伝統板・第二

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祝福(Congratulations)① - 伝統

2015/04/03 (Fri) 04:46:28

この新たな掲示板が、神様の愛の祝福の雰囲気に包まれますよう願って、
このスレッドでは、祝福(Congratulations)に関する記事を紹介してまいります。



【 神を祝福せよ、神から祝福される 】

       *『 生長の家 』(昭和25年2月26日の法語)より 


神を祝福せよ。
神の み業を祝福せよ。
神の み業を讃歎(さんたん)せよ。

神から受けることばかり考えないで まず神に与えることから考えよ。

毎日 朝に一回 夕方に一回、神を祝福し 神をほめたたえ、神に感謝することは、
神の恵みを拡大するよき方法である。

すべての恵みを神に帰せよ。

神は無限に吾らに祝福を与え給うのであって
それをほめたたえず 感謝しないことは、それに波長を合わさないことになるのである。

波長をぴったり合わす時、神の恵みが はっきりと現われて来るのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


・・・

<関連Web:光明掲示板・第一「祝福 (9383)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1786 >

            <感謝合掌 平成27年4月3日 頓首再拝>

【祝福の気持ちを持つ】 - 伝統

2015/04/14 (Tue) 03:45:57


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年03月17日)」より

   (上智大学名誉教授、渡部昇一氏の心に響く言葉より…)

   現代は、「一流の人」を目指すのが難しい時代であるように思う。
   その理由の一つは、悪しき平等主義と嫉妬心の蔓延にあると私は考える。

   平等の持つ本来の意味は、基本的人権、もっとわかりやすく言えば、
   神様や仏様の前では平等であるという意味の、根元的な意味の平等である。

   だから、人間の能力や資質における平等というのでは絶対にないことは、
   子供でもわかるはずだ。


   現代における嫉妬の典型は、テレビや新聞といったマスコミにおいて見ることができる。
   正義にかこつけて、人のスキャンダルを用もないのに暴きたがるのがそれだろう。

   特に、大したこともないのに、率先して下半身のことを暴いていい気になっているのを
   見るにつけ、その正義面に品性のなさを感じてしまうのである。

   そこには、自分らと同程度の学歴なのに、このやろうという嫉妬心が見え隠れする。


   嫉妬の炎が燃え上がるのは、他人が自分にないもの、
   自分が欲しているものをすでに持っているから嫉妬する。

   自分に欠けているものを相手が持っているから起こる感情だ。

   貧乏人が金持ちに嫉妬するのは、
   自分が欲しいと思っているそのお金を、金持ちはすでに持っているからだ。

   だから、お金持ちは貧乏人に嫉妬しない。


   嫉妬には必ずこのような構図が伴うため、
   嫉妬の炎はしばしば当のその対象を呪うという行為をまねきやすい。

   貧乏人が金持ちに嫉妬した場合、「あいつ、いつか貧乏になればいいのに」と
   呪う気持ちがどこかに入り込んでしまうのである。

   そうすると、どのようなことが起こるのか。


   深層心理学的に言えば、呪った本人の頭の中に貧乏というイメージができ上ってしまう。

   しかも、主語のないイメージとして定着するというのである。
   誰それが貧乏というのではなく、貧乏というイメージだけが頭の中を占めるようになる。

   そして結局は、この本人がイメージしたように、
   つまり、本当に貧乏になってしまうのである。

   人を呪わば、穴二つというが、まさしくその通りになってしまうのだ。


   この嫉妬の気持ちを遠ざける方法の一つは、「祝福の気持ちを持つ」ことである。

   相手を祝福してやれば自分も高まるのではないか、ということだ。


   例えば、事業に成功して非常に儲けた人がいたとする。

   この人に対して「アイツ、うまいことやりやがって。でも、そういつまでも
   儲かるものではない。今度は失敗すればいいのに」とは思わないことだ。

   これだと、失敗のイメージ・トレーニングになってしまうからだ。

   そうではなくて、「あいつが儲かって良かった。自分もあやかりたいものだ」と
   いうふうに思えばいいのである。

        <『「勝ちぐせ」人生を生きろ!』三笠書房>

               ・・・

政治の世界も、官僚の政策も、マスコミの論調も、
嫉妬心という視点から見ていくとよく分かる。

誰かを叩いたり、貶(おとし)めたりしようとしているときは、
そこに嫉妬心が働いていることが多い。


スポーツの世界においても、相手チームや対戦相手の失敗を願うなら、
それはやがて自分に返ってくる。


かつて、佐賀県の佐賀北高校野球部が夏の甲子園で優勝したことがあった。

全国から野球のエリートが集まる高校ではなかったが、なぜ優勝できたのか。

それは、試合中に「相手チームをほめる」という
常識では考えられない行動をし続けたからだという。


ヒットを打てばバッターに、「ナイスバッティング」。

三振で打ち取られたらピッチャーに、「ナイスピッチング」。


佐賀北高に敗れたチームはその言動に感動し、
ことごとく彼らのファンになっていったという。

つまり、勝つたびに応援団が増えていったのだ。


相手を祝福することは、自分を祝福すること。

誰かを叩いたり貶めたりすることは、自分を叩き貶めること。


嫉妬するのではなく、祝福する人でありたい。

            <感謝合掌 平成27年4月14日 頓首再拝>

《神を正しく理解して祝福しましょう》 - 伝統

2015/04/20 (Mon) 04:47:33


            *『白鳩』誌(S.39年7月号)より

『祝福する者が祝福せられる』 のです。

あなたは 『あの人は嫌いだ』 と思ったことはありませんか?  

『あります』 と仰言るのですか。 

『あの人は嫌いだ』 と思ったとき、あなたは、あの人を呪ったのです。 
祝福の反対をしたのです。 

あの人が、あなたにとって、
不愉快に感じられるように現われて来るのは当然のことなのです。 


其の人を祝福しなさい。

『あの人は神の子で、善い人だ。 善くない人だと思ったのは私の心の間違いだった』 
と深く心の中で懺悔してお詫びして御覧なさい。 

今まであんなに不快な事をしていた彼が、
あなたにとって快いことをしてくれる人に変ります。

嘘ではありません。 必ず、そうなります。 
暫く忍耐づよく、神想観中に、心の中で今まで間違った思いを懺悔し、
相手を “神の子” として祝福することを続けて御覧なさい。

あなたの周囲が祝福に満たされた天国のように現われてまいります。

あなたは神を正しく理解しなければなりません。 
神は雲の上にいて、吾々を罰しようと思って、
吾々を監視しておるような人物ではないのであります。 

神は宇宙到る処に、普遍的な愛として智慧として生命として存在ましましのであり、
同時に吾々の中(うち)に生命として智慧として愛として宿っていられるのであります。 

そして神の意志は必ず善であり幸福でありますから、
自分自身の 『誤れる想念』 によって、そのおのずからなる顕現を妨げない限りは、
必ず善と幸福とがあらわれて来るのであります。 

あなたは今その 『誤れる想念』 を悉く棄てて心を神の完全さの方向に振り向けます。 
そして神の祝福を今満喫するのであります。

あなたは感度の鋭い霊的ラジオセットにならなければなりません。 
人から挨拶されても面倒くさそうに返事をする人は
感度の鈍い安物のラジオセットであります。 

すべてあなたの周囲にあらわれて来る人々は、
神様の摂理で何らかの祝福か教訓かを与えるためにあらわれて来る人々でありますから、
感謝と悦びの態度及び表情で受け取らねばなりません。

『神に口なし、人をして言わしむ』 でありますから、
人の言う言葉のうちに真理があり、 『導き』 があり、自分の心の鏡があり、
反省の資料がありますから、聴くのに耳がいたい事があっても感謝して受取るとき、
すべての言葉があなたの魂を生長さす栄養となるのであります。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24574620.html

