伝統板・第二

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イエス・キリスト - 夕刻版

2015/04/02 (Thu) 17:41:19

*光明掲示板・伝統・第一「イエス・キリスト (110)」からの継続です。
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・・・

《吾は生命なり真理なり道なり》

              *「生命の實相」第39巻仏教篇(P128~129)より

五官の眼で見れば、地球に生じたカビの一種にすぎない人間が、
般若の智慧で見れば、神仏のままの法身である。
これをキリストは「人あらたに生まれる」と言われたのです。

法身とは真理の身体である。
キリストが言われた「吾は生命なり真理なり道なり」である。

現実人間は、一方に滅すべき「肉」なりとの妄覚と、久遠不滅法身なりとの内在自覚との、
二つの「覚り」の間に彷徨(ほうこう)するところのぬえ的存在である。
肉より生じたという妄覚を打破してしまわないかぎりは、生命内在必然の要請が満足しない。

この内的必然の要請を満足せしむるものが、
仏教では釈迦が摩那夫人(まやぶにん)の右脇に懐妊したとの神話であり、
キリスト教ではマリヤの処女懐妊の神話である。

それは人間は「肉より生まれたる肉」にあらずとの自覚の転換である。
キリスト曰く、「肉より生まるるものは肉なり、霊より生まるる者のみ霊なり。」
この自覚に生まれかわるとともにいっさいの物質としての肉体に付随するところの
苦厄が解放されるのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月2日 頓首再拝>

神聖受胎 - 夕刻版

2015/04/04 (Sat) 18:10:26


            *「生命の實相」第39巻仏教篇(P131~132)より


われわれ人間がここに生きているのは「神の子」の生命が生きているのである。
神聖受胎である。これを英語では“Immaculate Conception ”と言う、
汚れない妊娠(不染妊娠)である。

肉欲によって生まれたのでもなければ、姦淫によって生まれたのでもない。
『生命の實相』の実相篇には、「人間は未だかつて女性の子宮から生まれたことはない」
とハッキリ書いてある。

常識的に考えたらずいぶん乱暴なことを書いたものだと思われるかもしれませんが、
常識的人間観というものは五官知を基礎とした迷妄であり、
それゆえにこそ知恵の樹の果(五官知)を食べた人間は「汝は塵なれば塵に帰るばきなり」
と久遠生命を否定せられたのであります。

久遠生命(死なない生命)を奪還するためには、五官知を否定しなければならない。
見える象(かたち)は必ずしも実相ではない。
実相は五官知を否定(五蘊皆空と照見)することにより把握せられるのであります。

そのためには、「五官の世界を去って実相の世界に超入する」ことが必要なのであります。
そのためにこそわれわれは「深」般若波羅蜜多の行をする、
すなわち神想観の行をするのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月4日 頓首再拝>

真の悔改め - 伝統

2015/04/06 (Mon) 17:50:16


              *「生命の實相」第39巻仏教篇(P132~133)より

「深」は甚深微妙の意であり、般若は前述したとおり「智慧」である。
人間知恵、五官でなく「実相智」である。
「波羅蜜多」は「到彼岸」である、彼岸に渡るのである。

彼岸とは、現象世界(アラワレの世界)を超えて、彼方の世界(実相世界)のことである。
なにがなんでもまず、「人間が肉体である」という現象世界に眼をつぶれ、
そして彼方の世界に渡ることだ。

そして実相世界をわがものとすることである。
「彼方」を「今・此処」とすることである。

天国浄土を彼方の遠き世界に観ず、「今・此処」に顕現する、「今・此処」に把握する
―これが、人間観のコペルニカス的展開をすることである。
これが真の悔改めである。


「悔い改めよ、神の国は今此処にあり」である。
聖書の“Repent ,for the kingdom of Heaven is at hand”を訳するとこうなる。
「神の国はちかづけり」と在来の日本語訳聖書に訳されている意味は誤りである。

“at hand”は「手の届くところに」今利用できるようにあるということである。
神の国(浄土と言ってもよい)がここに手のとどく処に、利用できるところにあるのだ。

諸君よこれを信ぜよ。
信念は力である。
信念だにあれば、神の国は今ここに即刻に実現するのだ。

まず汝が「神の子」であることを信ぜよ。
今現実世界に役に立つ神を信ぜよ。
その時の信仰をわがものとせよ。

事物に勝つためには神を味方としなければならぬ。
米英の光明思想家は「現実に役に立つ神」を“available God”と呼んでいる。

神を「今・ここ」すなわち“Eternal Now”に把握するとき
今ここに神の生活が実現するのである。

今が神の時であり、此処が神の処であり、この我が神の人である。
この把握によって、在来の世界観、人間観が360度転回する。

(中略)

生長の家誌友中にも奇跡的治病や無限供給が起こる事実があるの
もこの人間観・世界観の360度転回によって、神の国(浄土)が
今ここに実現するからであります。

              <感謝合掌 平成27年4月6日 頓首再拝>

イエスは魔術師ではない、精神科学者であった - 伝統

2015/04/08 (Wed) 18:43:47


         *「眞理」第一巻入門篇(P314~317)より

引力法則が、船を浮かせたり沈めたりするのは、こちらが法則に与えた結果であるように、
神は何人(なんぴと)のどんな祈りをも拒否しないのであります。

我々がこころに浮かべた想念や思想の波は
「宇宙の心」を伝わって個人の体験として現れてくるのです。
「宇宙の心」は差別したり選択(えりごのみ)したりしないからであります。

差別や選択(えりごのみ)は個人の心の世界に属することであります。
貴方が祈りの相手をする神が偏在する「宇宙の心」であることを悟られたならば、
過ぎにあなたは智慧を働かせ、意識的に、科学的にその原理を応用する事が出来るのであります。

各種の宗教の教会は或る種の祈りを実行していますが、それはそれとしてよろしい。
吾々はこれとは別種の祈りを教え実行して効果をあげます。

キリスト教会はイエスの所謂奇蹟を非常に重視し恰もイエスが瓶に水を入れ、
同一瓶から葡萄酒を出すような超自然的魔術師であるかのように取り扱いをしますが、

イエスは魔術師ではなく、科学者であって、祈りの科学を知らぬ者が為し得なかったことを
心の法則を応用して成就したのであります。

若し我々が聖書の伝える記録を真実だとするならば、
イエスは懇願などは決してしなかったのであります。

次にその例を挙げますと、マタイ伝第八章十三節には、ローマの百卒の長が
その愛する下僕(しもべ)を癒して頂きたいと申し出たことがあります。

すると、イエスは「行け、汝の信ずる如く汝になれ」と云われました。
その同じ時刻に僕(しもべ)は癒されています。
祈りの言葉は発しなかった。

しかしイエスは信念の法則を応用したのであります。
強く信ずると云うことは祈りであります。

またペテロの母が熱病で床に就いていました。
その時イエスその手に触れ給うと、熱を去り、その女は起(た)って
イエスに事(つた)えたとも書いてあります。

所謂る祈りの言葉は何も言わなかった、
イエスは自己の信念の内に相手の健康さを念じて癒したのであります。


「二人の盲者(めくら)彼の後(あと)に従い、大声で叫びて言う。我等を憐み給え。
イエス言い給う。汝、われこれをなし得ると信ずるや。彼等言う。然(しか)り。
イエス彼等の目に触れて言い給う。汝の信ずる如く汝になれ。即ち目開く。
イエス何人(なんぴと)にも告ぐる勿れと固く戒め給う」

イエスは祈りはしなかったが、心の内に強く実相の完全さを見給うたのであります。

また聖書には次のような事が書かれています。

「見よ。手の萎(な)えたる人あり、イエスその人に言い給う、汝の手を伸ばせ。
その人手を伸ばし、他の手の如く完(まった)くなれり。」

イエスは全く祈りを捧げず、唯、相手に内在する生命の実相の完全さを見られたのであります。


また三十八年来の病気であった一人の人がベッセダの池の傍(かたわら)に立ち、
水の動く時に池に入(い)りて癒されるために待っていました。

「その時イエス彼の伏し居るを見、その長く病めるを知りて言い給う。
汝全(まった)からんことを願うか、力尽きし人曰く、水の動く時我を池に入(い)らしむる
者なし、我行かんとすれば他の人我に先立ちて入(はり)る。

イエス言い給う。起(た)て、床(とこ)を上げて歩け。
その人直ちに全くなり床(とこ)を持ちて歩けり。」(ヨハネ伝第五章ー五-九)

イエスは「病気」の病(びょう)の字も言葉もあらわしていないし、
「癒してやる」とも言っておられません。

病気を心に観ぜず、念ぜず(念ずることは、祈ることになりますから、
病気を念ずると却って病気があらわれるのです。)
ただ実相の完全さのみを観、実相の完全さのみを念じ、既に健康であると念じて、
「床を取上げて歩め」「汝の手を伸ばせ」と云っていられるのであります。

ここに念ずればあらわれ、観ずればあらわれる原理が実践されているのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月8日 頓首再拝>

イエスは何故磔にかかったか - 伝統

2015/04/10 (Fri) 17:55:41



           *『理想世界』(昭和47年4月号)より

信仰は永遠なるもの、幽玄なるもの、霊的なるものを知る力であり、
単に知るだけではなく、それを自己の生活に実現するところの力である。

『信仰』は《高きもの》《幽玄なるもの》《超感覚的なるもの》に向かう心であるが、
『知識』は自分と同等の高さのもの、物質的なるもの、自分の周囲にあるもの、
感覚の対象になるものに向かう心である。

『理性』は『信仰』と『知識』との中間にあって、自分の内部に向かう心である。
そして『信仰』と『知識』とを調和ある相(すがた)において結びつける。

理性が自己の内なる霊的なるものに向かうとき、それは《純粋理性》となり、
理性が肉体の住む物質世界に向かうとき《実践理性》となるのである。

行動が《純粋理性》によって導かれるとき、
それは宗教的行為となり崇高な輝きをもつようになる。

行動が《実践理性》によって支配されるとき、
それは道徳的行動となり、その行動者は圓萬なる道徳家となる。

信仰ある者は逆境に処しても崩れることはない。
困難に抵抗するためには信仰がなければならない。
   
目に見える力が尽きたときにも、
信仰は《目に見えない力》を呼び出してくることができるからである。

信仰にもとずく行為は、たとえそれが失敗しても、その行為は貴いのである。
たとえその行為は表面《敗北》に見えたとしても、
やがてその行為の影響力は全世界を支配する時が来るのである。

