伝統板・第二

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英霊の言乃葉 - 夕刻版

2015/04/02 (Thu) 17:38:00

光明掲示板・伝統・第一「英霊の言乃葉 (153)」からの継続です。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=69

・・・

《陸軍憲兵軍曹 相馬竹三郎の遺書》

遺言書

陸軍憲兵軍曹
相馬竹三郎命
昭和二十三年四月八日
セレベス島メナドにて法務死

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町出身
二十九歳

(前略)

我が身は既に陛下に捧げ奉りし身にて、何等惜しくありませんが
戦ひ終りました今日、国の為にたてた勲が仇となり、刑場の露と
消えるのは残念至極です。

只皇国の復興と郷里に遺せる祖父弟妹の身上が案ぜられるのみです。

今後の兄上様の前途は多岐多難なるも祖父弟妹と御互に扶け合ひ、
又夫婦仲良く暮されん事を望みます。
今となっては何も思ひ残す事もありません。

(中略)

では兄弟よ、長い間の生涯本当に御世話様になりました。
一足先に永遠の庭へ心静かに旅立ちます。
元気にて御身体を大切に、

さよなら。

昭和二十三年二月十七日


                      相馬竹三郎

大日本帝國万歳
天皇陛下万歳
大アジア万歳 

 遺詠

国破れ捕はれの身となりつれど 天地の神に恥づる事なし 
(原文のまま)

・・・

(以下は、Web:日本文化チャンネル桜」より)

  遺言書

   (省略)


   遺 詠

山高く水又清きふるさとの
    いぶせき吾が家如何にあるらむ

とことはに我が身は「セ島」に朽ちぬとも
    世に語りつぐ人もこそあれ

国破れ捕はれの身となりつれど
    天地の神に恥づる事なし

桜咲く皇御国に百歳の
    君が齢を我祈るのみ

島人の別れ言葉は嬉しけれ
    交はす日本語片言なれども

一碗の飯亦嬉し今日もまた
    南の牢に白雲流れ

http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=50026&page=7&genre=giron

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「英霊の言乃葉」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2160

(2)光明掲示板第三「英霊の言乃葉Ⅱ」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=28


         <感謝合掌 平成27年4月2日 頓首再拝>

ペリリュー島守備隊の英霊に感謝! - 伝統

2015/04/10 (Fri) 17:53:04

ペリリュー島で、悠久の大義に殉じた英霊に感謝申し上げます。


天皇・皇后両陛下が、ご訪問されたパラオ共和国。
同国のペリリュー島では、昭和19年9月から約2か月間、日本軍米軍との間で
壮絶な激戦があり、日本軍側将兵約1万人が亡くなられました。

ペリリュー島での戦闘は、次のWebも参考になります。

  → http://www12.atpages.jp/tamahagane/daitoa-4.html

  → http://ameblo.jp/shiragamajin/entry-11819190577.html


日本軍の主力となった「帝国陸軍歩兵第2連隊」は、茨城県水戸市で編成された部隊でした。
その関係もあり、茨城県護国神社には、ペリリュー島守備隊の戦歿者慰霊碑があります。

                 ・・・

《ペリリュー島守備部隊 鎮魂碑(碑文全文)》

明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して、赫々(かくかく、=光り輝く様子)たる
武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣(たけなわ)の昭和十九年三月、
北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、

聯隊長中川州男大佐は、一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し、
敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。

九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、
想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇群を迎撃して大打撃を与えた。

爾後(じご、=それ以来)上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、
洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつつ、持久の任務を遂行したが、
十一月二十四日、遂に戦力尽き、

中川部隊長は、軍旗を奉焼し訣別電報「サクラ、サクラ」を打電して自決、
残る将兵は遊激戦に転じ悉(ことごと)く悠久の大義に殉じた。

守備部隊の武勲は畏(かしこ)くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、
陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告され、世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。

ここに、その偉勲を景仰(けいぎょう、=仰ぎ慕うこと)し、
英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、
五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。

平成五年十一月二十四日  少二会・ペリリュー島慰霊推進会

                 ・・・

天皇皇后両陛下がご訪問されたことを、英霊は本当に喜ばれていると思います。

今日の日本の平和や繁栄は、このような先人の尊い犠牲の上にあることを
私たちは決して忘れてはなりません。

英霊に感謝。


・・・

1981年、パラオ共和国が誕生したとき、
パラオの人々が、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌をつくりました。

       *Web:「ねずさんの ひとりごと」より


【ペリリュー島守備隊を讃える歌】

一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 ヘいしは桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-525.html

         <感謝合掌 平成27年4月10日 頓首再拝>

土肥原賢二陸軍大将(教育総監)の遺書 - 伝統

2015/04/19 (Sun) 18:50:37


-辞世の句-

「わが事もすべて了りぬいざさらば さらば、ここらではい左様なら」

「天かけりのぼりゆくらんわが魂は 君が代千代に護るなるべし」

   (http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/doihara_isho.html

           ・・・

「拙者の死後は或(あるい)は幾多の誹謗(ひぼう)が一家に集中されるかも知れぬが、
決して争い事をしてはならぬ。『忍』の一字は『仏』の強きいみじき御教えだ。
瞋恚(しんい)(怒り)は堅く戒められて居る。
唯々(ただただ)、念仏を称(とな)え奉りて法悦に入れ」