            <感謝合掌 平成27年4月20日 頓首再拝>

【寿(ことほ)ぐこと】 - 伝統

2015/04/26 (Sun) 04:26:06


              *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年12月29日)」より

   (東京大学大学救急医学分野教授、矢作直樹氏の心に響く言葉より… )

   見えないものに対して多大な敬意を払う日本人ですが、それは時に、
   何か怖いものに対する「恐れ(畏れ)」へという形へと変化しました。

   それは「罰(ばち)当たり」とか「呪われる」という言葉で表されます。


   罰とは自分がやった悪行に対する報いです。
   因果応報とも表現されます。

   やってはいけないとされることをやってしまう、
   その結果として起きてしまう悪いこと…一般的な罪の解釈はこうなります。


   「誰も見ていないから良い」というのは短絡的な思考ですが、
   そういう人は高い次元の存在が自分のそばで
   一部始終をじっと見ていることに気づきません。

   恐れはこういった存在への畏怖であり、
   呪いは相手にマイナスの念を飛ばすことですが、
   当然ながら、誰かを呪うと「返り念」を浴びます。

   作用・反作用の法則です。


   呪うという行為は自分が闇に「堕(お)ちてしまう」ことであり、
   自分が持つ波動を「落としてしまう」こと。

   お天道さまに背くようなことをしなければ、つまり普通に生きていれば、
   私たちは罰も報いも受けません。


   おかげさま、おたがいさまの心根があれば、誰かを呪うということもないはずです。

   神道を中心として、さまざまな宗教観や習俗を積極的に取り込んで来た日本人は、
   こうしたマイナスの創造にも長(た)けていました。


   時代が変わったから、あるいは世代交代が進んだからかもしれませんが、
   最近は罰当たりという言葉自体、死語となった感があります。

   大変残念なことです。

   罰はなんらかの形で当たります。

   それはこの世のバランスを保つ仕組みがあるからです。


   罰は本人に直接ということもあれば、本人ではなく身内にあることもあります。

   日本の先人に倣(なら)い、幼いうちから「罰当たりなことをするな」
   としっかり教えたいものです。

         <『日本人のお役目』ワニブックス「PLUS」新書 >

              ・・・

自らの波動を落としてしまう行為とは、運を落とす行動、のこと。

誰かを呪ったりすれば、それはやがて自分に返り、自分の運を落とす。


呪いの反対は、祝(いわ)い。

不幸を祈るのが呪いで、幸せを祈るのが祝い。


南太平洋のある部族には、斧も鋸(のこぎり)も使わないで大木を倒す方法があるという。

それは、部族総出でその大木を取り囲み、何日も何日も、大木に向かって、
口々に罵声を浴びせ、罵(ののし)り続ける。

すると、さすがの大木も、葉が枯れはじめ、
やがて大きな音を立てて倒れてしまうのだという。

その呪いが、木の生きる力を奪い取り、生命力を萎(な)えさせてしまうからだ。

言葉にはそれだけの力がある。


だからこそ、呪うのではなく、祝うこと。

祝いの言葉や喜びを伝え、幸運を祈ることを寿(ことほ)ぐという。

祝い、寿ぐことの多い人でありたい。

            <感謝合掌 平成27年4月26日 頓首再拝>

我は一切を祝福して奉仕する - 伝統

2015/05/02 (Sat) 04:41:59


        *『 生長の家 』(昭和25年4月24日の法語)より

吾(われ)は 今 自分の人生を祝福するのである。

吾を生み給いし父母を祝福するのである。

わが住む境遇を祝福 し、わが住む国を祝福するのである。


何故(なぜ)なら 吾は一人でなく、凡ゆるものの恩恵によって

今日ここに存在するのであるからである。


吾が目の前に環境、吾が前に堆(うずたか)くつもっている仕事、

それは吾を苦しめるために存在するのではなく、

吾の内にひそむ所の大いなる力を発揮せしめんがために存在するのである。


吾は仕事を祝福 し環境を祝福 し、仕事に感謝し、環境に感謝して、

よろこんで奉仕するのである。


            <感謝合掌 平成27年5月2日 頓首再拝>

言祝(ことほ)ぐ - 伝統

2015/05/10 (Sun) 04:50:04


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2013-09-10)」より

   (玄侑 宗久氏の心に響く言葉より…)

   気仙沼のお寺の和尚が住職になる儀式(晋山式)だったが、
   修行時代の師匠である老師が本山から招かれ、「祝辞」という段になった。

   その際、老師はしばし沈黙し、
   ぴったりと口を閉じて虚空をにらみ、
   それから大声で「バンザーイ」と大声をあげた。

   それだけである。


   長々とした祝辞が多いなかで、それは鮮やかな場面として今も脳裏に甦る。

   伝わるものは言葉にしなくても伝わる。

   何人かの涙ぐむ人々を見ながら、私はそう思ったものだった。


   しかし、これは極めて稀な例である。

   通常は、祝う心を丁寧に表現しないとそれは伝わらないし、
   それどころか、表現することで無意識だった気持ちまで引き出されたりする。


   「めでたい」という言葉は、本来「愛でる」という動詞に
   「願望」の助動詞「たい」がくっついたものだという説もある。

   だから本人が「愛でる」という行為をしたいと思えばめでたくなるし、
   したくなければどんな事態もめでたくはないのである。

   その「愛でたい」という気持ちを、
   わざわざ言葉に出して表現することを、
   日本では古来「ことほぐ(言祝ぐ)」と云う。

   寿は、その連体形である「ことほぎ」が更に訛ったものだ。


   今の自分の生活、あるいは自分のこれまでの来歴を、
   そのまま肯定的な言葉で表現する「言祝ぎ」が、
   「いのちながし」とも読む「寿」で代用されている。

   ということは、そうすることが長寿にも繋がると考えられた証拠だろう。


   禅ではこの「言祝ぎ」が重視される。

   なによりもまず自分の生まれた場所や親は選べなかったわけだから、
   そこから言祝いでしまうのである。

   この町に生まれて佳かった、この両親のもとに生まれて佳かった、
   そこから始まって「今日は佳い台風だ」「今の私は素敵な年齢だ」
   「歯が痛いのもしみじみして味わい深い」などと、