イエス・キリストの十字架がそれであり、その行為は《実践理性》の高さを超えて
《純粋理性》の行動化となったのである。

イエスが十字架に釘けられたとき、彼の人生は恰も敗北したかのように見えたのである。
そしてユダヤ人たちは『人を救いて己れを救い得ざる者よ』と言って嘲ったのであった。
けれどもキリストは言った。『われ世に勝てり』と。

そしてやがて全人類はキリストの愛の前に跪いたのであった。

イエスは終始一つに貫いた理想があった。
その理想を成就するためには、肉体の《死》をいとわなかったのである。

彼は当時の政治的権力者であるピラトや宗教的権力者であるエルサレム神殿の
司祭に反抗せずにいることもできたのであるし、またそれに媚びることすらも出来たし、
またその伝道演説をやめて沈黙していることも出来たのである。

しかし彼は自分の神から与えられた使命が真理の伝道にあることを自覚して、
その伝道を中止しなかった。

また司祭にリベートを与えてエルサレムの神殿の境内で犠牲の豚や鳩を売って
金儲けをする商人を見逃しておいて、司祭かる憎まれないでいることも出来たのである。
   
しかしイエスは敢えてそれらの汚職商人を縄を鞭として神殿の境内から追い出して
『神の宮を商売の庭となすなかれ』と断乎として宣言したのであった。
   
これで商人たちからリベートを貰って儲けていた司祭や神官たちはリベートが貰えなくなり、
イエスを憎み彼を殺す口実を捜すようになったのである。

イエスは、斯くすれば斯くなるものと知っていた。
併し、使命は肉体の生命よりも重いのだ。
彼は肉体の生命よりも大切な生命があることを知っていた。

だから彼は『生命を得んとするものは却って生命を失い、
生命を捐つる者は却って生命を得』と弟子たちに教えているのである。

また『汝の目が罪を犯したならば、その目を抉り出して棄てよ』とも言っている。
快楽を貪るための肉体の目が開いているよりも、
彼にとっては魂の目が開くことが大切だったのである。

そして、イエスは斯くの如き自分の行為によって自分が磔けになることを知っていたのである。

だから彼は『駝が竿の先に高くかかげられるが如く自分も十字架に高く晒される時が来る』
といっているのである。 

そうなる事を知りながら彼は真理の伝道を止めることはできなかった。
それは使命は重く、肉体の生命は軽いからである。

それは三島由紀夫氏の自刃の精神に通うものであり、
『斯くすればかくものなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂』と詠った
吉田松陰の精神に通ずるものであった。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18383608.html


              <感謝合掌 平成27年4月10日 頓首再拝>

イエスの十字架と人類の罪の償い - 伝統

2015/04/14 (Tue) 17:54:40

        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P86~91)より

またパンを取り謝してさき、弟子たちに与えて言い給う
「これは汝らの為に与うる我が体(からだ)なり。我が記念として之を行なえ。」
夕餐(ゆうげ)ののち酒杯(さかずき)をも然(しか)して言い給う
「この酒杯は汝らの為に流す我が血によりて立つる新しき契約なり」
                   (「ルカ伝」第22章19~20)


イエスの十字架は肉体の×(クロス=抹殺)であると同時に
+(プラス)であり、復活であります。

諸君の今眼の前に見ている自分の肉体を、自分自身であると見ているかぎりにおいて
人間の「永遠の生命」は見出すことはできない。

「永遠の生命(せいめい)」は肉体の否定によって、
さらに高次の肯定を通してのみ自覚できるのであります。

肉体をもって「自己」自身であると観る知恵は、結局蛇に教えられたる「知恵の樹の果」
であって、これを食した結果アダムとイブ(すなわち「人間」の代表者)は
《エデンの楽園》(永遠生命の世界)から追放せられたのであります。


蛇に教えられたる「知恵の樹の果」というのは、蛇は地を這う動物、
すなわち物質の表層を這う感覚の指さすところの知恵、すなわち五官知で人間を見ると、
人間は「土の塵」の塊であって「永遠の生命」ではない。

すなわち、蛇に教えられたる人間は、神によって「汝は塵なれば塵に帰るべきなり」と、
その有限の生命(死すべき者としての生命)を宣言されたのであります。


アダムの原罪とは実に、「人間」をば五官知のみによって観て、
それを肉体的存在と見誤ったことにあるのであります。

そのかぎりにおいて人間は永遠の罪人である。
彼は生物を殺して食い、争闘し、殺し合い、結局、罪悪の結果としてのみ生活が可能である。
しかしかくのごとき罪悪感に人間は堪えることはできない。

《どうしてもこの肉体的人間、罪悪の塊であるところの人間から脱却し》、超越し、
罪悪なき世界に超入して、罪悪なき人間をば自己自身として自覚しないかぎり、
人間は永遠の自己矛盾(神聖を欲しつつ、泥土に穢れた生活をする矛盾)を
苦しまなくてはならない。

ここに人間がこの自己矛盾から脱却して、神聖なる「神の子」として矛盾なき
円満完全なる本性を自覚するためには、どうしてもこの肉体を否定しなければならない。

この否定を通してのみ人は汚れなき神聖なる霊性の自覚に到達する。
それが完遂せられるまでは彼は、アダムの子孫であり、
「塵なれば塵に帰る」有限者(mortal)たるを免れない。

しかし、この肉体の抹殺はいかにして可能であろうか。
それは自殺することによってであるか。
かくては自己を殺生することになって「殺す勿れ」の誡(いまし)めに反するのである。

しからばわれわれはただ、キリストと繋がることによってのみ、キリストの肉を食らい、
血を飲み、キリストの肉と血と一体となりつつ、キリストの肉体抹殺(十字架)に
つながることによって、キリストの十字架とともに自己の肉体の抹殺が、
現実には肉体をもちつつも、完成されるのである。

さればキリストの贖(あがな)いは二重の意味を持つのである。
それは「贖い」(肉体ありとの観念の代贖的抹殺)と、
したがって生ずる神との合一であります。

肉体の否定によってのみ神との合一が自覚されるのであります。


われわれと同じようにキリストの「贖い」をば説明している人に
クリスチャン・サイエンスの始祖メリ―・ベーカー・エディ夫人ががあります。曰く


   「贖い」は人間が神と一体となることの具体的実行であり、これによって
   人間は神の子としての真理・生命・愛を反映するのである。

   ナザレのイエスは父と子(神と人間)との一体なる真理を説き、それを実証したのである。   
   イエスは勇敢に五官の示す感覚的実証を否定し去り、唯物的誡めとパリサイ的教条とに
   反対し、彼の神癒の力によってすべての反対者に対して実際的反駁を行ったのである。


キリストの贖いは人間を神に和解せしむるのであって、神を人間に和解せしめるのではない。
キリストなる「神の救いの原理」は神そのものであるから、どうして神が神自身をなだめる
ために十字架が必要であろうぞ。キリストは「真理」であり……(中略)


   キリストはすなわち久遠の「愛」から来生した真理であるから、それ自身の本源と
   和解する必要はないのである。それゆえにキリストの目的は人間を神に和解せしめる
   ためであって神を人に和解せしめるためではなかったのである。

   「愛」と「真理」とは、神の実現者、神の具象像である人間に悪意をもつことは
   できないのである。……イエスは人間に、愛(彼の教えの根本原理)によって
   実相を観ることを得せしめ、人間を神に和解せしむることを教えたのである。

   愛による五官以上の、人間の直観によって実相を観た時に、実相の法則すなわち
   神の愛の法則によって、罪と死の物質的法則から人間は救われるのである。
                    (エディ著『実相と健康』18~19ページ)



人間が病気であるのは、人間自身が神と和解していないからであります。
彼は表面の心ではたとい無神論であるにしても、心の奥底では
こんなことで神に赦されるであろうかと思っているのである。

だから彼の不幸と病気とは一種の自己処罰だということができるのである。
肉体を苦しめたら罪が消えるという考えは人類全般の共通的潜在意識であって、
この観念は個人の修行くらいではなかなか抜けきらないのである。

そこにイエスのような代贖者が必要となるのである。
生まれつきの病気は確かに過去世(人間がこの世に生まれ更って出て来るまでの前生涯)
での罪悪を贖わんがための自己処罰であると言うことができるのである。

イエスはその罪障感を消滅せしめることによって、
生まれつきの病気(盲目等)を医(いや)しているのです。


生長の家でも生まれつきの聾唖者が治った実例が数件ある。
米国の在京進駐軍の電報検閲課員のミージョー・ジンギューエー氏の話によると
ハワイの生長の家誌友に癒された六歳の生まれつきの聾唖者があったということである。

イエスは病人をいかにして医(いや)しているかというと、
「心安かれ」「汝の罪赦されたり」「御心なり、浄くなれ」「汝の信仰によって救われたり」
……という種類の語であり、

結局、罪を赦された、救われた、浄まった、心が平安になったというのであって、
それに時々病者が安心するために患部に手を触れることを行なっていられるのであります。

こうして不冶の難症でも恐怖心と自己処罰の念がとれ
真に心の平和が得られたときに治ってしまうのであります、


そうしたらその自己処罰の潜在意識と、恐怖心はどうしたら除(と)れるでしょうか。
その一つの方法は「贖(あがな)い」によって(神との本来一体)が実現すること
によってであります。

しかし、自己の無数の罪業を個々人の勤めはげみによって
ことごとく贖いきることは困難であります。
それにはもっと強力な贖いを必要といたします。

すなわちイエスの「贖い」のごとき強力なる人格者の贖いが必要であります。
その贖いにつながるためには、普通の教会キリスト教ではキリストの肉と血とに
つながりえたと信じ、その信仰によってイエスの肉体抹殺(十字架)の愛行につながり、

自己自身は肉体をもちながら、肉体に関連するいっさいの罪が解除されたとの自覚から、
潜在意識の「自己処罰」の観念が取り除かれてしまう仕組みになっているのでありますが、

