伝統板・第二

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人の上に立つ者に求められること① - 夕刻版

2015/04/03 (Fri) 18:41:55

*光明掲示板・伝統・第一「人の上に立つ者に求められること (73)」からの継続です。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=46

・・・

「リーダーとしての資質とは!」

       Web:「今日は残りの人生の最初の日(2011年12月6日)」より

中国明代の著名な思想家である呂新吾(りょしんご)さんの『呻吟語』(しんぎんご)
という著書の中に、リーダーの資質としての重要な性格として
以下のように述べられています。


深沈厚重是第一等資質

磊落豪雄是第二等資質

聡明才弁是第三等資質

深沈厚重(しんちんこうじゅう)なるは、是れ第一等の資質なり。

磊落豪雄(らいらくごうゆう)なるは、是れ第二等の資質なり。

聡明才弁(そうめいさいべん)なるは、是れ第三等の資質なり。


深沈厚重(しんちんこうじゅう)が、リーダーとして一番重要な資質とは、
沈思黙考(ちんしもっこう)いわゆる、深く静かに物事を考え、
重厚な性格を持っていることであり、私利私欲を抑えた公平無私な
「人格者」でなければならない。

磊落豪雄(らいらくごうゆう)が、二番目に重要な資質とは
細かいことに拘らず、物事にもこだわらず、つまり型にはまらない。
度量が大きい性格をもっている人物である。

聡明才弁(そうめいさいべん)が、三番目の資質いわゆる、
リーダーとしての資質としては一番優先順位が低いとしている。
頭がきれて、才能が有り、弁舌巧みな人物である。


と呂新吾さんは仰っています。

論語の中の泰伯第八の205にも以下のように述べられています。

子曰、巍巍乎。
舜禹之有天下也。
而不與焉

子日(のたま)わく、巍巍乎(ぎぎこ)たり。
舜(しゅん)・禹(う)の天下を有(たも)てるや。
而(しこう)して与(あずか)らず。

「孔子さまが仰るには、何と(徳の高く尊い)立派なことであるか!
舜と禹が、天下を治めた方法は、
自らが、直接的に政治に関与せず、有能な部下を信頼して任せきった所にある」

とあります。


古代中国では理想的な君主として、
尭(ぎょう)を含め舜(しゅん)禹(う)を3人組と称します。
尭から舜へ、また舜から禹へ、有徳の人へ帝王から禅譲で政権が譲渡されたことから

孔子さまは上記のことを述べられたのだと思います。

その中の舜と禹の聖王が天下を統治されたことは
「巍巍乎たり、而して与らず」
と述べられているのです。

「巍巍乎たり」が
山の高さの偉大さのことで、徳の高く尊いという意味で、
堂々として立派なものだと仰っています。

そして「而して与らず」
舜と禹は政治を独占しなかった。
磊落豪雄の臣下や聡明才弁の臣下に権限を預ける器量があった。
いわゆる、深沈厚重たる第一等の人物であったのです。

特にこの論語の泰伯編は泰伯(大伯)という
大変、徳の高い人物の名前を冠した編です。

有徳のリーダーとはどういうものかを
孔子さまが語っておられる編でありまして大変ためになります。

この泰伯さん自身も下記のように語られています。紹介します。

「泰伯はそれ至徳(しとく)と謂(い)うべきのみ。
三たび天下を以て譲る。民得て称するなし。」
とあります。

意味としては、
泰伯は徳の極致というべき存在である。
己の天下を譲って、絶対に自分が取ろうとはしなかった。
泰伯の譲り方が譲ったとわからないようなものだったので、
民衆も称することができなかった。

泰伯さんは自我の一切無い自分の中にある良心を開眼した方だと思います。
泰伯さんのように特に国を治めるリーダーとしての立場を持ちながら
自分の美徳をひけらかすこともなく、民衆が気がつかぬまま禅譲する見事な振る舞い。

まさに、深沈厚重たる第一等の資質を持った人物です。

本当に徳の高い人は、自分のなす善なる行為を喧伝する必要を感じない人物ですので、
有名な人の中にはいないのかもしれませんね。

こういった舜や禹、泰伯さんのような深く静かに物事を考え、重厚な性格を持っていながら、
私利私欲を抑えた公平無私な「人格者」のリーダーの出現が
地球規模で待ち望まれているのではないでしょうか。

日本においても、政治や企業におけるリーダーの不祥事が数多く報道されておりますが、
ただ、聡明才弁である、いわゆる、頭が切れて、弁が立つ人物が第一等として
リーダーに据えているという勘違いをしているが故に

起こるべくして起こっている出来事なのではないでしょうか?

聡明才弁は官僚や各部署のリーダとしては有能な資質かも知れませんが、

孔子さまは、論語の季氏第十六でこう仰っています。
「陪臣(ばいしん)国命を執(と)れば、三世(さんせい)にして失わざること希なり。」

陪臣とは、官僚のことを指します。
官僚が国の政治を取り仕切るようになると、三代続くことは希である。
と述べております。

いわゆる聡明才弁の資質の限界を語ったものと思われます。

そして、権力を失い、そこで磊落豪雄が割拠して国の混乱が生じて、
最後には深沈厚重たる徳の高い人物が国を治め、
聡明才弁の人物や磊落豪雄の人物を適材適所に配置し
権限を委譲して任せていくスタイルこそ理想的ではないでしょうか?

http://ageing-support.blogspot.jp/2011_12_01_archive.html

            <感謝合掌 平成27年4月3日 頓首再拝>


指導者の条件6(祈る思い) - 伝統

2015/04/06 (Mon) 17:48:10


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者には何ものかに祈るというほどの真剣な思いが必要である。

江戸時代、いわゆる寛政の改革を行った松平定信は、老中に就任した翌年の正月二日
吉祥院の歓喜天に次のような趣旨の願文を納めたという。

「今年は米の出回りが良く、高値にならず、庶民が難儀をせずにおだやかに暮らせるよう、
私はもちろん、妻子の一命にもかけて必死に心願します。もしこの心願が筋違いで、
庶民が困窮するというのであれば、今のうちに私が死ぬようにお願いします。」

さらに彼は、日々七、八度東照宮を念じてこの重責を全うできるよう祈ったと、
自分の伝記に書いているという。

定信の前のいわゆる田沼時代には、天災と放漫財政、賄賂政治が重なり、
綱紀も乱れ、物価も上がるという状態になっていた。

彼はこれを正すために、政治の抜本的改革を行うべく心に期するわけだが、
それについては、このように身命を賭して神仏に祈るというほどの、
極めて強い決意を持って臨んだのである。

その結果、いわば時の勢いとして、定信の力をもってしてはいかんともしがたい面は
あったものの、一面非常な成果も上がり、徳川後期に一つの光輝を添えることになったのである。

自ら何もせずして、ただ神仏に御利益を願うというようなことは、
人間として取るべき態度ではないと思う。
また、そんな都合の良い御利益というものはあり得ないだろう。

しかし、人間が本当に真剣に何かに取り組み、是非ともこれを成功させたい、
成功させねばならないと思う時、そこに自ずと何ものかに祈るというような気持ちが
湧き起こってくるのではないだろうか。

それは神仏に祈念するという形を取る場合もあろうし、
自分なりにそれに準ずるものを設定して願うということもあると思う。

そういうことは、一つの真剣さの表れであり、またそのことによって
自らの決意を高めるという意味からも、大いにあっていいことだと思う。

まして、指導者の場合は、それが単に自分個人のためでなく、
定信の場合のように、天下万民のため、多くの人々の幸せのための祈りであり、
それはまことに尊いことであると言えよう。

指導者は何事にも本当に真剣に当たることが大切であるが、
その際に、祈るほどの思いになっているかどうか、一度自問自答してみることも
必要ではないかと思うのである。

            <感謝合掌 平成27年4月6日 頓首再拝>

渋沢栄一《好奇心と学ぶ力》  - 伝統

2015/04/08 (Wed) 18:41:53


          *佐々木常夫のリーダー論より

渋沢栄一は今の埼玉県深谷市の農村の息子として生まれさまざまな運命を経て
実業家として活躍した。日本初の銀行などおよそ500の会社と600の教育福祉事業の設立に
関与し「日本の資本主義の父」とも呼ばれている。

私の渋沢栄一との最初の出会いは彼の著書「論語と算盤」である。

論語は道徳で、算盤とは経済のことであるがこの本の中で渋沢は経済では
「公のために尽くす」といった確固とした倫理観と道徳観が必要であると述べている。

論語にある道徳と利益を目的とする経済という一見かけ離れた二つを融合させる
ということを渋沢は明治の初期にやってみせた。

ピーター・ドラッカーは渋沢を
「日本の誰よりも早く経営の本質は「責任」に他ならないということを見抜いていた」
と40年前の「マネジメント」で書いている。

渋沢の行動は一貫して「世のため人のため」という私心のなさで貫かれている。
資本主義に対する彼の思想は、時代や国境を越えているかのようだ。
「論語と算盤」が契機となって私は彼に興味を抱くようになった。

渋沢栄一の最大の特徴はその類稀な好奇心であり全身が受信機の塊のようなもので、
どのような逆境に置かれても逆境を意識する暇がないほど取りつかれたように
興味を持ち勉強し提案する。

自藩武州の代官所を襲う計画がばれて、郷里におられず逃げ込んだ京都の一橋家に拾われ、
そこで毎日勉強し何度も提案した建白書が主君の慶喜に認められる。

パリの万国博覧会に15代将軍慶喜の弟清水昭武が派遣されるが、
随行する尊王攘夷の水戸藩と幕府の外国奉行の混成チームをまとめられるのは渋沢だろう
ということでフランスに一緒に行くことになる。

異常な好奇心を持つ彼は、パリの下水道の中を歩き回り、
アパートの賃貸契約のやり方などをすべて書き留めるなど
ヨーロッパの文化と知識を吸収していく。

吸収魔といわれるほどの受信能力を持つところが、
彼の強みでありこうした性格が何でもない農村の一少年を日本最大の経済人に仕立て上げた。

パリにいる間に幕府は倒れ、新政府から急遽帰国させられる。

主君の徳川慶喜は隠居して静岡に謹慎していたので自分もその近くに住む。
パリで勉強しまくったという評判を聞いて大隈重信が新政府の大蔵省へ来るよう説得し、
そこで持ち前の吸収魔と行動力で地租改正、鉄道敷設、暦の改訂などの大仕事をしていく。

その後、強烈な生き方を積み重ねどのような困難なときでも初心を失わず、
ぶれない性格が形成されていく。


渋沢のもうひとつの特徴は対人関係能力である。
彼は晩年に至るまでいつも自分の目の前にいる人にこころのすべてを傾けて対応した。
どんなときでもどんな人に対しても同じ態度だった。

いつも初心を忘れず自分に安住せず人から学ぼうとする力。

私はその人が成長するかしないかは
出会った人や経験から学ぶ力があるかどうかが大きいと考える。

私はそれを学ぶ力のある人、即ち「学力がある人」と呼ぶが、
学ぶ力がある人は人や経験から学ぼうとする「謙虚さがある人」だ。

なぜ渋沢がそうしたかというとどんな人にも必ず良いところがあり、
それを学ぼう、認めよう、引き出そう、伸ばそうという強い信念があったからだ。

簡単に人を馬鹿にしたり否定したりもしない、
リーダーというのはどんな人も受け止め認めるという「懐の深さのある人」である。

渋沢栄一は明治維新後における日本経済界をリードし「日本資本主義の父」と呼ばれた。

第一国立銀行、日本郵船、キリンなど数多くの会社を興すなど日本経済発展のもとを
作り上げた明治時代の最大の経済人で、その存在感は今でいったら日本経団連会長の
10倍以上であったであろう。

そして彼がそれほどのリーダーになった理由は、
その類稀なき好奇心とすべての人を受け入れる人間関係能力であると書いた。

しかし彼の著した「論語と算盤」を読むとそうした渋沢の性格や行動の多くは
論語から大きな影響を受けたことがわかる。

論語を愛読するリーダーは多いが、
おそらく渋沢ほど論語を自分の人生のバイブルと位置づけ、
繰り返し読み、考え、身に付けてきた人はいないといってもいい。


論語は、今をさかのぼること2千5百年ほど前、中国の春秋という時代を生きた
孔子の言葉を集めた語録で、この本に収録されている章句の数は5百くらいで、
短いものは五文字、長くても三百字。

全部で一万三千余字。四百字詰め原稿用紙では、
きっちり詰めて書いたら三十数枚にしかならない。

マックスウェーバーは、キリスト教プロテスタントの宗教的倫理観に基づく
思想によってこそ資本主義は発展するとした。
つまり経済活動においては誠実かつ勤勉であることが重要だと指摘した。

それに対して、渋沢は武士道精神、特にその中核になっている論語の教えこそ
日本ビジネス道の基本としなくてはならないと考えこの本を著した。

日本を開国しいち早く経済を立ち上げようとしたとき、
そのコアにあったものが武士道であり論語であったということは興味深い。

渋沢が多くの官界からの誘いがありながらそれを断り、
経済界で仕事をすることを決意したとき、
友人が「卑しむべきお金に目がくらんだのか」と批判した。

これに対し彼は「お金を扱うことがなぜ卑しいのか、
君のように金銭を卑しむようでは国家は成り立たない。
官が偉い、身分が大事ということはない。

人間の勤むべき仕事はすべて尊い。
私はビジネスを論語の教えで一生貫いてみせる」と反論したという。

事実、彼はこの後、500もの会社を設立し日本の近代経済をリードする礎を築いていく
わけだがその成功の原動力は論語の思想の実践にあったといってもいい。

論語をそらんずるまで読み込み骨の髄まで身に付けていった結果、
論語が渋沢のあらゆる行動の起点になった。

「私心を入れない、逆境は人を育てる、誠実と思いやりを大切に、自分を知る、
大事と小事の扱い方、目の前の仕事に全力を尽くせ、常識とは何かーーー」このような
論語の考え方を事業経営の基本的考え方と位置づけることによって事業の成功に結び付けた。


たしかにリーダーは生まれながらの資質によるところ大であるが、
それ以外にその人の周りにどのような指導者がいたかとかどのような書物に出会ったか、
そしてその中で努力することで優れたリーダーになっていくこともある。

そういう意味ではリーダーは生来のものではなく人生の中で育んでいくもの、
経験の中で自ら掴み取っていくものともいえる。

日本人にとっては渋沢が論語に出会ったことは僥倖としなくてはならない。

            <感謝合掌 平成27年4月8日 頓首再拝>

指導者の条件7(訴える) - 伝統

2015/04/11 (Sat) 17:55:04

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は常に自分の考えを訴えなければならない

13歳で松代藩十万石の家督を継いだ真田幸弘は、16歳になって元服すると、
非常に困窮している藩財政を建て直すため、家老の末席にいた恩田木工を抜擢し、
藩政の改革に当たらせることにした。

すると木工は、まず屋敷に家族親戚を集め

「今度こういう重責を担ったからには、自分は率先して徹底した倹約をしなくてはならぬ。
しかしそれを家族や親戚の皆さんに強制はできない。ついてはこの際、妻を離別、
息子は勘当、親戚とは義絶してこの仕事に当たりたい」

と言った。

これには皆驚いて「いや、どのような辛抱でも、おっしゃる通りにするから、
そんなことはしないで下さい」と嘆願したので、木工も喜んでそれを聞き入れた。

それに続いて木工は、領民の主だった者を城に集め、藩の重役、役人のいる前で、
藩政改革について協力を求めた。

すなわち、これまでの藩の債務については、財政が安定するまで一時棚上げして欲しい、
そのかわり藩としても、これからは無茶な税金やご用金の取り立てはせず、
正常な財政の運営をしていくということを訴えたのである。

領民たちも木工の清廉篤実な行いを見て、その人柄に信頼を深めており、
藩の財政が正常化されるならということで債権の棚上げに進んで協力を誓った。

その結果、官民一体となって藩財政の立て直しに成功したというのである。

指導者として、何か事をなしていこうとする場合、
人々に自分の考えを訴えるということが極めて大切だと思う。

一つの会社、一つの国をどういう方向に進めようとしているのか、
そのために社員なり国民なりに何を求めているのか、
そういうことをはっきりと訴えなくてはいけない。

そうした訴えは、常になされなくてはならないと思うが、
とりわけ何か大きな困難、非常な大事に出会えば、ともすれば動揺し、判断に迷う。

けれども、そういう時に指導者から適切な呼びかけがなされれば、
皆の気持ちも一つにまとまり、難局を乗り越えて行くこともできるだろう。

そのためにはもちろん、どういう事態にあっても動揺しないような
一つの信念を持っていなくてはならない。
そうした信念を自ら養いつつ、事に当たって、
常に訴えるということを指導者は忘れてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成27年4月11日 頓首再拝>

上杉鷹山《背面の恐怖》  - 伝統

2015/04/15 (Wed) 18:26:41


          *佐々木常夫のリーダー論より

かつてアメリカのケネディ大統領がインタビューで
「最も尊敬する日本人は上杉鷹山」と答えたという。

上杉家は謙信を先祖とし、養子景勝のとき秀吉から会津120万石を封ぜられたが、
関ヶ原で石田三成に加担したため家康に米沢30万石に減封させられた。
三代目藩主の急死のドタバタで15万石になる。

しかし120万石の格式と外形から抜け出せず、
15万石というのに家臣の給与は13万3千石もあったという。

農民への度重なる重税が続き領民は疲弊し、
江戸・大坂の商人からの借金は莫大となり上杉家は破たん寸前。

そのような危急存亡のとき九代となるべく
九州日向高鍋藩3万石から養子に入ったのが当時17歳の上杉治憲である。

藩の大改革に乗り出すには一人ではできない。人がいる。
そこで最初に藩内でのはみだしものたち、社会悪に怒りを持っていたり相手かまわず
直言する人間など骨のある数人を集めその意見を聞きながら改革に着手した。

そのとき治憲がしたことは
(1)藩政窮迫の実態を正しく掴むこと。
(2)その実態を全藩士に伝えること。
(3)目標を設定すること。

だった。


私はビジネスマン生活で多くの赤字の事業や会社を黒字にする仕事をしてきたが、

①経営者にとって最も大事なことは現実直視、すなわちなぜ赤字になったのか?
②問題は何か?
③いま何が起こっているのか?

を正しく掴むことである。

経営者には決断力がいるなどというが、その前に正確な事実把握がなくてはならない。
何が起こっているか、何が問題かがわかれば対応策は的確に用意できる。

そしてその次はその情報を全社員が共有することと、しかるべき目標の設定である。


治憲は率先垂範の行動に出た。
自らの生活費を1500両から200両へ約8分の1にし、
祝い行事の延期、衣服はすべて木綿に、食事は一汁一菜、贈答の禁止などの
緊縮策を打ち出した。

彼は藩政の目的は「領民を富ませること」で
それを「愛と信頼」で展開するとし、藩の3つの壁を壊す。

すなわち

①制度の壁 
②物理的壁
③?意識「心」の壁 

そのために藩を変えるとは自分を変えること、生き方を変えることとした。

これらの改革は当時の常識から考えるとあまりにドラスティックであり、
米沢の重臣たちはことごとく反対した。

治憲が19歳でもあり小藩からの養子であることで、重臣たちは半分侮り、
藩主の言うことを聞かないどころか誤った施策であるとしてその撤回を求めた。

あまりの抵抗の大きさに彼は一時藩主を辞め、九州高鍋に帰ることも考えざるをえないほど
追いつめられたが窮状の丁寧な説明と不退転の意志の強さがあったため
下級藩士を中心に次第に賛同を得、改革が徐々に動きだしていく。


このとき徹底的に抵抗する7人の重臣に丁寧な説得を繰り返したものの
彼らはあくまでも従わなかったため、最後は2名の切腹、残る5名の隠居・閉門の断を下した。
若くて優しいと思われていた治憲のこうしたあなどれない強さに藩士たちは心底驚く。


かつて中坊公平がリーダーたるもの部下に対しては
「正面の理 側面の情 背面の恐怖」が必要と言った。

つまり「部下には論理的に丁寧に説明しなさい。ときどき愛情をかけなさい。
しかし言うことを聞かなければクビにしなさい」という意味であるが
確かに優しさだけでは人は律しきれないのが現実だ。

米沢藩は藩士の給与を15万石の半分にし、農地を開墾し、特産物を作るなど
着実に改革を進め借金の完済を果たすことになる。

35歳で隠居を願い出て名を上杉鷹山と改めるが彼の藩政改革は
現在の企業改革に大きな示唆を与えてくれる格好のビジネスのケーススタディといえる。

どうして米沢藩はこのような財政危機に陥ったのだろう。
毎年借金を積み重ねこのままでは立ち行かなくなることは誰の目にも明らかなのにだ。


これを考えるには現在の日本を思い浮かべればよい。
現在の日本の国家収入が40兆円なのに90兆円を支出する異常な状態で、
毎年国の借金が膨らんでいっている。

国の借金が個人金融資産を上回ることは確実でそのことは誰でも知っている。
近い将来ギリシャに起こったことが日本に起こるだろう。
例えば公務員は2~3割が職を失い、年金も大幅にカットされ、
消費税は20%になり国民は塗炭の苦しみを味わうときが来る。


私はリーダーが果たすべきことは2つあると考える。

(1)まず第1が現実直視である。今何が起こっているか、
   今後どうなるかといった事実把握がまず第1。

(2)その次、第2はビジョンと戦略を示すことである。
   何を実現しようとしているか、どう実現するかである。

(3)そして第3に必要なのは適切な組織と人事である。


一橋大学の関満博氏は地域産業振興には「ヨソモノ ワカモノ バカモノ」が必要だと
看破したが変革を起こすときには岡目八目というか、違う世界の人間の視点が有効だ
ということだ。


治憲は高鍋藩から来たというヨソモノで、19歳というワカモノで、
何が何でもこの体制を変えなければという、重臣にとってはバカモノであった。
そういう人こそがしがらみも無いこともあって体制の立て直しができる。

現在の日本の財政をよその国の人が聞いたら卒倒するだろう。
こんな非常識なことを続けていて心配にならないのかと。

だが日本人はみなそんなことは知っている。
日本がこのままいったらとんでもないことになるとなんとなくわかっている。
だが聞かれるとつい「生活が困るから消費税増税は反対」といってしまう。


1951年、日本はサンフランシスコ講和条約に臨み、
アメリカと日米安全保障条約を締結した。時の首相の吉田茂の判断だった。

他国をさしおいてアメリカと単独講和を結ぶことには国内の反発は大きかったが、
吉田は押し切った。このことがその後の日本を有利にした。

民主主義は大事な理念であるが、
政治における状況判断や意思決定には高度の知力と経験がいる。
優れたリーダーがそれをしなくてはならない。

現在の日本では財政再建などは優れて政治家の仕事である。
それが高度の知力も経験も無い人たちがウロウロするから変なことになる。
その原因は政治家に優れたリーダーが少ないからだ。

            <感謝合掌 平成27年4月15日 頓首再拝>

【もし、高杉晋作がいなければ】 - 伝統

2015/04/17 (Fri) 19:34:33



          *メルマガ「人の心に灯をともす(2012-12-01)」より

   (童門冬ニ氏の心に響く言葉より…)

   「リーダーいかんで組織はどうにでもなる」

   このときに大事なのがリーダーにおける“エレイントメント現象”である。
   それは、リーダーがその職場で“気流”になり、“つむじ風”になれ、ということだ。

   その職場で、リーダーは自分が率いる人間たちを巻き込めるような
   新しい気流を起こせ、ということである。

   しかも、この気流を起こすにはつぎの3つのEが必要だといわれている。


    ①つまらない仕事を面白く(エンターテイメント)する。

    ②暗い職場を明るく楽しく(エンジョイメント)する。

    ③一人ひとりの構成員に仕事の意義を感じさせ興奮(エキサイティング)させる、
     つまり、生き甲斐を感じさせる。


   この3つのリーダーシップの発揮によって、
   新しい気流が巻き起こってくるということだ。

   歴史の上でも、人が人に影響を与え、
   また人が人から影響を受けた例は数限りなくある。

   それも、日本では戦国時代や幕末明治維新のような激動の時代にこういう例が多い。

        <『男の器量』知的生きかた文庫>

              ・・・

1863年(明治維新の5年前)、長州藩は、関門海峡を通る外国船に砲撃を加えた。

しかし、その翌年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4カ国の17隻からなる
連合艦隊から、長州藩は大規模な攻撃を受け大敗した。

そして、講和となったが、イギリスは山口県下関市の南端にある彦島の租借を提案してきた。


その時、長州藩の交渉の全権を任されたのが、当時24歳だった高杉晋作。

その2年前、イギリスの租借地となっていた香港の屈辱的な惨状を見ていた高杉は、
その提案を断固として受け入れなかった。

のちに伊藤博文は、「高杉があの時、租借問題を拒否していなければ、
彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語ったという。


「おもしろきこともなき世をおもしろく」

とは、29歳で亡くなった高杉晋作の有名な辞世の句。


「リーダーいかんで組織はどうにでもなる」

どんな状況になっても、新しい気流を起こせる人は最高のリーダーだ。

            <感謝合掌 平成27年4月17日 頓首再拝>

指導者の条件8(落ち着き) - 伝統

2015/04/19 (Sun) 18:52:49


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は危機にあっても冷静でなければならない

秀吉と家康が小牧で戦った時、秀吉側は2万の兵をさいて、
家康の本国三河を奇襲させようとした。

しかしその極秘の作戦も家康の知るところとなり、三河へ向かう途上、
長久手というところで徳川方の追撃を受ける結果となってしまった。

この時、羽柴方は前途にばかり気を取られ、
敵にあとをつけられているということに全く気付かなかった。

そういう状態で突然襲われたため、上を下への大混乱となり、
第一隊の大将池田勝入斎、第二隊の大将森長可は討死、
総大将で秀吉の甥三好秀次も乗馬を鉄砲で撃たれ、
九死に一生を得て辛うじて落ち延びるという大敗北を喫したのである。

ところが、その敗軍の中にあって、一人気を吐いたのが堀秀政の率いる第三隊である。

秀政は敵の襲撃を知るや、少しも慌てず、冷静に陣を整え、鉄砲隊を並べて、
「敵が十間以内に近づくのを待って一斉に撃て。騎馬武者一人を倒せば百石の加増だぞ」
と命じた。

そこへ勢いに乗った徳川方が押し寄せてきたが、一斉射撃に始まる秀政隊の反撃に遭って、
この局面だけでは散々に打ち破られ、何百という死者を残して敗走した。

そして秀政は、勝ちにはやって追撃しようとする部下を「深追いしてはならぬ」と戒め、
兵をまとめて無事秀吉の本陣に帰ったという。
この時の秀政の態度は、非常時における指導者のあり方の大切さを物語っていると思う。

人間という者は誰しも、困難に直面すると恐れたり、動揺したりするものである。
そういう時に、大将というか指導者が真っ先に慌ててしまっては、
不安が不安を呼び、動揺が動揺を招いて収拾のつかない混乱に陥ってしまう。

しかし、大将が落ち着いていて、冷静に事に処していけば、
皆もその姿に安心感を覚え、勇気づけられるだろう。
それが動揺を鎮め、混乱をおさめることになる。

もちろん、指導者とても人間だから、時に不安も感じ、思案に余るのは当然であろう。
しかし、内心で感じても、それを軽々に態度に出してはいけない。

指導者の態度に人は敏感なものである。
それはすぐ全員に伝わり、全体の士気を低下させることになってしまう。

だから、指導者は日頃から事に当たって冷静さを失わないよう自ら心を鍛えるとともに、
どんな難局に直面した場合でも、落ち着いた態度でそれに対処するよう心がけることが
大切だと思うのである。

            <感謝合掌 平成27年4月19日 頓首再拝>

西郷隆盛《敬天愛人》 - 伝統

2015/04/21 (Tue) 17:38:32


          *佐々木常夫のリーダー論より

最近の日本の政界や経済界を見ていると真のリーダーといえる人が極端に少ない。
例えば政治では人をひきつけるようなこれはという首相はほとんど登場しない。
毎年のように人が変わり、期待しては裏切られることの繰り返しだ。

それは彼らに世のため人のために無私となって政治をしようという志が希薄だからではないか。
どうして現代はそういう人がいないのか?
志を持つことがそんなに難しいことなのか?
明治維新のころには尊敬できるリーダーが多く存在したのに、今はいないのはどうしてか?