   自分の立っている足元の状況を全て肯定していくのである。


   むろん文句をいえば状況が変わるというなら、言ったらいい。
   しかし大抵の状況は、文句を言うと
   更にその不満が強く意識されるだけで、あまり意味がない。

   だから言っても仕方がない文句は言わず、言祝ぐことで「今」を安定させる。

   それが禅的な意味での「足るを知る」ということだ。


   自分がどこで何をして暮らしていくのか、
   そのことに揺らぎのない確信がもてれば、
   たいがいのことは愛でることができると禅は考える。

   この人と、ここで生きていく。

   その気持ちが揺らぎさえしなければ、ケンカすることも病気になることも、
   あるいは不景気に苦しむことさえ「風流」だというのである。


   バンザイと叫んだところで、その事態が「万歳」続くとは誰も思っちゃいない。

   しかし志さえ揺らがなければ、人生はさまざまな「ゆらぎ」さえ風流と味わえる。

   その人間の知恵に、私はバンザイを言いたいのである。

           <『釈迦に説法』新潮社>

              ・・・

文句や愚痴を言おうが、嘆(なげ)こうが叫ぼうが、事態は少しもよくはならない。

言えばいうほど、気持ちが滅入り、気分が悪くなるだけだ。


文句を言う人の心には、常に比較感がある。

まわりの誰かと比べてばかりいれば、どんなに幸せな人でも、不幸になる。


文句の反対が、言祝(ことほ)ぐこと。

どんな事態におちいっても、言祝ぐことができれば、
そこから上昇することはあっても、落ちることはない。


「今ここ」を生きる人は、未来を憂えず、過去を悔(く)やまない。

文句という否定から入る人は、一瞬一瞬という今を生きていない。

言祝ぐということは、肯定すること。


「愛(め)でたい」は、「言祝ぎ」。

どんなときも、言祝ぐことができる人でありたい。

            <感謝合掌 平成27年5月10日 頓首再拝>

神の祝福について - 伝統

2015/05/15 (Fri) 04:13:13


        *「叡智の断片」(P123~124)より

神はすべての人に祝福を与え給う。
しかし神はその祝福を受ける事を強制はし給わぬのである。
祝福を受けるも受けないのもただ人間ひとりひとりの自由である。

しかし人間は、何時しか魂の飢餓を覚え
神の祝福を受けたく思わずには居られなくなるのです。

かくの如く、自然に腹がへって来て御馳走をたべたくなる如く
神の方へ心が向いてくるように仕向けられるのが「摂理」である。

            <感謝合掌 平成27年5月15日 頓首再拝>

【 感謝と愛念をすべてに送れ 】 - 伝統

2015/05/22 (Fri) 03:55:19


           *『 生長の家 』誌(昭和25年5月9日の法語)より

自分の目の前にあるすべての事物に、感謝と愛念を送ることは、
そのすべての事物を完全ならしむる所のもっともよき方法である。

自分の目の前にあるすべての人々に、感謝と愛念を以(もっ)て祝福することは
自分自身が祝福されることになるのである。

自分の与えたものがすべて自分にかえって来るのであって、
人を害して自分が利益を得ようと思っても、それは無駄にすぎないのである。

自分は今日から凡(あら)ゆる事物に
感謝と愛念を送り、

さらにすべての人々に
感謝と祝福の念を送るのである。

            <感謝合掌 平成27年5月22日 頓首再拝>

過去は 『 今 』 祝福に変貌する - 伝統

2015/05/30 (Sat) 04:06:16

過去は 『 今 』 祝福に変貌する

         *『生長の家』(昭和24年11月10日の法語)より

吾は今日を祝福するのである。
過去を祝福し 未来を祝福し、すべての日を祝福するのである。

何故ならすべての日は神様に護られているからである。

吾は凡(あら)ゆる所に、凡ゆる事物に、一切の経験に、
神様の驚くべき愛が、導きが みたされていることを知るのである。

私の過去の生活が如何に辛きものなりとも
私はそれを祝福するのである。

過去は 「 今 」 の一点に於いて生きた姿に変貌するのである。
すべての過去は今生きていて吾をして、神の祝福を知らしめ給うたのであるから
過去あっての 「 今 」 であり、 「 今 」 過去は生きているのである。

    (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

もっとも豊かに祝福された者 - 伝統

2015/06/05 (Fri) 04:31:28

苦しみを担う者の信ずるところ

            ・・・

ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に刻まれている有名な英詩

題:「苦しみを担う者の信ずるところ」
作者:ニューヨークのリハビリ病院の患者 といわれているようです

            ・・・

大事を為そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
つつしみ深く従順であるようにと
弱さを授かった。


より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった。


世の人々の賞讃を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。


人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるように
生命を授かった。


求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞きとどけられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた

私はあらゆる人の中で、
もっとも豊かに祝福されたのだ。

            <感謝合掌 平成27年6月5日 頓首再拝>

生長の家は、裁く神を祝福する神に変えた - 伝統

2015/06/13 (Sat) 03:55:17


           * 『愛はかくして完成す』(280~281頁)より

生長の家は、雲の上の彼方にある天国にいて、人間を意地悪く冷酷にさばいていて
罪を犯すものを罰してやろうと待ちかまえていると考えられていた神を、
愛の神に変じて、人間をそんな罰する神から、人間を祝福し護り給い、愛したまい、
それに生命を与えたまう普遍的な神にするのであります。

このとき、人間は冷酷の仮面を脱して愛の神と一変します。 
そして神はそのような程遠い所にいますのではなく、
今此処に “自己の内” にあることをみとめることができるのです。

重ねて言います。

イエスは 「神の国は汝の内にあり」 と教えられたが、
「神の国」 が自己の内にあるならば、「神の国」 に住み給う 「神」 も
自己の内にある筈です。

イエスは盲目の少年を癒やされたとき、旧約聖書の詩篇の第82篇の 
「汝らは神なり、汝らは皆至上者(いとたかきもの)の子なり」 の句を引用して、
すべての人間は皆 「神の子」 であることを力説されました。

これは仏教の 一切衆生は皆仏子なり の教えと一致するのです。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19336072.html


            <感謝合掌 平成27年6月13日 頓首再拝>

吾は祝福されたるものである - 伝統

2015/06/21 (Sun) 04:48:26


           *『生長の家』(昭和24年11月13日)の法語より

吾が念ずる言葉は、常に吾が祈りである。

神に於いては凡ゆる事は可能であり、
すべてのことはすでに潜在的に与えられているのである。

吾が祈りは、神がすでに潜在的に与え給いしものをよびだす力となるのである。

吾が祈りの言葉は、無限に噴出する井戸の水を汲(く)み出す所の
釣瓶(つるべ)のようなものであるのである。

その釣瓶が大きければ大きい程、
多量の恵の水を汲み出すことができるのである。

自分は今日から小さいことを考えないのである。
自分は自分の釣瓶を出来るだけ大きくして
神の無限の供給を汲み出すのである。


            <感謝合掌 平成27年6月21日 頓首再拝>

祝福する者は祝福される - 伝統

2015/06/28 (Sun) 06:26:34


        *「若人のための78章」第42章(P114~115)より

キリストが「汝の剣を鞘に収めよ。剣をとる者は剣によって亡びる」と教えたのは
決して現実の剣戟の戦争のみを戒めたのではないのである。

それは心の剣の意味でもある。

心に敵意をいだけば、その害悪の念波は必ず相手に到達して、
その相手に敵意をいだかしめるに到るのである。


結局、相手に対して敵意を抱かしめる者は、
みずからがその敵意によって害されることになるのである。

吾らは、自己が敵意を抱く程度に従って敵意を抱かれ、
自己が愛念を抱く程度に従って愛せられるのである。

すべて類に従って事物は集まり来るのである。

水蒸気は水蒸気同志集まって雲となり、
水は水同志集まって河となり、更に集まって大海となるのである。

吾らは常に神想観を行なって、愛念を人類に放送するように心掛くべきである。

「吾れに神の愛流れ入り給うて、光輝燦然と輝きたまい、
愛の念波をもって一切の人類を祝福し給う」

と神想観中に念ずるのは一つの良き光明思念法であるのである、

簡単に、暇ある毎に「人類よ、私は汝らを愛している」と念ずることも
大変好い方法であるのである。


電車に乗ったときや、汽車に乗ったときに

「神よ、この車内の人々を愛したまえ。
神の愛念われに天降りて光明燦然と輝きたまい、
この車内のすべての人々を祝福したまうのである」

としばらく眼をつぶって念ずることも良き方法である。

すべて教えは実践しなければならないのである。
書籍にそんな教えが書いてあったというだけでは、大して得るところはないのである。

常に心が祈りに満たされている人には、
その時その場で最も適当な処置がインスピレーションとして啓示される。

それを勇敢に実行することが必要である。

            <感謝合掌 平成27年6月28日 頓首再拝>

神の祝福は万人平等 - 伝統

2015/07/06 (Mon) 04:06:24


            *「光明法語」(P217)より

神の祝福の流れに乗ると云うことは、
神は或る人を祝福し、或る人を祝福しないと云うことではない。
神は善人にも悪人にも太陽が照らすが如く、祝福の波を放送してい給うのである。