その肉体抹殺の真理と、贖いの真理と、それに伴う「罪本来無」と「自己処罰不要」の真理が
真に理解し徹底していないために、現今の普通のキリスト教会へ入教するだけでは
病気が治らないのであります。


しかしクリスチャン・サイエンスではこの贖いの真理を徹底させているから
ずいぶん難治の病気が真理の書を読むだけで治っている。

生長の家でも本を読むだけで病気が治るというので一時問題になったことがありますが、
これらのことが可能なのは、人間本来病なしの真理により、「真理は汝を自由ならしめん」
でありまして、パンや葡萄酒を喫食する行事のごときは、その真理に到達するための
形式的行事にすぎないのであります。

真に「肉体無」の真理を自覚しましたならば、
肉体に付随する生老病死の問題といっさいの業苦は解決してしまうのであります。
病気の解決はその一端にすぎないのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月14日 頓首再拝>

いのちのそのままに生きる - 伝統

2015/04/15 (Wed) 18:59:23


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P91~94)より

もし汝等信仰ありて疑わずば、ただに此の無花果(いちじく)の樹にありしごときことを
為し得るのみならず、此の山に「移りて海に入れ」と言うとも亦成るべし。
かつ祈りのとき何にても信じて求めば、ことごとく得べし。(「マタイ伝」第21章21~22)

なんじら信仰うすき故なり。誠に汝らに告ぐ。もし芥種(からしだね)一粒ほどの信仰あらば、
この山に「此処より彼処(かしこ)に移れ」と言うとも移らん、
斯くて汝ら能(あた)わぬこと無かるべし。(「マタイ伝」第17章20)



ある時、一人の男が癲癇を病む自分の子を連れ来たって
イエスの弟子たちに医(いや)されんことを求めたが、癒えなかった。

そこでイエスはみずからその癲癇の患者に憑依している悪鬼(浮浪の霊)を
禁(いま)しめ給うたならば、直ちに悪鬼いでさり、その時からその子の癲癇が癒えたのである。
そのとき弟子たちがなぜ自分たちには彼を癒すことができなかったかを問えば
イエスはかく答え給うたのであります。

信仰があれば山でさえも移りて海に入る。
無花果(いちじく)の樹も信念ある言葉の力によって枯れたり生きたりする。

いわんや病気を医し、または癒えるくらいはなんでもないのであります。

人間はまず自己の神性に自信をもたなければならない。

イエスが臨(きた)り給うた目的は、結局、「人間は神の子」であって本来円満完全である。
その円満完全さが、「罪あり」「老衰あり」「死あり」との観念で覆われている。
その観念を取り去るためには、罪と病と老いと死との根源である肉体を抹殺することが
必要でありました。


この抹殺によってのみ、人間は生老病死の四苦を滅尽して
永遠の生命(いのち)に入ることができるのであります。
そこにイエスは自己の肉体を十字架につけてのち、復活したのであります。

われわれも肉体を十字架につけたときに神の国に復活する。

われわれはイエスの肉にたとえたるパンを食い、イエスの血にたとえたる葡萄酒を飲むとき、
われらの肉体はイエスと共同の肉体と血となるのであります。

そしてイエスの十字架(肉体の抹殺)と結ばれるとき、この肉体をもちながら、肉体がなくなり、
病むことなく死することなき自由自在な霊的生命に復活することができるのであります。


宗教とはおよそかくのごときものであります。
肉体をもちながら肉体がない。

もちながらない、財産でもなんでももちながらないの境地にならなければ、
それを自由自在に駆使することはできないのであります。
「ある」と思えば引っかかるのであります。

本当に健康な肉体というもにおは、少しも「ある」という想念がなしに働いている。
それは自覚的には働きばかりであって、肉体という固定したものは自覚できない。
生命は「働き」そのものであるからであります。

肉体という固定したものが自覚されるときにはすでに生命が停滞している。
そのままに働いていない。生命が自己分裂して、観る自分と観られる自分とが対立している。

胃があると自覚できるときには胃の働きが悪くなっている。
そのままに働いていない、働きの停滞、または渋滞と、
それを眺める自分と眺められる自分とが対立している。

その対立がなくなって、“そのまま”になる。生命のそのままであり、流動そのままであり、
働きそのままであり、無心である。これが健康の状態である。


無心にならなければ、本当の生命のはたらきはない。
有心という奴がくせ者である。

健康になろうというのも有心である。
病気が治りたいと思うのも有心である。
この有心が迷いである。ただ生きる、

ただ働く、いのちのそのままに生きているのが健康である。

インドの聖者に、ある悩んでいる人が、「なぜあの牛はあんなに楽しそうに生きているので
ありますか」と訊いたときに、その聖者は「牛は《ただ》草を食らいて《生けるなり》」
と答えたそうでありますが、これは草を食って生きているから楽しいというのではない。

「ただ生けるなり」と傍点を付したところが大切なのであります。
「ただ生きている」ならば、草を食わなくとも、何をやっていても、
それがそのまま天国であり、エデンの楽園であり、極楽浄土であります。

「ただ」でないのが、《くせ者》である。
それが知恵の樹の実を食べたことになる。

キリストは「汝ら思い煩うこと勿れ」と言っている。
思い煩うのは「ただ」ではない。

ただ生きているのは幼児(おさなご)の心である。
この幼児の心は一点の曇りもないから、天地の心、神の心に通ずるのであります。

神に和解する心、天地に和解する心、いっさいのものに和解する心になったとき、
天地一切のものは自分の味方であり、自分を傷つけることができない。

そこに天国が現前し、浄土が湧出し、生命(せいめい)がそのままに躍動し、
健康が成就し、家運が栄えるのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月15日 頓首再拝>

幼児の如くならずば、天国に入るを得じ - 伝統

2015/04/17 (Fri) 19:41:27


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P95~98)より


「まことに汝等に告ぐ、もし汝ら翻(ひるがえ)りて幼児の如くならずば、天国に入るを得じ。
されば誰にても此の幼児のごとく己を卑(ひく)うする者は、これ天国にて大(おおい)なる者
なり。また我が名のために、斯(かく)のごとき一人の幼児を受くる者は、我を受くるなり。」
                         (「マタイ伝」第18章3~4)

イエス言い給う「幼児らを許せ、我に来(きた)るを止(とど)むな。
天国は斯くのごとき者の国なり。」(「マタイ伝」第19章14)



治病宗教で有名な天理教の教祖は、
この教えは「ハイハイと掻き上がる教えじゃ」と言われたそうであります。

幼児が素直に、この膝へ来いと言われれば、ただハイハイと父の膝の上へ掻き上がるように
神の膝へ掻き上がるような、空しき心の者が神の国に入るのであります。


「ルカ伝」には「此の幼児の如く己を卑(ひく)うする者」と書かれております。
「己を卑うする者」とは「自分」というものを高慢に突っ張らない。

謙虚な、素直な、そのままの心のものであって、旧約聖書で言うならば、
まだ知恵の樹の果を食べていない ―― 楽園追放以前の人類のごとき者であります。
そういう、自己がカラッポな、素直に福音を受け入れる者のみが救われるのであります。


福音というのは「人間は神の子じゃ」という実相の福(よろこ)ばしき音信(おとずれ)
でありまして、これをそのまま信ずる者が幼児の心であります。

「人間は神の子だから病気がないぞ」と教えられればそのままそれを信ずるのであります。
天理教では「学者と金持ちあと回し」という諺(ことわざ)があります。


「天地の主なる父よ、われ感謝す。此等(これら)のことを智(かしこ)き者、
慧(さと)き者にかくして嬰児(みどりご)に顕(あら)わし給えり。」
                        (「マタイ伝」第11章25)


このようにキリスト教でも学者とパリサイとはイエスによって排撃せられているのであります。
学問が悪いというのではない。科学者は神を知ることができないというのではない。
科学は科学で目的があるが、科学というものは生命を全機として把握することができない。


全機の把握というのは、
「全体一つの機(はたらき)」として生命そのものを把握することなのであります。

科学というものは、ものを現象面から部分的に枝葉を集めて把握する。
(「科」という字は「枝」という意味である。)
すなわち、見るところのおのおのの立場から、その見える面だけを把握する。

人間の周囲をめぐっていろいろの面から写真を写すようなものである。
まちがいではないけれども、その写(うつ)したいろいろの写真をつなぎ合わせて
「立体写真」というものを造っても、決して生きた血の通った人間そのものを
把握することはできないのである。

生きた血の通った人間そのものを把握するには、
自分が生命そのものになって内面的にいのちの全体を把握しなければなりません。
これが哲学的把握であります。


その生命の全的把握を、神なる人格との関係において把握するのが宗教であります。
いくら百万の説教をことごとく憶えておいても、それが宗教的さとりでないのは、
一切経をことごとく憶えていて口述した阿難尊者にさえも、
釈迦は彼を“さとった”としては許さなかったので解るのであります。

しかも仏教の正伝は、釈迦の揚眉瞬目拈華(ようもくしゅんびねんげ)と
迦葉尊者の黙然微笑(もくねんみしょう)との間に感応道交せられたのであります。


宗教は人間の知恵ではない。知恵が悪いというのではない。
知恵をもちながら、知恵を超えたところに、生命の純粋把握があるのであります。
そのためにはわれわれは幼児の心にならなければならない。

幼児の心になるといっても、一遍母の胎内に帰って幼児になって出直すというのではない。
大人のままのそのままで幼児になるのであります。

それには、今までもてるすべてのものをすてて貧しき者になることが必要であります。
「貧しい」といっても貧乏だという意味ではない。

狡知において貧しかったアダムとイブとは、
無限供給のエデンの楽園に生活していたのであります。
ところが知恵の樹の果をたべて、狡知において富んでくると、
かえって無限供給のエデンの楽園から追放せられたのであります。


              <感謝合掌 平成27年4月17日 頓首再拝>

神の国に入るには、肉体なしの自覚に入ることが必要 - 伝統

2015/04/20 (Mon) 17:48:43

        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P98~100)より

(八)
   幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。
                     (「マタイ伝」第5章3)


   茲(ここ)にパリサイ人にて名をニコデモという人あり、ユダヤ人の宰(つかさ)なり。
   夜イエスの許(もと)に来たりて言う、
   「ラビ、我らは汝の神より来たる師なるを知る、神もし偕(とも)に在(いま)さずば、
   汝が行なうこれらの徴(しるし)は誰もなし能わぬなり。」

