伝統板・第二

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利他 - 伝統

2015/04/03 (Fri) 04:35:49

光明掲示板・伝統・第一「利他 (48)」からの継続です。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=30

・・・


【喜ばれるように生きるためのポイント】

          *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年01月02日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より… )

   喜ばれるように生きるうえで、重要なポイントがあります。
   
   たとえば、喫茶店をしている人がお客様に喜んでもらおうと考えたとき、
   初めに新しいメニューを考えたり、きれいな壁紙、座りやすいイスに
   変えるかもしれません。

   しかし、投げかけるものの優先順位としていちばん重要なのは、
   「お金をかけない」ということです。

   温かい笑顔で迎えたり、優しく接する、居心地のいいように
   きれいに掃除することが、人間関係において、いちばん喜ばれます。

   その人の態度、生き方、笑顔がとても重要なのです。


   それをやらずに、お金をかけて建物を替えたり、
   調度品などを変えて喜ばれようとしても、お客様は遠ざかってしまいます。

   笑顔、優しさ、温かな応対など、まずお金をかけないでできることをやっていく。

   それがある程度できるようになったら、
   お金をかけて変えていくのがよいかもしれません。


   お釈迦様の教えに。「無財の七施」というものがあります。

   これは、財産がなくてもすべての人ができるものです。


   優しいまなざし (眼施・がんせ)

   思いやりある言葉 (眼辞施・がんじせ)

   温かい笑顔 (顔施・がんせ)

   感謝の心で人に接する (心施・しんせ)

   手足を使い人のために汗を流す (身施・しんせ)

   席や場所を譲る (床座施・しょうざせ)

   一夜の宿を提供する (房舎施・ぼうじゃせ)


   このように、お金をかけずに体で示せる行為がいちばん喜ばれます。
   お金や物を使って喜ばれるのは、第二、第三の順位です。

   酸素、空気、水のように、生きていくうえで必要なものはすべて無料です。

   人生の中になくてはならないもの、重要なものほど、お金を使うものではありません。

           <『笑顔で光って輝いて』実業之日本社>

             ・・・

お金を使わずに相手に、お礼をしようとしたり、喜んでもらおうとすると、
多くの人は困ってしまう。

なぜなら、お金で解決するほうが、考えなくてもすみ、簡単だからだ。


お金を使わないで人に喜んでもらおうとすると、手間がかかったり、努力が必要となる。

「笑顔」一つとっても、それを、誰に対しても、いつも、実行するのは難しい。


「無財の七施」

思いやり、笑顔、感謝、そして人のために動くこと。


人に喜ばれるような生き方をしたい。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド

  ①「深切を与えよ」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1189

  ②「無財の七施」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=110


(2)「光明掲示板第二」内スレッド

  ①「利他 (10598)」。
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2033

  ②光明掲示板・第二「親切・情け (458)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=158


(3)光明掲示板・第三「利他 (109)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=50

              <感謝合掌 平成27年4月3日 頓首再拝>

【奪い合うか与え合うか】 - 伝統

2015/04/14 (Tue) 03:39:32


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年04月12日)」より

   (本田健氏の心に響く言葉より…)

   人間関係は、マイナスに作用すると、
   エネルギーの奪い合いになってしまうことがあります。

   これは誰しも体験していると思いますが、
   会うとなぜか疲れる人と、逆に元気をもらえる人がいます。

   あなたからエネルギーを奪おうとする人に対しては、
   あなたも負けじと「盗られてはいけない、取り返せ」とばかりに、
   攻撃的になってしまうかもしれません。


   たとえば、自慢することに忙しくなったり、ネガティブな議論が止まらなくなったり、
   イヤな空気が支配するようになったりしたら、攻撃的になっている証拠です。

   すでにその人との間に“戦争”が起きているのです。

   自分のことを認めてほしい、話を聞いてほしい、
   ほめてほしいというニーズが先に立ち、相手からもらおうとばかりすると、
   こういうことが起きます。


   何か特別な話をするわけでもないのに、ワクワクしたり、気分がよくなったりする
   としたら、それは相性がいいのと、お互いに与え合える関係があるからです。

   誰かと会ったときに、そういった楽しい感覚があると、
   「もう一度会いたい」と思えるような関係になります。

   あなたが出会う人に「一緒にいると何だか楽しい、ワクワクする」と
   思ってもらえると、人間関係は豊かに広がっていくのです。


   一方で、一緒にいると、イライラしたり、苦しい感じがしたりする人もいます。
   こういう人とは、一緒に時間を過ごしても、お互いを高め合うことはできません。
   逆に、エネルギーダウンしたり、イヤな気分になったりすると思います。

   あなたにもそういう体験があるのではないでしょうか。

   相手が一方的に話をしたり、「何かをしてもらって当然だ」
   という態度を取ったりすると、一緒にいても楽しくなくなります。

   人のいい人は、そういう相手とも、分け隔てなくつきあったりしますが、
   結局、ひどい目にあったりするものです。


   人間関係を持つときには、お互いを高め合える関係なのか、そうではないのか、
   見極めたいものです。

         <『なぜ、あの人はいつも好かれるのか』三笠書房>

             ・・・

『うばい合えば足らぬ  わけ合えばあまる うばい合えば憎しみ  わけ合えば安らぎ』

という、相田みつを氏の言葉がある。


「エネルギーの奪い合い」か、「エネルギーの与え合いか」で、
人間関係も仕事も、そして人生も大きく違ってくる。

お互いのエネルギーを奪い合えば憎しみや嫉妬・不平不満が生じ、
与え合えば安らぎやあたたかさ・幸せや感謝が生じる。


これは、天国と地獄の話と同じだ。

天国と地獄には丸い大きなテーブルがあり、その真ん中にご馳走が並べてあるという。

そして、1メートルはあろうかという長い箸で食事をする。

ここまでは全く同じ。

しかし、地獄ではそのご馳走を箸で取って自分の口に運ぼうとするのだが、
箸が長すぎてボロボロと下に落ちてしまい一つも口に入らず、
誰もが腹を空かせて喧嘩がたえず、いつもイライラとして怒鳴りあっているという。


反対に、天国では自分の箸を使って相手の口にご馳走を入れてあげるため、
皆がゆずりあい、和気あいあいと食事を楽しみ、いつも満ち足りて平和だという。


与え合い分け合うという、お互いを高め合える人間関係でありたい。

・・・

<「天国と地獄の話」の詳細については、次のWebにてご確認ください。

 本流宣言掲示板「”天国の食事、地獄の食事” (3585)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=710 >

              <感謝合掌 平成27年4月14日 頓首再拝>

《人間にとって最高の栄誉ある喜びとは》 - 伝統

2015/04/20 (Mon) 04:36:16


         *『本気で生きよう! なにかが変わる』丸山浩路・著より

ひとりっきりで生まれ、
ひとりっきりで死ぬ。

ひとりっきりとひとりっきりの谷間、
“ひとりぼっち”をうずめるためにひとりひとりが一緒に生きていく。

私たちがこの地球上に生まれてきた意義とはなんだろう。
喜びとはなんだろう。
こんなことを考えたことはありませんか。

人はほかから助けられる立場にいる限り、決して満足はしないし、幸せにもなれません。
人は老人であろうが、子どもであろうが、病人であろうが、
ほかの人に何かを成したとき初めて満ち足りることができます。

不幸のほとんどは「してくれない」というものの考え方から生まれてきます。
労せずして楽をして得ようとする発想、自分だけ得をしようという発想は、
心の貧しさであり、

そこにとどまっている限り、
生きていることの本当の喜びはいつまでたっても手に入れることができないでしょう。

人間にとって最高の栄誉ある喜びを一度も味わうことなく死んでしまったら・・・。
これほど寂しいことはありません。

人は一人では生きていけません。一人では歩いていけません。
生きているということは誰かと手をつなぐこと、
つないだ手の温もりを忘れないでいることです。

巡り会い、愛し合い、やがて別れる。そのときに悔やまないよう、
今日、明日を生きていこうじゃありませんか。

人間、生きて最後に残すものは、
「どれだけ集めたか」ではなく、「どれだけ与えたか」です。

出会いに感動し、人の心に出会いを残すことこそが
生きる喜びであり、生きた証でもあるのです。

              <感謝合掌 平成27年4月20日 頓首再拝>

【惜しみなく与える】 - 伝統

2015/04/26 (Sun) 04:23:57


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年04月23日)」より

   (南蔵院住職、林覚乗氏の心に響く言葉より…)

   ある本にこんな話が載っていました。

   中年の奥さんが街を歩いていると、若い男がパンクの修理をしていたそうです。

   「パンクですか」と奥さんは声をかけました。

   すると、返ってきた言葉は、

   「見りゃわかるだろ、お前、あほか」


   「パンクですか」という言葉に、
   「大変でしょうね、お困りでしょうね」という思いを込めたつもりが、
   相手には一切通じなかったのです。

   「残念でたまりません」と奥さんは述懐していました。



   私は、交通安全協会にときどき講師として呼ばれるのですが、
   そのときに、いつもこの話を取りあげます。

   そしてその後で、ちょっとしたシミュレーションを行うのです。

   車に乗って大きな道路を走っている場面をまず想像します。

   あっ、脇道から車が出てきました。

   こちらの流れの中に入ってこようとしています。

   譲って、前に入れてあげることにしました。


   その際、相手がクラクションを鳴らしてくれたり、
   手を振ってくれたり、にっこり笑ってくれたりすると、
   「ああ、止まってあげてよかったな。いいことをしたな」と思います。

   ところが、相手が素知らぬ顔でそのまま行ってしまったとしたら、
   何か損をしたような、無駄なことをしたような気になって、
   腹立たしくさえ思ってしまいませんか?


   でも、大事なことは、譲ってあげることのできた自分なのです。

   そんな優しさを持っていた自分をほめることができればいいのです。

   それが、ほとんどの人は、止まってあげたのだらから、あなたは手を振るべきだ、
   クラクションを鳴らすべきだ、にっこり笑うべきだというような思いを、
   先に持ってしまうのです。

   求めるのではない、自分自身が相手にいい出会いを与えたかどうかということ、
   それだけあればいいのだと思いたいものです。


   ノートルダム大学の渡辺和子さんは、著書の中でこうおっしゃっています。

   「あなたがほほえみをあげるときに、ほほえみを返してくれなかったひとは、
   ほほえみを持っていないのだ。

   あなたは持っているのだから与えてあげなさい。

   優しい言葉をかけたときに返してくれなかったひとは、
   優しい言葉を持っていないのだ。

   あなたは持っているのでしょう。

   惜しみなく与えてあげなさい。

   それがあなたの素晴らしさでしょう」


   世の中にひとりしかいない自分、かけがえのない自分、
   そんな自分がどのような生き方をしているか、思いの持ち方をしているか、
   その自己確認をすればいいのではないでしょうか。


         <『自分が好きですか』西日本新聞社>

                ・・・

いいことをしたとき、相手からの反応を期待してしまうのが人間だ。

何かの情報を教えてあげたとき。
何かのアドバイスをしたり、手伝ってあげたりしたとき。
掃除をしたりゴミ拾いをしたとき。

人が足りないからと、講演会やパーティなどの参加要請に応えて、
忙しい中を参加したとき。


そして…

相手からのお礼や感謝の言葉を期待してしまう。


「優しい言葉をかけたときに返してくれなかったひとは、
優しい言葉を持っていないのだ」

惜しみなく与える人でありたい。


              <感謝合掌 平成27年4月26日 頓首再拝>

「1%の優しさ」で始めればいいのです - 伝統

2015/05/01 (Fri) 04:12:33


           *「1%の力」鎌田實・著(P174)より

イギリスのエクスター大学の研究によると、

思いやりや無償で人のために何かをすることで、病気を予防し、寿命を延長させ、
ストレスの軽減を起こしたり、生活の質を向上させたり、心の健康状態を改善したり、
身体能力を向上させたりしていることが、

2013年8月の『パブリックヘルス』という専門誌で報告されています。

アメリカのカーネギー・メロン大学では、

高齢者が年間200時間以上のボランティア活動をおこなうと、
高血圧になるリスクが40%も低下するという研究を発表している。

脳内神経伝達物質の人を幸せにするホルモンとか思いやりホルモンと言われている
オキシントンに、欠陥を拡げる作用があるからです。
相手の幸せを考える行為でオキシントンが分泌されます。

人のために何かをすると、血圧が下がるのです。

              <感謝合掌 平成27年5月1日 頓首再拝>

【ナガタ、ナガサキという生き方】 - 伝統

2015/05/07 (Thu) 04:04:42


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年04月27日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   人生は修業ではありません。
   自分がどれほど恵まれているかに感謝をすることが、
   魂の進化が究極に目指しているところです。

   ありとあらゆることが全部感謝なのです。


   先日対談した作家の神渡良平さんが書いた『天翔ける日本武尊』に
   こんなことが書いてありました。

   「わたしたちが先祖代々伝えられてきたことは、
   非常に単純で明快なことで、二つのことに集約される。

   一つ目が汝が楽しい(ナガタ)という生き方じゃ。

   『あなたが楽しいと思ってくださることが私の幸せです』と、
   他の人の楽しみを思いやる生き方をすれば、こちらも不思議に栄えていくのじゃ。


   二つ目は汝が幸い(ナガサキ)という生き方じゃ。

   他の人の幸せを望み、
   『何か私でお役に立つことがあれば嬉しい』と思って行動する。

   『あなたに幸せに思っていただくために、私は何をどうしましょうか』と
   いつも相手のことを気遣っていきるのじゃ。


   二つとも、『お先にどうぞ』と譲る精神じゃ。

   このナガタ、ナガサキという生き方こそ、天地を貫く幸せの原理だと思う。


   生きている間に、どれだけの人を幸せにできただろうか?

   どれだけの人に希望や生きる力を与えることができただろうか?

   生きている間に出合ったまわりの人々…親を初めとして、
   夫や妻、兄弟、わが子、友人、仲間たちを、
   どれほど楽しくさせてあげられただろうか?