 
獄中からの手紙で、土肥原は何があっても耐え忍ぶようくぎを刺していた。

           ・・・

【土肥原賢二陸軍大将(教育総監)】

陸軍大将、在満州特務機関長
明治16年(1883)-昭和23年(1948) 享年65歳

陸軍士官学校(16期)、陸軍大学校(24期)卒業。
昭和6年、奉天特務機関長に就任。
満州事変の翌日には奉天臨時市長に就任。

清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を首領とした満州国創立工作の中心的な働きをする。

「帝国陸軍きっての中国通」と呼ばれ、欧米人からは「満州のローレンス」と畏怖されたが、
性格は温厚、寛容。私欲に走らず、中国人や満州人の面倒をよく見ていたため、
中国人からも篤い信頼を得ていた。

特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。



・・・以下は、春日井邦夫『情報と謀略:下巻』より抜粋

(1)第一次大戦は史上初の国家総力戦であったが、
   情報と謀略が真に国家の命運を分けることを実証した戦いでもあった。

   とりわけ、諜報、防諜、謀略、暗号、宣伝など、
   秘密戦への知恵と準備が勝敗を決定する大きな要素であることが明らかになった。

(2)日本陸軍の「特務機関」は、シベリア出兵を契機に創設され、
   大陸での情報収集の拠点となったのである。

(3)1938年7月には、かつて満州事変に奉天特務機関長として活躍し、
   「満州のロレンス」といわれた土肥原賢二中将が、
   諸謀略の中央直轄機関長として派遣されることとなった。

(4)土肥原中将は上海に「土肥原機関」を設立し、
   当時の金で1000万円以上という厖大な機密費を与えられて
   謀略工作に専念したのであった。

(5)東京裁判での土肥原被告の沈黙。
   土肥原賢二大将は戦後「東京裁判」で、
   その多くの対中謀略工作に従事した経歴を問われ、絞首刑となった。

   その略歴は次の通りであった。


1928年、中国政府の招聘で、奉天督軍顧問。

1931年、関東軍司令部付で奉天特務機関長となり、溥儀脱出工作を担当。

1937年、第14師団長。

1938年、参謀本部付で3度目の土肥原機関を指揮。

1939年、第5軍司令官。

1940年、軍事参議官。

1941年、陸軍大将、航空総監。

1943年、東部軍司令官。

1944年、第七方面軍司令官(シンガポール)。

1945年、教育総監、第十二方面軍司令官兼第一総軍司令官(東京)を歴任。


(6)東京裁判で土肥原被告は、ついに個人反証の証人台に立たず、沈黙を守った。
   国府検事団は膨大な証拠を用意して追及を準備したが肩透かしとなり、
   3日間の審理は波乱もなく終了。

   判決は、共同謀議、中国・アメリカ・イギリス・オランダに対する侵略戦争の実行、
   張鼓峰事件・ノモンハン事件における侵略戦争の実行、残虐行為の命令授権、
   許可について有罪とされ、絞首刑が宣告執行された。

(7)土肥原被告は「宣告の終わった瞬間、一切の不安がなくなり、急に朗らかになった」
   と述懐したが、情報将校として何事も語らずに、黙々と死に就いたのである。


<参考Web>

(1)三ケ根山の「殉国七士廟」の一人
    → http://nezu621.blog7.fc2.com/?mode=m&no=1046

(2)遺族の辛酸
    → http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/issyu/CK2014062402000237.html

         <感謝合掌 平成27年4月19日 頓首再拝>

《海軍少佐 沖山文忠の遺書》 - 伝統

2015/05/01 (Fri) 17:42:41


         *靖国神社社頭掲示~平成27年5月 より

遺書

海軍少佐 沖山文忠命
昭和二十年五月十五日
南西諸島方面にて戦死
東京都八丈島大賀郷村出身 
二十五歳


(前略)

今、敵米英艦隊が断末魔の苦しみにもがいて居る戦場に程近い基地
で待機、今日明日の必死必中攻撃を待って居ります。

今は何も憶ふ事はありません。

唯、青史(せいし)まさに三千年ゆるぎなき神州に生を享けて二十有余年、
広大無辺なる鴻(こう)恩(おん)に浴し父母の慈愛に育まれ、
山よりも高く海よりも深い師の導きにより、

大東亜の盟主たる皇国民として大過なく今日あるを得、
今又赤子の一人として神風特攻隊員として神州の不滅を確信しつつ悠久の大義に生きる。

例へこの身は敵米艦と共に太平洋のもくずとならうとも、
日本男児と生を享け之に過ぐ可き本懐が又とありませうや。

(中略)

皇国の興廃を賭するこの一大過渡期に当りて、
君の御楯と散り行くわが身は実に幸福であります。

最後に臨み申し上げ度き事は、
皇室のご安泰と大東亜の健全なる発展を神かけてお祈り申し上げる
と云ふ事であります。

尚、亡き母は勿論、父上始め肉親の皆様、長々とご苦労のみお掛けして
何等為す処もなく、孝養らしき事すらせずして去り行く私を何卒お許し下さい。

では皆様末長くお幸福に。
 
 昭和二十年五月六日
                                   沖山文忠


沖山徳三郎殿   


         <感謝合掌 平成27年5月1日 頓首再拝>

《海軍少佐 古谷眞二の遺書》 - 伝統

2015/05/16 (Sat) 17:55:07


         *靖国神社社頭掲示~平成20年5月 より

海軍少佐 古谷眞二命
昭和二十年五月十一日
海軍第十三期飛行科予備学生

攻撃第七〇八飛行隊
南西諸島にて戦死
東京都京橋区槙町出身
二十三歳



皇國の一男子として生を享けて以来二十有余年、
國を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、
正に之に過ぐるものなし(中略)

過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして、
浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず、
その深遠厚大なるに対し深く(*繰り返し)厚く(*繰り返し)御礼申し上ぐるものなり。