祝福の流れに乗らないとは、神の祝福の波長を感受するような
「神と同波長の心の波」を起さないと云うことである。
だから祝福の波があってもそれを感ずることが出来ないのである。

それは又たとえば、太陽はすべての人を照らしているが、目を瞑っている人には見えぬ、
これを祝福の流れにのらぬと云うことである。


            <感謝合掌 平成27年7月6日 頓首再拝>

《どの日も神に祝福されている》 - 伝統

2015/07/14 (Tue) 04:20:41


            *『生長の家』誌(昭和25年6月21日)の法語より

   神はすべての時間を
   自己顕現の形式として祝福し給うのである。

   どの時間もどの日取りも
   悪いものは一つもないのである。

   だから 年まわりや日取りに
   ひっかかってはならないのである。

   神は 決して何人(なんびと)をも
   呪い給うことなく
   罰し給うことなく、
   常に吾らを愛し 祝福し給うているのである。

   神の愛と祝福とは 永遠であって
   どの日にも変わるということはない。

   吾は神の祝福の大海原の中に生き、
   呼吸し、動き、生活しているのである。

   時々肉眼で見てそれを忘れるな。

   そこで目をとじ神想観して
   神の愛に包まれている実相を観ぜよ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2


            <感謝合掌 平成27年7月14日 頓首再拝>

祝福は祝福をよぶ - 伝統

2015/07/21 (Tue) 04:19:40


             *「女性の幸福365章」(P112)より


人々を祝福する者は神によって祝福される。

人々を憎み呪う者は、神の波長に合わないから、
神の祝福の波から外(そ)れる。

神は罰を当て給わないが、憎む者、呪う者には、
それに類する者が集って来てみずからを傷つけるのである。

類(るい)は類(るい)を招(よ)ぶのである。

            <感謝合掌 平成27年7月21日 頓首再拝>

祝福の波長に合わぬ心 - 伝統

2015/07/28 (Tue) 04:36:44



            *「光明法語」(P217~218)より

神の祝福の波長に、合わぬ心と云うのは、

怒る心、憎む心、怨む心、悲しむ心、羨む心、
嫉妬する心、猜疑する心、悪を予想する心、取越苦労する心、持越苦労する心、
口惜しい残念な心、陰気な心、沈む心、審判(さば)く心、争う心、斬り合う心、
焦(いら)立つ心、不平の心、あせる心、ケチな心

など大同小異の種々の色合(いろあい)をもった心である。

之等(これら)の心は神の祝福の波長とは調子が合わない。
神の祝福の流れに乗って何事も都合よく行こうと思うものは
是らの心を去らねばならぬ。

            <感謝合掌 平成27年7月28日 頓首再拝>

祝福の行事を常に継続する - 伝統

2015/08/04 (Tue) 04:55:58

わが家には愛と幸福がいっぱい

             *「女性の幸福365章」(P186)より 

汝(あなた)の良人の行為を嫉妬するよりも、祝福せよ。

もし、良人に悪しき行為があらわれているならば、神が良人に現れていないからである。
良人に神があらわれていないのは妻が良人を祝福しないからである。

良人を祝福するには良人に神の生命が宿っており、神の善き性質が宿っており、
良人が立派であることを、常に心に唱え念じ、
機会ある毎に言葉でそれを表現するがよいのである。

どんな悪しき現象があらわれていても現象は“影”であり、
こちらの心の想いを投影してあらわれるものであるから
“影”なる現象悪を見てそれに心が捉えられてはならないのである。


常に、自分の家には、幸福のみが充ち満ちていると言葉で機会ある毎に言い、
そのあとで暫し、実際に「わが家には幸福が充ち満ちている」という思いを深々と起すがよい。

この祝福の行事を常に継続しているならば、
やがて必ずその家は祝福された通りの幸福の家庭となる。

あらゆる不完全なる現象は、祝福の欠乏のあらわれであるから、
常に祝福の言葉を念じ且つ唱え繰返すことによって消えてしまうのである。

これを信じて実行せよ。

            <感謝合掌 平成27年8月4日 頓首再拝>

《祝福は祝福をよぶ》 - 伝統

2015/08/11 (Tue) 04:00:54


           *「生長の家」誌(昭和25年5月25日の法語)より

   腹が立つのは自分が悪いとわからずに
   人が自分に害を与えたと思うからである。

   「 親和 」 の原理によって
   自分と親和力のないものは一つとして自分に近づいて来る事はできない。

   されば他を呪(のろ)う前に自分自身を省みることが必要である。

   自分が人を呪うならば
   「 類を以(もっ)て集まる 」 親和の原則によって、
   自分を呪い害するもののみが尚(なお)一層多く集まって来る。

   腹が立つ時程
   人を呪ってはならない。

   敵を見るな。
   見ゆるもののために祝福をなげかけよ。

   祝福は祝福をよび、
   よきもののみが あなたの周囲にあつまって来る。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 平成27年8月11日 頓首再拝>

自分の五官を祝福する - 伝統

2015/08/19 (Wed) 04:43:03


            *『幸福をひらく鍵』(P24)より

「わが眼よ、神はわが眼を通して正常に万物を視給うのである。
それゆえに、わが眼は常に健全である。

わが耳よ、神はわが耳を通して正常に万物を聴き給うのである。
それゆえに、わが耳は常に健全である。

わが鼻よ、神はわが鼻を通して呼吸し万物のよき匂いを齅(か)ぎたまう。
それゆえに、わが鼻は常に健全である。

わが口よ、神はわが口を通して、コトバを発したまい、食物の美(よ)き味を味わいたまう。
それゆえに、わが口唇(くちびる)も歯も舌も常に健全であるのである。

わが皮膚よ、神はわが皮膚を通して、その美を表現したまい、
人々との触れ合いに皮膚を通して愛を実践したまう。
それゆえに、わが皮膚は常に肌理(きめ)こまかに美しいのである。」

毎日数回、このように唱えて自分の五官を祝福するがよい。


            <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

祝福を蒔いて歩く - 伝統

2015/08/30 (Sun) 04:44:28


       *「希望を叶える365章」(P306~307)より


「智慧の言葉」に「道を歩いている時にも、ここに神の子が歩いていると思え」
と云う聖句がある。

何処へ行くときにも、神が自分に宿っていて、行く道を照らしつつ導きつつあるのだと黙念せよ。
これは大いなる祈りである。

更に、その「自分に宿る神」が自分の安全のために自分の行く道を照らしつつあるのみならず、
その「自分に宿る神」の光が自分の向いつつある方向のすべての人々に「祝福の霊波」を投げ、
「愛念」を投げ、すべての人々を幸福にしつつあるのであると思え。

これは尚一層大いなる祈りである。

更に自分が通行した後には、
「自分に宿る神」の「祝福の霊波」が雰囲気となって残って、
其処にいるすべての人々を必ず幸福にせずにはおかないのだと念ぜよ。

これ更に大いなる祈りである。

かかる祈りをなす人の前後左右には必ず「祝福の霊波」が漂うのである。 

            <感謝合掌 平成27年8月30日 頓首再拝>

《神の祝福を受ける心境こそ必要である》 - 伝統

2015/09/08 (Tue) 03:58:18


           *「人生の秘訣365章(第1章)」(P41~42)より

常に間断なく、機会ある毎に、どんな短い仕事の間隙(かんげき)の時間でも利用して、

「自分は神の子である。神から無限の智慧と愛と力とそれを実現するための
資料とを与えられているのである」

と念ずるがよい。


念ずる力によって神からそれらが与えられるのではなく、
実相世界に於いて既に与えられているそれらの諸徳と資料とを受像し得る
「実相同調」の精神波動を起すことになるのである。