日本の近代史上、圧倒的な存在感を持つ大丈夫、英雄といえば西郷隆盛であろう。

薩摩藩の下級武士の家に生まれた西郷は名君 島津斉彬に見出され藩の改革などを指揮し
その実力を発揮するも、斉彬亡き後の久光に疎んぜられ32歳から37歳まで
奄美大島、沖永良部島に流刑となる。

しかし薩摩藩家中での西郷の人望は厚く、呼び戻され、薩長連合軍を率いて
明治維新において大いなる貢献をし、木戸、大久保と共に維新の三傑といわれている。

明治政府設立後は政府内には留まらず、さっさと郷里の鹿児島に帰るが、
維新の総仕上げである廃藩置県を実行するに当たり政府内にはそれができる人材が見当たらず、
三条実美らは再び西郷を呼び寄せ、西郷はわずか4ヶ月でこれを断行した。

坂本竜馬は西郷を「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と表現したが
江戸城無血開城に貢献した勝海舟によれば、坂本竜馬が西郷に及ぶことができないのは
「その大胆識と大誠意」であるとした。

戊辰戦争での敗軍の将である庄内藩・酒井忠篤への西郷の丁重な接し方に感動した
庄内藩士10数名が鹿児島を訪れ、西郷の考え方を学び「南洲翁遺訓」を著わしたが、
その中に西郷をあらわすのにふさわしい一節がある。

「命もいらず名もいらず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業はなし得られぬなり」

どうして木戸も大久保も岩倉、伊藤も
誰もがなれないほどの大きな器のリーダーに西郷がなりえたのか。

人間はみな欲を持って行動する。
例えば薩長藩のトップたちは幕府を武力で壊滅させたほうが好都合と考えていたに決まっている。
そして新政府ができれば、できるだけ自分がその中で権力を握りたいと考えてしまうものだ。

しかし西郷は勝の訴えを聞いて、江戸城攻撃を自分の一存で中止し無血開城をしてしまう。
さらに新政府ができたら、その中枢のど真ん中の地位に座れるのに、
それを捨ててさっさと郷里へ帰ってしまう。度胸の良さ、大きな包容力に加え
その欲の無さは類を見ない。

西郷は人間は訓練で己を高めようと思えば、どこまでも大きく高くなれ、
小さくなればどこまでも小さくなれると考えていた。
人の生きる目的は「道を行うこと」「人はみな聖賢を目指して高めるべき」と考えていた。

なぜ西郷がこのような考え方を身に付けたのか。
もちろんもともと西郷が持っている資質でもあろうがそれを決定付けたのが
32歳からの遠島に流された逆境の5年間ではないかと思う。

島流しのとき彼は佐藤一斎の「言志四録」を持っていった。
この書物は佐藤一斎の哲学、思想、人生観を朱子学に基づき著わした1133条からなる
42歳から80歳までの言行録だが、西郷はそのうち101条を選び出し携帯できるようにして
自らの考え方や行動の指針とした。

西郷が選んだ101条は「道を行い聖賢たらんとする」彼の脈々たる闘志があふれ出ている。
これが「南洲手抄言志録」であるが、島流しの5年間、西郷は繰り返し繰り返し何百回も
読みかつ考えそれを自らの体の中に叩き込んだのである。

西郷は人の生きる意味は「道を行うこと、聖賢を目指すこと」と考え、
それを訓練によって実践し、明治維新の抜きんでたリーダーになった。

それではどうしたらそのような「聖賢」になれるのか。
西郷が言うには心を無にして先入観を捨て誠意を持って聖賢の書をーー
例えば論語や孟子を読み彼ら聖賢の考え方や行動ができるように何度も試みるのだという。
人間は訓練によってそれができることを西郷は自らで証明したわけだ。

西郷が生涯に読んだ本の数は、おそらく例えば私が読んだ数の100分の一にも満たないだろう。
それなのにあれほど優れた人間力、リーダーシップを身に付けたのだ。

私はある新聞のコラムに「多読家に仕事のできる人は少ない」と書いたことがあるが
やたらに知識を積み重ねるよりも数少ない本でも、覚悟を持って自分の生き方、
考え方の座標軸を作れる人のほうがよほど人間ができていくというものだ。

私は何度西郷の本を読んでももう一つよくわからないことがあって、
それは西郷の思想の根っこにあった「敬天愛人」の考えにどうして彼が至ったかということだ。

西郷は「南洲翁遺訓」の中で「天地自然」という言葉を何度も使っている。
人の道を行うことは天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべき
であるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。

天は他人も自分も平等に愛したもうから、
自分を愛する心をもって人を愛することが肝要であるというのだ。

人間は天地自然、大宇宙の一部として存在しているのであってそこから離れて独立していない。
自分の身体は天の命を受けてこの世に生まれたもので死生の権利は天にある。
素直に天の命を受けるべきだという。

西郷がこのような考えに至ったには背景があるようだ。

薩摩藩の朝廷工作に関わっていた京都清水寺の住職・月照は井伊大老の安政の大獄により
身の危険が迫った。薩摩藩は幕府を恐れ月照を見放そうとしたが西郷はそれまでの
月照の働きに対してあまりにひどい仕打ちと憤り、月照と共に投身自殺を図る。

月照は死ぬが西郷はかろうじて助かる。
自分ひとりが生き残ったことで西郷は気も狂わんばかりに悩みぬいた末
「こうして自分ひとりが生き残ったのは、まだ自分にはやり残した使命があるからだ。

だからこうして天によって命を助けられたのだ」ということに思い至る。
西郷は自分が天によって生かされているという、天命への信仰に目覚めたのだ。

西郷が明治維新の他の指導者とはっきり違うところは
「生きる目的は道を行うこと」と考えたことで人間が物欲をコントロールして
人の道を行うことは天地自然の道と一体となることに思い至ったことである。

天は人も我も同一に愛したもう故我を愛する心を持って人を愛する。
「敬天愛人」の哲学は釈迦、キリスト、孔子が到達した境地であるが
天地自然・大宇宙の法則の中に人間のあるべき生き方を見出している。

人を相手にせず天を相手にせよといっている。

なぜ現代は優れたリーダーがいないのか?
いくつかあるかもしれないが、ひとつの理由はリーダーになるべき立場の人に
真のリーダーの要件が欠落しているからではないか、

つまり人の上に立つ人の合格基準に知識やスキルの方が重要視されていて
人間としての気高さや美しさが入っていないからではないか。

またあまりに情報過多で落ち着いて本を読まない、落ち着いて自分の人生を洞察しない、
忙しすぎてじっくり自分や社会を見直す時間が無いということも大きい。

現代は混迷を深めみな閉塞感に陥っている。
このようなときこそ西郷が求められているのに。

            <感謝合掌 平成27年4月21日 頓首再拝>

指導者の条件9(覚悟を決める) - 伝統

2015/04/23 (Thu) 17:40:09


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は大事に至れば、度胸を据えてそれに当たることである。

織田信長の武将柴田勝家が近江の佐々木承禎と戦った時、
戦い利あらず、ついに城を十重二十重に取り囲まれてしまった。
しかも、城の水を絶たれたため、城兵の士気も衰え、落城も目前の姿になった。

その時に、佐々木勢から城内の様子を探るため使者が来た。
すると勝家は、実際には残り少ない水ではあるが、それを惜しげもなく使って見せたので、
使者はまだ水がたくさんあり、籠城は当分続くだろうと考え帰って行った。

ところが、そのあと勝家は、残りの水瓶を全部運ばせ、全員にのどを潤させた後、
その水瓶を打ち割り、「武士たる者座して死を待つより、打って出て立派に死のう」と叫び、
翌朝未明城門を押し開いて斬って出た。

その決死の勢いに、佐々木勢の大軍もみるみる崩れ立ち、大勝利を収め、
以来”瓶割り柴田、鬼柴田”の名が鳴り響いたという。

いわゆる死中に活を求めて成功したわけである。

人間誰しも命が欲しい。
死にたくない。
けれども、それにとらわれている間は本当に力強い働きは出来ない。

といって、命を惜しむなということをいくら口で言ってもなかなか、
おいそれとそうなるものでもない。

そこを勝家は、命の綱である水瓶を打ち割るという
ショッキングな方法で、断ち切ったのであろう。
いわば、絶体絶命の境地に自らを追いやり、
それによって部下に決死の覚悟をさせたわけである。

そのような全員討死の覚悟で打って出たところ、
もちろん戦死者は出たであろうが、結果は大勝利に終わった。
ここが、理外の理ともいうべきもので、まことに面白い所だと思う。

平常の場合は、命を惜しみ、物を惜しみ、金を惜しむということも大切だと思う。

しかし非常の場合、一大難局に直面したというような時は、そういう心持ちでは、
かえってそれらを失うこともやむを得ない、むしろ進んで捨てるというような覚悟を
一面に持って事に当たることが大切だと思う。

そういった覚悟でやれば、十失うべきところを五ですむとか、
あるいは全く失うことなく、かえって成果を上げるということにもなる。

こうしたことは理屈では割り切れないけれども、
やはり歴史なりお互いの体験が物語っている一つの真実として、
指導者は知っておかなくてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成27年4月23日 頓首再拝>

人望の法則 - 伝統

2015/04/25 (Sat) 17:30:08


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2013-06-17)」より

   (西田文郎氏の心に響く言葉より…)

   「成功するために最も必要な能力はなんですか」

   という質問を、じつに多くの経営者からいただく。


   それに対して私はいつも、

   「求める成功のレベルによりますが、経営者として大きく稼ぐためには
   人望が必要で、人望のあるなしで成功のレベルが決まります。

   目安としては社員数30名くらいの小さな組織なら、トップに稼ぐセンスさえあれば、
   人望があろうがなかろうがうまくいきます。

   しかし、さらなる成功を目指すなら、たとえば年商100億円以上の企業を目指す、
   しかも短期的な規模拡大ではなく永続的な繁栄を望むなら、人望がなければ
   組織不全を起こすか、さもなくば社長ご自身が心身ともに破綻します」

   とお答えすることにしている。


   当然ながら、経営者が思い描く夢や目標が大きければ大きいほど、
   その実現のために多くの協力者を要する。

   経営者を支えてくれる社員や家族の献身的な努力をはじめとして、
   取引先、金融機関、有力者の協力、なによりお客様の支持を得ないことには
   事業の成功はないからだ。


   とりわけスポーツの世界では、監督やチームキャプテンといった組織を率いる
   役割の人間が人望を身につけ、組織を自在にコントロールできるようになると、
   プレーヤー個々の能力が5倍、10倍発揮されるような「集合天才型組織」となり、
   驚異的な成果をたたき出す。

   これは絶対に覚えておいて欲しいのだが、
   組織の結束力や構成員一人一人の能力というのは、
   上に立つ者の器(うつわ)や力量で高くも低くもなる。

   ひと言でいえば、相手のモチベーションをどれだけ上げられるかという差なのだが、
   その大もとになるのが、組織を率いる人間の「人望」にほかならないのだ。


   しばしば混同されるが、「人気」と「人望」は違う。

   「人気」というのは、いわば「責任のない人望」である。


   「責任のない人望」のある人は、多くの人から好かれる人気者であるが、
   「この人についていけば間違いない」「頼りになる人」とは決して思われない。

   だから、多くの人を率いなければならない立場の人が、
   人気という「責任のない人望」しか発揮できないのであれば、
   非常にマズイのである。


   言い換えれば、「いい人でいたい」「好かれたい」「格好良く見られたい」
   と思うような人は、「責任ある人望」とは無縁だと考えるべきだろう。

   なぜならそういう人たちは、他人の目や思惑(おもわく)に影響を受け、
   それを判断材料としているため、簡単に自分の信念や行動を変えてしまうからだ。

       <『人望の法則』日本経営合理化協会出版局>

            ・・・

松下幸之助翁はこう語っている。

「小さい会社の経営であれば、率先垂範して部下の人に命令しながらやることも
必要だけど、これが百人とか千人とかになれば、それではあかんね。

心の底に、“こうしてください、ああしてください”というような
心持ちがないといかん。

これがさらに1万人、2万人となれば、
“どうぞ頼みます”という心境に立たんと駄目やな。

けど、もっと大きくなると、部下に対して“手を合わせて拝む”という思いがないと、
いかんということや。

わしはそういう心で経営をやってきた」

(同書より)


1万人、2万人の部下とは言わず、例えば隣近所や、PTAとかボランティアの会
というあまり利害関係のない組織の長になってしまったときなど、
まったく同じことが言える。

命令や威圧では人は絶対に動かない。

心の底に、「どうぞ頼みます」とか、
「手を合わせて拝む」気持ちがなければ人は自らは動かない。


決して、威張らないし、命令もしないが、
なぜか人が言うことを聞き、思い通りに動いてくれるのが、「人望」のある人。

あの人がいうなら、仕方ない、ついて行こうと思わせる人。

そして、人を喜ばせ、感謝の多い人。


生涯かけて、真の人望を身につける努力を続けたい。

            <感謝合掌 平成27年4月25日 頓首再拝

《人を活かす(1) 項羽と劉邦》 - 伝統

2015/04/27 (Mon) 18:11:28


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

乱世となれば英雄が現れ覇を競う。
中国の歴史はそれを繰り返す。

司馬遷が描く『史記』の白眉は、始皇帝死後、
秦末の混乱期に躍り出た項羽と劉邦という両雄の対決にある。

武に秀で直情径行の項羽に比べれば、
酒好きで女に目がない劉邦という男は捉えどころがない。
戦えば負け、敗走を重ねる。

だが最終的には項羽の強軍を破り漢王朝を開き、太平の世をもたらす。

さて、なぜか。

「人たらし」なのである。

窮地に陥ると、おろおろしながらも「どうすればいいか」と
策士として重用する張良に問う。
「なるほど」と思えば、その軍事・外交アドバイスに従う。

百戦百敗、武に自信がないから、
肝要な戦いは、項羽のもとから頼ってやってきた韓信に任せる。
韓信が活躍すれば、自らの領土より広い土地をも惜しみなく与えて応える。

天下統一の事が成ったあと、その韓信を謀反の疑いありとして捕らえた時のこと。

縛り上げて眼前に引き出された韓信に劉邦は各将軍の資質について問う。

  「わしの場合は、何人ぐらいの兵卒を指揮できるだろうか」

  「せめて10万でしょうか」

  「ならばお前はどうか」

  「多ければ多いほどうまく指揮できます」

破顔した劉邦は、「それでは、なぜその程度のわしに捕らえられたのだ」と聞き返した。

  「あなたは、自ら兵を指揮できなくても、上手に将軍たちを指揮なさいます。
   それが理由です」

かつて仕えた項羽は韓信の才能を見抜けず、たびたびの進言も無視し、
警備の衛士としてしか使わなかった。

 
さてそれに先立つ項羽の最期。圧倒的軍勢で劉邦を追い込んだものの、
兵糧が尽きたため和議を成立させ囲みを解き、返り討ちにあって
垓下(がいか)の戦いで劉邦軍に敗れる。

初の敗戦で天下取りの野望が掌からこぼれ落ちた。

自らの力を頼んで獅子奮迅の戦いぶりで敵陣を突破したが、
長江のほとりで自ら首をはね果てた。

いまわの際に、こう言い残した。「武で敗れたのではない。天から見放されたのだ」

この最期について司馬遷は、こう結ぶ。

「(項羽は)われとわが功を誇り、自分一個の知恵に頼って、
歴史の教訓から学ぼうとしなかった」

「彼は自分の失敗を認めず、いっこうに目を覚まさなかった。
天が自分を滅ぼしたのであって戦術がまずかったからではない、
と言うに至ってはとんでもない誤りではないか」

 
人を頼ってその知恵を生かせ。
歴史に学べ。

それがリーダーの資質であると、司馬遷は、2人の英雄の生き様から訴えかけている。

            <感謝合掌 平成27年4月27日 頓首再拝>

【ここを離れないという覚悟】 - 伝統

2015/04/29 (Wed) 18:17:19


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年04月29日)」より


   (致知出版社、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   中国の古い昔、法遠(ほうおん)という坊さんが師匠に弟子入りを願い出た。
   禅門は簡単に入門を許さない。


   玄関で待っていると師匠が現れ、いきなり桶(おけ)の水をバサッとかけた。
   他の志願者は皆腹を立てて帰っていったが、法遠だけは残り続け、入門を許された。

   弟子になって間もないある日、師匠が外出した。
   法遠は蔵に入り、普段は食べられないご馳走をつくって皆に振る舞った。
   ところが、思いがけず予定より早く師匠が戻ってきた。

   師匠は激怒し、法遠を寺から追い出したばかりか、ご馳走した分を
   町で托鉢(たくはつ)してお金で返せ、と要求した。

   法遠は風雨の日も厭(いと)わず托鉢を続け、ようやくお金を返した。

   すると師匠は「おまえが托鉢している間野宿をしていたのは
   寺の土地だから家賃を払え」と迫った。

   法遠はその言葉に従い、また黙々と托鉢を続けた。

   その様子をじっと見ていた師匠は弟子を集め、自分の後継者が決まった、
   と宣言し、法遠を皆に紹介した。


   弊社主催の徳望塾で円覚寺の横田南嶺(なんれい)管長が述べられた話である。

   これに続いて、横田管長はご自分のことを話された。

   横田管長は四十五歳で円覚寺の管長に選ばれたが、
   なぜ自分が選ばれたのか分からない。

   ただ一つ、これかなと思うものがある。

   それは「ここを離れない」という一事。
   どんなことがあってもここから離れない。

   ここを見限らない。
   ここに踏みとどまる。
   自分が貫き得たのはこの一つ。

   それを師匠は見てくれていたのではないか、と横田管長は話されていた。

   ここを離れない…長の一念はここに始まりここに尽きるのではないだろうか。


   国であれ会社であれ家庭であれ、あらゆる組織は
   そこにいる長がどういう一念を持っているかで決まる。

   それがすべてといっていい。


   『致知』三十五年、様々な分野の長にお会いしてきたが、
   すぐれた長には共通して二つの条件があることを強く感じる。

   一つは「修身」、二つは「場を高める」。

   この二点に意を注がない長は長たる資格がない、と断言できる。


   気まま、わがまま、ムラッ気を取り去る。
   修身とはこのことである。

   さらには、公平無私、自己犠牲、先義後利(目先の利益を追わない。
   義務が先、娯楽は後)を率先垂範(そっせんすいはん)することである。

   長が私意をほしいままにして、組織が健全に成長するわけがない。



   次に場を高めること。

   長たる者は自分のいる場に理想を掲(かか)げ、
   そこに集うすべての人をその理想に向け、
   モチベートしていく人でなければならない。

   「適切な目標を示さず、社員に希望を与えない経営者は失格である」
   とは松下幸之助の言葉だが、まさに至言である。


   最後に、最近逝去された経営コンサルタントの船井幸雄さんの晩年の言葉を付記する。

   「四十余年経営コンサルタントをやってきて分かったことがある。
   どうしたら経営がうまくいくか。
   それはそこにいる人が命を懸けている。

   それが第一条件。
   いるところに命を懸ける。
   これが大事」


   長として欠かせない姿勢であり、一念である。

           <『長の十訓』致知出版社>

           ・・・

「一所懸命」という言葉がある。

一所懸命とは、一つところに命を懸(か)けるということで、
武士が先祖伝来の所領を守ることに由来する。

「一生懸命」とは違う。


長く続く会社、老舗(しにせ)には、すべてこの考え方がある。

200年、300年と会社を存続させようと思ったら、一時(いっとき)の利や、
自分の趣味嗜好で方向性や商売替えをすることなど許されないからだ。

自分にはこの舗(みせ)しかない、と思い定め、この場、この商売に命を懸ける。


「ここを離れない」という覚悟。

そこから、自分を高め、老舗としてのブランドを高めるたゆみない努力が生まれる。


どんなときも、一所懸命でありたい。

            <感謝合掌 平成27年4月29日 頓首再拝>

広田弘毅(自ら計らぬ人) - 伝統

2015/05/01 (Fri) 17:45:02


             *佐々木常夫のリーダー論より


城山三郎の「落日燃ゆ」(新潮文庫)を読んで心打たれない人はいまい。

最近の日本の首相の志の低さを見るにつけ、歴代首相の中で広田弘毅ほど
国の行く末を思い、国民のことを考え、自らの命を投げ出したリーダーは
いなかったのではないかと思い読みながら鳥肌が立つほどの感動を覚えた。

城山は広田の一生を感情を交えずに淡々と描いているがその広田と好対照
として取り上げているのが外務省で同期の吉田茂である。
広田は徹底して「自ら計らぬ人」だったが吉田は「自ら計る人」であった。

そうした二人の生き方の差がその後の日本をどう変え、
二人の人生がどう変わったか、興味深いものがある。


広田は福岡県の貧しい石屋の長男として生まれた。
父の徳平は高等小学校を終えたら石屋を継がせるつもりでいたが、
息子の出来がよく周囲の奨めもあって修猷館、一高、そして東大へと進むことになる。

この間、広田は勉強するだけではなく自分の意志で、禅寺に座禅に通い、
町の柔道場にも出かけ、さらに玄洋社で論語を中心とする漢学や漢詩の
講義を聴いている。

修猷館では109名中2番だったし
東大にも入り外交官試験にも受かったのだから相当な秀才である。

彼が普通の秀才と違うのは、己を磨こうとして勉強以外の多くのことに時間を使い、
常に小さいころから日本のためになろうという大きな志を持ち続けたことであり、
これからは軍人ばかりでは日本は守れない、
国のために優れた外交官になろうと考えたことだ。

広田は中学卒業と同時に名を丈太郎から弘毅に改めているが、
これは好きな論語の一節「士は弘毅ならざるべからず」からの命名であり、
子どものときから論語を学ぶことで強い覚悟を固めていったことがわかる。

当時の外務省は幣原喜重郎の時代であった。
幣原は家柄を重んじ、英語は大の得意で語学の達者な「有能者」には目をかけるが
それ以外の人間には無関心であった。

貧乏な家の出で、英語があまり上手くない広田は冷や飯を食わされることが多かった。
事実、昭和2年にはオランダに左遷される。
そのとき広田は「風車、風の吹くまで昼寝かな」と詠っている。