   どれほど人を思いやることができただろうかと自省し、行動する。

   そんな生き方を『ナガタ』『ナガサキ』という。


   今でもよく、『何か私にできることがあったら、どうぞおっしゃってください』
   と口にするし、『あなたのお幸せを心よりお祈りします』とも言うが、
   われわれの中には、そういったナガタ、ナガサキの精神が、
   知らず知らずのうちに受け継がれているのじゃ。

   その結果、和を文化の中心に据(す)えた世の中が生まれてきたんじゃ」

   これは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の教育係りであった
   豊受(とようけ)の教えですが、やまと民族、日本の民族はずっと
   「ナガタ、ナガサキ」という、

   「汝が楽しければ吾が楽しい、汝が幸せであれば吾が幸いである」
   という生き方をしてきたのだと言っているわけです。

   私が私がと主張するのではなく、
   この国の人間は『ナガタ、ナガサキ」という理想で生きてきた、ということです。


         <『ありがとうのすごい秘密』中径出版>

               ・・・

「世のため人のために生きる」ということは、せんじ詰めれば、

「あなたが楽しければ私も楽しい、あなたが幸せであれば私も幸いである」

という生き方。

人は誰でも一度は死ぬが、我々がこの世を去ったとき、
この世に残せるものは、人に与えた喜びと悲しみだけ。

お金も、家も、車も、愛する人も、子供も、一緒に連れてあの世には行けない。


心に残るその人の思い出が、温かで、幸せで、楽しかったのか、
冷たくて、不幸で、楽しくなかったのか。

それは生涯に、どれだけ、人を楽しくさせたのか、
どれだけ人を幸せにしたのか、ということ。

また、どれだけ、「お先にどうぞ」と譲る精神があったのかということ。


ナガタ、ナガサキという生き方をめざしたい。

              <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

【世のため人のために】 - 伝統

2015/05/14 (Thu) 04:36:00


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年04月14日)」より

   (神職、西邑清志氏の心に響く言葉より…)

   日本全国の神社で奏上される祝詞(のりと)に
   「神社拝詞(じんじゃはいし)」があります。

   この祝詞の中にある「世のため人のために尽くさしめ給(たま)へ」
   という言葉は最も大切な言葉です。


   「個人主義」が、いま日本国内に蔓延(はびこ)ってしまっております。

   個性を大切にすることはもちろん重要です。

   ただ、個人主義というのは、「私が私が」や「自分が自分が」という、
   あくまでも自分の主張を貫き通す、いわゆる「我を通す」
   自分本位な個人主義の日本人が多くなってしまっていることです。


   「他の人よりも自分がよくなりたい」

   「自分たちだけが、よくなればいい」

   ということも格差社会の風潮を煽(あお)っているようにも思えます。


   また、他人を陥(おとしい)れたり、騙(だま)したり、
   嘘をついたり、悪口を言ったり、不平や不満を言ったり、
   愚痴を言ったりしていると、それはやがて自分に返ってきてしまいます。

   「自分は自分。他人は他人」というのは、冷たいというか寂しいですね。


   最近のお祭りでは、お神輿(みこし)を担(かつ)ぐとき
   「はい、はい」や「そいや、そいや」などの掛け声でお神輿を担ぎます。

   戦前の日本では、お神輿を担ぐときの掛け声は「わっしょい、わっしょい」でした。
   「わっしょい」とは、みんなの輪(わ)が一緒になる
   《輪が一緒になる》輪一緒い(わっしょい)なんだと。

          <『神さまへの願いの届け方』かんき出版>

               ・・・

城野宏氏が提唱した脳力開発の「変革の指針」の中に、こういう言葉がある。

「同志と協力者を一人ずつ増やしていくことが変革の過程である」


「世のため人のため」に生きる人と、
その反対の「自分の利益のため」に生きる人とがあるが、
「自分の利益のため」だけに生きる利己的な人には、同志や協力者は現れることはない。

自分のことしか考えない「利己」の人を応援する人はいないからだ。


また、「和して同ぜず」という言葉もあるように、
「和」とはただ仲良くするだけではない。

協調はするが主体性を失わず、道理に外れたようなことはしない、ということ。


誰からも好かれ応援される人は、世のため人のために動く「利他」の人。

利他の人でありたい。


              <感謝合掌 平成27年5月14日 頓首再拝>

「内部神性」の導きに従う - 伝統

2015/05/31 (Sun) 04:15:42


            *「生活と人間の再建」第4章(P62)より

内部神性の導くところの門は、せまく窄(せま)く見え、一見窮屈にみえるけれども、
その門の中はひろびろとした其処には平和と健康と幸福に満たされた楽園があるのである。

自己の快楽をねがわず、人のために愛他行をつくしているとき、
魂の法悦が得られるのは無論のこと、その法悦から来る無上の平和の心境が
やがてその事業にも健康にも反映して楽園のような具体的生活を実演し得るようになるのである。

すべての人間の幸福と不幸とは、自分自身が「内部神性」の導きに従っているか、
従っていないかによって定まるのである。

              <感謝合掌 平成27年5月31日 頓首再拝>

人類のためと思って愛他行をなせ - 伝統

2015/06/06 (Sat) 04:32:03


         *「幸福を招く365章」(P147~148)より

何事か神様の仕事を為せ。
それが神につながる道である。
それについて報いを求めてはならない。

報いを求める時、それは神様の仕事をしたのではなく、
自分のための仕事をしたことになるのである。

何事か神様の仕事をなし得ないならば、
神様の仕事を援助するような何かに献資するのも一つの神につながる方法である。

いずれも報いを求めてはならないのである。
報いのための仕事は自分の仕事であって、神の為事(しごと)ではないのである。

神の為だと思って、あらゆる仕事を為すことは最も神につながる良き方法である。
報いを求めなくても、神は必要に応じて無くてならぬものを知りたもうのであり、
必要に応じて必要な物を与えたもうのである。

ただ貴方は人類の為、神のためとばかり思って愛他行を実践すればよいのである。

              <感謝合掌 平成27年6月6日 頓首再拝>

【言葉の贈り物】 - 伝統

2015/07/05 (Sun) 04:25:09


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年07月01日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   自分の口から出てくる言葉が、温かい言葉、人を優しくする言葉、
   明るくする言葉でしかないように、自分の口から出てくる言葉を彩(いろど)りたい、
   って考えた人がいます。

   良寛和尚(りょうかんおしょう)という人です。


   良寛さん。

   この人は幕末の人で1831年に74歳で死んだんですね。

   非常に貧しい乞食坊主だって自分で言ってまして、
   自分は人に対して物やお金を贈り物として与えることが全然できない。

   でも、いつも人に対して何かを贈りたいと思っている。

   では、自分に贈れるものは何か。

   それは「言葉」である、っていうふうに言っていた人なんですね。


   自分の口から出てくるすべての言葉が、人を温かくする言葉、
   そういうものでありたいって規定をして生きてきた人だったんですが、
   この思想を「愛語(あいご)」と言います。


   私は、それを聞いてハッとしまして、
   それまで「“不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句”を言わないようにしましょう」と
   言っていたんですけど、

   良寛さんのこの話を聞いたときに、それらを言わないだけではなく、
   それをゼロにするだけではなくて、

   私の口から出てくる言葉は、はっきりとした自覚をもって、
   人を温かくする言葉、明るくする言葉、優しい気持ちにする言葉、励まし続ける言葉…
   そういうものしか、もう自分の口から出てこないようにしようって決めたんです。


   で、それを続けていくと、これまでも私は友人・知人にすごく恵まれてきましたが、
   その人間関係の厚みがもっと増した気がしてるんです。

   そういうものだけで自分の言葉を彩るって今日から決意をすると、
   人間関係が多分変わってきます。

   自分の口から出てくる言葉全部が、人を温かくするもので規定をして、
   その言葉を贈り物とする人は、豊かな人っていうんですね。


   お金や物っていうのは、あげてしまうと自分のところからは無くなります。

   でも、言葉というのはいくら出してあげても、無尽蔵に存在するものなんです。

   と同時に、それを外に出さない限りは持ってないのと同じなんです。


   言葉は、出せば出すだけ贈り物になる。
   出して初めて存在が確認されるんです。

   だから、心の中でいくら思っていても、
   それは出さなければ絶対、贈り物にはならないんです。


   「今日はそのネクタイ似合ってますね」って思ったら言ってあげる。
   「今日はそのスーツ素敵ですね」って思ったら言ってあげる。

   それが、その人を励ましたり、勇気づけたり、元気づけたりする言葉であるならば、
   全部それが贈り物になるってことです。

   で、そういう言葉を贈り物にできる人が、実は本当に豊かな人になるんですね。


   いくら出しても無尽蔵に存在するものを私たちはたくさん持っているんですから、
   独り占めはしないでくださいね。

   あなたの出す温かい言葉は、すべて贈り物なんですよ。

   たくさんの贈り物を届けてあげませんか。

         <『で、何が問題なんですか』弘園社>

                ・・・

我々は「誰かを喜ばせたい」「お礼をしたい」、と思うと、
何か物を贈らなくてはいけないと考える。

しかし、何かいいか、を考えているうちに時間が経ってしまい、
そのうち忘れてしまう、などということはよくあることだ。


人の心を温かくする一番の贈り物は、温かな「言葉」。

逆に、人をがっかりさせ、落ち込ませ、嫌な気持ちにさせるのも、冷たい「言葉」。


温かな言葉は誰も持っていて、誰もが発することができる。

しかし、だれもが簡単にできることを、
だれも真似できないくらいやり続けることほど難しいことはない。


たくさんの言葉の贈り物ができる人でありたい。

              <感謝合掌 平成27年7月5日 頓首再拝>

世界最大の美的生活 - 伝統

2015/07/16 (Thu) 04:38:30

(愛他行は)世界最大の美的生活

           *谷口雅春先生のご講話テープ「真・善・美」より

男色事件をおこしてレーディングという監獄に入れられたワイルドは、ある光景を目撃する。
腰の曲がった痩せ衰えた老人の既決囚が重い水桶をかついで、
未決囚のところへ水を配達してくる痛々しい姿を見るのである。

ワイルドは、可哀相に思い、その水桶をかついで身代わりになる。
そのときである、その痩せさらぼうけた老人が、実に嬉しそうな表情をした。

このときにワイルドは目覚めるのである。
キリストこそ世界の最大の美的生活者であることに気づくのである。

「本当の愛はいと醜きものにすらなんら報いを求めることなき
愛を注ぐことが出来なければならない。

逆境に虐げられている憐れむべき人たちに同情の涙をかき垂れ、
貧しき者や重荷を背負っているものの重荷を、
かわりに背負ってあげるような愛でなければならない。

或る色彩が美しいから愛する、その人の顔貌が美しいから愛するとか、
肉体が若々しく美しいから愛する、とかいうようなそのような感覚の世界を
超えたところの無我の愛ーーこれこそが、本当の『魂の美』であると感じたのです。

ここに於てワイルドは『キリストこそ世界の最大の美的生活者であると知った』
ということを、彼の『獄中記』に書いているのであります」

・・・

(以下は、関連として、「第二青年の書」からの紹介です)

《美的生活に就いて》

私は早稲田の文科に在学中、オスカー・ワイルドに傾倒したものであります。
オスカー・ワイルドは貴族であり、有名な作家であり、美貌であり、
金持であるので、感覚的に自分の欲するあらゆる快楽をむさぼった。

そして肉體的感覚に對して快美の感じを興えるものを「美」だとしょうしたのであります。
彼の有名な論文の中には、「色彩の感覚すら道徳を超えている」と言って、
「美」は「道徳以上のもの」という耽美主義的人生観をもっていて、
保守的な服装を好む英国人の中にあって、色彩の絢爛をきそうような、美的衣裳、
というのを着て街を歩いたりしたものです。

女出入りも無数にあり、感覚面に快感として感じられるあらゆる行為を
「美的行為」として行ったのでありますが、感覚に感じられる快美の感じは、
刺激が同じものが、繰返されると快美でなくなる。


ついに女性との交渉には何ら美的感覚というようなものを感じられなくなり、
新鮮の感覚をもとめてついに男色事件を起し、法に触れてレーディングという所の獄舎に
未決囚として拘置所につながれることになったのであります。

              <感謝合掌 平成27年7月16日 頓首再拝>

【人生でいちばん大切なこと】 - 伝統

2015/07/23 (Thu) 04:32:27


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年07月15日)」より

   (植西聡氏の心に響く言葉より…)

   ブッダ(お釈迦様)にまつわる話です。

   あるとき、弟子のひとりがブッダに、こう尋ねました。

   「人生でいちばん大切なことは、何でしょうか」

   すると、ブッダは次のように答えました。

   「あそこにいる赤ん坊を見てごらん。
   生まれて間もない赤ん坊だ。
   村人たちはみんな赤ん坊の顔を見て、心をなごませている。

   みんな微笑みを浮かべている。
   それは、あの赤ん坊が可愛いからだ。
   赤ん坊は可愛さを通して、みんなに喜びを与えているのだ。

   そう、あの赤ん坊はみんなに喜びを与えるために生まれてきたのだ。
   その使命は、あの赤ん坊が年老いて死ぬまで続く。
   つまり、人間はみんな人に喜びを与えるために生まれてきたのだ」


   赤ん坊ならではの可愛さがなくなっても、人はそれぞれの年代ごとに、
   人に喜びを与える方法がある、ということではないでしょうか。

   ブッダのこの教えは、人間のあり方の本質を突いているといっていいでしょう。

   人に喜びを与え、人から喜ばれる存在になれば、
   「自分は世の中の人から必要とされている」という実感がこみあげてきます。

   「なすべきときに、なすべきことをしている」という充実感を味わうことができます。


   それは一過性のものではありません。

   今日、人から喜ばれた人は、明日、明後日も人から喜ばれたくなるでしょう。

   そして、そう行動するでしょう。

   そうなれば、「自分は世の中の人から必要とされている」という
   自己重要感をずっと味わうことができます。

   それが幸福ということではないでしょうか。

       <『この習慣さえあればいい「幸福な心」のつくり方』講談社>

                   ・・・

ブッダは、人間はみんな人に喜びを与えるために生まれてきた、という。

つまり、人は生まれてから死ぬまでの間に、
どれだけ多く、人に喜んでもらうことをしたかどうか、を問われている。

逆に、人に悲しみを与えるような行為をすること、嫌なことを言ったり、
つらくあたったり、暴力をふるったり、いじめたり、いつも不機嫌だったり、
自分勝手だったり、悪口を言ったりすることをしていたなら、
まわりの人からは好かれず、到底、幸せにはなれない。


お金もかけずに、人に喜びを与えることは、身近にいくつもある。

それは…

やさしい言葉や思いやりある言葉を使うこと、温かい笑顔で人と接すること、
思いやりの心で人に接すること、電車などでお年寄りや体の不自由な人に席をゆずること、
感謝多きこと、などなど。


