伝統板・第二

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日本語が日本人を作る - 夕刻版

2015/04/04 (Sat) 18:02:11

*光明掲示板・伝統・第一「「日本語が日本人を作る」 (52)」からの継続です。
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=33

・・・・

《日本語が育てる情緒と思考》~その1

       *Web:JOG( H23.06.12)より


(1)「今、歌ったポップスの歌詞は大和言葉だけだったぞ」

   ある新進の言語学者の結婚記念パーティーでのこと。
   シェイクスピア学者であり、演劇人でもある安西哲雄氏が、
   ギターを弾きながら、歌を2曲披露した。

   1曲目はポップスの定番「白いブランコ」である。

      君は覚えているかしら あの白いブランコ
      風に吹かれて二人で揺れた あの白いブランコ
      日暮れはいつも寂しいと 小さな肩をふるわせた
      君に接吻(くちづけ)した時に
      やさしく揺れた白い白いブランコ

      (参考:you tube https://www.youtube.com/watch?v=tnKsYxjYH8w


   もう一曲も、有名なフォークソング「さよならをするために」。

      過ぎた日の微笑(ほほえみ)を みんな君にあげる
      ゆうべ枯れてた花が 今は咲いているよ
      過ぎた日の悲しみを みんな君にあげる
      あの日知らない人が 今はそばに眠る

      暖かな昼下がり 通り過ぎる雨に
      濡れることを夢に見るのよ
      風に吹かれて 胸に残る思い出と
      さよならをするために

      (参考:you tube https://www.youtube.com/watch?v=qcrRhF61pbA


   これを聴いていた渡部昇一氏は、そばにいた言語学者の卵たちに言った。
   「今、安西さんが歌ったポップスの歌詞は大和言葉だけだったぞ」

   歌詞で書くと、「接吻」とか「微笑」と漢字は使われているが、
   「くちづけ」「ほほえみ」と訓読みされているから、
   古来から日本人が使ってきた大和言葉である。

   唯一外国語らしい「ブランコ」はポルトガル語から来たという説もあるが、
   「ぶらぶらさせるもの」という語感があり、感覚的には大和言葉に近い。

(つづく)

・・・

<関連Web:光明掲示板・第二
       「「日本語脳」を育てることを通して、日本人となる (7334)」
        → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1492 >


           <感謝合掌 平成27年4月4日 頓首再拝>

《日本語が育てる情緒と思考》~その2 - 伝統

2015/04/06 (Mon) 17:45:27

(2)大和言葉と外来語の違い

   その後、渡部昇一氏は、高校の後輩二人と共に、母校の校歌を歌わされるはめになった。
   戦前の旧制中学時代から引き継がれた校歌である。


       鳳嶺(ほうれい)月峰(げっぽう)雲に入り
    滄水(そうすい)遠く海に行く
    山河の眺め雄偉(ゆうい)なる ここ庄内の大平野

                 ・・・

   「鳳嶺」「月峰」「滄水」「雄偉」など、難しい漢語が次々と登場する。
   歌詞を読んでも、意味を理解できる人は少ないであろうから、
   パーティーで歌だけ聴いた人は、意味をまったく理解できなかったろう。

   「白いブランコ」や「さよならをするために」が、耳で聞いて、
   小学生でも理解できるのとは対照的である。

   何がどう違うのだろうか?

   この校歌を理解するためには、「鳳嶺」「月峰」などの漢語の知識が必要である。
   知識のない人には、チンプンカンプンである。


   それに対して、大和言葉は我々が子供の頃から使っており、教養や学歴で差がつかない。
   「君は覚えているかしら あの白いブランコ」と聴いただけで、誰でもが
   子供の頃遊んだ公園のブランコを思い浮かべることができる。

   すなわち、外来語は知識と教養によって理解できる人とできない人の差が
   ついてしまうが、大和言葉は日本語を母国語として育った人なら、
   誰でもが共通に理解し、かつその情感に浸ることができるのである。


(3)和歌に見る大和言葉の伝統

   この大和言葉の特徴をもっとも純粋に保っているのが、和歌の伝統である。
   たとえば、百人一首に入っている次の和歌を知っている人は多いだろう。


      天の原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる
      三笠の山に いでし月かも


   作者の阿部仲麻呂(あべのなかまろ)は、遣唐留学生として唐に渡り、
   後に玄宗皇帝に仕え、さらに当時の代表的詩人である李白や王維とも交わって、
   漢詩人としての文名が現地でも高かった人物である。

   その仲麻呂が、「唐土(もろこし)にて月を見てよみける」と題して詠んだのが、
   この歌である。

   20歳前に唐に渡り、立身出世の後は帰国を夢見ながらも果たせず、73歳で客死した。
   この歌は、若かりし頃に見た奈良春日の三笠山を思いながらの歌である。
   切々とした望郷の思いが伝わってくる。

   この歌も大和言葉だけで歌われている。

   唐で漢詩人として高名であった仲麻呂でも、切々とした情を歌に詠むと
   大和言葉だけになってしまう、という点に、現代のフォークソングにも通ずる
   日本語の伝統が現れている。

   もう一つ近代の例を挙げよう。斎藤茂吉は若かりし頃、
   ドイツで医学博士号をとったのだが、その時に次のような歌を詠んでいる。


      一隊が Hakenkreizの赤旗を
      立てつつゆきぬ この川上に


   ヒトラーのハーケンクロイツ(鍵十字)を知らない人にとっては、
   チンプンカンプンの歌である。
   ところが国際的教養人の茂吉も、後には大和言葉だけの絶唱を残している。