広田には名門と栄誉と社交に代表される外交官生活は親しめなかったし、
それがどうしたという気持ちがいつもあった。

しかし、オランダに左遷されても腐ることなく、
かつてこの国が小国ながら世界を制覇した理由を探ったり、
小国として生きる知恵をこれからの日本のために学んだ。

小国から見れば列強がよくわかるということだが
この左遷の時期に学んだことが後々活きてくる。
まさに左遷を左遷にするのは己であるといえよう。

広田は夥しいほどの書籍を読んだが
一日の最後は常に論語に目を通すことが習慣だったという。

西郷隆盛の座右の書が佐藤一斎の「言志四録」であったように
広田の座右の書は「論語」であったのだ。

広田の同期に吉田茂がいた。
吉田は土佐自由民権運動の志士竹内綱の庶子だが、
横浜の貿易商の養子となり経済的不安はない。
その上、内大臣牧野伸顕の娘を妻に迎えている。牧野は大久保利通の次男である。

このような後ろ盾を持つ吉田は生来の性格もあって、
何かにつけて「自ら計ろう」とする。

これに対して広田は元々世俗的な欲望の薄かった性格に加え
敬慕する先輩山座円次郎や無二の親友平田知夫の突然の死などがあり、
ますます人生に淡白になっていく。

しかし「自ら計らぬ」広田のスタンスが吉田より一歩も二歩も早く
その地位を押し上げ、また逆に「自ら計らぬ」ことが東京裁判での悲劇に繋がる。

「風車、風の吹くまで昼寝かな」と一句詠んだが
軍部の台頭と独断専行は広田にいつまでも昼寝を許さなかった。

広田が駐ソ大使時代に満州事変が起こり、
上海事変、満州国宣言、国際連盟脱退と急転回していく。

こうした中、外交を舵取りできるのはやはり広田だということになり
「計らぬ人」のはずが外相に就任し軍部主導の政治を文民主導に変えていく。

小さいころからの精進と左遷による長い昼寝の間に蓄えた見識が活きてきて、
広田は次第に本領を発揮していく。

昭和10年の国会答弁では「私の在任中に戦争は断じてないことを確信している」
と強い信念を述べているが大げさなことは極力控える広田にとっては珍しく
熱の入った真剣な言葉であったし、命にかけてもという覚悟の表明でもあった。

しかし軍部の横暴はすさまじく広田にとって「外交の相手は軍部」
とまで言わしめる現実に直面し苦悩する。

広田の戦争を避けようとする必死の工作も実を結ばず、
最終的には戦争に突入してしまい日本は多大の犠牲を強いられることになる。

戦後の東京裁判でその戦争責任を追及されることになるが
自分の立場を有利にしようと他人に泥をかぶせる者がいるなかで、
広田は裁判を通じて終始自己弁護せずむしろ有罪になることで
務めを果たそうとしたようだ。

検事団は文官から犠牲者を求めている、そうならば元総理で3度の外相を
務めている自分ではないか、そう考え、広田は裁判の中で最初は弁護士を断り、
「無罪」を主張することを拒否した。

自分には多少なりとも戦争の責任があるという理由からだ。
このような覚悟の行動と自ら計らぬ性格により、最終的には文官としてはただ一人、
絞首刑の判決を受けることになる。

平和を願い獅子奮迅の努力をしてきた男がその努力を踏みにじり
戦争に駆り立てた軍人たちと同じ刑を受けるとは何という皮肉な運命なのか。

キーナン首席検事は「なんとバカげた判決か」と嘆いたという。

しかし広田は不満めいたことは、一切口外せず刑に服した。

先の大戦では日本人だけで250万人が亡くなっている。
これほど多くの犠牲を払った戦争の責任がどこにあったのか、
私たちは正しく知る必要がある。

東京裁判で裁かれたからもうそれでいいというわけにはいかない。
少なくともなんとしてでも戦争を止めなくてはならないと日夜、
知恵を絞り命をかけて戦った広田の汚名は晴らさなくてはなるまい。

「落日燃ゆ」を読みながら日本を戦争に引きずり込んでいった人たちや
不当な東京裁判に強い憤りが湧き上がると共に、最後まで何も語らず
絞首台の露と消えた広田の人間としての偉大さに胸が熱くなる。

揺ぎない信念をもっていた広田だが、
家族には人間味溢れる豊かな愛情で接していた。

名門の子女と結婚し閨閥の力で出世する外交官は少なくない中、
広田は貧しい家の娘、静子と結婚した。
二人は死ぬまで共に愛し合い尊敬しあった仲であった。

静子は夫の覚悟を察知し夫の刑を待たずに服毒自殺をしている。
夫の未練を少しでも軽くしておくためにも
自分が先に行って待っているべきだと思ったのだ。

妻の死を知った広田はその後も家族宛の手紙は最後まで静子宛であったという。
子どもたちも父を心から尊敬し家族の結束も強かった。

このような広田の生き様には

「人は正しいことをしなくてはならない」

「戦争などで殺し合いをしてはならない」

「しかるべき人間は命を投げ出してその責務を果たすべきだ」

といった自らの中に積み上げてきた揺るがぬ信念があり、
そこが現在の政治の指導者と違っていたのだろう。

            <感謝合掌 平成27年5月1日 頓首再拝>

人を活かす(2) 北条早雲の理想 - 伝統

2015/05/03 (Sun) 19:41:47


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

劉邦の策士、軍師として天下取りに活躍した張良は、
太公望が書いたとされる兵法書『三略』に大いに戦略を学んだという。

司馬遷によれば、若き日の張良がなぞの老人からこの書を授けられたと伝えている。

 
場所と時代は変わって日本の15世紀。
戦国武将の北条早雲は、ある日、兵法を学ぼうと、ある坊主から『三略』の講義を受けた。

その冒頭の一節にこうある。


   「それ主将の法は、務めて英雄の心を攬(と)り、有功を賞禄し、志を衆に通ず」

    (人の上に立つ者は、主要幹部の心を掌握し、功績があった者には相応の報酬を与え、
     自らの理想を人々に周知徹底させる)

 
この一節を聞いて早雲は、「もうよい、それで十分だ」と講義を打ち切らせたという。

リーダーの心得は、これに尽きると理解したのだ。
なるほどと思い当たり得心する方も多いのではないか。

早雲という一個の風雲児は、「天下を取る要諦は関東にあり」と見て、
備中(岡山県)から駿河、伊豆に入り、牛の角に松明をつけての機略で小田原城を落とした男。

国を治めるにはまず領民の心を安んじる必要があるとして、
過酷だった前領主による高税を減免し、農民の医療、農地の整備に資金を投入。領
民は新領主の徳を慕った。

早雲は「自分たちの国」の意識の芽生えた農民たちを組織して軍団を運用し、
従来の武士団のみの軍事を大きく改編した。

早雲は努力を怠らない人だった。
「人は、人目にそれと顕わに見えない隠れたところでの努力が大切なのだ」
との言葉を残している。

 
そして、その考え方を「二十一か条の教訓」として若い部下たちに説いた。

「神仏を信じる事」「早起きする事」から始まり、礼儀、生活の全般にわたるが、
以下の諸点は時代を超えて通じるものがある。

「刀、衣裳などは、人のようによくしたいと思ってはならぬ。見苦しくなければそれで良い」
「懐には常に書を持て」
「良友を求めよ。良友とは、学問の友である。悪友を除け。
悪友とは、碁、将棋、笛、尺八の友である」

身を飾り遊ぶ閑があれば、学び、心を磨け、ということだ。

 
後に、後代の北条氏が籠る小田原城を豊臣秀吉軍の一角として攻め
開城させた徳川家康は、百日に及ぶ攻囲戦で籠城した北条方の寝返りが一人しか出ず、
敗戦後、当主の氏直(うじなお)の高野山落ちに臣下の多くが従ったのを見て、こう評している。


  「早雲以来、代々受け継がれてきた方針が正しく行われ、諸士もみな節義を守った」と。

英雄の心を攬(と)り、志は衆に通じたのである。

            <感謝合掌 平成27年5月3日 頓首再拝>

【おおらかで愛情深い人】 - 伝統

2015/05/06 (Wed) 18:44:54


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年04月18日 )」より

   (赤根祥道氏の心に響く言葉より…)

   豊臣秀吉は、戦の仕方についてこう語っている。

   「軍(いくさ)は六、七分の勝を十分となす。降人を打ち果せば、
   とても遁(のが)れぬ道なりと、敵思い定めたらば、いよいよ強くなるものぞ。
   城を攻める謀(はかりごと)に、一方明けて攻むるも、敵に遁る道を知らせて、
   早く勝利を得んためなり」

   つまり、一方だけ逃げ道を開けておけと言うのである。


   また、こんなエピソードもある。

   あるとき、家臣が辞めたいと秀吉に申し出た。
   まだ、秀吉が一武将に過ぎなかったときである。

   普通ならば、理由を問い質すか、あるいは腹を立て怒鳴り散らすか、
   いずれにせよ心中穏やかではいられないだろう。

   ところが、秀吉はその家臣を招き入れ、
   自分の手で茶をたて、脇差などを与えている。

   「何方へ行きても、思わしくなくば、また帰り来るべし。
   いつにても抱き得さすべし」

   こう言って送り出し、
   また帰ってくる者については喜んで迎え入れたと言われている。


   こういう部下を思う気持ちがあればこそ、
   部下から信頼され、慕われるのである。

   常に相手の身になって考え、愛情を持って接していけば、
   注意したとしても必ず理解してくれるはずである。

   心が人を動かすのだ。

         <『この“心がけ”が出来る人 できない人』三笠書房>

            ・・・

中国の項羽と劉邦の有名な話がある。

項羽は武芸に秀で身長は180センチの大男。

また、項羽の軍は劉邦の軍とは比べようのないほど勇猛果敢で連戦連勝、
そして、部下の失敗は絶対に許さなかったという。

また、敵対する城の住民や将兵は皆殺しにしていったので、
その噂が広まり、かえって反抗する敵と城は増えていった。
降伏したら皆殺しにあうと分かっていたらからだ。


その反対に劉邦は、降伏した者は助け、味方の軍に引き入れた。

一言でいうなら、項羽は「苛烈(かれつ)」だが、劉邦は「おおらか」。
どちらが勝ったかは言うまでもない。
四面楚歌となって、追い詰められたのは、項羽だった。


自分の味方だった人を敵にしてしまう愚を犯すことは世に多くある。

それが、自分に近ければ近い人であるほど、敵になったら手ごわい。
相手に、厳しく接すれば、厳しく対されるからだ。


自分の出身校や、以前勤めていた職場などの悪口を言う人も同じで、
せっかく在籍していたのに、そこに関係する人たちを敵にまわしてしまう。

人のご縁をぷっつり切ってしまう人だ。

おおらかで愛情深い人でありたい。

            <感謝合掌 平成27年5月6日 頓首再拝>

批判してくれる人は大事にせんとあかん - 伝統

2015/05/07 (Thu) 19:57:25

         *Web:東洋経済ONLIN(2015年04月09日)より


幸之助は、「厳しく批判する人」を大事にした~江口 克彦 :故・松下幸之助側近


立花大亀(だいき)という有名な老師がいた。
臨済宗大徳寺派顧問で政財界人と幅広い交友があった。
2005年8月25日、105歳で亡くなった。

戦後、荒廃した大徳寺を再興した老師として有名である。

当然、管長になる人であったが、
ご承知のように、禅寺、とくに本山の管長は結婚してはいけない。
ところが、この大亀老師は「わしゃ、管長なんかなるより、女のほうが好きだ」
といって結婚してしまった。

管長を捨てた強者(つわもの)。
だから、発する言葉も周囲や相手を気にするという様子もなく、いわば、「言いたい放題」。
そこが、かえって多くの政治家、経営者にとって魅力的であったのか、
政財界トップが交流していた。松下幸之助も、そのひとりであった。


《「商売人のくせに」と松下を批判》

政財界の人たちが長い付き合いをしていたから、
この老師に、なにがしかのシンパシーを感じていたのだと思う。
とはいえ、松下幸之助の批判が激しくなった時期があった。

「商売人のくせに」などというようなことを、何かにつけて言い始めた。
私は、禅僧の老師とはいえ、そういう発言はないだろう、
と内心、不快、憤りを感じていた。

そのようなある日、松下が、私に、
「今度、大亀さんと食事しようと思うんやけど、連絡して、予定をとってくれ」と言う。

さすがに、松下さんも、腹に据えかねて、大亀老師に「一言、なかるべし」なのかと思った。
「ああ、きみも一緒に食べよう」。そこで3人で食事をすることになった。

私は、どうなるものやら、と案じつつ、食事に加わったが、
老師が突然に、「松下君、立ちなさい」。

松下が立つと、いきなり、その背中をトンと叩いて
「あんたは、姿勢が悪い。しゃんとしないとあかん。背筋を伸ばしなさい」と一喝する。
松下は、笑顔で「姿勢があきまへんか」と言って、自分で、背を後ろに伸ばした。
「そうそう、松下君、そういう姿勢を心掛けんと」。


《次々に「松下幸之助批判」を展開》

歳は松下より5歳若かったので、君付けはないだろう、と私は、思っていたが、
松下は、気にとめることもなく、「大亀さん」あるいは「ご老師」と言っていた。
食事が始まると、松下が笑顔で、

「ご老師、私もね、このごろ、まあ、こういう立場ですからな、あんまり周囲のもんが、
なにも言うてくれませんのや。それでね、今日、ご老師においでいただいたんは、
なんか、私に注意すべきこととかね、あれはあかんとか、こういうことをせんといかんとかね、
そういうことがあったら、教えてほしいと思いましてね」

と言う。傍らにいた私は、呆気にとられた。
あれほど、ひどく松下の批判をしているのを知っているのに、と思った。

すると、ここを先途(せんど)とばかり、大亀老師は次々に松下を前に、
「松下幸之助批判」を始めた。松下は、

「なるほど、そういうところ、私もは気ぃつけんといけませんな」
「そういうことは、これから注意しますわ」。

1時間ほど、松下批判をする大亀老師、「なるほど」と聞く松下。
「まあ、松下君、そういうことだ」と大亀老師の話が終わったところで、
松下が「いや、まだ、ありませんか」と言う。

大亀老師が話す。と、松下が、
「なお、ありませんか。ご老師の話は大変参考になりますわ」。


終わって、玄関から、門まで見送る私に、
大亀老師が言った一言がいまなお、私の耳に残っている。

「あんた、松下さんは、偉い人やな。あんな偉い人はいない」。
それ以降、大亀老師は、松下を誉めることはあっても、批判することはなかった。


《批判者が応援者になる、松下流の人心掌握法》

朝日新聞のK氏も、松下批判をする人であったが、松下が、声をかけて、
同じように自分の問題点、欠点を教えてほしいと直接、話を求めた。

この人も、帰るとき、私に「松下さんは、凄いね」。

ともかく、松下幸之助は、自分を批判する人を遠ざけるのではなく、
むしろ、呼んで批判を大いにさせた。
結果、批判者が応援者になった。

これが松下流の人心掌握法かと感心した。
批判者を遠ざけるのではなく、むしろ、直接、丁寧に批判を聞く。
そして、その批判を聞き流すのではなく、しっかりと受け止め、
納得のいくことは素直に、みずから改める努力をしていた。

松下は、私が経営者になってから、時折、こう言っていた。

「きみな、一生懸命、経営をして成果を上げているけど、
自分で気づかん問題点もいっぱいあるわ。
だから、いろいろ批判する人も出てくるけど、そういう人を大事にせんとあかんよ。

部下でも同じことや。周囲は、ええことばかり、きみのご機嫌をとるようなことばかり言うわ。
まあ、すすんで、経営者、指導者に、諫言してくれる部下とか、
直言してくれる人を大事にせんとな。

家康も、主君に対する諫言は、一番槍より値打ちがあると言うてるやろ。
あんた、こういうことに気を付けないとあきませんよ、こういうところは直さんとあきませんよ、
というそういうことを言ってくれる人を、意識して大事にするということやね」


松下幸之助という人は、さまざまな批判を素直に受け止めながら、
それによって成功したと言えるかもしれない。

   (http://toyokeizai.net/articles/-/61786

            <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

人を動かすのは「人徳」 - 伝統

2015/05/09 (Sat) 19:31:08


         *Web:東洋経済ONLIN(2015年02月27日)より
              ~江口 克彦 :故・松下幸之助側近

松下幸之助を見てきたが、もちろん、力、指示、命令もあったが、
それ以上に、徳を磨く、徳を養う、そういうことを心掛けていたし、
常に人間的魅力、徳で、部下を、社員を動かしていた、

いや、松下の徳に感動して部下が、社員がみずから、率先して、
実力以上の力を発揮して動いていた。だから、松下電器は世界企業にまで
成長することが出来たと思う。

まさに、松下幸之助の経営は、
「徳」に重きを置いた経営であったと言っても過言ではない。
松下の人間的魅力、人徳で、経営を進めていたのだと思う。

時折、話していたが、「経営は、社員が働いてくれるおかげ」と言っていたが、
私から見れば、まさに、松下幸之助の経営は、「人徳経営」と言える。


「人間が人間を動かすということはな、これは、なかなか難儀なことや。
力で、あるいは、命令で、あるいは、正しい理論で動かすということも、
それはそれでできないことはないけどね。

これをやらなければ、命をとる、奪う、まあ、殺すと、そう言われれば、
たいていの人は命が惜しいからな、不承不承でも、言われた通りにやるということにはなる。

けどな、いやいややるのでは、なにをやっても大きな成果は出んわけや。
やはりね、武力とか金力とか権力とか、うん、知力もそやな、
そういうものだけに頼っておったのでは、本当に人を動かすことはできん。

むろんやな、それらの力は、それなりに有効に活用せんといかんとは思うけど、
なんと言っても根本的に大事なのは、徳、人徳やな、それをもって
、いわゆる心服させるというか、ついていこうと思わせることやな。


お釈迦さんは、偉大な徳の持ち主やったと思う。
お釈迦さんの言ってることが、大衆の心を打ったということもあるけれど、
きみ、お釈迦さんの徳の前では、狂暴な巨象でさえ、跪(ひざまづ)いたと言われてるそうや。


まあ、そこまでいかんでも、指導者、経営者には、部下から、社員から、
人々から慕われるような、徳というか、人間的魅力があってはじめて、
指導者、経営者たる資格があるということやね。

だからな、指導者、経営者はな、努めて自らの徳性を高める努力を、
日頃から、しておかんといかんな。

指導者、経営者に反対する者、敵対する者もおるやろう。
それに対して、正しいからと言って、対応する、あるいはある種の力を
行使することもいいが、それだけに終わるとな、それがまた、
新たな反抗を生むことになってしまうわけや。

力を行使しつつも、いや、それ以上に、そうした者をみずからに同化せしめるような
徳性を養うために、自分の心を磨き、高めることを怠ったら、あかんな。
部下は、徳がないとついてこんわ。わしもまだまだやけどな」


ぽつりと、話してくれた季節は、冬。
森閑と静まり返った真々庵の座敷で、庭を眺めながら、話してくれた。

http://toyokeizai.net/articles/-/60352?page=2

            <感謝合掌 平成27年5月9日 頓首再拝>

栗林忠道(散るぞ悲しき) - 伝統

2015/05/11 (Mon) 19:40:45


(安倍首相の米国議会での演説で触れておりました、栗林忠道陸軍中将について)

             *佐々木常夫のリーダー論より

栗林忠道は、1911年長野県松代の生まれ。
長野中学を出て陸軍士官学校から陸軍大学に進み、次席で卒業する。

卒業後、アメリカに駐在武官として渡るが、
フランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派の知米派であり、
国際事情にも明るく、経済力や軍事力で圧倒的な米国を知り抜いていたため、
対米開戦には終始批判的であった。

‘44年(昭和19年)6月、陸軍中将であった栗林は、硫黄島防衛の任務に就く。

硫黄島は、赴任直後に陥落したサイパン島と東京のちょうど中間地点にあり、
米軍がここを奪取すれば、B29が直接東京に空襲が可能という枢要な位置にある。

ここを守りきり、首都東京を大空襲にさらさないことが栗林の任務であった。
栗林には米軍を釘づけにして、時間を稼いでいる間に終戦交渉を進められるのでは、
ということを期待していた向きもあった。

栗林の作戦は「勝つこと」ではなく「一日でも長く持ちこたえること」であった。

硫黄島は5日間で落とせると米軍は考えていた。
事実、それまでのサイパン、テニアン、グァムなどあっという間に米軍の手に落ちた。
その硫黄島を栗林は36日間も持ちこたえたのだ。

米軍の死傷者28689人(戦死6821人)、日本側の死傷者20933人(戦死19900人)と
死傷者の数は米軍のほうが多かった。

日本軍の3倍以上の兵力および絶対的な制海権・航空権を持ち、
予備兵力・物量・補給線すべてにおいて圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、
これほどの戦いを見せたのである。

ベストセラー「硫黄島の星条旗」を書いたジェームズ・ブラドリーは
「アメリカを最も苦しめ、それゆえにアメリカから最も尊敬された男」と
栗林を称賛している。


アメリカの国立アーリントン墓地には、6名の海兵隊員が
硫黄島の擂鉢山の山頂に、星条旗を押し立てているモニュメントが設置されている。

硫黄島の戦いにおけるアメリカ兵の死傷者の多さのすべてはメディアによって
アメリカ中に報じられ、この戦いはアメリカの負け戦ではないかとまで言われた中で、
やっと陥落させたときのアメリカ軍の感動を表している。


このような奇跡的とも思える戦闘をなしえたのは、
栗林の抜きんでたリーダーとしての力量である。

栗林が優れたリーダーであったのは、
第1に冷徹に現実を把握したこと、
第2にその現実に基づいた正確な目標設定をし、かつその確実な実行を成しえたこと、
そして最後が2万人という大軍の全員を一つに束ねる人間力があったことである。

栗林が硫黄島に着任し、まず最初にしたことは、
自らの足で島の隅々まで見て回り、地形と自然条件を頭に叩き込んだことである。

そして過去、日本軍が常道としていた
米軍が上陸したところを集中的にたたくという水際作戦が、
この島では不利であることに気づき、

他の作戦――すなわち島中、地下10mに坑道を掘り、
全長18kmにおよぶ地下要塞を作り上げ、
米軍を上陸させたあとに攻撃する作戦――に切り替えた。

さらに栗林は、兵士たちに日本陸軍のお家芸の「バンザイ突撃」による玉砕を厳禁した。
「バンザイ突撃」はどうせ勝ち目は無いから、捕虜になるより美しく死のう、
という個人の美学によっている。

栗林は自分たちの目的はできるだけ戦局を長引かせ、
一人でも多くの敵を殺すことであると考えたので簡単に死ぬことを許さなかった。
それが栗林が兵に配布した「敢闘の誓い」であった。

こうしたことは、目の前の現実を直視し、
合理的に考えさえすれば、当然行き着く結論であった。

観察するに細心で、実行するに大胆さは、リーダーに求められる資質である。

もう一つ、彼のリーダーとしての強みは、上に立つものとしての人間性であった。

着任早々、住民800人を全員戦火から救うべく疎開させたが
これは関係のない人々を戦火に巻き込んではならないという配慮である。

この硫黄島は、わずかに22キロ平方メートル、世田谷区の半分くらいの島であるが、
最大の問題は摂氏60度にもなろうという暑さと、
水は時々降るスコールを貯めて飲むしかないという慢性的水不足であった。

栗林は「水は血の一滴」とし、将校の特権を許さず、
将校も兵士も同じ量の水とし、食事についても上下区分なし。
自分も含め、皆同じ食事とした。

栗林は司令官として、もっと安全な270Km日本よりにあった父島で、
指揮をとっても良かったのだが、彼は部下が守る硫黄島に居を構えた。

指揮官は常に最前線に立つべしというのが、信条だったからだ。

栗林には部下と運命を共にするという明確な意思があり、
それがすべての兵に伝わっていた。

兵と同じ食事をとり、飲料以外は、兵と同じ一日コップ一杯の水しか
使わずという姿を知って「この司令官には付いていこう」と
全軍の気持ちは一致し、士気を高めた。

兵と共に突撃して死んだ指揮官は、陸軍の歴史の中で栗林のみである。


もう一つ栗林の特徴は、軍人であると同時によき家庭人としての姿で、
このことは、家族への手紙によって知られる。栗林は着任してから、
日本軍が敗れる間の約8か月の間に、家族に41通の手紙を出している。

どの手紙も心配を懸けまいとする無事を伝える文章から始まり、
冒頭の一文は必ず「ご安心ください」で結ばれている。

妻の義井、太郎、洋子、たか子という3人の子どもたちへ、
留守先の心配や生活の注意など、几帳面で情愛溢れる家族思い、
子煩悩な人柄が彷彿とさせる内容である。

特に出征のとき9歳であった末っ子のたか子に対する文章は
「たこちゃん」と呼んでことのほか可愛がっている。

2万余の兵を束ねる最高司令官が手紙――といっても内容は実質的な遺書であったがーー
子どもたちにやさしく語りかけ、出征前にしようとしてできなかった
お勝手の床板の隙間風を気にしたりしている。