御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより
身体を毀傷せずして無事帰還の譽を擔はんこと、
朝な夕なに神佛に懇願すべくは之親子の情にして当然也、

不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後、
孝養を盡くしたきは念願なれども、

蓋し、時局は総てを超越せる如く重大にして徒に
一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。

大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、
すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり、

幸ひ弟妹多く兄としてのつとめは果せざるを遺憾とは思ひつゝも
願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。

死すること、強ち忠義とは考へざるも、
自分は死を賭して征く、必ず死ぬの覚悟で征く、萬事頼む   


       眞二

 十八年六月十日 箱根小涌谷にてしたゝむ


         <感謝合掌 平成27年5月16日 頓首再拝>

北野正憲・陸軍准尉の遺書 - 伝統

2015/06/01 (Mon) 17:32:12



(靖国神社社頭掲示~平成27年6月)


辞世の書

陸軍准尉 北野正憲命
昭和十八年十一月五日
ニューギニアブーツ東飛行場にて戦死
鳥取県東伯郡赤碕町出身
二十四歳



父上様、母上様


謹みて正憲辞世の言葉を開陳申し上げます。

過去二十有余年、永々の御養育下されました事を厚く御礼申し上げます。
有難うございました。その間、何一つ孝行のできなかった事を先づ御許し下さい。

私も此の歴史的大東亜戦に参加でき、帝国軍人として国家に御奉公できまし
た事を嬉しく思って居ります。小さい時より軍人を志しその願いが叶って身を
国家に捧ぐる事は、私として最大の宿望であったのです。


(中略)


軍人の父として又母として、国家に盡(つく)した功労は実に最大の名誉であり是以
上の光栄はありません。決して泣いて下さいますな。

血湧き肉躍らせつつ勇躍征途に登りし空中戦の花と散った南海の大空に向って、
正憲はよくやったわいと褒めて下さい。
そして声の続く限り萬歳を三唱して下さい。


(中略)


時巡りて若芽吹く桜の春来たれば、
靖國の花の下で老いた父上母上様を始め兄弟揃って再会する日を待っています。

親戚一同様にも生来お世話になりました。
何も盡すことが出来なかった事を御許し下さい。

正憲の魂は故郷の仏壇にありて、北野家代々の繁栄を守り私は永遠に生きています。
                                             


北野正憲

       (http://www.yasukuni.or.jp/history/will.php

         <感謝合掌 平成27年6月1日 頓首再拝>

小倉孝雄・海軍大尉の遺書 - 伝統

2015/07/01 (Wed) 18:09:12


(靖国神社社頭掲示~平成27年7月)




弟へ

海軍大尉
小倉孝雄 命 

昭和二十年四月二十四日
フィリピンルソン島にて戦死

東京都大田区久ヶ原町出身
二十一歳



拝啓 晩秋の候、貴殿益々意気軒昴(けんこう)にして生徒生活に全力邁進の
事と御推察申し候。

小生、愈(いよいよ)出陣の時機到来にて全力必死。
唯、皇国の御為、死力を尽くす覚悟に候へば、御安心下され度候。

貴殿もいづれは、帝国海軍将校となるべき修養中の御身なれば、
目標を高きに置き決死の努力研鑽を望む次第に候。

何事も

     気 力
     努 力
     誠 心

により、全て成らざるはなしと確信致す次第に候。

貴殿の兄として充分なる指導をなし得ざりしは、不徳の致す所。
深く恥づる所に候へ共、愛弟の念、切なるものあり。

厳冬に向ふの折から自重、自愛全力生徒生活に突撃せられん事を
切望する次第に候。
                                   

敬具
          前夜               
                                      
孝 雄

成美 殿
 
(原文のまま)

        (http://www.yasukuni.or.jp/history/will.php

         <感謝合掌 平成27年7月1日 頓首再拝>

「いつまでもいつまでもお元気で」(書籍)の紹介 - 夕刻版

2015/07/16 (Thu) 18:30:09

大東亜戦争末期、鹿児島県の知覧には特攻(特別攻撃隊)基地がありました。
アメリカの戦艦に体当たりをして相手に打撃を与えるために、
片道分の燃料と爆弾を積んで多くの若者がその知覧の飛行場から飛び立ちました。

この本に収められているのはその若者たちが出した手紙です。

似たような趣旨の本として『きけ わだつみのこえ』があります。
こちらは学徒兵の遺書(主に日記)を集めた遺稿集です。
が、編集者の意図がかなり強く反映していて、戦争への懐疑もみられます。

 
一方、本書は、手紙。
短い文面に、相手への気配りの言葉、感謝の言葉が多く見られます。

その一方で、特攻成功への意志を語る言葉がそのまま掲載されています。

本書は戦争や特攻に対しての賛否や評論の本ではありません。

載っているのは若くして守りたいものの為に
自らの命を犠牲にした若者たちの最後の手紙のみ。

ただ純粋に、守りたいものの未来を思ってそれぞれが遺してくれた手紙です。


・・・

  「枝幹二 22歳」

あんまり緑が美しい
今日これから
死にに行く事すら
忘れてしまいそうだ。

真っ青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲
六月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。

作戦命令を待っている間に

小鳥の声がたのしそう
「俺もこんどは小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている

笑わせるな
本日十三、三五分
いよいよ知ランを離陸する

なつかしの
祖国よ
さらば

使い慣れた
万年筆を"かたみ"に送ります。

・・・

  相花信夫(少尉 昭和20年5月4日出撃戦死 18歳)

