとき、其の芽は青白く生気を失い、生長の力を失ってしまうのです。

吾々は人間ですから柿の種より堅きものでなければなりません。

吾々も墜落したとき、根を生(の)ばし、芽を生ばさねばなりません。
根を生ばすと云うのは足場を作ることでありますが
、根本的に云うと、形の足場を作るよりも心の足場を作らねばなりません。

根はしっかりと地に食いつくのでありますが、そして何をするかと云いますと
そこに於いて得られる限りの養分をありがたく受けてしみじみと吸うのです。
しみじみと養分を吸わなかったら、次に芽が光に向かって進撃するエネルギー出て来ないのです。 

吾々も亦墜落した其の場所に足場を作くってそこから養分をしみじみ吸わなければなりません。
養分をしみじみ吸うとは他(ひと)に寄生せよとか、他の厄介になれとか云うのではありません。
其処に与えられているすべての物を、そのまま自分への養分として有難く感謝して受けるのです。

自分を罵(のの)しる人もあるでしょう。
軽蔑する人もあるでしょう。
意地悪く出る人もあるでしょう。
何事も思うにまかせず不自由でもあるでしょう。

併しそれらすべてを有難くしみじみと感謝して受けるのです。 

感謝は吾々が墜落して、最初に置かれたる場所に落ち着いて
そこから得られる養分をことごとく自分のものとする最善の道なのです。
感謝して受けたとき、その場所に吾々の魂が落ち着くことが出来るのです。

そうして最初の足場が出来るのです。
感謝がなくて、ああでもない、こうでもないと周章(うろた)えるのが
墜落したとき一番いけないのです。

周章えていれば最初の足場は出来ようがありません。
そこにどっしり魂が落ち着いてから、吾々は「光」の方向へ向きかわるのです。

これが墜落し、失敗した者が再び起き上がる最初の心構えなのです。

          <感謝合掌 平成27年6月15日 頓首再拝>

而今とは - 伝統

2015/06/23 (Tue) 04:46:24

           *Web:「魂が震える話」(2014-06-26)より

道元禅師のお話です。


ある時、病気の明全和尚を見舞いにいこうと仏殿の前を通ると、
炎天下の中、典座の用和尚が瓦敷き上に椎茸を干しておられた。

杖をつきながら汗だくになって作務に余念がない。

道元禅師は用和尚に歩み寄り、

「ご高齢のご老師がそんなことをなさらずとも、誰か若い修行僧にやらせてはいかがですか」

と声をかけるました。


すると用典座和尚は、

「他は是れ吾れにあらず」(他人のしたことは、私のしたことにはならない)

と厳しい言葉が返します。



道元禅師はさらに、

「その通りです。それではこんなに暑さの厳しい時になさらなくてもよろしいのでは?」

と言うと、用和尚は毅然として、


「更にいずれの時をか待たん」(今この時を逃して、またいずれの時を待つというのか)

と答え、ひたすら作務に専念されたといいます。


他人ではなく“自分自身”

あとではなく“今”


それが私たちの生きていく現実であり、
道元禅師はこれを「而今」(にこん)と言われました。


他人がしたことは自分がしたこととは違う。

後回ししたら、後回しした時にやるべきことも更に後回ししなくてはならなくなり、
結果的に全てを後回しにしてしまうことになる。

今、自分にできることを全力で全うする!!!

          <感謝合掌 平成27年6月23日 頓首再拝>

今を機会に飛躍せよ - 伝統

2015/07/03 (Fri) 04:24:36


        *『生命の實相』第15巻人生問答篇上(P18)より

諸君よ、今を機会に飛躍せよ、新生は刻々諸君に近づきつつあるのである。

今が時だ。

すべての柵を跳び越えよ、物質の柵を跳び越えよ、
およそ自己を有限に限るいっさいの物を飛び越えよ。

そして無限の生命(せいめい)の世界に出(い)でよ。
諸君が限る井戸の框(かまち)は外になくて自分の心のうちにあるのである。

されば、自分の心の柵を跳び越えよ。
一跳(ちょう)して如来地(にょらいじ)に躍入(やくにゅう)せよ。

          <感謝合掌 平成27年7月3日 頓首再拝>

一瞬一瞬生きる - 伝統

2015/07/10 (Fri) 03:25:19


          *トルストイの小話「皇帝の3つの問い」より

ある国の皇帝のこころに、3つの問いが浮かびました。

その答えを知ることができたら、

 「もうどのような問題にも迷うことはないだろう! 」と皇帝は思いました。

その3つの問いとは、

(1)「いちばん大事な時間はいつか?」

(2)「この世でいちばん大事な人は誰か?」

(4)「いま何をなすべきか?」

の答えでした。

皇帝は、答えられた者には褒美を出すと国中におふれを出し、
国中の賢者に尋ねるのでしたが、答えを見つけることはできなかったのです。


ある時、

皇帝ががっかりして散歩に出かけた時、井戸の水を汲む少女に出会いました。

皇帝は、少女に3つの問いを質問したのです。


少女はこう答えました。

(1)いちばん大事な時は、”今”この時、
   私たちが自由にできる唯一の時なのですから。

(2)いちばん大事な人は、いま自分の横にいる人、
   将来、誰か別の人と関わるかどうかは、誰にもわからないのですから。

(3)なすべきことは、自分の横にいる人に善行を行うこと、
   すぐ目の前に居る人を幸せにすることです。


と。


皇帝はその答えを聞いてよろこび、

少女が持っていた重い井戸水を代わりに運びました。


・・・

以下は、「マインドフルの奇跡-いまここにほほえむ」ティク・ナット・ハン(著)
からの”トルストイの小話「皇帝の3つの問い」”の例話の紹介です。



《一瞬一瞬生きる》

ある日のこと、皇帝の心に3つの問いが浮かんだそうです。

①ことを行うのにもっとも適した時とはいつか?

②ともにことを行うのにもっとも大切な人とはだれか?

③常になすべきもっとも大切なこととは何か?


これらの答えを知ることができたら、
もうどんな問題にも迷うことはないだろうと皇帝は思いました。

皇帝は国中にお触れを出し、
この問いに答えられた者にはすばらしい褒美を与えると告げたのです。

たくさんの人々からさまざまな答が出されましたが、
皇帝はどの答にも満足せず、悟りを得たという奥深い山に住んでいる
隠者を訪ねてみることにしました。

皇帝は農民の姿に身をやつし、お供の者は麓で待たせ、一人で隠者を訪ねて行きました。

ようやく隠者の住んでいるところにたどり着きましたが、
隠者は小屋の前で畑を耕していました。
隠者は見知らぬ人に挨拶するとまた畑を耕し始めたのです。
しかし隠者は年老いていて、その仕事は彼には明らかにきつそうでした。

皇帝はさっそく隠者に3つの問いを尋ねました。
隠者は注意深く聞いた後、何も言わず皇帝の肩を軽く叩いただけで
また畑仕事に戻りました。

皇帝は「お疲れでしょう。私に手伝わせてください」と申し出ました。
このようにして夕暮れまで皇帝は隠者を手伝いながら、3つの問いを
さらに二度繰り返して隠者に尋ねましたが、隠者は答えてくれません。