すべてのものは既に与えられているのである。
それを受け得る心境を呼び出す事だけが最も必要なのである。

            <感謝合掌 平成27年9月8日 頓首再拝>

《あなたは神から祝福されたる者である》 - 伝統

2015/09/15 (Tue) 04:25:51


           *「人生の秘訣365章(第1章)」(P42~43)より


「汝の実相の灯火(ともしび)を手に把りて起ちあがれ。

汝の脚を実相の足基の上に確乎として立てるがよい。
実相のみが実在であり、実相のみが金剛不壊であり、
その上に立つ者のみが堅固不抜であり、
実相の灯火(ともしび)のみが人生の行路を照らすのである。

毎朝の生活の出発の時“神の子”なる汝の実相を念じて、
その実相の足基の上に立ち、実相の灯火に照らされて歩むがよい。

神の智慧は汝を導き、神の愛は汝を護る。
神の愛は如何なる敵意よりも強く、
神の智慧は如何なる悪しき奸計(はかりごと)よりも慧いのである。

実相の灯火を掲げて進むとき、如何なる敵意も消え去り、
奸計(はかりごと)は打ち摧かれて(くだかれて)
汝の歩む道は平けく安らかになるのである。

悪意ある棘(いばら)は汝の歩む道に栄えることはできず、
神の愛は美しき華となって毛氈(もうせん)のように行く道に敷くのである。

汝は神の子、神から祝福されたるものである」


この言葉を繰返し繰返し朗読して、
言葉の力であなたの“神の子”たる自覚を深化強化せられるがよい。

            <感謝合掌 平成27年9月15日 頓首再拝>

自分自身を祝福する - 伝統

2015/09/23 (Wed) 04:52:22


          *「生活の智慧365章」(P108)より

自他を祝福するとは、自他の内にやどる「神なるもの」を認めて礼拝することである。
自分も彼もみな神の素晴らしい自己顕現であることをみとめ、心で讚(ほ)め、喚び出し、
その真理を引き出すことである。

先ず自分自身を祝福することなしに、他の人々を本当に祝福することはできない。
吾々は先ず自分自身を祝福し、讚嘆し、自分自身の神性を引き出さなければならないのである。
その行事が神想観である。

神想観によって自分の実相が”神の子”であり、完全円満であることを観じて、
実相の完全さを祝福し、讚歎した後に、

現象的にも自分の生活に一寸でも善い事をしたことがあれば、
それを一々想い出して自分自身を「お前はこんな善い事をした善い人間である」
と讚めてやるのがよいのである。

それは恰も学童の成績を挙げるために、
その答案の中に一寸でもある「正しい回答」に◎をつけて讚めて、
その内部の能力を引き出してやるが如くである。

「お前はあの人の罪を赦した。お前は神の子で愛ふかく寛大である」という風に讚めるのである。

            <感謝合掌 平成27年9月23日 頓首再拝>

神の祝福の流れ - 伝統

2015/10/03 (Sat) 04:52:19


          *「善と福との実現」(P13~14)より


この内在の神から、外在の現象世界へ一条の光が耿々(こうこう)とさして来ているのである。
この光を吾々は、「神の祝福の流れ」と呼ぶのである。

それは神の国から射して来る光であるから、その光の波に乗って眺むればそこに神の国が
眺められ、神の国が実現するように導かれるのである。

しかしながら、神は人間に完全な自由をゆるし給うている(自由な民主主義と謂えよう)から、
人間が自由意志で勝手に暗黒の中を或る期間さまようて頭を打ち当てることも自由に
許し給うていられるのである。

しかしやがて人間は暗黒の中で頭を打ち、やがて自由意志をもって「光」を求めるようになる。
これは、神が暗黒の中にいる人間の頭を擲ったのではない。
これを「神の鞭」だと考えると、神を汚すことになる。

頭を打って不幸に遭遇したのは何処何処迄も、人間自身である。
神はただ常に照らしていられるのである。
「光」に対して目を閉じているのは人間自身なのである。

既に「光」はあり、光の中に来れば、既にそこには調和があり、
愛があり、智慧があり、供給があり、無限の善があり、
病気や不幸などは存在しないのである。

            <感謝合掌 平成27年10月3日 頓首再拝>

天地一切のものを祝福せよ - 伝統

2015/10/18 (Sun) 04:50:11


             *「幸福を招く365章」(P59)より

朝目覚めたならば、神想観を行い、

「神の生命われに流れ入りて、わが生命を健やかならしめ給う」

と念じつつ呼吸を整え、

更に

「神の愛われに流れ入りて、光明さん然と輝き給い、
われを通して天地一切のものを祝福したもう」

という思念を繰返すことは、天地一切のものと和解することを
如実に実践する上にきわめてよき方法である。

一切の不幸と病は、自己が天地一切のものと和解していないで、
ある程度またはある意味において敵対状態にあるから生ずるのである。

しかるに上記のような思念を行うときには心の中に、
こちらから積極的に天地一切のものと和解する以上に、
天地一切のものを祝福することになるのである。

            <感謝合掌 平成27年10月18日 頓首再拝>

神の祝福は又別の処から入(い)り来(きた)る - 伝統

2015/10/26 (Mon) 04:57:43


           *「光明法語」(P50)より

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。
恩を受けねばならぬような人は、福田がまだ乏しいから人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

            <感謝合掌 平成27年10月26日 頓首再拝>

神の祝福は万人平等 - 伝統

2015/11/05 (Thu) 03:18:21


          *「光明法語」(P217)より

神の祝福の流れに乗ると云うことは、
神は或る人を祝福し、或る人を祝福しないと云うことではない。

神は善人にも悪人にも太陽が照らすが如く、祝福の波を放送してい給うのである。

祝福の流れに乗らないとは、神の祝福の波長を感受するような
「神と同波長の心の波」を起さないと云うことである。
だから祝福の波があってもそれを感ずることが出来ないのである。

それは又たとえば、太陽はすべての人を照らしているが、目を瞑っている人には見えぬ、
これを祝福の流れにのらぬと云うことである。

            <感謝合掌 平成27年11月5日 頓首再拝>

神の祝福の流れに乗るには - 伝統

2015/11/14 (Sat) 04:37:16


          *「光明法語」(P217~218)より

神の祝福の波長に、合わぬ心と云うのは、怒る心、憎む心、怨む心、悲しむ心、羨む心、
嫉妬する心、猜疑する心、悪を予想する心、取越苦労する心、持越苦労する心、
口惜しい残念な心、陰気な心、沈む心、審判(さば)く心、争う心、斬り合う心、
焦(いら)立つ心、不平の心、あせる心、ケチな心

など大同小異の種々の色合(いろあい)をもった心である。

之等(これら)の心は神の祝福の波長とは調子が合わない。
神の祝福の流れに乗って何事も都合よく行こうと思うものは
是らの心を去らねばならぬ。

            <感謝合掌 平成27年11月14日 頓首再拝>

《祝福する者が祝福される》 - 伝統

2015/11/23 (Mon) 04:54:29


         *『栄える生活365章』(P184)より

毎日、一定の時間を割いて、人類全体の幸福について祈るがよい。
祝福する者が祝福されるのである。

そのように無私の祈りの中に魂は生長し進化し、
実相の神性がより多くあらわれるようになるのである。

あなたの幸福の真の基礎は、自分の利益を追求することではなく、
人類全体を祝福する愛こそ、それである。

            <感謝合掌 平成27年11月23日 頓首再拝>

不調和を愛念で祝福せよ  - 伝統

2015/12/03 (Thu) 04:06:40


             *「幸福を招く365章」(P188~189)より

若しあなたの周囲に不調和が満ちているように感じられるならば、
それは貴方の心に不調和があって、それを感じているのである。
貴方の心の内にないものは決して感ずることは出来ないのである。
 