母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました


我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった


ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう

母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと


中支の兄の心境中支の兄の心境亦等しいでせう。
母上、我等兄弟をお許し下さい。

今、特攻の征途につくに際し、心に掛かるは以上の二つのみです。
あとは 思ひ残すことはありません。

人生五十年、自分は二十歳迄長生きしました。
残りの三十年は父母上に、半分づつさしあげます。

同封の金は母上の好きな煙草代に使つてください 。
父母上、では征きます。
信夫は莞爾として敵艦必殺へ征きます。

・・・

youtube

「いつまでもいつまでもお元気で~特攻隊員たちが遺した最後の言葉~」
https://www.youtube.com/watch?v=kaHukcwW1MA

・・・


以下は、Web:「晴れ、ハレ日和。(2014-05-06)」からの紹介です。



60年以上前の若き青年が
命を捨ててでも守りたかったものがこの本に紹介しています。


特攻隊員が最後に残した遺書です。
一部を紹介します。


「軍隊へ入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。
一度は去年の休暇、二度目は去年の暮れ近く館林まで来ていただいた時、
あの時は新平うれしくてうれしくてたまりませんでした。

わざわざ長いたびをリュックサックを背負って会いに着てくださったお母さんの姿を見、
何かというと涙が出そうで、ついわざわざ来なくても良かったのに等と
口では反対のことを云ってしまったりして申し訳ありませんでした。

あの時、お母さんと東京を歩いた思い出は、
極楽へ行ってからも、楽しい懐かしい思い出となることでしょう。

あの大きな鳥居のあった靖国神社へ今度新平が奉られるのですよ……。
手をつないでお参りしましたね。

今度休暇で帰った時も、お母さんは飛んで迎えに出て下さいましたね。
去年の時もそうでした。
日本一のお母さんを持った新平は常に幸せでした。」



これが日本は戦争が好きという若者が書いた手紙でしょうか?

日本をそして植民地で苦しんでいたアジア諸国を助けるために、
命を落としてまでも
特攻隊として戦地に赴いたのです。

死にたくて書いた手紙だと思いますか?
それなのにお母様に感謝を捧げる手紙を出し、
命を懸けて戦った。
そして桜の花びらのように散っていったのです。

戦争は絶対してはいけないと私も思います。
それでも日本をアジア諸国を守るために
戦ってくれたからこそ
今の平和な日本があると思います。

戦地へ赴いた若者、
特攻隊で命を捧げてまで守ってくれた若者に心から感謝したいと思います。

平和に暮らせたのは私たちがつくったものではない、
命がけで守ってくれた人がいたことを私たち日本人は忘れてはいけないと思います。

   (http://blog.goo.ne.jp/tgcmb49/e/efff65e4f20e3392c097de9060ecddcd


         <感謝合掌 平成27年7月16日 頓首再拝>

木崎徹治・陸軍曹長の遺書 - 伝統

2015/08/03 (Mon) 19:31:36


(靖国神社社頭掲示~平成27年8月)

天皇陛下の御為に

陸軍曹長 木 崎 徹 治 命 

昭和二十年一月三日
フィリピンミンドロ島にて戦死

埼玉県北葛飾郡豊野村出身 
二十三歳


天皇陛下の御為に、米英撃滅の決戦の大空に悠久の大義に就かんとす。
男子の本懐此れに優(すぐる)無し。
長年の御教訓に遵(したが)ひ死所を得たる徹治は幸福者です。

貧苦の中にも良き御教育の道を戴き有難うございました。
徹治戦死の報あるも決して悲しんで下さるな。

一日も早く病全快せられ、
御母様共々末長く達者で御暮らしの程御祈り致します。

彰介は立派な人間にして下さい。
小生の貯金其の他は、弟妹等の教育費に御使用願ひます。

兄上木崎家の更隆を切に御願ひ致します。

弟妹達仲良く身体を大切に
勉強して立派な人間になって孝養を盡(つく)すを怠るな。

嗚呼(ああ)、大東亜永遠の平和確立の暁を見よ快なる哉(や)。

                           徹治

父母様
兄弟妹様
(原文のまま)


         <感謝合掌 平成27年8月3日 頓首再拝>

本假屋孝・海軍少尉の遺書 - 伝統

2015/09/02 (Wed) 17:59:09

 

(靖国神社社頭掲示~平成27年9月)


大君の御為に


海軍少尉 本假屋孝夫命 
昭和二十年三月十八日
九州東方海面にて戦死

鹿児島県姶良郡霧島村出身
 二十歳



兄上様 お喜び下さい。
今度、特別攻撃隊員に選ばれて明日愈々出撃することになりました。
大君の御為に役に立つ時が来たのです。

男子の本懐これに過ぐるはありません。
笑って突っ込んで行く覚悟です。
万里の怒涛を乗り越えて敵陣に黒丸一家がなぐり込みをかけるのです。

こんな愉快なことはありません。
兄上様にも喜んでいただけると思ってます。
生きて還らぬ決死の突撃隊です。

出水に居る頃は、本当に御世話様に相成りました。
深く深く感謝致しております。御恩は死んでも忘れません。
姉上様にもよろしく御伝え下さい。

「男子生まれ 空行かば 雲染む屍悔あらじ」歌にもあります。
大空の果て珠と砕けるは、我々の最も本懐とする所です。
桜の花が世の人に愛されるのは、惜しまれて散るからです。