   イエス答えて言い給う、
   「まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の国を見ること能わず。」

   ニコデモ言う、
   「人はや老いぬれば、争(いか)で生まるる事を得んや、
   再び母の胎に入りて生まるることを得んや。」

   イエス答え給う。
   「まことに誠に汝に告ぐ、……肉によりて生まるる者は肉なり、霊によりて
   生まるる者は霊なり。なんじら新たに生まるべしと我が汝に言いしを怪しむな。
   風は己が好むところに吹く、汝その声を聞けども、何処より来たり何処へ往くを知らず。
   すべて霊によりて生まるる者も斯くの如し。」

   ニコデモ答えて言う、
   「いかで斯かる事どものあり得べき」

   イエス答えて言い給う、
   「なんじはイスラエルの師にして猶かかる事どもを知らぬか。
   誠にまことに汝に告ぐ、我ら知ることを語り、また見しことを証(あかし)す、
   然るに汝らその証を受けず。われ地のことを言うに汝ら信ぜずば、天のことを言わんに
   争(いか)で信ぜんや。天より降りし者、即ち人の子の他には、天に昇りし者なし。」
                           (「ヨハネ伝)第3章1~13)


「肉」によりて生まるる者は肉なり」とイエスは言い給うているのであります。
この肉体を「人間」そのものだと思っていて、それを新たに生まれ更わらせようと思っても、
依然として肉によりて生まるる者は肉なのであります。

われわれが神の国に入るためには、(神の国に病人などはない)
自己自身が肉でないという自覚に立ち復(かえ)ることが必要なのであります。

「知恵の樹の果」すなわち五官知にまどわされて「汝は塵なれば塵に帰るべきなり」と
宣告せられた原罪後の人間から脱却して、

イエスのいわゆる「天より降りし者」(すなわち神聖降誕なる人間)たる自覚に立ち帰るには
どうしても「肉なる存在」としての人間の自覚(「肉より生まれし者は肉なり」)から
脱却しなければならないのであります。


それにはなんらかの形式で肉体の否定をしなければならない。

イエスの硺殺(はりつけ)を通してイエスの贖(あがな)いを信じて、
イエスの肉体抹殺と一体につながる自覚によって、自己の肉体のいっさいの罪が消えたと
信じて、霊なる自分に復活することも一つの方法であります。

あるいは「人間は神の子だ」という直接体験の真理をそのまま幼児(おさなご)の心になって
信ずることもその一つの方法であります。

あるいは「人間は神の子だ」という直接体験の真理をそのまま幼児の心になって
信ずることもその一つの方法であります。

あるいは「物質本来無」という新興物理学の理論を基礎として
「肉体本来無」を悟る近代的哲学で悟ることも一つの方法であります。


イエスの説教のしかたは直接体験の直接説法でありましたから
「吾ら知ることを語り、見しことを証(あかし)す」と言っていられるのであります。

人間が神の子であり、霊的存在であるということは自内証の真理であります。

それは哲学的に理論で追いつめて行く方法(谷口哲学、またはヘーゲル哲学のごとき)も
ありますが、どうしてもそれが単なる哲学に止(とど)まっていては、富士山の周囲から
眺めて行く方法であって、富士山そのものの頂上を踏破したようにハッキリ、
生命の頂上に出て一点の曇りなき青空を仰ぐようには生命をつかみえないのであります。

そこで生命の本性の絶対認識には宗教的直接把握が必要なのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月20日 頓首再拝>

「神は光り」にして少しの暗きところなし - 伝統

2015/04/22 (Wed) 20:16:06


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P100~103)より

次に掲ぐるヨハネの言葉のごときは生命の直接把握であります。


   太初(はじめ)より有りし所のもの、我らが聞きしところ、目にて見し所、
   つらつら視て手触(さわ)りし所のもの、即ち生命(いのち)の言葉につきて、
   ―― この生命すでに顕われ、われら之を見て証(あかし)をなし

   その曾(かつ)て父と偕(とも)に在(いま)して今われらに顕われ給える
   永遠の生命を汝らに告ぐ、……我らが彼より聞きて、また汝らに告ぐる
   音信(おとずれ)は是(これ)なり、即ち“神は光にして少しの暗き所なし”。
                        (「ヨハネ第一書」第一章)



病める者よ、「神は光にして少しの暗き所なし」この言葉を瞑目して十遍、百遍、千遍
となえよ。おのずから自己の身辺光にて満ち、天国浄土ここにありとの観念が生まれてくる
に相違ないのであります。

病まざる者も、健康なる者も、悩める者も、悩まざる者も、この言葉を瞑目して唱えよ。
神は単に病める者のみの神ではないからであります。

かくのごとき真理の言葉を繰り返し唱える時、言葉の力にて次第に存在の実相が
「光明そのものであって少しの暗き所なき」事実がハッキリ自覚されてくるのであります。

光明思想とわたしが名づけたところのものは、
この「神は光りにして少しの暗きところなし」という直接体験の宗教的真理であって、
人間は神の子であるから「少しも暗きところなし」であり、

したがって罪もなければ病もなく、また不幸災難もないのであります。

神はこの真理を神の子なる人間に知らせたいが、人間は五官知(へびのちえ)によって
実相覚を失い、(すなわちエデンの楽園追放状態にいて)人間をただの肉体と思っていて、
どうしても、人間が本来罪なき無病の光明的霊的存在だということを悟らないのであります。


イエスはこれを嘆いて次のように言っておられます。

   「なんじら聞きて聞けども悟らず、見て見れども認めず、此の民の心は鈍く、
   耳は聞くに懶(ものう)く、目は閉じたればなり。」
                       (「マタイ伝」第13章14~15)

われわれは「聞きて聞かず、見て認めざる」五官の感覚をまず否定し去らなければ、
生命の実相(ほんとのすがた)も、存在の実相(ほんとのすがた)も、《真に見》、
《真に知る》ことができないのであります。

どんなに病気のために肉体が、内臓が、皮膚が、骨が、腐爛しているように見えようとも、
われわれは五官感覚のこのような証明を信じてはならないのであります。
現象は「現われの象(すがた)」であって、それは存在の実相ではない。


真理は仏教もキリスト教も一つであります。
『法華経』にあるように、「衆生劫尽きて此の世の焼くると《見るときも》、
《わが浄土は安穏なり》」であります。

この世が諸君の眼の前で壊滅し去り、見渡すかぎり焼け野原に見えようとも、
それは現象であって、実在の実相ではない。

われわれは神を信じなければならないし、神の造り給いしところの実在世界の
完全に美(うる)わしく妙(たえ)なる実相と、そこに住む人間そのものの
完全に健康にして豊かなる実相を知らなければならないのであります。

それには五官の感覚と人間知とが邪魔するのであります。

けれども「肉なる人間」より「霊なる人間」へ、
「病みかつ死する人間」より「絶対無病にして不死なる久遠人間」へ生まれ更り、

しかして復活するためには五官の証明を「ウソだ」「虚妄だ」「虚仮不実だ」と否定し去り、
肉眼に見えなくとも、神の造り給うた《そのまま》の世界が光明に満ち、
神の造りたまえる《そのまま》の人間が、円満無病完全なる霊なる久遠人間であることを
まず信じなければならないのであります。


諸君は五官の証明を、肉体の証明を、真実だと思いがちであるが、
これはまったくウソのことである。ごらんなさい、

五官には太陽は朝な朝な東より西へ出(い)でると見えるけれども、
実相は太陽が出るのではない。地球がその逆方向に自転しているのではありませんか。

肉体に病気があるように見え、諸君の運命に不幸があるように見えるのもそのごとく、
想念の波が反映してそう見えるだけであって、想念を変化したならば、
不幸は消え、病気は消える。消えるほかにしかたがない。

しかしわれわれの想念はどうしても、五官の印象を基にして組み立てられやすいから、
眼に見える不完全なる姿を非存在として否定することと、「人間・神の子」の真理を
教えられるままに幼児の心で信ずることが必要であります。

イエスは、幼児の心で「完全久遠人間の実相」を悟ることを躓かす場合にはむしろ
その眼を抜きて棄てよ」とまで極言していられるのである。

肉体の否定、五官知の抹殺こそ、実相知に復帰する鍵であります。
それで見えると思っている肉眼を抉(えぐ)り棄て、これこそ幼児の智慧(実相智)の
獲得の唯一の条件だとイエスは言っておられるのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月22日 頓首再拝>

幼児(おさなご)の心が奇蹟をおこす(実例~その1) - 伝統

2015/04/24 (Fri) 17:33:01


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P103~106)より

(九)
   我が名のために、斯くのごとき一人の幼児(おさなご)を受くる者は、我を受くるなり。
   然(さ)れど我を信ずる此の小さき者の一人を躓(つまず)かする者は、
   寧(むし)ろ大(おおい)なるひき臼を頸(くび)に懸けられ、
   海の深処(ふかみ)に沈められんかた益なり。

   此の世は躓物(つまずき)あるによりて禍害(わざわい)なるかな。
   躓物(つまずき)は必ず来たらん、されど躓物を来たらする人は
   禍害(わざわい)なるかな。

   若し汝の手、または足、なんじを躓かせば、切りて捨てよ、
   不具(かたわ)またはあしなえに生命(いのち)にて入るは、両手、両足ありて、
   永遠(とこしえ)の火に投げ入れらるるよりも勝るなり。
   もし汝の眼、汝を躓かせば抜きて棄てよ。
                          (「マタイ伝」第18章5~9)



イエスが「我が名のために」と言われたのは名はコトバであり実相であり、真理であります。
(イエスは「我は真理なり生命なり」と言われた)真理を受くるためには幼児の心が要る。

その幼児の心をもって久遠人間の完全な相(すがた)をそのままに素直に受けるのが、
「我が名のために幼児を受くる者は我を受くるなり」であります。

天国に入るための躓き物は五官であり肉体でありますから、その五官の眼が、
生命の実相の完全さを覆うてしまうならば、その五官の眼を抉(えぐ)り出して捨てよ
とまでイエスは激語しておられるのであります。