先ずあなたの心の内の不調和を除き去れば周囲の不調和も消えてしまうのである。

「神の愛、われに流れ入りて、光輝燦然と輝き給いて、わが周囲の人々に愛念を送りたもう」

と繰返し念じ祈るのがよいのである。

どんな人でも愛念に動かされない人はないのである。

愛はすべてのものを調和に導く最強力なる力である。

どんな不快な状態でも根気強く、

「この処を神の愛が祝福したもう、神の愛の充つる処はすでに光明輝いている」

と念ぜよ。 

また次の如く念ぜよ。

「わが内に神の愛は流れ入りたり。神の愛われに於いて燦然然と輝きたもう。
われは幸福である。最早 自分は不幸になることは出来ないのである。
自分は幸福のほかはない。われは祝福されたる者である。

われはすでに高きレヴェルに住む。
悪意や、嘲笑や、非難や憤(いきどお)りのレヴェルよりも
既に一層高くのぼったのである。

われは彼の行い、彼の言葉によっては、もはや彼を批判しないのである。

われは表面によって人々を判断しない。
人々の内にやどる神性仏性によって判断し、そして全ての人々を拝むのである。

人々の言葉や行いが、自分にとって不快なものであろうとも、
それをわれは花びら降る美しさに感ずるのである。」

            <感謝合掌 平成27年12月3日 頓首再拝>

《過去は 『 今 』 祝福に変貌する》 - 伝統

2015/12/11 (Fri) 04:44:51


         *『生長の家』(昭和24年11月10日)の法語より

   吾は今日を祝福するのである。
   過去を祝福し 未来を祝福し、すべての日を祝福するのである。

   何故ならすべての日は神様に護られているからである。

   吾は凡(あら)ゆる所に、凡ゆる事物に、一切の経験に、
   神様の驚くべき愛が、導きが みたされていることを知るのである。

   私の過去の生活が如何に辛きものなりとも
   私はそれを祝福するのである。

   過去は 「 今 」 の一点に於いて生きた姿に変貌するのである。

   すべての過去は今生きていて吾をして、
   神の祝福を知らしめ給うたのであるから

   過去あっての 「 今 」 であり、
   「 今 」 過去は生きているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成27年12月11日 頓首再拝>

《祝福する者は祝福せられる》 - 伝統

2015/12/19 (Sat) 04:59:51



        *「生活と人間の再建」第12章無限を受くる道(P157~158)より


去り行く人の後ろから、その人を祝福する思念を送ったからといって、
何の役に立とうかと思う人があるかも知れない。

然し、人を祝福する念波は決して消えてしまわないのである。

もし相手の人が悪意を抱いている人であり、
祝福の念波に波長が合う資格のない人であるならば、
その祝福の念波は自分にかえって来るのである。

自分自身は、最も自分の送った祝福の念波に波長が合うからである。
そして結局祝福を受けるのは自分である。

世の中には「類は類を呼ぶ」という法則が行なわれているのである。

水蒸気が蒸発する時には、目に見えないけれども、
それはやがて類は類を以ってあつまり、雨となって降り、
川となって流れ、大いなる海洋にそそがずにはいないのである。

我々が土をとって空中にふりあげると、土は必ず大地にかえるのである。
水は水にかえり、土は土にかえり、

愛は愛を伴い、深切は深切をよび、同じ種類のものが
自分の周囲にあつまって来て自分自身を祝福せずにはいないのである。

            <感謝合掌 平成27年12月19日 頓首再拝>

時々自己を祝福せよ - 伝統

2015/12/26 (Sat) 04:33:01


          *「幸福を招く365章」(P210)より

「われは神の子である。神より祝福されたる者である。
 神の愛はわがすべての過ちをゆるしたまいてわれを祝福したまい、愛したもうのである」

こう仕事の合間合間に、30秒か1分間でよいから、
眼をつぶってこの言葉を心の中に黙念せよ。

疲れたとき、憂うつになったとき、この黙念をつづけるならば不思議に
憂うつは去ってしまい、疲労は回復するのである。

更に静かに深呼吸しながら、

「神の生命流れ入りてわが仕事を導きたまう」

と念ずるならば、仕事を遂行するよき知恵が湧き出て来て仕事が順調に運ぶのである。

たばこをすう人ならば、その煙をふかぶかとすいこみながら同じように念ずるのもよい。

            <感謝合掌 平成27年12月26日 頓首再拝>

祝福すべきかな変化無常  - 伝統

2016/01/04 (Mon) 04:39:31


             『生活の智慧365章』(P162~163)より

この世は無常の世界であり、変化の世界である。

その変化無常を、好転の方へ変化せしめるか、凶転の方に変化せしめるかの
鍵を握っているのはあなた自身なのである。

若し変化無常の世界でなかったならば、
吾々は日本の景色に春夏秋冬の異なる美を楽しむことができなかったであろうし、

幼児から少年少女への生長の悦び、そして青年期の元気溌剌とした活動と進展の悦び、
そして家庭をつくって家族相和す悦び、老いて孫をいだく歓びなど
色々異なる悦びなどの境涯を体験することができなかったに相違ないのである。

 
朝を迎えて東天に太陽はさし昇る、そして落日は黄金色に西海に沈むのだ。
何という荘厳! 何という変化の美ぞ。

落日の反映を受けて、刻々、紫から淡紅(うすべに)に、
淡紅から淡紫(うすむらさき)に変化し行く富士の嶺。
そして紅のような暈(くま)をもつ雲海によってその麓をかこまれている富士の嶺。

私は刻々その位置を変化する飛行機上からこの秀麗きわまりなき富士の山容を見て感嘆した。

若し富士にこの変化がなかったらそれは唯、死灰(しかい)の堆積。

ああ変化無常こそ神の生きた芸術である!

            <感謝合掌 平成28年1月4日 頓首再拝>

祝福の暗示 - 伝統

2016/01/11 (Mon) 04:55:19


         *『生活の智慧365章』(P43~44)より

人は接触する人々にその雰囲気を交流させて互いに影響を与え合うものなのである。
それは人間はその本質に於いて「生命(せいめい)」が一体であるから、海水が一体であって
智利(チリー)国の地震が日本の東北地方の大津波となって影響するにも似て、
たとい物言わずとも互いに影響し合うものなのである。

更に”言葉の力”を用うれば一層激しく影響し合うものである。
たとい電話を通じての言葉であっても、非常な影響を相手の精神に与えることもある。

私は或る映画を見たが、毎日毎日、何者とも知れぬ人から
「お前は何日何時何十分に必ず殺すから」という電話がかかって来るのである。
その電話を受ける人は、そのために激しいノイローゼに陥るのである。

では、そのような恐怖の暗示の言葉なしに、電話に限らず、日常生活に於いて
幸福の暗示の言葉を、会う人毎に投げかけることにしたらどんなものだろうか。

讃(ほ)める言葉、激励の言葉、

「屹度あなたは成功する」とか、
「屹度あなたの希望は成就するよ」とか、
「屹度よく勉強できるよ」とか、
「もう直ぐ健康になりますよ」とか、
「あなたは神の子だから、健康と幸福のほかは何もあり得ない」とか、

このような善き言葉の雨をふらして人類を祝福するならば、
「祝福を与えるものは祝福を与えられる」の”心の法則”に従って、
屹度あなた自身も豊かに幸福になるに相違ないのである。

生長の家の人類光明化運動はすべての人類を言葉の力によって
祝福する運動だといっても間違いはないのである。

            <感謝合掌 平成28年1月11日 頓首再拝>

神を正しく理解して祝福しましょう - 伝統

2016/01/21 (Thu) 04:31:30

           *『白鳩』誌(昭和39年7月号)より

『祝福する者が祝福せられる』 のです。

あなたは 『あの人は嫌いだ』 と思ったことはありませんか?  