   
      最上川 逆白波(さかしらなみ)の たつまでに
      ふぶくゆふべと なりにけるかも


   広く日本人の心に訴える歌は、このように大和言葉だけで詠まれているのである。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月6日 頓首再拝>

《日本語が育てる情緒と思考》~その3 - 伝統

2015/04/08 (Wed) 18:39:26

(4)「生ける言語」と「死せる言語」

   渡部氏は、大和言葉と外来語の違いを、
   ドイツの哲学者フィヒテの「生ける言語」と「死せる言語」という概念で説明する。

   ナポレオン戦争に惨敗して、ベルリンがフランス軍の占領下にあった
   1807年から翌年にかけて、フィヒテはドイツ人を奮い立たせるべく
   『ドイツ国民に告ぐ』という連続講演を行った。

   その14回の講演のうち、2回を国語問題にあてている。

   フィヒテの言う「生ける言語」とは、「太古からその民族が用い続けてきて、
   一度も中断されたことのない言語」という意味である。
   ドイツ語がその例であり、大和言葉もこれにあたる。

   一方の「死せる言語」とは、たとえばフランス語である。
   フランス人は、かつてはドイツ人と同じ、ゲルマン民族の一部族であったが、
   母語のゲルマン語を捨て、ラテン語方言を話すようになった。

   ドイツ語で「成功」を意味する"Erfolg"は、接頭辞"er-"(仕上げる、完了する)と、
   動詞"folgen"(ついて行く)から成り、ドイツ人は子供でも、"erfolgen"とは
   「ある目的を追求して最後まで成し遂げること」という意味を直感的に理解し、
   語感を感じとれる。

   一方、フランス語の「成功」は、"succes"で、これもラテン語にさかのぼれ、
   "suc"と"ces"からなる事が分かるが、分解された要素の一つ一つまで意味が
   感じ取れるフランス人は、ほとんどいない。

   ちょうど日本語でも、「成し遂げる」という大和言葉なら「成す」と「遂げる」
   からなることが子供でも直感的に理解できるが、「成功」と外来語で言われると、
   その語源、語感までは感じとれないのと同じである。

   ドイツ人にとってのドイツ語と同様、日本人にとっての大和言葉は、太古から共に
   あり、長い歴史をともに過ごしてきた「生ける言語」なのである。

   それに対して、古代の中国から入ってきた漢語、そして近代に欧米から入ってきた
   外来語は、日本人が新たに習い覚えた「死せる言語」であり、
   単語の語源や語感を直感的に理解することはできない。


(5)「生ける言語」が生み出す平等感、一体感

   「生ける言語」を話す民族は、教養階級と一般民衆との間に切れ目がない、
   というのが、フィヒテの主張である。

   戦前、ドイツに留学していた日本の哲学者が、ある日のこと、下宿のお婆さんの口から
   「理性的 "vernunftig"」という言葉が出てきたので驚いた。

   大哲学者カントの『純粋理性批判』に出てくるような用語を、
   義務教育しか受けていないお婆さんが使うとは、
   「さすがにドイツは哲学の国だ」と思った、という。

   しかし、これは誤解である。

   "vernunftig"とは、"ver"(?から)と"nehmen"(とる)という3歳の子供でも
   知っている動詞からなり、「外部の音を聞き取って、自分で理解する」
   という意味となる。

   大和言葉で言えば、「聞き分けが良い」の「聞き分け」にあたる。

   下宿のお婆さんが日本の哲学者に言ったのは、
   「あんたは聞き分けが良いわね」というようなレベルの話であろう。

   逆に、大哲学者カントが3歳の子供でも分かる「聞き分け」というような
   平明な言葉から、一大哲学大系を構築してしまうところにこそ、
   「ドイツは哲学の国」たるゆえんが現れている、と言えるのではないか。

   ナポレオンのフランス軍を破る目的で新しい士官学校を作ったシャルンホルストは、
   若い士官候補生たちにカントの哲学書を読ませたと言うが、
   それも外来語でなく「生ける言語」で書かれていたが故であろう。

   フランスではこうは行かない。

   たとえば「博愛主義」とは、"philanthropie"だが、"phil-"(愛する)と
   "anthrop"(人間)とギリシア語の語源までさかのぼって理解できるフランス人は、
   教養階級であろう。

   これがドイツ語だと、"menshcenfreindlichkeit"と長ったらしいが、
   これは"menshcen"(人)+"freind"(とも)+"lich"(らしさ)+"keit"(であること)
   から成り、大和言葉で訳せば「人を友とする道」とでも言えよう。

   我が国でも、外来語の「博愛主義」では大人でも知らない人がいるだろうが、
   「人を友とする道」と大和言葉で言えば、小学生でも分かる。


   フランスでは厳しい大学教育を受けた教養階級と、一般大衆の間に知的隔絶があるが、
   ドイツでは教養階級も一般大衆も同じ「大和言葉」で語り合えるので、その垣根は低い。

   教養人から、下宿のお婆さん、3歳の子供まで、同じ「生ける言語」を使うという事で、
   国民の中に平等感と一体感が生まれるのである。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月8日 頓首再拝>

《日本語が育てる情緒と思考》~その4 - 伝統

2015/04/10 (Fri) 17:44:20


(6)「和歌の前の平等」

   「生ける言語」が平等感、一体感を生み出すという事に関して、
   和歌には典型的な例がある。

   複数の人が集まって、ある人が上の句を作り、他の人が下の句をつなげるという
   連作の形式を、「連歌(れんが)」というが、その起源とされているのが、
   『古事記』に出てくる次の場面である。