とうとう皇帝が「もしあなたが答えられないのならそういってください。
そうすれば私は家に帰れますから」といったとき、
隠者は頭を上げてこう尋ねました「向こうから誰か走ってくるのが聞こえないか」

森から白いあごひげの男が、血まみれの腹を抑えて、あえぎながら走ってきました。
そして皇帝のところまで来ると意識を失って倒れてしまったのです。

しらべてみると、男は相当の深手をおっていました。
皇帝は血が止まるまで傷の手当をしてやり、意識がもどった男が水が飲みたいというので、
小川まで駆け下り、冷たい水をかめに汲んで戻りました。
皇帝は隠者の手を借りて男をベッドに寝かせました。

皇帝は一日中山に登ったり、畑を耕したりで疲れきってしまい、
戸口に身を持たせたまま眠ってしまいました。

皇帝が眼を覚ました時、すでに太陽は山の上高く上っていました。
昨日の傷ついた男も目を覚ましていて、皇帝に気がつくと、
消え入るような声で「どうかお許しください」といいました。


皇帝がそのわけを尋ねると、なんと男は先の戦争で皇帝に家族を殺され、
財産を奪われたので皇帝に復讐しようと付けねらっていたというのです。

そして皇帝が一人で山にやってくると聞いて、
帰り道で皇帝を殺そうと待ち伏せしていましたが、一向に皇帝の姿が見えません。
そのうち皇帝の供のもの達に気づかれて傷を負い、ここまで逃げてきたというではありませんか。


男は「あなたに出会わなかったら、私はとっくにあの世に行っていたでしょう。
私はあなたを殺そうとしたのに、あなたは私の命を救ってくれたのです。
私は、残りの人生をあなたの家来として仕えることを誓います。
どうか私をお許しください」といいました。

皇帝は男を許し、その財産をすべて返し、完全に傷が癒えるまで
自分の医者と召使を送って男の世話をさせることを約束しました。


皇帝は宮殿に帰る前にもう一度だけあの3つの問いを隠者に尋ねてみたかったので、
畑に種をまいていた隠者のところへやってきました。

隠者は皇帝の姿を見るとこういいました

「さてお前の問いはもう答えられたな」


皇帝は呆気に取られて「えっ、どういうことでしょうか?」と尋ねると、
隠者は次のように答えました。


「昨日もしお前が年老いたわしを哀れんで土掘りを手伝っていなかったら、
帰り道であの男に襲われていただろう。
そしてわしといなかったことをうんと後悔しただろう。

だから「もっとも適した時」とは、お前が土掘りをしていた時のことなのだ。

そして「もっとも大切な人」とはわしのことで、

「もっとも大切なこと」とはわしを手伝うことだったのさ。


また傷ついた男が逃げてきた際には、
「もっとも適した時」とは、お前が傷の手当をしてやったときのことだ。
なぜなら、、もし手当てをしてやらなければ男は死んでしまって、
お前は和解する機会を失っていただろうからだ。

同じように、
「もっとも大切な人」とは、男のことで、
「もっとも大切なこと」とは、その男を手当てすることだったわけだ。


覚えておきなさい。
「もっとも適した時」とは一つしかなく、それは「今」だということを。
今このときだけが、わしらが自由にできる唯一の時なのだ。


また「もっとも大切な人」とは、お前が一緒にいる人、目の前にいる人のことだ。
お前が将来誰か別の人と関わるかどうか、だれにもわからないのだから。


そして「もっとも大切なこと」とは、お前のすぐそばにいる人を幸せにすることだ。


そしてそれだけが人生で追求すべきことなのだよ」


          <感謝合掌 平成27年7月10日 頓首再拝>

「今」 - 伝統

2015/07/17 (Fri) 04:20:04


            *『幸福をひらく鍵』鍵のことば(P93)より

済んだことの中に生活せず
「今」のなかに生活せよ

「今」は常に生きている。

「今」のなかには
あらゆるものが輝いている

「今」は常に新しく
「今」は常に喜びに満ちている

過去にどんなこと悲しいことがあったにしても
それについては思い煩うな

「今」天地は一新したのである
もう別の天地に生きているのである。

          <感謝合掌 平成27年7月17日 頓首再拝>

今を活かす事は過去未来も活かす - 伝統

2015/07/24 (Fri) 03:58:36


            *「幸福を招く365章」(P127)より

今を活かすことが光明生活の一つの重要なる要素である。
明日のことを思い煩うこと勿れ。
昨日以前のことも持越苦労することはいらないのである。

一日の苦労は一日で足れりである。
今の生活そのものに全力をそそぐとき、その思い煩いに消耗するところのエネルギ-が、
逆に建設的に生かされ、新しき創造の力となり、過去の業績もそれによって
活を入れられ、生きてくるのである。

「今」を生かすとき、過去の蓄積が生きて来て、大いなる未来が創造される。

「今」を生かさないで悩み煩うことに時を費やすとき、
過去はただの醜しい残骸となり、
未来も失敗して悲しき末路を辿るより仕方がないのである。

「今」を活かすことはただ努力するだけでは足りない。
神想観して、神の叡智を受けることが必要である。

          <感謝合掌 平成27年7月24日 頓首再拝>

人生の時計が止まる前に - 伝統

2015/07/31 (Fri) 03:26:29

シカゴの話 ~ 命がけで教えた「人間としての正しい生き方」

          *Web:そんなの簡単!絶対大丈夫![7/25/2015] より

1919年、アメリカで禁酒法が制定され、その後、13年間、暗黒時代が続きました。
当時、実質的にシカゴを支配していたのは、“夜の市長”とも名づけられ、
アルコール密輸、犯罪、売○などを横行させた、ギャングの親分、アル・カポネでした。

    (○:春)

アル・カポネには、“Easy Eddie”(イージーエディー)というあだ名の
大変腕利きで有能な弁護士がいました。
エディーは、アル・カポネにとって素晴らしい弁護士でした。

それは、彼が、法律をくぐり抜け、あらゆる戦略を用い、
アル・カポネが、投獄されないように長い間、守っていたからです。
アル・カポネは、彼の能力に大いに感動し、多額の報酬と超特別な優遇も与えていました。

1つの例は、お手伝いさん付きの大豪邸。敷地は、高い塀で囲まれ、200メートル四方
(シカゴの普通の住宅約140軒が、すっぽりと入ってしまうほど)で、広大でした。

しかし、エディーには、1つの弱みがありました。
それは、非常に愛していた息子です。

彼は息子に、洋服、何台もの車、レベルの高い教育など、可能な限りの
最高の物をすべて与え、何ひとつ不自由なく暮らさせていました。
息子のためには、とにかくありとあらゆる可能なことをしました。

そして、自分が犯罪に関わっているにもかかわらず、
息子に善悪の分別を教えようともしていました。

息子に自分よりも道徳的に良い人間になることを望んだのです。

しかし、自分の富を得ている方法とギャングとの仕事のため、
彼は、息子に、「人間として高く評価されること」と「人々の良き模範になる」
という2つのことを教えることができなかったのです。

そこで、ある日、彼はいろいろ模索した結果、大変重要で難しい結論に達しました。
それは、自分が今までしてきた悪い生き方を改善すること。アル・カポネがしてきた
あらゆる犯罪・悪行について、警察や地方当局などに通告することです。