『あります』 と仰言るのですか。 
『あの人は嫌いだ』 と思ったとき、あなたは、あの人を呪ったのです。 
祝福の反対をしたのです。 

あの人が、あなたにとって、不愉快に感じられるように
現われて来るのは当然のことなのです。 

其の人を祝福しなさい。

『あの人は神の子で、善い人だ。 善くない人だと思ったのは私の心の間違いだった』 
と深く心の中で懺悔してお詫びして御覧なさい。 今まであんなに不快な事をしていた彼が、
あなたにとって快いことをしてくれる人に変ります。

嘘ではありません。 必ず、そうなります。 

暫く忍耐づよく、神想観中に、心の中で今まで間違った思いを懺悔し。
相手を “神の子” として祝福することを続けて御覧なさい。 
あなたの周囲が祝福に満たされた天国のように現われてまいります。


あなたは神を正しく理解しなければなりません。 
神は雲の上にいて、吾々を罰しようと思って、
吾々を監視しておるような人物ではないのであります。 

神は宇宙到る処に、普遍的な愛として智慧として生命として存在ましましのであり、
同時に吾々の中(うち)に生命として智慧として愛として宿っていられるのであります。 

そして神の意志は必ず善であり幸福でありますから、自分自身の 『誤れる想念』 によって、
そのおのずからなる顕現を妨げない限りは、必ず善と幸福とがあらわれて来るのであります。 

あなたは今その 『誤れる想念』 を悉く棄てて心を神の完全さの方向に振り向けます。 
そして神の祝福を今満喫するのであります。


あなたは感度の鋭い霊的ラジオセットにならなければなりません。 
人から挨拶されても面倒くさそうに返事をする人は感度の鈍い安物のラジオセットであります。 

すべてあなたの周囲にあらわれて来る人々は、神様の摂理で
何らかの祝福か教訓かを与えるためにあらわれて来る人々でありますから、
感謝と悦びの態度及び表情で受け取らねばなりません。

『神に口なし、人をして言わしむ』 でありますから、
人の言う言葉のうちに真理があり、 『導き』 があり、自分の心の鏡があり、
反省の資料がありますから、聴くのに耳がいたい事があっても感謝して受取るとき、
すべての言葉があなたの魂を生長さす栄養となるのであります。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24574620.html より転写)

            <感謝合掌 平成28年1月21日 頓首再拝>

《神の祝福は又別の処から入(い)り来(きた)る 》 - 伝統

2016/02/29 (Mon) 05:06:00


           *「光明法語」(P50)より

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。
恩を受けねばならぬような人は、福田がまだ乏しいから人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

            <感謝合掌 平成28年2月29日 頓首再拝>

《神を祝福せよ、神から祝福される》 - 伝統

2016/03/08 (Tue) 03:23:04


         *『 生長の家 』(昭和25年2月27日)の法語より

   神を祝福せよ。
   神の み業を祝福せよ。
   神の み業を讃歎(さんたん)せよ。

   神から受けることばかり考えないで
   まず神に与えることから考えよ。

   毎日 朝に一回 夕方に一回、
   神を祝福し 神をほめたたえ、神に感謝することは、
   神の恵みを拡大するよき方法である。

   すべての恵みを神に帰せよ。

   神は無限に吾らに祝福を与え給うのであって
   それをほめたたえず 感謝しないことは、
   それに波長を合わさないことになるのである。

   波長をぴったり合わす時
   神の恵みが はっきりと現われて来るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成28年3月8日 頓首再拝>

<万物に神の祝福の声を聴け> - 伝統

2016/03/16 (Wed) 03:37:49


           *「幸福を招く365章」より

何時、如何なる場合、何が自分を呼び掛けて来ても、電話が呼び掛けて来ても、
訪問者が現れてきても、それに対談するばあいには、

「神はこの電話(又は人名)を通して私を祝福し給うのである。
そして神の愛吾れに流れ入って私を通して此の人を祝福し給うのである」

と念じつつ対話するが好い。

見るもの、聞くもの、それが花であろうとも、音楽であろうとも、

「神はこの花を通して(又は音楽を通して)私を祝福し給うのである。有難うございます」

と念じつつ、その花を見、音楽を聴くがよいのである。

そして

「神の愛吾れを通してこの花を、この音楽を祝福し給う」

と更に念ずるのである。

   (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=70 より転写)

            <感謝合掌 平成28年3月16日 頓首再拝>

神の祝福を受けるには、自分の欲望は後にせねばならない - 伝統

2016/04/01 (Fri) 03:31:36


            *『生長の家』(昭和45年4月号)より

神の祝福を受けるためには、神の御心を先にして、自分の欲望は後に置かねばならないのである。

何か特別の希望とか願いとがあって、それを神にお祈りしたけれども実現しない時に 
「神はこの私の願いを諾き給わないのだ」 と悲観したり、絶望してはならないである。

荷物は馬よりも後方にある車に載せて置かねばならないである。 
荷物を積んだ車を馬の前方に繋いでおいて 「馬よ、この荷物を私の家へ搬んでくれ」 
といっても馬は前進することが出来ないのである。

神の力を馬に譬えては申訳ないが、

無限の宝を“実相世界”から曳き出して来る力 〈即ち“神”の力〉 を先に置いて
自分の希望する宝を積んだ車を、その後方に置かねばならない

という譬えである。

先ず 「みこころの如くならしめ給え。 みこころならばこれを実現せしめ給え」 と祈って、
わが希望を後ろにつづける方がよいのである。 

それが自分にとって最高の宝だと思っても、
神が 「それは今のお前に適しない」 と思われたら、
その車は動き出さないで、もっと善い宝を曳き出して下さるであろう。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25139813.html より転写)

            <感謝合掌 平成28年4月1日 頓首再拝>

故郷を離れた子供を持つ父母のために - 伝統

2016/04/13 (Wed) 05:05:48


               *『白鳩』(昭和44年3月号)より

学生を子に持つ父母のために、生長の家全国講師として全国を行脚中の 尾関弘三講師 から、
自分の家族や子供らが(学生たちも含む)遠く郷里を離れて仕事又は勉強に往っている場合、

「今頃どのようにしているだろうか。 若しか間違いを犯しはしないだろうか、
自動車事故に遭わないだろうか」と心配の場合、次のような形式で祈りを献げるよう勧めているが
功徳甚大で、大変よろこばれているという報せが来たので紹介する。  ――


 『先ず気懸かりに成る人を聖使命会に入会していただき、その霊魂、既に菩薩の位に坐し給うとして、

  聖使命菩薩 〇〇〇〇

  右の様に紙を短冊に切りそれに 「聖使命菩薩姓名」を書き、神棚の下等にはりつけまして、
  それを媒体として朝夕祝福します。

 「〇〇さん お早ようございます。 あなたは何時も神様に愛され守られ、総ての人に愛され尊敬され、
  すべての人々の御役にたつ素晴しい神の子さんであります。 あなたの様な素晴しい神の子を持って
  お母さんは本当に幸せです」 (子供のことを母が祈る場合。 他の場合はこれに倣う)

