伝統板・第二

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神武天皇(1) - 伝統

2015/04/03 (Fri) 04:54:06

今日、4月3日は、【神武天皇祭】です。

2月11日の紀元祭(「建国記念の日」)は、神武天皇が橿原神宮で御即位になった日
として全国でお祝いの行事が行なわれます。

今日4月3日は、神武天皇崩御の日で、戦前は神武天皇祭として国の祭日になっていました。

 *参考Web 平成27年春の神武祭
    → http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/saijiki/4_jinmusai.html


皇居では、「建国記念の日」での行事はありませんが、
4月3日の神武天皇祭では、宮中三殿のひとつである皇霊殿で祭典が行なわれ、
今上陛下が、神武天皇さまの霊をお祭りします。

4月3日は、神武天皇の崩御の日(太歳己卯=紀元前586年・3月11日)を
新暦に換算した日となっています。

神武天皇は、日本建国の理想として、道義立国とし、
民衆を国家の大元、大御宝(おおみたから)であり、
天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下の大家族のように仲良くくらせるようにとする
「八紘為宇」の精神を示されました。

日本神話には「永久不変の真理が記されている」といわれております。
その「永久不変の真理」とは、「すべてのいのちは天之御中主神のおいのちの分けいのちであり、
それぞれがところを得て調和していく」という生命観・国家観・世界観です。

神武天皇は、古事記・日本書紀によれば、
高天原から日本に降臨した皇孫ニニギノミコトの曽孫に当たります。

神武天皇は、当時、我が国が、氏族が割拠し、対立抗争していたのを見て、
上記の、この生命観・国家観・世界観を体現すべく、

皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)の理想とする国を作ろうと考え、
九州の日向(ひゅうが)から東征を行ないました。

そして、様々な困難を乗り越えて、大和に入り、奈良の橿原(かしはら)の地で、
初代天皇に即位(『日本書紀』は、この年を紀元前660年としています)され、
『橿原建都の詔』に国の理想として示されたのです。


(*神武天皇は東征の途中、三本足を持つカラス「八咫烏」の導きによって無事に
  大和国に入ることができました。このカラスが、日本サッカー協会のシンボルマーク
  に使われており、故事に倣って「勝利へ導く」という意味合いが込められていいます)


『八紘為宇』とは大和の精神、『和』のこころです。
つまり、大宇宙の理法、真理そのものが、
国体=国の姿として現れ出たというところにあるのです。

「建都の詔」には、

「苟(いやし)くも民に利あらば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」

という言葉があります。

「民」は「おおみたから」と読みます。

この意味は、「国民を幸福にすることこそ天皇の任務」ということであります。

そこには、天皇は国民を宝のように大切に考えるという姿勢が表れています。
そして、国民の福利をめざす政策を行おうという方針が示されています。

以来、わが国では、覇権ではなく徳をもって国を治めるという理想が、受け継がれてきました。
この「まず、国民を第一義」とされるお心は、
歴代天皇が御読みになった歌やお言葉に垣間見ることができます。
(参照 → 本流宣言掲示板「大御歌」
      http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=72


戦前までは、神武天皇祭の歌もあったようです。

(作詞・作曲:不詳)

  祝へよいはへ皆祝へ  四方をのぞめば軒毎に
  国の御旗はひるがへり 家内をみれば神床に
  神酒を捧ぐ今日はしも わが日の本の遠津祖
  神武天皇の御祭りぞ  皇国に生し民ならば
  真心こめてもろともに 祝まつれよ今日の日を


今日は、それぞれの場所で、奈良県の橿原神宮の方向へ遥拝するか、
お近くの神武天皇さまをお祀りする神社へお参りしてみてはいかがでしょうか。

 *神武天皇をお祀りする全国の神社
   http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html

なお、神武天皇建国の御事蹟については、次のWebも参考になります。
→ http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20060403


そして、来年(平成28年)には、神武天皇二千六百年大祭が予定されております。
→ http://www.kashiharajingu.or.jp/2600/



次のWebにて、神武天皇陵を確認できます。 

(1)神武天皇陵 畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)
   http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/001/

(2)神武天皇 畝傍山東北陵への道順
   http://goryou.fc2web.com/goryou01/001.html

(3)神武天皇 畝傍山東北陵 (写真)
   http://ryobo.fromnara.com/nara/459.html


関連として、次のWebもあります。
光明掲示板・伝統・第一「「皇紀2675年」 (229)」
 → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=83


           <感謝合掌 平成27年4月3日 頓首再拝>

「おおみたから」と「一つ屋根」~その1 - 伝統

2015/04/04 (Sat) 04:49:43


         *Web:JOG(平成11年2月11日)より


(1)地名のいわれ

   難波、浪速、浪花・・・大阪市、および、その付近の古称である。
   作家・日本画家の出雲井晶(いづもい・あき)さんの最近の御著書
   「教科書の教えない神武天皇」には、これらの地名のいわれが紹介されている。


      播磨灘をこえ明石海峡をすぎると、潮の流れがはげしく速くなってきました。
      ふたつの大きな河が合流して海にそそいでいます。

      その河の流れと海の潮がぶつかり、
      うかうかすると櫂をとら れてしまいます。・・・
 
      「浪の流れの速いところです。まさに浪速国(なみはやのくに)」・・・

      また浪が急なために、浪しぶきが華のように飛び散りましたから、
      浪華(なみはな)ともいいました。

      今の大阪難波はこれがなまったものだといわれています。[p33]


   今からおよそ二千六百余年前に、日向から大和の地に移って第一代天皇となられたと、
   古事記や日本書紀に伝えられている神武天皇浪速国に上陸する場面である。


(2)ご生誕-宮崎県高原町狭野

   出雲井さんは、この本を書くために、神武天皇(亡くなられた後におくられたお名前で、
   生前はカムヤマトイワレビコノミコト。以下は、便宜上、神武天皇と呼ぶ)の、
   日向から大和への道筋をすべてたどられた。

   この本には、古事記や日本書紀に記された地名や遺跡、
   神社などのいわれが数多く紹介されている。
   そのうちのいくつかを紹介してみよう。

   宮崎県高原(たかはる)町狭野(さの)は宮崎市の真西40kmほどにある。
   神武天皇はこの地でお生まれになったので、
   ご幼名は狭野命(さののみこと)と申し上げる。

   ここにある小高い丘の中ほどに、1mほどの高さの石で囲われた場所がある。
   土地の人々はここを、神武天皇のお生まれになった地として、この石には
   牛も馬もつないだりせず、今も弊をたてて、神聖な場所としてしるしている。

   神武天皇は、ここから


      東方はまだ国神(くにつかみ)と称する酋長が
      勢力を争ってさわがしいと聞きます。

      四方を青い山に囲まれた大和が大八島(=日本)の中心です。
      天照大神の思し召しである、この国のすべての人々を安らいで、
      ゆたかにくらせるようにするには、みやこを大和におくのがよいと思います。[p10]


   と申されて、出発された。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月4日 頓首再拝>

「おおみたから」と「一つ屋根」~その2 - 伝統

2015/04/05 (Sun) 04:46:37

(3)船出-宮崎県美々津

   神武天皇が船出をされたのは、宮崎市と延岡市の間にある美々津港からであった。

   地元の人々は、船出をするご一行のために、あんこ入りだんごを作ろうと
   準備をしていた。ところが朝2時頃、ちょうど良い風向きとなったので、
   急遽、出発することとなった。

   人々は「起きよ、起きよ」と家々の戸を叩いて回った。
   だんごもあんを包んでいたのでは間に合わないので、
   うすにあんも一緒に投げ込んで作った。

   これが今も、当地に伝わる「搗入(つきれ)だんご」、
   あるいは「お船出だんご」である。

   また、この地では、陰暦8月1日の夜、子どもたちが、竹ざさに短冊をつけたのを
   もって、家々の戸を「起きよ、起きよ」と叩いてまわる
   「起きよ祭り」が今も行われている。

   神武天皇の船団は、七つばえ島と一つ神島の間を通って出航された。
   美々津港の漁師達は、ここを「御船出の瀬戸」と呼び、決して通らないようにしている。


(4)大分、福岡、広島、岡山、大阪、和歌山、、

   その後、ご一行は、宇沙(大分県宇佐市)に上陸し、
   陸上を耶馬渓、福岡県飯塚市を通って、芦屋港あたりから再度、船出をされる。

   そこから阿岐国(あきのくに、広島)、吉備国(きびのくに、岡山)を通られて、
   浪速国にたどり着かれたわけである。

   そこで、土地の酋長に襲われて苦戦し、紀伊の国(和歌山)熊野を迂回されて、
   吉野から、大和に入られた。

   この何年にもにおよぶ東遷の間、各地で長期間留まり、土地の人々に農業や漁業、
   塩作りなどを教えながら、次の行程の準備をされた。

   この時のいわれが、各地に地名や神社、行事、物産となって残されている。

   これらの地方に縁のある方は、この本を読まれると面白いだろう。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月5日 頓首再拝>

「おおみたから」と「一つ屋根」~その3 - 伝統

2015/04/06 (Mon) 06:49:33

(3)自らの根っこを探す

   「古事記や日本書紀は、大和朝廷がその支配を正当化するためにでっちあげたものだ」。
   筆者自身が大学生の時、こんな事を言っていた。
   これはこれで、理論的にはありうる仮説だ。
 
   たとえば、神武東遷をでっちあげだと言うためには、当時の権力者が、
   浪速という地名を考え出し、お船出だんごを考案し、「起きよ祭り」を創作し、
   「御船出の瀬戸」の迷信を地元民に吹き込んだと、考えるのも一法であろう。


   しかし、こういう大がかりなフィクションを、日向から大和までの津々浦々で
   行うためには、全国規模の高度な国家統治機構が必要だ。

   そのような国家がいつ頃、誰によって作られたのか、と問われれば、結局、
   その国家を建設した初代の天皇がいた、という他はない。話はもとに戻ってしまう。

   丹念に神武東遷にまつわる事実を拾い集めた出雲井さんの姿勢に比べれば、
   何の根拠もなく、「大和朝廷のでっちあげだ」などと得意げに言っていた
   自分自身のあさはかさに顔が赤らむ思いがする。

   古事記には、皇室に都合の悪い記事も書かれているし、日本書紀には、
   「一書に曰く」と、多くの異説を併記している。

   古事記や日本書紀をまとめた人々の態度は、遠い過去の自分たちの先祖の足跡を
   出来る限り、正確に思い出してみようという姿勢だったのかもしれない。

   出雲井さんの姿勢も同じである。

   それは、皇后さまのお言葉を借りれば、
   自らの「根っこ」を見いだそうという姿勢である。


(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月6日 頓首再拝>

「おおみたから」と「一つ屋根」~その4 - 伝統

2015/04/07 (Tue) 04:52:32

(6)おおみたからの思想

   神武天皇は、たどり着かれた畝傍山の東南の橿原の地に都をつくろうと、
   みことのりを出される。

   出雲井さんの本から、美しい現代語訳の一部を引用させていただく。


      このうえは、天照大神のお心にそうように、大和の国のいしずえを
      しっかりしたものにするように、おたがいにゆたかな心をやしないましょう。
      人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。

      天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、
      一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。
      なんと、楽しくうれしいことだろうか。

 
   注目したいのは、このみことのりの原文では、
   民を「おおみたから」(大御宝)と訓じていることである。
   民は天照大神から依託された大切な宝物だという思想である。

 
   「おおみたから」の思想は、初代神武天皇から、
   はるか125代を下った現代の陛下までそのまま受け継がれている。
   本年(平成11年当時)、年頭の発表された大御歌を紹介しよう。


  長野パラリンピック冬季競技大会

     競技終へしアイススレッジの選手らは笑みさはやかにリンクを巡る


   奥尻島の復興状況を聞きて

     五年(いつとせ)の昔の禍(まが)を思うとき復興の様しみて嬉しき


   集中豪雨の被災者を思ひて

     激しかりし集中豪雨を受けし地の人らはいかに冬過ごすらむ


   身体障害に負けずにスポーツに打ち込む青年の姿に見入られ、
   奥尻島の大地震からの復興を喜ばれ、
   集中豪雨で家を失った人々の身の上を案ぜられる。

   国民をかけがえのない「おおみたから」として、
   一喜一憂される御心の様がそのまま偲ばれる。


(7)一つ屋根の下の大家族

   神武天皇のみことのりのなかに、
   八紘一宇(あめのしたのすべての人々が一つ屋根の下に住む)という言葉が出てくる。
   よく日本帝国主義のスローガンであるかのように、紹介される言葉である。


   英国訪問

     戦ひの痛みを越えて親しみの心育てし人々を思ふ


   先の英国ご訪問の際の御歌である。

   この人々の中には、たとえば恵子ホームズさんがいる。
   恵子さんは日本で捕虜のまま亡くなった英国人捕虜を哀れんで三重県紀和町の人々が
   作った墓地に、生き残った英国人達を招き、日英の和解に尽力した。

   狭くなった地球社会とは、すでに「一つ屋根の下の大家族」だ。

   皇后さまの言われるように、我々はその中で「平和の架け橋」を作りながら、
   仲良く生きて行かねばならない。「八紘一宇」とは、そういう理想なのである。

   (http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog074.html

・・・

(以上で、「おおみたから」と「一つ屋根」 の紹介を終了いたします)


           <感謝合掌 平成27年4月7日 頓首再拝>

神武・海道東征 - 伝統

2015/04/08 (Wed) 04:20:28

今回からは、「Web:産経WEST~神武・海道東征」からの紹介です。

《イワレビコ誕生(1)文明伝播 国を豊かにする旅》

宮崎市の高台、平和台公園に「平和の塔」が建っている。
神事で用いる御幣の形に模して石柱を連ね、高さ36・4メートル。

昭和15(1940)年、皇紀2600年を記念して建てられ、
十銭紙幣に描かれるほど親しまれた。

戦前は名称も異なった。「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。
カムヤマトイハレビコノミコト、後の初代神武天皇が日向から東征し、
大和に橿原宮を造営した際の言葉が基になっている。


「六合(りくがふ)を兼ねて都を開き、八紘(はちくぉう)を掩(おほ)ひて
宇(いへ)と為(な)さむこと、亦可(またよ)からずや」

日本書紀にそうある。
四方の国々を統合して都を開き、天下を覆ってわが家とすることははなはだ、
よいことではないか、という国造り宣言である。

 
この故事に基づいて、塔の四隅には神武の4面性を示す像が配された。
荒御魂(あらみたま、=武人)、和御魂(にぎみたま、=商工人)、
幸御魂(さちみたま、=農耕人)、奇御魂(くしみたま、=漁人)である。
このうち荒御魂像は終戦で削り取られた。軍国主義を憎んだGHQの指示だった。

荒御魂像は昭和37(1962)年、市民らの要望で復活した。
ただ、大切な故事が抜けていた。

像が持つ楯に描かれていた八咫烏(やたがらす)が、
鳥とも鶏とも見える不思議な絵に変わっていたのである。

「3本足ではないので、八咫烏ではないことは間違いない。
復元に当たった職人が、東征の故事を知らなかったためのミスです」

塔の案内をする宮崎市神話・観光ガイドボランティア協議会の湯川英男副会長はそう話す。

八咫烏は、イハレビコを熊野から大和まで導いた高天原(たかまがはら)の使いで、
今でも日本サッカー協会のシンボルになっている。
この故事さえ知らない日本人が増えたことを、新たな像は示している。

 
「東征は実は軍事行動だけではなく、3つの文明・文化を伝播(でんぱ)する旅でした。
稲作と鉄器、そして灌漑(かんがい)技術です」

宮崎県延岡市の情報サイト「パワナビ」の黒田健編集長はそう話す。


黒田氏は宮崎市などが3年前、東征ルートをたどるキャンペーンを計画した際、
イハレビコゆかりの地200カ所以上を踏査した。

「たとえば今は無人の島の海岸近くに井戸を掘ったりしていて、その技術の高さに驚きます。
東征は道々の人々の生活を変えていく旅だったと思います」

古事記では16年間、書紀では6年間かかったとされる東征は、
建国神話にふさわしい内容になっている。
そう指摘するのは立正大の三浦佑之教授である。

「イハレビコは太陽の御子だが、苦難の旅を続け、各地の民と葛藤しながら、
成長しながら国の中心部を目指す。敵対者が現れた時には援助者が現れ、道を開いてくれる。
まさに王道を描いた物語だと思います」

三浦教授は、神武天皇誕生で日本の神話は完結すると読む。
神代と人代をつなぐ存在がイハレビコなのである。

「現存する神武の絵姿を見ると、明治天皇に似ているものが多い。
明治維新の近代国家造りが、建国の神話と重ねやすかったためでしょう」

近代日本のスローガンは富国強兵、殖産興業。
この文言は、「平和の塔」の四魂(しこん)像と全く同じバランスで構成されている。
商工人、農耕人、漁人がいて武人がいる。
4分の3は国民を豊かにする人、する言葉なのである。

神武の国造りの精神は現代にも通じる。

戦後70年。忘れられた東征の物語を1年間追ってゆく。


http://www.sankei.com/west/news/150110/wst1501100005-n1.html

・・・

なお、お時間のある方は、1940年につくられた『交声曲「海道東征」』を
you rybe で聴くことができます。

《交声曲「海道東征」》

詩人・北原白秋(きたはら・はくしゅう)が記紀の記述を基に作詩し、
日本洋楽の礎を作った信時潔(のぶとき・きよし)が作曲した日本初のカンタータ(交声曲)。
国生み神話から神武東征までを8章で描いている。

皇紀2600年奉祝事業のために書かれ、戦前は全国で上演されて人気を集めたが、
戦後はほとんど上演されなくなった。
昨年の建国記念の日、白秋の郷里・熊本で復活上演され、話題になった。

平成27年としては、大阪にてコンサートが予定されております。
 → http://www.eventscramble.jp/e/kaido_tosei/
 

白秋の詩は、記紀の古代歌謡や万葉集の様式を模して懐古的な味わいがあり、
信時の曲は簡潔にして雄大と評される。


you rybe 「交声曲《海道東征》(字幕なし全曲版)」
     → https://www.youtube.com/watch?v=s-whJx_gl94

歌詞としては、http://gunka.sakura.ne.jp/words/kaidou.htm で紹介されております。

真の日本人の魂を目覚めさせてくれる素晴らしい交声曲です。
是非、時間を確保して拝聴されますことをお勧めいたします。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月8日 頓首再拝>

神武・海道東征~その2 - 伝統

2015/04/09 (Thu) 04:13:52


イワレビコ誕生(2)生まれながら聡明、意志固く


〈神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)、
諱(ただのみな)は彦火火出見(ひこほほでみ)、
彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)の第四子なり。
母は玉依姫(たまよりひめ)と曰(まを)し、海童(わたつみ)の少女(おとむすめ)なり〉

カムヤマトイハレビコノミコトの出自を日本書紀はこう記す。
父は天孫ニニギノミコトの孫、ウガヤフキアエズノミコト。
母はワタツミノカミの娘、タマヨリビメ。

夫婦の第4子の人柄を書紀はこう褒める。

 〈天皇生れながらにして明達(さか)しく、
意かたくまします(=聡明(そうめい)で確固たる意志を持っていた)〉

 
ニニギの降臨地は、筑紫の日向の高千穂。
諸説あるが、後の日向国とするのが通説で、イハレビコもまた、大和に向かうまでの45年間、
日向に住んでいたことが記紀の記述から推測される。
自然、宮崎県内にはイハレビコの伝承地が多いが、生誕伝説は各地に残っている。

     ◇

〈ようこそ神武の里たかはるへ〉

霧島山を境に鹿児島県と接している宮崎県高原町に入ると、こうした看板が目に入る。
同町はイハレビコにまつわる伝承地が多く残り、生誕地「皇子原(おうじばる)」もその一つ。
繰り返される火山の噴火で史料は焼失しているものの、口伝として残されてきたという。