   日本武尊(やまとたけるのみこと[a])が、父・景行天皇の命を受けて東国征伐に赴き、
   その帰途、甲斐の国に立ち寄ったとき、


    新治(にいばり)筑波(つくは)を過ぎて
      幾夜(いくよ)か宿(ね)つる

   と歌った。
   すると、そこに居合わせた火焼く(ひたき)の老人(おきな)が、その後を受けて、


      日々(かが)並(な)べて
      夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日を

 
   と続けた。武名天下にとどろく皇子と、身分の低い焚き火係の老人が、共に歌を詠み、
   それが国家が編纂した史書に誇らしげに述べられている。歌の前には、身分も年齢も
   関係ない、という常識が、我が国には太古の昔からあったのである。


   この伝統は、今でも宮中の歌会始めに活き活きと受け継がれている。

   毎年2万首程度の応募作の中から優れた歌が選ばれるが、
   中には中高生から80代の老人、さらには海外に住む日系人からの詠進歌もある。

   それらが天皇皇后両陛下ご臨席の歌会にて朗詠され、
   最後は両陛下のお歌で締めくくられる。

   まさに「和歌の前の平等」を端的に現している光景である。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月10日 頓首再拝>

《日本語が育てる情緒と思考》~その5 - 伝統

2015/04/11 (Sat) 18:03:06

(7)大和言葉の上に外来語を受容してきた国語の伝統

   我が国の伝統的国柄として、国民の間の一体感、平等感の強いことが挙げられるが、
   その一因をなしているのが、この大和言葉の力であろう。

   しかし、もう一方では、日本語が豊富な外来語を受容してきた、という面もある。
   古代は漢語、明治以降は欧米語が流入して、儒教思想、近代欧米思想、
   科学技術の流入と独自の発展を可能にしてきた。

   この点で、日本人は、自らの言語を捨ててしまったフランス人とも、
   外来語の流入を拒んできたドイツ人とも異なる、
   第三の独自の道を歩んできたと言える。

   深い情緒を支える大和言葉の基層の上に、論理的思考を支える外来語の語彙を
   移入して、我が国は国民同胞感を維持しつつ、
   先進文明を巧みに導入・発展させてきた。

   古代の和魂漢才、近代の和魂洋才は、まさに日本語の構造そのものとなっている。

   とするなら、我が国の言語教育も、和歌や俳句などの大和言葉を味わうことで
   子どもたちの情緒を養いつつ、同時に英語の授業で外国の論理と格闘させて、
   知的鍛錬を行うのが良いだろう。

   小学校の国語から和歌や俳句を追放して、子どもたちが情緒を養う機会を奪い、
   同時に条件反射的な英会話教育で知的鍛錬の場をなくさせることは、
   情緒と知性を同時に失わせる愚策であろう。

   言語教育も、我が先人たちの深い智慧を踏まえたところから、考えなくてはならない。

    (http://blog.jog-net.jp/201106/article_2.html


・・・

(以上で、《日本語が育てる情緒と思考》の紹介を終わります)


           <感謝合掌 平成27年4月11日 頓首再拝>

《日本語が生み出す思いやり社会 》~その1 - 伝統

2015/04/15 (Wed) 18:28:27



       *Web:JOG( H22.10.17)より

(1)グローバル化と「日本語放棄論」

   オンラインショッピングで有名な「楽天」が、
   社内の公用語を英語にすると発表して、話題を呼んでいる。

   「世界27カ国・地域への進出」「海外取扱高比率70%」といった
   大胆な国際戦略の一環だが、まず役員会議の英語化から始め、段階的に英語化を進めて、
   2012(平成14)年度までに楽天グループの公用語を英語にするという。

   グローバル化の波が押し寄せると、
   必ず「日本語でやっていてはダメだ」という議論が出てくる。

   言語社会学を専門とする鈴木孝夫・慶應義塾大学名誉教授は、
   これを「日本語放棄論」として、その系譜を紹介している。
      (鈴木孝夫『日本語教のすすめ』[p15] )


   明治初期、初代の文部大臣になった森有礼(ありのり)は、
   遅れた日本語では、進んだ西洋文明を取り入れて国を進歩発展させることは難しいから、
   英語を国語にするべきだと主張した。

   そんな声は黙殺して、我が国は日本語を国語としたまま
   急速に科学技術、経済を発展させ、世界5大国の一つへと飛躍した。

   敗戦の翌年昭和21年には、文豪の志賀直哉が、愚かな戦争をして敗れた原因として、
   日本語の持つ不完全さ不便さ、漢字学習の効率の悪さを挙げ、フランス語を国語に
   すべきだと主張した。しかし我が国は、やはり日本語のまま急速な高度成長を続け、
   世界の経済大国となった。

   現在のグローバル化は3度目の波と言えるが、
   やはり「日本語放棄論」が出てきたわけである。

   どうもグローバル化というと、すぐに「日本語を捨てよう」という声が出てくるのが、
   我が民族の習性のようだ。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月15日 頓首再拝>