そして、人間として、本当に正しい生き方を息子にも示そうと決心したのです。
これをすれば、ギャングを敵に回し、その代償は大きいということを覚悟で、
エディーは証言し始めました。

その後、1年もしない内に、エディーは寂しい裏通りで、射殺されました。
しかし、彼の意識の中には、自分にできる最大限の贈り物を息子に与えることが
できたという満足感がありました。

警察は、彼のポケットから、
カトリックの数珠、十字架、大きなメダルと下記の詩の切り抜きを見つけました。


  『人生の時計というのは、たった一度だけネジが巻かれて始まる。
   しかし、いつ自分の人生の時計の針が止まるのかは誰にもわからない。
   ある人は、遅く、ある人は、早い時間に時計の針が止まってしまう。

   現在というのが、唯一私たちにある時間。

   生きて、愛して、自分の意志でコツコツと努力をし続けること。
    時は、いつ止まってしまうかわからないのだから。
   人生の時計が、いつ止まっても後悔しないよう、今を一生懸命生きるのだ。』

          <感謝合掌 平成27年7月31日 頓首再拝>

今に忠実な者は新しき機会をつかむ - 伝統

2015/08/07 (Fri) 04:39:11


            *「幸福を招く365章」(P96)より


あなたは何らかの使命を神から与えられ、何らかを神から尽すべく
命じられてこの世に生れて来たのです。自分の使命が何であるか、
あなたはまだハッキリおわかりにならないかも知れません。

しかしあなたが今いられる其処にあなたが全力を尽すと云うことが、
今のあなたの使命なのです。それは、もっと大なるあなたの使命に比べたら、
唯(ただ)の踏台にしかならないような小さな使命であるかもしれません。

併しあなたはその踏台である使命を通過することによって、
更に一層大なる使命の座につくことが出来るのであります。

と云って、現在の状態に甘んぜよというのではありません。

現在を忠実に尽す者のみ、次の昇進の機会があたえられ、また機会が来たときに、
その機会を掴む能力が練成されていることになるのであります。


          <感謝合掌 平成27年8月7日 頓首再拝>

「今」は「命の間」 - 伝統

2015/08/14 (Fri) 03:44:15


         *「いちばん大事な日本の話」はづき虹映・著(P182~183)より

『「いま」は「命間(いま)」、「命の間」』なのです。

 生きる時間であり、命の時間、空間、それが「命間」。

今を生きるとは、「今」にぜんぶの命が生きているということ。

命というのは、過去でも未来でもなくて、今にしか生きていないから、
今を本当にせいいっぱい生きて輝かせるとか、いきいきと楽しむとか、
そういう生き方ができるのか。

それが周りや世界に貢献することにつながっていくのだと思うのです。

生きている「命間(いま)」を思う存分、味わいつくしましょう。

          <感謝合掌 平成27年8月14日 頓首再拝>

《「 今 」 を完全に生きよ》 - 伝統

2015/08/21 (Fri) 04:53:41


          *『 生長の家 』(昭和26年7月10日)の法語

   あなたの生命(いのち)の内には 神の霊が宿っているのである。
   神の霊は 唯(ただ)勝利するほかはないのである。

   過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の準備となったのである。
   過去の失敗に捉われるな。
   形の一進一退のうちに 魂は必ず前進して行くのである。

   今を生かせ。

   神を信じ、神に祈りつつ 今を全力を出して生きるのである。

   「 今 」 は実相世界に既にあるところの勝利が
   現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

   「 今 」 を支配するものは
   過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
   未来永劫に ただ悦(よろこ)びの生活を送ることが出来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/776fdceb9039fb5d186d29d1946ce6ba

          <感謝合掌 平成27年8月21日 頓首再拝>

《未来は今日の想念の中にある》 - 伝統

2015/08/28 (Fri) 04:52:16


            *『生長の家』誌(昭和25年7月22日)の法語より

   今なすべきことを明日にのばすな。
   明日なすべきことの準備を今ととのえよ。
   昨日のことを思い煩うな。

   今時々刻々自己の完全なる生命を生ききれ。
   未来は今日の想念の影である。
   過去の暗黒は今光で照らせば光明に化するのである。

   今を生きないものは永遠に生きることはできないのである。

   肉体のことに思い煩うな。
   今生きよというのは今魂のことを生きよということである。

   イエスは神の国と神の国の義を求めよ、
   その余のものは汝らに加えらるべしと教えたのである。

   自分の生命を時々刻々神にささげたるものとしなければならない。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

          <感謝合掌 平成27年8月28日 頓首再拝>

《今を最高限度に使う者は繁栄する》 - 伝統

2015/09/06 (Sun) 04:34:19


             *『 生長の家 』誌(昭和24年8月29日)の法語より


   最高の繁栄を得る道は
   もっとも善きことに
   今ある資本と能力とを最高限度に使うことである。

   自分の能力増進に必要なあらゆる物質(もの)を
   購入するのに けちであってはならないのである。

   能力をすりへらすような快楽のために
   金銭を贅沢に使ってはならないのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12866907.html

          <感謝合掌 平成27年9月6日 頓首再拝>

今を生き抜く - 伝統

2015/09/14 (Mon) 04:51:20


        *『真理の吟唱(”今”を完全に生き抜く祈り)』(P266~269)より

神は無限の智恵であり給う。
神は天地の一切のものと人とを造り給い、それを無限の智恵によって、
たがいに調和ある適当のところに配置し給うたのである。

それゆえにすべての生きとし生けるものは、
もし自分自身が、迷いによって逸脱しなかったならば、
そのもの、その人にとって最も適切な"場"に置かれているのである。

それ故私は今与えられた位置と生活の"場"とを、決して不足に思わないのであり、
この時、この"場"において、感謝しつつ自分の仕事にいそしむのである。


人間が地上に生を享けてきたのは、
この地上でなければ自分の魂を磨くことのできない
特殊の条件が地球世界には整っているからである。

地上は人間の魂を磨くための生活学校であるのである。
この学校を卒業すれば私は次のもっと高級な天体の世界に生まれ変わって行くのである。

今地上に生を享けている限りは、そのような未来世のことや、
自分の前世の生活のことなどは考える必要はないのである。

今、ここに与えられたる生活の“場”において、私は全力を尽くすだけである。
この“今”の生活の“場”が私の魂の修行に最も適当な生活学校なのである。

“今”この環境にいて私が 全力を尽くしているならば、
やがてこの生活学校を卒業するであろうから、
私は 今より一層「高級」な生活学校に移転するであろう。

その一層「高級」な魂の生活学校ともいうべき環境は、
今の環境よりも必ずしもラクなということはないのである。

それは、中学が小学よりもラクなというわけではなく、
また大学が中学よりもラクなというわけでないのと同じことなのである。
しかし一層高級な学科はじっとかみしめれば、低い学科よりも味わい深いものがあるのである。

平凡単調な学科がラクであるにしても味わい深いものでなく、
高級複雑な学科が一見むつかしいけれども、かえって応用無限で味わい深いように、
人生もまた、魂 の進歩にしたがって、いろいろの高級な学科にあたる問題が提出され、
それを一つ一つ解いて行くことに魂の進歩と、魂の無限の悦びが感じられてくるのである。