 
「古来、皇位を継ぐ者の幼少名に生まれた地名をつけることがよくある。
ここに残る狭野(さの)という地名がまさに、それに当たると思うのです」


同町まちづくり推進課の大学康宏氏は、皇子原近くに狭野神社があり、
イハレビコが幼少名「狭野尊(さののみこと)」を名乗っていたことから、そう話す。

同じく生誕伝承がある宮崎県高千穂町の「四皇子峰(しおうじがみね)」や
宮崎市の「佐野原」よりも生誕地の可能性が高いという主張である。

皇子原が、天孫降臨の地とされる高千穂峰の麓に位置していることも
生誕地伝承に説得力を持たせる。

 「高千穂は皇室の御本元。ウガヤフキアエズとタマヨリビメは、
ニニギノミコトが地上に降臨した高千穂峰の麓に帰り、出産したということでしょう」

同神社の松坂督亮(よしあき)宮司はそう推測する。


     ◇

高原町内には、イハレビコの幼少期の足跡も数多く残る。
皇子原公園内の皇子原神社に祭られる石「産場石(うべし)」は、
イハレビコが産湯をつかった場所とされる。

湯之元川の「血捨之木(ちしゃのき)」は
出産したタマヨリビメが諸物を洗い清めた場所と伝わる。

皇子原神社に続く石段横には、
イハレビコが腰掛けた「御腰掛石(おこしかけいし)」が碑とともに残っている。

 
こうした伝承地は昨年の建国記念の日、にぎわいを取り戻した。
古事記編纂(へんさん)1300年を機に神話に注目が集まり、
同町観光協会主催の「第1回日本発祥地まつり」が開催されたためだ。

古代衣装を着て練り歩くご神幸行列では長年、神社に眠っていた御輿(みこし)も登場し、
約2000人の参加者を集めた。

同協会の福留宜文事務局長が言う。

「高原が日本国の始まりだったという認識、
忘れられていた誇りが再び、芽生えてきたようです」

http://www.sankei.com/west/news/150111/wst1501110005-n1.html

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月9日 頓首再拝>

神武・海道東征~その3 - 伝統

2015/04/10 (Fri) 04:51:16


イワレビコ誕生(3)幼い心に映る「水穂」の原風景


〈年(みとし)十五にして、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ〉

生まれながらにして明達(さか)しく、意かたく…と
カムヤマトイワレビコノミコト資質を書く日本書紀はすぐに、15歳以後の様子に筆を移す。
古事記はいきなり、イハレビコが兄たちと東征の謀(はかりごと)を行うくだりを記す。

つまり記紀は、イハレビコの幼少時に全く触れていないのだ。

〈狭野(さの)一帯の山野を駆けめぐって遊ばれたと伝えられる〉

イハレビコ生誕地の有力候補、宮崎県高原町の皇子原(おうじばる)神社の前の
ある石碑「神話史跡」にはそう記されている。

イハレビコの幼名、狭野尊(さののみこと)の由来とされる狭野神社の伝承では、
イハレビコは15歳まで、高千穂峰東麓のこの地で過ごした。

霧島火山帯最大の火口湖「御池(みいけ)」にもイハレビコゆかりの「皇子港(みなと)」
という伝承地があり、イハレビコが泳いで遊んだと伝えられる。

この地からは高千穂峰が正面に望める。
御池は今、130種類の野鳥が生息するバードウオッチングの聖地。
同町に残る伝承は、豊かな自然の中で伸び伸びと育ったイハレビコの幼少期を想像させる。

     ◇

「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の
水穂国(みずほのくに)は我が御子の知らす国」

 古事記では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)がこう言って
オオクニヌシノミコトに国譲りさせ、天孫ニニギノミコトを高千穂峰に天下らせた。

ここに語られる国は、永遠に瑞々(みずみず)しい稲穂の実る国という意味の最大の美称である。


シラス台地が広がる霧島周辺は広大な水田には適していないが、
狭野神社の松坂督亮(よしあき)宮司はこう話す。

「宮崎平野を潤す大淀川の源流で水が豊富な狭野一帯では稲作が可能でした。
狭野という地名は、稲作ができる貴重な土地という意味。
狭野尊は水のある地を探して田を作ったと想像できます」

狭野一帯を稲作先進地と考える考古学的な根拠もある。

稲作はもともと、中国の長江流域で発生し、北九州に最初に伝来したとされてきたが、
ここ20年の発掘調査で、宮崎県の都城市やえびの市など高原町周辺の遺跡で、
稲を収穫するための石包丁や土器にこびりついた籾殻(もみがら)など、
初期稲作の痕跡が次々と発見されたのだ。


宮崎県埋蔵文化財センター元所長の北郷泰道氏はこう指摘する。

「南西諸島とも交流があった南九州は、
北九州とは別ルートで稲作が伝来した可能性があります」

     ◇

皇子原の「神話史跡」の碑には続きがある。

〈やがて成人になられ、高千穂峰を仰ぎつつ将来の国造りの構想を練り、郷土高原を出発した〉

高原町内には構想を練ったという伝承地「宮の宇都(うと)」もある。
父、ウガヤフキアエズノミコトの皇居と伝わる。

「稲作を広めることを話し合ったのでしょう。
稲作が普及することで日本は豊かな水穂国となった」

松坂宮司は、種籾を手に高原を後にするイハレビコの姿を想像している。

  (http://www.sankei.com/west/news/150112/wst1501120003-n1.html

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月10日 頓首再拝>

神武・海道東征~その4 - 伝統

2015/04/11 (Sat) 04:51:53


イハレビコ誕生(4)愛馬伝承が語る古人の息吹


宮崎自動車道高原(たかはる)ICに近い宮崎県高原町の「馬登(まのぼり)」。
この地にはカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が長じて東に向かった際、
住民たちに見送られた伝承が残っている。

その時、イハレビコは馬上だった。
今も残る石碑の文言は、この経緯を語るものである。

馬登から少し東の「鳥井原(ばる)」は、
住民たちが去りゆくイハレビコを見送った場所とされる。

 〈最後の別れを惜しむ住民たちが、ミコトの行路の安全を祈りながら見送ったところ〉

同県の観光パンフレット『ひむか神話街道』にそう書かれている。
2カ所は、住民に慕われるほど成長したイハレビコの姿を想像させる土地である。

     ◇

イハレビコの父、ウガヤフキアエズノミコトの生誕地とされる鵜戸神宮(同県日南市)から
南へ約10キロ。駒宮神社はイハレビコを主祭神とし、同県の結婚風習「日向シャンシャン馬」
の発祥地とされる。この伝承にも、イハレビコと愛馬の物語が語られている。

 〈駒宮アリ、神武天皇ガ舟釣リヲサレシ折、龍神カラ賜ッタ龍石トイフ龍馬ヲ祀ル〉
                           (日向国神祇史料)

イハレビコは龍石にまたがり、父の元に通った。
同神社の近くには、龍石をつないだ松の跡や、龍石の足跡が残る駒形石が現存している。

同神社は、イハレビコがアヒラツヒメを妻に迎えて住んだ宮跡とされる。
伝承の数々は、イハレビコが妻帯独立後も父に孝養を尽くしたことをうかがわせるものなのだ。

 
やがてイハレビコは、この地も去って北上する。
同神社から約4キロ北には、その際に龍石を放った場所、立石がある。

「立石には江戸時代、飫肥(おび)藩の牧場があり、九州各地から飫肥の馬を求めて
やって来たといいますから、いい馬を育てていたのでしょう。
それだけ、この地での飼育の歴史があったのでしょう」

 日南市教委の岡本武憲文化財担当監はそう話す。

     ◇

「大陸から日本列島に馬が伝わったのは4世紀の終わりごろ。
日向で馬が飼われたのは5世紀ぐらいと推測されます」

そう語り、イハレビコは馬に乗ることがなかったと指摘するのは
宮崎産業経営大の柴田博子教授である。

5世紀は古墳時代中期。16代の仁徳天皇らが活躍した時代だ。

 
ではなぜ、日向にイハレビコと馬を結びつける伝承が多いのか。
柴田教授は大和政権時代、馬を献上する「牧」が数多く存在し、
江戸時代も各藩が競って馬を飼育した歴史を理由に挙げる。

「南九州は放牧地に適した地が多く、馬が身近な存在でした。
また、馬は権威の象徴ですから、後世の人間が神武天皇と結びつけ、語り継いだのでしょう」

イハレビコの伝承は、その地の歴史や人々の思いを伝えるものでもあるのだ。

http://www.sankei.com/west/news/150117/wst1501170001-n1.html

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月11日 頓首再拝>

神武・海道東征~その5 - 伝統

2015/04/12 (Sun) 03:58:59


イハレビコ誕生(5)建国の大業祈り 身を引いた妻


カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の幼少期や青年期を全く書かない古事記が
唯一、東征前のことで触れているのは結婚のことである。

〈日向(ひむか)に坐(いま)しし時に、阿多(あた)の小椅(をばしの)君(きみ)が
妹(いも)、名は阿比良比売(あひらひめ)に娶(あ)ひて、生みたまへる子、
多芸志美美命(たぎしみみのみこと)、次に岐須美美命(きすみみのみこと)、
二柱(ふたはしら)坐(いま)す〉

 
日本書紀はこう書く。

〈長(ひととな)りて日向国(ひむかのくに)の吾田邑(あたのむら)の
吾平津媛(あひらつひめ)を娶(めと)りて妃(みめ)とし、
手研耳尊(たぎしみみのみこと)を生みたまふ〉

 
子供の数が違うが、妻がアタ出身のアヒラ(ツ)ヒメであることに、記紀の記述に違いはない。
書紀は日向国と書いているが、薩摩半島にはかつて阿多郡という地があり、
アタはそこと考える説が有力である。

 
アタは天孫ニニギノミコト、つまりイハレビコの曽祖父が、よい国を求めて
たどり着いた場所としても登場する。

書紀はその場所を〈吾田の長屋の笠狭碕(かささのみさき)〉と書く。
そこで出会い、結婚したのがコノハナノサクヤヒメ。
イハレビコは曽祖父と同じ地のヒメを娶(めと)ったことが、記紀からわかる。


   ◇ 


「アタがあった薩摩半島西部は、貝輪(かいわ)交易の拠点という特別な役割がありました」

そう話すのは鹿児島国際大の中園聡教授である。
貝輪とは、ゴボウラやイモガイといった沖縄周辺産の大型の貝からつくる腕輪で、
弥生時代の権威を象徴する。同半島西岸の高橋貝塚(鹿児島県南さつま市)で
盛んに製造されたことが発掘調査でわかっている。

貝輪は弥生時代、九州北部や瀬戸内東部にまで流通した。
イハレビコがアヒラツヒメと暮らした宮跡、駒宮神社(宮崎県日南市)は良港、
油津港にほど近い。

記紀の記述や資料から想像できるのは、「貝の道」を押さえて交易をする為政者、
イハレビコの姿である。


   ◇ 


油津港のすぐそばにある吾平津神社は、アヒラツヒメが主祭神。
堀川運河に面する鳥居前には、海に向かって手を合わせるアヒラツヒメの像が立っている。
東征するイハレビコの成功と安全を願う姿を表現したものだ。


〈神武天皇が狭野尊(さののみこと)と称され、まだ日向に在られた頃の妃であり
…天皇が皇子や群臣と共に東遷された時同行せず、当地に残られ、御東遷の御成功と
道中の安全をお祈りされました〉

同神社の由緒にはそうある。

古事記は、妻を日向に残して東征を果たし、
橿原宮で天皇に即位したイハレビコについてこう書く。

〈然(しか)あれども更に、大后(おおきさき)と為(せ)む美人(をとめ)を
求(ま)ぎたまふ〉

妻がいて2人の子がいるのにまた、皇后となさる乙女をお求めになった、というのだ。
皇后になったのは大和・三輪山の神、大物主神(おおものぬしのかみ)の娘だった。
大物主はオオクニヌシノミコトの分身ともされる実力者である。

 
「ご祭神は明治まで乙姫大明神と称していました。甲に対する乙。
アヒラツヒメは大和に行っても正室になれないと見越して身を引かれたのだと思います」

同神社の日高久光宮司はそう話す。

建国の偉業を支えた女性の物語もしっかり記紀は記録しているのである。

    =第1部おわり(第2部に続く)

           <感謝合掌 平成27年4月12日 頓首再拝>

神武・海道東征~その6 - 伝統

2015/04/13 (Mon) 04:16:04

(ここからは、第二部の紹介です)

大和思慕(1)地名が語り継ぐ「皇居」の存在

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)を祭る宮崎神宮(宮崎市)から
西北に約600メートル。小高い丘にある同神宮の摂社、皇宮神社は
イハレビコの皇居跡とされる神社である。

地元では「皇宮屋(こぐや)」と呼ばれ、イハレビコは15歳で太子(ひつぎのみこ)、
つまり皇太子になると、この地に移り、45歳で東征を始めるまで、ここに住んだと伝わる。

「皇軍発祥の地」の石碑が立つ境内からは、天候がよければ天孫降臨の地、高千穂峰を望め、
丘の下には大淀川が縫う市街地が広がる。

大淀川は宮崎平野を潤す大河。同神社の由緒はこう書く。

 〈実に皇居跡に相応(ふさわ)しい聖地〉

また、同神宮の黒岩昭彦・権宮司はこう話す。

「付近には古墳も多く、古代から集落ができていたことがわかります。
稲作に適した土地で、大農園をつくれたことが、ここに皇居を構えられた理由でしょう」

 
古事記の記述によると、皇宮屋でイハレビコは30年間、政(まつりごと)を行った。
その内容を伝えるものは残っていないが、皇居があったことを端的に示すのは
「宮崎」という地名である。

「宮の崎とは、宮殿の前とか宮の前とかを示す名前で、平安時代の古文書には
『宮崎の郡(こおり)』という表現が頻繁に出てくる。
古代にはすでに、重要拠点としての認識があった土地だったことは間違いありません」

宮崎県立看護大の大館真晴・准教授はそう話す。
大館氏はさらに、地名起源の視点からイハレビコの存在感の大きさを指摘する。

「日本には、神様や古人がその土地に関係深いことを地名起源にする場所が多い。
神様が産湯を使った、井戸を開いた、お座りになったといった故事を地名の由来と
するもので、九州では神武天皇と景行天皇にまつわるものが非常に多い」

 
12代景行天皇はヤマトタケルノミコトの父で、自らも7年間、九州平定のために西下した、
と日本書紀が書く天皇である。

「こうした地名起源がブームになったのは、朝廷が全国に風土記の編纂(へんさん)を
命じた奈良時代」と大館氏は言う。

古事記が編纂されたのとほぼ同時期で、当時の九州の知識層にはすでに、
神武天皇が権威ある存在として認識されていたことがわかる。

「何(いず)れの地(ところ)に坐(いま)さば、天の下の政を平らけく聞こし看(め)さむ。
なほ東に行かむと思ふ」

古事記中巻はイハレビコが高千穂宮で兄に、こう相談する場面から始まる。

どの地をよりどころとすれば、天下の政治を無事に行えるか悩み、
もっと東に行きたいと決意を打ち明けるのだ。

かくして日向をたった、と古事記は書く。神武東征の始まりである。

「米は多くの人口を支える食物。それをつくる稲作は人々の協力なくしては行えない。
稲作を普及させてムラ社会を完成させたイハレビコは、その過程で政治や軍事の知識も重ねた。
そのことが東征を決意させたのではないでしょうか」

黒岩氏はそう推測する。

やがて種籾(もみ)を持って海岸部に本拠地を移し、
日向南部で愛馬伝承や鵜戸神宮に祭られる父、
ウガヤフキアエズノミコトへの孝養伝承などを残す。

最初の妻、アヒラツヒメとの結婚もこのころ。
薩摩半島との関係が深いヒメとの結婚は貝輪(かいわ)(大型の貝からつくる腕輪)の
交易で勢力を蓄えた可能性を示唆する。

イハレビコはこの結婚で古事記では2子、日本書紀では1子を得たとされる。

http://www.sankei.com/west/news/150322/wst1503220002-n1.html

           <感謝合掌 平成27年4月13日 頓首再拝>

神武・海道東征~その7 - 伝統

2015/04/14 (Tue) 04:06:09


大和思慕(2)真清水に重なる中庸の御心


「ここは台地ですが、湧き水が豊富で農業用水に困ったことがない。
だから座論梅(ざろんばい)もあれだけ立派に育ったのでしょう」

湯之宮神社(宮崎県新富町)の副総代、関浩志氏が話す座論梅とは、高千穂宮を出発した
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が、最初の軍議を開いたとされる地に咲く
白梅のことである。

名前の由来は江戸期、佐土原藩と高鍋藩がこの梅林の所有を争い、
座して議論をしたこととされる。

しかし地元では、イハレビコの残した梅林として有名だ。
梅林の説明板にはこう書かれている。


 〈神武天皇が行幸し、湯あみして梅の枝をついたところ、
  座論梅ができたという言い伝えが記録されています〉


梅林は元は1株だった。そこから枝を地面に着け、根と新芽を出して株が増えた。
現在は80株。その生命力への驚きが、伝承につながっている。

県道をはさんで座論梅に隣接する同神社には、
イハレビコが湯あみをしたと伝わる御浴場之跡がある。
今は清水が湧くだけだが、透明度が高く、見るからに清らかだ。

「近くには湯風呂という地名も残っているから、昔は湯が沸いていたのでしょうし、
イハレビコは身を清めるために漬かられたのでしょう」

そう話す同神社の本部雅裕宮司は、
イハレビコが高千穂宮をたって最初の宿泊地にこの地を選んだ理由をこう推測する。


「山懐にありながら、穏やかな道が続く。江戸時代には大名行列の往来にも使われた道
ですから、東征は中庸の気持ちで始められたのではないかと思います」


同神社から海岸線に向けて約10キロ進むと、イハレビコが国土平定を祈願した地
とされる鵜戸神社(同県高鍋町)がある。
ここは一転して、日向灘を目の前に見る海辺の神社だ。永友宗範宮司が言う。

 
「船出の場所を探してこの地に来られたのだと思います。ただし、ここは入り江がなく、
浅瀬が続く海。現代風に言うと離岸流が激しく、航海するには適さない。
それでさらに北上されたのではないでしょうか」

 
海への見通しが利くということで、境内には戦時中、日本軍の砲台が築かれていた。
そのために敵機の攻撃を受け、昭和15(1940)年に設置された巡幸伝説地石碑が
2つに折れ、字句の一部しか読めないままになっている。

「折れた上部は8年前まで土に埋もれたままだったが、見つけて掘り返した。
あとは何とか復元しようと思っています」と永友氏。

そう考えるのは日本書紀が〈年四十五歳に及(いた)りて〉と書く旅立ちに
尊崇の念を持つからだという。

 
「温暖な日向から遠く大和を目指したイハレビコの生涯を見ると、
好奇心旺盛で腰軽く、意志が強かった人だと思います。もちろん見識もある。
世の中を変える人とはこういうものだというお手本のように思っているんです」


http://www.sankei.com/west/news/150324/wst1503240001-n1.html


           <感謝合掌 平成27年4月14日 頓首再拝>

神武・海道東征~その8 - 伝統

2015/04/15 (Wed) 03:59:58


大和思慕(3)武備の背景に「和合の精神」


高千穂宮を出て日向を北上するカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が
矢を研(と)いで船出に備えた-。
そんな伝承が残るのが宮崎県都農(つの)町の矢研(やとぎ)の滝である。