家族を大切にする男だったからこそ、戦場では、目下の者にも気さくに接し、
さまざまな局面で、部下に配慮ができる異色の指揮官なのであろう。


昭和20年3月17日、栗林は最後の決別電報を大本営に打電している。
その最後に「国のため、重きつとめを果たし得で、矢玉尽き果て散るぞ悲しき」
としている。

国のために死んでいく兵士を栗林は「悲しき」と言わずにはおれなかった。
しかし国運を賭けた戦争のさなかにあっては許されなかったことだったようだ。

この「散るぞ悲しき」は新聞報道では「散るぞ口惜し」として伝えられた。

エリート軍人たる栗林が、いたずらに将兵たちを死地に追いやった
軍中枢部へのギリギリの抗議の表現でもあった。

栗林は知米派で開戦に反対していたこともあって、
中枢部から遠ざけられ、万に一つも勝ち目の無い硫黄島に出されたという。

もし、彼のような国際感覚に優れ、現実直視ができるリーダーが
大本営にいたら先の戦争も変わっていただろうと悔やまれる。

            <感謝合掌 平成27年5月11日 頓首再拝>

指導者の条件10(価値判断) - 伝統

2015/05/12 (Tue) 18:45:37


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は人、物すべての価値を正しく知らねばならない。

藤堂高虎は、微賤から身を起こして秀吉に認められ、ついで家康にも重用され、
伊勢三十二万石を与えられるとともに、外様大名としてただ一人、
徳川幕府の政治の中枢に参画した異例の人物である。

その高虎がある時、渡辺了という有名な勇者を二万石という非常な高禄で召し抱えた。
それをみて他の大名が、「いくら渡辺了が強くても大勢に一度に襲われたら
勝てないではないか。一人に二万石も出すのは無駄だ。
わしなら、二百石の士を百人召し抱えるだろう」と言って笑った。

これを聞いた高虎は「それは違う。名もない武士が百人、二百人固めていたとて、
相手は踏み破って通っていくだろう。しかし、あの武名鳴り響く渡辺了が守っている
と聞けば、たいていの者は恐れて攻めてはこないものだ。その価値は比べものにならない」
と言ったそうである。

はたせるかな、その後の多くの合戦において、
藤堂家は渡辺了の働きによって、いつも非常な戦果をあげたという。
これは、物の価値が分かるということだと思う。

ちょっと考えれば、他の大名のいうことの方が正しいように思えるかもしれない。
しかし、渡辺了の豪勇ぶりは世間周知のことであり、
そのことがいわば無形の価値となっている。

その無形の価値ともいうべきものを高虎は二万石出しても惜しくはない
というほどに高く評価したのであろう。
正しい価値判断が出来るということは、人間誰でも必要だけれども、
特に指導者にとってこれは欠かすことの出来ない大事な要件だと言えよう。

妙なたとえだが、骨董屋が品物を見てその値打ちがわからないようでは、
骨董屋として商売していくことは到底出来ない。
それと同じ事である。

会社の経営であれば、人一つとっても、十万円の月給でも高すぎる
という人もあれば、百万円でもまだ安いという立派な人もあろう。
その価値判断がある程度出来ないようでは人は使えない。

そのほか、会社の経営力、技術力、資力、さらにはそれらを総合した経営の実力を
正しく知らなくては、経営を誤ることになってしまう。

同様に国家経営でも、一国の歴史、伝統の価値、総合した国力などに対する
正しい認識の元に政治が行われなくてはならない。

そうした価値判断が出来るということが、指導者として極めて大切だと思う。

            <感謝合掌 平成27年5月12日 頓首再拝>

人を活かす(3) 三原 脩(おさむ)の遠心力野球 - 伝統

2015/05/14 (Thu) 17:42:39


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

日本のプロ野球。第一次の巨人軍黄金期だった昭和30年代に、
日本シリーズで水原茂監督の巨人を三年連続で破ったチームがある。

知将・三原 脩(おさむ)率いる西鉄ライオンズだ。

弱小だった福岡のチームを鍛え上げた手法は、選手個々の能力を最大限に抽き出す三原流だ。
「三原魔術(マジック)」と呼ばれる。

水原、川上哲治と引き継がれる巨人野球は徹底した管理野球。
対する三原野球は、選手の個性と自主性を重んじて、自己管理を強いる。

宿舎での門限なし、飲酒自由と聞けば、管理野球に対する三原の手法は、
「放任野球」と受け取られがちだが、違う。
三原自身が自伝でこう語っている。

「選手は惑星である。それぞれが軌道を持ち、その上を走ってゆく。
この惑星、気ままで、ときには軌道を踏みはずそうとする。
そのとき発散するエネルギーは強大だ。

遠心力野球とは、それを利用して力を極限まで発揮させる。
私が西鉄時代に選手を掌握したやり方である」


対する管理野球は「求心力野球」だという。
目標に向かって心をひとつに突進。
規則で選手をしばり、口封じまでして目的を達成する。

「やりたいことをやれ、言いたいことは言え。
ただし与えられたことはきっちりとやらねばならない」。それが遠心力野球だ、と。

青バットの大下弘、天才スラッガーの中西太、
向こうっ気の強い好打者の豊田泰光、
試合が終わればとことん飲みまくる天衣無縫、
個性派ぞろいのチームは、「野武士軍団」と呼ばれた。

そのサムライたちを三原はどう操縦したか。

昭和33年の日本シリーズ、西鉄は巨人の前に三連敗。
一矢報いたものの後がない。第五戦も2対3で九回の裏。
無死二塁の最後のチャンスでバッターボックスには豊田が入る。

三原は豊田を呼んで耳打ちする。

「どうだい、いっちょう打って出るか」。

豊田は即座に答える。

「ここはバントでしょう。一点でタイですから」

〈しめた、と思う〉と三原は振り返る。

バントで送りたいが、気の強い豊田にバントを命じれば、
「打たせてくれ」というに違いない。心の迷いが生まれる。

自らバントを決断させれば、その自覚からしくじりはしない。
心理読みの妙である。

豊田の送りバント成功が同点打を呼び込んで蘇った西鉄は、
延長10回、意気に応えた投手稲尾和久のサヨナラホームランで勝利する。

残り二試合も気をよくした稲尾が疲労を押して連続完投勝利、
西鉄は三連敗の後の四連勝。奇跡の逆転優勝で三年連続
巨人を降(くだ)して球界盟主の座をもぎ取ったのである。

魔術(マジック)のタネは、緻密に仕組まれていた。

            <感謝合掌 平成27年5月14日 頓首再拝>

チャーチル(英雄を支えた内助の功) - 伝統

2015/05/16 (Sat) 17:46:27


             *佐々木常夫のリーダー論より

サー・ウィンストン・チャーチルは1940年から45年にかけて
イギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し第二次世界大戦を
勝利に導いた言わずと知れたイギリスきっての英雄的リーダーである。

90歳で亡くなったとき平民でありながら国葬となり
ウェストミンスターホールは3日間弔問のため30万人が訪れたという。


チャーチルは1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業し
騎兵隊少尉に任官、キューバやインドに赴き軍人の仕事と従軍記者の仕事をする。

1899年、ボーア戦争のとき捕虜となるも脱走し11日間かけて味方のいる地に
辿り着いた英雄的行動が彼の知名度を飛躍的に高め政治家として成功する礎を築いた。

そもそも彼は政治家として名を残すことが最終目的であり
そのためには軍人になって功を立てるのが近道という動機から軍隊を選んだのだ。

母への手紙で「青年期に英国の部隊とともに戦闘に参加することは
政治家としての重みを与える。私はこの世で何らかのことを成し遂げる
という運命を信じている」と書いているが彼には幼少の時から
父の跡を継いで国政の場に出たいという強く熱い思いがあった。

そのような動機であったからともかく結果の出るチャンスを掴もうと
あらゆるコネを使って配属地などの希望を通してきた。

前回までに、広田弘毅は「自ら図らぬ人」吉田茂は「自ら図る人」と書いたが
チャーチルの自ら図るやり方は吉田茂の比ではなく、
厚顔無恥とも喜劇的ともいえるほど露骨なものであった。

このことはチャーチルが過剰なまでに己の能力に自信を持ち、
その能力をこの世で実現することが自分のミッションだと強く信じていたからで
そういう意味では並外れた資質をもっていたともいえよう。

栄達のためには手段を選ばぬ野心家でありながら、
彼が偉大な政治家であった資質を挙げると

まず第一は尋常でないほど危険に怯まぬ勇気があること、
二つ目が政治課題に関しては鋭敏な嗅覚があること、
そして最後の三つ目が目標に向かって進むエネルギーの激しさである。

この3つの特徴はまさに持って生まれた資質といってよく、
本人の努力も加わり彼をして類まれなきリーダーに仕立て上げた。

彼にはどうしても政治家になるという強烈なパッションがあったため
軍人時代には自己教育のため膨大な読書をする一方、
演説技術の向上のためにも努力と工夫を重ねた。

そういうこともあって、後年「第二次世界大戦回顧録」で
ノーベル文学賞を受けることになる。

また、その努力と工夫の積み重ねは
ユーモアとウィットに富んだ数々の名言を多く残すことになる。

特に「悲観主義者はいかなる機会にも困難を見出し、
楽観主義者はいかなる困難の中にも機会を見出す」という言葉は

私が家族の問題を抱えながら仕事にも傾注していたとき
私の大きな勇気を与えてくれた座右の銘である。

他にも「成功とは意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである」
「絶対に屈服してはならない、絶対に、絶対に、絶対に」
「実際、民主制は最悪の政治形態だ。これまでに試みられたあらゆる政治形態を除けば」
など含蓄のある名言だ。


チャーチルは危機の時代の優れた指導者とも言われているがその偉大さは二つある。

一つは優れて歴史観のある指導者であること、
そしてもう一つは問題解決能力に優れておりあらゆる問題を解決しないと
気が済まないことで

このような性格は戦争など非常時のリーダーに欠かせない資質といえる。

一般的にリーダーは人間力が大事だといわれることがあるが
それはある意味、平時のリーダーに求められる資質かもしれない。

チャーチルは危機の時代の政治家として出色であったが彼を支え彼がその能力を
十二分に発揮できた大きな要因の一つに伴侶・クレメンティーンの存在があった。

二人は57年間の結婚生活を通じ、愛情あふれる手紙を数多く交わしている。
ケンブリッジ大学にあるチャーチル文書館には二人が交わした書簡1700通余りが
保管されている。

お互いの献身は生涯揺らぐことはなく二人の絆は例のないほど強いものだった。
クレメンティーンは人生のすべてを夫のためにささげた。

内気で人見知りする性格ではあったが
夫を守るためなら相手が誰であろうとも戦うことを躊躇しなかった。

直観的で即断即決型の夫とは対照的に慎重で客観的に物事を見ることができる
クレメンティーンの存在は彼の政治家としての成功に大きく貢献したといってよい。


二人が初めて会ったのは1904年、29歳と19歳であった。
その後再会までに4年。全くの偶然で食事の席が隣同士になる。

いかつい容貌と自己中心的、そして女性と会っても自分のことか政治のことしか
話さないおよそ女性に持てないチャーチルだったが二人は意気投合した。

クレメンティーンは当時評判の美人であったが、
父母の不幸な結婚・離婚などを見て男性については保守的で慎重な性格であった。

しかし向上心が強く政治にも関心があったため
普通の女性なら退屈であろう彼の政治の話は
進歩的社会意識を持つ彼女の心の琴線に触れた。

政治が人生のすべてであるチャーチルにとって
自分の世界に関心を持ち適切なアドバイスを与えてくれる伴侶を見つけた
僥倖を神に感謝しなくてはならない。

娘のメアリーは

「母が父と議論を戦わせる意思と勇気と能力を備えていたことが
二人の人生にとって計り知れないプラスとなった」

と書いている。

最近の日本の政治家にもさまざまな伴侶の例を見るが
クレメンティーのような伴侶だったらとつい考えてしまうことがある。

リーダーが実力を発揮できるかどうか、
あるいは自分の言動を振り返れるかどうかは伴侶の器も大きく影響するのではないか。

第二次世界大戦時、国のリーダーの地位にいたときでも
国家の最高指導者となった夫の立ち振る舞いについてきめ細かく目を配り、
時として苦言を呈することをはばからなかった。

1940年にチャーチルが首相就任後間もないときに
夫にあてた手紙はその一例で、縷々述べた後に

「私としては国家とあなたに仕える人たちが貴方を称賛し尊敬するだけではなく
貴方を愛さなければ耐え難いのです」

としている。

彼女の指摘の内容もさることながら
それを手紙で相手に伝えているところに彼女の聡明さを感じる。

チャーチルに苦言できたのは彼女以外には労働党首として挙国一致内閣に参加した
クレメント・アンリーと参謀総長のアラン・ブルック陸軍大将だけということ
からみても彼女の役割の大きさがわかる。

メアリーによるとチャーチルのエゴは相当なものであったようで
クレメンティーンはそのわがままに付き合いきれず時々一人長旅に出たようだし
派手な夫婦げんかも珍しくなかったようだ。

クレメンティーンが92歳で亡くなったとき、5人の子供のうち3人は先立たれ、
残る2人のうち人並みの幸せを味わっているのはメアリー一人だけという
必ずしも子育てに成功したとは言えなかった。
おそらく彼女の人生のすべてはチャーチルのためにあったのだろう。

一人の英雄は一人だけで英雄になれるわけではない。
特に内助の功は一般の人が考えるより大きなことではないかと感じる。

            <感謝合掌 平成27年5月16日 頓首再拝>

指導者の条件11(過当競争を排す) - 伝統

2015/05/18 (Mon) 19:44:02


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は自他相愛、共存共栄の精神を持たなくてはならない

賢人、墨子の言葉に大略次のようなものがある。

「何が天下の害かといえば、国と国とが攻め合い、家と家とが奪い合い、
人と人とが殺し合うことである。この害は何から生ずるかといえば、
互いに愛し合わないことから起こる。

自国を愛することを知って他国を愛さない。
自分の家を愛することを知って他家を愛さない。
我が身を愛することを知って他人を愛さない。

そのようにお互いに愛し合わないと、強い者が弱い者をとらえ、
富者は貧者を侮り、貴き者は賤しき者に驕り、姦智にたけた者は愚者を欺くだろう。

およそ天下の禍害怨恨の起こる元は愛し合わないことから生じる。
だから、互いに愛し合い、利し合うことが大切である」


これは、改めて説明を付け加える必要もない。
まことにこの通りだと思う。

こうした立派な教えが二千五百年も昔に説かれていたのだから、
この通り人々がやってきたら、今頃はすばらしい世界が出来上がっていたに違いない。

それがそうなっていないというのは、人々が、このことの大切さを真に覚っておらず、
従ってまた、こうしたことに徹していないからだと思う。

この墨子の言葉は、いわゆる過当競争を戒めたものだとも考えられる。
適正な競争、ルールに則った競争は進歩を生み、向上をもたらす。

しかし、ルールを無視し、力で相手を倒そうとするような競争は、これは過当競争である。

国と国とが過当競争をすれば、これは戦争になる。
個人と個人の過当競争は喧嘩や争いとなり、時には殺人にまでなる。
企業同士の過当競争は、いわゆる資本の横暴といった姿となり、
中小企業の倒産などを招来する。

そのように過当競争は、相手を傷つけ、さらには社会全体、世界全体を混乱させ、
そのことが、やがては自らをも傷つけることになるのである。

結局、お互いの利害というものは大きくはみな共通しているのであって、
自分を愛するごとく他を愛し、自国を愛するごとく他国を愛するところに、
真の幸せも、平和も生まれてくると言えるだろう。

指導者は、そうした自他相愛の精神に徹して、過当競争というものを排除し、
適切なルールを求めつつ、いわゆる共存共栄の実現に心しなくてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成27年5月18日 頓首再拝>

人を活かす(4) 三原 脩(おさむ)のチーム再生魔術 - 伝統

2015/05/19 (Tue) 22:52:18


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


卓越した選手起用で「魔術師」と呼ばれた三原脩(おさむ)は、
プロ野球監督として6度のリーグ優勝、うち4度の日本一を果たしている。

西鉄では監督就任後、まず、打の中心に青バットの大下茂をトレードで得て据えた。
四国に超高校級の逸材ありと聞けば、その中西太を説得して入団させた。

だが三原の真骨頂は、埋もれがちな人材の個性と潜在能力を見抜き、
チャンスを与え、育て上げたことにあった。

水戸商業から入団した豊田泰光は、打撃センスはあるが、遊撃の守備に難点があった。
それでも入団1年目から三原は使い続けた。

土壇場でのタイムリーエラーで勝ち星をふいにした投手から、
「豊田を使わないでほしい」と直訴を受けても方針は揺るがない。

 「エラーで勝ちを失ったゲームより、豊田の打棒でどれだけ助けられたかを考えろ」。

豊田もエラーをすればこそ打撃で挽回しようとする。
そして最強の二番打者として結果を出した。

「欠点を見る前に長所を活かす」。三原の人材起用の要点だ。

 
昭和33年、三連敗から四連勝と奇跡の逆転優勝の日本シリーズで七試合中六試合に登板、
完封一試合を含む四勝すべてをあげた稲尾和久も三原にその才能を見出された。

大分県別府の無名高校を出て、昭和31年のシーズン前に合宿所に現れたひょろりとした
この若者への評価は、「投手として見るべきものはないが、コントロールはいい」。
バッティング投手としてオープン戦に連れて行く。

来る日も来る日も、腕も折れるばかりに打撃投手を務める。若者はめげなかった。

一軍の主力を相手にコントロールにさらに磨きをかけた。
その目の輝きに感じるものがあったのか、三原は稲尾を登板させてみる。
ぴしゃりと押さえる。

繰り返すうちに無名投手が入団1年目で押しも押されもせぬエースに育った。

 
昭和35年、セリーグで万年最下位の大洋に移った三原。
ここでも、またゼロからのチーム造りだ。

大学野球から得た秋山登、土井淳のバッテリーに安定感はあったが、
問題は内野、とくに遊撃手に人材がいないとみると、シーズン途中に、
近鉄の二軍で干されていた鈴木武を「こいつは使える」と見抜いて獲得する。

「どうだ、おれのもとでやってみんか」。
見込まれた鈴木は守備に打撃に“いぶし銀”の活躍を見せる。
三原は、就任一年目の大洋を、いきなりリーグ優勝、さらに日本一に導いた。

「コンスタントに3割を打つ、いつも20勝する一流選手でなくともよいのだ。
ここぞというときに踏んばる。ときに応じては一流をしのぐ二流選手。
そういう選手が私を助けてくれる」。

三原が名付けた「超二流選手」活用論だ。

どんな花も咲き時、咲かせ時を待っている。

それを見抜くリーダーの元で働くほどの幸せはない。

            <感謝合掌 平成27年5月19日 頓首再拝>

毛利元就(戦略とは「戦いを略す」こと) - 伝統

2015/05/21 (Thu) 19:21:34


             *佐々木常夫のリーダー論より

毛利元就は安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主であったが、
中国地方のほぼ全域を支配下に置くまで勢力を拡大し、その優れた智謀と
家臣から慕われた人柄で後世、戦国時代最高の知将と評されている。

1467年、毛利弘元の次男として生まれたものの、家臣の井上元盛によって
所領を横領され城から追い出されるなど、多くの苦難を強いられた末、家督を継ぐが、
西の大国、大内氏と北東の大国、尼子氏にはさまれ、生き残りのため、
小国ならではの様々な駆け引きを駆使することになる。

元就が腐心したのは、武力を用いず、極力平和的解決を優先したことだ。

即ち、長年の宿敵であった宍戸氏には娘を嫁がせ、その関係を修復したり、
近隣の雄、小早川・吉川にそれぞれ三男、次男を養子に出すことで
実力両川家を支配下に置く。

また、大内義弘の後を襲った陶陸房に対しても、
謀略で内部対立を起こさせ相手を混乱に陥れる。
この敵に対する内部分裂戦略は元就の得意とするところで、
幾度もこの作戦を使っては、手ごわい敵を弱体化させてきた。

このため元就は「謀神」とも「謀将」とも呼ばれている。

いったん戦いとなっても、例えば東の大国、尼子氏との最終的な戦いである
月山富田城攻撃においては、当初は相手兵士の降伏を認めず、投降した者を
見せしめに殺すことで、敵兵を城中に押し込めさせ、城内の食糧を早々に消費させた。

そして食料が尽きたころを見計らって、城の前で粥を炊き出して、
城内兵士の降伏を誘ったところ、尼子兵士は続々と降伏し、
無用な血を流さずに勝利できた。

元就の基本的スタンスは、まず置かれている現実を直視し、さまざまな方策を考慮し、
その状況に合わせた最も効果的な策を選ぶこと、特に、無用な殺し合いは避け、
戦いより平和的手段を優先させたことだ。

元就は幼いころから苦労人であったし、己の所領は小さく武力での局面打開は
難しいため、極力、調略や計略による勢力拡大を目指したが、その根底には人の命を
大事にし、戦うにしても、犠牲を最小限にするということを常に考え行動した。

戦略とは「戦いを略す」と書く。

元就の描く未来は、大内氏、尼子氏という大国を破り中国地方の覇者になることだ。
その目的のためにできるだけ「戦いを略し」無駄な血を流さないようにした。

元就はそれを可能にするのは家臣の知恵だけでは難しいと考え、
中国の兵法書を勉強したが、特に「六韜」「三略」を真剣に読んだという。

「六韜」とは中国古代周の軍師、太公望が撰し、「三略」は黄石公が撰したもので
これらの戦略本を、元就はむさぼるように繰り返し読んだ。

加えて、人間の心理を分析しつつ、適切な対応策を打つべく「韓非子」も学んだ。
この本は絶対的な人間不信がベースとなっており、韓非は人間の行動には
常に二面性があることを説いているが、元就にとってこれらの人間の真相を
深く突いた書物がどれほど役に立ったか知れない。

元就は冷静な観察者であり分析者、問題の提起者であったが、
生涯にわたり自己鍛錬に努め、他人や書物から学ぼうとする謙虚さがあった。

それと、いきなり王道を行う王者にはなれないが、
いまの戦国状況をみればなにかを志すものはまず覇者にならねばならぬ。
そのためにはこれらの書物にあるような覇道も致し方ない。
効果的な覇道を行い、力を蓄えたら王道を行うという冷静な決意を秘めていたようだ。

さらに、元就の優れていたところは、常に自分ひとりだけの力に頼るのではなく、
利害関係者との協働を尊んだことだ。

人間一人の力には限界があると考え、一族の結束による組織強化に努めた。
特に一本の矢は折れても三本の矢は折れないといういわゆる「三本の矢」の
逸話は有名だが、3人の息子たちは当然のこととして、
関係者全員の連携、協力、融和を説き、かつ実行してきた。

特に、それぞれの土地の自治を実現しているのは国人衆であり地侍の力であることを
肝に銘じ、重臣を含めた集団指導体制を重視すると共に、臣下についても、
完全に従わせるだけではなく、それぞれの独自性を尊重するという、
今でいえばダイバーシティ経営に務めた。

ダイバーシティとは多様性の受容ということだが、さまざまな異なった考え方や
生き方、境遇の異なる人の立場を受け入れ、多くの関係者の力を結集することで、
組織を強化する経営戦略である。

このことは元就の「武力によらず平和的解決を優先する」という思想にも通じる。

つまり、相手の立場を思いやり、他人も自分も共にWIN-WINの関係を築こうと努力した。

吉田郡山城の増改築の際は、人柱を止め、代わりに百万一心と彫った石碑を埋めるなど、
無益な殺生を止めさせ、ことあるごとに領民や一族の団結を説いたというが、
そのことは元就が理想とした国人領主による集団指導体制の延長戦上にある考え方である。

領民からの人望は厚く、吉田郡山城の戦いでは、兵士2400と共に
領民8000人もが、籠城したという。この話は周辺国にも伝わり、
その後の領国支配に大きく影響した。

常に部下の置かれた状況に応じた対応を考えていたことから、
元就に対し反抗したり裏切ったりする家臣が少なく、人望があった。

信長は「自分の部下はなにをしでかすかわからない、
それにひきかえ元就のいる毛利家では違う」と羨ましがったというが、
それは家臣の事情を考慮しない信長の性格故であり自業自得というものだ。

私も30代前半に、潰れかかった会社に出向したことがある。
毎月大きな赤字を計上し、早急に再建策を作成し実行する必要があった。

そのとき経営のトップ層には当然、その会社に派遣された少数の東レの人間が
占めることになったが、経営の方針や施策をいくらトップが示しても、大多数を占める
その会社の社員が自分の問題としてその気になって行動しなければ成果は上がらない。

私が心がけたのは、
社員一人一人が自分の問題として経営を考え行動していくことだった。

問題点の摘出、その対応策を社員自らに提案してもらい、
会社の問題を自らの問題として考えてもらうやり方をとった。

その会社は1年半で黒字を達成したが、組織と言うのは、それを構成する
人間の納得と協力があってはじめて実効あるものになる。

元就は、常に武略、計略、調略を駆使したが、それは最終的な大きなミッションの
ためであって、根は優しく、人の話を聴き、臣下から慕われる存在であった。

72歳でその戦いに明け暮れた生涯を閉じたが、
仮に元就が関が原の戦いまで生きていたら
その後の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

元就の一生を振り返るとリーダーの姿というのは、
その生きた時代、生きた環境によって大きく変わるということを感じる

            <感謝合掌 平成27年5月21日 頓首再拝>

指導者の条件12(寛厳自在) - 伝統

2015/05/22 (Fri) 18:02:51


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者には適度の厳しさと優しさが必要である。

江戸時代の名君の一人である備前岡山の藩主池田光政がこういうことを言っている。

「国家を良く治めようと思えば、指導者には威と恩の二つがなくてはいけない。
威がなくて恩ばかりでは、甘やかされた子供が教訓を聞かないようなもので、
ものの役に立たなくなってしまう。

反対に威をもって厳しくばかりすれば、一応言うことは聞くが、
本当にはなつかず、結局うまくいかない。

恩をもってよくなつけ、しかも法度の少しも崩れないように賞罰を行うのを
本当の威と言うべきだろう。だから、恩がなければ威も無用となり、
威がなくては恩も役に立たない。