私は、今、大いなる神の御智慧に導かれてこの地球世界において、
わが魂の進歩のために最も適当な“場”が与えられているのであると
いうことを確認するのである。

それゆえに、その生活環境にどのような複雑な問題が提起されてこようとも、
私は狼狽することはないのである。

私の今の魂の程度において解決できないような問題は、
神は決して今の時点における私に与え給うことはないのであるから、
私は どんな問題でも感謝して受け、その問題が、自他ともに幸福で、
すべての人々に寄与するように解決するための努力をつづけるのである。

今、私は神と偕なる自覚の下に、まことに平和と幸福と裕かさを享受するのであります。

ありがとうございます。

           <感謝合掌 平成27年9月14日 頓首再拝>

《過去に低回する心を捨てよ》 - 伝統

2015/09/22 (Tue) 04:48:38


           *『生長の家』(昭和23年9月8日)の法語より

   「 昔はあんな事があった、こんな事があった 」 と
   過去の善や繁栄を誇る心は 老衰の徴候である。

   心が過去に執着するようになれば前進が止る。

   過去の善や繁栄を誇るのは
   過去の悪や失敗に いつまでも引っかかって
   嘆いている心よりもましであるが、

   「 今 」 を生きない点に於いて五十歩百歩だ。

   今を生きよ、屹度(きっと)諸君は前進するであろう。

   「 今 」 を生きよと云っても
   「 今 」 の悩みや行き詰りを 人に訴えてはならぬ。

   他の同情を求める心は 失敗に快感を感ずる心であるから失敗を招く。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


           <感謝合掌 平成27年9月22日 頓首再拝>

”ぐずぐず”するな、今、行動せよ! - 伝統

2015/10/09 (Fri) 04:41:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(P56~57)より


時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

               <感謝合掌 平成27年10月9日 頓首再拝>

今此処が天国~神の国は今・此処に そしてあなたの内にある - 伝統

2015/10/16 (Fri) 04:41:42


           *「光明法語」(P133)より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受しこれを生かし働かすとき
其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき天国は今此処にあるのである。

               <感謝合掌 平成27年10月16日 頓首再拝>

一瞬一瞬を大切にすれば結果は変わる - 伝統

2015/10/24 (Sat) 04:34:58


       *Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー)
        2014年 09月号(P60~)より

       ~「いまマインドフルネスが注目される理由」
        エレン・ランガー ハーバード大学 教授


マインドフルネスとは、新しい物事に能動的に気づくプロセス。
これを実行すると、

「いまこの時」

に向き合うようになり、状況や全体像を敏感にとらえられるようになります。

こうなると、物事に熱中し活力にあふれている状態である
エンゲージメントの本質に重なります。

エネルギーを消費するのではなく生み出す状態。

多くの人があれこれ考えるのは
ストレスが多くて消耗しそうだと思い込んでいますが、それはまちがい。

本当にストレスになるのは、
きちんと考えずにネガティブな判断を下したり、
解決できないような問題が見つかるかもしれないと心配したりすること。

私たちは皆、安定を求め、物事が静止した状態を保とうとします。
それができればコントロール可能だと考えるからです。

しかし物事はたえず変化していますから、この考え方は適用しません。

実はこのような考え方のために、かえってコントロールする能力を失っているのです。


《マインドフルになる具体的なメリットは何か?》

たとえばパフォーマンスが向上します。

ランガー教授は以前、交響楽団のメンバーを対象とする研究を実施しました。

彼らは自分の仕事に退屈し切っていました。
同じ曲を何度も何度も演奏するわけですが、
ステータスの高い仕事ですから簡単に辞めることはできません。

この研究は以下の通り。

複数の楽団に演奏してもらい、
ある楽団には、これまでの自分たちの演奏で
最もよかったパフォーマンスを再現するようにと指示しました。
つまり、かなりマインドレスな状態で演奏してもらいます。

別の楽団には、各自の演奏に新たな変化を少しだけ加えるようにと指示しました。
つまりマインドフルに演奏してもらいます。


それぞれの楽団の演奏を録音し、
実験内容をまったく知らない人たちに聴かせたところ、
マインドフルな演奏のほうが圧倒的に支持を集めたのでした。

一人ひとりが自分の仕事をすることで、集団のパフォーマンスが上がりました。
みんなが同じ状況を共有し、「いまこの時」に全力で向き合えば、
組織としてよりよいパフォーマンスにならないはずがないというわけです。


また別の研究では、
失敗作の別の使い道を参加者に考えてもらう実験を実施。

もっともクリエイティブな用途を思いついたのは、
マインドフルなグループでした。

だれでも、よくわからない状態でスタートし、何かを決断します。
失敗してしまったら残念ですが、それはあくまで、
ある一つの決断に従った結果として起こったことにすぎません。

決断はいつでも変更することができ、
別の方法を取ればもっとよい結果が出るかもしれません。

マインドフルな人は失敗を味方にできるのです。


《マネジャーがもっとマインドフルに行動するために、できること。》

ランガー教授は、
自分の思考が相手に全部丸見えだと想像してみるのは一つの方法だと指摘します。

そうすれば、相手について悪いことを考えようと思わなくなる。
相手の考え方を理解しようとするはずだと。

そして、ランガー教授は、
仕事と生活のバランスではなく調和を推奨。

バランスというと、両者が正反対に位置して共通項がない印象を受けますが、
実際はそうではありません。

仕事も生活も大部分が人に関わること。
どちらにもストレスがあり、守るべきスケジュールがあります。

両者を切り離して考えていては、
一方の領域で成功したことを、もう一方に活かすことができません。

マインドフルにとらえれば、
領域は人がつくり出したものにすぎず、
それに縛られる必要はないことがわかります。

そして、ストレスは何らかの出来事によって生じるのではなく、
その出来事のとらえ方によって生じるのです。



マインドフルネスについて、
ランガー教授が心から言えることとして、
以下のように述べられています。


「人生は一瞬一瞬で成り立っており、それがすべてです。
 したがって、その一瞬一瞬に意味を持たせることで
 全体が意味を持つことになります。

 私たちはマインドフルに行動することもあれば、
 マインドレスに行動することもあります。
 勝つこともあれば、負けることもあります。

 いちばん困るのは、マインドレスに行動して負けることです。

 何かに取り組む時は、マインドフルになり、
 新しいことに目を留め、それを自分にとって有意義なものにしましょう。

 そうすればあなたはきっと成功できます。」


<参考Web:マインドフルネスとは>

(1)ストレスを軽減できるマインドフルネスとは(2013年04月29日)
   → http://matome.naver.jp/odai/2136477991640454101

(2)ヒューマンウェルネス インスティテュート
   → http://www.humanwellness-institute.org/mindfulness.html

               <感謝合掌 平成27年10月24日 頓首再拝>

今、決心せよ - 伝統

2015/10/31 (Sat) 03:36:15


           *「青年の書」(P66~67)より

諸君よ、今決心せよ。

何事をなさんと欲するにも、事の大小に拘(かかわ)らず
自己創造を生きんことを決心せよ。

他人の真似をして、他人の生命が、他人の智慧が、他人のアイディアが
諸君の肉体に生きたからといって何になろう。

諸君の個性は神からの授かりものである。
あらゆる生き方に諸君自身のものがなくてはならないのである。

模倣は諸君自身の死であり、降服である。
自己創造のみが自己を生きることであるのだ。

(中略)