 
「日本で唯一、瀑布(ばくふ)群が名勝指定されている尾鈴瀑布群の中でも、
水量と景観が素晴らしく、日本の滝百選に選ばれています」

同町観光協会の猪股利康事務局長がそう語る滝は、岩盤が露出した暗く、
狭い山道を歩いた先の深い谷にある。
ぱっと広がる陽光が水の流れを輝かせ、神々しく見せる。

「周辺には矢の材料になる矢竹も茂っています。
軍備を整えた様子が想像できる場所でもあります」

尾鈴山(標高1405メートル)東麓の丘陵地帯にある同町は、人口約1万人の小さな町だが、
山と海の距離が近いために食物が得やすく、古代から人々が定着していた。

東九州自動車道の建設に伴う近年の発掘調査では縄文・弥生時代の遺跡が次々と見つかり、
多数の石鏃(せきぞく)(石製の矢じり)が出土した。

「熱変成によって硬くなり、鋭く割れるので矢じりに適した石が、
都農町周辺では潤沢に取れる。弓を使った狩猟生活が盛んな地だったでしょう」

と、宮崎県立西都原考古博物館の藤木聡学芸員は話す。
矢研の伝承は、東征に当たって武備にも心を砕いたイハレビコの姿を想像させる。

 〈邑(むら)に君(きみ)有り、村(ふれ)に長(おさ)有り、各自彊(おのもおのもさかい)を分(わか)ち、用(も)ちて相凌(あいしの)ぎ●(きしろ)はしむ〉

   ●=足へんに白の両側にいとがしらその下に木

東征のころの日本の姿を日本書紀はこう記す。
大きな村には君がおり、小さな村には首長がいて、各々が境を設け、互いに抗争していた、
というのである。


「各自彊を分ち」という文言は、防御のために水堀をめぐらせた
弥生遺跡の環濠集落を想起させる。その一つ一つを従わせてゆく東征の目的は、
イハレビコが大和で初代天皇に即位した際の言葉が示している。

「八紘(はちくわう)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(な)さむこと、亦(また)可(よ)
からずや(四方を統合して天下を覆い、わが家とすることははなはだ良いことではないか)」

国を家とし、民を家族とする。家族国家主義が国造りの目的だったが、
その実現には武備が必要なこともまた、現実だった。

 〈東遷の折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し御祭神を鎮祭された〉

社伝がそう伝える都農神社(同町)では今年の節分の追儺(ついな)式で、
古代衣装を身につけた地元中学校の弓道部員が弓道の腕前を披露した。
イハレビコゆかりの地の伝統に触れてほしいと、永友謙二宮司が昨年から始めた行事である。

同神社のご祭神はオオナムチノミコト。
海からやってきたスクナビコナノカミと協力して、
最初の国造りを行ったオオクニヌシノミコトである。

 「相手を尊び、みんなで協力して国を造るんだという思いが、ご祭神に感じられます」


武備の背景にある和合の精神。都農の伝承には、そんなものを感じる。   =続く


http://www.sankei.com/west/news/150325/wst1503250001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年4月15日 頓首再拝>

神武・海道東征~その9 - 伝統

2015/04/16 (Thu) 04:32:56

大和思慕(4)出港の地に選んだ「造船の里」


 〈美々津(みみつ)千軒〉

大正12(1923)年に国鉄日豊線が開通して衰退するまで、そう呼ばれ、
京風の町家が軒を連ねて栄えた美々津港(宮崎県日向市)。

高千穂宮をたったカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が
船出したとされる港はここである。

 「神武天皇が船出された港として御津(みつ)と呼び、それが美々津と転訛した。
  地元ではそう伝え、お船出の物語を語り継いでいます」

美々津で生まれ育った郷土史家、黒木和政氏はそう話す。

同港は、流域面積が宮崎県の森林面積の25%もある耳川の河口にある。
江戸時代には林産物の集積地として、瀬戸内や大坂(大阪)との間を行き交う
千石船がひしめいていた。

美々津千軒は、その当時の繁栄をしのばせる町並みで、
昭和61(1986)年には、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 〈港はふけーし大けな木はようけあり、慣れちょるでくどん(船大工)やかこ(水夫)が
 ぎょうさんいるし、むらんもんどみゃ人間(ひと)がえーもんばっかりじゃ〉

美々津の歴史的町並みを守る会が発行する冊子『神武天皇 お舟出ものがたり』は、
イハレビコが美々津を船出の港に選んだ理由をこう伝える。

大船に適した良港で、船を造る材木にこと欠かず、技術を持った人々がいる。
さらによいことに、その人々が誠実な人ばかりだというのである。

 
「匠(たくみ)ケ河原(こら)」は、この伝承を裏付ける地名である。
耳川を少しさかのぼった広い河原のことで、船大工たちが船を造った場所とされる。

港に鎮座する立磐(たていわ)神社には、古代から船材として利用されてきた
楠の老木が生い茂り、付近が船材の宝庫であったことを今に伝えている。

「近世の上方商人が競って求めた日向木炭は、長く火が保って『日向美々津の赤樫(あかかし)』
とたたえられたし、この赤樫は北前船の櫓木の材木として名を上げた」と黒木氏は話す。

船材が豊富に手に入ったことが、イハレビコの眼鏡にかなったことは想像に難くない。

 「なほ東に行かむと思ふ」

古事記では、イハレビコが兄にそう言って始めた東征は日本書紀では、
イハレビコが塩土老翁(しおつちのおじ)に尋ねて始まったと記される。

シオツチはイハレビコの祖父、ヤマサチビコを海の国へ誘った神である。

 「東に美地(うましつち)有り。青山四周(よもにめぐ)れり(東方に四方を
  青い山々に囲まれた美しい土地がある)」

シオツチの言葉で、イハレビコは東征を決意する。
この記述を裏付けるのが同神社のご祭神だ。

 「祭られているのは航海の神の住吉三神ですが、シオツチと同体神とも伝わっています」

そう話す日向市立図書館の緒方博文館長によると、同神社本殿の背後に
そびえ立つ柱状節理の巨石が、海道の神シオツチを祭った祭祀(さいし)の場だという。
海の神を深く信仰する美々津の人たちも率いて、イハレビコは船出したのである。

   =続く

  (http://www.sankei.com/west/news/150326/wst1503260002-n1.html

           <感謝合掌 平成27年4月16日 頓首再拝>

神武・海道東征~その10 - 伝統

2015/04/17 (Fri) 04:33:47


大和思慕(5)朝焼けの中 慌ただしく船出


「起きよ、起きよ」

八朔(はっさく)(旧暦8月1日)の午前4時過ぎ、子供たちの声が港町に響き渡る。
宮崎県日向市美々津。カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が
美々津港から船出したことを祝う「おきよ祭り」の始まりだ。

子供たちは、笹の葉を手に各家の格子戸をたたいて回る。
全戸を起こし終わると一カ所に集まり、「つき入れ団子」を食べる。
あんと餅が一緒になった団子である。

「船団の出発が早まったため、あんを餅で包む間がなく、
急遽(きゅうきょ)一緒についたから、こんな形になったといわれています」

地元にある立磐(たていわ)神社の戸高英史宮司が話すのは、イハレビコの出港伝承に
まつわる逸話である。船材も船大工も豊富な美々津で造船し、水夫らに航海訓練も
積ませていたイハレビコは、遠見の山から凧(たこ)を揚げて風向きを調べ、
船出を旧暦8月2日と決めた。

ところが物見番から、潮も風もちょうどいいという知らせを受け、
急遽1日の夜明けに船出した-。宮崎市観光協会発行の『宮崎の神話』が書く伝承だ。

 〈お腰掛けの岩より立ちなんして下知しちょんなんした尊(みこと)の御戎衣(みじゅうい)
 (軍服)のほこれをみつけたもぞらしいおご(かわいい童女)に、立っちょりなんしたまま繕
 わせなんしたこつから美々津のことの別名を立縫いの里というようになりやんしたげながの〉

美々津の歴史的町並みを守る会が発行した『神武天皇 お舟出ものがたり』には、
座ってほころびを繕う時間もないほど、イハレビコが出発を急いだことが書かれている。

この時、イハレビコが座っていた「御腰掛之石」が同神社の境内にある。
石に腰掛けることは天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫として重要なことである。



 〈天の石位(いはくら)を離れ、天の八重(やへ)たな雲を押し分けて、
 いつのちわきちわきて〉

天孫ニニギノミコトが降臨する様子を古事記はこう記す。
高天原(たかまがはら)の玉座を出発し、重なりたなびいている雲を押し分け、
天孫にふさわしい荘厳な道を行ったというのである。石位とは巨岩。
出港時の伝承は、天つ神の御子にふさわしい姿を伝えるものなのだ。

 「日向灘は日本有数の航海の難所。出港を早めたのは土用波を警戒したのでしょう」

 そう話すのは同会の大山恭平会長である。
大山氏によると、イハレビコの出港日は現在の暦で9月1日。台風の季節に当たる。

慌ただしく出発した一行は、美々津港沖の一ツ上(がみ)と七ツ礁(ばん)という
2つの島の間を通った。波が荒い日向灘沖に出る直前の穏やかな瀬戸である。

現在、「御船出の瀬戸」と呼ばれる海域を、験を担いで通らない地元漁師もいる。
一行がそのまま美々津へ帰ってこなかったからだ。

 〈日はのぼる、旗雲(はたぐも)の豊(とよ)の茜に、いざ御船出(い)でませや、
  うまし美々津を〉

 詩人、北原白秋が『海道東征』でそう詠んだ船旅がいよいよ始まった。

   =第2部おわり(第3部に続く)


http://www.sankei.com/west/news/150327/wst1503270001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年4月17日 頓首再拝>

神武・海道東征~その11 - 伝統

2015/05/04 (Mon) 05:01:23


(ここからは、第三部の紹介です)


御船出(1)水源のない島の窮状に心痛


  〈日向より発(た)たして、筑紫に幸行(い)でます。故豊国の宇沙に到りましし時に…〉

日向の美々津から東征に出発したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について、
古事記はこう記す。

最初に着いたのは豊国の宇沙、今の大分県宇佐市という記述だが、
同県内の伝承では、イハレビコは宇沙までに少なくとも3カ所に足跡を残している。
その一つが大入島(おおにゅうじま)(大分県佐伯市)である。

佐伯市の本土側から約700メートル沖。佐伯湾に浮かぶ同島の伝承では、
イハレビコらは佐伯市米水津(よのうづ)の「居立(いだち)の神の井」で
食料や水を補給した後、鶴御崎を回って同島に着いた。

船団が停泊したのは島の先端にある日向泊浦(ひゅうがのとまりうら)。
米水津が、食料や水を提供したことが地名の由来となったように、
ここに船団が停泊したことを地名が伝えている。

  〈天皇親(みずか)ラ浜辺ニ下リ立チ、御弓ヲ以テ、巌(いわお)ヲ穿(うが)チ
   給ヒシニ、忽(たちま)チ清水湧出シ、之ヲ飲料ニ取ラセ給フ…〉

水源のない同島で、住民から窮状を聞いたイハレビコが、地中深く弓を突き立て、
「水よ、いでよ」と祈念すると、清らかな水が湧き出した-。
そう伝える石碑が島には立っている。
その井戸は「神の井」と名付けられ、現在もこんこんと水が湧く。

「古代の船の能力では、何度も港に停泊しながらの航海だった。
そのころの豊後水道一帯は、海部(あまべ)と呼ばれる海の民が生活していた場所。
米水津や日向泊浦は彼らの海上ルートと重なる。
実際に飲み水を得られる重要な寄港地の一つだったのでしょう」

そう話すのは別府大の飯沼賢司教授だ。

瀬戸内海と太平洋を結ぶ豊後水道は、古代から海上交通の要所。
現在の大分県津久見市や佐伯市、臼杵(うすき)市の一部などは「海部郡」と呼ばれ後世、
藤原純友の乱や大友水軍の歴史を生む地である。
その地に、神武東征の伝承は色濃く残っている。

「イハレビコは、瀬戸内海への入り口だった佐賀関に向かって、日向から陸伝いの海を
北上したとされる。そこは海の民の現実の海路でもあったから後世、伝承が生まれた
のかもしれません」。古事記が伝承を伝えていない理由を、飯沼教授はそう推測する。

「イハレビコらはあまり長居せず、翌朝には出発されたと伝わります」

同島に住む佐伯史談会の高盛西郷氏はそう話す。

住民らは、日が昇らないうちに発つイハレビコらを、浜辺でたき火して見送り、
航海の無事を祈った。現在も続く同島の祭り「トンド火祭り」の起源である。

 
「住民は飲み水に喜び、感謝したでしょう。見送りの火は何カ所もたいたかもしれません」と、
大入島地区公民館の川下喜代人館長は言う。

神の井のそばには、イハレビコが船をつないだとされる2つの大岩も残る。


種籾(たねもみ)と鉄器、そして灌漑(かんがい)技術を持ったイハレビコの東征が
行く先々でどう遇されるか。同島の伝承はそれをうかがわせてもいる。

   =続く

  (http://www.sankei.com/west/news/150502/wst1505020003-n1.html

           <感謝合掌 平成27年5月4日 頓首再拝>

神武・海道東征~その12 - 伝統

2015/05/05 (Tue) 07:05:02


《御船出(2)海の難所 現れた水先案内人》

大分市佐賀関。関サバ、関アジの水揚げで知られるこの小さな半島は、
四国の佐田岬との間に豊予海峡をつくる。海峡幅はわずか13・5キロ。
いわば瀬戸内海への出入り口である。

 
豊国・大入島(おおにゅうじま)を出て東に向かうカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)
の船団は当然ながら、ここを通った。

同海峡は日本書紀では「速吸之門(はやすひなと)」と書かれる。
そこで珍彦(うづひこ)という漁人(あま)が小舟を漕(こ)ぎ寄せ、
イハレビコと言葉を交わす。

 「天神(あまつかみ)の子(みこ)来でますと聞(うけたまわ)り、故に即ち迎え奉る」

 「汝(なんじ)、能(よ)く我が為に導きつかまつらむや」

 「導きつかまつらむ」

 
水先案内を申し出た珍彦にイハレビコは、椎根津彦(しひねつひこ)という名を与えた、
と書紀は記す。古事記では、最初に船団を迎えたのは、豊予海峡を越えた後の
宇沙都比古(うさつひこ)、宇沙都比売(ひめ)と書かれているが、
書紀はそれ以前に現れた協力者の助力で、海の難所を越えたことを示唆している。

 
佐賀関の古社、早吸日女(はやすひめ)神社の伝承では、
椎根津彦の助力はさらに物語性を持って残る。その粗筋はこうである。

 
船団が急な風雨と荒波に襲われ、
椎根津彦が海面をのぞくと、海底から異様な光が差していた。

椎根津彦が従えていた姉妹の海女、黒砂(いさご)と真砂(まさご)を潜らせると、
光の源は神剣で、それを守護していた大蛸(おおだこ)が姉妹に差し出した。

大蛸はそのまま力尽きて沈み、神剣を持ち帰った姉妹も事情をイハレビコに伝えると、
長時間の潜水がたたって息絶えた。風雨と荒波はすでに静まっていた-。

   「イハレビコは、船を浜につないで姉妹を手厚く葬り、神剣をご神体とする
   小さい祠(ほこら)を建て、八十枉(やそまが)(禍)津日神(つひのかみ)らを
   ご祭神として建国の大請願を立てたと伝わります」

同神社の小野眞一郎禰宜(ねぎ)はそう話す。
ヤソマガツヒは、黄泉(よみ)の国から帰ったイザナキノミコトがみそぎを行った際に
生まれた神である。

「この地では、佐賀関のすぐ前にある岩礁、権現礁(ごんげんべい)が
イザナキのみそぎの場と伝わっています。神剣は、イザナキが絶えず佩(は)いていた
もので、みそぎの最後に海底に沈めた。それを大蛸が守護していたのです」


大蛸は、イザナキの子孫のイハレビコが来たことを喜び、
預かっていた神剣を返したのである。

地元で「お関様」と呼ばれる同神社の拝殿には、数多くの蛸の絵が張られている。
参拝者が願い事と、その成就のために蛸を食べない期間を書いて張るのである。
伝承に基づく蛸断(たこだち)祈願と呼ばれる信仰だ。

   「わが家では代々、一生涯、蛸を食べません」

そう話す小野氏は同神社の39代目の社家である。
蛸断ちは千年以上も続いていることになる。

 
佐賀関の港町には黒砂通り、真砂通りの名も残る。
東征は、道々で協力者を得ながら達成された偉業で、
その助力を地元がいかに栄誉と感じていたかが、町の隅々から感じられる。

   =続く

   (http://www.sankei.com/west/news/150503/wst1505030005-n1.html

           <感謝合掌 平成27年5月5日 頓首再拝>

神武・海道東征~その13 - 伝統

2015/05/07 (Thu) 04:16:33


御船出(3)宮を造り歓待した宇佐の民


 〈豊国(とよくに)の宇沙(うさ)〉

潮流の激しい豊予海峡を椎根津彦(しひねつひこ)の案内で突破した
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)がその直後に立ち寄った地を、古事記はこう記す。
日本書紀では〈筑紫国の菟狭(うさ)〉。現在の大分県宇佐市である。

〈椎根津彦命(みこと)に先導された神武天皇一行は、
この柁鼻(かじはな)の地に上陸したといわれている〉

同市和気。小高い丘の上に鎮座している柁鼻神社の由緒書きにはこう記されている。
同神社は、イハレビコの上陸を喜んだ後の住民が、イハレビコの父、ウガヤフキアエズノミコト
と兄、イツセノミコト、そしてイワレビコを祭って建てたものである。

「その昔は、神社のあるこのあたりまで海でした」と、
同市観光協会の小野辰浩事務局長は話す。
同神社の眼下に広がる田が海だったというのだ。

「神社名にある鼻とは、海に突き出した岬のようなところという意味。
その岬に舵(かじ)を向けて、船団は航行してきたのでしょう」


   〈宇沙に到りましし時に、其の土人(くにびと)名は宇沙都比古(うさつひこ)・
    宇沙都比売(うさつひめ)二人、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて、
    大御饗(おおみあえ)を献る〉

古事記は、宇佐での出来事について、こう記す。
宇佐の住人2人が、イハレビコらのために住居を造り、
ごちそうを差し上げたというのである。

「2人は、今の宇佐神宮のあるあたりに暮らしていた民なのでしょう。
友好的だったのは日向と海路を通じて交流があったために、
イハレビコの人となりを聞き知っていたのかもしれません」

同神宮の永弘健二・権宮司はそう推測する。


イハレビコは歓待を喜び、家臣のアマノタネコノミコトに
宇沙都比売を娶(めと)るように命じた。

アマノタネコの祖父神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が
天岩屋に隠れた際の祭祀(さいし)を取り仕切ったアメノコヤネノミコト。

イハレビコの曽祖父、ニニギノミコトの天孫降臨の際、一緒に天下り、
後の藤原氏につながる神である。

 
「地元有力者と家臣の婚姻関係を描くことで、
その地域を支配下においたことを表現したのではないでしょうか」。
別府大の飯沼賢司教授は話す。実際、柁鼻神社の由緒書きはこう記している。

   〈菟狭津媛(うさつひめ)(宇沙都比売)を妻としたことによって
    大和朝廷と宇佐との関係性がより深くなった〉

 
考古学的にも宇佐と大和王権との強い結びつきは明らかだ。
同市内には九州最古といわれる3世紀後半の前方後円墳が存在し、
大和からもたらされた鏡や装身具などの副葬品が多数出土している。

「宇佐は海に向かって開けた平地で、瀬戸内海で大和と行き来しやすく、
早くから大和の影響下にあったことがわかります。
こうした関係性を記紀は示しているのでしょう」

大分県立歴史博物館の友岡信彦・企画普及課長はそう話す。

東征はさまざまな政治手法を駆使した地道な国造りだったことが、宇佐の伝承でわかる。

   =続く

  (http://www.sankei.com/west/news/150504/wst1505040004-n1.html
           
           <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

神武・海道東征~その14 - 伝統

2015/05/08 (Fri) 04:57:43


御船出(4)母への孝心 伝える「幻の宮」


   〈菟狭(うさ)はよ、さす潮の水上(みなかみ)、豊国の行宮(かりみや)。
    ああはれ、足一騰宮(あしひとつあがりの)(みや)とよ、行宮。
    足一騰宮は行宮と青の岩根に一柱坐(ひとはしらま)す〉