人間も世の人に惜しまれて散る所に良い所があるのです。
人間死場所を逸したらろくな最後はとげられません。

私が死んでもどうか悲しまずに
大君の御為によくぞ死んだ天晴れな最後だったとほめてやって下さい。

兄上様、姉上様、憲ちゃん、敬ちゃん達の健康を草葉の陰より祈っております。

                       さようなら

花は桜木 陸爆乗りは若い命を惜しませぬ

花のつぼみの二十で散るも何か惜しまん君のため

還らじとかねて思えば梓弓(あずさゆみ) 咲く春を待たずして我は散るなり


         <感謝合掌 平成27年9月2日 頓首再拝>

東條英機の遺書全文 - 伝統

2015/09/11 (Fri) 19:46:27

遺 書

開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。
今回の刑死は個人的には慰 (なぐさ) められておるが、
国内的の自らの責任は死を以 (もっ) て贖 (あがな) えるものではない。

しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。
今も同感である。
ただ力の前に屈服した。

自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。
ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、
又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。


天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈 (じんじ) の御志 (おんこころざし) に依 (よ) り
行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。

此度 (このたび) の戦争に従事してたおれた人及び此等 (これら) の人々の
遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。

心から陳謝する。

今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。
もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で
事に臨 (のぞ) まなければならないのではないか。

此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。
勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。

天皇陛下の御地位 (おんちい) は動かすべからざるものである。
天皇存在の形式については敢えて言わぬ。
存在そのものが絶対必要なのである。

それは私だけではなく多くの者は同感と思う。
空気や地面の如 (ごと) く大きな恩 (めぐみ) は忘れられぬものである。

東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相 (あい) 協力すべきものである。
東亜民族も亦 (また) 他の民族と同様に天地に生きる権利を有 (も) つべきものであって、
その有色たるを寧 (むし) ろ神の恵みとして居る。

印度 (インド) の判事には尊敬の念を禁じ得ない。
これを以 (もっ) て東亜諸民族の誇りと感じた。

今回の戦争に因 (よ) りて
東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。
列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。

現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、
どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。
又日本人が赤化しないように頼む。

大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。
実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、
今回の敗戦の原因であったと考えている。


今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、
極東の大勢 (たいせい) がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、
亜細亜大陸赤化の形勢は斯 (か) くの如くである。

今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。
もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。

今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。
しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、
米軍が日本に在るが為 (ため) なりというような感想をもつようになったならば、
それは危険である。依 (よ) って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。


今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。
第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。
第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。
第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因 (いん) たらしめた。

米英の指導者は之 (これ) を救済する責任を負うて居る。
従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。


日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄 (ほうき) した。
これは賢明であったと思う。
しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。

然 (しか) らざれば、盗人が跋扈 (ばっこ) する形となる。
(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)

私は戦争を根絶するためには慾心 (よくしん) を人間から取り去らねばと思う。
現に世界各国、何 (いず) れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る
(これはお互い慾心を抛棄 (ほうき) しておらぬ証拠である)。

国家から慾心を除くということは不可能のことである。
されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。
これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此 (こ) の通りである。

それ故 (ゆえ) 、第三次世界大戦は避けることが出来ない。

第三次世界大戦に於 (お) いて主 (おも) なる立場にたつものは米国およびソ連である。
第二次世界大戦に於いて日本と独乙 (ドイツ) というものが取り去られてしまった。
それが為 (ため) 、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。

米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。
この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。

第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。
此 (こ) の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。
これは当然米国の責任である。

日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。
そうでなしとすれば、米国は何等 (なんら) かの考えがなければならぬ。
米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。

凡 (およ) そ生物として自ら生きる生命は神の恵である。
産児制限の如 (ごと) きは神意に反するもので行うべきでない。

なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。
今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。
従ってこれは速 (すみ) やかに止めてほしい。

日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。

我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、
これを靖国神社に合祀せられたし。出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。
戦犯者の家族には保護をあたえられたし。


青少年男女の教育は注意を要する。
将来大事な事である。

近事 (きんじ) 、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少 (すくな) くない。

この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。

今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者 (りさいしゃ) の
一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。

勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。
此等 (これら) については衷心 (ちゅうしん) 謝罪する。

然 (しか) しこれと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、
米軍側も大いに同情し憐憫 (れんびん)して悔悟 (かいご) あるべきである。

最後に、軍事的問題について一言する。
我が国従来の統帥権独立の思想は確 (たしか) に間違っている。
あれでは陸海軍一本の行動は採れない。

兵役制については、徴兵制によるか、傭雇 (ようこ) 兵制によるかは考えなければならない。
我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。
再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。

忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。
この点については、大いに米軍に学ぶべきである。


学校教育は従前の質実剛健 (しつじつごうけん) のみでは足らぬ。
人として完成を図る教育が大切だ。
言いかえれば、宗教教育である。

欧米の風俗を知らす事も必要である。
俘虜 (ふりょ) のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。


辞 世

我ゆくも またこの土地に かへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば

さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき

  (http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-755.html


         <感謝合掌 平成27年9月11日 頓首再拝>

常見哲也 陸軍軍曹の遺書 - 伝統

2015/10/02 (Fri) 19:26:11

(靖国神社社頭掲示~平成27年10月)

遺書

陸軍軍曹 常見哲也命 
昭和二十年五月三十日
フィリピンルソン島にて戦死

京都府舞鶴市平野屋出身 
十八歳



若年の身皇師(こうし)に従ふ、もとより死を決す。

黒潮は萬古(ばんこ)不盡(ふじん)、故郷の岸に波を打つ。
我又永遠不盡の生命を求めて海洋を征く。

殉皇の大義、炳(へい)として神皇國に輝き吾が示標とたつ。



一、故里に残すことごと忘れ去り
           唯一途に皇に仕えん


一、故里に何の名残を止(とど)むべき
           散って九段の花と咲く身に


一、身はたとへ南の海に朽ちぬとも
           留め置かまじ特幹魂


(原文のまま)