諸君には諸君でなければできないところの特殊なる「あるもの」が与えられているのである。
それは諸君の顔貌(かおかたち)が各々一人ひとり異なる特徴を以て造られているが如くにである。

人間にはいろいろ異なる使命があるのである。
人を模倣してはならないし、また他の人を自分の欲する方向に
ねじまげようと思ってはならないのである。

完全に自分自身を自由ならしめよ。
習慣を以て自己を縛るな。
伝統を以て自己を縛るな。

汝自身を汝自身そのままであらしめよ。

               <感謝合掌 平成27年10月31日 頓首再拝>

「今」と「このまま」 - 伝統

2015/11/10 (Tue) 04:38:39


         *「生命の實相」第22巻精神分析篇(P182)より

「今」とは縦には過去現在未来を一点に凝縮する「我(われ)」の自覚であり、
横には《今このまま》、自他一切を包容する「天に満つる我(われ)」
(天地一切のものとの和解)の自覚である。

「今」と「このまま」との仏陀を自覚するとき
病気を起こすすべての錯綜(さくそう)が除(と)れていまうのである。

               <感謝合掌 平成27年11月10日 頓首再拝>

《精神を『今』に集中する日》 - 伝統

2015/11/17 (Tue) 04:51:38


       *「生長の家」(昭和16年10月20日)の法語より

   善と波長を合わし、心の律(リズム)が本当に清まったならば
   病気と云うものは大抵禦ぎ得るのである。

   大抵の人は今出している力の数倍もの力を内に蔵している
   のであるが、一心不乱になり切らないから、
   折角持ち合わせている偉大の力も出て来ないのである。

   関東大震災のとき、今迄躄のようになって動けなかった
   リョーマチスの患者が、慌てて逃げ出そうとして気がついて見ると、
   既に自分が起って走っていたと云うような実例もある。

   関西の風水害のときには、留守居の足腰の立たない中風患者が、
   滔々と流れ込んだ山海瀟(やまつなみ)の水が床にのぼるのを
   見ると、急に足腰が起って、重い行李をセッセと二階へ担ぎ上げた
   ような実例もある。

   絶体絶命のときになると、今迄よりも数倍の力が出る。
   出るのは、その力が内部にあった証拠であって、吾々が普段にでも
   その力を出そうと‘真に決心すれば’出る筈なのである。

   その力は真に決心すれば出るのであるが、
   普段は真に決心しないのである。

   絶体絶命の時に無限の力は出るのは、
   傍目も振らずに目的物とただ一体になるからである。

   平常(ふだん)の時は余りに吾々は傍目を振り過ぎるのである。
   左顧右眄が多すぎる。あれにも心ひかされ、これにも心惹かされて
   生命力を一処に集中する事が出来ないのである。

   生命力が無いのではない。
   一処に集中しさえすれば力は出るのである。
 

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

               <感謝合掌 平成27年11月17日 頓首再拝>

『今』燃えよ! - 伝統

2015/11/27 (Fri) 04:55:24


       *「生長の家」(昭和16年10月22日)の法語より

《熱意を以て事に臨む日》

   ドーヴァー海峡を越える弾丸を飛ばす長距離砲には、
   それだけ優秀な爆発力ある火薬を必要とするのである。
   形の弾丸は、火薬に眼に見えない爆発力に支えられて
   長距離を飛ぶのである。

   吾等は偉大な仕事をするには、
   内部に偉大なる爆発力を必要とするのである。

   吾々は燃えなければならない。
   先ず内に燃える力乏しきことを恥じよ。

   而して何事にも燃える熱意を持て。
   熱意なき者は人を惹きつける力乏しきのである。

   太陽は大きく燃えているから、周囲の流星を惹き着けて、
   更に大きく燃えて冷めることがないのである。

   自分ひとりでは、熱は冷めやすいのである。
   熱意を以て多くの同志と倶に燃えよ。
   次第次第に石炭は放り込まれる機関の窯のように燃えよ。

   燃えるのは力である。
   燃えるものは動く。
   燃えるものは走る。

   燃える動力で多くの列車を引摺って走るのである。
   燃えよ、燃えよ、燃えること少なきを恥よ。
   燃えるところに人を引摺って行く力が出るのである。

   人のことを羨む時間に、自分の成すべきことを成せ。
   機会は常にあるのである。
   自分の成すべきことを成しつつある『今』が機会なのである。

   『今』が久遠につながっている。
   『今』の他に『久遠』はない。
   『今』生きることが『久遠』を生きることになる。

   諸君は『今』燃えよ。国家の為に今燃えよ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

               <感謝合掌 平成27年11月27日 頓首再拝>

今、自己創造を決心せよ - 伝統

2015/12/06 (Sun) 04:52:25


              *『青年の書』(P66~67)より

諸君よ、今決心せよ。
何事をなさんと欲するにも、事の大小に拘らず自己創造の生活を生きんと決心せよ。

他人の真似をして、他人の生命が、他人の智慧が、他人のアイディアが
諸君の肉体に生きたからといって何になろう。

諸君の個性は神からの授かりものである。
あらゆる生き方に諸君自身のものがなくてはならないのである。
模倣は諸近似新の死であり、降服である。

自己創造のみが自己を生きることであるのだ。

(中略)

諸君には諸君でなければできないところの特殊なる「あるもの」が
与えられているのである。それは諸君の顔貌(かおかたち)が各々一人ひとり
異なる特徴を以て造られているが如くである。

諸君になくてはならぬ各々の顔貌の如く、
人間にはいろいろ異なる使命があるのである。

人を模倣してはならないし、また他の人を自分の欲する方向に
ねじまげようと思ってはならないのである。

完全に自分自身を自由ならしめよ。

               <感謝合掌 平成27年12月6日 頓首再拝>

「今起て! 」との神の啓示 - 伝統

2015/12/13 (Sun) 04:58:33


谷口雅春先生は、1929年(昭和4年)12月13日深夜、

「今起て! 」

との神の啓示を受けた。


以下は、「生命の實相」自伝篇より


関東震災後、これで私の盗難は2度目であって、
いつも幾らか平常の衣服などが揃ったと思う時分に、
全部ソックリそれを持って行かれるのであった。

こんなことを続けていたら、いつ私の使命感を完うする仕事が出来る時が来るか判らない。
永久に、私の使命感を果たさずにこの肉体は死んで了うかも知れないと思った。

その時、

『今起て!』と云う声が、覚えず私の頭の中で、どこからともなく降るように聴えて来たのだ。

『今起て!』とその声は云った。

『今のほかに時はない。「今」の中に無限があり、無尽蔵がある。
軍資金が出来てから、時間の余裕が出来てから、身体の余裕が出来てから、
光明化運動を始めようなどと云うのは間違いだ。

三界は唯心の現れだ。力が出ると知れば、その時既に無限の力は汝の有である。
実相のお前は久遠の神性であり、既に無限の力を持っているのだ。
既に無限の力を有っているのだ。』
 