ただ、その際大事なのは下情を知ることで、
それがなくては恩といい、威といっても本当には生きてこないものだ」


まことにこれは至言だと思う。

威と恩ということは、言い換えれば、厳しさと優しさということであろうし、
あるいは叱ることとほめることと言ってもいいだろう。

その二つをともに持って、
しかもそのかねあいを適切にしなくてはならないということである。

優しいばかりでは、人々は甘やかされて安易になり、成長もしない。
かといって厳しい一方では、畏縮してしまったり、うわべだけ従うというようになって、
のびのびと自主性をもってやるという姿が生まれてこない。

だから、そのどちらかに偏ってもいけないわけで、恩威合わせ持つ、
いわゆる寛厳よろしきを得るということが大切なわけである。

ただ、寛厳よろしきを得るということは、
厳しさと、優しさ、寛容さを半々に表すことではないと思う。

厳しさというものはなるべく少ない方がいい。

20%の厳しさと80%の寛容さを持つとか、
さらには10%は厳しいが、あとの90%はゆるやかである、
しかしそれで十分人が使えるというようなことが一番望ましいのではないだろうか。

実際世間には、だいたいにおいて
部下の人に対して「けっこう、けっこう」とゆるやかな態度でいながら、
それでいて皆よく働き成果も上がっているという姿の指導者もある。

それはその人が、何かしら厳しさの芯というかポイントを押さえていて、
それでその厳しさが皆に良く浸透しているからなのであろう。

そういうことは、光政の言葉にあるように、
下情、言い換えれば世間の実情なり人情の機微に通じてこそ出来るのだと思うが、

いずれにしても、指導者は出来るだけ厳しさを少なくして、
しかも寛厳よろしきを得ることができるよう心がけることが大事だと思うのである。

            <感謝合掌 平成27年5月22日 頓首再拝>

人を活かす(5) 武家の知恵 - 伝統

2015/05/23 (Sat) 19:41:18

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

戦国時代から江戸初期にかけて、立花宗茂(たちばな・むねしげ)という名将がいた。

筑後の柳川を拠点に、豊臣秀吉の九州攻めで、少ない兵を巧みに使い数々の武勲を挙げた。
秀吉は、「九州第一の者である」とその功を讃えた。

関ヶ原の戦いでは西軍に付き敗走し奥州に改易されたが、
その後、徳川家康も宗茂(むねしげ)の才を重用し、柳川に戻した。

 
必勝の秘訣について聞かれ知人にこう答えている。

「敵に向かう時に、ただ“進め”とか“○ね”とか命令しても従うものはいない。
常々、上からは下を子に対するように愛情をかけ、下からは上を親と思うように
人を使えば、命令などなくても、人は思い通りに動くものだ」

 
宗茂は、ごますりのイエスマンを遠ざけ、
民には恩を、武士には義を持って報いたと伝えられている。

 
平和な江戸時代に入ると、固定化した組織をどう運用するかが新たな課題となる。

八代将軍・吉宗に政治助言をおこなった儒学者の荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、
『政談』の中で、人材起用法を詳しく説いている。

 
現代語で要点を示すと次のようになる。

  ●人の才能、器量は、まず使って見ないとわからない。見かけだけで判断するな。

  ●人物を判断する時には長所だけを見ればよい。短所を知る必要はない。

  ●自分の好みに合う者だけを使うな。

  ●やらせてみて小さな失敗をくどくどいうな。
   大局に立って、与えた仕事をこなせているかどうかを見ろ。

  ●その人物を使うからには信頼して、仕事を十分に任せろ。

  ●部下からの意見は封じ込めずに耳を傾ける度量を持て。
   意見を聞く際に、「お前は何も分かっとらん」と説教や論争をするな。

  ●使える人材というのは、一癖(くせ)も二癖もあるものだ。
   それを敬遠して癖を捨てさせるな。

  ●こうして上手く人材を使えば、適材適所、時代の要請に応える人物は必ず見つかる。

 
そうすれば、「聖朝に棄物なし」(「世の中には余計な人材は一人としていない」
唐の詩人・杜甫の詩の一節)という境地に至る。

 
「うちには人材がいないとお嘆きの前に、
人の器量を見抜き使うトップとしての力量が問われていますよ」

江戸中期、武士が行政官となって活力を失った
幕府の各組織から寄せられる人材枯渇の訴えに対する徂徠のアドバイスだ。

*○=死
            <感謝合掌 平成27年5月23日 頓首再拝>

マザー・テレサ(最も神の近くにいる人) - 伝統

2015/05/24 (Sun) 19:39:09


             *佐々木常夫のリーダー論より

マザー・テレサの本名は、アグネス・ゴンジャ・ボワジュで、
1910年バルカン半島の中央部のマケドニアで生まれた。

実業家でアルバニア独立運動の闘士であった父を持ち、
優れた神父や修道女と家族ぐるみの付き合いがあり、
幼いことから聖職者の存在を身近に感じていたという。

’29年にインドに渡り、‘
46年に汽車に乗っていた時「すべてを捨てて最も貧しい人の間で働くように」
という啓示を受けたという。

‘48年からカルカッタのスラム街で、
ホームレスの子どもを集めて、街頭で無料授業を行うようになる。

‘50年には「神の愛の宣教者会」を設立。
次いで「死を待つ人の家」「孤児の家」「ハンセン氏病患者の村」などを作る。
趣旨に賛同した多くのシスターたちが参加した。

テレサは修道会のリーダーとしてマザーと呼ばれるようになる。

マザーがいたカルカッタは「カルカッタを見ずして人口問題を語るな」
とまでいわれた都市であった。当時のカルカッタは人口1000万人、
人口密度は3万人/Km2(東京の2倍)、スラム人口100万人、路上生活者10万人、
ハンセン氏病36万人というひどさだった。

その献身的な姿勢とケアする相手の状態や宗派を問わないマザーたちの活動は、
世界の注目をひき、インド国外への活動にも繋がった。

マザーが亡くなったとき、神の愛の宣教者会のメンバーは4000人を数え、
123ヶ国610か所に広がる活動になっていた。


’79年にノーベル平和賞を受賞したが、
その式典でもいつもの質素なサリーを身にまとい次のようなスピーチをした。

「私は平和賞には値しません。でも誰からも見捨てられ、愛に飢え、
最も貧しい人たちに代わって賞を受けました。晩さん会は不要です。
その費用を貧しい人たちのために使ってください」

彼女にとってノーベル平和賞など、どうでもよかったようだ。
自分は「神の愛の宣教者の一員に過ぎないと考えていた。

それにしても、マザーとシスターたちは、豊かな家と愛する家族を捨て、
貧しい人と同じ生活をしながら働くことができたのはなぜだろうか。

彼女は「聖なるものになろうと決心することが大切で、
そういう気持ちが自分たちを神に近いものにしていく」と言う。
しかしそれは簡単なことではない。

もちろん決心することは誰でもできるが、その決心は揺らぐことはいくらでもある。
というかほとんどの人は揺らぎ、違った方向に行ってしまう。

マザーはどうして揺らがず初心を貫けたのだろうか・
マザーでも揺らいだときはあるだろう。
しかし彼女にはキリストがそばにいた。

何かに迷った時、苦しい時、祈ったときにキリストがいたのだ。
そのことで初心に立ち返り貫き通せたのではないだろうか。

人は弱い存在である。しばしば迷うし欲も出る、わがままにもなる。
そんなとき心を鎮め、きちんとした場所に自分を戻してくれるもの、
それは神を信ずる心なのかもしれない。

マザーは「私は社会福祉や慈善のための活動なら、家も愛する家族も捨てなかった。
私はキリストのためにしているのです。神に捧げた身ですから」と言っている。

私の書いているコラムは「こんなリーダーになりたい」だが、
マザー・テレサに限っては「こんなリーダーにはなれない」というのが本音である。

それにしてもマザーほどではないにしても、
歴史に刻まれるほどのリーダーとなった人には共通して、
マザーのいう「神に捧げた身」といった宗教心にも近い「無私の思想」がある。

マザー・テレサは「貧しき人のために行動を」といった高い志を持っていただけではなく、
なかなかのアイディアマンでもあった。

ローマ法王パウロ6世がインドからの帰国時、
自分の儀礼用のリンカーンコンチネンタルをテレサに贈ったことがある。

彼女はこの自動車10万ルピー(300万円)を商品に
100ルピー(3000円)の宝くじを発行し、
5000枚(1500万円)を売りさばきそのお金を貧しい人のために使った。

また、インド国内の移動が多いので、その節約のために航空会社に、
自分が即席スチューアデスをするので、運賃を無料にして欲しいと頼み込み、
さすがに航空会社は断ったものの、その後は彼女の航空運賃を取らなくなったという。

さらにマザーは、航空会社に掛け合って、機内食が残った場合、
孤児たちのために払い下げてもらうなど、
さまざまな知恵を出し活動の幅を広げていった。

マザーの会の活動拠点の驚異的拡大といい、斬新なアイディアといい、
修道士にしておくにはもったいないほどの経営能力があり、
マザーが経済界にいたら、さぞかし優秀なビジネスマンになっただろうと思う。

その活動を見ていて驚くべきことには、
マザーやシスターたちに気負った気持ちも悲壮感もないことだ。

マザーは神に祈った

「主よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、
悲しみのあるところには喜びを、争いのあるところには許しを、絶望には希望を、
理解されることよりも理解することを、愛されることより愛することを」

このような考え方を少しでも経営者や管理者が持ち合わせてくれれば、
どれほど組織が活性化するであろう。

それにしても、どうして自分を捨てて貧しい人、
体の不自由な人のために尽くせるのだろうか。

日本人の商社員の奥さんが、マザーの仕事のボランティアに数人参加していた。
自分の生活の中で無理のない範囲で貧しい人たちに食事のお手伝いをする仕事であった。

この人たちがインタビューに答えて

「私たちはマザーのために協力しているのではありません。ボランティアが終わった後、
困っている人たちのために働くことができたという充実感と爽快感があり、そういう
気持ちを味わうために手伝っているのです。これは自分のためにしているのです」

という言葉には重みがある。

私自身は、長いビジネスマン生活の中で
「人は自分が仕事を通じて成長することと、誰かのために貢献する喜びのために働く」
という信念を持ったが、

ボランティアの奥さんたちはまさに貢献する喜びを感じて行動しているのだ。


’81年4月、マザーは来日し、1週間日本に滞在し、70歳とは思えぬほど
精力的に会合や講演会に臨み、過密スケジュールの合間を縫って、
東京台東区の山谷地区、大阪西成区のあいりん地区を訪問した。

「私はこの豊かな美しい国で、孤独な人を見ました。この豊かな国の大きな貧困を見ました。
人間にとって最も悲しむべきことは病気でも貧乏でもありません。
物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です」

あれから30年たち、現在の日本はその物質的豊かさすら脅かされているが、
世界的レベルでみればそれほど嘆くこともない。

問題は心の貧しさの方である。
人が困っているときに手を差し伸べない、周りで悩んでいる人の話を聞いてあげない
といった人間関係の希薄さが、さらに進んでいる。

マザーのような神のような存在は望むべくもないが、
せめて普通の思いやりのある社会でありたい。

            <感謝合掌 平成27年5月24日 頓首再拝>

指導者の条件13(諫言を聞く) - 夕刻版

2015/05/25 (Mon) 17:29:28


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は良いことよりも悪いことを喜んで聞くようにしたい

堀秀政は、信長、秀吉につかえ、文武に秀で、世間から”名人左衛門”と呼ばれた人である。
その秀政の城下に、ある時、秀政の治政の悪い点を
三十二、三カ条書き並べた大札を立てたものがあった。

そこで重臣達が相談の上、秀政にそれを見せ、
「こんなことをした者は必ず召し捕って、仕置きしましょう」と言った。

すると秀政は、その内容をつくづく見ていたが、何を思ったか、
立って袴をはいて正装し、手と口をすすぎ、その大札をおしいただいた。

そして、「こんな諫言をしてくれるものは滅多にない。
だからこれを天が与えたもうたものと考え、当家の家宝としよう」と言って、
立派な袋に入れ、箱に収めた。

そしてそれとともに、役人達を集めその一条一条を検討し、
藩政について改めるべき所は全部改めたという。

指導者が物事を進めていくにあたっては、
皆から色々な意見や情報を聞きながらやっていくのは当然の姿である。

そしてその場合大事なのは、良いことよりも、むしろ悪いことを多く聞くということである。
賞賛の言葉、うまくいっていることについての情報であれば、それはただ聞いておくだけで良い。

けれども、こんな問題がある、ここはこうしなくてはいけない、といったことがあれば、
それについては色々な手を打たなければいけない。

ところが、それが指導者の耳に入ってこないというのでは、必要な手も打てなくなってしまう。
けれども、実際には、そういう悪いことはなかなか伝わってこないものである。

誰でも悪いことより良いことを聞く方が良いのが人情である。
良いことを聞けば喜ぶが、悪いことを聞けば不愉快になり、機嫌も悪くなる。

だから、いきおいみなもいい話しか持ってこなくなり、
真実が分からなくなってしまいがちなのが世の常である。

徳川家康は、主君に対する諫言は一番槍よりも値打ちがあると言っている。
一番槍は昔の武士にとって最高の名誉とされたが、それ以上の価値があるというわけである。

言い換えれば、諫言というものは、それほど貴重でかつ難しいものだということになる。
だから、指導者はできるだけ、そうした諫言なり悪い情報を求め、
皆がそれを出しやすいような雰囲気をつくらなくてはいけない。

堀秀政はそのことの大切さを十分知っていたから、そうした態度をとったのであろう。

            <感謝合掌 平成27年5月25日 頓首再拝>

人を活かす(6) 上杉鷹山の改革断行 - 夕刻版

2015/05/26 (Tue) 18:11:19


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は 動かじ」。
日本海軍の名将、山本五十六連合艦隊司令長官の語録にある有名な人材教育論だ。

おそらくその原典は、江戸時代中期、財政破綻した東北・米沢藩を
大胆な人材活用による改革で蘇らせた上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)が語った
人材管理の原則であろう。

  「してみせて、言って聞かせて、させてみる」

鷹山はそれを見事に実践してみせた。

上杉謙信の血を引く上杉家に17歳で養子に入った鷹山が直面したのは、
借財が積もりに積もって疲弊した藩の惨状だった。

19歳で領地に入って驚いたのは、無駄の多さだ。
山間の僻地にあるわずか十五万石の弱小藩であるにもかかわらず、
かつて越後まで治めた百万石大名時代のままの感覚だった。

まず、率先垂範。家計の支出を五分の一に減らし、奥女中は50人から9人に。
自らの着物も木綿に限り、食事も一汁二菜を常とした。

藩士たちにも見習わさせて手当を半減し、その分を積み立て負債の返済に当てた。


「出る(支出)を制した」次には、「入る(収入)を量(はか)る」必要がある。
殖産興業に取り組む。

和紙の原料のコウゾ、漆器材料のウルシを藩士の庭にも植えさせ、
池に鯉を飼わせて農民への模範とした。
蚕の飼育をすすめ、荒れた農地の開墾指導に自らも出向く。

さらに、コウゾ、ウルシ、絹を使って製品加工を研究させ、
産品に付加価値をつけることを忘れなかった。

 
ある日、家臣が鷹山に忠告した。
「農民たちは、日々の生活に追われております。その上、さらなる労苦を強いるのはいかがか」

「なるほど。それなら智恵がある」と鷹山。

「見るところ、藩士たちは何の用向きもないのに城に出仕して、
意味もない文書をいじくっておるではないか。明日から出仕におよばぬ。
咎めぬから家で農事に精を出せ」

プライドだけで生きている武士たちが、開墾に出向き、用水路工事に出るようになった。

一方で農事に明るい農民を役人に取り立てるなど、「適材適所」の人材配置を徹底させた。

倒産状態の米沢藩が、鷹山の50年の治世でどう変わったかは、語るまでもない。


「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
これも鷹山が残した言葉だ。


さて、冒頭の山本五十六の教育論には続きがある。

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」

至言である。

            <感謝合掌 平成27年5月26日 頓首再拝>

ハロルド・ジェニーン~プロフェッショナルマネージャー - 伝統

2015/05/27 (Wed) 19:22:16


             *佐々木常夫のリーダー論より

ハロルド・ジェニーンは1910年、米国生まれ
、父は実業家であったが、土地投機で破産、16歳から
ニューヨーク証券取引所のボーイとして働きながらNY大学で会計を学ぶ。

’50年にエレクトロニクスの会社レイセオン社の副社長として、
会社業績を飛躍的に伸ばした実績で
’59年にITT(International Telephone and Telegraph)社長に就任。

在任中に利益を7.6億ドルから170億ドルまで、
14年半連続増益というアメリカ企業史上空前の実績を上げ
「経営の鬼神」とも言われている。

2004年に「プロフェッショナル・マネージャー」を出版したが、
私のように長年企業経営のスタッフの経験をしてきた人間から見ると、
この本は経営の神髄を言い当てており経営論の至宝ともいえる。

私にとっては、ジェニーンは、まさに「こんなリーダーになりたい」人物である。

彼の経営思想のポイントは3つある。

一つ目は経営にセオリーはない、
2つ目は、経営者には、顧客と社員の信頼を勝ち取る人間性が必要、
3つ目は経営者は結果を出さなくてはならない、である。

まず第1の「経営にセオリーはない」ということであるが、当時、アメリカでは、
例えばセオリーXとか、セオリーY、セオリーZということが言われていた。

セオリーXというのはいわば性悪説で、経営には厳格な指揮命令系統がいるというもの、
セオリーYは性善説で、経営の意思決定に多くの従業員を参加させるべき、
セオリーZは、日本的経営を推奨するであった。

ジェニーンは現実の経営は、そのような一定の方式では運営されない、
ビジネスは科学ではなく、人生同様理論で収めきれない活力溢れた流動的なものだという。

ボストン・コンサルティンググループのポートフォリオ・マネジメント戦略についても、
その製品のマーケットシェアと、成長率だけで、現実の経営に当てはめてはならない
と一蹴している。

私は経営戦略は、その個別の企業の持つ経営資源や環境によって変わってくると
いうことを肌身で感じてきたので「経営にセオリーはない」というのは同感である。

よく「総花経営ではなく選択と集中」とか「プロダクトアウトではなくマーケットイン」
などといわれるが、私はこのような考え方の採用には、慎重であるべきと考えている。

その事業の体質強化の努力もせず、赤字だから切り捨てるとか、
消費財の会社ならマーケットインもいいが、生産財の会社なのに
プロダクトアウトを止めてしまうことは、危険な考え方である。


2つ目の「経営者には人間性が必要」については、
ジェニーンは経営者は、まず真摯な人間でなければならない。

良い経営者の条件は、顧客と社員の信頼を勝ち取るに足る人間性であるとしている。
したがって、経営者として成功するには「正直で率直でなくてはならない」という。

ジェニーンがITTに着任した時、すぐにとった行動は、まさにそうであった。
経営者は言葉より態度と行為によると考えたのだ。

会社がゴールに向かってチームとして突進するとき、一体として機能させ、
緊密な人間関係によって結束させたときに、はじめて真の経営が始まる。

リーダーシップは、物事を遂行するよう人々を組み合わせ、
結果を得るまで止めないよう駆り立てる情念の力である。
だから経営者というのは、いわば全人格的な勝負をしているのだ。

そのようなリーダーシップはなかなか伝授できない。
自分の与えられたミッションの中で真摯に仕事に向き合っていく中で、
自らの力で掴み取っていくものであろう。


3つ目の「経営者は結果を出さなくてはならない」ということであるが
ジェニーンは自分のビジネス経営論を、次のようにまとめている。

「本を読むときは、初めから終わりへと読む。
ビジネスの経営はそれと逆で、終わりから始めて、そこへ到達するために、
できる限りのことをする」

なんだかんだ言っても、会社の経営者は業績というただ一つの基準によって評価される。

そもそもジェニーンがITTの社長になったのは、その前のレイセオンの執行副社長を
4年間して収益を3倍にし、株価を14ドルから65ドルにした実績を買われたからだ。

経営者は結果を出すことを求められている。
ジェニーンはITTに着任し、自分の目標を
1株当たり利益を毎年10%アップすることとした。

そして会社のバランスシート、損益計算書。事業本部別・ユニット別の
財務諸表や会計報告を丹念にチェックし戦略を練った。

数字は企業の健康状態を測る一種の体温計、
バランスシートは会社とそのマネジメントの哲学を表現している。

会社をよりよく知るためには、多くの数字を見なければならない。
数字は事実を正確に伝える。その目標数字の達成は極めてハードであるが、
それをクリアすることで人も組織も成長していく。

数字の強いる苦行は、自由への過程である。

ジェニーンは中長期計画というものを信用しない。
目の前の1年間の計画を立てるだけで、マネジメントには、
なすべきことが山ほどあると考えている。

数字を分析したり、現場に足を運んだりして、事実を正しく掴んだら、
とるべき対応策は自ずと現れる。

よくリーダーシップの要諦は、決断力とか大局観、洞察力などと言われるが、
私はその前に大切なことは「現実把握力」だと考えている。

私は会社の中で20いくつもの赤字の会社や事業を黒字にしてきた経験があるが、
そのとき最も重要なことは、何が赤字の原因か、いま現場では何が起こっているか、
何が問題かを正しく掴むことである。

そのためには現場で起こっていることをタイムリーに知るシステムを作ることである。


例えば、2年で企業再建を果たした日本航空は、それまで各路線別収支が、
ドンブリで1,2か月後しか出なかった方式を改め、各路線の個別のフライトの収支を
すぐ把握できるようにした。

大型機を予定していたら、事前に空席が多いことがわかれば、
すぐもっと小さな機種に変更することで燃費も乗務員も減らせるようになったという。

事業の対象を細分化し、その小さな単位別の収支を取ることによって、
採算の現実把握ができれば、適切な対応策を提示できる。
日本航空は1万6000人を削減したという。

そのうち6000人は事業移管だが、1万人は解雇だった。
その1万人は昨日まで働いていた人たちだ。その人たちが不要だとしたら、
なぜそれまでそれだけの人たちを雇用していたのか。

現実を把握したとき、リーダーに必要なことは、
それを絶対にやり抜くという決意と覚悟である。
計画や目標が的確でも、それをやり抜く実行力がなければ結果は出ない。

プロフェッショナル・マネージャーとそれ以外は態度の違いである。
経営の評価は損益計算書であり、
それをみれば経営をしたか、しなかったかは、一目瞭然である。

「経営者は経営しなくてはならない」

            <感謝合掌 平成27年5月27日 頓首再拝>

「絶望はあかん、道はある」 - 夕刻版

2015/05/28 (Thu) 17:54:18

         *Web:東洋経済ONLIN(2015年05月28日)より

松下幸之助は壁にぶつかっても楽観的だった~江口 克彦 :故・松下幸之助側近


「絶望はあかん、道はある」


昭和52年(1977)11月のある日の松下幸之助の昼食は、うな重だった。
松下に、会社の経営状況を報告し終わると、まだ経営を担当して
1年半ほどの私の経営について心配してくれたのか、

「きみ、経営というのは、いろいろ問題が出てきて、心休まるということはないやろ。
難しいもんや。まあ、売り上げも考えんといかん、利益も考えんといかん。
それ以上に社員のこと、また、お客様のこととかな、考えんといかんからな。

商売はいつもいつもうまくいくということはない。
むしろ壁にぶつかって、前に進めんことのほうが多い。
まあ、それが経営やな。

けどな、壁にぶつかっても、それでもうダメやと、お終いやと。
そういうふうに考えたらあかんで。
必ずその壁の向こう側に行ける知恵が出てくるもんや。

わしも長いこと(経営者を)やっとるからな。
もうあかん、これでお終いやと感じることもないではなかったけど、
その都度なんとか壁の向こうに行ける方法はあるんや、絶対に行けるんやと、
なんとしても壁の向こうに行くんやと。

そう考えて一生懸命、その方法を考えてやってきた。
そう考えると確かに、壁の向こうに行く知恵というか、方法が浮かんでくる、出てくるんやな。

何度もそうやって苦境を乗り越えてきた。
振り返ってみれば、乗り越えてきたんやからな、苦境、苦難だったとは言えんとは思うけどな」


《熱意を失ってはいけない》

ニコリと笑って、うな重を一口食べては話し、話しては、一口食べながら話した。

「きみ、2階があるとするわな。その2階に上がりたい、なんとしても2階に上がりたい。
そういう思い、熱意があれば、そこいらの石を根気よく集めて、積み上げて、
それを登って2階に上がるという工夫、知恵も出てくるし、
そうや、こうしようとハシゴを考え出すこともできる。

絶対に2階に上がろうという熱意のある人だけが、
結局は2階に上がることができるというわけや」


箸をおいて、お茶を飲みながら、


「さっきの壁の話な。あれも壁にぶつかっても、なんとか壁の向こうに行こうと思ったら、
左に行って抜け穴はないか、右に行って抜け穴はないか、なければ、壁の下に穴を開ける
ことは出来ないか。それもダメなら、さっきの2階に上がるようなハシゴが考えられないか。

懸命に考えれば、まだまだ、知恵も工夫も出てくるわね」

そして、再び、箸を使いながら

「だからやな、きみ、仕事をしとっても、もうこれでダメや、お終いやと思ったらあかんで。
そう思ったら、知恵も工夫も生まれてこん。もうダメだと、壁の前に座り込んでいたり、
2階には行けんとへたり込んだら、もう、それで、終いや。