《日本語が生み出す思いやり社会 》~その2 - 伝統

2015/04/17 (Fri) 19:39:31


(2)絶望の中で母語への信頼を謳ったツルゲーネフ

   鈴木教授は、数多くの民族や国民が、
   自分たちの母語に対してどのような態度をもっているのか調べたところ、

   どの国民でも自分たちの母語に対しては絶大の信頼と愛情を寄せ、
   国語の持つ美しさ素晴らしさを歌い上げる詩人文学者に事欠かない

   という事がわかった、という。

   その好例として引用されているのが、帝政ロシアの混乱期に、
   ロシア社会の惨状に深い絶望を感じながらも、ロシア語の持つ根源的な力が
   やがてロシアを救う、と信じていた文豪ツルゲーネフの散文詩「ロシア語」である。


      疑いの日にあっても、祖国の運命を思い悩む日々においても・・・・
      お前だけが私の杖であり、私の支えである。

      おお偉大にして力強く、真実にして自由なるロシア語よ、もしお前が無ければ、
      国内で行われているあらゆることを見るたびに、
      どうして絶望に陥らないでいられようか。

      私にはこのような言語が偉大なる民族に与えられないとは
      どうしても信じられないのだ。


   前節で、志賀直哉の「悲惨な敗戦は不完全で不便な日本語が原因だ」とする
   日本語放棄論を紹介したが、深い絶望の中で母語への信頼を歌い上げた
   ツルゲーネフと対比すると、文学者としての深みの違いを感ずる。


(3)2千年もの間、死語であったヘブライ語を復活させたユダヤ人

   もう一つ、日本人の母国語に対する劣等感と対照的な例が、
   ユダヤ人であると鈴木教授は指摘する
      (鈴木孝夫『日本語教のすすめ』[p49] )


      第2次大戦後、無理に無理を重ねて自分たちの国を作ったユダヤ人は
      2千年もの間死語であった母語を、苦心して復活させるという
      奇跡に近いことまでやってのけたのです。
      そしてその文字として何と古代のヘブライ語を使うことにしたのです。

      この文字が世界のどの文字とも違う独特なものであるのにもかかわらず、
      あえてこの文字を採用して国際性など微塵も考慮しないこの態度は、
      自分たちの便利を犠牲にしてまで<国際標準>に近づくことを望む日本人が、
      深く反省してみるに値する人間の生き方だと思います。


   言語を単なるコミュニケーションの手段だと割り切ってしまえば、それは国際的に
   広く通用し、学習が容易なものほど良い、ということになってしまう。

   日本語放棄論の前提となっているのは、こういう考え方なのだが、
   ユダヤ人の場合はまったく別である。

   国際性や学習の容易性などとは関係なく、ヘブライ語こそ、
   自分たちの生き様の核をなすものだ、という見事なまでの覚悟である。

   イスラエルは政治や科学技術の面で、
   英語を駆使して、国際社会で存在感を発揮しているが、
   その活力の源となっているのは、自らの言語、文化に対する誇りなのではないか。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月17日 頓首再拝>

《日本語が生み出す思いやり社会 》~その3 - 伝統

2015/04/20 (Mon) 17:41:34


(4)日本語では子供が親に向かって「あなた」とは言わない

   我々日本人は、理由もなく日本語に関して劣等感を持つ前に、
   日本語の個性をもっとよく知るべきではないだろうか。

   言語社会学という学問を通じて、
   鈴木氏は日本語の個性が日本社会の個性を形作っている様子を解き明かしている。

   その興味深い例に人称代名詞がある。一人称は「自分」を差し、
   英語では「I」、日本語では「私」、

   二人称は話の相手を指し「You」、「あなた」、
   三人称は第3者を指す「He、She」、「彼、彼女」と文法書は教える。


   しかし、小さな子供が自分の母親に向かって「I love you, mammy!」と
   英語では言えるが、日本語で「お母さん、私はあなたが好きです」と言ったら変だ。

   言うとしたら、たとえば「花子はお母さんが大好き!」だろう。
   この場合は、「花子」は自分のことを指しているので一人称代名詞「I」に相当し、
   「お母さん」は話の相手なので二人称代名詞「You」に相当する。

   同様に、親が子供に向かって英語では「You must come with me」とは言うが、
   日本語では「お前は私と一緒に来なさい」とは言わない。

   例えば「太郎はお父さんと一緒に来なさい」だろう。
   この場合、「太郎」は二人称の「You」にあたり、
   「お父さん」は自分のことを指す一人称として使われている。

   このように、英語では誰が誰に対して話していても、
   一人称は「I」、二人称は「You」の一点張りだ。

   しかし、日本語ではそれほど人称代名詞は使われず、
   「あなた」の代わりに「お母さん」を使ったり、
   「私」の代わりに「お父さん」と呼んだりする。


(5)「私」対「あなた」という対立関係を避ける

   日本語では、そもそも自分を「私」、
   相手を「あなた」というように人称代名詞で呼ぶことがほとんどない。

   「私」対「あなた」とは、自分と相手とを一種の対立関係に置くことで、
   日本人は心理的にそのような対立関係を避けようとする。

   「花子はお母さんが大好き!」とか、「太郎はお父さんと一緒に来なさい」と
   言うのは、文法的には三人称を使って「私」対「あなた」という対立関係を
   避けているのである。

   息子が父親にキレて「あんたなんか嫌いだ」などと、ことさら人称代名詞を
   使う場合は、すでに親族関係が破綻している事を意味している。

   そもそも「あなた、あんた」とは
   「彼方(あなた)」という離れた場所を指す言葉であった。
   「そなた」とか「その方」も同じく場所を指す。

   「おまえ」は「御前」で、「自分の前」に「御」をつけて敬った言葉。
   相手を直接呼ばずに、相手のいる場所を示すことで、間接的に相手を指す語法である。

   英語でもごく一部このような語法があり、たとえば国王陛下に対しては、
   直接 "You"と話しかけるのではなく、"Your Majesty"(あなたの尊厳)に対して
   呼びかけるのが、礼儀である。