 
もう、私は何の懸念するところもなかった。
私は早速ペンをとって、雑誌『生長の家』の原稿を書き始めた。――



それは、昭和4年(1929)12月13日のことであった。
そしてその年の暮、『生長の家』誌の創刊号が出来上がったのである。

               <感謝合掌 平成27年12月13日 頓首再拝>

《『 今 』 は神が生きる唯一の機会である》 - 伝統

2015/12/21 (Mon) 04:38:08


            *『生長の家』(昭和24年11月11日)の法語より

   「 今 」は過去と未来とを一点に現在ならしむる所の瞬間である。
   永遠が 今の一点に 流出口(ぐち)を
   見出(みいだ)しつつあるのである。


   今 神が生きる唯一の機会である。

   過去は現在に生き 未来は現在によって生きる。
   どんな過去も無駄なものは一つもなかったのである。

   自分はもう過去のことについて決して悔いない。
   自分はもう過去の事について思い患らわない。

   過去にありしすべてのことよ、
   過去にありしすべての人々よ、
   私は諸君に今お礼をいうのである。

   もう今争いもなく、憎みもなく、
   唯(ただ)感謝と喜(よろこび)と祝福とのみがあるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

               <感謝合掌 平成27年12月21日 頓首再拝>

《今、自分は強いのである》 - 伝統

2015/12/28 (Mon) 04:53:37


           *『生長の家』(昭和24年11月21日)の法語より

   神は自分の肉体及び精神のすべての力の根源である。
   神が根源であるから 決して自分は弱いということは
   あり得ないのである。

   神の無限に強力なる力が自分を常に強力ならしめ健康ならしめ、
   永遠に疲労せしめ給うことはない。

   自分は今日、肉体的にも精神的にも
   自分自身の力が有限であるという考えを
   捨てたのである。

   今 自分は無限の力がある。
   ここに無限の富がある。
   ここに無限の能力がある。

   「 ここに 」 というのは 自分自身の実相のことである。

   今ここに自分は 無限の健康なのである。
   無限に調和しているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

               <感謝合掌 平成27年12月28日 頓首再拝>

喜びに溢れた「今」を生きる - 伝統

2016/01/06 (Wed) 03:47:43


《喜ぶべきことしかないのが人生である》

       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日)より

すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。

               <感謝合掌 平成28年1月6日 頓首再拝>

今を生きるとパワーが出る - 伝統

2016/01/14 (Thu) 04:44:28


     *「アイムパーフェクト! あなたの中のパワースポットとつながる方法」
      はせくら みゆき・著(P127~129)より

大いなるイノチの河の流れと一体となって生きるコツ
―― それは、《今という瞬間に意識を向けること》です。

《今という瞬間は、創造性の源であり、ここにすべてが集約されている》
といっても過言ではありません。

過ぎてしまった過去のことをくよくよ悩むのは、持ち越し苦労。
まだ起きてもいない未来を憂うのは、取り越し苦労といいます。

過去や未来に意識を向けて、思いというエネルギーを分散するのはもったいない。

「今」に意識を向けると、パワーが出ます。
「今」という瞬間は、創造性の源へ向かう最高の出発点です。


具体的には、《今という瞬間にできる、一個一個のことを大事に扱い、
行為に心を寄り添わせてあげる》といいのです。

そうすることで、感情の岸辺にしがみつくことなく、
イノチの河の流れそのものとなって歩むことができます。

さらにいうならば、今目の前に起こっていること、感情、
やらなくてはいけないことに対して、

《「愛」をもって思い、「愛」をもって語り、「愛」を持って行動する》
と決めることです。

こうした今に意識を向けた行動のひとつひとつが、
あなたを進化させていきます。

               <感謝合掌 平成28年1月14日 頓首再拝>

今、神を自分自身に生活せよ - 伝統

2016/01/24 (Sun) 03:26:27


         *「青年の書」(P171~174)より

生命は波動であるから一進一退はその常であって、退くことがあっても
それを悲しむことはいらないのである。

吾々は時として憂鬱感におそわれ仕事をする勇気を失い生命全体が霧の中に
包まれてしまったようにただ前途暗澹として立ちすくんでしまうように見えるような
時が来るかもしれないけれども、決してそれに失望してはならないのである。

暗黒は光明の始めである。
丑満時にはすでに明け方が近づいているのである。
たて罩(こ)めた霧はいつまでも永続するものではないのである。

夜は明けることは必然であるし、霧は晴れることは必然なのである。

この世界は吾々の心の波が醸しだした雰囲気が具象化した世界であるから、
吾々の周囲にたてこめているところの夜の帳(とばり)は
外から明けてくるのではないのであって中からあけてくるものなのである。

諸君が今暗黒の世界から、自分自身をひき出そうとしたならば、
今諸君はそれができるのである。

諸君をとり囲んでいるすべての制限は決して外にあるのではなくして
自縄自縛しているにすぎないのである。

諸君自身の中に無限の力がすでに宿っているのであって、
まずそれを認めることである。

(中略)

今目の前にましますところの神のみを見て、そして愉快に楽しく
神の子の生活を今生きるのがいいのである。

               <感謝合掌 平成28年1月24日 頓首再拝>

【旬を逃さない】~一刹那正念場 - 伝統

2016/02/03 (Wed) 03:54:40


          *メルマガ「人の心に火を灯す(2016年01月29日)」より

   (喜劇役者、伊藤四朗さんの心に響く言葉より…)

   「いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
   朱(あか)き唇褪(くちびるあ)せぬ間に  熱き血潮(ちしお)の冷えぬ間に
   明日の月日はないものを」

              《ゴンドラの唄》松井須磨子


   人間には「旬(しゅん)」というものが必ずあって、これを逃すわけにはいかない。
   逃がさない努力をしなくてはならないと思っています。

   恋する乙女だけではない、すべての人間にはことをなすべき「旬」がある。
   この唄を聴くといつもそう思います。

   私の考え方と共通するものがあって、私はこの歌が大好きです。

        <『コトバのチカラ』(日本民間放送連盟ラジオ委員会)PHP>

                ・・・

「一刹那正念場(いちせつなしょうねんば)」という言葉がある。

致知出版の藤尾秀昭氏はそれをこう語る。


「一刹那とは一瞬ということである。
正念場は歌舞伎からきた言葉。
一曲・一場の最も重要なところ、ここぞという大事な場面を指す。

一瞬一瞬を人生の最も大事なところ、人生の勝負どころ、本番と捉えて真剣に生きよ、
と教えている言葉が一刹那正念場である」


人生はつかの間のドラマ。

少しでも目を離すと、大事な場面を見過ごしてしまう。

一日をぼんやりと過ごせば、あっという間に終わってしまう。


「旬を逃さない」

一瞬一瞬を正念場のつもりで生きていきたい。

               <感謝合掌 平成28年2月3日 頓首再拝>

《神の生活を今生きよ》 - 伝統

2016/02/10 (Wed) 04:12:25


           *『 生長の家 』(昭和26年2月3日)の法語より

   色々の物質的なもの、肉体的なものを得たならば
   幸福が得られるであろうと思って、その一つを得て見ると、
   暫(しばら)くは喜ばしい気持になれるけれども、
   いつの間にか物足りなくなって他のものを求めたくなる。