だいたいな、人生でもそうやけど、もうダメや、あかんということはない。
それは、もうダメやと思ってへたりこんで、諦めてしまうからや。
道はいくらでもある。生きる方法はいくらでもある。

きっと、あると思えば、勇気も希望も出てくるしな。
そうすると心に余裕も出てきて、ええ知恵が生まれてくるもんや。

人生でも、経営でも、絶望が、いちばんあかんな。
道はある。まあ、行き詰まっても、行き詰まったと考えたらあかん、ということやな」


食べ終わって、箸を置き、湯呑みを両手で持ちながら、


《「趣味は仕事」はいけないことか?》

「そうそう、こないだ、経営者のUさんが、わしのところに、話に来たやろ。
その人がえらい熱心に、日本人は働き過ぎる。今まではよかったけれど、
これからもあんまり働いておると、世界中から批判されるようになるから、
これからはできるだけ遊ぶように心掛けるべきだ。

あんたもそうせんとあきませんよと、言っておったな。
きみ、覚えておるか。それで、松下さんの趣味はなんですか、と聞く。
わしはこれといってないわな。仕方ないから、趣味は仕事ですなあ、そう答えたやろ。

そしたら、その人が、人間は楽しむために生まれてきたんやから、
そしてそのために仕事をやっておるんだから、仕事ばかりはいけませんと、
そんなことを話して帰っていったわね。

そういう考えもにも、一理あるけどな。

だからと言って、遊ぶことが大事で、働くことは、二の次だということは、
これは、どんなもんやろうかな。

働かずして、なお遊べということをその人も言っておるわけではないんやろうけど、
まず、働くことの大切さをやはり考えておかんといかんな。
働くことが先でないと、きみ、遊ぶことも出来んやないか。

ところが、ただこれからは、遊ぶことが大事だというような、そういう話し方はようないな。
遊ぶことも楽しむことも大事やと。けどそれ以上に、働くことの意義とか大切さとか言わんとな。

指導者が、遊べ、遊べ、と言い出したら、日本経済はまもなく衰退して、日本は滅んでしまうわ」


“面白きこともなき世を面白く”、という高杉晋作の句に、
野村望東尼が、“すみなすものは心なりけり”、

と下の句をつけていることを知る人は少ない。

  (http://toyokeizai.net/articles/-/70339

            <感謝合掌 平成27年5月28日 頓首再拝>

指導者の条件14(感謝する) - 伝統

2015/05/29 (Fri) 18:24:05


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は何事に対しても深い感謝報恩の念を持たねばならない。

親鸞上人は、我々はまことに立派な人だと考えているが、
自分自身では”愚禿親鸞”などと呼び、自分はいわゆる煩悩も愛欲も断ち切れない、
どうしようもない人間だとしている。

しかし、そうした人間でも、阿弥陀様の本願というか、大きな慈悲によって
すべて救われるのだ、だから、それに対して南無阿弥陀仏の名号を唱え、
心からなる感謝報恩の念を捧げることが大切だと教えているということである。

この感謝報恩の心を持つということは、人間にとってきわめて大事なことである。

いうまでもないことであるが、人間は自分一人の力で生きているのではない。
いわゆる天地自然の恵みというか、人間生活に欠かすことのできない様々な物資が
自然から与えられているのである。

また多くの人々の物心両面にわたる労作というものがあって、
はじめて自分の生活なり仕事というものが存在し得るのである。

言い換えれば、自然の恵み、他の人々の働きによって、自分が生きているわけである。
そういうことを知って、そこに深い感謝と喜びを味わい、そしてさらに、
そうした自然の恵み、人々の恩に対して報いていくという気持ちを持つことが、大切だと思う。

そういう心からは、いわば無限の活力とでもいうものが湧き起こってこよう。
それが事をなしていく上で非常に大きな力となってくると思う。


また、感謝の心はものの価値を高めることになる。

一つのものを貰っても、何だつまらない、と思えば、
その価値は極めて低いことになってしまうが、

ありがたいという気持ちでいれば、
それだけ高い価値が見出せ、よりよく活用できることにもなろう。

だから、”猫に小判”というが、
反対に感謝の心は、鉄をも金に変えるほどのものだと思う。

感謝の気持ちが薄ければ、何事によらず不平不満が起こり、
自らの心も暗くし、他をも傷つけることになる。

それに対して、感謝報恩の念の強い人には、すべてが喜びとなり、心も明るく、
また他とも調和し、共存共栄といった姿を生み出しやすい。

そういうことを考えてみると、感謝報恩の心は人間にとって一番大切な心構えであり、
従って特に指導者はこの念を強く持たなくてはならないと言えよう。

指導者の人々が皆この気持ちを強くする時、
真に物心ともに豊かな社会が生まれてくると思うのである

            <感謝合掌 平成27年5月29日 頓首再拝>

人を活かす(7) 武田信玄の城 - 伝統

2015/05/30 (Sat) 18:25:20


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


戦国武将の武田信玄は、本拠地の甲斐をはじめ領内に堀や天守を備えた
仰々しい城をひとつも持たなかった。

生前、信濃、駿河から美濃の一部にまで版図を拡大したが、
領内に敵の侵入を許したことは一度もない。

無類の人使いの巧者であったとされ、武田流軍学の書『甲陽軍鑑』には
信玄の人材起用に関するエピソードがさまざま書き残されている。

ある時、信玄は軍師の山本勘助を呼んでこう話した。

「わしは決して人を使うのではない。能力を使うのだ。
それぞれの能力を殺さぬように人を使わねばならぬ」と。

人を見る時には「信念」を見るのだ、と勘助に諭す。

「信念がなければ向上心がない。向上心がないものは研究心がない。
研究心がないものは必ず失言をする。
失言をするものは言行が一致せず、恥をわきまえない。
恥知らずは何をさせても役には立たぬ」

恩賞も功績を重視せよと言う。

「功績がないものに恩賞を与えてしまうと、お追従ものが生まれる。
こういうものたちは本当に功績のあった忠節の武士をねたんで悪口をいいふらし、
恩賞狙いで主君に世辞を言うだけだ」

 
なるほど、どの組織でも起きがちなことだ。

さらにもうひとつ、信玄の人材活用の原則に「個性」を活かせということがある。
同じタイプの部下だけを重用するなという。

「一つの性格の侍を好み、似たような態度、行動のものばかりを使うこと」を戒め、
「渋柿も甘柿もそれぞれに役立たせるのが、人の上に立つもののつとめ」だと説く。

 
そのことを、蹴鞠(けまり)の庭の四隅に植える四種の樹々にたとえる。

「春には桜が花やかで、柳は緑にけぶるがそれも一時、
やがて秋になれば紅葉したカエデが夕霧、秋雨の中に散る風情もいい。
だが、それらの彩りが何一つ残らず消えうせたあとには、
永遠に変わることのない松の緑が、その真価をあらわすのだ」

風流の心も持ち合わせていたらしい。

かと思うと、「三と四を足しても七にしかならないが、
三と四を掛ければ十二となるようなものだ」と計算して見せる。

 
こうして人材を有機的に繋ぐ信玄の組織運用が無敵の騎馬軍団を生み、
「風林火山」の旗印を掲げた武田二十四将が縦横に駆け巡る。

領民の信頼を得て、城はなくとも領国を守る原動力となった。

 「人は石垣、人は城」とはそういうことである。

            <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

孔子(70にして矩をこえず) - 伝統

2015/05/31 (Sun) 19:34:34

             *佐々木常夫のリーダー論より

孔子を「こんなリーダーになりたい」というコラムに登場させるのは少し違和感があるが、
論語は、私が最も大きな影響を受けた本でもあるし、私の生き方の指針になった本でもあるので、
あえて今回取り上げた。

孔子は今から2500年前、紀元前552年、中国中央部(今の山東省)の魯の国に生まれ、
下級の役人となるが、それほどの立身出世もせず、不遇の時代が長かった。

52歳の時に、今でいう司法長官になるものの、3年で失脚し、流浪の旅に出る。
69歳の時、祖国に戻り、出世をあきらめ、74歳で亡くなるまで弟子たちの教育に当たった。

孔子の言葉を弟子たちがまとめたものが論語であるが、
収載されている章句は500強、短いものは5文字、長くても300字、
全部で1万3000余字。400字詰原稿用紙で30数枚程度というもの。

孔子の人柄と教養は評判であったし、多くの優秀な弟子たちもいたが、
ほとんど出世できなかったという恵まれない人生、挫折だらけの人生であった。

それだけにその語る言葉は、自分の経験に根差した人間や社会のありようを深く捉えている。

論語というと、かなり堅いイメージをもたれているが、
孔子自身は行動的で、エネルギッシュ、情熱的で、人間はこうあるべきという理想を、
生涯訴え続けた正論の人だった。

孔子の歩んだ生涯はあまり記録としては残っておらず、
その人となりは、論語から推察するしかない。

論語には、人生で大切なこと、仕事や社会のこと、交友、理想、学問など
さまざまなことについて、鋭い洞察力で書かれており、
いわば総合的人間学の書物といってよい。

また、結果より努力する過程を重んじた。
しかしながら、孔子は、金持ちになることや偉くなることを否定していたわけではない。

出世というのは、企業や社会で何事かを成し遂げたいから求めるもので、
出世それ自体を求めるのは本末転倒としながらも、人が讃える何かを成し遂げた結果として、
手に入れる名声や財はいいことだと言っている。

要は目的と手段を取り違えてはいけないということだ。

この論語の中には、上に立つもの、すなわちリーダーは、どうあるべきかが、何度も出てくる。

まず、「君子は器ならず」とある。
器というのは特定の才能のことをいうので、
これは「特定なスペシャリストになるな」という意味である。

つまりリーダーというのは自分がするのではなく、人にやらせる能力が重要だということ。

そして人を使う立場には、それ相応の心得がいるとして、
一番大切なことは「恕」即ち「思いやり」であるという。

「一言にして以って終身これを行うべきは、其れ恕か」(生涯座右の銘にすべきものは思いやりだ)

そして、リーダーにとって、もう一つ大事なことは「言行一致」ということで
人に指示している自分がそれに恥じないことをしているかどうか。

できないことは言うな。
「その身正しければ令せざれども行わる」(命令している人自身の主張や行動が正しければ
命令しなくても人は従う)「民は信なくば立たず」(民に為政者への信がなければ立ちゆかない)
孔子はこの「思いやり」と「言行一致」をリーダーの要諦とした。

すなわち、リーダーというのは、人間として基本的な正しい考え方を持ち、
それとぶれない行動をすること、そして常に、他人に対する心配りをすべきと言っている。

その内容は説得力があり、さすが中国随一の書物といえるが、
これほどの思想家でも、実生活では地位を得なかったのだから、現実社会の難しさである。

孔子は優れたリーダーとして、

「君子は周して比せず」(依怙贔屓をしない)

「君子は争うところなし」(滅多に喧嘩しない)

「君子は言訥にして行に敏ならんと欲す」(能弁であるより行動が大事)

「君子は人の美を成して、人の悪を成さず」(部下の長所を伸ばし、欠点をなくす)

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(和を尊ぶが付和雷同しない)

「君子はこれを己に求む、小人はこれを人に求む」(失敗の責任は自分で取る)

さまざまなことを指摘しているが、多くは人や組織の関係のあり方で、
その関係を適切にすることが優れたリーダーだと言っている。
適切な人間関係を構築していき、組織力を強める。

そのためにというか、孔子はリーダーの資質を九つの事項に集大成している。

「君子に九思あり。視るには明を思い、聴くには聡を思い、色には温を思い、
貌(かたち)には恭を思い、言には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきには問いを思い、
怒りには難を思い、得(う)るを見ては義を思う」

(リーダに九の心得 

 ①的確に見る
 ②誤りなく聞く
 ③表情は穏やかに 

 ④品を持って 
 ⑤言ったことに責任を持つ 
 ⑥.仕事に敬意を 

 ⑦疑問は聞く 
 ⑧やたらに怒らない 
 ⑨.道義に反した利益の求めない)

論語を読んで当惑するのは、このように九つもの条件を示したりするところだ。

人間は神ではなく、どんな優れた人でも、ここまで兼ね備えることはできない。
読む人はその中で自分の気に入ったところをピックアップすることになる。

この論語に多大の影響を受けた人物が日本にも数多くいる。
私がこのコラムで紹介した中にも、渋沢栄一、広田弘毅などもそうである。

渋沢は「論語と算盤」の中で論語の考え方を使って、
日本資本主義の骨格を作ったことを述べているし、

広田弘毅は毎日、夥しい本を読んでも一日の終わりは、必ず論語を読んでから就寝したという。

いわば論語は、リーダーを製造する書物と言ってもいい。
優れた人をますます磨き上げていくリーダー育成本である。

明治時代も、昭和も平成も、いつの時代においても普遍的なものを含んでおり、
極めて実用的であるが、人間社会の本質は基本的には何も変わっていないようだ。

孔子は、人生を十全に生き切りたいという意欲を持ち、
社会を良くしたいという志を強く持っていたが、
そうした情熱がこの本をリーダー本にしたといえ、
それがまともに伝わってくる優れた書物である。

私が論語の中で最も好きな言葉の一つは
「学びて思わざれば則ちくらし、思うて学ばざれば則ち危うし」
(知識を学ぶだけで自分で考えないのは本質を掴めない 
考えるだけで学ばなければひとりよがりになる)

「これを知るはこれを好むものに如かず、これを好むものはこれを楽しむものに如かず」
(知っているより好きな方が 好きより楽しむ方が勝る)

「徳は弧ならず、必ず隣あり」(道義を中心にした生き方をしているものは孤立しない)

論語の面白さは多面的な解釈が出来ることでもある。

            <感謝合掌 平成27年5月31日 頓首再拝>

指導者の条件15(カンを養う) - 伝統

2015/06/02 (Tue) 19:33:03


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は真実を直観的に見抜くカンを養わなくてはならない

日露戦争の時のことである。
名将といわれた黒木為楨大将が第一線を巡視していて、
「今夜は夜襲があるぞ」というと、必ずその晩は敵が攻めてきたそうである。

なぜそれがわかるのかというと、特別な根拠があるわけではなく、
なんとなくそういう感じがするということである。
いうなれば、”カン”であろう。

カンというと、一見これは非科学的なもののように思われる。
実際、合理的にこういうものだと説明するのは難しい。
しかし、それだけに一層、カンが働くということが指導者にとって極めて大事だと思う。

例えばこういう事である。
ニュートンはリンゴの落ちるのを見て、万有引力を発見したといわれている。

リンゴが落ちるのを見たのはニュートンだけではあるまい。
多くの人が見ている。
何もリンゴだけでなく、ものが落ちるということは、誰でも見て知っている。
しかし他の人はそれを別に不思議とも思わなかった。

それをニュートンは「これはおかしいぞ、そこに何かがある」と感じたのだろう。
それがカンである。
そのカンに基づいて、科学的な研究を行い、初めて万有引力の法則を発見したのだと思う。

やはりそうした科学者としてのカンが働かない人では偉大な発明、発見は難しいのだと思う。
だから、指導者でも指導者としてのカンが必要だと思う。

直観的に価値判断できる、物事の是非が分かるというカンを養わなくてはいけない。
商売人であれば、一つの商品を見て、それが売れるかどうか、
どれだけの値打ちがあるか一目で分かるというのでなくてはいけない。

売れるかどうか分からないが、まあ一つ売ってみようというようなことでは失格である。
それでは、そうしたカンはどうしたら持つことができるのか。

これはやはり、経験を重ね、修練を積む課程で養われていくものだと思う。
昔の剣術の名人は、相手の動きをカンで察知し、切っ先三寸で身をかわしたというが、
そこまでに達するには、それこそ血のにじむような修行を続けたのだろう。

だから指導者としても、経験を積む中で厳しい自己鍛錬によって、
真実を直観的に見抜く正しいカンというものを養っていかなくてはならない。

そういうカンの働きと、合理的な考え方とがあいまって、
偉大な成果が生まれてくると思うのである。

            <感謝合掌 平成27年6月2日 頓首再拝>

人を活かす(8)上杉謙信の新人抜擢術 - 伝統

2015/06/03 (Wed) 17:37:17


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


英雄たちが覇を競った中国の三国志の世界。
曹操の魏が勝ち残ったのは、武人、文人を含めた多彩な人材の勝利だとされる。

天下取りへの出陣に一歩遅れた劉備の蜀も関羽、張飛の両将軍に加え、
諸葛亮という稀代の軍師を擁してはいた。

しかし関羽、張飛が早々と戦さに倒れ、諸葛亮が世を去ると
跡を襲う人材はなく、見る間に衰えた。


現代でいうと、豊富な人材の確保、補充が可能な大手企業に伍して
中小企業が闘うには、限られた人材をどう育てるかが問われることになる。


人使いの巧者・武田信玄の終生のライバルだった上杉謙信にこんな逸話がある。

ある時、使番(つかいばん)の一人である長尾甚左衛門の後任を選ぶことになり、
謙信は神保主殿(じんぼう・とのも)という17歳の若者を選んだ。

使番は、戦場で本陣・先陣間の伝令、敵への使者を努める重責で、
百戦錬磨のベテランを配置するのが定石だ。
そこに経験のない若者を登用した ことをいぶかしむ同役たちが注進に及んだ。

「大事な役でありますから、十分に吟味の上で人材を選ばれるべきです。
西も東もわからぬ者を選ばれるとは。これまた、どうしたお考えか?」

気色ばむ同役たちに謙信は、

「お前たちがそこまで人事に深い関心を持っていると聞いて、とても喜ばしい。
これもわが家の武運が盛んである証拠」

と、注進を誉めたあと、こう説いた。

「お前たちの言う通り、確かに使番はわしの目となり片腕とならねばならん。
武役の経験者を充てるべきだろう。しかし、お前たちの同役に、五度、七度と
武役の経験があるとはいえ、お前たちに及ばない若輩を充てれば、どうなる。
かえって経験不足だ、不釣り合いだと腹を立てるだろう」

それを見越して、まったく経験のない若者を抜擢したのだと謙信は言う。その狙いは…。

「わしの眼力で、こいつならやれると踏んで選んだのだ。
あとはわしが信頼しているお前たちがこの男を使番としてしっかり養成すれば、
後々までも絶対に失敗するまい」

この神保主殿は、謙信の見立て通り、翌年、加賀尾山の城攻めで大活躍する。

部下の素質を見抜き、あとの教育は責任を持たせて託す。
それがリーダーの務めだという。
教育の前に多少の経験など邪魔になるということだ。

経験。現代なら学歴も含まれるだろう。
大企業の多くは、学歴重視の人材採用で有利なればこそ、人材養成で苦戦している。

肝に銘じるべき謙信の逸話だ。

            <感謝合掌 平成27年6月3日 頓首再拝>

小倉昌男(当たり前を疑え) - 伝統

2015/06/04 (Thu) 18:52:53


             *佐々木常夫のリーダー論より

人は誰しも、「何か」にとらわれて生きているようだ。
ゼロから宅急便事業を創造し新しいビジネスモデルを立ち上げたヤマト運輸の小倉昌男も、
かつてはある「思い込み」にとらわれていた。

父親である康臣が関東一円をカバーする路線トラックのネットワークによって成功をおさめたが、
これによって、「トラックの守備範囲は百キロメートル以内。それを超えたら鉄道の領域」と
会社全体が思い込んでいたようだ。

ところが、戦後になると、あくまでも近距離輸送にこだわり続けたヤマトは
競合他社の後塵を拝するようになり、経営再建策として打ち出したのが事業の多角化だった。


通運事業、百貨店配送、航空、海運から梱包業務までを行う総合物流企業を目指したのだ。

しかしこれが裏目に出る。
各事業が伸び悩むうえに、基幹事業である商業貨物の収益までも悪化していくのだった。
そして、業績悪化がいよいよ危険水域に達するというタイミングで、小倉は社長に就任する。

”負け犬”となったヤマト運輸の業績をどうすれば好転させることができるのか、
小倉は日夜、そればかりを考えていたという。

そんなある日、ひとつの新聞記事を見た。
それは、吉野家が豊富に揃えていたメニューを、牛丼一本に絞ったことを報じるものだった。
そして、その記事によって「大量少量を問わず、どんな荷物でも運べる会社」という
既成の会社の信念に疑いの目を向けたのだ。

「吉野家の場合は『牛丼ひとすじ』という新しい業態を開発し、チェーンを展開して成長していく。
一方、ヤマト運輸の得意とする分野は、消費者に近い小規模企業や家庭から出る小さな荷物である。

ならば、思いきって対象とする市場を変え、メニューを絞って新しい業態を開発したら、
道が拓けるのではないだろうか――」
これは、極めて重要な発想の転換である。

自らの「信念」=「思い込み」を脱し、少量小口の個人宅配事業に一本化するという構想が
芽生えた瞬間だからだ。これが、後に宅急便というイノベーションを生み出す原点となる
とともに、「既成概念」への挑戦の幕開けでもあった。

私は、ここに小倉という稀有なリーダーの特質を見る思いがする。
なぜなら、人間にとって、自らの「思い込み」に気づくことは至難のワザだからだ。

「思い込み」とは自らの思考の枠組みそのものである。
その思考の枠組みを自らの思考によって検証するのは、たとえてみれば、
鏡を見ずに自分の顔を見るようなもので、常人には、なかなかできることではない。

しかし、小倉は、たった一本の記事によって「思い込み」を打ち破ることに成功する。
小倉は、しばしばマーケティングや経営に関する研修会に出かけたり、欧米に出張したりする
ことで、何事にも学ぼうとする進取の心がけがあったことも、幸いしたようだ。

ひとつの会社で長く仕事をしていると、どうしてもその会社に同化してしまいがちだ。
その会社特有のやり方に疑問をもつこともなくなり、それが「当たり前」になってしまうのだ。
しかし、それが本当に「当たり前」なのかどうか疑わしいものである。

実は、同質性の高い者ばかりに囲まれているために知らず知らずのうちに陥ってしまった
「勘違い」かもしれないのだ。

しかし、そこへ「異質な者」が入ることによって、
小倉の場合は、異質なものを取り入れることによって
「本当に当たり前なのか?」という視点が持ち込まれたようだ。

「サービスが先、利益は後」 小倉の有名な言葉だ。

宅急便事業の立ち上げ時期に社内に向けて発した標語で、
このモットーを徹底したことによって、
ヤマト運輸の事業は急拡大したと言っても過言ではないだろう。

各家庭から荷物を集配する宅急便事業は、地域ごとに営業所を開設し、
ドライバーとトラックを配置するなど、初期投資に莫大な費用がかかる。
それを回収し、利益が出るようにするには、とにかく荷物の数を増やさなければならない。

そして、そのためには、サービスを向上させて利用者に便利さを実感してもらう必要がある。
しかし、サービス向上と利益には相反関係がある。サービスを向上させれば、
経費が増えて利益が圧縮される。利益を追求すれば、サービスを向上させるのは難しい。

現場にいるドライバーはサービスの向上を主張するし、
管理部門のスタッフはコストとメリットの計算に精を出す。
もちろん、これはおよそすべての会社に起こる現象であり、どちらにも理はある。

しかし、宅急便の立ち上げ時期においては「サービス向上」が至上命題である。
だからこそ、小倉は、「サービスが先、利益は後」というメッセージを発することによって、
両者の優先順位を明確に示したのだ。

この言葉が力を発揮した。
事業展開のスピードが格段に上がったのだ。

1日1回だった集荷サイクルを1日2回に増強し、全国に集配エリアを拡大するなど、
大小さまざまなサービス向上策を矢継ぎ早に実行。

そして、初日の集荷数わずか11個だった宅急便事業を、
たった5年で黒字化させることに成功したのだ。

もちろん、この言葉ひとつの力で、この偉業が達成されたわけではないだろう。
しかし、「サービス向上と利益」のせめぎ合いを放置したままであれば、
あのクロネコヤマトのスピード感を実現することはできなかったはずだ。

リーダーの発する「言葉」の重要性と戦略性を如実に示すエピソードではないだろうか。

リーダーは、メンバーに「向かうべき方向性」を明示しなければならない。
混乱している仲間の先頭に立って、「こっちへ進もう」と旗を振らなければならない。

そして、人間社会において、「旗」とは言葉にほかならない。
自らの意志や思想をもっとも明確に伝えることができるのは言葉でしかない。

ところが、これが難しい。
なぜなら、世の中には、大切にしなければならない価値がやまのようにあるからだ。
そして、それらは相反する緊張関係におかれている。

「利益とサービス向上」もそうだし、「競争と平等」「秩序と自由」など枚挙にいとまがない。
その緊張関係のなかで、自らの人生観やその時々の状況にあわせて、
方向や価値の優先順位を明示するのは簡単なことではない。

毎年、期の始めになると売上高の目標を厳命し、期中になって利益が未達のなりそうだと、
今度は利益を確保しろという指令が下る。

安全月間になるともちろん「安全第一」の号令が下る。
製品のクレームが来ると、「品質第一」で頑張れと命令が下る。

だが「第二」がなく、「第一」ばかりあるということは、本当の第一がない、ということだ。
たしかに、これでは社員は混乱するばかりだ。

「第一」ばかりでは、自分では「旗」を振っているつもりなのだろうが、
実際のところは単に「場当たり」的なだけだ。
要するに、「安全第一」と「品質第一」という緊張関係にある価値の間で
優先順位をつけることができていないのだ。