それは完全なる肉体の否定であり、『般若経』に説く眼耳鼻舌身意の六根六識の否定であり、
かくてこそ「行き行きて浄土現前」(ぎゃていぎゃてい波羅ぎゃてい『般若心経』の陀羅尼)
するのであり、

天国はここに実現し、喪失したエデンの楽園は奪還され、生老病死なく久遠人間が復活して、
病ありと見え、災禍ありと見えた現実世界が消滅するのであります。


幼児(おさなご)の心になって、人間、神の子の真理を素直に受けたとき、
医界難治の粟粒結核のごとき実質的疾患が忽然と消失した事実が、
『人生必ず勝つ』の一章に掲載してあるのでありますが、

今はその本も絶版であり、復版するのもなかなか困難でありますので、
その事実を簡単に再録したいと思うのであります。


神戸に横山美智子という婦人があったのです。
今も生きておられまして真理の生きた証人であります。

横山美智子さんの7歳の坊ちゃんが粟粒結核にかかったのです。
この病気は全身に結核性の粟粒が発生して高熱が持続します。
これは全身の結核であって肺結核よりも重篤な状態であります。

医者もこう悪化すると治るともいわない。
地上の生命(せいめい)はただ時日(じじつ)の問題なのであります。


ところがある人がわたしの著『生命の實相』を美智子さんに貸してあげて
「これを子供の枕もとで読んで聞かせたら病気が治る」と言ったのです。

美智子さんは熱心に『生命の實相』を子供の枕もとで、
子供にわからせるつもりで読んだのです。

『生命の實相』には何が書いてあるかというと、
人間の仮相(かりのすがた)は肉体であるが、
人間の生命の実相(ほんとのすがた)は「神の子」である。

神は円満完全であるから、円満完全なる神様の子供である人間には病気も不幸も、
その実相(ほんとのすがた)においては《ない》と書いてあったのです。

それをその幼児(おさなご)は聴いた。

知者学者ならその所説に反対する心が動いたかもしれませんが、
幼児(おさなご)であるから、無心にその真理を聴き、
無心にその真理を信じたのであります。

幼児(おさなご)は「そんなら坊やは神の子なのね」と言った。

「そうだよ、坊やは神の子なのよ」と母は言った。

「神の子なら病気は無いのね。」

「そうよ、坊やは神の子だから病気はないのよ。」

「じゃ、坊や病気無いから起きるわ。」

こう7歳の坊やは無雑作に言って起き上がると、
それきり病気が治ってしまったのでありました。



諸君はこの幼児のただ無条件に「生命(せいめい)は神より来たる」
「神は絶対健康でる」との真理を受け入れることによって、
本来「神の子」の絶対健康が実現した事実に驚異の目をみはられるとぞんじますが、
「幼児(おさなご)の心」というものは決して年齢の問題ではありません。

老人でも素直に幼児の心になり、
「人間神の子」の真理を心の中に受け入れたとき
驚くべき癒力(いやすちから)が発現するのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月24日 頓首再拝>

幼児(おさなご)の心が奇蹟をおこす実例~その2 - 伝統

2015/04/27 (Mon) 18:47:11


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P106~110)より


岡山在に馬場久さんという老婆があったのです。
この老婆は元来金光教の信者であって、他の宗教を信ずると、
金光教の神様に叱られると思っていた。

ところが生長の家の布教師栗原保介氏の講演を聴いて、宇宙には唯一神のみあって他神なし、
ただ各宗派によってその名称が異なるのは、同一俳優が舞台面でいろいろの配役に扮して
出演するのと同じことであるという真理を聴いて、
安心して「生長の家」の雑誌を読むようになった。

ある晩、夕食を終わって『生長の家』誌を読んでいると、
人間、神の子、本来完全病なしの真理がしみじみと自分の魂の中に滲み込んできたのです。

この婆さんの首筋の横に、もう何十年も前から、長く突き出た疣(いぼ)があった。
婆さんはそれを本を読みながらでも、人と話しながらでも常に指先でつまんでは
引っぱる癖があったのです。

ところが、その晩『生長の家』誌を読みながらその疣を引っぱろうとすると、それが無い。
どうも常につまんでいた疣がないものだから手持無沙汰である。
どうしたのだろうと思って鏡に向かって見ると、疣は影も形もないのです。

『生長の家』誌の彼女の読んでいるページには『人間は神の子であり、肉体は本来無い。
無いものが形にあらわれているのは心の影である。心が変われば肉体の形がかわる』と
あったのです。

考えてみれば完全円満なる人間に、不格好な疣などの本来あるはずはない。
それだのにこういうふうに肉体の一部が膨れていたのは、
自分の心の中に膨れる心(不快の心)があった証拠である。

その膨れる心が、「人間本来神の国に住む神の子である」と解って、
不平不満足の心を起こすべき何物もこの世にはないと悟ると同時に消えてしまった。
膨れる心の消えると同時に、肉体の疣も消えたのだとわかったのであります。


馬場久さんは、その時、自分のわきの下にはもう30年来も番茶茶碗を伏せたほどの
瘤(こぶ)があることを思い出したのであります。

疣が消えたくらいなら、瘤も消えたかもしれないと思って、
袖口から手を入れて探って見ると、その瘤も紛失して存在しないのであります。

その時から馬場久さんは「瘤のとれた婆さん」という名で有名になったのです。

こうなると、馬場久さんに真理の話をきけば病気が治るというので、
近所界隈に評判がひろまったのであります。
すると多くの人が馬場久さんの真理の話をききにまいります。

馬場さんの真理の話を聴いて癒されるものがすばらしくたくさん出てきたのであります。

大阪実業会館で講習会のありました時の馬場久さんの発表によりますと、
ある日一人の婦人が20歳くらいの娘をつれて来たのであります。

その娘は大腿部に小さな田虫ができたのを皮膚病薬を塗って治そうと試みましたが
だんだん周囲にひろがってまいりまして、ついには腰から下両脚のゆび先までも
田虫になってしまったのです。

これでは皮膚薬を用いるにしても非常な分量を要するので大変です。

そしてすでに婚期をひかえている娘のことですから、
この皮膚病を治しておかなければ結婚もできません。

ちょうどその頃馬場さんの噂をきいたので癒(なお)してもらいにやって来たのでした。

「病気なんて無いんですよ。人間は神の子なんですから。」

「だってうちの娘はこんな病気になったものですから、
先生に医(なお)していただこうとわざわざ来たのです。」

「わたしは病気を医すのではありません。ただ病気の無いことを知らせるばかりです。」

「こんなにひどい病気になっているのに、病気がどうして“ない”のです。」

「“ない”ものは無いのです。」

「だってあるから医してもらいに来たのです。」

「ないと言ったらないんですよ。神様は病気をお造りにならないから無いのです。」

「どうして病気が無いということが解るのです。」

「だって無いものは無い。それを信ずるほかはない。
有るものなら理屈もあろうけれど、無いものにはどうしてという理屈はない。」

「だって腰から下ぶつぶつでいっぱいなんです。」

「そんなものは神様が造らないから無い。」

「だって、腰から下ぶつぶつがいっぱいあるのです。」

「それはあなたの心の中にぶつぶつがあるからそう見えるのだ。
あなたの心の中のぶつぶつを捨てなさい。それは消えてしまう。
神様は人間を神の肖像(にすがた)にお創造(つく)りになったのだから
完全円満であって病気なんて無いんですよ。」

「無いものがあると見えるのは?」

「それはあなたがたの心の影なのですよ。
神の創造の完全さを信じなさい。
そしてあなたがたの生活から不平とぶつぶつを取り除きなさい。」

「だって、なんとか先生に娘の田虫を治していただけないでしょうか。」

「心にぶつぶつがなくなったら、もう身体のぶつぶつは無いんですよ。
どれ、心のぶつぶつがとれたか見せてごらんなさい。」

馬場久さんは娘の裾をまくって患部を母親に見せました。
馬場さんにとっては患部を見ることは肉体を見ることではなく、
心の具象化を見ることであった。

不思議なことに娘の下半身全体にひろがっていた田虫は、
その時消えてしまっていたのであった。

田虫を一種の寄生病原体による皮ふ疾患だと思っている人には
こういう奇蹟は驚異すべきできごとだと思えるであろう。


わたしは田虫が寄生病原体のいる皮ふ病だというのを否定するのではない。
しかし、それは心境が変化した「結果」であって「原因」は心の姿にあるのである。

見られる世界は、観る人の心の姿であるという哲学は、ただの哲学ではなく、
実践できる哲学なのである。

自分の心の姿を対境に見ながら、ただの映像にすぎない自分の肉体の状態を実在と思うな。
これは皮膚病にのみあてはまる真理ではない。肺結核にも癌腫にも筋肉瘤にもあてはまる。

この書に諸君の患っている病気と同じ病気の名前がないからとて失望するな。
原理は一つであり、真理は共通する。

見える姿がどんなにあろうとも、神の創造り給える世界と人間との完全を疑うな。
それのみが実在だ。実在は常に完全円満なのである。

実在とは「見える」ということではない。実在とは「真(しん)にある」ということである。
実在とは神の創造内容だ、そしてそれは常に完全なのであります。

              <感謝合掌 平成27年4月27日 頓首再拝>

肉体を否定し、久遠人間のみを観る - 伝統

2015/04/29 (Wed) 18:28:24

        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P134~138)より

(十四)

   キリストの誕生は左の如し。その母マリア、ヨセフと許嫁(いいなずけ)したる
   のみにて、未だ偕(とも)にならざりしに、聖霊によりて孕(みごも)り、
   その孕りたること顕(あら)われたり。

   夫ヨセフは正しき人にして之を公然(おおやけ)にするを好まず、
   私(ひそか)に離縁せんと思う。斯くて、これらの事を思い回らしおるとき、

   視よ、主の使い、夢にあらわれて言う
   「ダビデの子ヨセフよ。妻マリアを納(い)るる事を恐るな。
   その胎(はら)に宿る者は聖霊によるなり。」(「マタイ伝」第一章18~20)