   さすがに国王に対しては、「I」対「You」という対等な関係に置くことが
   憚られるからであろう。日本語ではこの語法が高度に発達しているのである。

   興味深いことに、「御前」や「貴様」はかつては敬意のこもった呼び方であったが、
   頻繁に使われていると、だんだん敬意がすり減ってくるようで、
   現代では若者の仲間内や喧嘩の際にも使われるようになる。

   そのかわりに「あなた」という新たな言葉を使って、敬意を回復させようとする。
   しかし、喧嘩の時ですら、「貴っ様~」などと「元敬語」が使われる事を知れば、
   我が母国語のゆかしさに思い至るだろう。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月20日 頓首再拝>

《日本語が生み出す思いやり社会 》~その4 - 伝統

2015/04/22 (Wed) 19:58:11


(6)「お母さん」とは呼べても「娘さん」とは呼べない
   
   しかし、同じく人称代名詞を使わないとは言え、子供が「花子はお母さんが大好き!」
   とは言えても、親が自分の娘に向かって「私も娘が好き!」とは言えないのはなぜか。

   親族内での呼び方に関して、鈴木教授が解明した日本語のルールとは、こうだ。

   まず目上の人に対しては人称代名詞を使えない。

   父母、祖父母、おじおば、兄姉に対しては、「あなた」ではなく、お父さん、
   お祖父さん、叔父さん、兄さん、などと親族用語を使う。

   また、兄が複数いる場合は、「太郎兄さん」「次郎兄さん」と名前をつけて区別するが、
   「太郎さん」などと直接名前で呼ぶことはしない。

   逆に目下のものには人称代名詞は使えるが、親族用語は使わない。
   子、孫、弟妹、年下のいとこに対して、「おい、子供」とか、「お孫ちゃん」
   などとは言わない。

   レストランで親が子供に向かって「お前は何にする?」などと人称代名詞を使うことは
   できるが、それよりも「太郎は何にする?」などと、名前を直接使う方が親しみが
   籠もっている感じがする。

   こうして見ると、親族間では目上に対しては、人称代名詞は使えずに親族用語を使い、
   目下に対しては人称代名詞を使うことができるが、名前を直接使う方が多い。

   人称代名詞を避けるのは、前述のように対立的な関係をなるべく避けたい
   と言う意識が働いているからである。

   目上の人に対して、「お父さん」「お祖母さん」「お兄さん」などと親族用語を
   使うのは、それ自体に敬意が籠もっているので好ましい。

   逆に目下のものに対して「子供」「孫」などと親族用語を直接使ったら、
   相手を見下した態度となるので忌避される。


(7)なぜ自分の息子を「お兄ちゃん」と呼ぶのか?

   前述のように親が「太郎は何にする」などと名前を直接使うことはできるが、
   たとえば太郎に弟がいたら、「お兄ちゃんは何にする」と親族用語を使うことができる。
   親が自分の子供を「お兄ちゃん」などと呼ぶのは、外国人には理解不能な言い方であろう。

   この言い回しを鈴木氏は「親族用語の原点移動」という概念で説明している。

   家族のうちの最も目下の者(この場合は弟)に原点を移し、
   その弟から見て「お兄ちゃん」と呼ぶのである。
   これなら親族用語を使った親しみと共に、兄としての敬意も込められている。

   子供を持った夫婦が、互いを「お父さん」「お母さん」と呼ぶのも、
   子供に原点を移した「親族用語の原点移動」の例である。

   目上の人に対して、敬意の籠もった親族名称を使うという原則は、
   職場や学校でも拡張されて適用される。

   職場では「部長、お電話です」、学校では「校長先生、おはようございます」などと
   職名をそのまま使うのが、丁寧な用法である。

   知らない人に呼びかける時はどうだろうか。
   子供が、通りがかりの中年の婦人に「おばちゃん。ハンカチ落としたよ」などと言う。

   甥~叔母の関係でもないのに「叔母さん」という親族用語を使うのは、
   よく考えるとおかしい。しかし、これは相手を疑似親族と見なして、
   相手に親しみと敬意を込めた呼びかけ方なのである。

   逆に、中年の婦人が子供に声を掛けるときは、目下だから親族用語を使えない。
   だから、「親族用語の原点移動」を適用して、「そこのお兄ちゃん、ハンカチを
   落としたわよ」などと言う。
   相手の子に弟を想定し、それを原点として「お兄ちゃん」と呼ぶのである。

   親子の間でも、職場でも、通りがかりの人に対しても、
   「I」「You」の一本やりで通す英語に比べれば、相手への呼びかけ一つとっても、
   親しみや敬意など細やかな思いやりが我が国語には込められているのである。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月22日 頓首再拝>

《日本語が生み出す思いやり社会 》~その5 - 伝統

2015/04/24 (Fri) 17:28:03


(8)日本語が生み出す思いやり社会

   外国人が自然な日本語を話そうとすれば、自ずからこうした
   「人称代名詞による対立関係を避ける」「目上・目下に対する親族用語を使い分ける」
   「他人にも疑似親族用語を使う」といった語法を身につけなければならない。