もちろん、市場環境が激変する現代において、
ときに「朝令暮改」もリーダーにとっては必要なことではある。

しかし、そこに一本貫く価値観がなければ、誰もついていこうとは思わない。

小倉の言葉は明解だった。

            <感謝合掌 平成27年6月4日 頓首再拝>

指導者の条件16(気迫を持つ) - 伝統

2015/06/05 (Fri) 17:55:20


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者には断固事をやり抜く気迫が大切である。

織田信長は斎藤氏を滅ぼし、居城を尾張から美濃に移した時に、
”天下布武”という印を用いるようにしたという。
そしてまた、長子の信忠にも”いつ剣平天下”という印を用いたそうである。

桶狭間に今川義元を討ち、斎藤氏を破ったといっても、
ようやく二カ国を領有するに至ったに過ぎない。
周囲にはまだそれ以上の力を持つと思われる群雄が割拠してしのぎを削っていたのである。

そういう時期に早くも、剣を持ってこの麻のごとく乱れた天下を統一し、
万民を安んずるという理想をいわば形にあらわした信長の心意気というか、
気迫はまことに盛んなものがある。

そうした信長の気迫が一番はっきりとあらわれたのが比叡山の焼き討ちだといわれる。
この時明智光秀などの家臣は、桓武天皇、伝教大師以来の霊場を焼くことを口を極めて諫めた。

それに対して信長は、「自分は天下平定のため、心に桓武天皇の勅を奉じ、
伝教大師の許しを得てこれをやるのだ。もし、この罰で焦熱地獄に落とすというのなら、
自分は閻魔の庁で大王を説破する自信がある」と言い切った。

そのすさまじいまでの気迫に家臣達も承服し、焼き討ちが決行されたというのである。
こうした信長の比叡山焼き討ちをはじめとするいくつかの行為には後世色々な批判がある。
またそのような信長の激しい気性が、ついには光秀の謀叛を招く結果になったとも言われている。

しかし、時に行きすぎはあったとはいえ、こうした信長の強い気迫があってこそ、
長年にわたって人々を苦しめてきた戦乱の世が終わり、
300年もの平和な時代への道が開かれたとも言えるのではないだろうか。

”断じて行えば鬼神もこれを避く”という言葉もある。

やはり指導者としては、一つの志を立て、何か事を行おうとする場合には、
断固それをやり抜く気迫というものを持つことが大切であろう。
もちろん今日では、武力を持って事をなすというようなことは許されない。
また、良いことであっても、行き過ぎてはいけないことも事実である。

そういうことは十分考えなくてはならないが、天下万民のためという大義に基づいて、
世の避難を覚悟の上であえてああしたことを行った信長の強い気迫には、
指導者として見習うべきものがあると思う。

            <感謝合掌 平成27年6月5日 頓首再拝>

人を活かす(9)仰木彬の「そのままでいい」 - 伝統

2015/06/06 (Sat) 19:31:37


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

日本人メジャーリーガーのパイオニアが野茂英雄なら、
その道筋を確固たるものにしたのはイチローだろう。

野茂がトルネード投法、イチローは振り子打法と、ともに個性派だ。

そのふたりが「あの人が監督だったから今の自分がいる」と感謝を口にするのが、
仰木彬(おおぎ あきら)である。

イチローのプロ2年目、「辞めたい」とオリックスのコーチに打ち明けていた。
高卒で入団して二軍で活躍するものの、一軍での出場の機会は限られていた。

当時のオリックス首脳陣は、イチローの個性を嫌っていた。
独特の振り子打法をやめるように指導するがイチローは聞かない。

「これが僕には合っている打ち方です」。
土井正三監督は「基礎からやり直せ」と二軍行きを命じる。

その3年目、オリックス監督に仰木が就任する。
春のキャンプで、「こいつはレギュラーで使える」と直観したという。

走力、強肩は秀でている。
近鉄監督時代にチームの外から見ての「ひ弱だな」という印象も、
随分とたくましくなっていた。

振り子打法にも注文は一切つけなかった。
シーズン通してレギュラーを張れる精神面はどうか。
「それは実戦で使ってみなけりゃ分からんだろう」。

使うと決めたら、シーズン最初から使い続けた。

そして、この年、20歳の若者は210安打を放ち3割8分5厘という
驚異の打率で首位打者を獲得する。

これに先立つ近鉄監督時代には、8チームが一位指名で競合した
社会人野球のエース、野茂をドラフトの残りクジで引き当てた。

チームの内外から、「あの変則投法ではプロで通用しない」と
フォーム矯正を求める声があった。

本人に聞くと、「これが自分のいちばんええスタイル。いじらんでください」という。
社会人野球での実績もある。「よっしゃ、そのままでいい」と外野の声を無視した。

その個性的な投法を逆手にとって「トルネード(竜巻)」と名付け売り出した。
野茂はデビューの年から4年連続でパリーグ最多勝を上げる。

そして仰木が近鉄監督を去り、後任の投手出身監督は、フォーム改造を言い渡す。
いや気がさした野茂は大リーグ・ドジャースへ去る。

 
野球だけではない。日本社会は定型を重視し、教科書的な型にはめてよしとする。
優等生指導者ほどそうだ。個性を殺して才能をも殺す。

個性重視の仰木のもとからは、野茂、イチローのほか、
長谷川、吉井、木田、田口、野村ら多くの選手が大リーグに巣立っている。

故なきことではない。

            <感謝合掌 平成27年6月6日 頓首再拝>

スティーブン・R・コヴィー(7つの習慣) - 伝統

2015/06/07 (Sun) 18:28:12


             *佐々木常夫のリーダー論より

1996年に出版された「七つの習慣」は、「人生を幸福に導く成功哲学」であり、
世界で1500万部を超えるというビジネス書としては例を見ない売上を記録し、
英国のエコノミスト誌によると、
著者のコヴィー博士は「世界で最も影響力のあるビジネスの思想家」である。

この本のコンセプトを一言でいうと
「人を真の成功と幸福に導くものは、優れた人格を持つことであり、
自分自身の内面(インサイド)から外(アウト)に働きかけることである」

「成功するには原理原則があって、
その原理原則を繰り返す行動をとり続ける習慣をつけることが成功するための条件」であり、

ここで挙げた7つの習慣が真のリーダーを育て上げていくことになるという。


このコヴィー博士が優れたリーダーであるかどうかは別にして、
「7つの習慣」は優れたリーダーになるために、何をすべきかを明示しており、
「こんなリーダーになりたい」というテーマにふさわしく、
この「7つの習慣」のことを紹介したい。

7つの習慣のうち、第1から第3までの習慣は、自己克服と自制に関連した習慣であり、
この3つは人格を形成するいわば「私的成功のための習慣」であり、
次の第4から第6までの「公的成功のための習慣」とは区分される。


7つの習慣の第1は、効果的な人生を営む最も基礎的な習慣として、
「主体性を発揮すること」つまり人生の責任は自分で引き受ける
「自己責任の原則」としている。

いやいや仕事をするのも、喜んでするのも、すべて自分の選択であり、
この自らの反応の仕方を主体的にコントロールし、周りの状況に左右されることなく、
率先的に状況を改善する行動を起こすことがまずもって、求められる習慣である。

自分の人生は自分のものであり、結婚するのも、仕事を選ぶのも、
つまるところ自分であり、そうである以上、そのことに責任を持たねばならない。


第2の習慣は、人生の最後の姿を描き、今日という日を始める。
つまり「目的を持つ」ことである。

コヴィー博士は「マネジメントは、物事を正しく行うことで、
リーダーシップは正しいことをすること」という。
つまりリーダーになるために、「正しい目標を設定する」ことが前提になる。

そのために「ミッションステートメント」(個人的な信条、目標設定)を常に書き出し、
自分と他者に確認しなくてはならないとしている。

私は、「自分とは何者であるのか、どう生きたいのか、どんな働き方をしたいのか」
そういうことは決意と覚悟がいると考えている。
それが座標軸としてあって、はじめていろいろなことがスタートする。

私は40代の半ばから、1年に一度、年末年始という一番区切りのいい時に
「年頭所感」というものを書いていた。
今年はどのような考え方で、何をするかというものを、毎年書き出し、
1月4日に出社したとき、部下などしかるべき人にそれを発信した。

一緒に仕事をする人には理解してもらわなくてはならないし、
人に伝えるということは、責任を生ずることでもあるからだ。


そして第3の習慣は「何が重要かを正しく把握する、自己管理する習慣」である。
リーダーシップは、重要事項は何かを正しく決めること。
マネジメントはそれを正しく実行することである。

自己管理する場合には、誠実さが求められる。
誠実さとは、言い換えれば、自分自身の中におく価値のレベルといえる。
自分の決意や約束を守る力であり、言行を一致させる力である。
人格主義の基礎的な原則であり、成長の本質といえる。



公的成功は「効果的な相互依存」のことをいうが、これは第1から第3の私的成功、
すなわち真の意味での「自立」がなければ成り立たないという。

ところでこの公的成功のためには、それぞれの人の信頼残高を高めておかなくてはならない。
信頼残高とは、人間関係において築かれた信頼のレベルを指し、
いいかえれば、その人に接する安心感ともいえる。

そのためには、礼儀正しい行動、親切、正直、約束を守るなどの行動を通じて
信頼残高を蓄積しておくことが大事である。

つまり「人格」という土台を抜きにして、
スキルなどだけでは公的成功を達成することはできない。


さて、第4の習慣である「win winを考える」というのは、
人間関係におけるリーダーシップの原則にかかわる習慣である。
それを実行するには、人間の4つの独特の性質(自覚、想像力、良心、自由意志)を
すべて発揮しなければならない。

win win というのは自分も勝ち相手も勝つということであるが、
世の中、自分は勝ち相手は負ける、相手が勝って自分が負けるとなりがちで、
win winn というのはかなり難しいことである。

win win の関係を作るためには、なんといってもその基礎に人格がなければならない。
この習慣は周囲の人たちとの協働・共鳴のことで、
特に、勇気と思いやりのバランスが求められる。


第5の習慣は感情移入のコミュニケーションの原則で、
「理解してから理解される」ということである。
つまり、相手の目を通して人生やものごとを見つめることであるが、
最初に相手を理解することが、win winの扉を開く。

人間関係について、大切な教訓は、まず相手を理解するように努め、
そのあとで自分を理解してもらうようにすることで、そうしたことが、
人間関係における効果的なコミュニケーションの鍵となる。

コミュニケーションは、人生における最も大きなスキルである。

相手に影響を与えたければ、まずその人を理解する必要があり、
それはテクニックだけではできない。日ごろ信頼関係を築き、相手が本音で
話せるような人格の土台の上に、感情移入の傾聴のスキルを積み上げていかねばならない。

ほとんどの人が理解しようとして聞いているのではなく、答えようとして聞いている。

聞くということは学ぶことで、真にお互いを深く理解するとき、
創造的解決や第3の案の扉が開かれる。


第6の習慣は、創造的な協力の原則、つまり「相乗効果を発揮する」ということ。
相乗効果とは、全体の合計が各部分の和より大きくなることで、
これは人生において最も崇高な活動であり、リーダーシップの本質と言える。

相乗効果はそれぞれの相違点を認め、尊ぶことで、
今まで存在しなかった全く新しいものが生まれることに繋がる。

本当に効果的に人生を営む人は、自分のものの見方の限界を認め、
他の人の考え方を取り入れる謙虚さを持っている人だ。


さて最後に、第7の習慣であるが、
これは「肉体と精神と、知性、社会情緒という人の持つ4つの大事な側面について
定期的に一貫して賢明にバランスよく磨き、向上させる」ということである。

しかし、ここまで言われると、私たち凡人には
「コヴィー博士、ちょっともう無理ですよ」と思ってしまう。

個人的には第6までの習慣で十分というか、
6つのうち2つでも、3つでもできたら良しとしたい 。

            <感謝合掌 平成27年6月7日 頓首再拝>

指導者の条件17(厳しさ) - 伝統

2015/06/08 (Mon) 19:25:20


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は公の立場に立って厳しい要求を持たねばならない。

初代梅若実は能の名人と言われた人だそうだが、
若い頃山階滝五郎という人のところへ稽古に通っていたという。

ところがある時、謡曲の一カ所を何遍繰り返しても「よし」と言ってもらえない。
かといって、「こうしろ」と教えてもらえず、
ただ「出来るまでやれ」と何度も謡わされるだけである。

それでついに涙を流しながら繰り返したけれども、それでも滝五郎は良いとは言わない。
そのうちにふと滝五郎の姿が見えなくなったので、
今日の稽古はこれでおしまいかと思い、帰ってしまった。

ところが、そのあとへ滝五郎が戻ってきた。
実がいないので、「どうしたのか。まだできるはずはないが」と家人に尋ねると
「先程帰りました」ということなので、大いに怒って、
「もう明日から稽古はしない」ということになった。

そこで驚いた実は再三詫びて、やっと許しを得、また厳しい稽古を重ねたというのである。
これはいわゆる芸道修行の厳しさというものであろう。

どんな道でも、名人、上手と言われるような人は、このような厳しい修行を経て、
初めてその域に達するのだと思う。
そして、そのためにはやはり教え導く立場にある者が、
そういうものを持たなくてはならないということである。

まして、世の指導者と言われる人々にはそのような厳しさは不可欠のものだと言えよう。
指導者として事を行うのは、いわゆる公事であって、私事ではない。

つまり、そのことによって、国家社会なり、人々に
何らかのプラスを与えるためにやるのであり、自分個人のためにやるのではない。
だから、指導者はそのことに怠りがないよう、自分に対して、また下の人に対して、
ある種の厳しさを持たなくてはならない。

それは個人的には一面つらいことであり、時には情においてしのびないということもあろう。
だが、そうした私情をおさえて、厳しい要望をし、厳しい追及をし、
過ちに対しては厳しい叱責をするということが、指導者が事をなすに当たって
求められているのである。

いわば、それは指導者が世間から無言のうちに求められていることだと言えよう。

指導者に公の立場に立った厳しさがあって、初めて人も育ち、事も成就するのだと思う。

            <感謝合掌 平成27年6月8日 頓首再拝>

人を活かす(10) 若者とともに育つホンダイズム - 伝統

2015/06/09 (Tue) 18:14:50


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


「わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉価な製品を生産する」

自動車修理の町工場からはじめて、やがて日本の自動車産業の牽引役となる、
本田宗一郎が率いた世界の「ホンダ」の社是である。

1956年1月のホンダ社報に初めて現れた社是には、
より具体的な 「我が社の運営方針」が付記されている。

その冒頭に「常に夢と若さを保つこと」とある。

22歳で独立した技術者上がりの稀代の経営者の頭の中には、いくつになっても
常に若者の中にある無限の創造力への敬意と憧れが占めていたらしい。

常識的には、若さは「無知」「未熟」の代名詞で、負の評価をともないがちだ。

エジプトのピラミッドの積み石の裏にも「今の若い奴は…」との古代の石工の落書きが
残っているというから、この常識から抜け出すのは難しい。

ところが本田宗一郎は、
常々「私は今の若い人たちを評価している」と公言してはばからなかった。

創業者世代の自分たちが知っている常識を若いものたちが知らないことをとらえて、
バカにしてはいけない、と言う。

「大人というやつは、うんと進歩的にものを考えても、
以前はこうだったという観念が根強く残っている」。

それが前向き、創造的な仕事の邪魔をする、というのだ。

「としよりは自分たちのやったことをよく反省し、
現代に合致しているかどうかを考えたうえでなければ若い人を批判する資格はない」
と別な場面でも語っている。

だからといって手放しでの若者礼賛ではない。
学校の成績はいいけれど、採用してみると仕事ができない者が意外に多いと本田は嘆く。

そこで、医者に聞いてみると、ものを考えるのは大脳で、
学校で成績評価の対象となる記憶力を司るのは親指ほどの部分だと知る。

「親指くらいのものが成熟したか、せんかで、
成績がいい、悪いなんて答えを出すのは僭越だね」

 
本田が求めたのは、ひらめきとアイデアのあふれる大脳が発達した若者なのだが、
“その教育は企業採用後にお願いします”と言わんばかりの公教育の惨状がある。
本田は言う。

「そこで重要なことは、上のやつがしっかりと人を見ることだな。
経営者がボンヤリしてるところで働いたって、しょうがない。
能力のある人が働けないからね」

人材鑑定の眼力が今ほど大事な時代はない。


            <感謝合掌 平成27年6月9日 頓首再拝>

吉田松陰(現実を掴め) - 伝統

2015/06/10 (Wed) 19:47:26


             *佐々木常夫のリーダー論より

山口県では「先生」と呼ぶ対象は、吉田松陰のみという。
また、萩の明倫小学校では今でも日々、松陰の言葉を子どもたちに暗唱させているという。

長州藩は幕末・明治維新以来、数多くの英傑を輩出してきたが、
その中にあって吉田松陰は別格扱いで、真の先生と位置づけられている。

松陰は、天保元年(1830年)に長州藩士・杉百合之助の二男として生まれ、
叔父の吉田家に養子となり、もう一人の叔父、玉木文之進によって勉学を厳しく叩き込まれた。

すでに10歳で藩校・明倫館の兵学教授として出仕、
ときの藩主・毛利慶親の目に留まり、藩の期待を担いながら、その才能を伸ばしていく。

彼は攘夷論者ではあったが、安政元年(1854年)アメリカのペリー来航のときは、
外国を排斥するには、まず相手を知らなくてはならないという考えから、アメリカ行きを決意する。

金子重輔と共に、伊豆下田に停泊中のポーパタン号に乗船して密航を企てるも、
幕府との条約締結を急ぐペリーに拒否される。

乗船したとき、乗り捨てた小舟の中に、師、佐久間象山の手紙などがあり、
いずれ密航が露見すると考え、舟が発見される前にと下田奉行所に自首して出る。

鎖国であった当時は、密航は大罪であった。
その後、長州に引き渡され、野山獄に幽囚される。

野山獄中では3年間で1500冊の本を読んだというが、
あの書物が少ない時代に、年間500冊とはすさまじいともいう数であり、
あくなき知識欲のあった人物だったということだろう。

野山獄を出た後、自宅で松下村塾を開き、多くの人材を育成する。
安政5年(1858年)幕府が勅許ないまま、日米修交通商条約を結ぶと、
これを激しく批判したため、安政の大獄で、29歳の若さで斬刑に処される。

わずか3年ほどの間に、長州・萩の周辺の有為な人材を教育し、
その後、歴史に残る人物、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山縣有朋など、
おびただしい英傑を生み出した比類なき教育者であり、
その思想は明治維新の方向性を決めたともいえる。

幕末という時代の趨勢が、多くの人材を一気に求めたということもあったが、
それ以上に松陰には本質的な人間的魅力と、人の良さを認め、伸ばすという
特別な人格と才能があったということだ。


松陰が比類なきリーダーであったという理由は大きく二つある。

一つは、会った人を引き付け、強い影響を与え、
その人の潜在能力を引き出す人間力があったことである。

松陰は、純粋無垢な性格で、どんな人からでも学ぶ姿勢を貫き、
常に人間を平等に扱い、その発するオーラは他を圧倒した。

松陰はそれぞれ違う人間能力の相乗効果――人間の掛け算が大事だと考え、
そのパワーが幕府を倒し明治維新を実現した。

さらに、彼は「ぼくは君たちの師ではない、同志だ、共に学びあおう」と常に謙虚で、
その真摯な姿に周りの人たちが引き付けられた。

彼は激情家と言われる面もあるが、
実際には極めて冷静で緻密な行動をとっており、時間活用術にも優れていた。

エネルギーのロスを絶対に無駄とは思わない勤勉家でもあったが、
なんといっても人を見る目の確かさ、人間洞察力は一流であった。

松陰の主張は「天下は幕府のものではなく、天下は天朝のものであり、天下の天下」とし、
のちには「朝廷も幕府も大名も必要ない。いま国難を解決できる力を持っているのは
日本の民衆だ」と述べているが、あの幕末において珍しくも人間平等思想を提起していた。


松陰のもう一つ優れたところは、単なる教育者・思想家ではなく、
徹底した実学者・実践者であったことだ。

つまり知識を得るだけでは何の役にも立たないとし、
まず志を立てること、そしてそれを実行すること、
つまり「立志と実行」が、松陰の学問に対する基本姿勢であった。

それまで主流であった朱子学に、知行合一という陽明学を取り入れたのだ。

そのため「経済と情報」を重視し、
算術は士農工商いかなる人にとっても、必要なものであるし、
世間のことでそろばん珠を外れたことは全くないという考えを持っていた。

「飛耳長目録(ひじちょうもうろく)」というメモを作り
「いつも耳をピンと立て目を横に大きく開いて現実を見ること」
今でいうと新聞の切り抜き集をテキストとして活用し学問につなげた。

自ら東北・九州を歩き回ったが、この時代に松陰ほど、全国あちこち歩き回った人間はいない。
幽囚された後では、周りの人たちや門人などから多くの情報を収集した。

松陰は調査魔であり情報魔であったが、なんでも見てやろうという気持ちが強く、
日常の出来事にさえ、異常な関心・好奇心を持っていた。

現実の生活に苦しんでいる人たちに役立たなければ、
学問の意味はないと考え、常に実際に役立つ実学を追求した。


私はリーダーに求められる要諦は、
決断力や大局観などの前に「現実把握力」であると考えている。

今何が起こっているのか、何が問題なのか、それはどうしてか、といったことだ。
その現実を正しく把握することで正しい対応策、正しい思想が出てくる。

私は以前、身を置いた会社の中で、
20いくつもの赤字の会社や事業を黒字にしてきたが、
事業再構築するとき、最も肝要なことは、何が現場で起こっているのか、
何が問題なのか、何が赤字の原因なのかを正しく掴むことである。

その現実さえ掴めれば、正しい対応策が現れる。


松陰は、常に社会で起こっている問題を政治的立場で考える教育に徹した。

松陰が人間として優れているところは、明解な思想があったことだけではなく、
ペリーにアメリカ行きを直談判したような行動力があったことである。

それと松陰がリーダーとして特筆すべきは、己の思想に強い信念を持っていて、
意見書ひとつ出すにしても、常に死を覚悟して臨んでいたことだ。

松陰は老中暗殺容疑が原因で江戸送りされたものの、
幕府は松陰が意図した暗殺事件は、ほとんど実態のないもので、
死罪を言い渡すつもりはなかった。

しかし本人が幕府の政策に異議を唱え、自分は本気で、老中を殺そうとしたと
主張したために、井伊直弼の逆鱗に触れ、死罪となってしまった。


彼が刑の執行直前の2日間で書いたといわれる「留魂録」の冒頭にある和歌1首は、
松陰の面目躍如たるものだ。

「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

松陰は自分の死を一つの贈り物にして、門人たちに決起を促したと思われる。

そして留魂録の第8章には

「私は30歳で生を終えるが後悔はない。人にはそれにふさわしい春夏秋冬がある。
10歳にして死ぬ者には、その10歳の中におのずから四季がある。
20歳には20歳の四季がある。五十、百歳にも四季が備わり、ふさわしい実を結ぶ。
私も花咲き実りを迎えた。
私のささやかな真心を憐み、受け継いでやろうとする人がいるなら喜ばしい」とある。


現代文に訳すと、これらの文章の凄味にやや欠けるが、
私は「留魂録」は死に直面した人間が悟り得た死生観を語る
日本史上最高の遺言書だと思っている。


            <感謝合掌 平成27年6月10日 頓首再拝>

決断と実行(1) 15億円設備投資の勝算 - 伝統

2015/06/11 (Thu) 17:50:07


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


本田宗一郎は、「おれのこの手があればどんな機械ででも最高のものはできる」と、
古い工作機械で、その湧き出るアイデアと手先の器用さによって次々と
斬新なオートバイエンジンを生み出していった。

2サイクルエンジンが常識だったオートバイに
新型の4サイクルエンジンを搭載したドリーム号が爆発的に売れ始めた。

さらに庶民の足である自転車に小型エンジンを積んだカブ号も人気商品となった。

同業他社も追随し、激しい販売競争が起きた。
「今が考え時だな」とその先を見越していた男が本田の傍らにいた。

本田のモノづくりの姿勢と技術力、そして奔放なアイデアに惚れ込んで
財務・営業担当として本田と組んだ専務の藤沢武夫だ。

昭和24年に拠点・浜松から東京への進出を目指していた本田の元に馳せ参じた藤沢は、
仲介者に「俺、かねはないけれども、かねはつくるよ。かねのほうは受け持って、
ひとつ一緒にやってみたい」と伝えている。