   汝ら心を騒がすな、また懼(おそ)るな。
   「われ往きて汝らに来たるなり」と言いしを汝ら既に聞けり。
   もし我を愛せば父にわが往くを喜ぶべきなり。

   ……父よ、なんじ我に在(いま)し、我なんじに居(お)るごとく、
   彼らも我らに居らん為なり……これわれらの一つなる如く、
   彼らも一つとならん為なり。

   即ち我かれらに居り、汝われに在(いま)し、彼ら一つとなりて全くせられん為なり。
           (「ヨハネ伝」第14章27~28・第17章21~23)


第一の引用文はイエスの受胎が聖霊の受胎のことであり、
第二の引用文はイエスがいよいよ十字架に釘づけられる直前の最後の言葉であり、
「われ」というのはイエスであり、「我ら」とあるのは「父とキリスト」のことであります。

イエス十字架の目的はこの祈りにハッキリあらわれている。
すなわち父とキリストとわれわれ人間とがキリストの《十字架(肉体の否定)》によって
「われ往きて汝ら(人間)に来たるなり」と言われたるごとく、

キリストわれらに来たり給い(人間に宿るキリスト)、神とキリストと人間とが一体になり、
「全くせらるる」(they may be made perfect in one)ためであります。

否、すでにイエスの「肉体の否定」すなわち十字架の実践によって、
人間と神とをへだてていた最後の障害物<人間は肉体なり>との観念は破摧し、
人間は「完(まった)くせられ」本来の《完全さ》に復帰したのであります。

人間は本来完全であり、健全なのであります。

人間は本来肉体ではなく、聖霊そのものだったのです。
それにもかかわらず「肉体なり」との迷妄を五官知(蛇の教えたる知恵の樹の実)よ
り得たために、実相エデンの楽園より追放され、五官の世界を彷徨(ほうこう)していた
のでありますが、今や、その迷妄は除去されたのです。

われわれ人間はイエスとともに、すでに「久遠生命」に復活し、
父と子と人間と一体になったのです。
われらはすでに完(まった)くせられたる聖霊そのものなのであります。

われらは肉より生まれず、淫行より生まれず、女性の子宮より生まれず、
神より生まれたのであります。われわれが出生のとき通過する女性の子宮は
ただ感官より見たる場合の通路であり、神こそわれらの本源なのであります。


人間が肉体の人間の子でないのは、人間がいくら自分で子供を生みたいと思っても
生まれるものでもなく、子供をいらぬと思ってもたくさん生まれる事実でも
証明されるのであります。

どんなに避妊法を行っても、生まれる人は生まれるのであります。
昭和19年8月7日の朝日新聞、家庭欄に、
東京助産学校校長、医学博士佐久間兼信氏の談が載っています。

それによると、手術に巧みなる信用ある医師が避妊法を施すために左右の卵管を切除して、
卵巣から卵子が子宮内へ下降できないようにしても妊娠することがある。
生命の神秘は実に測り知るべからざるものがあると言うのです。


また産婦人科の徳久克己博士の昭和18年頃の著『夫と妻との間』なる書には、
膀胱膣漏(ぼうこうちつろう)といって膀胱が破れて膣と膀胱とが互いに行き抜けて
尿が溜まるにつれて常に間断なく膣口に尿が漏れる病気がある。

こういう場合には膣口を縫合して閉鎖するほかに治療の道がない。
しかも膣口を閉鎖してさえもその婦人が妊娠することがあるという事実が
発表されているのであります。

昭和19年末わたしが上海へまいりました時には小原さんという誌友の細君は
卵巣を左右両方とも同潤会病院で手術して切除した。

それは生長の家誌友になる以前のことであったが、
その後結婚して子供が生まれたと言って、
お礼のためにとてその赤ん坊を抱いて来られた。

左右とも卵巣がないのに赤ん坊が生まれたというのは常識で考えると
不可能のことだと思われますが、神は不可能を可能となし給うのでありますし、
人間そのものは、聖霊そのものであるから、別に「卵巣」がなくとも、
聖霊そのものが孕めば生まれるのであります。


諸君は卵巣がなければ人間は生まれるはずがないとお考えになるかもしれませんけれども、
それならば、人間の祖先を遡(さかのぼ)って人類最初の人間はどこから生まれたので
ありましょうか。

まさか神様は「卵巣」だけを先に作っておいて、
その卵巣の中から人間が生まれたのではありますまい。

すなわち「人間」なる理念(聖霊と言ってもよい)がまず生まれて、
その理念の形に人間が顕われたと考えるほかはない。
(「神その像(理念)の如くに人を創造(つくり)たまえり」―「創世記」)

すなわち人間の出生は肉体の出生ではなくして神聖理念の降臨である。
神聖理念の降臨そのものが人間であり、「肉体」と見えるのはその「神聖理念」
(生命<せいめい>)の取りまく「雰囲気」である。

その雰囲気が心の波によって乱れると、肉体に病気があらわれる。
病気をなおすためには、心の波を平静にして
「神聖理念」を取りまく雰囲気を清める必要がある。

その心の波を平静にするにはどうしたらよいだろうか。
乱れたものを見つめていたのでは心の波はますます乱れるばかりです。

そこで病気をみつめていたのでは病気は消えるはずはない。
病気をいくら研究しても健康は出て来ない。
健康を喚び出すためには生命の健康さを見つめなければならない。

観るとおりにあらわれる世界なのであります。(三界唯心)
人間をば朽ち果つべき肉体的存在であるとは思うな。
肉体の人間を見つめるな。(病人の常として、肉体のことばかりを心に思いつめている。
胃病の人は胃のことばかりを思いつめている。したがって「胃」と顕われている
生命の雰囲気は乱れるばかり、したがって胃病は治らぬのである。)

肉体を否定せよ。
聖霊なる、すでに完全なる、神の子なる、円満なる理念人間
―― 真実人間 ―― 久遠人間のみを見つめよ。

これがすなわち神想観であり、深般若波羅蜜多の修行であります。

仏教では六波羅蜜といって六種の到彼岸法、すなわち彼岸をここに、
把握する方法を説いているのでありますが、その中で五蘊皆空を照見する
般若波羅蜜を第 ―― 最勝としているのであります。

肉体はない、物質はない、五蘊はない、あるがままそのままに空である。
かくてこの身このままに金剛不壊の真身を観ずるのであります。

神想観の実修法は『生命の実相」第四巻(頭注版第8巻)に詳しく説いてありますから、
その方に譲ることにいたします。

              <感謝合掌 平成27年4月29日 頓首再拝>

芥子だねほどの信あらば、 - 伝統

2015/05/01 (Fri) 17:54:33


          *「幸福を招く365章」(P17)より

信仰は山をも動かす。

自信力が個人的なものである限りは、
まだその信念の力は完全に発揮されないのである。

信念が神と云う絶大なものと結びついて信仰になるとき、
それは山をも動かす力となるのである。

「若し、芥子だねほどの信あらば、この山に動いて海に入れといえども、必ず成らん」と
イエスが云ったのは真実である。

絶対不敗の信念こそ、神の成功を得る最高の途(みち)である。

人は自分の心の中に「成功」又は「失敗」を携えて歩むのである。
それが外部からくるのだと思って、外部に依存している限りは
着眼点が間違っているから、失敗があいついで起こるのである。

外の世界は内なる世界の反映だと解って、
人間ははじめて自分自身の主人公となるのである。

自己の内界に無限力なる神を見出し、
その力によって進むものには、失敗はあり得ないのである。

              <感謝合掌 平成27年5月1日 頓首再拝>

誘惑と信仰生活 - 伝統

2015/05/02 (Sat) 19:14:57

         *「叡智の断片」(P43~44)より

ある人は『誘惑に打ち勝つ最善の方法は、誘惑に逆らわずに任せ切ることである』と言う。
そして、このことは『悪に抗すること勿れ』と云うイエスの無抵抗の真理に従うもので
あると云う。

併しながら、誘惑に対して従順に従うことは、誘惑に譲歩してしまい、
屈従して了って自己の神性を汚してしまうことになるのである。

天地一切のものに和解しても、誘惑に和解して、それに《だらし》無く身をゆだねる
ことは、生命の降伏を意味するのであり、誘惑の捕虜(とりこ)になって縛り着けられた
魂となることである。

信仰生活に誘惑があるのは、スポーツに掛引きがあるのと同じことである。
そこに信仰生活に色々の変化が体験せられる。

吾々は、誘惑に和解して身をまかせるべきか、自己の神性に和解して身をまかせるべきか、
二つに一つの板挟みに立たしめられるのである。

この板挟みによって吾々はテストされ、吾々自身がサタン(悪魔)に属するものであるか、
神に属するものであるかが試みられるのである。

斯くの如きテストは自由意志によってみずから、自由に自己が「神の国の者」である
ことを決定し得る機会を与えんがための自己投票であるのである。

強制的にのがれる道なく、「神の子」であると云うことは、
人間の自由人格への侵害である。

サタンにさえも属し得る自由を有ちながら、みずから好んで、みずからの自由意志に
よって「神の子」であると云うことを宣言し得るところに真に自由人格としての
神の子の尊厳があるのである。

イエスが悪魔の誘惑に対して、自由意志によって、「サタンよ、去れ」と宣言した時ほど
彼の神格の自由と尊厳とが発露したことはない。

サタンを拒絶した時のみ、真に自己神性に和解し得るのである。

              <感謝合掌 平成27年5月2日 頓首再拝>

「悔い改めよ、神の国は今此処にあり」 - 伝統

2015/05/03 (Sun) 19:45:40


              *「生命の實相」第39巻仏教篇(P132~133)より

なにがなんでもまず、「人間が肉体である」という現象世界に眼をつぶれ、
そして彼方の世界に渡ることだ。そして実相世界をわがものとすることである。

「彼方」を「今・此処」とすることである。
天国浄土を彼方の遠き世界に観ず、「今・此処」に顕現する、「今・此処」に把握する
―― これが、人間観のコペルニカス的展開をすることである。

これが真の悔改めである。
「悔い改めよ、神の国は今此処にあり」である。

聖書の“Repent ,for the kingdom of Heaven is at hand”を訳するとこうなる。
「神の国はちかづけり」と在来の日本語訳聖書に訳されている意味は誤りである。

“at hand”は「手の届くところに」今利用できるようにあるということである。
神の国(浄土と言ってもよい)がここに手のとどく処に、利用できるところにあるのだ。