 
北原白秋が作詞した交声曲『海道東征』では、古事記での最初の寄港地、
宇沙(大分県宇佐市)はこう歌われる。

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)を迎えた宇沙都比古(うさつひこ)、
宇沙都比売(ひめ)が、仮宮である足一騰宮を作り、大御饗(おおみあえ)を開いて
もてなした記紀の記述がモチーフである。

 
足一騰宮は、柱1本を階段のようにして使った建物とも、
屋根を1本の柱で支えた建物ともいわれるが、実際の姿はわからない。
宮があった場所も宇佐市内で諸説ある。
宇佐神宮の境内にかつてあった弥勒寺の跡地そばもその一つだ。

「このあたりは昔、『騰隈(とうのくま)』と呼ばれ、足一騰宮の名残と考えられてきた。
年長の人なら知っているが、若い人たちは知らないので後世に語り継ぐために、
石碑を建てて顕彰することにしました」

同神宮の永弘健二・権宮司はそう話す。
石碑は来月建つ予定で、神武東征の新たな語り部となる。

 
   〈宇佐に立ち寄った神武天皇は、安心院(あじむ)盆地の美しい風景に感動し、
    母であるタマヨリビメの魂を祭るため祭祀を行った。すると、川の中の岩に
    タマヨリビメの魂が現れ、山の上へ舞い上がって山中の巨石に降臨した。
    神武天皇はこの石を足一騰宮と名付けた〉

足一騰宮のもう一つの伝承地、同市安心院町にある妻垣神社には、
こうした由緒が口伝で伝わり、江戸時代初期の史料になって残っている。

タマヨリビメの魂が降臨した巨石は、同神社の社殿から数百メートル離れた
共鑰(ともかき)山の8合目付近に祭られている。光沢のある美しいこけが一面を覆い、
白秋が記す〈青の岩根に一柱坐す〉そのものの姿である。

巨石は同神社の上宮、社殿は下宮。「母君の御魂を宮に祭った後、
大御饗を行ったのかもしれません」と同神社の妻垣常彦禰宜(ねぎ)は話す。
宇佐の伝承は、イハレビコの孝心を伝えている。

同神社は、海から遠い盆地にある。
足一騰宮のもう一つの伝承地、同市の和尚山(かしょうざん)は
宇佐神宮と同神社の中間あたり。ここも海には遠い。
そうした土地にイハレビコは約1カ月滞在した、と地元には伝わる。

 
「うちの近くには海神社があって、タマヨリビメの姉のトヨタマビメを祭っている。
どちらも海の神、ワタツミノカミの娘だから、海の民が川を遡(さかのぼ)って
やって来て、農耕の民になったのではないかと思います」

妻垣氏はそう話す。海から離れて祭られるイハレビコの母と祖母は、
東征が稲作を広める旅だったことを示唆する。

「足一騰宮がどこにあったか、特定する必要はないと思います。
ここに住む者として、お宮を守っていけばいいだけですから」。
妻垣神社総代の矢野省三氏はそう言う。

イハレビコを歓迎し、いち早く国造りに協力した土地柄への誇りがのぞいた。

   =続く

  (http://www.sankei.com/west/news/150505/wst1505050001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年5月8日 頓首再拝>

神武・海道東征~その15 - 伝統

2015/05/30 (Sat) 04:19:29


御船出(5)謎の1年…稲作で豪族が恭順


   〈其地(そこ)より遷移(うつ)りて、竺紫(つくし)の岡田宮に
    一年(ひととせ)坐(いま)す〉


其地とは豊国の宇沙のこと。古事記は、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が
豊国(大分)を出た後、筑紫(福岡)に入って岡田宮で1年間、滞在した、と記している。

 
古事記が記す岡田宮は、
古代の崗地方(遠賀郡)を治めていた熊族が祖先神を祭っていた社である。
現在の住所地にすれば北九州市八幡西区。

当時の社は現在より広大で、イハレビコの御宮居跡は住宅地になっているが、
元宮の一宮神社にはイハレビコが祭祀(さいし)を行った
祭場跡「磐境(いわさか)」が残っている。

 
「熊族の地で、イハレビコが祭祀を行っていたことに意味がある」と、
同宮の波多野直之宮司は言う。
遠賀地方を支配する豪族が、イハレビコに従ったことを象徴するからである。

「熊族の『熊』は、古事記によく出てくる『わに』のような言葉で、
海の豪族という意味合い。彼らは、船団を率いてイハレビコを迎えたとも
伝わりますから、早くから恭順したということでしょう」

 
速吸之門(はやすひなと)を過ぎて宇沙に着いたイハレビコの目前には、
東に瀬戸内海が広がっていた。にもかかわらず、西に向かって岡田宮に
1年も滞在したことは、東征の謎の一つである。


「ここは北部九州の要衝で、隣接して宗像族もいましたから、
無視して通過することはできなかったのだと思います」

 
同宮には後世、新羅に遠征する神功(じんぐう)皇后が立ち寄り、祭事を行った。

鎌倉時代には、有力御家人の宇都宮重業が源頼朝からこの地を与えられ、
江戸時代に黒田長政が筑前に入国するといち早く、長崎海道の起点になる
黒崎宿を整備した。

それだけの要衝だから、押さえておかなければ安心して東征できない、
という波多野氏の指摘である。

押さえる手段は稲作の技術だった。
米は1粒が300粒にもなる、豊かさを保証する食料だ。

 
「熊族は、海を中心に採集生活をしていたでしょうから、
米の安定性を教えてくれるこの人に従えば、
より幸せになれると思ったのではないでしょうか」

イハレビコの1年間の滞在は、稲作の技術を伝え、教える時間だった可能性が大きい。

 
現在の岡田宮は中殿にイハレビコを祭り、
右殿に県主熊鰐命(あがたぬしくまわにのみこと)を祭っている。

熊族の長が、イハレビコが興した大和朝廷の地方官、県主に任じられたことを、
この神名は示している。

波多野氏の調査では、記紀や風土記が編纂(へんさん)された奈良時代初期、
全国各地を治める国造(くにのみやつこ)は134人、県主は69人いたという。

「東征とその後の国造りに協力した地方豪族が、そうした地位に就くことができた。
熊族も東征に協力したことがきちんと評価されたのだと思います」

東征に協力したことで、その地を治める地位を与える。
1年間の岡田宮滞在には、イハレビコの政治手法が見られて興味深い。   

=第3部おわり(第4部に続く)

  (http://www.sankei.com/west/news/150506/wst1505060006-n1.html

           <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

神武・海道東征~その16 - 伝統

2015/06/20 (Sat) 04:55:48


【神武・海道東征 第4部】
海道回顧(上)(1)高波遭遇 吉兆の地で力蓄え


 〈また其の国より上り幸(い)でまして、阿岐(あきの)国(くに)の
  多祁理宮(たけりのみや)に七年坐(いま)す〉

 
竺紫(つくし)(筑紫)をたったカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について、
古事記はこう記す。阿岐は安芸。現在の広島県で7年も過ごしたというのだが、
そこに至る前の周防灘で高波に遭い、竹島(山口県周南市)に停泊したという伝承がある。


 「かの里に上がらん」

 
イハレビコは船酔いがひどく、対岸に船を進めて上陸した。
里人が煎じた薬草を飲むと、気分はたちまち回復した。


 「我が心、たいらかなり」

 
イハレビコはそう言い、里を「たいらの里」と命名した。
現在の同市平野である。


 「当時の里人が温厚だったのでしょうが、大きな船で武器を携えてやって来た一行を恐れ、
  服従したとも考えられます」

地元で郷土史を編纂(へんさん)する中村哲夫氏はそう話す。


 〈「波音聞かぬ所に」と水際伝いに進み、そこにあった石に腰掛けているうちに夜が明けた。
  この地は海上より微(かす)かな光を見た吉兆の地で、微明(みあけ)という〉

伝承は、上陸したイハレビコが近くの丘陵に登り、眼前の景色の美しさに惹(ひ)かれ
そこに仮宮を設けた、と続く。現在の神上(こうのうえ)神社である。
地名は下上見明(しもかみみあけ)。イハレビコが命名した伝承が現在も生きている。


 「かつては神社の下の里あたりまで海だったそうです」と、同神社の佐伯聡子宮司は話す。
現在は、埋め立てられて竹島まで地続きになっているが、それまでは同神社の南に位置する
永源山は島で、大津島と馬島も別々の島として眼下に見えていた。

この風景の中でイハレビコは約半年、滞在したと伝えられる。
「米が実るまでがちょうど半年間。船の補修や食糧、兵器の補充をしたのでしょう」。

中村氏はそう想像する。

同神社の近くにある四熊(しくま)ケ岳もイハレビコの伝承地である。

 〈東征の道のりを決めようと、イハレビコが四方が見渡せる山に登ると、
  4頭の熊が出てきて、地に伏し額づいた。この山は「四ツ熊の峯」と名づけられた〉

四熊地区の郷土史研究会「ななはた探訪会」の兼重和剛氏らは、この伝承を紙芝居にしたが、
熊を大柄な男の姿で描いた。

 「熊はイハレビコの威にうたれて額づいたのだが、実際には熊ではなく、
  荒くれ者とか未開の地の人間とかいう意味でしょう」

 
イハレビコに従った四熊ケ岳はその後、神聖な場所として崇(あが)められ、
兼重氏が小学生のころまで女人禁制だったという。

 「船は海を経よ。我は陸を行かん」

イハレビコはそう言ってこの地を去った、
と伝承は締めくくられる。

南風が強くなると、関門海峡によって行き場の狭い海水が高潮になる海の難所が周防灘。
大事を前に危険を避けるイハレビコの慎重な姿を、伝承は伝えている。   =続く

 ◇

【用語解説】伝承の岩残る神上神社

 「朕(ちん)、何国ニ行クトモ魂ハ此(ここ)ノ仮宮ヲ去ラザレバ、
長ク朕ヲ此ニ祀(まつ)ラバ、国ノ守神トナラン(私をここに祭ればこの地の守り神になろう)」

イハレビコが、たいらの里を去るに当たってそう言い、
里人たちが仮宮の地を祭ったのが神上神社だ。
祭神は神武天皇。境内には御腰掛岩などが残る。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)と弟の月読命(つくよみのみこと)も祭り、
かつては祭礼に勅使が遣わされていた。本殿に安置されている弓矢を持った男性の木像は
文政年間(江戸時代)、勅使を遣わす代わりに奉納されたという。

   (http://www.sankei.com/west/news/150615/wst1506150006-n1.html

・・・

<参考Web:神武天皇東遷 瀬戸内航路 山口県下の伝承
       → http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-1tousen4.html >


           <感謝合掌 平成27年6月20日 頓首再拝>

神武・海道東征~その17 - 伝統

2015/06/22 (Mon) 08:52:22


海道回顧(上)(2)安芸の豪族への信任 後世まで


瀬戸内海の難所、周防灘を抜けたカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について、
古事記は「阿岐国(あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に七年坐(いま)す」と書くが、
日本書紀はこう記す。

 「安芸国に至り埃宮(えのみや)に居(ま)します」

記紀で宮の名前が一致せず、滞在期間も古事記は7年、日本書紀は2カ月余りと大きく違う。
しかし、多祁理宮と埃宮は同一で、現在の多家神社(広島県府中町)と伝えられる。

小高い丘の上に広がる境内にはかつて松がうっそうと茂り、
「誰曽廼森(たれそのもり)」と呼ばれた。

 「神武天皇がこの地に上がり、土地の者に『そなたは誰ぞ』と尋ねた伝承が名の由来です」

そう説明する飯田誠宮司によると、古代の広島湾は平野の奥深くまで海が入り込み、
誰曽廼森は穏やかな湾内に突き出す岬だったと考えられる。

 「近くには水分峡(みくまりきょう)という豊富な湧き水があります。
  7年も滞在できたのは、水運の便に加え、水源の存在が大きいと思います」

同神社は、神武天皇とともに安芸国の開祖、安芸津彦命(みこと)を主祭神とする。
安芸津彦の本拠地は広島市西部の火山(ひやま)(標高488メートル)周辺といわれ、
山頂には「神武天皇烽火(のろし)伝説地」の碑が立っている。

イハレビコの一団が広島湾に入って来た際、安芸津彦がのろしを上げたとされる。

 〈安藝都彦出迎えて奉饗せりとの傳説(でんせつ)あり〉

『廣島縣史』はそう記す。安芸津彦が牡蠣(かき)など地元の名物を並べて、
イハレビコをもてなした様子が想像される。

 「安芸津彦は神武東征に協力し、後に国造(くにのみやつこ)の地位を与えられた」

そう指摘するのは、安芸国府の在庁官人の家で、鎌倉時代の田所文書(広島県重要文化財)を
伝える田所家の子孫、田所恒之輔氏である。田所家は平安時代、厳島神社の祭祀(さいし)で
勅使代を務めてきた家で、その初代を安芸津彦とする。

 「安芸津彦の子孫は、東北の軍事的要所も任されており、東征では軍事面でも協力したのでしょう」

安芸津彦は、平安時代前期の史書『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』では、
阿岐国造家の祖、天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)として登場する。

阿尺国造(あさかのくにのみやつこ)(福島県郡山市周辺)や伊久国造(宮城県角田市周辺)の祖
ともされ、大和朝廷の信任が厚かったことがうかがえる豪族である。そ
の歴史は、イハレビコへの歓待、協力ぶりに始まったとみられる。

皇紀2600年の昭和15年を前に行われた広島県内の神武天皇聖蹟調査では、
イハレビコの立ち寄り地は県内最大の穀倉地帯、東広島市の西条地区のほか、
安芸高田市や三次市など芸北地方(県北部)に密度濃く広がっていた。

 「誰曽廼森を拠点に安芸周辺の国々まで出向き、東征や国造りの支援を要請したのではないか。
  安芸津彦は道案内や仲介役も果たしたのでしょう」

 飯田宮司は聖蹟をもとに、7年間の滞在をそう推測する。   =(3)に続く

 ◇

【用語解説】「先代旧事本紀」

天地開闢(かいびゃく)から33代推古天皇の時代までの歴史を記した平安時代前期の史書。
偽書説があるが、記紀にない内容が盛り込まれ、史料的価値は高いとされる。

第3巻「天神本紀」には神武東征以前に物部氏の祖、ニギハヤヒノミコトが尾張連(むらじ)や
中臣連など各地の古代豪族の祖を従えて天下ったと記され、安芸の天湯津彦命もその一人。

 第10巻「国造本紀」は、東征に功績のあった者を国造や県主(あがたぬし)に定めたとし、
阿岐国造には13代成務天皇の時代、天湯津彦の五世孫、飽速玉命(あきはやたまの)(みこと)
が任命されたと書かれている。

http://www.sankei.com/west/news/150616/wst1506160002-n1.html

           <感謝合掌 平成27年6月22日 頓首再拝>

神武・海道東征~その18 - 伝統

2015/06/24 (Wed) 03:19:13


海道回顧(上)(3)出雲勢力の帰順を求め遠征

中国山地の分水嶺に位置する広島県安芸高田市。
瀬戸内海から遠い同市にある埃(え)ノ宮神社は、日本書紀が記す埃宮という由緒を持つ。

広島湾に面した誰曽廼森(たれそのもり)に上陸したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)は、
太田川、根の谷川を北上し、高田郡可愛村(えのむら)(同市吉田町)に到着したというのである。

 〈吾が可愛村埃宮は、所謂(いわゆる)日本書紀に見ゆる安藝埃宮なりとの
  傳統(でんとう)的固き信仰を持つものである〉

昭和16(1941)年、可愛村郷土誌調査会が発行した論文『神武天皇御聖蹟埃宮』はそう記す。
さらに、中国山地が鉄を産し、出雲に近い同県三次市や庄原市にも神武伝承が多いことを指摘して
こう書く。

 〈されば、神武天皇、精鋭の軍兵と兵器其他の諸準備を遊ばすため、
  強大なる出雲勢力の帰順を求め給ひしと思惟することは誠に当然なことである〉

 ◇

 ヤマタノオロチ伝説も、同市と出雲との深い関係を伝えるものだ。
須佐之男命(すさのおのみこと)がオロチを退治したのは、
出雲の宍道湖に注ぐ斐伊川の上流とされる。

が、日本書紀は〈一書(あるふみ)に曰(いわ)く〉として、須佐之男命が戦った場所をこう書く。

 〈安芸国の可愛(えの)川上に下り到ります〉

可愛川は、同神社の脇を流れ、やがて日本海に注ぐ江(ごう)の川になる。
神社脇から約8キロさかのぼった同市上根は、瀬戸内海に流れる根の谷川の源流になる。

「周辺はかつて『根村』と呼ばれ、須佐之男命が住む「根の国」と伝えられてきました」と、
郷土史家の三上節次氏は話す。

同神社から約2キロ南の山中では一昨年、弥生時代末期の四隅突出型墳丘墓稲山墳丘墓が見つかった。
「四隅」は弥生時代の出雲で巨大化した墓で、その分布は出雲の勢力圏を示す。
同市地域振興事業団の沖田健太郎課長は「土器の出土状況も合わせ、この地に出雲の勢力が及んで
いたことに疑いはない」と話す。

出雲は、最初の国造りをして天照大御神(あまてらすおおみかみ)に
国譲りした大国主命が隠棲した国。

その国と関係深い可愛村に、古代国家を造ろうとするイハレビコは、
海道を離れて遠征したのである。

 ◇

東征が終わり、初代天皇として即位するイハレビコは、ヒメタタライスケヨリヒメを正妃に迎える
イスケヨリヒメは、日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と記され、
コトシロヌシノカミの娘とされる。

コトシロヌシの父は大国主命。
つまりイハレビコは、出雲勢力との姻戚関係を国造りの仕上げにしたことを、
記紀は示しているのだ。

「蹈鞴」は古代の製鉄法のことである。
鉄をイハレビコが求めたことも、この婚姻は示唆する。

戦国武将・毛利元就の本拠地としても有名な同市に伝わる伝承は、
国造りの基盤を物語る重要なものだ。三上氏は言う。

 「論文の伝承を引き継いでいく責任があると思っています」   =(4)に続く

http://www.sankei.com/west/news/150617/wst1506170002-n1.html


           <感謝合掌 平成27年6月24日 頓首再拝>

神武・海道東征~その19 - 伝統

2015/06/26 (Fri) 03:47:50


海道回顧(上)(4)港町に残る 海賊退治の物語


多祁理宮(たけりのみや)とされる多家神社(広島県府中町)から
南東に約20キロ離れた同県呉市。

昭和5(1930)年に発行された『呉及び其の近郷の史実と伝説』(中邨末吉著)に、
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の武勇伝といえる伝承が記されている。

 〈高烏山(たかからすやま)に夷賊(いぞく)の山巣(さんそう)があった。
  里に住居するよき翁達は、我物顔に振る舞う夷賊共の蔓(はびこ)る様(さま)に
  怖(おそ)れ戦(おのの)いていた。