金をつくるという点で藤沢は本田に劣らぬアイデアマンだった。
全国にある街の自転車店をホンダの販売店に仕立て上げた。

しかも、パンフレットを送りつけて「品質は責任を持つ」と売り込み、
先金でオートバイを買い取らせたから財務体質は強固さを増した。

モノづくりに没頭する本田からは、次々と世の先端を行く試作車が持ち込まれていた。
「これは売れる。となれば、さらに最新の設備が必要だ」と判断した。

「よし機械を買おう」。決断すれば速かった。

「社長、もっと買えよ。欲しい機械をどんどん入れてくれ」と本田に掛け合った藤沢は、
ひとつ注文をつけた。「そのかわり、すぐ動かしてくれよ」

社長の本田を米国に機械の買い付けに向かわせ、ヨーロッパにも人を出した。

速いだけではない、その投資が半端ではない。
資本金六千万の会社が、2年間で米国、スイス、ドイツから
合わせて15億円の最新工作機械を輸入した。

そして本田は、機械を遊ばせるどころか酷使してアイデア商品を形にしてゆく。

「本田へのこの信頼がなかったら、たとえ経理的に余裕があっても、
この大冒険に踏み切れなかった」と、藤沢は振り返っている。

いつ、どれだけの規模で設備投資するか、しないか。
その判断はどの企業でも苦心のたねだ。

正確な状況分析はもちろんのこと、決断、行動の速さと大胆さが求められる。

「六日の菖蒲、十日の菊」では、幸運の女神の前髪をつかむことはできないのだ。

            <感謝合掌 平成27年6月11日 頓首再拝>

指導者の条件18(決意を強める) - 伝統

2015/06/12 (Fri) 19:13:51


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は一度決心してもそれを自らたえず強めなくてはならない

チャイナの春秋の時代、呉王こうりょは越王こうせんと戦って敗れ、
その時の怪我が元で死んだが、臨終にあたって、息子のふさに
必ず仇を討って無念をはらしてくれと遺言した。

以来ふさは毎晩薪を積んでその上に寝ながら、必ず父の仇を討つという心を新たにしつつ、
兵を養い、機会を待ち、3年足らずで、みごと越を破り、こうせんは降参した。

ところが、今度はこうせんが敗戦の恥辱をそそごうと決意し、いつもかたわらに胆を置き、
たえずその苦さを味わうことによって、雪辱の念を持ち続けたのである。

そして、ようやく12年を経て、隆盛にいささか心おごったふさの油断をついて、
ついに最後の勝利を握った。

いわゆる臥薪嘗胆という言葉はここからきているという。

指導者にとって大事なことは、一つの志を持つということである。
なんらかの志、決意というものがあって初めてことはなるのである。

だから志を立て決意をするということが必要なわけだが、
それは一度志を立て、決心すればそれでいいというものではない。

むしろ大事なのは、そうした志なり決意を持ち続けることである。
そのためには、やはり、たえず自らを刺激し、思いを新たにするようにしなくてはならない。

ふさとこうせんはそのことをそれぞれに、自分で工夫してやったわけである。
我々は日頃柔らかい夜具に包まれて寝るが、これが固い床の上に寝たら
体が痛くてなかなか眠れないだろう。
まして凹凸の激しい薪の上では容易に寝付かれるものではあるまい。

その寝付かれない夜ごと夜ごとに、父の無念を思い、仇討ちの心を強めたのである。
そして見事目的を達したのだけれども、それほどまでしたふさにして、
なお本懐を遂げた後は気がゆるみ、心におごりが生じて、
こうせんにしてやられたということは、人間の弱い一面を物語っているのだろう。

一度志を立て、決意することによって、非常に偉大なことを成し遂げられるのも人間であるが、
その志、決心をなかなか貫き通せない弱さをもあわせて持つのもこれまた人間である。

だから、別に薪の上に寝たり、胆をなめたりする必要はないが、
自分なりに方法を講じて、日々自分を励まし、決意を新たにしていくということが、
指導者にとって大切な心構えの一つだと思う。

            <感謝合掌 平成27年6月12日 頓首再拝>

リーダーの器量 - 伝統

2015/06/13 (Sat) 18:22:07


            *メルマガ「人の心に灯をともす(2011-07-09)」より

   (致知出版社藤尾秀昭社長の心に響く言葉より…)

   明治のリーダーたちは、リーダーたるにふさわしい器量を備えていた。
   何よりも特筆すべきは、彼らの溢れんばかりのバイタリティであり楽天性である。

   そのバイタリティーと楽天性が野放図(のほうず)に流れず、
   「武」と「学」の鍛錬によって陶冶(とうや)されている。
   彼らの人間的迫力、人間的器量はそこに起因している。

   一にバイタリティ、二に楽天性、三に絶えざる自己修養。
   この三つはいつの世もリーダーに欠かせない資質といえる。

   国も会社も家庭も、そこにどういうリーダーがいるかで決まる。
   どういうリーダーがいるかで、国、会社、家庭の浮沈、盛衰が左右される。
   いつの時代でも問われるのは、リーダーの器量である。

   では、人間的器量はいかにして養えるのか。
   安岡正篤師は、『経世瑣言(けいせいさげん)』の中でその要諦を端的に示している。


   「まず、第一に古今のすぐれた人物に学ぶことです。
   つまり、私淑(ししゅく)する人物を持ち、愛読書をもつことが、
   人物学を修める根本的、絶対的条件であります。


   次に大事な条件は、怯(お)めず、臆(おく)せず、勇敢に、己を空しうして、
   あらゆる人生の経験を嘗(な)め尽くすことです。
   人生の辛苦艱難(かんなん)、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰を勇敢に体験することです。

   その体験の中にその信念を生かしていって、
   初めて治行合一(ちこうごういつ)的に自己人物を練ることができるのです」


   リーダーの器量は一朝一夕には成らない。
   不断の長い修練の果てに培われる、ということを忘れまい。

        <『月刊 致知(リーダーの器量)』8月号・致知出版社>

               ・・・

安岡正篤師の有名な言葉『六中観』の中に、

「意中有人(いちゅうひとあり)」、
「腹中有書(ふくちゅうしょあり)」がある。

「意中有人」とは、心の中に尊敬する師を持ち、誰かに推薦できる人があることだ。
「腹中有書」とは、自分の哲学や座右の銘、愛読書を持っていることである。

まさに、人物学を学ぶにはこの二つが特に必要だ。

尊敬する師や、座右の書は、古今の歴史上の人物であったり、古典であることが多い。
つまり、人物学とは、歴史を学ぶことでもある。

明治維新、昭和恐慌、大震災、戦争、敗戦、という、時代の大きな節目を経験した人のほとんどが、
明日のことや先のことはわからなかった。
大変化とは、不連続で、誰もが先が読めない時代なのだ。

誰もがわからないなら、悲観的に考えても、楽観的に考えても、確率は同じ。
ならば、楽観的に考えた方が世の中を楽しく暮らせる。


この大きな時代の変化を乗り切るため、絶えざる自己修養を繰り返し、
しかもバイタリティを持って、楽天的に生きてみたい。

          <感謝合掌 平成27年6月13日 頓首再拝>

キングスレイ・ウォード(人生に真摯たれ) - 伝統

2015/06/14 (Sun) 18:45:27


             *佐々木常夫のリーダー論より

私はキングスレイ・ウォードというカナダの実業家が書いた
「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」を40歳頃のとき読んでいたく感動した。

キングスレイ・ウォードは化学事業を興し成功した人だが、
ビジネスマンとしての働き盛りのときに2度にわたる心臓の大手術を受け、
死に直面した彼は、生きているうちに自分の様々な経験を息子に伝えたいと
切実に願うようになり、息子が17歳のときから20年にわたり30通の手紙を書いた。

この書簡は、発表など考えもしなかったもので、
いわば父親としての遺書代わりに書かれており、
それだけに率直で心がこもっていて読む人の心を捉える。

そこには、いつも礼儀正しくふるまうこと、人に会う前はきちんと準備しておくこと、
お金は大切に使うことといった細かなことから、経営者としてとるべき態度や手法、
事業運営上の留意点といった大きな問題に至るまで、
父親らしい愛情に満ちたアドバイスが溢れている。

私はこの本を読み、父親の息子に対する愛情の深さと、ビジネスマン、
あるいはリーダーとしてあるべき心得を教えられ、それ以来、私の座右の書になった。

私は6歳で父を亡くしていたが、
父親とはこれほど暖かな存在なのかと感じられたため、
その衝撃はなおさら大きかった。

私はこの本を何度も読み返し、私のその後の人生の指針になったが、
まさに「一人の父親は百人の教師に勝る」である。
いわば、キングスレイ・ウォードは私の父親になったようなものだった。

ウォードは息子への手紙を通して、
ある意味、真のリーダーはどうあるべきかを説いている。

私が考えるリーダーの定義とは「その人といると、勇気と希望をもらえる人」であるが、
ウォードはまさにそういう人になるためにはどうすればいいかを語っている。

この一連の手紙は一貫して「常識」を説いているが、
その「常識」とは、リーダーとしての行うべき原理原則のことである。

この30通の手紙には、リーダーとして肝要なことが大きく二つあり、
そのひとつは「礼儀正しさは最大の攻撃力である」あるいは
「成功する人の共通点は規律を重んじている」という
人生に対する真摯さというか基本スタンスである。

「いつも時間を守りなさい」
「定刻に出社するという責任を果たせない人にどうして仕事をまかせられるか」
「周りの人に対する心遣いをしなさい(ありがとう、どういたしまして)」
「相手の話をよく聞きなさい、沈黙は相手の知性と考え方に対する敬意を表す」
「信用は細い糸、ひとたび切れると継ぐことは不可能に近い」などといった内容で、
そういった正しいマナーが人を作っていく。

自分の周りにいる人たちを大切にする、思いやることが
リーダーとしてどれほど大事なことかというと、私がこのコラムで紹介してきた
土光敏夫も西郷隆盛も優れたリーダーには、常に自分の周りの人たちに、
深い愛情を持って接していたという事実でもわかる。

ウォードは「社員は会社の血液と同じだ」と息子に語っているが、
それは社員一人ひとりが尊重され尊厳をもって
個人が生きることができるようにしなさいと言うことだ。

そうした気持ちや態度で人に臨んだら、「7つの習慣」のコヴィーの話のとき触れた、
いわば「信頼残高」を高めていくことができ、誰しもその人についていこうとする。

組織を率いるリーダーは、そういった真摯さと自制心を心の軸に持つことが求められる。


次にキングスレイ・ウォードの説くリーダーのもうひとつ大事なこと、
「リーダーとは学ぶことが出来る人」ということについて触れたい。

事業経営に関する意思決定のほとんどが、幾度か繰り返されてきたもので、
たいていは書物に書き記されていることは、プロのビジネスマンたちはよく知っている。

この世の中で全く新しいということはあまりなく、人の一生やビジネスは反復的な面が多い。
私たちは自分ですべての過ちをする時間的余裕はなく、他人の過ちから学ばなくてはならない。
これを上手に出来る人が、優れたリーダーに育っていくとウォードは言う。

私は自分の本の中で「プアなイノベーションより優れたイミテーション」ということを書いた。
この言葉の意味は、会社の中には先輩が作成した書類、先輩が経験した事例が山ほどある。
それを借用したり、人の話を聞いたりすることで、過去の優れたサンプルを仕事に生かして
いくことが、大きな成果に結びつくことに繋がる。

リーダーとは他の優れた事例を効率的に身に付けていける人のことであるが、
そのためにはそうしたことを学ぶ力が必要だ。
学ぶ力を得るためには、人から学ぼうとする謙虚さがいる。

この本は優れた企業経営者である父が、リーダーとはいかなるものか、
息子にわかりやすく説いたもので、平易な表現でもあり、
いかにも常識的なことの羅列のように見える。

しかし、常識ある人間とは、リーダーの要諦であり、
孔子も「70にして心の欲するところに従っても矩を超えず」と言っている。
常識的なことを自然に行えることが、リーダーとして大切なことである。

ウォードは「二人の人間が全く同じ考えを持つことは無い。皆、生き方や考え方が違う。
それを認めて経営をしなさい」と息子に言う。

これは最近の言葉でいえば、ダイバーシティの考え方に立っていて、
個人の個性を認め、その良いところを伸ばしていくのがリーダーの努めである。

リーダーと言うのは組織を束ねて、大きなエネルギーを起こし、
結果を出していくことを求められている。
そうしたさまざまな人のさまざまな生き方、考え方を受け入れ組織として強くしていく。


また、ウォードは生活のバランスを保つ重要さも息子に教えている。
仕事に行き詰ったら、一時、心の中にその問題を預け、しばらく寝かせる。

その間に、運動したり読書をしたりすること、特に自然に接することを勧めている。
自然の中で釣りをしたり狩をしたりして、時間がたてば無意識の内に考えが整理され
まとまってくる。

そういう意味で、自然がこの世の中での最高顧問であると言う。

趣味や家族と楽しむ時間を持ち、生活のバランスを保っている経営者を打ち負かすことは難しい。
そのような人は仕事にも合理的で、健全で、バランスの取れた姿勢で取り組むからである。

ウォードの手紙は「あとは君に任せる」という、人生の達人者の言葉で締めくくられている。

そこには「いろいろ言ったが、もう経営のことで君と話することは一切無いだろう。
私には君のお母さんと、この20年間で旅行に行ったことが2回しかないので、
その数字を書き換えたい。

北部の湖水にはまだたくさんの魚がいて私に釣り上げてもらうのを待っている。
時間が無くて思うに任せなかった本も52冊ある。
私はまだまだ人生を楽しむことになるだろう」とあった。

昨今、企業経営者の中にはいつまでも会社にしがみつき、権力を手放さない人がいるが、
そういう人に聞かせてあげたいリーダーの言葉である。

            <感謝合掌 平成27年6月14日 頓首再拝>

決断と実行(2) 決意の舞と慢心の謡 - 伝統

2015/06/15 (Mon) 19:17:30


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


尾張一国を掌握したばかりの織田信長を天下取りの第一人者に押し上げたのは、
今川義元を打ち破った桶狭間の合戦だった。

江戸時代以来、勝因は休息中の今川軍を側面から襲った奇襲攻撃にあったとされてきた。

しかし、近年の研究では、信長は正面からの突撃で10倍の敵に挑み、義元の首を取った。
無勢で多勢を破った勝因はどこにあるのか。

尾張東部の大高、鳴海の両城を謀略によって奪った義元に対して、
信長は5つの砦で2つの城を包囲していた。

上洛の障害である信長を除こうと義元は、その砦を蹴散らすために大
軍を率いて駿府(静岡)を発ち西へ向かう。

合流した徳川家康の兵を合わせて、その数4万。

清洲(名古屋)にいた信長は、2つの選択肢の間で迷っていた。
籠城して義元の大軍をやり過ごし勝機を待つか、撃って出るか。

 
戦いの前夜、悩む信長のもとに、砦のふたつが落ちたとの報が届く。

 「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり…」

人生の有限をうたう幸若舞「敦盛」を舞い終えると決然と馬を引かせ、
側近5騎と雑兵200のみを従えて出陣した。

熱田神宮に到着するころには、籠城論に傾いていた家臣たちも、
信長の決死の覚悟に押されて追いついた。

戦意を確認すると前線の善照寺砦へと早駆けに駆ける。その勢4000。

10倍の兵を従える義元の陣は、数キロ東の桶狭間山にある。

逆上したかのように城から撃って出た信長だが冷静な判断があった。
籠城して兵を温存しても、「信長は臆病」と義元に見くびられる。
家臣たちも離反するだろう。先はない。

 
ならば一戦交えて、引けばいい。
10倍の敵に勝てると思うほどの思い上がりはない。

 
兵を率いて、さらに前進し中島砦に移る。
敵の手に落ちた2つの砦が背後となる。

敵中に飛び込む無謀を側近たちは諌めたが、
信長は、「砦の敵との間は湿地で相手は動けない」と
目にした地勢を判断し決意はゆるがない。


軍事用語から転じて経営場面でも陣頭指揮という。
有事でもないのに前線に出たがるのは真のリーダーではない。
現場の邪魔になるばかり。

 
ここぞの場面で危険を顧みず現場に入るのが真の陣頭指揮だ。

士気を高めるだけではない。
現場にいてこそ、自らの目で迅速に適切な判断が下せる。

 
対する義元は、前日の砦奪取で慢心していた。
「信長もわが大軍に怖じ気づいて出て来られまい」と、
日中に宴を張り、自ら謡を三番うたったという。

電撃的に動いた敵将自らがすぐそこにいることにも気づかず。

 
決断すれば敵に知られず迅速に行動する。

勝利の鉄則である。

            <感謝合掌 平成27年6月15日 頓首再拝>

指導者の条件19(権威の活用) - 伝統

2015/06/16 (Tue) 20:13:02


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は時に何かの権威を活用することも大事である。

織田信長が今川義元を討った桶狭間の合戦の時のことである。
信長は戦に先立って、熱田神宮の社前に兵を集め勢揃いした。
そして、必勝の祈願文を捧げたが、その最中に社殿の奧で武具の触れ合うような音が聞こえた。

そこで信長は「皆の者あれを聞いたか、あれこそ神が我々の願いを聞かれ、
我が軍の上に加護をたれたもうしるしだ」と告げたところ、
全員非常に意気上がったというのである。


信長は、後に比叡山を焼き討ちしたり、本願寺と戦ったりもしたように、
彼自身は神仏を信心し、これに帰依するといったことの少なかった人らしい。

同時に彼は極めてワンマン的な大将でもある。

その信長がこうした形で部下を鼓舞し、士気を高めたのは非常に興味深い。

味方に十倍する今川勢を迎えてのこの合戦はほとんど勝ち目のない戦いである。
だから重臣もみな籠城を主張している。

従って、信長がいかに叱咤激励しても、部下はなかなか不安をぬぐいきれない。
そこで神の加護といういわば絶対的な力を借りて、部下を勇気づけたのだろう。

つまり、信長は神という一つの権威を活用することによって、
士気を高め、奇跡的な勝利を生み出したのだと言える。

こうした権威の活用ということは指導者として心得ておいていいことだと思う。

何事も自分の考え、自分の発想として進めていくのも一つの行き方だろうが、
そこに、より大きな権威を持ってきた方が説得力を増す場合が多いものである。

早い話が宗教でも、お坊さんや牧師さんがお説教する場合、「私はこう考える」というより、
「お釈迦様がこういっておられる」「キリスト様がこのようにおっしゃった」といった方が、
ずっと説得力があり、聞く人にとっても有難味が深いものがあると思う。

一つのよりどころとなる権威があれば、みなそれを中心としてものを考え、
それを出発点とするから、迷いも少なく、足並みもそろって、非常に力強いものが生まれてくる。

だから、神仏でもいい、偉大な先人なりその教えでもいい、
あるいは伝統の精神、創業の精神といったものでもいい、
いずれにしても何らかの権威があることが極めて好ましい。

もちろん、権威に盲従したり、これを濫用してはならないだろうが、
指導者は、そういう権威がすでにある場合にはそれを適切に活用し、
それがない場合には何らかの形で生み出していくことも大事だと思う。


            <感謝合掌 平成27年6月16日 頓首再拝>

本田宗一郎(押し寄せる感情と人間尊重) - 伝統

2015/06/17 (Wed) 19:50:29


             *佐々木常夫のリーダー論より

私は「こんなリーダーになりたい」と言うテーマで、
最初に取り上げたいと思った企業経営者は、松下幸之助と本田宗一郎だった。
しかし、本田宗一郎のことを知れば知るほど取り上げることを躊躇してしまう。

それは普通リーダーとなる人のタイプは、沈着冷静だったり、
自制心が強かったりといった特長があるのに、

宗一郎の場合は子どものようなところがあり、
まるで悪ガキがそのまま大人になったような面があるからだ。

押し寄せる感情の量が人より多く、それを抑えようとはせずいつも感情がほとばしり出てくる。
仕事をしていても理屈に合わないことが起こったり、手を抜いたりすると本気で怒る。
その激しさは、時に部下を殴ってしまうこともあったという。

そういう人であっても、16歳で丁稚奉公となり、22歳で創業し、42歳でホンダを興し、
在任中はもちろん退任後も急速な成長を実現するとともに、社員全員に強烈な
「ホンダフィロソフィー」を植え付け、人材と組織の基盤を築き上げた
この宗一郎のリーダーシップには、やはり触れておかなければならない。

宗一郎のリーダーシップには2面性がある。

その一つはなんといっても前を向いて個性をむき出しにし、
あくなき追求をし周囲を巻き込んで結果に結びつけるリーダーシップである。
もう一つの面は、そうであるのに人への目配り、気配り、思いやりが尋常でないことである。

さて、まず最初の激しい感情のことに触れたい


1952年、事業拡大のため、無謀にも資本金の30倍の4億5千万円の工作機械を購入したことがあり、
その結果、経営は苦境に陥るものの持ち前のチャレンジ精神で、何とか乗り切った。

また1954年、世界最高のオートバイレースのマン島TTレースを見て、
その水準の高さに驚きながら、1959年から参戦し、61年には125CC、250CCとも
1位~5位をホンダが独占優勝するなど、常に不可能とも思えることに挑戦してきた。

また宗一郎は約束を守ることに厳しかったが、
その約束事の中で、最も大事にしたものは時間であった。

なぜ時間に拘ったかといえば、人生に残された時間の短さに比べ、
その間に自分が成し遂げたいことがあまりにも多かったからだ。

頭の回転が速く、次から次へと試したいアイディアが出てくる。
「能率とはプライベートの生活をエンジョイするために時間を酷使すること」と言っていた。

彼の遊び方が、けた外れだったのも、狂気の淵に近づくばかりの仕事人間だったから、
精神のバランスをとるためにも、遊びにのめりこんだと思われる。

感情丸出しで、鬼気迫る激しさで仕事に集中していくが、
彼の場合、存在そのものがメッセージと言ってよい。

女性問題においても、何度か妻さちに隠れて愛人を作ったようだが、
それもまた強烈な仕事ぶりとのバランスをとるための解放の場が必要だったのかもしれない。

人は成長し大人になるにつれて、丸くなり割り切ったり
あきらめたりするようになるものだが、彼にはそれができない。
分別臭くなるヒマもない高い志であったとも思われる。

生前に自分の戒名を「純情院無軌道居士」と付けたというが、
自分でも抑えきれない感情が湧きあがってくるようだ。

それでも周囲の人が彼についてくるのは、なんとしてでも成功させようという志の高さと、
実行する道筋の論理性と納得性であった。

宗一郎がこのようなことができたのは、もちろん持って生まれた気質が第一ではあるが、
会社では副社長の藤沢武夫、家庭では妻さちという強力なサポーターがいたことも大きい。

「本田さんは常に未来を語る人、藤沢さんは過去にすべての鍵があると考える人」と
周囲の身近な人は言っていたという。

次に、彼のリーダーシップのもう一つの面、
後ろから付いてくる人たちに対する目配り、気配り、思いやりについて触れたい。

宗一郎は、社長を退任したあと、自分を支えてくれた国内の
700ヵ所の営業所・サービス工場に、ありがとうのお礼と握手の旅に出た。
退任後、全社員にお礼を言うために出かけたトップの話は聞いたことが無い。
67歳というのに、日によっては一日400キロ、1年半かけての車の旅だった。

「ホンダフィロソフィー」の1丁目1番が「人間尊重」で差別が諸悪の根源と、
彼は考え社員一人一人を大事にしてきた。

一方、人間は所詮、私利私欲もあり、好き嫌いもある弱い存在とも考えていたし、
「自分だって儲けたい、幸せになりたい、女房に隠れて遊びたいという普通の男だ」
と平気で言っていた。

もし、企業家として他人と違っているとしたら、
「人に好かれたいという感情が人一倍強いこと」とも言っている。

彼は相手の立場に立ったり、そのとき何を伝えるべきか、何を感じるかということについては、
ある意味人間の達人と言っていいほどの感受性を持っていた。
人間というものの観察と理解において極め付きのリアリストであった。

また、考えることは人間の権利であるだけではなく人間の楽しみでもあるが、
社員の「考える権利」「考える楽しみ」を与えるのが、経営者の責任であり、
そのことが人間尊厳の原点であると考えてきた。

彼は自分がそうであったから、他人にもそうありたいと強く望んだ。
そうすることで社員一人ひとりが、モチベーションを上げ、自己実現を達成することになり、
その結果、会社が伸びていくことに繋がる。

人間の弱さ、強さを人一倍理解できた宗一郎だったからこそ、
人間を活かす哲学を持ち、経営の現場に取り入れていった。

考える楽しみを持てば、理想や目標を持つようになり、
そうなれば弱い人間も勇気を持て強くなれる。
そして強い精神は容易なことを嫌い、今度は自分で困難を発明していく。

また彼は人を喜ばせたいと考え、1951年創業当時「造って、売って、買って」という
3つの喜びを挙げ、これをホンダのモットーとした。
成長でも利益でも技術でもない「喜び」をキーワードにしたのだ。

そして「自分は人のためには仕事をしない。自分のために仕事をする」とも言い切っている。

私は以前、ホンダで前社長の福井さんと対談したことがある。
そのとき、福井さんは入社式で新入社員に話したことを聞かせてくれた。

「君たちがホンダに入ってきて、ホンダウェーを学ぶのもいいだろう。
しかし、君たちはこの会社に何かを持ってきて、何かを変えていかなければ明日のホンダはない。

人は何のために働くかといえば自分のために働くのだ。
それはいつの時代も、世界中どこでも当たり前のことだ」

どこの会社に「会社のためではなく自分のために働け」という社長がいるだろうか。
ホンダには宗一郎が亡くなっても、その思想、志は脈々と伝わっている。
それは宗一郎の考えたこと、実行したことが本物だったからだろう。

私は埼玉県和光市にあるホンダの研究所に行ったとき、
駅前で道を聞いた人がホンダの部長さんだったが、会社まで案内する道すがら
「うちの福井は大した男ですよ 云々」と話し始めた。

自分の会社の社長をこのように表現する社員、宗一郎の自由闊達な思想が
よく受け継がれているものと感じ、大層うらやましく思ったものだ。


・・・

記事数がキリのよい数字に達しましたので、
次回からは、新たなスレッドにて、続けて進めてまいります。

            <感謝合掌 平成27年6月17日 頓首再拝>

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