   五官の欲望はついにその程度のものであって、
   根本的、十全的な幸福を得ることは出来ないのである。

   本当に完全な飽くことを知らぬ幸福は
   「 神 」 をわがものとすることによってのみ得られるのである。

   神をわがものとすることは、祈りによって神の叡智と一体となり、
   神の欲したまう如く生き、神の生活をわが生活として、

   神の愛をわが愛とすることである。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4e804d73397f670280b52fcbbe354818

               <感謝合掌 平成28年2月10日 頓首再拝>

『今』を完全に生きぬく祈り - 伝統

2016/02/17 (Wed) 03:21:21


            *「真理の吟唱」(P266~269)より

神は無限の智慧であり給う。
神は天地の一切のものと人とを造り給い、
それを無限の智慧によって、
たがいに調和ある適当のところに配置し給うたのである。

それゆえに、すべての生きとし生けるものは、
もし自分自身が、迷いによって逸脱しなかったならば、
そのもの、その人にとって最も適切な場に置かれているのである。

それ故 私は今与えられた位置と生活の場とを、
決して不足に思わないのであり、この時、この場において、
感謝しつつ自分の仕事にいそしむのである。

人間が地上に生を享けてきたのは、
この地上でなければ自分の魂を磨くことのできない
特殊の条件が、地球世界には整っているからである。

地上は人間の魂を磨くための生活学校であるのである。
この学校を卒業すれば
私は次のもっと高級な天体の世界に生まれ変わって行くのである。

今 地上に生を享けている限りは、そのような未来世のことや、
自分の前世の生活のことなどは考える必要はないのである。

今、ここに与えられたる生活の場において、私は全力を尽くすだけである。
この今の生活の場が、私の魂の修行に最も適当な生活学校なのである。

今この環境にいて私が全力をつくしているならば、
やがてこの生活学校を卒業するであろうから、
私は 今より一層『高級』な生活学校に移転するであろう。

その一層『高級』な魂の生活学校ともいうべき環境は、
今の環境よりも必ずしもラクなということはないのである。

それは、中学が小学よりもラクなというわけではなく、
また大学が中学よりもラクなというわけでないのと同じことなのである。

しかし一層高級な学科は、じっとかみしめれば、
低い学科よりも味わい深いものがあるのである。

平凡単調な学科がラクであるにしても味わい深いものでなく、
高級複雑な学科が一見むつかしいけれども、かえって応用無限で味わい深いように、
人生もまた、魂の進歩にしたがって、いろいろの高級な学科にあたる問題が提出され、
それを一つ一つ解いて行くことに魂の進歩と、魂の無限の悦びが感じられてくるのである。

私は、今、大いなる神の御智慧に導かれて
この地球世界において、わが魂の進歩のために
最も適当な場が与えられているのであるということを確認するのである。

それゆえに、その生活環境に
どのような複雑な問題が提起されてこようとも、
私は狼狽することはないのである。

私の今の魂の発達の程度において解決できないような問題は、
神は決して今の時点における私に与え給うことはないのであるから、
私は どんな問題でも感謝して受け、その問題が、自他ともに幸福で、
すべての人々に寄与するように解決するための努力をつづけるのである。

今、私は 神と共なる自覚の下に、
まことに平和と幸福と裕かさを享受するのであります。 
ありがとうございます。

               <感謝合掌 平成28年2月17日 頓首再拝>

”ぐずぐず”するな、今、行動せよ! - 伝統

2016/02/26 (Fri) 03:47:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(P56~57)」より


時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

               <感謝合掌 平成28年2月26日 頓首再拝>

今直ちに始めよ! - 伝統

2016/03/04 (Fri) 03:13:38


            *「青年の書」(P199)より

「日夜努めて汝の+(プラス)の人間と交通せよ、
+(プラス)の人間の忠言にしたがえば失敗するということはない。」

             ・・・

「哲学はただの屁理屈である。世界は屁理屈ではないのである。
事実の集積であることを記憶せよ。」

             ・・・

「汝の手の中にあるところのすべてのことをなせ。
横合いから誘惑する手まねきに従うな。
何人も許可はいらない、自らなせ。」

             ・・・

「-(マイナス)の人間は人から赦しを求めるのだ。
+(プラス)の人間は人に赦しを与えるのだ。

幸運というものは自ら歩むところの一歩一歩の中にある。
それをつかめ。それをわがものとせよ。
それは諸君のものであり、諸君に属する。」

             ・・・

「今直ちに始めよ。上記の教えを忘るるな。
手を伸ばして+(プラス)をとれ。
人生は今が最も厳粛なる+(プラス)の時である。」

             ・・・

「諸君の+(プラス)の人間は今あなたのそばにいるのである。
あなたの頭を浄めよ。あなたの心を強めよ、それは入ってくるであろう。
+(プラス)の人間は今あなたを待っている。」

             ・・・

「今晩始めよ。今人生の新しき旅を始めよ。」

             ・・・

「+(プラス)の人間か-(マイナス)の人間か
どちらの人間が汝を支配しているか注意せよ。
1分間たりとも-(マイナス)の人間を汝の中に入らしむること勿(なか)れ。」

               <感謝合掌 平成28年3月4日 頓首再拝>

「今」始める~歯磨きのベストタイミングとビジネスの関係 - 伝統

2016/03/11 (Fri) 03:43:02


          *Web:ザ・レスポンス(2016.3.4)より

歯を磨くのは食後すぐではなく20分~30分後がベストという話をご存知ですか?

食後は口の中の酸度が上がって歯が溶ける。
で、20分~30分後くらいに再石灰化して元に戻る。
だから、食後に磨くと歯に傷がいきやすい、という理屈です。
(かなり乱暴に簡略化しています。)

この説には賛否両論あって、面白いので歯科医の方とお会いするたびに
「これってどうなんですかね?」と聞くのですが…ほぼ全員が揃って同じ答えを言います。

それは…

この説が100%正しいとしても食後すぐに磨くことを推奨する
ということ。


確かに食後20分~30分で磨くのがベストかもしれない。
でも、食事をして「さて20分経ったしそろそろ磨くか」
なんて余裕のある人はほとんどいません。

通常は、歯磨きそのものを忘れてしまう。
ならば、多少、歯に傷がいこうが歯磨きをして口の中を清潔に保つ習慣をつけたほうがいい、
という結論です。


《あなたはこの病気にかかっていない?》

これ、ビジネスでも全く同じです。

例えば、これからブログを始めるという人がなかなかスタートできない理由。

いま、プロフィール写真の撮影日を決めているところ…
いま、ワードプレスのデザイナーを探しているところ…
いま、獲得したメアドに送るステップメールを作っているところ…

おかげで肝心のブログがまだ開始できていない(苦笑

例えば、起業したいんだけれど

いま、名刺を作っています…
いま、ブログをつくっています…
いま、いま、いま…

名刺なんてテンプレート通りのものであれば15分でプリントしてくれるところもあるし、
ブログなんてなくても売れます。とりあえず売れよ、と。

ノウハウを学んだら、学んだ通り100%やるのがベストです。
でも、100%やるために準備にやたらと時間がかかるくらいなら、
とりあえず結果に一番近いことをまずやるべきです。