         <感謝合掌 平成27年10月2日 頓首再拝>

小林善彦 陸軍大尉 の遺書 - 伝統

2015/11/01 (Sun) 19:55:01


(靖国神社社頭掲示~平成27年11月)


遺書

陸軍大尉 小林善彦 命 
昭和十六年十一月二十九日
タイランド湾にて戦死
広島県御調郡向島西村出身 
二十三歳


不肖善彦、今世に生を享け大君の恵みを忝(かたじけの)うし、
父母の慈愛に育てられ今日斯くあるに至る。
深く其の御恩に感謝すると共に粉骨砕身以って報恩せんとす。

中略

此の度の死、もとより覚悟の事にて善彦は笑って護國の神とならん。

戦ひて敵兵を憎まず。
蓋(けだ)し敵も國を愛するが故に、故郷に父母妻子を残し来る者なればなり。
彼等は誤れる為政者の股肱(ここう)となり死す。

善彦は八紘(はっこう)一宇(いちう)の大理想実現の為、皇國の礎石となるなり。

嗚呼(ああ)男子の本懐これに過ぐるなし。

中略

死後、特別に法事等の事を行はず、靖國神社に参拝し下されば、
善彦は春ともなれば桜花となりて境内に咲き、
喜びて皆様をお迎へ申し上げるなり。

善彦は靖國の神々と共に皇國を永久に護るらん。

御父上様御母上様、度重なる生前の不孝まことに御詫びの言葉もなし
深く深く心より御詫び申し上ぐ。

昭和十六年十月一日
                                    
小 林 善 彦

         <感謝合掌 平成27年11月1日 頓首再拝>

《陸軍兵長 小寺正雄の遺書》 - 伝統

2015/12/01 (Tue) 19:22:27


         *靖国神社社頭掲示~平成27年12月 より

遺書

陸軍兵長 小寺 正雄 命 
昭和二十年七月十五日
フィリピン レイテ島にて戦死

兵庫県姫路市十二所前町出身 三十四歳


貞子殿


正雄

再び召されて戦野に征く。

日本の女子と生まれ来て此の昿古(こうこ)の大戦に遭ひ、
その夫が勇躍(ゆうやく)國難に馳せ参ずるについては、
御身の決心も自ずからついてゐた事と思って居る。

温室に育って社会の辛苦も未だ味はへる事少なき御身には、
様々の難路も横たはって居るやも知れぬ。

唯願ふは正彦の為に強く正しく生き抜いて呉れん事のみ。

尚、御身には頑固に見える父であるが、僕にとっては唯一の親、宜しく頼む。




正彦へ


父 正雄

未だ西も東も判らぬ乳児なるも、
やがては国難に逝きし父の心事も解る時が来ると思ふ。

幸、不幸は心の持ち方如何に依る。
唯願ふは将来国家有為の人材とならん事。

父は靖國の宮居より汝が成長を見守って居る。

母を大切にせよ。

昭和十九年四月三十日

         <感謝合掌 平成27年12月1日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年1月) - 伝統

2016/01/01 (Fri) 19:20:28


陸軍兵長 福島 實 命 
昭和19年1月10日
フィリピンにて戦死
佐賀県神埼郡東脊振村出身 
二十六歳



父上様

拝啓、その後父上他御一同様には、御変はりなく元気の事と思ひます。

實も相変はらず元気ですが、先日敗残兵の敵弾に右肩を見舞われ、
目下手厚く看護を受けてゐます。傷は浅く心配御無用です。

左は自分が作った詩です。
あまり良くできてゐませんが、御送り致します。

時候柄御自愛専一。

                  敬具

             實



父上様


武人は名を惜しむ 
咲いて大和の山桜 散って九段の宮柱

千代八千代 栄える大和仰ぎ見る 
君のめぐみのいとどたふとし

千代八千代 敵は幾万来たれども 
びくともしまじ大和魂

支那海の波路の上に父恋し


         <感謝合掌 平成28年1月1日 頓首再拝>

10万将兵を救った「徳」の人・今村均 - 伝統

2016/02/27 (Sat) 19:46:03


        *Web:「歴史街道」(2015年06月28日)より

太平洋戦争時、孤立無援となったニューブリテン島ラバウルで、
10万人の将兵を正しく導いてその命を守り、戦後は自ら望んで部下たちのいる収容所に入り、
その後も自ら築いた「謹慎所」で生活して、戦死者の冥福を祈り続けた軍人がいました。

陸軍大将今村均です。

今回は人徳の将、今村均の人柄を示すエピソードをいくつかご紹介してみます。

「日本は今、一時的に戦力を失っているに過ぎない。必ず反攻してくる。
日本軍が反撃してくるまで、ラバウルで生き延びて戦おう」。

ラバウルの防衛を担う第八方面軍司令官今村均が、部下の将兵にそう呼びかけたのは、
昭和19年(1944)春のことでした。

かつて最強「ラバウル航空隊」の根拠地として敵から恐れられたラバウルも、
すでに満足な飛行機も艦船もなく、一方で連合軍の空爆は連日続けられ、
10万の将兵はなす術もなく、普通であれば士気を喪失しても不思議ではありませんでした。

しかし今村は将兵たちを励まし、総員を戦力化する軍事訓練と、
島全体を要塞化するための地下工事を推し進め、地下要塞の全長は実に370km、
東京から岐阜県大垣間の距離に匹敵する規模に及ぶのです。