人生でいちばん大切なこと…

人から喜ばれる存在でありたい。

              <感謝合掌 平成27年7月23日 頓首再拝>

(長野)中央タクシーでの心温まるお話(その1) - 伝統

2015/07/30 (Thu) 04:41:53

(エピソード1)
~ 「お客様が先、利益は後」という理念を徹底させるための中央タクシーの取組

      *「山奥の小さなタクシー会社が届ける 幸せのサービス」宇都宮 恒久・著より

乗務を始めて2ヶ月足らずの新人さんが早朝、
長野駅へ3人連れのお客様をお迎えに上がりました。

お父さんとお母さんと小さな男の子です。
親戚の結婚式に出席するために東京からやってきたのです。

乗り込んだお母さんが乗務員さんに声をかけました。

「どこかに衣料品店があれば寄ってもらえませんか」

長野の冬の寒さを考えると、お子さんの服装はいかにも薄着でした。
靴下も薄手のものをはいています。
東京から来たお客様は長野のあまりの寒さに、
子どもが風邪をひかないか心配したのです。

しかし、早朝のこと、どのお店も開いていません。

結婚式は車で1時間かかる、さらに気温も低い山の上の教会で行われます。
開店を待っていたら結婚式には間に合いません。

式に遅れるわけにはいきませんから、
衣料品点に立ち寄るのはあきらめ、式場へそのまま直行しました。

乗務員さんはそのご家庭を無事お届けし、戻ってきます。

30分ほど走ってきたときです。
ロードサイドに今開店したばかりの衣料品店を見つけました。
乗務員さんは少しの迷いもなく衣料品店に立ち寄り、店員さんに相談しました。

「厚手の靴下がほしいんです。このくらいの大きさのお子さんです。」

乗務員さんはサイズを見間違えてはいけないと、
念のため二つのサイズの冬物の靴下を買い、
今来た道を再び山のほうへ走り始めました。

30分かけて教会に到着すると、
「どうぞ、これを使ってください。」
とお渡しし、驚くお母さんにお礼を言わせる間もなくそのまま戻ってきたのです。


<参考>

 ■仕事を伝説に変える会社


 中央タクシーは「お客が先、利益は後」を理念とし
 タクシー事業協同組合からも脱退。

 しかし赤字の多いタクシー業界において好業績を保ち
 県下売上ナンバーワンのタクシー会社です。

 他のタクシー会社の多くが売上だけを追求するところ
 中央タクシーは会社の中身の成長や進化を追求しました。

 その結果「2時間待ちでも中央タクシーしか乗らない!」
 とお客さんに言わせるほどの会社になったのです。


              <感謝合掌 平成27年7月30日 頓首再拝>

利他の行ないは、病気を予防し寿命を延ばす - 伝統

2015/08/06 (Thu) 04:24:27


【病気の予防と寿命を延ばす方法】

               *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年07月29日)」より

   (医師、鎌田實氏の心に響く言葉より…)

   イギリスのエクスター大学の研究によると、
   思いやりや無償で人のために何かすることで、

   病気を予防し、寿命を延長させ、ストレスの軽減を起こしたり、
   生活の質を向上させたり、心の健康状態を改善したり、
   身体能力を向上させたりしていることが、

   2013年8月の『パブリックヘルス』という専門誌で報告されています。


   アメリカのカーネギー・メロン大学では、
   高齢者が年間200時間以上のボランティア活動をおこなうと、
   高血圧になるリスクが40%も低下すると言う研究を発表している。


   脳内神経伝達物質の人を幸せにするホルモンとか思いやりホルモンと言われている
   オキシトシンに、血管を拡げる作用があるからです。

   相手の幸せを考える行為でオキシトシンが分泌されます。

   人のために何かすると、血圧も下がるのです。


   小学校時代に自尊心を高め、人のために役立つような行動をしている子の方が、
   高校生になった時に心身ともに健康になっているという研究があります。

   子どもたちの肥満やそれに伴う血管系の病気が増加傾向にあります。

   それを防ぐためにも、若いうちから誰かのために1%、
   相手の身になって活動すること。

   これが大事なのだと思います。


   僕達の脳の中には、人の動きや気配に同調しようとする
   ミラーニューロンという細胞があります。

   人が楽しそうに誰かのために生きていると、
   同調して、自分もやりたくなるものなのです。


   進化論のダーウィンがおもしろいことを言っている。

   「同情的な個体の多いコミュニティが最も繁栄し、多くの子孫を残す」。

   誰かのためにと考え行動する方が、利己的な集団より増殖力が強いのです。


   人間は心を持った動物だからです。
   心を持った動物だから、とっても難しい。

   心はあるけれどもケモノの一種であるので、
   人と競争して生き抜く本能をもちろん持っています。

   そういう意味では利己的な動物なのです。


   でも、「俺が俺が」と言って自分だけがよいというのでは、
   結果として幸せで健康に生きられないことが科学的にわかってきたのです。

   僕たち人類は自分を大事にして「利己的」に生きながら、
   「利他的」に生きる手法を身につけだしました。

         <『1%の力』河出書房新社>

               ・・・

人が、究極的に楽しいことや嬉しいことは、
「人に喜んでもらうこと」、「人から感謝されること」。

会社でいうなら、お客さんに喜んでもらうからこそ、それが結果として利益につながる。

しかし、自分の損得や利益を優先したときには、
会社も人間関係もいつかギスギスしておかしくなる。


人に喜んでもらったり感謝されると、自己肯定感という幸福感が増す。

自己肯定感とは、
「私はかけがえのない存在である」、「私は大切な存在である」と思うこと。

心がほのぼのと温かくなり、幸せな気持ちになる。


「思いやりや無償で人のために何かをすると、
病気を予防し、寿命が延び、ストレスが減る」

人に喜んでもらうことをし続けたい。

              <感謝合掌 平成27年8月6日 頓首再拝>

【誰かのためにがんばる】 - 伝統

2015/08/13 (Thu) 04:36:42


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年07月30日)」より

   (黒川伊保子氏の心に響く言葉より…)

   2010年10月、チリ落盤事故で地下に閉じ込められた33名が、無事、地上に生還した。
   最初の18日間は、救出が来るかどうかも分からない状態で、
   微量の食料を分かち合ったという。

   当然、葛藤(かっとう)もあり、殴り合いの喧嘩(けんか)もあったというが、
   その過酷な環境を考えれば、本当に奇跡のような生還劇だった。


   その成功を、NASAの分析者がこう評した。

   「生存者たちは、3つのグループに分かれ、
   交代で睡眠、休養、作業の時程を規則正しくこなした。

   作業中のグループは、他のグループを見守ることが仕事で、これが良かった。
   人は、他人の心配をしているときが一番強いからだ」


   この意見に、私は「なるほど!」と声に出すほど、強く共感してしまった。

   前々から、冬山で奇跡のような生還をする登山者の多くが、
   仲間をかばって、よりいっそう過酷な状況にいたことに気付いていたからだ。

   足を怪我して動けなくなった仲間に、自らの防寒ジャケットを与え、
   その上に覆(おお)いかぶさり、セーターのまま吹雪の中にいた…なのに、
   二重の防寒着の中にいる仲間の方が凍死して、風を背で受けてかばっていた方が生還する、
   なんていう話を聞いたのは、一度や二度じゃない。

   そうまでして仲間を失った無念さを思うと胸が痛くなるが、
   おそらく、この生還者は「仲間を命がけでかばった」おかげで、
   免疫力が何倍にもなって、生き残る奇跡が起きたのだろう。


   人はやはり、自分を被害者に見立てて怯(おび)えているときよりも、
   誰かをかばうために闘っているときの方が、何倍も強いのだと思う。

   そう考えれば、かばう人がいる人はしあわせである。

   人生のどんな苦労も、大切な誰かのために乗り越える方が、
   自分のためにがんばるより脳は何倍も楽なのだから。

   常に、相手目線で考えること。

   それは、運気上昇に欠かせない、大事な生きるコツなのである。

   ことわざの「情けは、人のためならず」には、
   そんな意味合いも含まれているのかもしれない。

         <『運がいいと言われる人の脳科学』新潮文庫>

                ・・・

「誰かのためにがんばる」とは、
誰かに「笑顔になってもらいたい」「喜んでもらいたい」と思ってがんばること。

誰かとは、家族、友達、同僚、自分を支えてくれるスタッフや仲間たち…。


人は、誰かへの「思いやり」を持っているときに一番幸せを感じるという。

思いやりとは、なんの見返りも求めず、相手のことを気遣うこと。


スポーツの試合などでも、「自分のためにがんばる」と考える人より、
「両親のため」、「妻や子どものため」、「一緒に頑張った仲間のため」、
「入院している友人や子どものため」と思って試合にのぞむ人の方が圧倒的に力を発揮できる。

「情けは、人のためならず」

誰かの笑顔のためにがんばる人には限りない魅力がある。

              <感謝合掌 平成27年8月13日 頓首再拝>

(長野)中央タクシーでの心温まるお話(その2) - 伝統

2015/08/20 (Thu) 04:39:47


(エピソード2)
~ 「お客様が先、利益は後」という理念を徹底させるための中央タクシーの取組

      *「山奥の小さなタクシー会社が届ける 幸せのサービス」宇都宮 恒久・著より


ある乗務員さんがお客様のお宅へお迎えに上がりました。
若いお母さんを乗せて幼稚園まで向かいます。
幼稚園でお子さんを拾い病院まで乗せて行きました。

タクシー代を支払うときになって、お客様が自分の財布がないのに気がつきます。
服の中にもカバンの中にもありません。
お客様の座っていたシートの上や足元にも見当たりません。

困った表情のお母さんに、乗務員さんは優しく声をかけました。

「お支払いはいつでもかまいませんよ。明後日にでもいただきに上がりますから」

そう言い残してお別れしましたが、
その乗務員さん、財布のことがどうも気になって仕方ありません。

そこで乗務員さんは車を停め、
後部シートを全部取り払って財布が落ちていないか探してみました。

もしかしたら車の外で落としたのかもしれません。
そう考えた運転手さんは今来た道を戻ります。
途中、立ち寄った幼稚園はどうか。

残念ながらタクシーが止まった位置には落ちていませんでした。

(そういえばお客様は幼稚園の園庭を往復していたな)
それを思い出した乗務員さんは園庭にも足を向けました。すると・・・。

ありました!

奇跡的に財布が落ちていたのです。

乗務員さんは急いで病院に戻って財布をお渡ししました。

              <感謝合掌 平成27年8月20日 頓首再拝>

【自分のための利は一番最後】 - 伝統

2015/08/31 (Mon) 03:16:10


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2011年11月01日)」より

   (北川八郎氏の心に響く言葉より… )

   上に立つ人間が一番に身に付けるべき覚悟は、
   「自分のための利は一番最後」に取るという点です。

   ある人の例ですが、その方はある温泉旅館の旅館組合の組合長をした人です。
   その方は頭が良く、ひらめきも多い、あらゆることを上手に利用するタイプだったのです。

   旅館組合ではいろんな事業や、行事をします。
   例えば温泉町案内のチラシとかを作ります。

   そんな時彼は、つい、チラシの一番目立つ、いい場所に
   組合長である自分のお店を載せてしまう。
   あるいは、町内全体で掃除をする時は、まず、自分の店からスタートさせるとか。

   組合長になったら、あらゆることに関して自らその地位を利用して、
   つい、自分が一番最初に利を取ってしまうのです。

   その人は個人的にはとてもいい人柄なんですけどたちまち信用を失ってしまいました。
   自分に、利を一番に取るからです。

   上に立つ者としての覚悟がなったのでしょう。


   公の上に立った者は、他の人に先に利を取らせて、
   自分は一番最後に利を取る心がないといけません。

   そうすると、人から信用されて、いつかは、大きな利が必ず巡ってくるのです。

   ただ名誉を求めて公職についた人は、
   それが解らず小さな利を拾って信用を失っていくのです。

   あらゆる社会に共通して言えることは、
   偉くなったらどんな時でも一番最後に自分の利を取ることです。

   小利こそ信という大利なのです。

             <『繁栄の法則』致知出版>

                ・・・

会社もそうだが、PTAや、学校のクラブ活動、町内会など、
組織のトップになったとき、評判がガタ落ちになる人がいる。

上に立つ覚悟がない人だ。

トップが、お腹が減ったからとまっ先に食事をしたり、
疲れたからと誰より先に休憩をとったりする姿は、周りの皆から見られている。


「ノブレス・オブリージュ」という言葉は、
「位高ければ徳高きを要す」という意味だが、上に立つものには責任が伴う。

上になればなるほど、また、その公共性が強ければ強いほど、
自分の利は最後にしないと、人はついていかない。


「先義後利」の教えの通り、義を先にし、利は後まわしにすることだ。

「自分のための利は一番最後」

時にはたとえ、やせ我慢であろうと、欲や我を捨て、自分の身を律して、
まわりの人の利を先に考ることが必要だ。

              <感謝合掌 平成27年8月31日 頓首再拝>

(長野)中央タクシーでの心温まるお話(その3) - 伝統

2015/09/09 (Wed) 04:41:37


(エピソード3)

例えば、旅行で長野県に来た夫婦を乗せた中央タクシーの運転手がいました。

運転中、旦那さんが車酔いをして車内でもどしてしまいます。

車内で着替えて、汚れた服は臭いがきついので、
袋に入れてぎゅっと縛りました。

ホテルに着くと、夫婦は申し訳ないがその服の入った袋を
捨てておいてくださいと運転手に頼みました。

ふつうのタクシーなら、臭いもきついですし、
汚れた服の入った袋はすぐに捨ててしまうでしょう。

しかし、中央タクシーのその運転手は、
旅行に着てきた服だから、きっと気に入ったものに違いないと考え、
コインランドリーに行ってその洋服を綺麗に洗ってたたみました。

そしてホテルに届けに戻ったのです。

その間、1時間以上。
コインランドリー代の千円も自腹です。

しかもそれを会社に戻って、自慢げに話すわけでもありません。
当たり前のこととしてやっているのです。

社長は感動したお客様からのお便りでこの話を知ったそうです。

              <感謝合掌 平成27年9月9日 頓首再拝>

愛他心は自己の病を癒す - 伝統

2015/09/17 (Thu) 04:54:35

          *「生活の智慧365章」(P132~133)

九州の鹿児島だか宮崎だかの講習会で、こんな体験談を述べた人があった。


一所懸命、自分の結核を治したいと思って神想観と祈りとを続けていたが、中々治らなかった。
或る日、彼は神誌を読んでいるうちにふと気がついたのであった。

「自分は自分の病気を治すことばかりを念じて神想観をしていたが、それは一種の利己心の
表現でしかなかった。利己心を去ったとき、其処に神の救いがあらわれるのである」

そう考えてこの人は、もう自分の肺結核を治そうと云う考えを棄ててしまった。

そうして神想観をするときには主として”世界平和の祈り”を念じたのであった。――

「神の無限の愛、われに流れ入り給いて、われに於いて愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い、全(すべ)ての人類の心に愛と平和の思い
を以って満たし給うのである。」

この祈りを毎日つづけていたが、或る日ふと気がついて見ると肺結核が完全に癒されて
いるらしいので、医師にレントゲン検査をして貰ったが、
結核の痕跡は全然消えてしまっていたのであった。

              <感謝合掌 平成27年9月17日 頓首再拝>

【まず先に人を喜ばすこと】 - 伝統

2015/09/25 (Fri) 04:44:15


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年08月01日)」より

   (書店「読書のすすめ」店主、清水克衛氏の心に響く言葉より…)

   「あの女優さんって、キラキラしてて、すごいオーラがある。魅力的だよね」
   なんてことよく言いますよね。

   そういう、人をひきつける魅力っていうのは、
   どうしたら身につけることができるんでしょう?