   それによって、日本語社会におけるこまやかな人間関係のありようを
   理解し、身につけていく。

   逆に日本人が英語社会で暮らしていると、「I」対「You」の一本やりで、
   個人どうしの対立関係に慣れていく。

   相手との目上・目下関係、疑似親族関係など一切気にしなくてもよいので、
   知らない人にでも気軽に声をかけられるようになる。

   職場で英語が公用語になり、日常会話も英語で行われるようになると、
   日本企業では「部長からご指示頂いた件ですが」と言う所を、
   英語で「あなたから指示された件ですが」などと言うようになるだろう。

   それはそれで、外国人社員には働きやすい職場にはなるだろうが、
   日本語が生み出すこまやかな人間関係は失われていくだろう。

   たとえば、先輩が後輩を自分の弟のように手取り足取り仕事を教えたり、
   社内で家族のように力を合わせるという、目上・目下関係、疑似家族関係の
   中でこそ生まれる思いやりの世界は薄れていく。

   アメリカ企業のようになってグローバル競争社会を勝ち抜いていこうというのも
   立派な志ではあるが、二流の英語と二番煎じのアメリカ的経営では、
   だいぶハンディがある事は否めない。

   逆に、長期安定雇用のもとで、日本語社会の思いやりに満ちた人間関係を作り、
   その中で人を伸ばし、チームワークを発揮していく、という方向もある。

   外国人社員にも日本語を学ばせ、その関係の中に組み込んでいく、
   という事もできる。

   このような「人作り」と「人の和」こそ我が国の強味であった。

   明治以来、二度のグローバル化の波に際して、二度とも「日本語放棄論」が現れたが、
   そんな声は黙殺して、我が国は日本語が生み出す「人作り」と「人の和」によって
   乗り越えてきた。

   今が3度目の勝負である。

    (http://blog.jog-net.jp/201010/article_3.html

・・・

(以上で、《日本語が生み出す思いやり社会》の紹介を終わります)

           <感謝合掌 平成27年4月24日 頓首再拝>

漢字と格闘した古代日本人 - 伝統

2015/10/29 (Thu) 19:18:27



現代における「大和言葉」の使い方については、スレッド「大和言葉」
( → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6645064 )で
紹介中ですが、ここでは、「漢字と格闘した古代日本人」について紹介してまいります。


漢字と格闘した古代日本人~その1

     *Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(H13.12.23)より

《日本語と近代中国》

中国の外来語辞典には、「日本語」とされているものが非常に多い。
そのごく一部を分野別に拾ってみると:

思想哲学: 本質、表象、理論、理念、理想、理性、弁証法、倫理学、倫理学、、、

政治軍事: 国家、国民、覇権、表決、領土、編制、保障、白旗、、

科学技術: 比重、飽和、半径、標本、波長、力学、博士、 
      流体、博物、列車、変圧器、冷蔵、

医学:   流行病、流行性感冒、百日咳、

経済経営: 不動産、労動(労働)、舶来品、理事、保険、標語、例会、

 
博士などは、昔から中国にあった言葉だが、近代西洋の "doctor"の訳語として
新しい意味が与えられ、それが中国に輸入されたのである。

 
日本が明治維新後、西洋の科学技術、思想哲学を導入する際に、
各分野の概念、用語を表す数千数万の和製漢語が作られ、それらを活用して、
欧米文献の邦訳や、日本語による解説書、紹介文献が大量に作成された。

中国人はこれらの日本語文献を通じて、近代西洋を学んだのである。

軍事や政治の用語は、日露戦争後に陸軍士官学校に留学する中国人が急増し、
彼らから大陸に伝わった。後に国民党政府を樹立した蒋介石もその一人である。
当時はまだ標準的な中国語は確立されていなかったので、
各地の将校達は日本語で連絡しあって革命運動を展開し、清朝打倒を果たした。

さらに中共政府が建前としている共産主義にしても、
中国人は日本語に訳されたマルクス主義文献から学んだ。

日本語の助けがなかったら、西洋の近代的な軍事技術や政治思想の導入は
大きく遅れ、近代中国の歴史はまったく異なっていただろう。

           <感謝合掌 平成27年10月29日 頓首再拝>

漢字と格闘した古代日本人~その2 - 伝統

2015/10/30 (Fri) 20:05:16


     *Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(H13.12.23)より

《外国語を自在に取り込んでしまう日本語の柔軟性》

日本人が文明開化のかけ声と共に、数千数万の和製漢語を作りだして
西洋文明の消化吸収に邁進したのは、そのたくましい知的活力の現れであるが、
同様の現象が戦後にも起きている。

現在でもグローバル・スタンダード、ニュー・エコノミー、ボーダーレスなどの
カタカナ新語、さらにはGNP、NGO、ISOなどの略語が次々とマスコミに登場している。

漢語を作るか、カタカナ表記にするか、さらにはアルファベット略語をそのまま使うか、
手段は異なるが、その根底にある のは、外国語を自由自在に取り込む日本語の柔軟さである。


漢字という表意文字と、ひらがな、カタカナという2種類の 表音文字を持つ日本語の
表記法は世界でも最も複雑なものだが、それらを駆使して外国語を自在に取り込んでしまう
能力において、日本語は世界の言語の中でもユニークな存在であると言える。