諸君よこれを信ぜよ。
信念は力である。
信念だにあれば、神の国は今ここに即刻に実現するのだ。


まず汝が「神の子」であることを信ぜよ。
今現実世界に役に立つ神を信ぜよ。
その時の信仰をわがものとせよ。

事物に勝つためには神を味方としなければならぬ。
米英の光明思想家は「現実に役に立つ神」を“available God”と呼んでいる。
神を「今・ここ」すなわち“Eternal Now”に把握するとき
今ここに神の生活が実現するのである。

今が神の時であり、此処が神の処であり、この我が神の人である。

この把握によって、在来の世界観、人間観が360度転回する。

(180度転回では、「平常心是道」―このままの生活に道を行するようにはならない。
肉を否定して山へ籠る程度の小乗的悟りに堕する。肉体あるがままにそのままに空を観じて、
そのままに金剛不壊身を自覚するのが大乗的悟りであり、人間観の360度転回である)

物質あるがままにそのままに空と観じて、そのままに霊的生命の世界、
叡智充満せる「神の国」(浄土)を今ここに自覚するのが大乗的悟りであります。
釈迦もこの大乗的悟りに到達したのである。

そこから奇跡を生じたのです。生長の家誌友中にも奇跡的治病や無限供給が起こる事実が
あるのもこの人間観・世界観の360度転回によって、神の国(浄土)が今ここに
実現するからであります。

              <感謝合掌 平成27年5月3日 頓首再拝>

常住今此処が神の国 - 伝統

2015/05/06 (Wed) 18:51:30


         *「叡智の断片」(P47~48)より

イエスは言ひたまふ
『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきかを知らぬか。』
                          (ルカ伝第二章一〇九節)

いつでも人間は父の家に居るのである。
無限の平和と、無限の供給と、無限の生命と、無限の愛と、無限の智慧との満ちている
父の家―― 神の国 ―― 實相の世界 ―― 實在界 ―― に住んでいるのである。

十二歳の時イエスが祭の慣習に随って父母と共にイエルサレムに上った帰るさ、
父母は道伴れのうちにイエスもいると思って他の人達と話しながら途中の町まで来ると
イエスがいないのである。

親族縁者のうちにいるかと思って、一日たずね廻ったがいないので、
再びイエルサレムに舞い戻って見ると、宮の境内で教法師たちの中で
神の教をきいているイエスを見出したので、

そこで母マリアが

『何故、かかる事を我らに為せしぞ。視よ、汝の父と我と憂いて尋ねたり』

と云ったときに答えた言葉が、これであった。


『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきかを知らぬか』

常に今此処にいる永遠の世界が、神の世界なのである。
何処にも、危険の世界はない。
何処にも乏しき世界はない。

『我は父の家にいるべきかを知らぬか。』―― これはイエスだけのことではない。
吾々すべてが、各人が『我は父の家にいるべきかを知らぬか』
と言い得べきであるのである。

此の言葉を、瞑目して十篇黙念せよ、百篇黙念せよ、千篇黙念せよ。

              <感謝合掌 平成27年5月6日 頓首再拝>

奇蹟を生ずる原動力 - 伝統

2015/05/07 (Thu) 20:20:19


         *「叡智の断片」(P52~54)より

「ただ有り難い」と念ずることが生長の家の坐禅であり、念仏であります。

坐禅しているときだけが坐禅ではない、神想観するときだけが神想観ではない。
佛の自分であり、佛の世界であると、わからせて頂いて、ただ有り難くなって、
「ただ有り難い」と感謝しているとき、行住坐臥其処に佛が動いているのであ。

坐禅する時だけ佛であって、坐禅を止めたら佛でなくなってしまうのだったら、
我々は仕事をしていることも出来ず、坐ってばかりいなければなりません。 

「祇管打坐」と云うのは坐っていても立っていても寝ていても、
佛のいのちが坐っていると知ることで坐禅である。

我々のすべての生活は、物質の生活にあらず、肉体の生活にあらず、 
「我、常に此にありて説法す」と云われた釈迦牟尼佛の生活が坐禅である。


「久遠の我(われ)」が此処に生きているのである。

何と云う有り難いことであろうと知って、念々「有り難うございます」 
と感謝出来るのが、新たなる自己の発見であり、キリストの復活であるのである。


十字架とは「今此処」にある。
旧我の磔殺と、新我の肯定であります。
それが×(クロス)と+(プラス)との同時存在であるところの十字架でるのである。
 
この「十字架」を背負って、我らはキリストと偕に歩めば、
これが本当の洗礼であるのである。

ヨハネの洗礼は「水でバプテスマを施す」のであったが、
キリストの洗礼は「我れは霊にて洗礼を施す」と仰せられたのである。

それにも拘らず、水ばかりで洗礼を受けてクリスチャンになったと思っている人もあるが、
それでは真の復活はないのである。 
だから今までの教会キリスト教では奇蹟が余り出て来ないのである。

霊(みたま)によって、自覚によって洗礼を受けなければならない。 
自分と「生命」との結びが出来なければならない。 

ところが生長の家では何故奇蹟が起るかと云うと、
霊(みたま)によって洗礼を受け、自分の内にキリストが蘇りたまうことを知り、 
「我往きて汝等に来るなり」とヨハネ伝でイエスが言いたもうた 

「内在のキリスト」を自己の内に自覚し、その「内在のキリスト」こそ
真の自分であると知り、罪の自分が解放されるのであるから、
ただ「有りがたい」と称名するだけで奇蹟的な功徳があらわれて来るのである。

           ・・・

  (初出は、『白鳩』誌(昭和23年6月号)。
   「叡智の断片」収録に当っては、若干の字句の変更があります)

              <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

もてる人は与えられていよいよ豊かならん - 伝統

2015/05/08 (Fri) 18:37:00

        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P78~79)より


(一)
   三業に仏印を表し、三昧に端坐するとき、徧法界悉く悟りとなる。
                        (道元禅師『正法眼蔵』)

   生命の実相の自性円満(じしょうえんまん)を自覚すれば
   大生命の癒力が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。
                        (『生命の實相』総説篇)

   それ誰にても有(も)てる人は与えられて愈々豊かならん。
   然(さ)れど有たぬ人は、その有てる物をも取らるべし。
                      (「マタイ伝」第13章12)



聖書および仏典は実に無限の神智湧出の源泉であります。
表面からこれを見れば詭弁や警句がつらねてあるように見えますが、
それを神智の鍵をもって開くとき滾々(こんこん)として湧き出ずる
神の啓示に接するのであります。

「もてる人」というのは、「すでのもてることを自覚せる人」の謂(いい)であります。
人間には「すでにもてる無尽蔵のもの」がある。
それを『生命の實相』では「自性円満」と表現(かきあらわ)されているのであります。

仏教では「本来清浄(しょうじょう)」とも、「一切衆生悉有仏性」とも、
「即身成仏」とも申すのであります。


一切衆生悉有仏性と申しますのは、すべて人間、生きとし生けるものは
悉く仏の本性をもっているということです。

その仏の本性は本来清浄(しょうじょう)、きよらかであって、
罪がなく円満なるもの、完全なるものである。
それを自性円満と申します。

自性すなわちそれみずからの本性が円満完全であるから、病気になりようがない。
すでに無限の善をもっている。すでに無限の完全さをもっている。
そのすでに無限の円満さをもっているにもかかわらず、それを自覚しない。

それを聖書では、「もたぬ人」と書かれているのです。
もっていても自覚せぬと、もたぬと同様である。

人間は神の生命(いのち)(仏の生命)をもっているから、すでに円満完全であって
病気になりようがないのに、それを自覚せぬためにもたぬと同様である。

そういう人はいよいよその生命力が乏しくなります。
(「もたぬ人」はそのもてる物をも取らるべし)

これに反して自己の生命(せいめい)が神の生命(いのち)で本来円満完全であると
知る人は、その生命力はいよいよ豊かになるのです。
すなわち「もてる人は与えられていよいよ豊かならん」であります。

              <感謝合掌 平成27年5月8日 頓首再拝>

奇跡の成就~それは「信仰心」と「言葉の力」 - 伝統

2015/05/09 (Sat) 19:40:27


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P80~82)より


(二)
   諸君がもし絶対健康を求むれば、絶対健康の秘訣は、まず自己が絶対健康である
   ことを知るにある。汝の生命を今、神の生命なり、ぜったい健康なりと信ぜよ。
   信じかくして絶対健康として行動せよ。

   その時汝は絶対健康となり、病める者も自癒するのだ。
   キリストの奇跡はこの真理を実証しているのであります。(『生命の實相』生活篇)


   視よ、12年血漏(ちろう)を患いいたる女(おんな)、
   イエスの後(うしろ)にきたりて、御衣(みころも)の総(ふさ)にさわる。
   それは御衣にだに触(さわ)らば救われんと心のうちにいえるなり。

   イエスふりかえり、女を見て言い給う「娘よ、心安かれ、汝の信仰なんじを救えり」
   女はこの時より救われたり。(「マタイ伝」第9章20~22)』


この驚くべき奇跡が成就したのは、一つは患者自身の信仰によるのであって
「汝の信仰なんじを救えり」である。

さらにその信仰が現実的力となって神癒を完成したのは、
「娘よ、心安かれ」という言葉の力であります。

かつて帝大病院の真鍋嘉一郎教授が同病院で診察していたとき一人の老婆が田舎から
教授の名声を慕って自分の難病を治してもらいに来たのであります。
真鍋教授は型のごとく診察して、処方箋を書き、
「これを10日分に分けて服みなさい」と言った。

その老婆は一ヵ月ほど後に、わざわざ上京して同教授の許へ訪れて、
「先生、お蔭さまでスッカリよくなりました」とお礼を言った。

真鍋教授が「あの薬はよく効いたでしょう」と言うと、
「先生様に頂きましたあの紙を10日分に刻んで服みましたら、本当によくききました」
としきりに感謝している。

この老婆は薬剤を服むかわりに、処方箋を服んで治ったのである。
まことに「汝の信仰なんじを救えり」であります。

しかし、その信仰を喚起したのは教授の「これを服んだら治る」という
「言葉の力」であったのです。処方箋や、御衣(みころも)の総(ふさ)は
信仰を喚起する媒体になったのであります。