   その方法は、ズバリ…

   「人を喜ばせること」

   たったこれだけなんです。


   ちょっとその仕組みってのをご説明しましょう。

   人間は誰しも「良心」を持っています。
   これがとってもよくできていて、
   「人を喜ばせたら、自分もうれしい」っていう仕組みになっているんですね。

   で、この良心の方向にしたがって、どんどんどんどん人を喜ばせるんです。

   家族、友達、会社の上司、同僚、恋人…、そうすると自分もうれしいですから、
   心がだんだん豊かになってきますね。

   心が豊かになると、どんどん人は輝いていきます。

   すると、人を喜ばせた数がたまってたまって、ある時それがふわっと外側にあふれ出す、
   そのあふれ出た輝きが、人をひきつけるオーラになるという訳なんです。

   俳優さんや、コメディアン、スポーツ選手の方々は、
   テレビなんかをとおしてたくさんの人を喜ばせているでしょう?

   だから、オーラがすごいって言われるんですよね。


   でも、ふつうの人も同じです。
   周りの人をどんどん喜ばせる生き方をしましょう。
   あなたの良心が喜んで、どんどん輝きが増してきますよ。

   でも、こんなお話をすると、「人を喜ばせる」なんて、むずかしくてできない、
   どうやったら人を喜ばせられるかわからない方が、なぜか続出しちゃうんですね(笑)。

   人を喜ばせるのって、とっても簡単なんですよ。

   そんなこと、本にわざわざ書かなくってもいいって言うくらい、当たり前のことばっかり。


   たとえば「いつもニコニコしていること」。
   たったそれだけのことでも、本当にそれができている人は、
   それだけで、とっても魅力的でしょう?

   皆さんはね、もっともっと本気で「モテる人」になりましょうよ。

   商人っていうのは、同じお客さんに、何度も何度も足を運んでいただくために、
   どんどん「人を喜ばせる」知恵をしぼっていくんです。

   これが「あきんど感覚」なんですね。


   「まず先に人を喜ばす」

   あきんど感覚で一番大事なポイントっていうのは、この「まず先に」、これなんです。

   タネまきと一緒ですよね。

   自分から先に「喜び」を配ること。

   なのに、タネもまかないうちから「収穫しよう」ってことばかりに気をとられてしまう
   サラリーマンの人ってけっこう多いんですよ。

   逆なんですよね。

             <『まず、人を喜ばせてみよう』プレジデント社>

                 ・・・

「『人を喜ばせる』って、言っていることは間違ってないし、すばらしいことだと思う、
だけど、それを実行するって難しいんだよね、忙しいし、そんな余裕ないし」と言う人がいる。

否定から入る、はなから、やる気のない人だ。

すばらしい、と思うならまず、日常できる小さなことを探して行動すること、
これしか自分を変えていく方法はない。


「人を喜ばせる」方法はいくつもある。

『笑顔』 やさしい笑顔とまなざし。

『言葉』 あたたかい言葉、思いやりあふれた言葉、感謝の言葉。

『行動』 車で道を先にゆずること、先にゆずってもらったらお礼を言うこと、
     まわりのゴミを拾い掃除をしてきれいにすること、電車やバスで席をゆずること、
     人がいやがることをすすんでやること。

『心』  思いやりの心や人の痛みを感じ取れるやさしい心、
     ともに喜びともに悲しむことのできるあたたかな心。


「まず先に人を喜ばすこと」

喜びのタネをまけば、いつかそれが実り、キラキラと輝く人になる。

              <感謝合掌 平成27年9月25日 頓首再拝>

「客家の法則」 - 伝統

2015/10/08 (Thu) 04:28:33

「客家(はっか)の法則」~良いことはどんどんシェアしよう!

           *『ギブ&ギブで上手くゆく』志賀内泰弘・著より

中国南部には、昔、北方民族が攻めてきた際、難を逃れて南部にやってきた、
客家(はっか)という民族が住んでおり、彼らは、かつて中国全土を支配していた
漢民族の末裔(まつえい)といわれているそうです。

彼らは、イタリアのコロッセオのように円形の外周部分が3~4階建てになっていて、
中庭の見下ろせる高層筒型アパートのような形の特殊な建築様式の家に暮らしており、
各階に何件もの家族が住んでいます

(建物の様子がよくわかる写真はこちら
 → http://yasutabi.sblo.jp/article/43671685.html)。

そのため、入り口を閉じると外敵が進入できず、建物の内部では、
長期にわたって篭城できるよう豚や鶏などの家畜を飼っています。

遠い祖先たちが他民族に追われて南下したという歴史が、
このような強固な閉鎖社会を作り出したのではないかということです。

しかし、その反面、国家主席など有能な多くの人材も輩出している優れた民族でもあるとか。

以前、客家の長老がテレビ番組のインタビュー取材を受けた際、その秘訣として

「隣の人に親切にしてもらっても、その人にお返しをしてはならない。
右隣の人に親切にされたら、反対の左隣の家の人に親切にしなければならない
という教えが伝わっているからだ」

と答えたそうです。

彼らは円形ドーム状の建物に住んでいるため、それを続けていくことで、
いつの日か回りまわって自分に還ってくるのです。

そういう生き方をして偉人を輩出してきたのだそうです。

「与えたものが還ってくる」「還ってくるからやる」というのは、
一見偽善的かもしれませんが、それでもやらないよりずっといいのではないでしょうか。

そして何よりも重要なのは、その行動を起こしたことではないでしょうか。

誰かに親切にしたことや、
何か自分が出したことで、
誰かが元気になったり、
希望を持つようになったり、
勇気を与えたり……。


そんな様子を見聞きした時、私たちの心の中は喜びでいっぱいになりませんか? 

私たちも人生最強のエネルギー法則を大いに活用して、
良いことをどんどん周りにシェアしていきましょう!

              <感謝合掌 平成27年10月8日 頓首再拝>

「お父さんの話」 - 伝統

2015/10/15 (Thu) 03:57:35


           *『ギブ&ギブで上手くゆく』志賀内泰弘・著より

僕は小学校の5年生です。ツトムといいます。
お父さんは、僕に勉強のことはあまりうるさくありませんが、
いつも繰り返し言うことが一つだけあります。

それは、「ギブ・アンド・ギブだよ」というものです。

お父さんは、「ギブ」とは英語で「与える」という意味だよ、 と教えてくれました。
「与えて、また、与える」・・・わかったような、 わからないような。

なんとなく、「困っている人に寄付をしよう」というような意味かな、 と考えていました。
学校の児童会で、赤い羽根の募金運動をやっていたのを見たからです。
僕もお小遣いから50円を募金しました。

その晩、お父さんに「今日、ギブ・アンド・ギブしたよ」と報告したら、
「よかったね」と言ってくれました。そして、こう言いました。

「ギブ・アンド・ギブは、お金だけじゃないんだよ。  
白い杖をついている人を見かけたら、『お手伝いしましょうか』と声をかけるとか、  
公園に落ちている空き缶を拾うとか」

それを聞いて、ちょっと困ってしまいました。
とてもそんなことはできない、と思ったからです。

正直にそのことをお父さんに言うと、
「もっと小さなことでもいいんだ。ほかの人に喜んでもらいたいという生き方だね」
またまた、わかったような、わからないような。

ある日のことです。近くのスーパーにチョコを買いに行きました。
レジで並んでいると、僕の前に並んでいた怖そうなお兄さんが、
「おい、ボーズ!」と見下ろして声をかけてきました。

サングラスをかけ、耳には金色のピアスをしています。 ドキドキしていると、
「チョコ1個だろ、先に行けよ」
と言いました。

緊張していたので、 とっさに何を言われたのかわからなかったけれど、
そのお兄さんに背中を押されて順番を交代してもらったとき、
なんだか嬉しくて身体が熱くなりました。

お兄さんのカゴは山盛りいっぱいでした。
僕は小さな声で、「ありがとう」と言うのが精一杯でした。

そのとき、わかったのです。
ギブ・アンド・ギブっていうのは、 「自分がしてもらったら嬉しいこと」を
人にもしてあげることじゃないかなって。

難しい算数の問題が解けたときのように、なんだか心がスッとしました。

その日から、「してもらって嬉しいこと」探しを始めました。
すると、びっくりするほどあったのです。

となりの席のイチローは、僕が消しゴムを忘れたので貸してくれました。
2階の教室の窓際でふざけて遊んでいて、ノートを下へ落としてしまったとき、
下を歩いていた6年生の男子がわざわざ届けてくれました。

その日の給食の時間のことです。
前の席のアヤコがミートボールを 床に落としてしまいました。
コロコロッと転がりました。
僕は、たまたま持っていたポケットティッシュでつまんで拾ってあげました。

服も少し汚れたみたいだったので、
「これで拭けよ」と残ったティッシュを 差し出しました。
べつに、アヤコのことが好きでもないし、 気に入られたいわけでもありませんでした。
でも、こうしたら喜んでくれるかも、と思ったのです。

その晩、お父さんに今日あったことを話しました。
「大人の世界ではよくギブ・アンド・テイクと言うんだけど、  
ギブ・アンド・ギブはず~っと助けっぱなしなんだ。  

ツトムはそのアヤコって子に気に入られたいわけじゃないって言ったよな。  
そういう気持ちから出た行いをギブ・アンド・ギブって言うんだよ」

そして、そのお返しを期待しない小さな親切をする人のことを
「プチ紳士」と呼ぶのだとも教えてくれました。

もしも、世界中のみんなが、同じようにギブ・アンド・ギブしたら
スゴイことになるなぁ~と思いました。
きっと、戦争なんて無くなってしまうでしょう。

その日から毎日が楽しくなりました。
「プチ紳士」を探しているうちに、 人の良いところばかりに目がいくようになったのです。
すると、周りにいる人がみんな「いい人」に見えてくるようになりました。

この発見も今晩お父さんに話そうと思っています。

    (http://www.giveandgive.com/iihanashi_top/yakudachi/vol_0345.html

              <感謝合掌 平成27年10月15日 頓首再拝>

本間俊平~草鞋(わらじ)の話 - 伝統

2015/10/23 (Fri) 04:06:05


          *「生命の實相」第7巻生活篇(P207~208)より

それならわたしは本間俊平氏の話をしよう。

氏はある時無一文で何物も持たずにある所を徒歩で旅していられたことがある。
その時氏はふと「今自分は何も無い。しかしこんな時でも他にささげる生活ができるであろうか」
とこう考えつかれた。

ちょうど雨の降っている田舎道のこととて、はき切れた草鞋(わらじ)が、
おうおうあちこちに脱ぎ捨ててあるのである。
中には片足だけは切れていないが、一方が切れているために両方とも脱ぎ捨ててあるのがある。

本間俊平氏は切れていない方の片足の草鞋を付近の小川で洗って肩にかけて歩まれた。
片足ずつ拾っているうちに十数足のまだ切れてない草鞋が揃ったのである。

それを草鞋が切れて困っている人たちに「貰ってください」と言われると
非常に喜ばれた。相手が喜べば本間氏も喜ばしかったのは当然である。
それは自分の生活が「自分」という殻を破って他にまで拡大した喜びである。


諸君ははいかなる場合にも他に捧げるなんの力もないとは言えないのである。
諸君ははたしてこの本間氏のように草鞋を持ち上げるだけの力もないであろうか。

他(た)に深切をするとか、他(た)にささげるとかするには
決して目立つハタラキをしなければならぬということはないのである。

目立つハタラキや大きな慈善事業の動機には、ややもすれば、
他(た)より高くのぼって他を見下して快哉を叫びたい
悪魔の心が宿っていることがあるのである。

諸君のもっているものがいかに小さきものであろうとも、
それを献(ささ)げるとき無限に大きな献げ物になるのである。

これは神秘の愛の魔術的力である。

「我(が)」の小さな殻が破れて無限の天地が開けるからだ。

聴け、今かくして新天新地の開ける音を。

これこそ本当の生長の家の生活であるのである。


              <感謝合掌 平成27年10月23日 頓首再拝>

成功とは与えること - 伝統

2015/11/01 (Sun) 04:47:46

[情熱思考] 成功とは与えること

          *Web:「青い嵐」(2011-09-08) より

父親が事業で失敗。

少年は12才から 学校に行かず、紡績工場で働くことに。
何度も転職を繰り返し、電報配達の仕事に。

電報局で彼はモールス信号を耳で聞き分ける特技を身に付けた。
この特技によって鉄道会社に引き抜かれた。

彼は高い地位に就いた。

ある発明家は 彼に寝台車のアイデアを持ちかけ、これが大成功を収める。

戦争が始まると鉄道会社で軍の輸送を支援した。

戦争終結後、彼は会社を辞め、事業家を目指した。

当時、鉄道の橋は木製が主で、彼は耐久性に優れた鉄製の需要を予測し、会社を設立。

さらに鉄鋼が鉄道のレールや建物に使われることを予見し、
製鉄事業の拡大に力を入れ、大成功を収めた。

彼の名は

アンドリュー・カーネギー。

人は彼を鉄鋼王と呼んだ。

しかし、彼は誰もが羨むその人生を成功しているとは思っていなかった。

なぜなら、鉄鋼王と呼ばれていた頃、
彼は自分の会社の従業員が劣悪な労働環境で働いていたことに気付いた。

そして彼自身、自分が金の亡者になっていることに気が付いたからだ。

「金持ちのまま死ぬのは、恥である」

彼はそう決断し、66才で鉄鋼会社を売却すると、以後は慈善活動に人生を捧げた。

大学や文化施設、

2,811箇所もの図書館を作った。

彼が83才で生涯に幕を閉じたとき、

前年までに寄付した総額は3億5069万ドルに達したと言われている。

家族には、庶民並みの遺産しか残さなかった。

「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ」


成功とは、何を持っているかではなく、何を与えたか。

人生の秘訣は、与えること。

与えるものは、豊かになる。


    (http://www.webrush.net/samansa-2/p_2011090810455604326

              <感謝合掌 平成27年11月1日 頓首再拝>

愛他行のよろこび - 伝統

2015/11/11 (Wed) 04:41:49

             *「生活と人間の再建」第12章(P155~157)より

ユニティー教校(スクール)のある雑誌にかいてある婦人にも
それに似たような実例がかいてある。

非常に富裕な一婦人があったが、彼女は絶対に必要に迫られない限りは一文も
人に与えようとしないで収入の全部を貪欲につかんでいることにしていた。
その結果が彼女の生活に具象化したというのである。