  (中略)神武天皇は誰れ奏聞するともなく聞き召され
  「やよ、かの奇しき賊どもを平らげ得させよ」と宣(のたも)ふた〉

 
討伐に向かうイハレビコの船を、どこからともなく現れた八咫烏(やたがらす)が先導した。
古事記では、熊野から吉野に向かう際にイハレビコを導いたとされる鳥である。

八咫烏は、船に先立って賊の住む高烏山で羽を休めた。
そのあまりの美しさに恐れを抱いた賊は、イハレビコらと戦う気力を失って退散した-。

 ◇

呉市の伝承は、イハレビコが多祁理宮を離れ、東に向かう際のものと伝わる。

同市の総氏神である亀山神社の太刀掛祐之宮司は

「陸伝いに航行すれば、呉には必ず立ち寄る。
寄港地の賊を無視することはできなかったのでしょう」と話す。

太刀掛宮司は、伝承で語られる夷賊とは海賊のことだと推測する。

 「瀬戸内は古来、海賊がよく出没したが、呉の人々が海賊に悩まされたという話は聞きません。
 神武天皇が成敗してくださったからではないでしょうか」

同神社は市内に、八咫烏神社を摂社に持つ。
もともとは高烏山に建っていたが、参拝が困難なため、昭和になって麓に下ろされた。
しかし、元の場所には「奥宮」が残り、今も地元の人々に守られている。
軍港として先進的な歴史を刻み続けてきた同市が持つ、もう一つの顔である。

 ◇

宇津神社がある大崎下島(呉市)にもイハレビコの足跡が残る。
上陸した浜が「王浜」と命名され、その地は今、「大浜」と表示される。
仮宮を建てて過ごしたとされる地は「大長(おおちょう)」。
王朝と呼んでいた名残の地名である。

 「この島の沖合は潮が速く、昔はフェリーも欠航するほどだった。
 神武天皇はその潮流を避け、島にやってきたのでしょう」

越智正申宮司はそう話す。

同神社の祭神は宇津彦命(うつひこのみこと)。
イハレビコが豊予海峡を通過する際、水先案内をしたと日本書紀が書く
漁人(あま)の珍彦(うづひこ)と同様に、イハレビコの先導をしたと社伝は伝える。

広島県沖の芸予海峡も豊予海峡以上の海の難所。
イハレビコの阿岐(あきの)(安芸)国、多祁理宮での7年は、
こうした海との闘いでも費やされたと推測できる。

 
同神社では毎年、神武天皇が崩御した4月3日に奈良・橿原に向けて祭壇を組み、神武祭を行う。

越智宮司は言う。

 「神武天皇の功績を後世に伝えていくのはお宮の務め。
  神武祭を行う神社は近年少なくなったが、これからもやめるつもりはありません」

   =続く

http://www.sankei.com/west/news/150618/wst1506180004-n1.html


           <感謝合掌 平成27年6月26日 頓首再拝>

神武・海道東征~その20 - 伝統

2015/06/29 (Mon) 05:04:14


海道回顧(上)(5)瀬戸を照らす 海洋国家の曙光


愛媛県今治市(大三島)の大山祇(おおやまづみ)神社。
「日本総鎮守」といわれる同神社の境内では、巨大な楠が参拝者を迎える。
「小千命(おちのみこと)御手植の楠」。推定樹齢約2600年。
その謂(いわ)れを同神社の由緒はこう書く。

 〈神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫、小千命が先駆者として
  伊予二名(ふたなの)島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、
  芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる〉

同神社の祭神はオオヤマヅミノカミ。
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の曽祖父、
天孫ニニギノミコトの妻になったコノハナノサクヤヒメの父神である。

楠の伝承は、その子孫が東征の先駆けを果たしたことを示している。

日向・高千穂をたったイハレビコが一族、
血縁者を多く従えていたことを示唆するものなのである。

 「小千命はそのまま伊予に残り、豪族・越智氏の祖になったといわれます。
 瀬戸内海を掌握する役目を負っていたのでしょう」

同神社の三島安詔(やすのり)・権宮司はそう話す。

 ◇

越智氏は、朝廷に忠節を尽くす豪族として度々、史書に登場する。
越智・河野氏の家譜を伝える『予章記』は33代推古天皇の時代、
百済の軍が肥後に来襲したとして、こう書く。

 〈(越智)益躬(ますみ)勅ヲ蒙(こうむ)リ、夷敵退治ハ家ノ先例ナリトテ、
  手勢少々率イテ九州ヘ発向ス〉

 
『日本霊異記』には38代天智天皇の時代の白村江の戦いに
越智直(あたえ)が一族を従えて出陣し、奮戦及ばず捕虜になったことが書かれている。

 「造船知識があったので敵地で船を造り、観音菩薩の助けで西風を得て帰国した。
  そんな直を天皇が憐(あわ)れみ、望み通りの褒美を与えたと記録されています」

 
『古代越智氏の研究』の著者、白石成二氏はそう話す。
「伝承には史実に基づかないものも多いが、伊予の豪族たちが
朝廷との結びつきをいかに重要視していたかがうかがえます」


朝廷にとっても海と、そこを押さえる豪族は大事な存在だった。
それは7世紀に整備した畿内・七道の名前を見ればよくわかる。

 〈東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道〉

7道のうち3道は「海の道」である。
道路網が整備されていない時代、短期間に大量に人や物を運べるのは海なのだ。


「大三島はちょうど、瀬戸内海の真ん中。潮の境目なので、
とりわけ重要拠点だったと思います」と白石氏は言う。

 
楠を産することも重要だった。
腐りにくく、船の用材に適する。
同神社は小千命の楠以外にも天然記念物に指定された楠群がある。


 「古代の船は木を切った山で造られ、完成してから海に下される。
  それに適した地形が芸予に多い。遣唐使船はほとんどが安芸で造られていました」

こうした適地を最初に押さえたのも、東征だったのである。 

   =第4部おわり(第5部に続く)

     (http://www.sankei.com/west/news/150619/wst1506190001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年6月29日 頓首再拝>

神武・海道東征~その21 - 伝統

2015/08/12 (Wed) 04:52:04


【神武・海道東征 第5部】海道回顧(下)(1)潮を待ち 軍備も怠らぬ日々


 〈また其の国より遷(うつ)り上り幸(い)でまして、吉備の高嶋宮に八年坐(いま)しき〉


古事記が書く「其の国」とは東征の旅に出ているカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が
7年いた阿岐(あきの)(安芸)国(くに)のこと。イハレビコはそこを出て
吉備国(岡山県と広島県東部)に入り、高嶋宮に8年滞在したと古事記は記す。

その経路について、古事記は全く触れていないが、昭和16(1941)年に広島県が発行した
『聖蹟誌』によると、多祁理宮(たけりのみや)から上蒲刈島(広島県呉市)、大崎下島(同)、
生口島(いくちじま)(広島県尾道市)、因島(いんのしま)(同)と、
芸予諸島を伝うようにして船団を進めた。

阿岐国は生口島まで。
吉備国の入り口となる因島にある斎島(いむしま)神社の由緒にはこうある。


 〈昔神武天皇、東国に行かれるとき、風波のため航海ができず、この大浜に船を留め、
  塞崎山にて数日、嵐の静まることを天神に祈られた。即ち此(こ)の島は斎島である〉


瀬戸内海の潮目の境は阿岐と吉備の境目あたり。
ここから東は、満ち潮なら向かい潮、引き潮なら追い潮になる。

 「大浜は古くから潮待ちの港で、20~30艘の船が停泊しては一斉に出航する光景が、
  昭和初期までありました」

同神社の河野真也宮司はそう話す。

潮目の変わった船旅の最初の寄港地が、因島だったのである。



 「芸予諸島によって迷路のように入り組んだ瀬戸内海は、
  海流が一定した外洋とは全く違う複雑怪奇な海に思えたことでしょう」

 
そう指摘するのは神戸商船大(現・神戸大海事科学部)の松木哲名誉教授である。

松木氏によると、弥生時代でも日本の船には帆がなく、
漕ぎ進める速度はせいぜい2ノット(時速3・7キロ)。
向かい潮だと前進できず、沖に出ると遭難の危険が伴った。


 「ゆっくり潮を待ち、陸や島に沿った航海だったでしょうが、
  それでも水先案内人なしでは横断は不可能だったと思います」


昭和15年に広島県教育会が発行した雑誌『芸備教育』によると、
イハレビコは因島から向島に沿って北上し、尾道水道を進んだ。
遠回りだが安全な航路を選び、いったん松永湾に入ったのである。

その地にある「柳津」は、
イハレビコが柳の木に艫綱(ともづな)をつないだ伝承から生まれた地名だ。

そこから沼隈半島に沿って南下した先の田島(広島県福山市)は、
記紀に記された高嶋宮の候補地の一つ。
隣接するように近い矢ノ島は、一行が弓矢を作ったとされる島だ。


 〈往古、神武天皇、高殿を設けて、
  磯間の浦にて海軍の操練を叡覧且つ監護せさせ給う所なりと云う〉


郷土史『吉備高島宮研究志料』(昭和13年)はそう書いて、
田島の入り江でイハレビコが、水軍の訓練を指揮した伝承を記録している。

潮を待ち、安全な航路を選び、操船技術を熟練させ、軍備も怠らない。
こうした日々が、瀬戸内海の半ばを過ぎてもなお、続いていたのである。 

  =(2)に続く

   (http://www.sankei.com/west/news/150810/wst1508100002-n1.html

           <感謝合掌 平成27年8月12日 頓首再拝>

神武・海道東征~その22 - 伝統

2015/08/13 (Thu) 04:54:35


【神武・海道東征 第5部】海道回顧(下)(2)ヒメとの別れ 戦への覚悟

岡山県笠岡市の高島。広島県との県境に浮かび、
歩いて約2時間で一周できるこの小島には、
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)ゆかりの地名が実に多い。

上陸し、宮を建てて滞在した「王泊(おおどまり)」、
天つ神に捧(ささ)げるために水をくんだ「真名井」、
山頂で吉凶を占った「神ト(かみうら)山」…。


 「高島の近くにある稲積島は、神武天皇が出発に備えて稲を積んで蓄えていたことから、
  島名がついたといわれます。ほかにも、天皇が手を洗った御手洗池など、
  高島以外の地にも伝承地が残っています」

 
同市生涯学習課の山本原也・学芸員はそう話す。

この伝承地の多さが、高島が高嶋宮跡伝承地の一つとされている理由である。

 「縄文時代の土器片なども見つかっていて、
  高島が古くから人々が生活する地だったことも間違いありません」

高島対岸の本州側。
高島の王泊を目の前にする地、同市神島外浦に神島(こうのしま)神社がある。
祭神はイハレビコと、イハレビコの后(きさき)と伝えられる興世姫命(おきよひめのみこと)だ。

 
地元の伝承によれば、オキヨヒメは、日向の美々津からイハレビコと共に船でやってきた。
高島に着くと、イハレビコは島に宮を建て、対岸の地に行宮(かりみや)を建てて
オキヨヒメの住居とした。

 「神武天皇は狩りをするために高島から海を渡っておいでになり、
 その際はオキヨヒメのいる行宮で過ごされたといいます」

同神社の総代長、岩井寛彰氏はそう語る。


 〈三年を積(ふ)る間に、舟●(ふね)を脩(そろ)へ兵食を蓄へ、
  将(まさ)に一たび挙げて天下を平(ことむ)けむと欲す〉

           ●=木へんに揖のつくり、右に伐のつくり

 
日本書紀は、古事記が全く触れていない高嶋宮でのイハレビコの様子について、こう記している。
高嶋宮は、天下を平定するための最後の準備を行った拠点だったと書いているのだ。

古事記では8年、書紀でも3年も滞在した高嶋宮である。
準備の合間に狩りに興じ、オキヨヒメと穏やかに過ごしたとする伝承はどこかほっとし、
信じたくなるものである。

 
神島神社の伝承は、さらにこう続く。


 〈皇后興世姫命は、引き続き神島にご滞在なされ、島民の尊敬を集めて当地で薨じられた。
  島民はさっそく社を建立し、興世明神としてお祀りした〉

 
万全の準備を終えた船出の時、イハレビコはオキヨヒメに、
この地にとどまるように言ったのである。
そして一人、オキヨヒメはこの地で亡くなった。

 「この先は戦になる、という覚悟が天皇にはあったのでしょう。
  ヒメも足手まといにはなりたくない。そう思われたのだと思います。悲恋ですね」

現在の形で神島神社が創建され、オキヨヒメが夫、イハレビコと共に祭られる
ようになったのは726年のことだ。

イハレビコが大和で、神武天皇として即位し、大業を成し遂げてから
実に1386年後のことである。   =次回(3)に続く

  (http://www.sankei.com/west/news/150811/wst1508110001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年8月13日 頓首再拝>

神武・海道東征~その23 - 伝統

2015/08/17 (Mon) 07:11:14


【神武・海道東征 第5部】海道回顧(下)(3)水田と集落 兵食支えた吉備

〈吉備高島宮跡、諸説紛々として、未だ一定する所なし。
 曰(いわ)く沼隈郡説。曰く神島説。曰く宮浦説。曰く高島山説〉

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が滞在した高嶋宮(古事記の表記)について、
昭和12(1937)年に岡山県高島村(現・岡山市中区)が発行した『高島村史』はそう書く。

4説のうち沼隈郡説は前々回、神島説は前回に紹介した場所で、
宮浦説は児島湾に浮かぶ無人島の高島(岡山市南区)をその場所とする。

同史が最も有力視しているのは高島山(岡山市中区)説。
JR岡山駅の約5キロ北東の龍ノ口山(標高257メートル)一帯を指す。

岬のように南へ延びる山の尾根には現在、「吉備高島宮址」の碑と祠(ほこら)が建っている。
同史は、古くから高島の地名があったことや、
備前国府の所在地だったといった理由を列挙し、こう記す。

 〈吉備に於て拓殖最も早く開けたる地方にして、土地肥沃、穀物豊穣なり〉

昭和43年、岡山市北区の津島遺跡で、弥生時代前期の水田と集落の跡が、
一緒の形では日本で初めて、発見された。
旭川を隔てて東側の百間川遺跡群でも同時期の水田跡が見つかった。

いずれも吉備高島宮址から一望できる数キロ圏内で、
吉備で最も早く稲作地帯が広がっていたことを明らかにした。

 「弥生前期のナッツ類を貯蔵する穴も見つかっている。
  この地の人々は縄文時代からの採集生活を続けながら、稲作をしていたのでしょう」

岡山大埋蔵文化財調査研究センターの山本悦世教授はそう話す。
旭川下流域は稲作には、格好の土地だった。中小の河川も張り巡らしたように流れる
デルタ地帯(三角州)で、両遺跡は旭川の氾濫原(はんらんげん)に位置する。
この地の人々は、微高地に集落をつくり、低地に水田を営んでいたのである。


 〈三年を積(ふ)る間に、舟●(ふね)を脩(そろ)へ兵食を蓄へ〉

日本書紀がそう書く高嶋宮の暮らしを、ここほど実現できる適地は、それほどない。

 〈肥沃な備前平野を北に負ひ、児島湾一帯を物資供給の区域となし、
  且つ児島湾西方に往時水島灘に連絡した可航水路があった〉

こうした理由で、高嶋宮の場所を児島湾の高島(宮浦説)としたのは、
昭和15年に文部省が行った「神武天皇聖蹟調査」である。

 「江戸時代に大規模な干拓が行われる前の児島湾は水島灘とつながり、
  高島は瀬戸内海の主要航路に浮かんでいた」と、

郷土史家の井上敏志氏は話す。高島には神武天皇を祭る高嶋神社があり、
氏子たちが年に3回、島に渡って神事を行っている。

 〈将に一たび挙げて天下を平(ことむ)けむと欲す〉

高嶋宮でイハレビコは一気に天下を平定しようと考えた、と書紀は記す。
そのための経済力を支えたのが吉備だったことを踏まえ、井上氏は言う。

 「高嶋宮は複数あった方がかえって、史実に即しているように思います」

   =次回(4)に続く

   (http://www.sankei.com/west/news/150812/wst1508120001-n2.html

           <感謝合掌 平成27年8月17日 頓首再拝>

神武・海道東征~その24 - 伝統

2015/08/18 (Tue) 04:58:54


【神武・海道東征 第5部】海道回顧(下)(4)実務に長じた兄の支え

岡山市の中心地から約10キロ東に行けば、裸祭りで有名な西大寺に着く。
ここから吉井川に沿って南下すると、珍彦(うずひこ)を祭る神前(かむさき)神社や、
ウズヒコが乗った亀だという亀石(かめいわ)がある。

ウズヒコは日本書紀では、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が海の難所、
速吸之門(はやすひなと)を通過する際、水先案内をするために現れた漁人(あま)で、
速吸之門は日向・美々津を出港した直後の豊予海峡と読み取れる。

同神社は、ウズヒコが豊予海峡から絶えず、イハレビコに従い、
航海の安全を図ったことを示唆している。

亀石の前の水門湾では旧暦の6月15日、提灯(ちょうちん)を飾った
シャギリ船が笛や太鼓を鳴らしながら湾内を航行する満潮祭が行われる。
シャギリ保存会の成本道博副会長は言う。

 「東征の船が台風に遭い、亀が先導して湾に避難させたといわれています」

祭りは、その伝承に基づいて行われている。

◇ 

水門湾から東へ約2キロ続く干拓地の最奥部。宮城山の中腹に鎮座する
安仁(あに)神社(岡山市東区)も、イハレビコの随行者の存在を今に伝える。
同神社の古代の名は「兄神社」。
主祭神はイハレビコの一番上の兄、五瀬命(いつせのみこと)である。

〈末弟の若御毛沼命(わかみけぬのみこと)(神武天皇)と共に、
日向国から大和国へと東進する途中に、神社近在へ数年間滞在される〉

社伝はそう伝える。その伝承ゆえに、同神社は平安時代の「延喜式神名帳」では、
格式の高い名神大社に列せられ、備前国一宮として隆盛した。



 〈神倭(かむやまと)伊波礼●古命(いはれびこのみこと)、其のいろ兄(え)五瀬命と二柱、
  高千穂宮に坐(いま)して議(はか)り云(の)りたまはく〉

古事記は、イハレビコがイツセと2人だけで、東征の相談をしたと記す。
「なほ東に行かむと思ふ」。そう決意を打ち明けたのもイツセにである。

イハレビコには3人の兄がいたが、古事記に度々登場するのはイツセだけ。
特にイツセが重要な後ろ盾だったことがわかる。

そのイツセの吉備での様子を、社伝はこう書く。

 〈住民の殖産事業を大いに奨励された〉

●=田へんに比

 ◇ 

「稲などの栽培方法を研究するような地道な作業をしていたように思う。
食糧庁長官のような役割を担っていたのではないか」

イツセについて、同神社の三原千幸宮司はそう想像する。

同神社のそばにかつてあった字名「稲戸」はイツセが兵食を備蓄したことが由来。
麻を植えて紡績し、東征のための服を作ったという場所には麻御山(おみやま)神社が鎮座する。
東征のための船を造った大工に「御船」の姓を与えたという伝承も残る。

 「段取り上手で、東征を切り盛りしていた様子がうかがえる。
  イハレビコの信頼が厚かったのだろうと思う」

 〈五瀬命は厳稲(いづしね)(神聖な稲)の意味〉

本居宣長が『古事記伝』でそう書いた兄は、実務にもたけ、弟の大業を裏方で支えていた。

   =(5)に続く

   (http://www.sankei.com/west/news/150813/wst1508130001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年8月18日 頓首再拝>

神武・海道東征~その25 - 伝統

2015/08/19 (Wed) 04:53:16


【神武・海道東征 第5部】海道回顧(下)(5)「国生み」伝わる家島で備え

 〈港内が風波穏やかで、あたかもわが家のように静かであったので、「いえしま」と名付けられた〉

播磨灘の中央に位置する家島諸島(兵庫県姫路市)の総鎮守、家島神社の由緒にはそうある。
命名したのはカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)。
嵐に見舞われ、難を逃れるために家島本島に立ち寄った際のことだという。