言葉の力で、人間が健康になるのは、
人間の本来が「健康」《そのもの》であるからであります。
本来内在している「健康」《そのもの》も、それを自覚せざる人には顕われない。
これが「もたざる人はなお奪われる」真理であります。

健康の自覚をもてば、その自覚がその表面にあらわれて健康を増進する。
これがもてる者はなお与えられる真理であります。

キリストは申されました。
「心安かれ」と。
「心安かれ」 ―― これが、病気を治す最大最有効の心の持ち方であります。

心に心配や恐怖をいっぱい詰め込んでおいて健康になろうと思うのは、
草の上に大きな重石(おもし)を置きながら、その草を伸ばそうとするような
ものであります。

人間の生命(いのち)は本来円満完全であるのに、
その円満完全さの上にいろいろと心の迷いの塵埃(じんあい)をもって覆うているが
ためにその円満完全さが発露しないのであります。

心の迷いの中で最も大なる塵埃は「心の不安・恐怖」であります。
多くの人は不安と恐怖とのために地上の生命(せいめい)を縮めているのであります。

その不安と恐怖とを取り除くのは真理の言葉によるのであって、
キリストの言葉や真理を語る書物の言葉は大いに効果があるのであります。

アメリカのクリスチャン・サイエンスの本や、『生命の實相』の本などは
読んだだけで無数の病気の治った治験例が発表されておりますが、

これは「人間本来神の子・病気本来無し」の真理が、言葉の力をもって
あらゆる方面から自由自在に説いてあるために、「病気あり」と信ずる迷妄(まよい)が
吹き消されて、恐怖が消え、不安が去って、雲の晴れた後に輝く満月のように、
明皓々と、人間本来の実相たる円満完全さが輝き出でるからであります。

              <感謝合掌 平成27年5月9日 頓首再拝>

人間の実相 - 伝統

2015/05/10 (Sun) 17:45:52


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P82~84)より


(三)
   神その創造(つく)りたるすべての物を見給いけるにはなはだ善かりき。
                         (「創世記」第1章31)


雲がはれて満月が皓々と輝くのは本来満月があるからであります。
恐怖、不安の迷妄が覚めて、人間が健康になるのは人間の本来が健康だからであります。

西行法師も「雲晴れて後の光と思うなよ、もとより空に有明の月」と歌っておられます。

病気が治って始めて健康が出て来るのではない、もとより人間の実相が健康であるから、
迷いが晴れて「健康」が顕(で)て来るのであります。

宗教というものはすべてこの人間の健全なる「神そのもの」なる、
「仏そのもの」なる実相を自覚せしむるためのものであります。



(四)
   イエス家にいたり給いしに、盲人(めしい)ども御許(みもと)に来たりたれば、
   之に言いたまう。「我このことをなし得(う)と信ずるか。」

   彼等言う「主よ、然り」ここにイエスかれらの目に触(さわ)りて言いたまう
   「なんじらの信仰のごとく汝らに成れ」すなわち彼等の目あきたり。
                       (「マタイ伝」第九章28~30)

   衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ。
   譬えば水の中にいて渇を叫ぶが如くなり。
   長者の子となりて貧里に迷うに異ならず。(白隠禅師)


これは一人の盲人ではなく大量神癒の実例であり、
言葉の力と、目に触れたる触覚とを媒介として、内在の信仰が深く啓発され、
多数の盲人がことごとく視えるように癒されたのであります。

なぜ癒えるか、人間の本来が「神の子」であり、健康であるからであります。

白隠禅師も「衆生本来仏なり」と言われております。
『涅槃経』には「解脱をもって仏とす」と言われておりまして、
解脱すなわち、本来の自由自在な生命の実相が「氷」のように迷いのために
結ばれて本来の自由自在を失っている。

その結ぼれを解き脱し、結縛がホドケて自由自在になった状態が仏であります。

成仏すなわち「ほとけに成る」とは迷いが「ほどけ」て「人間、神の子」
本来の自由自在の状態が復活せる状態になることを言うのであります。
仏教もキリスト教もこの点においては同一であります。

日本語源では、「人間・神の子」という意味を、
ヒト(日止)と言い、ヒコ(日子)またはヒメ(日女)と言います。
日止は大日如来の分霊(わけいのち)がわれわれの生命の中にやどっている
という意味であります。

大日如来の息子が(日子)であり、大日如来の息女(むすめ)が「日女」であります。
キリスト教的に言えば、人間は「神の子」だという意味であります。

人間は神の子であるのに、それを自覚しなければ顕われない。
それを自覚せんがために釈迦は6年苦行せられ、キリストは40日40夜断食せられた。
この種の苦行の意義は、肉体の否定ということであります。

肉体において「神の子」なる生命が顕われているのであって
肉体そのものが「神の子」なる生命ではない。

だから「神の子」なる生命を顕わすためには、まず肉体を否定しなければならない。
イエスの十字架は肉体否定の最後の段階であります。

『法華経』の薬王菩薩本事本にも一切衆生喜見菩薩が肉体を否定して、
これに火を点じて焼きつくした後に金剛不壊の黄金の身を生じたとあるのは、
肉体否定の最後の段階を通して、人間が永遠の生命を獲得するとの真理を
神話化して物語られたものであります。

              <感謝合掌 平成27年5月10日 頓首再拝>

霊か、物質か、いずれを選ぶか - 伝統

2015/05/13 (Wed) 17:41:55


         *『 生長の家 』誌(昭和40年3月2日)の法語より

右するか、左するかだ。
右と一緒に左にも行こうなどと狡(ずる)いことを考えてはならない。
神は甘言(かんげん)によって胡魔化(ごまか)されるものではないのである。

祈りさえすれば物質的な利益や、肉体的な快楽の功徳を
神が与えたまうものだと考えてはならないのである。

教師でそのように説く場合が若(も)しあるとするならば、
それは物質に眼がくらんでいる人を神に振り向かせるための
一時的な方便の説法に過ぎないのである。

折角(せっかく)、神に振り向きながら、
神を「物質的富の配達夫」だぐらいにしか思っていない人があるのは
誠に残念なことである。

神はただ霊の賜物(たまもの)のみを与えたまうのである。


「 神は霊なれば拝する者も霊と真(まこと)とをもて拝すべきなり 」


(『ヨハネ伝』第四章二四節)とイエスは教えていられるのである。

              <感謝合掌 平成27年5月13日 頓首再拝>

キリストは道標 - 伝統

2016/11/08 (Tue) 18:12:06

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より

キリストに対するユダヤ人の呪いは「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を瀆(けが)す
ものである」ということであった。

ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された「土の塵の人間」、
「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」とエホバの宣言したところの
物質人間でしかなかったのである。

キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、
「人間は神の子である」と宣言したのである。

そして「我(われ)は道であって、この道を通ればすべての人間は神の子なることを自覚し
えて、永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」と断言したのである。

キリストは道標(みちしるべ)であった。
キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、
われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである。

              <感謝合掌 平成28年11月8日 頓首再拝>

吾らは神の生命の枝 - 伝統

2016/12/10 (Sat) 18:42:04


       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

           <感謝合掌 平成28年12月10日 頓首再拝>

《私のために奇蹟を求むな》 - 伝統

2016/12/11 (Sun) 18:05:02


         *「光明法語」(12月11日)より

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

              <感謝合掌 平成28年12月11日 頓首再拝>

《商売主義を排す》 - 伝統

2016/12/12 (Mon) 19:19:03


         *「光明法語」(12月12日)より

イエスはユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りのちかづいたとき、
イエルサレムの宮の境内に、牛、羊、鳩を売るもの、

両替する者などが坐っているのを見て縄の鞭をつくり、
羊をも牛をもみな宮より逐(お)い出し両替する者の金を散らし、
その台を倒し、鳩を売る者に

「これらの物を此処より取去れ、わが父の家を商売の家とすな」
と言った事が聖書に書かれている。

イエスは神を利用して儲けるところの商売主義に反対したのである。

神に対して商売的な功利主義で相対することは間違いである。

              <感謝合掌 平成28年12月12日 頓首再拝>

《形式主義を排す》 - 伝統

2016/12/13 (Tue) 18:20:12


         *「光明法語」(12月13日)より

イエスは暴力を用いなかったか、絶対に無抵抗主義であったかどうか
と云う問題についての議論の際引用せられるのが此の『縄の鞭』である。

イエスは形式主義者ではなかった。
『つるぎを執る者は剣に滅ぶ』といったイエスも剣のほかに
『縄の鞭』は使ったのである。

イエスは『審判(さば)く勿れ』と教えたが、
彼は激して形式主義のパリサイ人を審判いている。

また『審判(さばき)は子にゆだね給えり』とも言っているイエスは
生命主義者であり、生命の動く儘に自由に振舞ったのである。

              <感謝合掌 平成28年12月13日 頓首再拝>

自己内在のキリストを礼拝せよ - 伝統

2016/12/24 (Sat) 19:23:30


        *「神と偕に生きる真理365章」(P338)より

今日はクリスマス・イヴである。

クリスマスの前夜こそ、まことに心を”神の国”に在(いま)すキリストに、
そして”自己に宿るキリスト”に心を振り向けて、
”普遍のキリスト”と”自己内在のキリスト”との一体感を深めるべき時なのである。

キリストとは固有名詞ではなく、神から遣わされて
”母”の胎内に宿ったところの”神の子”の霊なのである。

すべての人間に”神の子”の霊が宿っているのである。
それがあなた自身の「本当の自己」であるのである。

それ故に、イエスは、その模範的祈りなる「主の祈り」に於いて
「天にまします”我ら”の父よ」と神に呼びかけるように教えられたのである。

まことに「我ら」(複数に注意せよ)人類全体の父が”神”なのである。
だから我ら人類は悉く”神の子”なのであって、神の生命を宿し生れているのである。

この事を知って、このクリスマス・イヴを機会に、
自分自身に内在する”神の子”(キリスト)を礼拝し、感謝し、
神の子らしく清く正しく健やかに生活しようと断然と決意すべきであるのである。

         <感謝合掌 平成28年12月24日 頓首再拝>

Re: イエス・キリスト - bwyidohnwMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:52:10

伝統板・第二
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