彼女の体(からだ)は見苦しく湾曲し関節は曲がったまま動かなくなって、
それは利己的につかんでいる自分の心の状態を現わしていた。

このような状態でこの婦人は数年間苦しんだが、ユニティーによって真理を教えられ、
そのつかみをはなして与える性格を回復したその時彼女の健康も回復したと
書いているのである。

与えるということは他の人を愛するという心の現われである。
多く愛するもの程多く与えるのである。
与えること少なきものは利己主義であって、他(た)を愛していないのである。

最初どんなに利己主義の人であっても、まず意志の力を用いて与えることを試みよ。
すると与えられたる人の喜びが自分に反映してかえって来るのである。
与える喜び、愛する喜びが体験されて来るのである。

そして一度行なったことはやがて習慣性となり、与えることの喜びがくりかえされる
ようになれば、やがて受ける分量も多くなり、次第に人生に生き甲斐を覚える
ようになるものである。


以上のべたる如く「与える」といっても必ずしも形あるものでなければならぬことも、
大いなるものを与えなければならぬことでもなく、一寸した深切、一寸した鼓舞激励、
一寸した賞め言葉、失意の時の慰め、小さなプレゼントや愛の手紙、1個のキャンディー
を子供に与えることでも、すべてこれらは神から与えられた無数の恵みを次に
おくることになるのである。

こうした小さな深切な行ないが隣人と自分とを本当の兄弟のように仲よくし、
人間と人間との間に生活している喜びを感ぜしめることになるのである。

イエスはその生活にその模範を示し給うたのである。

「吾は人に仕えられんがために来たれるに非ず、人に仕えんが為に来たれるなり」

と彼はいっているのである。

吾々は常にサービスの精神に生きなければならない。
しみじみした同情の心、愛のまなざし、会って嬉しいという表情、
去り行く人の後(うしろ)から「あの人が幸福であれかし」と祝福の祈りを
捧げる気持ち、これらは実に目立たない大いなるおくりものである。


仏教でも悟りに到る道として六波羅蜜ということがあげられる。
その中に布施というのがあるが、これが即ち与えるということである。

その布施の中(うち)にも「物施」といってものを与えるのと、
「法施」といって精神的な真理のおくりものを施すのとがあるが、
「物施」よりも「法施」の方が貴(とうと)いとされているのである。

だから物がなくても精神的な与え物をすることはできるのである。

精神的おくりものの中にも特に大切なものは真理を施すということである。
真理を知れば、健康も、富も、喜びも、調和も、凡ゆる善きものが得られるのである。

だから諸君はまず何も与えるものがなくとも
真理を伝えるようにすることが大いなる「与えもの」となるのである。

              <感謝合掌 平成27年11月11日 頓首再拝>

「ギバースゲイン」(与えたものは、返ってくる) - 伝統

2015/12/21 (Mon) 04:29:16


     *「なぜ、追いつめられたネズミはネコに噛みつくのか?」溝口耕児・著より

(1)アメリカの大富豪たちを支えている考えが「ギバースゲイン」です。

   「与える人は、多くを得る」ということ。 
   つまり「与えたものは、そのまま返ってくる」という法則です。

(2)「みんなが幸せになってこそ、自分も幸せになる。
   あなたが幸せなら、周囲の人に幸せを分け与えなさい」というものです。

 
(3)「ギバースゲイン」の根底にある考え方は

   「みんなが孝せになってこそ、自分も幸せになれる」

   「あなたが幸せなら、周囲の人に幸せを与えなさい」というものです。


              <感謝合掌 平成27年12月21日 頓首再拝>

《吾々は何か必ず与え得るものを有(も)っている》 - 伝統

2015/12/28 (Mon) 04:55:20


           *「生活人間の再建」第12章 無限供給を受くる道(P199)より

「私は与えようにも、何ももっていません。私は貧乏なのです。
私は人に与えるようなものは絶対に何もないのです。」
という人があるかも知れない。

然し少なくとも神の生命(せいめい)を受け神の供給を受けている所の人間が、
何一つ与えるものがないというようなそんなことは絶対にあり得ないのである。


人に与えよといっても必ずしも金のことではないのである。
又何か大きなものでなければならぬことでもないのである。

どんな小さなものでも、亦それが形あるものでなくとも、
吾々は真心からのおくりものを与えることができるのである。

吾々は人々ににこやかなほほえみを与えることもできるのである。
亦やさしい言葉を与えることもできるのである。
読み終った光明思想の雑誌や書籍を貸してあげることもできるのである。

病人を訪問してなぐさめの言葉をのべ光明思想で元気づけて
あげることもできるのである。

庭や道ばたに生えている一(ひと)もとの草花を
愛情のシンボルとして与えることもできるのである。
雨が降っている時に、傘の半分に人を入れてあげることもできるのである。

ある人はいつも袂(たもと)の中に細紐を入れて置いて、
鼻緒の切れて困っている人にその鼻緒をすげかえてあげたという美談もある。

どんな小さな与えものでも真心から、
人々を幸福にしてあげたいという切実なる願いからのおくりものであるならば、
それは虚栄心で行われている大いなる慈善よりも尚価値があるのである。


              <感謝合掌 平成27年12月28日 頓首再拝>

【他人のために祈る】 - 伝統

2016/01/06 (Wed) 03:31:38


          *あるfacebook(2013年8月21日)より


アメリカの研究でこんな実験がありました。

末期がん患者を無作為に選んで、AとBの2つのグループに分けます。


彼らから遠く離れたところに住む10人の健康な人に、
Aグループの患者さん10人の名前を伝えて回復を祈ってもらいます。

Bグループの患者さんには、まったく何もしません。


その結果は、驚くべきものでした。

祈ってもらったAグループの患者さん(自分が祈ってもらっているとは知らない)は、
あきらかに回復率が高かったのです。


祈っている人は、相手が誰かも知らないし、
祈ってもらっている人は何も聞かされていないにもかかわらず、です。

何回実験しても、またニューヨークの病院の患者さんでも
ロサンゼルスの病院の患者さんでも、同じ、という結果になりました。


祈りの効果には、距離も関係がないことがわかったのです。


現代の科学では、そのメカニズムはまったく解明されていませんが、
その効果は、科学的に証明できたわけです。


それほどまでに、祈りには力があるのです。


私がおもしろいと思ったのは、

祈るほうもたいして信心深い人ではなく、

特別に気合いをいれて(!?)祈ったわけでもないのに、

効果があったという点です。


キリスト教や仏教の熱心な信者でなくても、
自分の祈りの効果を信じていなくても、効いたというのですから驚きです。


自分のために祈っても
無心の状態にはなれませんが、

誰か自分よりも大変な人を思い浮かべて
祈ってあげると、一生懸命になれます。


あなたよりも経済状態が悪かったり、
病状がひどかったり、
人間関係に苦しんでいたりする人のために、
ぜひ祈ってあげてください。


そういう人が
まわりに思い浮かばない人は、

外国で戦争やテロの犠牲になったり、
食べ物を満足に食べられない
子どもたちのために

祈ってあげてください。


すると、不思議なことに、
心が安らかになってきます。

無心になって人の幸せを祈ると、
自分にもそれが返ってくるからです。


愛は、差し出すことで、
いくらでも自分の中から湧いてくるという
不思議な性質を持っています。


でも、相手からその見返りが欲しいと思った途端、
愛が返ってこないと感じてイライラしたり、落ち込んだりします。

欲しいと思うと手に入らないのに、
他人にあげようと思った途端に手に入るとは、ユニークな仕組みです。

人間の心に、この仕組みがプレインストールされているのなら、

宇宙の摂理がそうなっているのかもしれません。


もし神様がいるとしたら、
ユーモアのセンスがありますね。


「与えるものは、与えられる」 のです。

     (https://www.facebook.com/kazuaki.saitou.3/posts/434551489996319

              <感謝合掌 平成28年1月6日 頓首再拝>

真理を若い人に与えよ - 伝統

2016/01/13 (Wed) 04:46:17


          *『生長の家』誌(昭和47年3月号)より

“真理”を学ぶということは、有限の世界にあって無限の生命を自覚する道であり、
病者にとっては健康への道であり、貧しき人には富への道であり、富める人には
高貴への道であり、悩める人には解脱の道であり、縛られたる者には自由への道である。

それ故に、イエスキリストは 「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」 
と訓えたのである。 

仏教では真理を覚って一切の束縛から解脱し得た者を“仏陀”と称したのである。 
涅槃経には「解脱をもって仏となす」と示されている。 

人間が「本来、仏」という場合には、人間は「本来、解脱の当体であり、
本来、完全自由なる実相を備えている」という意味である。 
解脱は煩悩の愛を脱する智慧である。

 
真理は幽玄であり、その底はいよいよ深くして進むにしたがってその深さを増し、
味わいを増すのである。 
禅語に「悟ったと思ったら迷っているのである」といわれているのはその為である。

真理は奥深く分け入るに従って光を増す。 
更に深く進むに従って、更に輝きを増す。 

振り返ってみれば、先に、明るく見えた光は、今ある光とくらぶれば「暗い」のである。 
その「暗い光」をもって「完全な悟りを得た」などと思っているから
「悟ったと思ったら迷っているのだ」と一喝されるのである。

 
真理は、それが通用すること、貨幣が通用するのと似ている。 
貨幣はそれを壺の中に入れ土中に埋めて置いたのでは、
その価値を発揮することはできない。 

一燈園の西田天香師は、銀貨を土中に1年間埋めて置いて、
1年後にそれを掘り出して見たら、それが少しも増殖していないことを発見した。 

それで天香師は、金を単に資本として投下しているだけで、
それに利子がついて儲かるという資本主義経済が間違いである
ということを発見したといわれたことがある。

賢者は、人が“当り前だ”と看過してしまうような単純な事象にも深い意味を見出すのである。 
併し又、別の賢者は、その同じ事象を見て、また別の深い意味を見出すのである。

貨幣を土中に埋めておいてそれが増殖しないのは、それは唯埋蔵するだけであって、
与えて人の便宜に供することをしないからである。 

「与えて人の便宜に供する」ということは“愛”である。 
貨幣はそれを与えて人の便宜に供するとき増殖する。 
与えるは愛である。 愛によって、ものは増殖するのである。

“真理”も、自分が“もう悟った”と思うだけでそれを筐底又は心底に埋蔵している
だけでは増殖もしないし、人の役にも立たないのである。 
あなたは自分が得た“真理”を次へ次へと他に与えなければならない。 

あたえる事によって真理は減るのではなく、
愈々その悟りは向上し、功徳は増進するのである。

真理は、これを少青年に与えれば、それは男性にしろ、女性にしろ、
人生の意義を知り、自分の生命を尊ぶようになり、従ってその行いが清浄となり、
真面目に生きるようになり、生命の本源を知り、従って神を尊び、祖先を尊敬し、
父母を本当の意味に於いて愛するようになるのである。

生長の家で中学生、高校生、大学生等、少青年の練成会が各地の拠点で催されるのであるが、
その練成会で真理をその精神に注ぎ込まれた若い人たちがどのようにその生活が真面目になり、
祖先を礼拝するようになり、親に深切を尽すようになるかの事実を見るとき、
真理の自覚が如何に人の生活に影響を与えるものであるかを如実に知ることができるのである。

それ故に真理を若い人たちに与えることは
その人一生の生涯にどんなよい影響を与えることになるか、
まことに測り知れないものがあるのである。

仏教の「悟りに到る6つの道」である六波羅蜜の冒頭にある“布施”は「与える徳行」のこと
であるが、その与えるのは何を与えるのが最高の徳行であるかというと「真理を与える」のが
最も高い徳行であるとせられているのもこのためである。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/613c14986ebefc9be549e0a9f8e7b9e1 より転写)

              <感謝合掌 平成28年1月13日 頓首再拝>

【人間は与えることによって大人になっていく】 - 伝統

2016/02/03 (Wed) 03:51:28


           *メルマガ「人の心に火を灯す(2016年01月30日)」より

   (曽野綾子氏の心に響く言葉より…)

   好意や援助を受けることやもらうことばかりを求めている人は、
   どこまでいっても満足感を得られず、永遠に心の平穏を保てないと思います。

   なぜなら、人は受けている時は一応満足するけれど、
   次の瞬間にはもっと多く、もっといいものをもらうことを期待します。

   心は「もっと欲しい」と叫び続け、いつまでも飢餓感に苦しめられることになりますから。


   しかし不思議なことに、自分が与える側に立つと、
   ほんのちょっとしたことでも楽しくなるものなんですね。

   相手が喜び、感謝し、幸せになれば、こちらの心はさらに満たされます。


   人間は与えることによって大人になっていく。

   赤ちゃんの時は、おっぱいをもらって、おしめを替えてもらって、
   何もかもしてもらうでしょう。

   それが小学生くらいになると、少しは家事の手伝いをしたり、
   母親の荷物を持ってあげたりするようになる。

   社会人ともなれば、給料で親に何か買ってあげたり、たまに旅行に連れ出したりする。

   そうやって、年をとるにつれて与えることが増えて、
   壮年になれば、ほとんど与える立場になるわけです。


   日本でも戦前は、妹や弟の面倒を見たり親の手伝いをしたりする子供はいくらでもいました。

   子供が家の仕事を手伝うというのは、子供の成熟を促すし、
   子供に人生というものを理解させる上で非常に役立つ方法だと思います。


   アフリカでは、栄養失調の子供ですら、家族を助けています。

   1日に1食しか食べられないような地域で、修道会のシスターたちが
   栄養失調児のために炊き出しをしているところがあるんですね。

   大釜で穀物を煮て、そこに魚の粉とか芋虫の干したものとか
   栄養になるものを入れて、お粥(かゆ)をつくる。

   配給の時間になったら、そこに子供たちがお皿をもって集まってきます。

   その中に、赤と白と水色の縦縞(たてじま)模様の
   大きなビニール製の買い物袋を手にした9歳くらいの男の子がいました。

   何に使うのだろうと見ていると、
   その子がお粥をついでもらったお皿をそのまま袋に入れたのです。

   シスターたちは「ここで食べなくてはいけません」と繰り返し言っているそうですが、
   彼のようにシスターの目を盗んで、家族のためにお粥を持って帰る子供が
   あとを絶たないそうです。