イハレビコは、武運長久と航海の安全を祈願し、天神(あまつかみ)を祭った。
これが同神社の始まりとされる。

 「家島は湾が深く、水深もあって船を係留しやすい天然の良港。
  明石海峡を前に、船団を整えるには適していたでしょう」

高島俊紀宮司は、そう推測する。

家島のもう一つの呼び名は「えじま」である。
「今でも島の人々は、家島のことを『えじま』と呼ぶ」。
高島宮司はそう話す。

 
この伝統は、日本書紀の記述に基づいている。
書紀は、イザナキノミコトとイザナミノミコトの国生みについて
10種類の別の伝承を書いているが、その一つにこうある。

 〈一書(あるふみ)に曰く、●馭慮(おのごろ)島を以ちて胞(え)と為(な)し、
  淡路洲(あわぢのしま)を生む〉

               ●=石へんに慇の心を取る

胞とは胎児を包む膜のことで、転じて兄の意味とされる。
「えじま」は「胞島(えじま)」で、国生みに先立って生まれたオノゴロ島ではないか。
そうした説が、島内では根強い。

家島本島の隣の西島の山頂には、「頂上岩」「てっぺん石」などと呼ばれる大岩があり、
イザナキとイザナミが建てた「天の御柱」とする見方もある。


 「海の要衝として家島が、
  (イザナキを先祖とする)中央の政権にとって大切だったことは間違いない。
  だからこそ家島神社が、平安期の『延喜式』に権威ある名神大社として記されたのです」

播磨学研究所の埴岡真弓研究員はそう話す。


 〈家島は 名にこそありけれ 海原を 吾(あ)が恋い来つる 妹もあらなくに〉

万葉集には、家島を詠んだ歌が少なくない。
家島神社の敷地内には、妻を思う遣新羅使の歌碑も立つ。

 「旧石器時代から人が途切れることなく住んできた島。
  古代の貴族も存在を知っていたし、軍事的には行き交う船を見張ることができた。
  これらがイハレビコの東征伝承と結びついたのかもしれません」

埴岡氏はそう語る。家島以東はもう畿内だ。
記紀では、東征中の唯一の戦(いくさ)が行われる地域に入ることになる。
その入り口ともいえる瀬戸内海の難所、明石海峡は目前に広がる。

東征の故事を知って同神社を訪れると、感慨深い。
同神社は、天神鼻と呼ばれる岬に立っているからだ。

 「(家島神社は)海の静けさと厳しさのちょうど狭間に当たる。
  (建立場所は)あの場所でなければならなかったと思う」

家島公民館の原山敏光館長はそう話す。

国生みの伝承も残り、海上からはまるで村のように見える家島を発(た)って、
東征はいよいよ正念場を迎える。     =第5部おわり(第6部に続く)

http://www.sankei.com/west/news/150814/wst1508140001-n1.html


           <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

神武・海道東征~その26 - 伝統

2015/08/20 (Thu) 04:54:51


【神武・海道東征 第6部】浪速の海(1)明石海峡の潮流知り畿内へ


 〈其の国より上り幸(い)でます時に、亀の甲に乗り、釣り為(し)つつ
  打ち羽挙(はふ)き来る人、速吸門(はやすひのと)に遇(あ)ふ〉

 
其の国、つまり吉備国を出発したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について
、古事記はそう書き出す。

速吸門は日本書紀では速吸之門と書かれ、豊予海峡を指すが、
古事記では明石海峡として書かれている。

 「汝(な)は誰ぞ」

 イハレビコが問うと、釣り人は答える。

 「僕(やつかれ)は国つ神なり」


 「汝は、海つ道(ぢ)を知れりや」

 「能(よ)く知れり」


 「従ひて仕へ奉(まつ)らむや」

 「仕へ奉らむ」

釣り人は船に引き入れられ、操船の棹(さお)を意味する
槁根津日子(さおねつひこ)の名をもらった、と古事記は記す。

 「大阪湾は満ち潮だと時計回り、
  引き潮では反時計回りの潮流が発生して操船が難しい」と、
  
神戸商船大(現・神戸大海事科学部)の松木哲名誉教授は話す。

イハレビコは幸先良く、潮流を熟知する海の民を得て、大阪湾に入ったのだ。

サオネツヒコがいなければ畿内上陸ができなかったことをうかがわせるのは、
日本書紀の記述である。

 〈方(まさ)に難波(なには)の碕(みさき)に到るときに、
  奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ〉

難波の碕とは、現在の大阪城から南に延びる上町台地で、
弥生時代にはすぐ西に大阪湾、東に河内潟が広がっていた。
北が潟口で、当時は引き潮のたびに、
河内潟から大阪湾への急流が生じていたと考えられる。

その様子を踏まえて、日本書紀はこう書く。

 〈因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやのくに)と為(い)ふ。
  亦浪花(なみはな)と曰(い)ふ。
  今し難波(なには)と謂(い)へるは訛(よこなま)れるなり〉

 
上陸したイハレビコはこの地に、
生島大神(いくしまのおおかみ)と足島大神(たるしまのおおかみ)を祭った。
「生玉(いくたま)さん」として有名な生国魂(いくくにたま)神社(大阪市天王寺区)
の起源である。

同神社は豊臣秀吉の大坂城築城まで、海に近い上町台地の北端に鎮座していた。

 「生島大神は島が生まれる状態、足島大神は島として成長、充足していく状態を
  神格化したものと考えられます」

中村文●・権禰宜(ごんねぎ)はそう話す。

同神社では鎌倉時代まで、天皇の御衣を海に向かって振り、
大八洲(おおやしま)の霊を身に付ける即位儀礼「八十島(やそしま)祭」が
行われていた。

この儀式のために奈良時代の歴代天皇が即位の翌年、
難波に行幸したことは『続日本紀』に記されている。

 「生島、足島の神名は、国生み神話にも通じる」と中村氏は言う。

急流に洗われ、淀川や大和川が運ぶ土砂によって陸地化していった上町台地周辺が、
古事記が記す国生み神話を思わせる、という指摘である。

 「是のただよへる国を修理(をさ)め、固め成せ」

まだ漂っている状態の国土をしっかり固めよ、
と天の神々はイザナキノミコトとイザナミノミコトに命じた、と古事記は書く。

日本誕生を連想させる地から、イハレビコは畿内に入ったのである。 

  =次回(2)に続く

  (http://www.sankei.com/west/news/150817/wst1508170004-n1.html

           <感謝合掌 平成27年8月20日 頓首再拝>

神武・海道東征~その27 - 伝統

2015/08/22 (Sat) 05:03:51

【神武・海道東征 第6部】浪速の海(2)豪族に阻まれた生駒越え


 〈三月の丁卯(ていばう)の朔(ついたち)にして丙子(へいし)に、
  遡流而上(かはよりさかのぼ)り、径(ただ)に河内国の草香邑(くさかのむら)の
  青雲の白肩津に至ります〉

 
難波(なには)の碕(みさき)で祭祀を行ったカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)は、
現在の東大阪市の日下あたりに到達したと日本書紀は記す。

目の前に迫る生駒山を越えれば、日向でシオツチヒコに
「東に美地(うましつち)有り。青山四周(あおやまよもにめぐ)れり」と
教えられた大和の地である。


 〈此の時に、登美能那賀●泥★古(とみのながすねびこ)、軍を興し、待ち向かへて戦ふ〉

           ( ●=さんずいに順のつくり。★==田へんに比 )


徒歩で生駒越えを試みる一行を先住民のナガスネビコが待ち構え、
戦を仕掛けた、と古事記は記す。

ナガスネビコが軍を興した理由は、日本書紀にこう書かれている。

 〈夫(そ)れ天神(あまつかみ)の子等(みこたち)の来ます所以(ゆゑ)は、
  必ず我が国を奪はむとならむ〉

ナガスネビコは生駒山の東、現在の奈良県生駒市付近に住む豪族で、
海を渡ってきた一団が国を奪いに来ると考え、生駒山の山上から迎え撃とうとしたのである。


 ◇


東征で初めての戦いが行われた場所は孔舎衛坂(くさゑのさか)(東大阪市)。
生駒山の西側で、現在は聖蹟伝承地として石碑が立つ。


 「山上から下へ攻めるのですから、ナガスネビコの方がイハレビコの軍よりも当然有利だったはず」

と、生駒市で観光ボランティアガイドを務める田中芳典氏は話す。

 〈長髄彦(ながすねびこ)本拠地碑〉

そう書いた石碑が立つ生駒市北部には勝鬨(かちどき)坂の伝承地も残る。
イハレビコ一行を撃退したナガスネビコが勝ちどきを上げた場所とされる。


長髄彦は日本書紀での表記で、スネが長い男という字句に、
大阪市立大の毛利正守名誉教授は注目する。

 「日本書紀では後に、土蜘蛛と呼ばれる民も抵抗勢力として登場する。
  ともに手や足が長いことを蔑視した呼称で、そうした憎悪が生まれるほど
  抵抗が激しかったということでしょう」

 
勝敗は1本の矢が決めた。日本書紀はその様子をこう書く。


 〈流矢(いたやぐし)有りて、五瀬命(いつせのみこと)の肱脛(ひぢ)に中(あた)り、
  皇師進戦(みいくさすすみたたか)ふこと能わず〉

敵の放った矢がイハレビコの長兄のイツセのひじに当たり、天皇軍は進撃不能になったのである。


  「弥生時代には縄文時代よりも大きく重い石鏃(せきぞく)(石の矢じり)が
   作られるようになりました。畿内では石鏃の多くは、大和と河内にまたがる
   二上山から産出されたサヌカイトが使われていた」

縄文時代から弥生時代の石鏃を展示する東大阪市立郷土博物館の中西克宏学芸員はそう話す。
サヌカイトは鋭い断片に加工でき、大きいものは鉄などの金属と同等の殺傷力を持った。

「この地の有力者なら当然、サヌカイトの石鏃を使用していたでしょう」と
二上山博物館(奈良県香芝市)の佐藤良二学芸員は言う。


 〈却(かえ)りて、草香津に至り、盾を植(た)てて雄誥(おたけび)したまふ〉

 
イハレビコは現在は盾津顕彰碑が立つ白肩津まで退却し、士気だけは鼓舞した、
と日本書紀は書く。   =次(3)に続く

     (http://www.sankei.com/west/news/150818/wst1508180001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年8月22日 頓首再拝>

神武・海道東征~その28 - 伝統

2015/08/24 (Mon) 04:58:25


【神武・海道東征 第6部】浪速の海(3)一時撤退、太陽の神威を背に


 〈上古、神武天皇日向国より岩船の山へ越給ふ時、当国ながすねひこおそい奉りしに、
  当郷の大竹藪(やぶ)の中へ入りたまひ、しばらく皇居成(なし)給ふ〉

大阪府八尾市の竹渕(たこち)神社の『竹淵郷社縁起』(江戸時代)にはこう書かれている。

生駒山を越えようとしてナガスネビコに阻まれ、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)らが
一時撤退した場所と伝承されるのが同神社である。

「岩船の山」とは、ここから東に見える生駒山地の北部のこと。
今は住宅地にある境内は近年まで、四方を水堀に囲まれて鬱蒼(うっそう)としていた。

「神社の森は水田地帯にあったので、遠くからも目立っていた。
堀を渡ると樹木が茂って暗く、とても気味が悪かった」

同神社の代表総代で、昭和5(1930)年生まれの杉山吉徳氏は、子供のころの記憶をそう話す。

イハレビコの時代にはさらに、避難するには格好の場所だったことだろう。

 
ナガスネビコ軍の矢が当たり、負傷したイハレビコの長兄、五瀬命(いつせのみこと)は
悔恨を込めてこう語った、と古事記は記す。

 「吾(あ)は日の神の御子(みこ)と為(し)て、日に向かひて戦ふこと良くあらず。
  故賤(かれいや)しき奴(やっこ)が痛手を負ひぬ」

自分は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫であるのに、
太陽が昇る東に向かって戦ったため、痛手を負ってしまったと悔いているのだ。

 「古事記には、天照大御神の名が32回登場するが、日の神と表記されるのはここだけ。
  太陽神としての存在を強調していることに意味がある」

大阪市立大の毛利正守名誉教授はそう指摘する。
天照大御神は、天岩屋戸隠れ神話で太陽神であることが書かれているが、
古事記は戦いの場だけで、イハレビコらがその子孫と強調するのである。


 「戦いなので、生命力の象徴である太陽の御子であることを強調したのでしょう。
  イツセはこの後、戦い方を遺言のように語りますが、日の神の御子として語ることで
  神格化した言葉になります」

 
傷ついたイツセは、イハレビコにこう話した、と古事記は記す。

 「今よりは行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ」

敵の東に回るため、イハレビコが策を巡らせたと書くのは日本書紀である。
東に攻める愚に自ら気づき、こう言ったとする。



 「退き還り弱きことを示し、神祇(あまつかみくにつかみ)を例祭(ゐやびまつ)り、
  背に日神の威を負ひ、影の随(まにま)に圧(おそ)ひ躡(ふ)まむには」

ひとまず退いて弱そうに見せ、神々を祭り、日の神の神威を背に敵を倒そうというのである。
撤退戦に限っては、策は当たった。ナガスネビコが追撃せず、イハレビコは重傷のイツセを
連れて海に逃れることができたからである。

 〈ながすねひこが目には、深き淵の中へ入り給ふ神変と恐奉りて逃失ける〉

 ナガスネビコが追撃しなかった理由を、『竹淵郷社縁起』はそう書いている。 

  =次(4)に続く

    (http://www.sankei.com/west/news/150819/wst1508190004-n1.html

           <感謝合掌 平成27年8月24日 頓首再拝>

神武・海道東征~その29 - 伝統

2015/08/26 (Wed) 04:34:36


【神武・海道東征 第6部】浪速の海(4)兄の無念 終焉の地に広がる

 〈「賤(いや)しき奴が手を負ひてや、死なむ」とのりたまひ、
   男建(をたけび)して崩(かむあが)りましむ。
   故其の水門(みなと)を号(なづ)けて男水門(をのみなと)と謂(い)ふ〉

 
ナガスネビコとの戦いで矢傷を負った五瀬命(いつのせみこと)の最期について、古事記はこう書く。
その終焉(しゅうえん)の地とされる場所に建つのが男(おの)神社(大阪府泉南市)である。
「おたけびの宮」とも呼ばれるのは、イツセが無念の思いを「男建」して亡くなったことに由来する。

 「本当にご祭神が亡くなったといわれるのはお宮から1キロほど北。
  摂社浜宮が建つところです。今は周囲は住宅街ですが、当時は砂浜だったそうです」

イツセと弟のカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)を本殿に祭る神社の菅野洋子宮司はそう話す。
現在、神社がある地名も「男里」。
イツセの無念を伝える文物は神社の周辺一帯だけでなく、隣接する阪南市にまで広がっている、
と菅野宮司は語る。

 「両市域にまたがって七塚と呼ばれる塚があり、今も3カ所で残っています。
  ご祭神とともに傷つき、亡くなったご家来衆の塚で、近年まで七塚参りを行う習慣があった
  そうです」

 ◇

 〈南の方より廻り幸(い)でます時に、血沼(ちぬ)の海に到り、其の御手を洗ひたまふ。
  故血沼の海と謂ふ〉

男水門に至るまでのイツセについて、古事記はこう記す。

チヌはクロダイの別名としても残り、大阪湾は古来、クロダイが豊富でチヌの海と呼ばれた。
血が穢(けが)れではなく、豊かさにも通じるものとして描かれている点で、この記述は興味深い。


 「日本人や神道は奈良、平安時代には血を忌むようになるのですが、
  それがいつ始まったかははっきりしない。
  ただ、狩猟採集生活をしているころには血を忌み嫌うはずがない」

そう話すのは立正大の三浦佑之教授である。

 「古事記が書いているのは、まだ漢字が伝わっていない時代の出来事。
  音だけで伝わっていた言葉に編纂(へんさん)時、『血沼』の漢字を充てたことは確かで、
  それをどう解釈するかでしょうね」

イツセの最期を伝える記述は、日本人の価値観の変遷をも伝えている可能性があるのである。

 ◇

 「地元では、ご祭神は上陸して、山の井の水で傷口を洗ったと伝承されています。
  村人たちが介抱し、ご祭神の右側で手当てをした家は右座、左側にいた者の家は左座を
  それぞれ名乗っていました」

菅野宮司はそう語る。座の家は男子が続く限り、その名称を守り、
明治期以前まで神社の神職も務めたという。

伝承では、村人たちの介抱でイツセは、船出できるまでに回復した。
別れを惜しむ村人らに、イツセは石を与えて、こう言った。

 「これ、わが御霊として祭れ。されば末永く、汝らの子孫を守らん」

この伝承は、イツセの陵を紀国の竃山(かまやま)とする古事記の記述とも一致する。
浜宮は今、市民が植林した3千坪の松林に鎮座している。

   =次回(5)に続く

  (http://www.sankei.com/west/news/150820/wst1508200001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年8月26日 頓首再拝>

神武・海道東征~その30 - 伝統

2015/08/28 (Fri) 04:57:38


【神武・海道東征 第6部】浪速の海(5)失意のなか さらなる南下

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の長兄、五瀬命(いつせのみこと)が
無念のおたけびを上げた男水門(をのみなと)には、男(おの)神社(大阪府泉南市)
のほかにもう一つの候補地がある。

紀の川河口近くにある水門吹上(みなとふきあげ)神社(和歌山市小野町)がそれで、
ここにも「神武天皇聖蹟男水門顕彰碑」が立つ。

 〈陵(みはか)は紀国の竈山(かまやま)に在り〉

古事記は、亡くなったイツセについてそう記す。

その陵とみられる円墳が本殿の裏にあり、
イツセを祭る竈山神社(和歌山市和田)が近くにあることが、紀の川河口説の根拠である。

 「神社周辺には木野、笠野、鵜飼の3家があり、代々、竈山のお墓を守ってきたそうです」

竈山神社の吉良義章宮司はそう話す。
かつては鵜飼家が代々、神職を継承してきた。
現在も氏子の多くが、この3家と同じ名字を名乗る。

3家の一つ、笠野家に伝わる口伝は、
イツセが傷ついたナガスネビコとの戦いの様子を伝えるものとして貴重である。

 〈神武一行が船から上陸しようとする度に、生駒山上からのろしが上がり、
  それを合図に攻撃された。そのためになかなか地上で戦うことができなかった〉

 〈御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき〉

古事記がそう書くイハレビコの苦戦ぶりを、口伝は敗因も示唆する形で伝えている。

 〈進みて紀国の竈山に到りて、五瀬命軍(いくさ)に薨(かむさ)りましぬ。
  因りて竈山に葬りまつる〉

日本書紀は、イツセは竈山まで進軍した軍中で亡くなったと記す。
同神社の横には、今は枯れてしまっているが、かつては桜川という川が流れ、
イツセが傷を洗った伝承も残っている。

 「神社のあたりは昔、海だったそうです。
  和田という地名もワダツミ、つまり海という意味からきたのではないでしょうか」

吉良宮司はそう話す。

 「古事記は『崩(かむあが)りましぬ』や『陵』という表現をイツセに用いているが、
  元来は天皇にしか使わないものです」

そう話すのは神社本庁講師を務めたこともある藤白神社(和歌山県海南市)の吉田晶生宮司である。

 「日本書紀の一部では、イツセを『彦五瀬命』としている。
  彦とは立派な男子という意味で、元来は『日子』であったともいわれます」

いずれもイツセが、後に天皇となるイハレビコに次ぐ尊い存在だった可能性の指摘である。
記紀がイツセの死に紙幅を割き、伝承地が各地に残る理由はここにある。

 「慨哉(うれたきかや)、大丈夫(ますらを)にして虜(あた)が手を被傷(お)ひ、
  報いずして死(や)みなむこと(ああ、いまいましい。大丈夫でありながら賊に手傷を負わされ、
  仇も討たずに死ぬとは)」

イツセはこう言って最期を迎えた、と日本書紀は書く。
自負と闘志があふれ、頼りがいのある長兄を失って、
イハレビコは失意のなかで、さらに南へ向かう。   

=第6部おわり(第7部に続く)