さらに今村は、糧食を枯渇させないための「現地自活」も具体的に進めます。
「畑は一人200坪耕しなさい。鶏も一人10羽ずつ飼いなさい」。
そう命じた結果、ラバウルに7000町歩にも及ぶ広大な耕地が生まれるに至りました。

「これならやれる。100年戦争をしてやろう。食糧が豊かで軍備の充実した『今村王国』をつくって、
100年間頑張ろうじゃないか。最後まで意気軒昂を保ち、友軍の反攻を待つのだ」。
将兵たちはそれを合言葉に、一致団結していくのです。

実際、日を追うごとに要塞として防備が整っていくラバウルに対し
、連合軍側も無理攻めしては大けがしかねないと判断、周辺を固めつつも、
ラバウル攻略はあきらめました。

今村はラバウルで階級を越えて部下たちに気さくに声をかけ、それが多くの将兵に親近感を抱かせ、
「この人のためならば」という気持ちを起こさせたといいます。

そんな今村の人柄は、ラバウルに赴任する前の、ジャワ方面の第十六軍司令官時代にも見出せます。

昭和17年(1942)、今村は僅か4ヵ月で全蘭印軍を降伏させ、
ジャワ(現在のインドネシア)を占領しました。

ところが武力を誇示する入城式も行なわず、
降伏したオランダ軍将校がサーベルを帯びることを認めます。

また政治犯として刑務所にいたスカルノに対し、
「日本軍に協力しなくても結構。あなたの政治的信念に従って行動してください」と言って、
出獄させました。

さらに全軍に、次のような布告を出しています。

「被占領民の矜持(きょうじ)を奪うようなことは、絶対にしてはならない」。
矜持を失った民族には滅亡しかない。我々は確かに今、ジャワを占領している。
しかし、そこに住む人たちの誇りまでも奪うことは、断じてやってはならない。

それが今村の信念であったのです。

こうした今村の方針は、現地の人々からは歓迎され支持されましたが、
一方で陸軍中央の不興を買います。

陸軍の中には「占領地に武威を示すべき」と考える者も少なからずおり、
現地視察も行なわれますが、今村の統治に瑕瑾を見出すことができません。
そのため、ジャワからラバウルへの異動は、(嫌がらせ的な)左遷ではないかともいわれました。

今村のラバウル生活は3年半に及びます。
その間、将兵たちを一つにまとめあげますが、終戦の詔勅が知らされた夜、事件が起こりました。

青年将校らが「本国が降伏した以上、我々は『今村王国』を建設して戦うべきだ。
武装解除すべきでない」と決起を図ったのです。

これに対して今村はなだめます。
「君たちは、ラバウルに難攻不落の要塞を見事に築き上げた。
そんな優秀な人材たちが、ここであたら命を失っては、日本の再起は覚束ないじゃないか。
ラバウルで活躍した君たちのエネルギーを、帰国して国の復興にこそ役立ててほしい」。

そして今村は武装解除後、オーストラリア軍のキャンプに押し込められると、
豪軍に交渉して、復員後の将兵たちの知識となるよう技術や経済の講座を開き、
学べるようにしました。

今村はその後、戦犯として軍法会議にかけられ、オーストラリア軍の裁判で死刑にされかけますが、
現地の人々の証言などもあり、禁固10年で昭和24年(1949)に巣鴨プリズンに収容されます。

しかし、部下たちが劣悪な環境のニューギニアのマヌス島刑務所にいることを知ると、
翌年、自ら望んでマヌス島に移りました。

それを聞いたGHQ司令官のマッカーサーは、
「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いだった」と語ったといいます。

昭和28年(1953)、マヌス島刑務所閉鎖に伴い、再び巣鴨プリズンに移った今村が、
刑期を終えて出所したのは、翌昭和29年(1954)11月のことでした。

ところが今村は、経堂の自宅の庭に3畳半ほどの謹慎室を建て、
没するまでの十数年間のほとんどをそこで過ごし、
命を落とした将兵たちの冥福を祈り続けるのです。

リーダーとはどうあるべきか、その責任の取り方とは。
今村の人生はそのことを雄弁に伝えているように感じられます(辰)