   アフリカの子供の8割は、そういう子です。

   ビスケットをあげても、食べないでずっと手に持っている。

   「どうして食べないの? 」と聞くと、
   家へ持って帰って妹や弟に食べさせたい、と言う。

   手の湿気でビスケットはだんだん崩れてしまうのだけれど、それでも握っている。

   やはり人間というのは、まともな育ち方をしていると、
   自分より弱い者を助けたいと思うんでしょうね。

         <『思い通りにいかないから人生は面白い』三笠書房>

              ・・・

世界では、およそ8億人(9人に1人)が飢餓に苦しんでいる。

また、世界では、1分間に17人(毎日2万人)が飢餓で亡くなっている。

途上国では、約1000万人の子どもが5歳の誕生日を迎える前に命を落とし、
このうち6割は飢餓や栄養不良に関連した病気が原因とされている。


我々は、3度の食事をとることができ、暑さ寒さをしのげる家があり、
着ていく洋服があるといった、「今ある幸せ」をつい忘れてしまう。

そして、食事や、住む家、洋服などの、文句や、不平、不満を言ったりする。


「人間は与えることによって大人になっていく」

今ある幸せに感謝し、与えること多き人生を目ざしたい。

              <感謝合掌 平成28年2月3日 頓首再拝>

《神に与える事によって 神から与えられる》 - 伝統

2016/02/10 (Wed) 04:16:43


          *『 生長の家 』(昭和25年2月5日)の法語より

   自分を神の子なりと信ぜよ。
   然して自分の内に神が宿っており、
   その神の愛を 神の栄光の現われんがために行ずるのだと思って行ぜよ。

   それは神に与える行為であるのである。
   神に与えることによってのみ、神から与えられるのである。

   すべての人間から来る賞讃や利益を目的とせず、
   神の愛を、神のために実現せんとして行われたる行為は、
   自分の内に 魂の賞讃を湧(わ)きたたすのである。

   良心の満足は 法悦となって現われる。
   それは自己に宿る神の賞讃の声なのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

              <感謝合掌 平成28年2月10日 頓首再拝>

インプットとアウトプットの循環 - 伝統

2016/02/17 (Wed) 03:01:08


            *メルマガ「成功への道しるべ」(2016年1月27日)より
   
◆イスラエルにある死海は、身体が浮くほど塩分が濃いことでよく知られていますが、
 何故そんな湖になったかということです。

 周囲の山に岩塩があるためほんの少しですが、塩分を含んだ水が流れ込みます。
 ところが死海は、出口がないので流れ込んだ水は蒸発するだけです。

 そのため長い年月の間に僅かずつ濃度が高まり現在のようになったのです。

 ほんの数十キロ北に、聖書によくでてくるガリラヤ湖があります。
 この湖も同じように、ほんの少し塩分を含んだ水が流れ込みますが、
 出口もあって水は循環しているのでほとんど真水です。

 湖には魚や、その他多くの生物が繁殖しています。
 一方死海の方は塩分が濃すぎて、一切生物が生存できない文字通り
 “死海”(Dead Sea)となっています。

 このように2つの湖が接近して位置しているのはアウトプットが繁栄とか成功の
 循環に欠かせないことを神様が人類に教えるためにと云われています???

 私達は多くの場合、受け取ること、獲得すること等のインプットにはすぐ熱心になれますが、
 与えることや、出すことのアウトプットは損をするように思い、やりたくないという意識が
 働くものです。

 しかしインプットばかりでは死海のようになって繁栄の循環が起こりません。
 

◆このことに関して、よく知られているこんな事例があります。

 ジョン・ロックフェラーは石油王として、当時世界一の大富豪になりました。
 ところが50歳半ばになって、その巨大な富の重圧から夜は眠られず、
 食べるものはほとんど受け付けず廃人同然の痩せこけた悲惨な状態になってしまったのです。
 死海と同じです。

 ロックフェラーは、この真理を教えられ、
 180度意識を転換し、それからの人生は与えることに専念したのです。

 ロックフェラー財団は、そんな主旨に添って設立されました。 

 彼自身は健康を取り戻し、98歳まで心身ともに豊かな人生を送ったのです。

 アウトプットは物やお金に限りません。

 人に親切にしてあげると、自分も幸せに感じるものです。

 深呼吸で肺の中のよどんだ空気を完全に吐き出すと自動的に新鮮な空気を
 吸うことになります。

 また食べることも必要ですが、それを完全に消化し排出して健康が保たれます。

 これは宇宙の真理、原理原則なのです。何かを学ぶ場合も同じです。
 インプットしたことを上手くアウトプットするのが上達の秘訣です。


◆ある小学校で飛びっきり成績の良い女の子がいました。
 廻りのお母さん達が○○ちゃんは、なんでそんなにいい成績が取れるのと、
 そのお母さんに問い詰めたところ、次のような話をされたそうです。

 私達夫婦はあまり教育を受けてはいませんし、貧乏だから塾に行かすことも
 できませんが、ある時娘にこんな話をしたことがあるのです。

 “○○ちゃん! お母さんは子供の頃、家が貧乏で
 ロクに学校へ行けなかったので知らないことばっかり。
 だから近所のお母さん達とお話していて恥ずかしい思いをすることがあるの。

 だから○○ちゃん、学校で習ってきたこと、お母さんにも教えてね、
 と云ったことがあるのです。

 そしたら娘は学校で一生懸命聞いてきて、帰ったらすぐ
 今日はこんなことを勉強してきたと逐一教えてくれるのです。
 それが効果的な復習になっているのではないでしょうか?

 多分これ程効果的で、楽しい学習方法はありません。


◆「月山」等知られる森敦は漢文の素養のある格調の高い文章の作家として有名です。

 子供の頃母親が“学校で習ってきたことお母さんにも教えて”、
 と云われたそうです。

 大きくなって気付いたことは母親は大変な教養人で全て知っていたのを、
 そうか、そうかと熱心に聞いてくれていたのです。

 それで好学心が刺戟され、懸命に勉強したということです。 

              <感謝合掌 平成28年2月17日 頓首再拝> 

《使わない水は腐る》 - 伝統

2016/02/26 (Fri) 03:45:41


             *『 生長の家 』(昭和25年2月18日)の法語より

   使わない井戸の水は 腐って来、
   使わない鉄管の水は 錆(さ)びて赤く濁るのである。

   吾々の生命も、智慧も、愛も、それを使わなければ濁ってしまうのである。
   そこから病気が現われ、失敗が現われ、運命が とざされて来るのである。

   常に汲(く)んでいる水は 清らかであるように、
   常に捧(ささ)げられている生命は 腐ることなく健康である。

   働きは 周囲の人に貢献するばかりでなく
   自分自身に一そう多く貢献するのである。

   汝(なんじ)の悩みについて思い煩うな。
   悩みを神に委(ゆだ)ねよ。
   神がそれを解決し給うのである。

   ただ吾々は与えてさえいれば好(よ)いのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

              <感謝合掌 平成28年2月26日 頓首再拝> 

宇宙の不思議 - 伝統

2016/03/07 (Mon) 03:44:02


         *『なぜか幸運な人たちが、普通にやっている小さなこと』
           松田有利子・著(P180~181)より



コンピューターに「どんな人間が最後に生き残るか」
というテーマを推測させたそうです。

その答えは、予想外のものでした。

《「譲る心をもった人」》

どうぞ、という気持ち。
そして、他人(ひと)のことをまず考える人間が最後に残るのでしょう。

何かするとき、他人さまのお役に立つことをまず考えてから始めると、
それが巡りめぐってあなたに役立ちます。

《自分が幸福になりたかったら、他人さまを幸福にしてあげる》と、
あなたが幸福になります。

何もできなかったら、他人さまの幸福、成功、富を願うだけでも、
あなたに同じものが返ってきます。

《他人さまのために喜んで何かをしているとき、あなたの心は宇宙の波動に合っている》
のです。すると、からだも健康になります。
運は、そういう人に気前よくドサッと贈り物を届けてくれます。

たくさんの人々の幸運を願えれば、あなたにたくさんの幸運が戻ってきます。

すばらしい宇宙の不思議です。

              <感謝合掌 平成28年3月7日 頓首再拝> 

小我ではなく、大我で生きる - 伝統

2016/03/28 (Mon) 04:44:39


         *メルマガ「人の心に火を灯す」(2014-01-27)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   さあ、いまから、どんな人でも100%成功できる「ルール」について、
   お話していきましょう。

   何度も言いますが、この「ルール」に従って生きると、
   どんな人でも成功しかできなくなってしまいます。


   100%成功するコツ、それは・・・

   「大我(たいが)で生きる」ということです。

   これこそが、私が何十年もやり続けてきたことです。


   あなたは「我(が)が強い」という言葉を聞いたことがありますか?
   「我」とは、「われ」「自分」「自我」という意味です。
   「あの人は、我が強い人だ!」と言うとき、まず、いい意味で使われることはありません。

   しかし、本当は「我」には、二つの種類があるのです。
   ひとつは「小我(しょうが)」と呼ばれるもの。

   「大我」とは、「自分も楽しく、人にも喜ばれること」。
   自分のためにもなり、相手のためにもなる。
   さらには、世の中すべての人たちが、豊かで幸せになることを願うこと。

   これを「大我」というのです。

   たとえば、あなたが会社の社長だったら、自分も仕事をすることが楽しくて、
   お客さんのためにもなり、会社のスタッフも、取引先の人も、その会社に関わる
   すべての人が幸せになることを考えて、会社のしくみを作ること。

   また、あなたが作家だとしたら、自分も書くことが楽しくて、読者にも喜ばれ、取材した人も、
   出版社も、編集者も、その本に関わるすべての人が幸せになるような本を書くこと。

   これが「大我で仕事をする」ということです。

  
   大我で仕事を始めると、あなたは失敗することはできません。
   出逢う人すべてが、自然とあなたのファンになり、あなたを応援することになります。

   そして、応援してくれるのは、人間だけではないのです。
   大我で仕事を始めると、神さまが「それ、いいね! 」と喜んで、
   強烈なサーポートを始めるのです。

   たとえば、あなたがレストランのコックに見習いとして入って、
   最初に「皿洗い」を担当することになったとします。

   「こんなにたくさんのお皿を洗うのは、大変だな。
   ちょっと手をぬいて、すすぎを短くしよう。
   ちょっとぐらい洗剤が残っていても、そんなの客にわかりゃしない・・・」

   そう思いながら仕事をするのは、「小我」で仕事をしているということになります。

   これは命じられたことを手抜きしながらやっているにすぎません。

   こういう気持ちでお皿を洗っても、ちっとも仕事が楽しくないのです。

   「もし、神さまが皿洗いを担当したら、どうするだろう? 」と考えてみましょう。

   すると、「きっと神さまだったら、びっくりするほどピッカピカにして、
   お客さんを驚かせるだろう。お客さんは『さすがはプロの仕事だ!』と感心して、
   今夜の食事をますます楽しんでくれるだろう・・・」と思い付くでしょう。

   また、「もし神さまだったら、お客さんの健康のためにも、
   洗剤は一滴も残さず、きれいに洗い流すだろう」とも思うでしょう。

   このように「もし神さまだったら・・・」と考えながらお皿を洗っていると、
   仕事がものすごく楽しくなります。

   この考え方こそが、「大我で仕事をする」ということです。

   いま自分に与えられた仕事を、「大我」でやっていくこと。

         <『カンタン成功法則』KKロングセラーズ>

               ・・・

商売がうまくいくコツは、儲けようとするのではなく、
どうやったらお客さまを楽しませることができるか、を考えることだという。

お客さまを喜ばせれば喜ばすほど、
お客さまというファンができ、繰り返しお店に来てくれるようになる。

これは商売だけでなく、どんな職業であれ、主婦も、学生も、みな同じこと。


人を喜ばせることは損得ではできない。

お金のために嫌々(いやいや)やったり、義務でやったりしたら、
すぐにそれは相手にわかってしまう。


「世のため人のため」と考えることは、
「もし、神さまだったらどんな風に動くだろう」と考えるのと同じこと。

小我ではなく、大我で生きる生き方を選びたい。


              <感謝合掌 平成28年3月28日 頓首再拝> 

喜んで献ぐる日 - 伝統

2016/04/06 (Wed) 04:08:51


           *「光明道中記」(4月6日)より

【全体と個との融合を実際の生命の体験として掴むことが宗教である。
                        (『生命の實相』第十三巻)】

本当の太陽は、昼に非ず、夜に非ず、昼夜を超えて照々として輝く。
それは決して火の玉にあらずして宇宙に満つ。

樹木の中にも太陽あり、吾々の体中にも太陽のエネルギーあって輝く。
太陽を一個の盆大(ぼんだい)の火の玉と見るは、
吾々の五官を通して見たる一面識なり、相対観なり。


太陽は何故かくの如く万物のうちに満つるか。
それは太陽は万物に光を与え生命を与えるからである。


吾等もまず自分が本当に全世界的に伸びようと思うならば、
みずから進んで全世界に自身を与えなければならない。
与えるものだけが、その相手を自分のものとするのである。

伸びようと思う者よ。
伸びるためには今迄他から自分へ奪いとることによって
自己が拡大すると思っていたのである。

然(しか)るに今では他に与えることが自己を拡大することであると判ったのである。

(中略)

伸びるとは与えることである。

              <感謝合掌 平成28年4月6日 頓首再拝> 

自利利他の善行を積む日 - 伝統

2016/04/23 (Sat) 04:36:33


           *「光明道中記」(4月23日)より

【すべて形に執われて来るとき生命を生かす事が出来ないのであります。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

来る人は一人で来ないで是非知人を伴って来て戴きたい。
自分だけ善い話を聞いて救われたいと云う利己主義と云う程でもないが、
独善であり、消極的であり、羅漢の程度の境地である。

自利利他の功徳を計ることになって菩薩の境地に入る。
「利他」にして初めて潜在意識の世界に善行の種を蒔いたことになる。
心の世界に蒔いた種は決して滅びるものではない。

子孫に美田を遺してもその美田は滅びるであろう。
併し心の世界に蒔いた善行(たね)は滅びはしない。

私の叔父さんに福松と言って畸人(きじん)があった。
神道の神主で少講義かなんかの低い役目をしていたが、施しが好きであって
何時(いつ)も貧乏で見窄(みすぼ)らしい服装(なり)をして歩いていた。

人が気の毒に思って紋付の羽織などを着せてやるとその翌日には
もうその紋付の羽織を着ていなかった。

「どうしたのか?」と訊くと
「憐れな人があったから与えた」と答えるのが常であった。

この叔父さんには自分自身を良くすることなど考えて見たこともなく、
ただ隣人を愛していたのであった。

              <感謝合掌 平成28年4月23日 頓首再拝> 

《誰かの役に立つ事をしましょう》 - 伝統

2016/05/03 (Tue) 03:25:20


         *『 生長の家 』(昭和40年3月20日)の法語より

   今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。
   大いなる仕事が見つからなかったら、
   目の前にある瑣細(ささい)な愛行や、
   深切な言葉や、奉仕や、清掃などの仕事でもよい。

   何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。

   他の人の自由や財産を侵して自分が利益を得たり、
   権力を得ようと思ってはならない。

   このようにあなたの日常生活を浄めることによって、
   あなたは神の霊波と波長が合うことになるのである。

   その時、「 その余のものは 汝等に加えらるべし 」 であるから、
   日常生活に必要なものは自然に整うことになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

              <感謝合掌 平成28年5月3日 頓首再拝> 

欲しければ与えよ - 伝統

2016/05/25 (Wed) 03:03:46

         *Web:「DIAMOND onlone」(2016年1月14日)より
              ~加地太祐(かじ・たいすけ)
               (1976年大阪生まれ。株式会社aim代表取締役。)

《他人を利する考え方》

多くの自己啓発本や成功者の名言には、必ずこのような一文が書かれている。

「自分よりも他人の利益を先に考えよ」

果たして、この考え方は本当なのだろうか?