 と云う様に感謝祝福して、更に其上 菩薩讃偈、聖経『甘露の法雨』を読誦して祝福していただきますと、
 脱線、行方不明、悪業の流転等の困った状態からでも解放される人が誠に多いので御座います』


以上の“祝福の祈り”は、こんな場合に適切な祈りの方法であり、
その祈りによって、祈る人自身の行動に不安動揺が消え出張又は勉学中の家族や子供が真に神に護られ、
神に導かれて安全に正しい行動をとっているに相違ないと信ずる事が出来るならば、

家族の生命は、波長が近似していて一体に連なっているのであるから、その祈りの言葉の通りに
安全に幸福に健全な生活を送っていて間違がなくなるに相違ないのである。

皆さんの家族の誰かが出張中又は勉学中であれば、この方法をお試みになることをお薦めする。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/a82057987a50207654f1d4b05b317cd1 より転写)

            <感謝合掌 平成28年4月13日 頓首再拝>

《我は一切を祝福して奉仕する》 - 伝統

2016/05/07 (Sat) 03:18:42


         *『 生長の家 』(昭和25年4月24日の法語)より

   吾(われ)は 今 自分の人生を祝福するのである。
   吾を生み給いし父母を祝福するのである。
   わが住む境遇を祝福 し、わが住む国を祝福するのである。

   何故(なぜ)なら 吾は一人でなく、
   凡ゆるものの恩恵によって
   今日ここに存在するのであるからである。

   吾が目の前に環境、吾が前に堆(うずたか)くつもっている仕事、
   それは吾を苦しめるために存在するのではなく、
   吾の内にひそむ所の大いなる力を発揮せしめんがために存在するのである。

   吾は仕事を祝福 し環境を祝福 し、仕事に感謝し、環境に感謝して、
   よろこんで奉仕するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843077.html

            <感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>

《感謝と祝福の日》 - 伝統

2016/05/17 (Tue) 03:28:11

         *『 生長の家 』(昭和25年4月10日の法語)より

   吾は今日 感謝を以て この日を始めるのである。
   この日は 神に祝福されたる日である。

   よきことの外(ほか)は決して自分にはやって来ないのである。
   悪(あ)しきことは存在しないのである。

   神は吾を祝福し給うのである。
   その如(ごと)く吾も亦(また)すべての人を祝福するのである。

   わが住む世界を祝福し 人類を祝福し、国家を祝福し、社会を祝福し、
   両親を祝福し、夫又は妻を祝福し、子供を祝福し、
   部下を祝福し、召使を祝福し、凡(あら)ゆるものを祝福するのである。

   吾すべてのものを祝福するが故(ゆえ)に
   神の吾に対する祝福は実現するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13793097.html

            <感謝合掌 平成28年5月17日 頓首再拝>

すべての人々に感謝と祝福の念を送る - 伝統

2016/05/28 (Sat) 04:11:13


         *『 生長の家 』(昭和25年5月9日)の法語より

   自分の目の前にあるすべての事物に感謝と愛念を送ることは、
   そのすべての事物を完全ならしむる所の
   もっともよき方法である。

   自分の目の前にあるすべての人々に
   感謝と愛念を以(もっ)て祝福することは
   自分自身が祝福されることになるのである。

   自分の与えたものがすべて自分にかえって来るのであって、
   人を害して自分が利益を得ようと思っても、
   それは無駄にすぎないのである。

   自分は今日から凡(あら)ゆる事物に
   感謝と愛念を送り、
   さらにすべての人々に感謝と祝福の念を送るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>

《祝福は祝福をよぶ》 - 伝統

2016/06/06 (Mon) 04:18:23


         *『 生長の家 』(昭和25年5月25日の法語)より

   腹が立つのは自分が悪いとわからずに
   人が自分に害を与えたと思うからである。

   「 親和 」 の原理によって
   自分と親和力のないものは
   一つとして自分に近づいて来る事はできない。

   されば他を呪(のろ)う前に
   自分自身を省みることが必要である。

   自分が人を呪うならば
   「 類を以(もっ)て集まる 」 親和の原則によって、
   自分を呪い害するもののみが
   尚(なお)一層多く集まって来る。

   腹が立つ時程
   人を呪ってはならない。

   敵を見るな。
   見ゆるもののために
   祝福をなげかけよ。

   祝福は祝福をよび、
   よきもののみが あなたの周囲にあつまって来る。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 平成28年6月6日 頓首再拝>

なるがままにすべてのものを祝福せよ - 伝統

2016/06/16 (Thu) 04:09:06

《彼らをあるが儘(まま)ならしめよ》

           *『 生長の家 』(昭和25年5月27日の法語)より

   この世界は神が支配しているのである。
   神のみが支配者である。

   神がすべての人に自由を与えたのであって、
   我意のままに周囲の人を支配する様には
   造られていないのである。

   腹が立つのは己が思う様に人をしたいからである。

   他の人をして他の人自身たらしめ、
   彼をして彼自身たらしめ、

   自分の考えを以て他を強制しようという考えを
   捨てた時に始めてこの世の中は、
   神が定めた通りに万物が自然に調和して行われるのである。

   なるがままにすべてのものを祝福せよ。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 平成28年6月16日 頓首再拝>

祝福せよ! - 伝統

2016/06/21 (Tue) 03:43:47


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月21日)より

他(た)を呪うかわりに祝福せよ。
祝福とは福(さいわい)を祈ることである。

すべての人間を祝福したとき、すべての人間から拝まれる者となるであろう。

「もし我れ仏とならんに、国中のすべての天、人、安楽世界に生ぜずんば正覚をとらじ」
こう願った法蔵菩薩はすべて人間天人の福(さいわい)を祝(いの)る者であったのである。
だから今はすべての人間から阿弥陀仏として尊崇せられるのである。

みんな自分が周囲へ与えたものだけを刈り取るのである。

           <感謝合掌 平成28年6月21日 頓首再拝>

《どの日も神に祝福されている》 - 伝統

2016/07/04 (Mon) 04:39:53


      *「生長の家」(昭和25年6月21日の法語)より

   神はすべての時間を
   自己顕現の形式として祝福し給うのである。

   どの時間もどの日取りも
   悪いものは一つもないのである。

   だから 年まわりや日取りに
   ひっかかってはならないのである。

   神は 決して何人(なんびと)をも
   呪い給うことなく
   罰し給うことなく、
   常に吾らを愛し 祝福し給うているのである。

   神の愛と祝福とは 永遠であって
   どの日にも変わるということはない。

   吾は神の祝福の大海原の中に生き、
   呼吸し、動き、生活しているのである。

   時々肉眼で見てそれを忘れるな。
   そこで目をとじ神想観して
   神の愛に包まれている実相を観ぜよ。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 平成28年7月4日 頓首再拝>

汝を呪う者を祝福せよ - 伝統

2016/07/05 (Tue) 03:29:34


            *「光明法語」(7月5日)より

「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎めと言いし教えを汝ら聞きしことあらん。
されど吾れ汝等に告ぐ、汝の敵を愛せよ。汝を呪う者を祝福せよ。
併(しか)して汝をなやめ苦しむる者のために祈れ」。

或る日私が聖書を読んでいる時に此の語から霊感を得た。

その頃私は私を裏切って私の為に出世してい乍(なが)ら、
私の悪口を言い廻っている或る人に不快な気持をもっていた。
併しこのキリストの聖句を読んだとき胸がスーッとしたのである。

私は彼を愛しようと決心した。
彼が吾が前にそのような姿をあらわすのは自分の心を鍛えて下さる神の愛である。

           <感謝合掌 平成28年7月5日 頓首再拝>

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