  (http://www.sankei.com/west/news/150821/wst1508210002-n1.html

           <感謝合掌 平成27年8月28日 頓首再拝>

神武・海道東征~その31 - 伝統

2015/10/06 (Tue) 03:56:25

【神武・海道東征 第7部】紀和の道(1)物資運搬の要衝 最初の勝利

 〈故神倭伊波礼●古命(かれかむやまといはれびこのみこと)、
  其地(そこ)より廻り幸(い)でまして、熊野の村に到る時に〉

          *●=田へんに比


紀国・竈山(かまやま)に兄の五瀬命(いつせのみこと)を葬った後の
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について、古事記はそう書くのみだが、
日本書紀は熊野に着くまでの苦闘を記述している。

 〈軍名草邑(なぐさのむら)に至り、則ち名草戸畔(とべ)といふ者を誅(う)つ〉

 
現在の和歌山市内の名草山付近に勢力を持つ名草戸畔という首長を討伐したというのである。
生駒越えをしようとして初めて戦(いくさ)を行い、敗退したイハレビコにとっては、
最初の勝利である。

その詳細は書紀も書いていないが、名草戸畔の頭(こうべ)を祭るとされる
宇賀部(うがべ)神社(和歌山県海南市小野田)にはこんな伝承が残る。


 〈「毛見ノ浜」に上陸した東征軍は、迎え撃つ名草戸畔の軍勢と死闘を繰り広げた〉

 
イハレビコは、現在の和歌山市毛見、浜の宮海岸付近に上陸し、名草戸畔と交戦した。
海岸付近には、この故事を示す地名も残る。

入り江の「琴の浦」は「事の起こりの浦」、隣接する海南市の「船尾」は、
イハレビコの船が出て行くように見せかけて船尾から着岸した名残と伝わる。


 「名草戸畔はかなり抵抗し、死後は慕っていた村人が頭を持ち帰り、
  神社の裏山に埋めたと伝わります」


同神社の小野田典生宮司はそう話す。

名草戸畔は現在の海南市の高倉山周辺まで追い詰められて討たれた。
その頭部を祭ったとされるのが同神社で、地元では「おこべさん」と呼ばれる。
胴を祭る杉尾神社(海南市阪井)は「おはらさん」、
足を祭る千種神社(同市重根)は「あしがみさん」。

伝承と通称が、村人らに慕われた名草戸畔を連想させる。


名草戸畔が治めた名草地域は、和歌山県の旧名草郡とみられ、
現在の和歌山市から海南市にかけての地域に当たる。

この地域性が名草戸畔を攻めた理由、と指摘するのは有田市郷土資料館の寺西貞弘学芸員である。


 「大和王権が大和盆地から大量の物資を運ぶとなると、当時は紀の川を使う以外に手段がない。
  いち早く支配下に置きたかったでしょうし、そのことが、地元勢力にくさびを打ち込んだ
  物語として語り継がれているのではないか」

 
かつて奈良から和歌浦湾に至っていた紀の川は、
45代聖武天皇が平城京から和歌浦に行幸した際にも物資運搬などに使用されたという。

こうした歴史も加味すれば、イハレビコの東征は畿内に入って、
文明伝播から国土平定へと重点を変えつつあったのだろう。

 
海南市の観光ガイドブックには、名草戸畔を連想させる大蛇が
紀の川河口に流れついた伝説が載っている。

 〈人々はこの大蛇を神の化身として頭部、腹部、脚部の三体に分け、
  それぞれを3つの神としてお祭りした〉

 「名草戸畔の名は伏せられ、現在はほとんど知られていません」

 
小野田宮司はそう話す。

   =次回(2)に続く

http://www.sankei.com/west/news/150921/wst1509210001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年10月6日 頓首再拝>

神武・海道東征~その32 - 伝統

2015/10/07 (Wed) 04:53:07


【神武・海道東征 第7部】紀和の道(2)荒れる海 2人の兄を失う

 〈海中(わたなか)にして卒(にはか)に暴風(あからしまかぜ)に遇ひ、
  皇舟(みふね)漂蕩(ただよ)ふ〉

 
日本書紀がそう書くのは、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が
狭野(現和歌山県新宮市)を越え、熊野の神邑(みわのむら)(同)から
さらに東に向かったときである。

これが東征で最大の海の難事だったことは、イハレビコの2人の兄、
稲飯命(いなひのみこと)(稲冰命)と三毛入野命(みけいりののみこと)(御毛沼命)が
ここで離脱したことでもわかる。


 「嗟乎(ああ)、吾が祖は即ち天神(あまつかみ)、母は即ち海神(わたつみ)なり。
  如何(いかに)ぞ我を陸(くが)に厄(たしな)め、復(また)我を海に厄むる」


次兄の稲飯命は、貴い血筋であるにもかかわらず、陸でも海でも苦しめられることを嘆き、
剣を抜いて海に入り、鋤持神(さひもちのかみ)(鋤のような鋭い歯を持つサメの神)となった。

三兄の三毛入野命も「わが母と叔母は海神なのに、海はどうして波を立てて溺れさせるのか」
と恨み、波頭を踏んで常世郷(とこよのくに)へ行く。

イハレビコは紀国に葬った長兄の五瀬命(いつせのみこと)に続き、
2人の兄を失ってしまったのだ。


 〈天皇(すめらみこと)独(ひと)り、皇子手研耳命(たぎしみみのみこと)と
  軍(みいくさ)を帥(ひき)ゐて進み、熊野の荒坂津(あらさかのつ)に至る〉


  ◇

 三重県熊野市の二木島(にぎしま)湾。捕鯨やサンマ漁で知られるこの地は、
日本書紀が書く「荒坂津」とされる。

2つの岬が向かい合って良港を形成し、牟婁(むろ)崎に鎮座する
室古(むろこ)神社には稲飯命が、
英虞(あご)崎に佇(たたず)む阿古師(あこし)神社には三毛入野命が祭られている。


「土地の者が船を漕(こ)ぎ、漂流する神武天皇を助けたと伝えられています」と、
両神社の前氏子総代、井本勝行氏は話す。
その様子を再現したのが、毎年11月に盛大に行われてきた二木島祭だ。

八丁櫓の関船2艘それぞれに、厳しい斎戒(さいかい)を課せられた●人(しょうど)や
踊り子が乗り、両神社に渡船して儀式を行う。白木綿の胴巻きを締めた男衆による
勇壮な船漕ぎ競争が見せ場だ。

                            *●=示へんに寿の旧字体

 「2、3馬力だった昔のエンジン船より、よっぽど早かった」

井本氏の言葉に、伝承への誇りがにじむ。
が、過疎が進み、平成22年を最後に二木島祭は休止している。

  ◇

 〈津波が来る 子どもを逃がせ〉

二木島湾の集落にそう刻まれた碑が立っている。
昭和19(1944)年12月に発生した東南海地震のとき、
漁師が小学校に駆け込んでそう叫んだ。

間もなく押し寄せた津波は校舎をのみ込んだが、児童ら約300人は高台に逃げて無事だった。
碑は、その歴史を顕彰している。

 「漁師や子供たちの機敏な行動には、
 海の危険を伝える神武伝承が大いに役に立ったのではないか」

皇学館大の櫻井治男教授はそう推察する。

英虞崎先端の千畳敷は、イハレビコが命からがら漂着した地とされる。
荒波に洗われる奇岩地帯で、高さ70メートルの柱状節理の岸壁・楯ケ崎が最先端にあり、
好天でも波が高い。

 「海には慣れているはずの兄たちでさえ溺れさせた悲劇の海ですね」

櫻井氏がそう言う海で、イハレビコは船を捨て、陸路に入る。

   =(3)に続く

http://www.sankei.com/west/news/150922/wst1509220001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年10月7日 頓首再拝>

神武・海道東征~その33 - 伝統

2015/10/08 (Thu) 05:03:25

【神武・海道東征 第7部】紀和の道(3)高天原の救援 「天つ神の御子」に

熊野灘で2人の兄を失ったカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が上陸した、
と日本書紀が書く熊野の荒坂津(あらさかのつ)。
書紀は、またの名を丹敷浦(にしきのうら)と紹介した後で、こう続ける。

 〈因(よ)りて丹敷戸畔(にしきとべ)といふ者を誅(う)つ〉


現在の和歌山市付近に勢力を持った名草戸畔(なぐさとべ)に続いて、
地元の首長を討伐したというのである。丹敷戸畔は、現在の和歌山県串本町から
三重県大紀町錦までの熊野灘沿岸を統治していたとみられる。

名草戸畔と同じように詳しい伝承は残っていないが、
勢力圏だった現・那智勝浦町に残る前方後円墳がわずかに、足跡をしのばせる。

 
「前方後円墳は、大和政権に連合した証し。副葬品から女性が埋葬されたとみられ、
巫女(みこ)のような立場で土地を治めていた女性首長が征服され、
首長権が移り変わったと考えられる」

和歌山大の武内雅人・元客員教授はそう話す。


 〈時に神、毒気を吐き、人物咸(ことごとく)に瘁(を)えぬ〉

丹敷戸畔を討った後のイハレビコ一行について、書紀はそう書く。
古事記は、熊野の村に到る時のこととして、さらに詳述する。

 〈大き熊、髪(くさ)より出で入るすなはち失せぬ。尓(しか)して
  神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)●忽(たちま)ちにをえ為(し)たまひ、
  また御軍もみなをえて伏しぬ〉

                      ●=修のさんづくりが黒の旧字体

 
神か熊の毒気によって、イハレビコも兵士も気を失ったのだ。
3人の兄すべてを失ったイハレビコ自身の最大の危機を救ったのは
熊野の住民、高倉下(たかくらじ)だった。

天照大御神の命でタケミカヅチノカミが高天原から下した「一横刀(たち)」を持って駆けつけ、
イハレビコを眠りから覚ますのである。


 〈其の横刀を受け取りたまふ時に、其の熊野の山の荒ぶる神自づからみな切り仆(たふ)さえき〉

 
イハレビコが横刀の霊威で、熊野の荒ぶる神を悉く倒したとする古事記の記述について、
熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の上野顯宮司は
「熊野の悪い神が邪魔をしたという単純な話ではない」と言う。

同大社は、高倉下を祭る神倉神社(同)を摂社にする。
上野宮司が注目するのは、この物語の途中から
イハレビコが「天つ神の御子」と記述される点である。

 「イハレビコは、国を治めるにふさわしいか、試されたのではないか。
  呼称が変わったのは神々からの託宣を受け、生まれ変わった証しでしょう」

事実、古事記はこの物語以降、イハレビコを「天つ神の御子」か「天皇」と記述している。

高倉下を祭る神倉神社は、神倉山という山を背に鎮座する。
ご神体の「ゴトビキ岩」は、タケミカヅチが下した横刀を高倉下が得た場所とされる。

神社では毎年2月6日、高倉下の物語を起源とする「御燈祭り」が行われる。
白装束姿の男たちが、たいまつを持って神倉山の石段を駆け下りる。
闇の中で炎が滝のように下る様子は、高倉下がイハレビコのもとに急ぎに急いで
はせ参じた姿を示している。 

  =(4)に続く

http://www.sankei.com/west/news/150923/wst1509230001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年10月8日 頓首再拝>

神武・海道東征~その34 - 伝統

2015/10/09 (Fri) 04:46:31


【神武・海道東征 第7部】紀和の道(4)舞う八咫烏 神々に導かれ


熊野の荒ぶる神々を倒したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)への
高天原の支援はさらに続く。古事記はこう書く。

 〈高木大神(たかきのおほかみ)の命以(も)ち、覚(さと)し白(まを)さく、
  「天つ神の御子、此れより奥つ方にな入り幸(い)でましそ。荒ぶる神いたく多し。
  今天より八咫烏(やあたからす)を遣はさむ。(略)」〉

 
高木大神は、天照大御神と並ぶ高天原の神として古事記に再三、登場する。
また日本書紀も、行く道も見つからずに途方に暮れて眠りについたイハレビコが、
ある夢を見たとして、八咫烏が派遣される経緯を書いている。


 〈天照大神、天皇に訓(をし)へまつりて曰(のたま)はく、
  「朕(われ)今し頭八咫烏(やたからす)を遣さむ。
  以ちて郷導者(くにのみちびき)としたまへ」とのたまふ〉

 
夢から覚めたイハレビコの頭上には巨大な鳥、八咫烏が舞っていた。

 「此の烏の来ること、自づからに祥(よ)き夢に叶へり。
  (中略)我が皇祖(みおや)天照大神、
  以ちて基業(あまつひつぎ)を助け成さむと欲せるか」

 
イハレビコは、天照大御神の意思を感じ取ってそう言い、八咫烏の先導で熊野の山を越えていく。

 
東征を成功に導いた存在として欠かせない八咫烏について、
記紀は巨大さを表す「八」の数字を使っているだけで、詳しい姿を書いていない。
が、一般には3本の足を持つ烏として描かれる。

 「3という数字は聖なる数字。
  また、3本の足は朝日、昼間の日、夕日の3つの太陽を表すともいわれています」

 
『熊野八咫烏』(原書房)の著者で、熊野三山協議会の山本殖生幹事はそう話す。
八咫烏とは太陽の使い、つまり天照大御神の使いという指摘である。


 「ただ、地元では熊野の神の使いと信じています。高天原の神だけではなく
  熊野の神々もイハレビコを助けたと考えているわけで、私もそう思います」

 
熊野の伝承は後世、この地の山々が修験道の修行場になる空気を持つことから生まれている。
難行苦行を通じて再生を願う場。それが修験道の修行場である。

敗走や兄たちの死を経験したイハレビコはそこで、
力を回復して大和に攻め上ったという考え方である。

 「敵地で気を失ったことは死と同じ。そこから回復したのだから、
  熊野の神はイハレビコを大業を成し遂げる存在と認め、八咫烏を送ったのでしょう」

八咫烏は今、熊野三山の神使として、紋などに姿を見ることができる。


「神武天皇の道案内をして無事に大和に導いた功績から、
『導きの鳥』としての信仰を集めるようになりました」と、
熊野本宮大社(和歌山県田辺市)の中平将之・権禰宜(ごんねぎ)は話す。

明治22(1889)年までは同大社の摂社として、
八咫烏社が熊野川沿いの大斎原に祭られていた。

川の氾濫で流失したが、熊野三山では、八咫烏の姿を組み合わせた
「烏文字」印のついた熊野牛王符や、お守りを授かっていく参拝者が絶えず、
導きの信仰は根強い。


   =(5)に続く


http://www.sankei.com/west/news/150924/wst1509240001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年10月9日 頓首再拝>

神武・海道東征~その35 - 伝統

2015/10/10 (Sat) 05:00:14


【神武・海道東征 第7部】紀和の道(5)霊力宿る吉野 国つ神3人従う


八咫烏(やあたからす)の導きで「吉野河の河尻」に至った
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)は、3人の国つ神に出会った、と古事記は記す。

 「汝は誰ぞ」

そう問うイハレビコに国つ神らは答える。

 「僕は国つ神、名は贄持之子(にへもつのこ)と謂(い)ふ」

 「僕は国つ神、名は井氷鹿(ゐひか)と謂ふ」

 「僕は国つ神、名は石押分之子(いはおしわくのこ)と謂ふ」

文言は全く同じ。最後の石押分之子がこう述べることで、
3人が進んでイハレビコに従ったことが強調される記述になっている。


 「今、天つ神の御子幸行(い)でますと聞く。
  故、参(まゐ)向かへつるのみ
  (天つ神のご子孫がお出でになると聞き、お迎えに参りました)」

 
古事記が書く「吉野河の河尻」は吉野川の最下流、現在の奈良県五條市北部と考えられる。
現在、井氷鹿と呼ばれる里は川上村に、「吉野の国巣が祖(おや)」と古事記が記す
石押分之子がいた地、国栖は吉野町にあり、イハレビコが、吉野川沿いに移動して
大和北部の宇陀を目指したことがわかる。


 「イハレビコは熊野から吉野に入るのですから、険しい吉野山地の稜線から地形を見て、
  川沿いを進む道を選んだのでしょう。宇陀に抜けるなら合理的な道筋だと思います」

同市教委の前坂尚志・文化財保存係長はそう話す。

その道筋にいた3人の国つ神は、登場方法が印象的である。

 〈時に筌(うへ)を作り魚取る人有り。(略)此は阿陀の鵜養(うかひ)の祖〉

古事記は、贄持之子についてそう記す。
竹で編んだ筒状の道具で漁をし、阿陀の地で鵜飼いを生業とする人々の祖先だというのだ。


 〈尾生(お)ふる人井より出(い)で来(く)。其の井光有り〉

井氷鹿についてはそう書き、石押分之子についてはこう紹介する。

 〈また尾生ふる人に遇(あ)へり。此の人巌(いはほ)を押し分けて出で来〉

「尾生ふる」とは、木こりなどが尻当てを垂らしている姿がそう見えたとするのが通説。
採集生活をして竪穴住居らしき場所に住む人々を連想させる。


「吉野は、大和盆地や河内、和泉などと比べ、発展が遅れた地域。
その分、不思議な力が宿る地と見なされ、後世の修験道につながった。
その霊力ある地域、人々が進んでイハレビコに従ったことを古事記は書きたかったのでしょう」


 〈神武天皇が道に迷い、難渋していた折、井氷鹿が道案内し、
  宇陀から橿原まで無事に送り届けた。それが私たちの先祖です〉

 
そう記述するのは『井光(いかり)郷土史』だ。
井氷鹿を祭神とする井光神社がある川上村の住民らが
昭和57(1982)年に編集した郷土史本である。

 「80戸ほどの小さな集落だが、昔は神社は県社で、祭りには近くの村からも大勢が来た。
  小学校もあって威勢があったものです」

神社の氏子の加藤敬介氏は、国造りに参加した先祖の誇りを込めて、そう話した。

   =第7部おわり(第8部に続く)

http://www.sankei.com/west/news/150925/wst1509250001-n1.html


           <感謝合掌 平成27年10月10日 頓首再拝>

交声曲「海道東征」 - 伝統

2015/11/02 (Mon) 03:20:41


今日、11月2日は、【白秋忌】。
『邪宗門』『ペチカ』などで知られる詩人で歌人の北原白秋の命日。
享年57。


北原白秋は、皇紀2600年(1940年(昭和15年))に合わせ、
交声曲「海道東征」を作詞しております。


交声曲「海道東征」は、詩人・北原白秋(きたはら・はくしゅう)が記紀の記述を基に作詩し、
日本洋楽の礎を作った信時潔(のぶとき・きよし)が作曲した日本初のカンタータ(交声曲)。
国生み神話から神武東征までを8章で描いています。

戦後はほとんど上演されなくなりました(戦後は、3回ほど上演)

白秋の詩は、記紀の古代歌謡や万葉集の様式を模して懐古的な味わいがあり、
信時の曲は簡潔にして雄大と評される。



第一章 高千穂    男声(独唱竝に合唱)

                   
神坐(かみま)しき、蒼空(あをぞら)と共に高く、み身坐(みま)しき、皇祖(すめらみおや)。
遥(はる)かなり我が中空(なかぞら)、 窮(きは)み無し皇産霊(すめらむすび)、
いざ仰(あふげ)げ世のことごと、 天なるや崇(たか)き み生(あれ)を

                 
国成りき、綿津見(わたつみ)の潮と稚(わか)く、凝り(こり)成しき、この国土。
遥かなり我が国生(くにうみ)、おぎろなし天(あめ)の瓊鉾(ぬぼこ)、 
いざ聴けよそのこをろに、大八洲騰(おほやしまあが)るとよみを。
皇統(みすまる)や、天照らす神の御裔(みすゑ)、代々坐(よよま)しき、日向(ひむか)すでに。