結論を先に言えば、この考え方は100%、間違いなく本当だ。

他人の利益を先にし、自分の利益を後にすることは、
成功する人にとって最も重要な考え方である。

しかし、多くの人はこれとは逆の行動をしてしまう。

はるか昔、ある優れた師の元にふたりの弟子が学んでいた。
彼らは師の教えを熱心に学ぶのだが、ひとつだけ確信が出来ないことがあった。


それは師の教える「利他」という考え方だった。

ある時、彼らのその疑問を知った師は、ふたりにある実験をさせた。

「これから1週間の間、ふたりにはある競争をしてほしい」

彼らの競争とは、1週間でどちらが多くのお金を持って帰ってくるか、
というシンプルな物だった。

ただし、この競争には一つのルールがあった。

それは、先に出発する弟子は必ず、自分の事をだけを考え、
「お金をください」と物乞いをするというルール。

もう一方の後から出発する弟子は、物乞いは一切せずに、
「何かお困り事はありませんか?」と問いかけ、
お金の話をしてはならないというルールだった。

始めに出発した男は毎日、出会う人にお金をくださいと言い続けた。
そして、次の日も次の日も、お金を求め歩き続けたが、
残念ながらお金は1円も集まらなかった。


逆に、後から出た弟子は順調だった。

道を歩く人ひとりひとりに、
「何かお困り事はありませんか? 何かあれば私がお手伝い致します」
と言って歩き続けた。

ある人は瓦の修理を手伝ってもらったり、母の話し相手になってくれという依頼もあった。

すべての仕事の後には、必ず喜ばれ、何か御礼の品をくれた。
ミカンや野菜、時には現金をくれる人がいた。


ここまで書けば結果は分かるだろう。

毎日、「お金をください」と歩いた弟子よりも、
「何かお困り事はありませんか?」と聞いて歩いた弟子の方が
圧倒的に競争に勝ったのだ。


《天国と地獄も人の心が決める》

事業経営において「利他」という言葉を話される
京セラの稲盛和夫名誉会長の話を始めて聞いたのは、
僕が30歳になろうとするときだった。


地獄とは、大きな釜の中で美味しそうなうどんが湯気を立てて煮えている。
皆、腹を空かせているためうどんを食べようと競って大釜に近づく。

ところがそこにある箸は長さ1メートルもあって、上手く口に運べない。

皆、我先に食べようと狂ったように貪り合う。
やがてケンカが起きてうどんは周囲に飛び散り、誰も食べることができなくなる。


天国とは、同じ釜の周り腹を空かせた人たちが集まっている。

人々はうどんを長い箸でつまむと、
釜の向こうの人に「どうぞ召し上がれ」と差し出す。

すると、その人は「ごちそうさまでした。今度はあなたにごちそうさせてください」
と自分の箸でうどんをとってお返しをする。

こうしてすべての人がおいしいうどんを食べることができた。


  何か欲しい物があれば他人を先に喜ばせる。これはシンプルな成功法則なのだ。

       (http://diamond.jp/articles/-/84481

              <感謝合掌 平成28年5月25日 頓首再拝>

”マグロ船の船長の仕事” - 伝統

2016/07/25 (Mon) 04:05:01


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年07月11日)」より
 
   (西沢泰生氏の心に響く言葉より…)

   マグロの鮮度を維持する薬の開発に携わっていたある会社員。

   会社から、ある日突然、
   「マグロ船に乗ってマグロのことを知ってこい」と、
   理不尽な業務命令を受けてしまいます。

   これは、その会社員が目撃した話。


   マグロ船の仕事は非常にハード。

   遠洋の漁場に着いたら、
   1日17時間の肉体労働が20日続くことも・・・。

   1人でも多く人手が欲しいところですが、
   船長はこの漁に参加しません。

   「偉いから」ではありません。

   実はもっと重要な任務があるのです。


   それは・・・

   「無線で他のマグロ船に連絡して、
   マグロの群れがいる場所の情報交換を行う」


   あなた今、

   「えっ、他のマグロ船が、マグロの群れの場所を教えてくれるの? 」

   って思いましたね。

   意外にも、これが教えてくれるのだそうです。

   実はマグロ船同士は、こうした漁場の情報を
   惜しげもなく頻繁に交換し合うとのこと。


   海に出たら「持ちつ持たれつ」。

   助け合うのが当たり前。

   そんなふうに考えるのですね。


   しかし、中にはそうした情報のやり取りを無視する漁船もあるそうです。

   自分たちがせっかく見つけた漁場は他の船には教えない。

   それどころか、ウソの情報を流して、
   自分たちが見つけた漁場から遠ざけようとする・・・。


   確かにそうすれば、一時的には漁場を独占できます。

   でも、そうした船は、他の漁船からよい情報をもらえなくなって、
   トータルすると結局、漁獲量は減っていくのだそうです・・・。

   世の中、うまくできています。


   人は、どんなに強い人でも、頭のいい人でも、1人では生きていけません。

   ましてやマグロ船のように、大海原など自然に挑む時、人は無力です。

   だから助け合いが必要なのです。


   ☆「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」(相田みつを)


   ☆ 天国と地獄の違い。

    亡者たちが、ご馳走を前に、長~いおハシを手にして食べる
    ことができず、嘆き悲しむのが地獄。

    亡者たちが、ご馳走を前に、長~いおハシでお互いの口に
    食べ物を運び、ニコニコ笑っているのが天国。

    まったく同じ場所が、助け合いの精神があるかないかで、
    天国にも地獄にもなる。その差は紙一重でしかありません。


    《助け合えば天国、いがみ合えば地獄》

            <『超一流の人のちょっと深い話』アスコム>

             ・・・

「今より上のレベルに行こうと思ったら、
いま知っていることをまわりの人に伝えるんだよ」

と、斎藤一人さんは言う。


得になる情報や知識を出し惜しみして、
独り占めしようとする人は、ケチ臭いし、貧乏くさい。

ケチ臭い人はケチになり、貧乏くさい人は貧乏になる。

そして、決して豊かにはなれない。


知識や情報は、出さなければ、新しいものは入ってこない。

引き出しを空にするから、入ってくる。


知っていることを、出し惜しみしない人でありたい。

              <感謝合掌 平成28年7月25日 頓首再拝> 

《与える者は与えられる》 - 伝統

2016/08/12 (Fri) 04:04:58


       *「生長の家」(昭和25年6月16日の法語)より

   奪う考えをおこすものは
   やがて奪われて貧しくなるのである。

   報酬のみを目的として奉仕の精神を失っているものは
   「 与える 」 心を失って 「 奪う心 」 のみをもっているのであるから、
   やがて奪われる結果になるのである。

   報酬を貰(もら)う仕事ばかりが
   神から与えられた仕事ではないのである。

   吾々は多くのものをすでに与えられているのであるから、
   賃金なしにお礼をする心で、
   目の前にある所の人々のためになる仕事なら
   何でも奉仕させてもらおうという気になって、

   一枚の紙屑(かみくず)を片づける様なつまらないことからでも
   奉仕の行事を始むべきである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

              <感謝合掌 平成28年8月12日 頓首再拝> 

【十のサービスを受けたら、十一を返す】 - 伝統

2016/08/23 (Tue) 03:14:43


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年08月10日)より

   (小宮一慶氏の心に響く言葉より…)

   《十のサービスを受けたら、十一を返す。 
    その余分の一のプラスがなければ、社会は繁栄していかない。》(松下幸之助)


   仕事というのは「創造」の世界です。

   お客さまからいただいた対価以上の価値をお客さまが見いだしていけば、
   世の中がどんどんよくなっていきます。

   そういった意味で、仕事をお引き受けしたら、
   「何を価値として対価以上のものをお客さまに差し上げられるか」を
   考えなくてはいけません。


   これは会社全体でもそうですが、働いている人も一人ひとりが
   報酬以上の仕事をすれば、「創造」の世界にいることになります。

   幸之助さんは、宇宙の原理について、専門家を交えて徹底的に考えられました。

   その結果、宇宙万物を支える大きな理法にのっとり、
   人間が繁栄していくことを讃えています。

   いただいたものを、さらに大きくして社会に返していくのが人間の役目であり、
   いつまでも続いていく人類全体の幸福でもあるということです。


   十をもらって十返すだけだと、世の中はよくなっていかない。

   十もらったら、十一。

   十一もらったら十二を返す。

   それを重ねていくことで少しずつ、
   世の中はよくなっていくというのが「生成発展」です。

   相手の幸せが自分の幸せになっていくことを考えたら、
   自然と「生成発展」に行き着くはず。


   成功したければ、もらった以上のものを奉仕する。

   これで社会も自分も成長し、幸せになるのです。



   一方、私の師匠、藤本幸邦老師は、

   「十をあげたら十二欲しいと言う人には、八しかあげたくない。

   でも八で結構ですという人には十二あげたくなる。

   それが人情だ」

   と説かれました。


   差し上げるものは多く、もらうほうは、ほどほどの気持ちが大切ですね。

          <『松下幸之助 パワーワード』主婦の友社>

              ・・・

利他の人は、十もらったら、十一を返す人。

利己の人は、十もらったら、十一欲しいという。


自分の利益しか考えない利己の人は、更にもっともっと、と欲しがる。

そして、何かをもらっても、お返しはしない。

お礼のメール一本さえも。


しかし、他人を喜ばせようとする利他の人は、
何かをもらったら、それ以上の何かを相手に与えることを考える。

相手の予測を上回ったサービスなり気くばりがあったとき、
そこに感動というサプライズが生まれる。

たとえば、何かを頼んだとき、想像つかないほどそれを早くやってのける人。

レポートなど、1週間後の締め切りだと言われたら、次の日に提出するような人。


「十のサービスを受けたら、十一を返す」

あらゆる人間関係において、
十のサービスを受けたら、十一を返している人は、
いつか必ず成功する。


もらった以上のものを奉仕する人でありたい。

              <感謝合掌 平成28年8月23日 頓首再拝> 

《寛大に他に与えよ》 - 伝統

2016/09/24 (Sat) 04:06:56


         *『幸福を招く365章』第9項(P184) より

「与えよ、さらば与えられん」が法則であることを知るならば、
今、現在自分が何を与えられているかに就いて不足の考えを起す必要はないのである。

自分が何を人に、又は社会に、国家に、与えられているかを考えて見、
与えることが少なければ、与えることを多くするように心掛ければ好いのである。

若し自分が与えること少なければ、与えることも少ないのである。
自分が与えること多ければ、また自分の与えられること多いのである。
すべて此の世界は法則によって動いているのである。

どんなに能力があっても、愛と寛大との精神の欠乏せる者は、
自分も寛大に与えられることは無いのである。

              <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝> 

《誰かに役に立つよう心掛けよ》 - 伝統

2016/10/06 (Thu) 04:42:29


         *『幸福を招く365章』第9項(P193) より

何か、誰かに対して役に立っていると云う想いが
自分の存在価値をみとめしめるのである。

誰かのためになることを一日に一度でもせよ。
それは貴方の生活を支えて行く力となるのであろう。

人のためになる行為は自分の生活の基礎を築いて行くのである。
自分のためになる仕事はその基礎の上にのみ築かれてのみ永続するのである。

一つとして人のためになる行為をしたことのない人は、
どんなにその人が成功しても、心の中には敗北があり、寂しいのである。

与える物がなければ、激励の言葉や、鼓舞する言葉や、誉める言葉や、
愛語や、微笑を与えるだけでも相手を生かすことが出来るのである。

              <感謝合掌 平成28年10月6日 頓首再拝>

人を喜ばせる小さな一歩を踏み出す - 伝統

2016/10/18 (Tue) 03:45:26


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年08月15日)より

   (一般社団法人おせっかい協会会長、高橋恵氏の心に響く言葉より…)

   私はこの何十年、風邪をひいた記憶がありません。
   そんな気配もありません。
   真冬でも、年中半袖・素足です。

   「なんでそんなに元気なの?」とよくまわりから不思議がられるのですが、
   何か運動をしているわけでも、特別な食事法や健康法があるわけでもありません。

   「元気の秘訣」を強いて挙げるとすれば、
   それは「誰かの喜ぶ姿」だと思うのです。


   作ったご飯を美味しいと喜んで食べてくれた、
   家に来てくれた人が「楽しかった、また来るね」と言って帰ってくれた、
   友人に嬉しいことがあったとき、それをみんなで分かち合えた
   …そんな瞬間が、私を元気にしてくれます。

   「孫育て」もひと段落した70歳のとき、
   「おせっかい協会」という社団法人を立ち上げましたが、
   おせっかいというのは、「他人に余計な世話を焼くこと」などと辞書にあるように、
   一般的にはあまりいい意味では捉えられていないかもしれません。

   けれど、私なりに解釈しているおせっかいとは、
   「見返りを求めない、立場も人種も関係ない、
   ただただ相手のことを思った親切な行動」です。


   英語では「randome act of kindness」、
   ランダムに(相手や場所は関係なく)行う親切な行動と言うのだそうです。

   とはいえ、そんなに難しく考えなくてもいいですし、仰々しいものではありません。

   つまりは、「人のために何かしてみよう」ということです。


   困っていそうな人がいれば声をかける、
   仕事や恋愛で悩んでいるなら誰かを紹介してあげる、
   美味しいものがあれば分けてあげる…もちろん、何かをあげることなく、
   職場などで元気よく声をかけて、場の雰囲気をよくしようとすることだって
   立派なおせっかいです。

   これをしたら、喜んでくれるかもしれない。

   こんなことをしたら、もっと喜んでくれるかもしれない。

   そんなことをワクワク考えながら、自分でできそうなことはすぐにやる。

   そうしてその人がちょっとでも笑顔になってくれると、
   「しめしめ」という感じで、心も体も満たされていくような感覚を得られます。


   そうすると、身体がカッカと燃えてくるのです。

   ちょっとくらいの体調の悪さや眠気は吹き飛んでいきます。

   それが、私の元気の秘訣です。


   では、なぜ私がおせっかいを人にすすめるのかといえば、
   「幸福はじっと待っていたらやってこない!」と、思うからです。

   人のために何かをしてあげたいと思う気持ち。

   そして、その気持ちから生まれた行動が人生に転機を与えてくれます。


   人のために何かしてあげたい、と起こした行動が積み重なっていくと、
   だんだんと向こうから自分のほうにやってくる。

   そんな瞬間が訪れるのです。

   もちろん、自分がしたことのすべてが相手のためになるわけではありません。

   相手に伝わらないことだってありますし、
   時には迷惑に思われてしまうこともあるでしょう。


   しかし、それでいい!