この日本語の特徴は、自然に生まれたものではない。

我々の祖先が漢字との格闘を通じて生みだしたものである。

           <感謝合掌 平成27年10月30日 頓首再拝>

漢字と格闘した古代日本人~その3 - 伝統

2015/11/01 (Sun) 19:52:47


     *Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(H13.12.23)より

《文字のなかった言語》

漢字が日本に入ってきたのは、紀元後2世紀から3世紀にかけてというのが通説である。
その当時、土器や銅鐸に刻まれて「人」「家」「鹿」などを表す日本独自の絵文字が
生まれかけていたが、厳密には文字体系とは言えない段階であった。

しかし、言語は本来が話し言葉であり、
文字がなければ原始的な言語だと考えるのは間違いである。

今日でも地球上で4千ほどの言語が話されているが、文字を伴わない言語の方が多い。
文字を伴う言語にしても、そのほとんどは借り物である。

アルファベットは紀元前2千年頃から東地中海地方で活躍したフェニキア人によって
作り出されたと言われているが、ギリシア語もラテン語もこのアルファベットを借用して
書けるようになった。

現代の英語やロシア語も同様である。
逆に言えば、これらの言語もすべて文字は借り物なのである。

わが国においても文字はなかったが、神話や物語、歌を言葉によって表現し、
記憶によって伝えるという技術が高度に発達していた。

今日、古事記として残されている神話は、古代日本人独自の思想と情操を
豊かにとどめているが、これも口承によって代々受け継がれていたのである。

           <感謝合掌 平成27年11月1日 頓首再拝>

漢字と格闘した古代日本人~その4 - 伝統

2015/11/02 (Mon) 19:26:08


     *Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(H13.12.23)より

《古代日本にアルファベットが入っていたら》


アルファベットは表音文字であるから、どんな言語を書くにも、それほどの苦労はいらない。
現代ではベトナム語も、マレー語もアルファベットを使って表記されている。

 
古代日本人にとっても、最初に入ってきた文字がアルファベットだったら、
どんなに楽だったであろう。

たとえばローマ字で「あいうえお」を書いてみれば、

a i u e o
ka ki ku ke ko
sa si su se so

などと、「a i u e o」の5つの母音と、「k s 、、」など の子音が
単純明快な規則性をもって、日本語のすべての音を表現できる。

漢字が入ってきた頃の古代の発音は現代とはやや異なるが、この規則性は変わらない。
日本語は発音が世界でも最も単純な言語の一つであり、アルファベットとはまことに
相性が良いのである。


《日本語は縁もゆかりもない漢語と漢字》

ところが幸か不幸か、日本列島に最初に入ってきた文字は、
アルファベットではなく、漢字であった。

「漢字」は黄河下流地方に住んでいた「漢族」の話す「漢語」を表記するために
発 明された文字である。

そしてあいにく漢語は日本語とは縁もゆかりもない全く異質な言語である。

語順で見れば、日本語は「あいつを殺す」と「目的語+動詞」の順であるが、
漢語では「殺他」と、英語と同様の「動詞+目的語」の順となる。

また日本語は「行く、行った」と動詞が変化し、
この点は英語も「go, went gone」と同様であるが、
漢語の「去」はまったく変化しない。

発音にしても、日本語の単純さは、漢語や英語の複雑さとは比較にならない。
似た順に並べるとすれば、英語をはさんで漢語と日本語はその対極に位置する。

さらにその表記法たる「漢字」がまた一風変わったものだ。
一つの語に、一つの文字を与えられている。

英語のbigという語「ダー」を「大」の一字で表す。
bigという「語」と、ダーという「音」と、大という「文字」が完全に一致する、
一語一音一字方式である。

さらに、英語では、big, bigger, bigness、
日本語では「おおきい」「おおきさ」「おおいに」などと語が変化するのに、
漢語はすべて「ダー」と不変で、「大」の一字ときちんと対応している。

漢字は漢語の特徴をまことに見事に利用した最適な表記法なのである。

たまたま最初に接した文字が、日本語とはまったく異質な漢語に密着した漢字
であった所から、古代日本人の苦闘が始まる。

           <感謝合掌 平成27年11月2日 頓首再拝>

漢字と格闘した古代日本人~その5 - 伝統

2015/11/03 (Tue) 20:32:38


《漢字との苦闘》

漢字に接した古代日本人の苦労を偲ぶには、イギリス人が最初に接した文字が
アルファベットではなく、漢字であったと想定すると面白いかもしれない。

英語の語順の方が、漢語に近いので、まだ日本人の苦労よりは楽であるが。

イギリス人が今まで口承で伝えられていた英語の詩を漢字で書きとどめたいと思った時、
たとえば、"Mountain"という語をどう書き表すのか? 

意味から「山」という文字を使えば、それには「サン」という漢語の音が付随している。

「マウンテン」という英語の荘重な響きにこそ、イギリス人の心が宿っているのに、
「山」と書いたがために「サン」と読まれてしまっては詩が台無しである。

逆に「マウンテン」という「音」を大切にしようとすれば、「魔運天」などと
漢字の音だけ使って表記できようが、それぞれの漢字が独自の意味を主張して、
これまた読む人にとっては興ざめである。