特にビジネスの場合、自分だけでなく他の人も関わるのでより時間がかかりがちです。
結果、たかだかDMを出すのに、やり始めるまで3ヶ月かかるなんて人もいました。

しかし、そもそも準備にいくら時間をかけようが結果にはなりません。
実際にやるまえにベストと思える状態にしても、実際に行動してみたら
「ここをこう変えたほうがいい」という改善点が見つかるもの。

だから、不完全でもいいからとりあえずやる、というのが正解です。

この「ベストの状態を整える病」は特にはじめてのことの取り組むときに起こります。
でも、いつだって成果を出す人はベストの人ではなく、ベターでいいからとりあえずやる人です。

そもそも歯磨きと違ってビジネスにベストなんてあるのかどうか…

 

               <感謝合掌 平成28年3月11日 頓首再拝>

今こそ登場せよ - 伝統

2016/03/19 (Sat) 05:00:51


           *「人生の断想」谷口清超先生(著)より

過去におこったいろいろのできごとを、
クヨクヨ思い煩っていてはならない。
過去は、もう過ぎ去ったのであって、ナイのである。

未来は未だ来たらないから、これもまたナイ。
未来に起こるであろうところの不幸をおそれて、
クヨクヨ取り越し苦労していてはならないのである。


しからば、現在はどうか。

現在がいかに苦悩に充たされていても、
それがいかに暗黒に見えていても、
それは「仮相」であり「實相」ではない。

すなわち、それはかりの相(すがた)であって、
神様のおつくりになった世界の真実の相(すがた)ではないから、
ナイのである。


かくの如くして、過去・現在・未来は、本来ナイのである。
あるのは、完全円満な、神のいのちそのものなる「今」であり、
それは時間空間を超越したところの“久遠の今”である。

そこで吾々は、この「今」をこそ生き抜かなければならないのである。

私達は、取越し苦労や持越し苦労をしてはならない。
今、やるべきことに全力をふるえ。

その「今」の中に、過去をつぐない、
未来を約束する“生命の種”が播かれている。

いかに現在が不幸のようにあらわれていても、
たとい行き詰まっているようでも、そのような仮の相(すがた)は、
「今を生きる」ところのあなたの前には、雲散霧消する。

今、今、今断固として立ち上がれ。

一切のなげきも悲しみも、希望の光によって消し去ってしまえ。

あなたのたくましい生命力は、神から与えられた「霊の火花」である。
あなたは、過去を思わず、未来を苦慮せず、
今やるべき仕事に突進するのだ。

かくてあなたは、たちどころに「世界の王者」となる。
なぜなら、世界は、あなたのために
神が準備し給うたところの“舞台”だからである。


あなたは世界の混乱や、祖国の不安によって、心を暗黒化し、
行動や決意をにぶらせていてはならない。

今“舞台”はあなたという“主役”の登場を待ち望んでいる。
そのためにこそ“舞台”には光がないのだ。

あなたは、光り輝く“舞台”に登場するのではなく、
あなたが登場するとき、そしてあなたが、
大いなる第一声を放つ時、そのとき“舞台”には光が放たれるのだ。


今さらあなたは、何を躊躇するか。
あなたの登場を、全世界の“観客”が待っている、
あの心からの叫びが聞こえぬか。

それは、あなたの活躍を待ちのぞむ人々の胸の中の声だ。

今たて!

今こそ立ち上がって、あなたのやれるすべてのことをやりつくせ。
あなたはまだまだ全力をふるっていないではないか。
あなたが「今」を生きるべき時は、まさに「今」なのである。

               <感謝合掌 平成28年3月19日 頓首再拝>

“今”、生命で実践すること - 伝統

2016/03/27 (Sun) 03:49:41


            *昭和35年3月 生長の家白鳩会全国大会 に於ける御講話より
                (『白鳩』  昭和35年5月号)
 
生長の家では、“今を生かせ”と言います。

今の中に全てがある。 
その今に全力をこめることなのです。

 
孔子が “朝に道をきかば、夕べに死すとも可なり” と言いましたが、
聞くというのは、必ずしも耳で聞くだけじゃない。

“聞く”というのは、生命で実践することです。

耳だけでなく、眼が“利く”、鼻が“きく”、口が“利く”、“腕きき”という言葉もあるように、
結局“きく”ということは、生命によって実践するということなのです。

今、本当に自分の真なる願いを実践したら
  ―  朝に道をきかば ・・・ 道を実践したら  ―  夕べに死すとも可なり ・・・ 
一瞬でも、‘今’本当に生命(いのち)を生きたならば、その一瞬の中に永遠があるわけです。

英語でいうと、 eternal now という言葉がありますが、永遠の今です。 久遠の今です。

久遠の今、永遠の今を生きたならば ・・・ 一瞬の生き方であっても、
そこに無限を生きた感じがするものですから、吾々の腹の内部から “でかした、でかした。 

よく生きた” というので、もう死んでも良い、もう完全に生き切ってしまった
という気持が起ってくることができるわけなのです。

だから、吾々は、手段の生活というものをしていたらいけないわけなのです。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19691519.html より転写)

               <感謝合掌 平成28年3月27日 頓首再拝>

創造は「今」行なわれている - 伝統

2016/04/01 (Fri) 03:37:50


           *「光明道中記」(4月1日)より抜粋
  
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、

何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、
何かもう現在には何の関係もない、たとい関係があるにしても、
それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに過ぎないので、
今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。


創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。

一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、原始(はじめ)であり、
終末(おわり)であり、一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの
「一」である。


「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。何によって。
それは言(ことば)によって、言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。

               <感謝合掌 平成28年4月1日 頓首再拝>

今を活かす事は過去未来も活かす - 伝統

2016/04/11 (Mon) 04:41:00


         *「幸福を招く365章」(P127)より

今を活かすことが光明生活の一つの重要なる要素である。
明日のことを思い煩うこと勿れ。
昨日以前のことも持越苦労することはいらないのである。

一日の苦労は一日で足れりである。
今の生活そのものに全力をそそぐとき、その思い煩いに消耗するところのエネルギ-が、
逆に建設的に生かされ、新しき創造の力となり、過去の業績もそれによって
活を入れられ、生きてくるのである。

「今」を生かすとき、過去の蓄積が生きて来て、大いなる未来が創造される。

「今」を生かさないで悩み煩うことに時を費やすとき、
過去はただの醜しい残骸となり、
未来も失敗して悲しき末路を辿るより仕方がないのである。

「今」を活かすことはただ努力するだけでは足りない。
神想観して、神の叡智を受けることが必要である。

               <感謝合掌 平成28年4月11日 頓首再拝>

今を生きる - 伝統

2016/04/21 (Thu) 04:21:38


         *谷口清超先生・著『愛と祈りを実現するには』より

すんだことの中に生活せず 「今」のなかにのみ生活せよ

いくら過去を追憶(ついおく)しても、
逃げ去った獲物はかえって来ないのであります。

これから先、更に一層大いなる獲物(えもの)を獲得すればよいではありませんか。
過去はないのでありますから、
過去の苦しみをくよくよ思わぬことであります。

ただ将来の幸福を目標にして、「今」を完全に生きるのです。

               <感謝合掌 平成28年4月21日 頓首再拝>

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