   それがいいのです。


   一つひとつのことに一喜一憂せず、自分の気持ちを外に分けてあげる。

   そんなことを続けていると、どこかのタイミングでおもしろいことが起きてきます。

   たとえば、久しぶりに会いたいなぁと思っている人がいると、
   思いがけない場所でその人と出会う。

   行ってみたいなぁと思っていた場所に、誰かが急に誘ってくれる。

   久々に食べたいなぁと思っていたものを、誰かが差し入れしてくれる
   (しかも、そういうときはみんなが同じものを持ってくる!)。

   そんなことが連日のように起こるのです。


   どんなときも心に何を思うかが大事で、人に笑顔を与えていれば、
   自然と幸運に恵まれるようになります。

         <『笑う人には福来る』文響社>

              ・・・

高橋恵氏は、「福を呼べる人は、もともとラッキーなのではなく、
『幸福を呼びやすい行動』を積み重ねている人」だという。

だから、「楽しい顔をすれば楽しいことが起きるし、
よく笑う人のところには、必ず良いことが起こる」、と。


まさに、「おせっかい」も同じで、
人の喜ぶ顔を見るための見返りを求めない行動は、幸福を呼び込む。

「おせっかい」も、「小さな親切大きなお世話」となってしまってはいけないが、
人との関わりが希薄になっている現代は、見て見ぬ振りが多過ぎる。

ときに、一歩踏み出す勇気も必要だ。


「幸福はじっと待っていたらやってこない」

人を喜ばせる小さな一歩を踏み出したい。

              <感謝合掌 平成28年10月18日 頓首再拝> 

【出し惜しみしない人】 - 伝統

2016/10/31 (Mon) 03:06:05


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年10月18日)」より

   (伊庭正康氏の心に響く言葉より…)

   たとえば、あなたが考えた仕事のやり方を同僚にマネされたとしよう。
   そして、マネした人があなたより高い評価を得たとしたらどうだろう。

   はたして、あなたは“おおらか”でいられるだろうか。


   「それは私が考えた方法なのに…」と、
   “せこい”気持ちが生まれたときは、こう考えるといい。

   「別に減るもんじゃないし、まぁいいか」

   実際、あなたのノウハウや持ち物が他人に使われたところで
   それらが減るわけではない。
   ならば、気持ちよく使わせてあげればいい。


   先日、テレビのドキュメンタリー番組を見ていて、
   「やはり一流は違う」と感銘を受けた人がいた。

   ものまねタレントのコロッケさんだ。

   コロッケさんは、「ものまねショー」のお店を経営している。

   お店のショーに出演する演者は、コロッケさん自身がオーデションを開催し
   開拓しているのだが、そのなかで彼は意外なところに時間をかけていた。

   そのオーディションの審査は厳しく、ほとんどの人が落選するのだが、
   コロッケさんは落選した1人ひとりに「もっとこうしたほうがいい」と
   時間をかけてアドバイスしていたのだ。

   さらに、ただアドバイスするだけでなく、自分自身でもやって見せていた。


   「郁恵ちゃんのものまねは、こんな感じでリズムを少しハズすと面白くなるよ」

   そのアドバイスのとおりにするだけで、各段に面白くなる。

   そして、落選した人は「これ、やらせてもらいます!」と帰っていく。


   しかし、考えてみると、それはコロッケさんの持ちネタのはずだ。
   ところが彼は、惜しむことなく後輩たちにワザを伝授する。

   芸能界の大御所であるコロッケさんが、
   今なお多くの人から愛されている理由は
   そんなところにもあるのでは、と思うのだ。


   もし、オフィスにハサミがなければ、
   あなたのハサミを誰もが使えるように共有する。

   自分だけが知っているノウハウがあれば、
   出し惜しみせずみんなに教える。

   そんなことが自然にできる人は素敵だ。


   《「自分のものはみんなのもの」と考えると、結局自分自身が得をする。》

     <『すべてを手にする人が捨てている41のこと』かんき出版>

              ・・・

他人に「何かを与える」ということは、他人を「喜ばせる」ことと同じ。

惜しみなく、そして見かえりなく、与え続ければ、喜ばれ、感謝される。

それが、「魅力のもと」となる。


魅力ある会社や人には、人が集まる。

それが、「人気がある」ということ。


反対に、知っていることを出し惜しみする人は「ケチ臭(くさ)い」。
お金も、知識も、情報も・・・
ケチ臭い人のそばには人は集まらない。

どんなことでも、出し惜しみしない人でありたい。

              <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

飢饉普請 - 伝統

2016/11/25 (Fri) 04:39:21


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2011年02月23日)」より


   坂本啓一氏の心に響く言葉より…


   日本の商人道を確立したといわれる近江商人には「飢饉普請(ききんぶしん)」
   という言葉があります。

   飢饉、つまり、その年の収穫が不作で、近隣農家が困っていたら、普請しなさい、
   ということです。

   普請して、農家の人に働いてもらい、賃金を出しなさい。
   お金を貯めるばかりではなく、飢饉のときこそ、出し惜しみすることなく使いなさい。
   できるだけ長く働いてもらいなさい。

   阪神・淡路大震災直後、ラーメン一杯5000円で売ったお店がありました。
   同じとき、幸いにも自宅のガスや水は早く復旧したので、
   お風呂をご近所に開放した会社社長がいました。

   社長の名前が「川上さん」と言ったので、
   「川上湯」とみんなに呼ばれ、感謝されていました。

   さて、街が復興した後、くだんのラーメン店は倒産してしまいました。
   一杯5000円で得た利益はどこにも残らなかったわけです。

   一方、川上社長の会社は、震災前に比べ、
   10年後の現在、売上、利益共に5倍に成長しています。
   社長を後進に譲り、自らは近隣のボランティア活動に忙しい毎日を送っておられます。

       <『気づいた人はうまくいく!』日本経済新聞出版社>

   ・・・・・

以前、新潟市の北方(ほっぽう)文化博物館というところに行ったことがある。

ここは、江戸時代から昭和にかけ、新潟一の大地主であり、
豪農だった伊藤家を博物館としたものだ。

全盛期に所有していた土地が、1300ヘクタールというから、東京ドーム300個分の広さだ。

伊藤家には、良寛和尚を始めとして、明治維新で活躍した勝海舟や山岡鉄舟、西郷隆盛、
伊藤博文らの書が所蔵され、当時のそうそうたる人物が訪れたという。

伊藤家は、飢饉のときには、近隣の困っている農民を集め、自宅の庭に穴を掘ったり、
築山を造ったり、また埋めたりという工事をさせ、仕事に出さえすれば誰にでも
賃金を支払った。

ただお金を配るのではなく、仕事をさせて農民を救ったのだ。

伊藤家の家訓に、「田地買うなら精々悪田を選び、悪田を美田にして小作に返すべし」
というものがあるが、そこには小作人を大事にする、という気持ちがこめられている。


誰もが途方にくれる震災や、天災に出会ったとき、商人の本当の値打ちがわかる。

一時の利益に目がくらみ、他人の不幸につけいり、小さな儲けを得ようとするものは、
後に必ず衰退している。

反対に、困っているときはお互い様、と自分の損得を考えずに助けた者は、
のちのちまで隆々として繁栄している。

皆が困っているときは、飢饉普請までは出来ないにしても、
せめて損得は考えずに人のお役に立ちたい。

           <感謝合掌 平成28年11月25日 頓首再拝>

《富の父性原理と母性原理》 - 伝統

2016/12/11 (Sun) 03:35:16


           *『 生長の家 』(昭和26年6月21日)より

   神の恵みは無限であり、多方面である。

   吾々は豊かなる容器をもって
   神の恵みの宏大(こうだい)なる海原(うなばら)から
   汲(く)むことが必要なのである。

   富には 父性原理と母性原理とがある。

   父性原理は 生命を注ぎ与える原理である。
   与えることを忘れていて、おかげを貰(もら)うことのみを
   望んでいる人々の多いのには驚くのである。

   或る信徒は 生長の家道場へ来て、
   感謝箱に奉賽金(ほうさいきん)を
   投ずる人の少ないのに驚いている。

   教団本部の建築が出来ると云っても献金する人々は
   寥々(りょうりょう)たる有様である。

   見よ、吾々は先ず与えているのである。

   大阪及び京都の教化部、佐世保の道場、呉市の道場、
   福岡の九州総轄(そうかつ)道場 ―
   吾々は本部より先に地方を整えつつあるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

           <感謝合掌 平成28年12月11日 頓首再拝>

監房で天国を見出した体験 - 伝統

2016/12/22 (Thu) 04:42:28


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より

某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来てわたしの講義のあとで起(た)ち
上がって次のような話をされた、その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似て
いるのですこぶる興味がある話である。


「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして突然起(た)ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。

私はこの福岡市のものでありまして、この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申します
と、一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、私の先生をしていた方が
私の応援弁士となって働いてくださいました。幸いにして私は中位で当選しました。

私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、雑誌の名前を
見たこともなかったので、実はあまり関心を持っていなかったのであります。それから後(のち)
1年を過ぎまして最近までも関心は持っていなかったのであります。

ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。

実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、もっともほとんど全部の福岡市の市会議員は
それにひっかかったのでありまして、前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち
込まれたのでありまして、実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。

私は特に皆様に申し上げたいことは私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、そこに入って
おりますと、何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけであります。どうも魂の慰めが
ありません。

そこで突然思い出したのが前々から私の先生に進められていた『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。

だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを見つけ出すにはどうしたら
いいかという事の谷口先生のお話が載っておりました。

それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』こういうようなことが書いてありました。

私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、ただ自由が束縛されている、
魂の糧に飢えている。

そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』ということを
知らされたのであります。

いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、その他の宗教の本なんか読んだの
ですが、すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ―― 

私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、今この獄中生活を、もっと歓びをもって
生きられる道はないものかと考えたものであります。今時間がありませんから、早く申し上げますが、
何とかして自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。

あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、刑が決定した囚人は雑役をやらせられて
います。それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、それをぴたっと堰(せ)い
たり開けたりする。

そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、それがどうもだいたいああいう所に入(はい)
る囚人というものは非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、ともかく深切でないのです。

その雑役の囚人がお茶を持って来ます。それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。なかなか尊いんですから少し
足りないことがあると、貴様こぼすんじゃないか、と言って興奮して怒るんです。

みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、朝から非常に気持ちが悪いんです。

いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、これはなんとかしてひとつ自分を
嬉しい気分にしてみたい、せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。

1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して試みに『どうもありがとう』と
言うてお礼を言ってみたのです。

お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
と思ったりしたのですが、『生命の實相』のは『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と
書いてある。

今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて傲慢な気持ちがあったので
しょう。その傲慢な《こちら》の気が相手に映って『なんだこの野郎』というのだと気がついて、
お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、

『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。私は33号でありましたが、その
お礼を言うことが、二日三日四日となると自然とちがってきました。

今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』こう向うから心安く声を
かけてくれるようになりました。

あそこでは水が実に欲しい所ですが、ことに夏の7月から8月の一番暑い盛りですから、そういう時
に向こうの方から方々一ぺんぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで余った水をわざわざ持って来て
『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。

始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが『Rさん、あなたこれは実際の話
ですがあなたは人格者ですネ』こういうのです。『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになって
いるそうで』とこう言う。

そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』こんな返事をする。

監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。

平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに
思っていたのですが、それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。

私は初めて生長の家の教えというものがいかに偉大なものであるかということをはっきり認識した
のであります。『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、本当に
分ってきたように思います。

この気持ちで一つの社会に立って行こうと、こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになった
のであります。したがってわたしは未決監に入ったということが、私の人生、将来にとってどの
くらいよいことを教えてくれたかしれないと感謝しているのです。

わたしの審判はこれから公判をやるのですが、判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しも
ありません。わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。これまでのような
《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。

実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして来(こ)ようじゃないかというので、この
四日から来ておりますが、ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、その後の事情を見る
かたがた上京して参ったのでありますが、

あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、ただあの招神歌(かみ
よびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな奇跡に逢(お)うたことがたくさんありますけれ
ども、本日は時間がありませんから申し述べませんが、

ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、非常に朗らかであって、
今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的に
ここに立ち上がって、皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを御想像願いたいと思います。

私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。

電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、わたしどもは帰って晩寝るまで
それが忘れられないほどの嬉しい印象を受けることと思います。

日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」


道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。

そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。

            <感謝合掌 平成28年12月22日 頓首再拝>

与え切りの心(神心) - 伝統

2016/12/30 (Fri) 04:45:14


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月30日)より

健康が心の中にあるのみではなく、財福もその人の心の中にあるのである。

親分の心になることが、自分自身の運命を親分にまで推し進める。
いつまでも子分の根性で功(こう)を同僚の間で争い、眼を偸(ぬす)んで安らかさを
希(こいねが)っているようなことでは、その人の運命はいつまでも子分であるのであろう。

親分の心の最大なるものは、神の心である。

すべてを赦し、すべてのものを太陽のごとく照り、温(あたた)め、
みずからは光線と温熱と生命(せいめい)を投げ出すのみで、
敢(あ)えてみずからは求めぬのが神心(かみごころ)。

太陽の心。太陽の心。これが親分の心である。
かくのごとき人はよく衆(しゅう)を率(ひき)い大いに伸びるのである。

            <感謝合掌 平成28年12月30日 頓首再拝>

Re: 利他 - rwtqvsevscMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:48

伝統板・第二
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rwtqvsevsc http://www.gtg0290w84fo8u720ryx933n9w0qs1eps.org/

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