英詩には英語の意味と音が一体になった所に民族の心が宿る。

それが英語の言霊である。

古代日本人にも同じ事だ。

漢字は一語一音一字という性質から、それ自体に漢人の言霊が宿っており、
まことに他の言語にとっては厄介な文字であった。

           <感謝合掌 平成27年11月3日 頓首再拝>

漢字と格闘した古代日本人~その6 - 伝統

2015/11/04 (Wed) 19:11:44


《言語と民族の心》

こういう場合に、もっとも簡単な、よくあるやり方は、自分の言語を捨てて、
漢語にそのまま乗り換えてしまうことだ。

歴史上、そういう例は少なくない。

たとえば、古代ローマ帝国の支配下にあったフランスでは、
4世紀末からのゲルマン民族の大移動にさらされ、
西ゲルマン系フランク人が定住する所となった。

フランク人は現代のドイツ語と同じ語族に属するフランク語を話していたが、
文化的に優勢なローマ帝国の残した俗ラテン語に乗り換えてしまった。

これがフランス語の始まりである。

 
英語も1066年フランスの対岸からやってきたノルマン王朝に約300年間支配され、
その間、フランス語の一方言であるノルマン・フランス語が支配階級で使われた。

英語はその間、民衆の使う土俗的な言語のままだった。
今日の英語の語彙の55%はフランス語から取り入れられたものである。

そのノルマン人ももとはと言えば、900年頃にデンマークからフランス北西岸に植民した
バイキングの一派であり、彼らは北ゲルマン語からフランス語に乗り換えたのである。

 
こうして見ると、民族と言語とのつながりは決して固定的なものではなく、
ある民族が別の言語に乗り換えることによって、その民族精神を失ってしまう、
という事がよくあることが分かる。

前節の例でイギリス人が漢語に変わってしまったら、
「やま」を見ても、"mountain"という語と音に込められた先祖伝来の言霊を全く失い、
「山」「サン」という漢人の心になってしまっていたであろう。


           <感謝合掌 平成27年11月4日 頓首再拝>

漢字と格闘した古代日本人~その7 - 伝統

2015/11/06 (Fri) 19:09:47


《カタカナ、ひらがなと訓読みの発明》

漢字という初めて見る文字体系を前に、古代日本人が直面していた危機は、
文字に書けない日本語とともに自分たちの「言霊」を失うかも知れない、という恐れだった。

しかし、古代日本人は安易に漢語に乗り換えるような事をせずに漢字に頑強に抵抗し、
なんとか日本語の言霊を生かしたまま、漢字で書き表そうと苦闘を続けた。

 
そのための最初の工夫が、漢字の音のみをとって、意味を無視してしまうという知恵だった。
英語の例で言えば、mountain を「末宇无天无」と表記する。
「末」の意味は無視してしまい、「マ」という日本語の一音を表すためにのみ使う。

万葉集の歌は、このような万葉がなによって音を中心に表記された。

さらにどうせ表音文字として使うなら、綴りは少ない方が効率的だし、
漢字の形を崩してしまえばその意味は抹殺できる。

そこで「末」の漢字の上の方をとって「マ」というカタカナが作られ、
また「末」全体を略して、「ま」というひらがなが作られた。
漢人の「末」にこめた言霊は、こうして抹殺されたのである。

 
日本人が最初に接した文字は不幸にもアルファベットのような表音文字ではなく、
漢字という表語文字だったが、それを表音文字に改造することによって、
古代日本人はその困難を乗り越えていったのである。

 
しかし、同時に漢字の表語文字としての表現の簡潔さ、視覚性という利点も捨てきれない。
mountainをいちいち、「末宇无天无」と書いていては、いかにも非効率であり、読みにくい。

そこで、今度は漢字で「山」と書いて、その音を無視して、
moutainと読んでしまう「訓読み」という離れ業を発明した。

こうして「やま の うえ」という表現が、「山の上」と簡潔で、読みやすく表現でき、
さらに「やま」「うえ」という日本語の言霊も継承できるようになったのである。

           <感謝合掌 平成27年11月6日 頓首再拝>

漢字と格闘した古代日本人~その8 - 伝統

2015/11/08 (Sun) 19:41:56


《日本語の独自性と多様性》

こうして漢字との格闘の末に成立した日本語の表記法は、
表音文字と表語文字を巧みに使い分ける、世界でももっとも複雑な、
しかし効率的で、かつ外に開かれたシステムとして発展した。

それは第一に、「やま」とか、「はな」、「こころ」などの
神話時代からの大和言葉をその音とともに脈々と伝えている。

日本人の民族文化、精神の独自性はこの大和言葉によって護られる。

第二に「出家」などの仏教用語だろうが、「天命」というような漢語だろうが、
さらには、「グローバリゼーション」 や「NGO」のような西洋語も、
自由自在に取り入れられる。

多様な外国文化は「大和言葉」の独自性のもとに、どしどし導入され生かされる。

外国語は漢字やカタカナで表現されるので、ひらがなで表記された大和言葉から浮き出て見える。
したがって、外国語をいくら導入しても、日本語そのものの独自性が失われる心配はない。

その心配がなければこそ、積極果敢に多様な外国の優れた文明を吸収できる。
これこそが古代では漢文明を積極的に導入し、
明治以降は西洋文明にキャッチアップできた日本人の知的活力の源泉である。

多様な民族がそれぞれの独自性を維持しつつ、相互に学びあっていく姿が
国際社会の理想だとすれば、日本語のこの独自性と多様性を両立させる特性は、
まさにその理想に適した開かれた「国際派言語」と言える。

この優れた日本語の特性は、我が祖先たちが漢字との「国際的格闘」を通じて築き上げてきた
知的財産なのである。


(以上で、「漢字と格闘した古代日本人」の紹介を終えます)

           <感謝合掌 平成27年11月8日 頓首再拝>

Re: 日本語が日本人を作る - plddftbstMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:48

伝統板・第二
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