遥かなり我が高千穂、かぎりなし千重(ちへ)の波折(なをり)、
いざ祝(ほ)げよ日の直射(たださ)す 海山のい照る宮居を


神坐(かみま)しき、千五百秋(ちいほあき) 瑞穂(みづほ)の国、皇国(すめぐに)ぞ
豊葦原(とよあしはら)。
遥かなり我が肇国(はつくに)、窮(きは)み無(な)し天(あま)つみ業(わざ)、
いざ征(た)たせ早や東へ、光宅(みちた)らせ玉沢(みうつくしび)を。


第2章~第8章

大和思慕

御船出

御船謡 

速吸と菟狭

海道回顧

白肩の津上陸

天業恢弘

http://www.geocities.jp/kaidoukita/

           <感謝合掌 平成27年11月2日 頓首再拝>

神武・海道東征~その36 - 伝統

2015/11/24 (Tue) 05:04:15


           *Web:産経WEST(2015.11.16)より

【神武・海道東征 第8部】大和平定(1)「忠誠見せよ」 謀略を退け


吉野地方を帰順させたカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)は、
険しい山道を北上し、宇陀(奈良県宇陀市)に至る。

その地には兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)がいた。

イハレビコの行動を古事記はこう記す。

 〈八咫烏(やあたからす)を遣はして、二人を問ひて曰く、
  「今、天つ神の御子(みこ)、幸行(い)でませり。
  汝等仕(なれどもつか)え奉(まつ)らむや」〉

 
イハレビコが帰順を求めた兄弟について、
日本書紀は「菟田(宇陀)県(あがた)の魁帥(ひとごのかみ)なり」と書く。
双頭の首長とみられる2人の対応は完全に割れた。

エウカシは八咫烏に鳴鏑(なりかぶら)(音の鳴る矢)を射るなど反抗的な行動に出る。
オトウカシはイハレビコの元に参上し、「兄エウカシは反乱の軍勢を集めたが、
うまくいかなかったため謀略を企んでいる」として、こう告発する。

 「殿を作り、其の殿の内に押機(おし)を張りて、待ち取らむとす
  (大きな建物を作って押機を仕掛け、御子を殺そうとしています)」

「押機とは人が入ると天井が落下し、圧死させる仕掛けと考えられる」。
宇陀市文化財課の柳沢一宏氏はそう推測する。

同市内の桜実神社には、イハレビコが陣を張った際に植えたという、
1株から8本の幹が伸びる「八つ房杉」がそびえる。
そこから約1・5キロ北東に「宇迦斯神魂」を祭る宇賀神社があり、
付近にはエウカシの邸宅と殿があったと伝承される高台がある。

 〈大伴連等(おおとものむらじら)が祖道臣命(おやみちのおみのみこと)、
  久米直(くめのあたひ)等が祖大久米命(おおくめのみこと)二人、
  兄宇迦斯を召し、罵言(の)りて云はく、「いが作り仕へ奉れる大殿の内には、
  おれまづ入り、其の仕へ奉らむとする状(さま)を明かし白(まを)せ」〉

 
後に大伴連(氏)や久米直(氏)の祖となるイハレビコの家臣2人が、
エウカシ自ら建物に入り、忠誠の気持ちを見せよと迫った。古事記はそう記す。


2人は大刀や矛、弓矢を向けてエウカシに迫った。

その結果を古事記はこう書く。

 〈己(おの)が作れる押(おし)に打たれて死ぬ。
  尓(しか)して控(ひ)き出(い)だし斬り散(はふ)りき。
  故其地(そこ)を宇陀の血原と謂(い)ふ〉

2人はエウカシの死体を切り刻み、土地にまき散らしたのである。

「血原の血は、真っ赤な顔料の水銀朱を暗示しています」と柳沢氏は言う。

 
宇賀神社から見田・大沢古墳群にかけての地域には、
古墳時代前期にさかのぼる国内最大級の大和水銀鉱山が集中している。
弥生時代から古墳時代には墓の内部や遺体に朱を施し、
死者の再生や魔よけを願った風習があった。

 
「宇陀には神武天皇に刃向かって殺されたシュロウオウと呼ばれる者がいた伝説がある。
『朱の王』の意かもしれません。大和政権は古墳内を彩色するためにも水銀朱を求めていた」

エウカシ討伐は、国造りに必要な資源の獲得が大きな目的だったのではないかという指摘である。

イハレビコの東征は大和に入って一層、国造りの感を強めていく。   =続く

   (http://www.sankei.com/west/news/151116/wst1511160002-n1.html

           <感謝合掌 平成27年11月24日 頓首再拝>

神武・海道東征~その37 - 伝統

2015/11/25 (Wed) 03:44:48


           *Web:産経WEST(2015.11.17)より

【神武・海道東征 第8部】大和平定(3)峠の封鎖 変装で切り抜け

兄宇迦斯(えうかし)を討って宇陀(奈良県宇陀市)を攻略した
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)。

古事記では、そのまま忍坂(おしさか)(現在の奈良県桜井市忍坂)に入るが、
日本書紀では、戦略の練り直しを迫られたことを詳しく描いている。


 〈彼(そ)の菟田(うだ)の高倉山の巓(いただき)に陟(のぼ)り、
  域内(くぬち)を瞻望(のぞ)みたまふ。時に国見丘の上に則ち八十梟帥(やそたける)有り。
  又女坂(めさか)に女軍(めいくさ)を置き、男坂(おさか)に男軍を置き、
  墨坂(すみさか)に●(●=火へんに赤)炭(おこしずみ)を置く〉

 
宇陀市文化財課の柳沢一宏氏によると、高倉山は宇陀松山城があった古城山か、
高倉山顕彰碑が立つ高角神社付近が候補地。

国見丘は標高889メートルの経ケ▲(▲=塚のノ二本に「、」を重ねる)山、
女坂は女寄(みより)峠、男坂は小峠を指す。
炭を置いてイハレビコ軍を妨害した墨坂は墨坂神社近くの西峠だ。


 〈賊虜(あたども)の拠る所は皆是要害(ぬみ)の地(ところ)なり。
  故、道路(みち)絶え塞り、通ふべき処無し〉

奈良盆地に通じる峠道はすべて、ヤソタケルによって封鎖されたのである。

 
その夜、困惑したイハレビコが祈誓(うけい)(神意をうかがう占い)を立てて休むと、
夢の中に天神(あまつかみ)が現れて窮余の一策を授けた。

 「天香山(あまのかぐやま)の社(やしろ)の中の土(はに)を取りて、
  天平瓮(あまのひらか)(平らな皿)八十枚(やそひら)を造り、
  并(あは)せて厳瓮(いつへ)(神酒を入れる清浄な瓶)を造りて、
  天神地祇(あまつかみくにつかみ)を敬(ゐやび)祭り、
  亦厳(いつの)呪詛(かしり)をせよ。
  如此(かく)せば虜(あた)自づからに平伏(むきしたが)ひなむ」

 
天香山は一般には天香久山と書き、畝傍(うねび)山、耳成(みみなし)山とともに
大和三山に数えられ、古代にはとりわけ神聖視された山である。


「そこの土で祭祀土器を製することは、支配者になることを意味する」と、
考古学者の石野博信氏は話す。

しかし、天香久山に行くにはヤソタケルの堅陣を越えなければならない。
イハレビコは策をめぐらす。

瀬戸内海の難所で水先案内をした椎根津彦(しいねつひこ)と、
宇陀で帰順した弟宇迦斯(おとうかし)に老夫婦に変装させ、峠道を行かせたのである。

ヤソタケルらはその姿に大笑いして囃し立てた。

 「大醜乎(あなみにく)、老父(おきな)老嫗(おみな)(なんと醜い、じじいとばばあだ)」

油断を誘って道が開かれ、2人は無事に天香久山の土を持ち帰った。

夢のお告げの通りに厳呪詛が行われたのは、
丹生川上(にうかわかみ)神社(奈良県東吉野村)のそばで、
3本の川が合流する仙境「夢淵」と伝わる。

イハレビコはそこでも、水中に厳瓮を沈めて誓約を立てた。
もし、魚が酔って流れる様子が、槙の葉が水に浮いて流れるようであれば、
私は必ずこの国を治めることができよう、というものである。

果たして、魚はすべて浮き上がり、流れに漂った。

 「酒か、あるいは山椒(さんしょう)でも入れて魚をまひさせたのかもしれません。
  誓約には兵士の士気を高める狙いがあったのでしょうから」

同神社の日下康寛宮司はそう話す。
固唾をのんで誓約を見守り、成功を確信した兵士らの雄叫びが想像される記述である。

イハレビコはこの後、厳瓮の神饌を食し、敵陣に向けて出陣した。   =(3)に続く

    (http://www.sankei.com/west/news/151117/wst1511170001-n1.html

           <感謝合掌 平成27年11月25日 頓首再拝>

神武・海道東征~その38 - 伝統

2015/11/26 (Thu) 03:37:51


           *Web:産経WEST(2015.11.18)より

【神武・海道東征 第8部】大和平定(3)「酒宴の計」 強敵を討ち取る

〈忍坂(おしさか)の大室に至りたまふ時に、
尾生(お)ふる土雲(つちぐも)の八十建(やそたける)其の室に在り、待ちいなる〉

宇陀から奈良盆地に進軍したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について、
古事記はこう書く。

忍坂は現在の奈良県桜井市忍阪(おっさか)。
尾生ふるとは、吉野河の河尻でイハレビコに恭順した
石押分之子(いはおしわくのこ)らに使われていた表現。

さらに土雲は「土蜘蛛」の借訓字で、記紀では手足が長く胴の短い穴居生活者を指し、
大和政権に服従しない先住民の蔑称である。

 「土雲は、身体的特徴が人間と違うものとして描かれた。このような恐れられるものを
  排除することで、新たな秩序が生まれることを表現したのでしょう」

奈良大の上野誠教授はそう話す。

 
新たに現れた地元の抵抗勢力に対して、イハレビコは策略をめぐらした。

古事記はこう続ける。

 〈饗(あへ)を八十建に賜ふ。是に八十建に宛て、八十膳夫(やそかしはて)を設け、
  人毎(ごと)に刀を佩(は)け、其の膳夫等に誨(おし)へ曰(の)りたまはく、
  「歌ふを聞かば、一時共(もろとも)に斬れ」〉

土雲たちを饗応し、その一人一人に大刀を身につけた給仕夫を付け、
歌を合図に斬りかからせたのである。日本書紀は、

イハレビコの策はさらに念入りだったと書く。
イハレビコは部下の道臣命(みちのおみのみこと)を呼んでこう命じた。

 「汝、大来目部(おほくめら)を帥(ひき)ゐて大室を忍坂邑(むら)に作り、
  盛(さかり)に宴饗(うたげ)を設け、虜(あた)を誘(をこつ)りて取れ」

この記述の大室とは周囲を塗り込めた部屋のこと。
そこで盛大な宴を催して討ち取れ、というのである。

 〈一時に打ち殺しつ〉

 
その首尾を古事記は、簡潔にこう記す。
兵を損じることなく、日時も費やさずにイハレビコは忍坂を平定した。

 「貪欲な者は誘い出せば必ず来る。貪欲さを描くことで土雲は悪者に見立てられた。
  イハレビコは知恵もあり、残虐なこともできるということで、戦に強い姿が描かれている」

上野教授はそう語る。

〈天皇がこの地にいた八十建を討つとき、この石に匿れ、石垣をめぐらし、矢を持ち楯とした〉

 
忍阪にある34代舒明(じょめい)天皇押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)に至る道路脇に、
「神籠(じんご)石」と呼ばれる大岩がある。

そばの看板にはイハレビコの足跡が紹介されている。

 「地元では『ちご石』とも呼ばれています。実際にここで、戦いがあったのかもしれません」

同地区の森本藤次区長はそう話す。代々の区長に受け継がれているという古地図には
「ヲムロ」という地名があり、現在も付近は大室町と呼ばれている。

周辺は高台になっていて見晴らしも良い。
かつては記紀が記す「大室」の場所を示した標木が立っていたが、
今は正確な位置がわからない。

 「人が集まりやすい場所だったのは間違いない。
  忍阪は、宴を開く方法でなければ討ち取れないほどの勢力だったのでしょう」

      =(4)に続く

   (http://www.sankei.com/west/news/151118/wst1511180006-n1.html


           <感謝合掌 平成27年11月26日 頓首再拝>

神武・海道東征~その39 - 伝統

2015/12/03 (Thu) 04:12:03


【神武・海道東征 第8部】大和平定(4)眼前に広がる美地(うましつち)残すは宿敵

 〈また兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)を撃ちし時に、
  御軍(みいくさ)暫(しま)し疲れぬ〉

 
古事記では、この兄弟を攻めた時は軍勢が疲れた、とのみ書かれている戦は
日本書紀では、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が和戦両様の構えを取った
ことが記されている。

 〈皇師(みいくさ)、大きに挙(こぞ)りて磯城彦(しきひこ)を攻めむとし、
  先づ使者を遣し兄磯城(えしき)を徴(め)さしむ〉

磯城彦とは磯城という地域を治める兄磯城、弟磯城(おとしき)の2人の総称。
古事記が書く兄師木・弟師木のことである。

 「奈良県桜井市の忍阪(おっさか)を川沿いにくだり、
  国中(くんなか)(奈良盆地)に出たところが、かつて城島(しきしま)と
  呼ばれていました。兄磯城・弟磯城はこのあたりを治めていたのでしょう」

桜井市纏向学研究センターの橋本輝彦・主任研究員はそう話す。
兄磯城・弟磯城は、国中に入るために制圧しなければならない強敵だった。

 ◇

イハレビコは、使者として八咫烏(やあたからす)を送った。
呼び掛けに応じて参上したのは弟磯城だった。弟磯城は帰順し、そして告げた。

 〈我が兄兄磯城、天神の子来(い)でますと聞(うけたまは)り、
  則ち八十梟帥(やそたける)を聚(あつ)め、兵甲(つはもの)を具(そな)へ、
  与(とも)に決戦(たたか)はむとす。早く図りたまふべし〉

弟は、兄を討伐する策を早く練るよう、イハレビコに進言したのだ。
イハレビコは、椎根津彦(しいねつひこ)の献策で忍坂から軍を発し、
兄磯城が全軍で迎撃に出たところを墨坂を越えた別軍に挟撃させて、
兄磯城と八十梟帥を破った。

戦の後、弟磯城は三輪山西麓の一帯を治める県主に任命された。
現在、三輪山の麓には弟磯城の子孫が創建したとされる
志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社が残っている。

その土地を治める兄弟のうち、兄が抵抗して敗れ、弟が帰順する構図は、
宇陀の兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の場合と同じである。

 「どの地も従う者と従わない者に分かれていた、ということを、
  兄弟という対の存在を用いて簡潔に表現しようとしたのではないでしょうか」

同志社大の辰巳和弘・元教授はそう推測する。
兄弟の記述は、目的地を目前にしてなお、行軍が順調に進まなかった様子を
伝えているという指摘である。

 ◇

磯城を越えれば、いよいよ奈良盆地である。
盆地南部では、近畿最大といわれる唐古(からこ)・鍵遺跡をはじめ、
弥生時代の大規模な集落遺跡が発見され、弥生時代を通じて繁栄した地域とわかっている。

「遺跡は、安定した地盤で安定的に稲作ができたため、
長期にわたり定住できた場所と推測できます」

同遺跡がある奈良県田原本町の清水琢哉・文化財保護課係長はそう話す。

 〈東に美地(うましつち)有り。青山四周(よもにめぐ)れり〉

日向で塩土老翁(しほつちのおじ)にそう聞き、東征を決意したイハレビコの目前に、
その言葉通りの土地が広がっていた。

前途を妨げる者はもはや、生駒山越えで敗れた
那賀●(●=さんずいに順のつくり)泥★(★=田へんに比)古(ながすねびこ)だけだった。

   =(5)に続く

    (http://www.sankei.com/west/news/151119/wst1511190004-n1.html

           <感謝合掌 平成27年12月3日 頓首再拝>

神武・海道東征~その40 - 伝統

2015/12/06 (Sun) 05:03:48


【神武・海道東征 第8部】大和平定(5)天の御子降り、戦いに終止符

 
大和で続いたカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の戦いの日々は、
ある神が陣中にやって来ることで終わりを告げる。

神は迩芸速日命(にぎはやひのみこと)で、古事記によると、イハレビコにこう言った。

 「天つ神の御子天降り坐(ま)しぬと聞く。故追ひ参降(まゐくだ)り来つ」

ニギハヤヒは、天つ神の子孫を追って高天原から来たと告げ、
その出自を示す宝玉を献上し、イハレビコに仕えた。

古事記は、ニギハヤヒはイハレビコの生駒山越えを阻んだ那賀●
(●=さんずいに順のつくり)泥★(★=田へんに比)古(ながすねびこ)の妹を妻にしており、
その子の宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)は物部氏らの祖になったと書いた上で、こう記す。

 〈故かく、荒ぶる神等を言向(ことむ)け平和(やは)し、
  伏(したが)はぬ人等を退け撥(はら)ひて、畝火(うねび)の
  白檮原宮(かしはらのみや)に坐(いま)して、天の下治(し)らしめしき〉

 
イハレビコはついに、荒々しい神どもを平定し、服従しない人どもは追い払って、
畝傍の橿原宮で天下を統治したのである。

ニギハヤヒの帰順がなぜ大和平定につながるのか。その経緯は日本書紀に詳しい。

 〈長髄彦(ながすねびこ)の稟性愎●(●=にんべんに根のつくり)(ひととなりもと)りて、
  教ふるに天人(きみたみ)の際を以ちてすべからざるを見て、
  乃ち殺して其の衆を帥(ひき)いて帰順(まつろ)ひぬ〉

ニギハヤヒは、イハレビコが天つ神の御子と知っても抵抗するナガスネビコの性質を
ねじ曲がったものと見た。そして、神と人との区別も理解しないとして見切りをつけて殺害し、
その軍勢を率いてイハレビコに降ったのである。


 「ナガスネビコはすでにイハレビコの兄、五瀬命(いつせのみこと)を殺していますから、
  帰順しても許されないと思っていたのでしょう。ニギハヤヒは天照大御神の大願、
  高天原から降った皇族が葦原(あしはらの)中国(なかつくに)を治めるためには、
  皇族が相争うのは益がないと判断したのだと思います」

石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(大阪府東大阪市)の木積康弘宮司はそう話す。

生駒山麓に鎮座する同神社の主祭神はニギハヤヒ。
社伝ではニギハヤヒは、イハレビコの曽祖父で、天照大御神の命で降臨した
ニニギノミコトの兄と伝わる。

 「イハレビコの時代はニギハヤヒの一族も代替わりしているはずで、
  日本書紀はニギハヤヒを奉じる勢力、つまりは物部氏らがナガスネビコを討ったことを
  伝えているのでしょう」

 
大和の有力氏族が内部闘争の末に、
イハレビコを迎えることを選択した、と記紀は書いているのである。

 
「古事記が、物部氏の祖も皇族と書いていることが重要」
と話すのは大阪市立大の毛利正守名誉教授だ。

「物部氏は、初期の大和政権を支えた大氏族。記紀の編纂(へんさん)期には、
その功績や系譜をしっかり入れたかっただろうし、編纂を命じた天武天皇としては
主従の別をはっきりさせたい。その妥協点が皇族の帰順という形だったのだと思います」

 
イハレビコは、橿原宮(現橿原神宮)で初代天皇に即位した後、
有力氏族の連合体である大和政権の運営に心を砕く。

その前兆を伝えているのがニギハヤヒの記述でもある。   =第8部おわり(第9部に続く)

   (http://www.sankei.com/west/news/151120/wst1511200007-n1.html

           <感謝合掌 平成27年12月6日 頓首再拝>

Re: 神武天皇(1) - edmtqeshnMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:52:00

伝統板・第二
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