http://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2386

         <感謝合掌 平成28年2月27日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年2月) - 伝統

2016/03/01 (Tue) 19:17:04


遺言状

陸軍伍長 西田 義雄命 
昭和二十年二月二日
フィリピンルソン島にて戦死
福岡県福岡市馬出出身
二十五歳



天皇陛下の御為に戦死す。

武人の面目にして男子の本懐なり。

若木の花に薫る我が挺進工兵隊、
国防の第一線に立ちて職責の重(じゅう)且(か)つ大なるを思ふ。

ただ感激と感謝のみ。

父母様に先立つも君に忠ならば、また親に孝なり。

私の戦死を喜ばれたく。

兄亡き後は、弟妹相助けて兄の分まで孝養を尽されたし。

終はりに臨み父様母様の御健康を切に祈る。


陸軍挺進工兵隊  義雄


         <感謝合掌 平成28年3月1日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年3月) - 伝統

2016/03/04 (Fri) 18:52:02


芳子さんへ

陸軍兵長 的場 裕 命 
昭和十八年八月六日
ソロモン諸島コロンバンガラ島
西北方約十粁海上にて戦死
香川県綾歌郡陶村出身 
二十九歳


コクミンガクコウノ イチネンセイ ゲンキデ

ベンキヨウ スルンダヨ 

ミナミノウミハ キレイデス サンゴノハヤシガ

キレイダヨ コカゲハ スズシイヨ 

ツバメガ スイスイ トンデユク

ヨシコガ ガクコウヘ ユクコロハ ツバメガ

ナイチヘ カヘルダロ

チイサイ ノブコヤ タカヨシト ナカヨク

アソンデ ヤルンダヨ

ヨシコサンヘ
                      以上

         <感謝合掌 平成28年3月4日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年4月) - 伝統

2016/04/05 (Tue) 19:15:41


でつかい奴を沈めます


陸軍少尉 加 藤 虎 男 命 
昭和二十年五月四日
沖縄方面にて戦死
東京都目黒区駒場出身 
二十歳


お母さん
大元気で、でつかい奴を沈めます。


御祖母様
お元気にてお暮らし下さい。
小学校に通つて居た頃、滑り台より落ちて祖母さまに手当てして
頂いた事を思ひ出しました。
虎男は立派に働いて死にます。


功兄、麗子へ
元気で暮らして下さい。
必ず命中します。
自分の居なくなつた後は、兄さんと麗子だけがお母さんの世話が出来るのだ。
麗子、お母さんには心配を掛けるなよ。



 何を惜しまん 君が御楯となれる我は
 五尺の身 粉々になるとも


第一〇九振武隊 加藤虎男


         <感謝合掌 平成28年4月5日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年5月) - 伝統

2016/05/03 (Tue) 18:46:14


愈々(いよいよ)第一線へと出発致します


陸軍兵長 古川清博 命 
昭和二十年五月二十日
ギルバート諸島タラワにて戦死
鳥取県東伯郡松崎村出身 
二十四歳



父上、母上、清博今、愈々第一線へと出発致します。

清博は、今こそなんの心残りなく戦友に負けず勇躍征途につきます。

死して再び帰らず。
清博は、南で喜んで建設の小さな礎石と化すの覚悟であります。

博惠のこと、鈴子のこと万事父上にお任せします。
宜しく御願ひします。

清博のことは決して御案じなき様、何事も他に負ける様なことは致しません。
初陣には手柄ニュースでも皆に御知らせ致します。

留守中父上に御任せ致し、元気一杯勇んで征きます。
呉々も御安心下さい。

かりにも私事に悩み大切な御奉公怠る様な清博ではありませんから
呉々も御安心下さい。

先立つ不孝は御許し下さい。
又、我亡き後は別紙遺書の如く御取り計らひ下さい。

清博には、鈴子こそ広い社会にたった一人の真実の女性であったことを御信じ下さい。

乱文にて取り急ぎ。

昭和十八年十一月十九日夜

                            清博拝

御両親様

         <感謝合掌 平成28年5月4日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年6月) - 伝統

2016/06/02 (Thu) 18:34:16


すめら御國を 永久に守らむ


海軍一等飛行兵曹 辻 始 命 

昭和十八年七月二十四日
本州東方海面にて戦死
徳島県那賀郡富岡町出身 
二十一歳


生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)の譬(たとえ)は、常に胸中に在り。

日出る皇國に大和男子として生をうけ
聖恩に報い奉り祖國を永遠に護らむと
海軍航空兵として軍籍に身を投ぜり。

幼十歳にして荒鷲を望みし身とて、
殉職はもとより期せし処。

されど我が本懐は、太平洋上紺碧の空に聖寿の万歳を寿ぎつつ散華するにあり。

我が日頃神仏に祈りし処は
「皇國日本の為尽し得る立派な人間とならさせ給へ」とのみ申せしにあり。

(中略)

散りてのち なほ白雲と とどまりて
         すめら御國を 永久に守らむ


昭和十七年 元旦記之
                              始


         <感謝合掌 平成28年6月2日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年7月) - 伝統

2016/07/03 (Sun) 19:39:52


靖國の若桜として散る覚悟で居ります
                                     
陸軍伍長 原山 好一 命 
昭和二十九年二月二十八日
ソビエト社会主義共和国連邦タイセット地区
タイセット第八六K収容所にて戦病死

和歌山県海南市黒江出身 
三十歳



おばあ様、父上様、母上様
晧姉さん、弘子姉さん、泰子、邦子

皆様、長らく御世話になりました。
小生これより任地〇〇へ出発致します。

もとより生還は期しません。
男子と生まれて靖國の若桜として散る覚悟で居ります。

班長さんからも言はれました。人生僅か二十五年。
小生達の任務は肉弾挺身隊です。爆弾を抱へ敵のトーチカへ飛び込むのです。

どうか皆様元気で銃後を固めて下さい。

先日のお母さんと弘ちゃんの声は死んでも忘れられません。
その後の種々の心づけ心から御礼申し上げます。

(中略)

では最後に皆様のご健康を祈ります。

                     さやうなら好一より

昭和十九年十月二十九日二十時三十分
中部二十四部隊田崎隊五班の部屋の片隅にて走書きす。
   
                     原山好一


         <感謝合掌 平成28年7月3日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年8月) - 伝統

2016/08/02 (Tue) 18:54:27


遺言状

陸軍大尉 岡 研磨 命 

昭和十九年九月二十一日
西部ニューギニア方面にて戦死
福井県福井市手寄上町出身 四十七歳



人生草露の如し。

今栄ゆる御代に会ひ、醜の御楯となる本懐これに過ぐる事なし。

母上に対し孝養足らず。
遺族の幸福を願ひつつもその及ばざりしは余の不徳なり。

深くこれを謝す。

人生の行路平坦ならず。

一同力を合はせ御国の為勇往邁進(ゆうおうまいしん)せよ。

吾、御身等の身辺にありて必ず守護せん。

(原文のまま)

・・・

<参考Web:美しく 樹つる 石が根(2016-08-01)
       → http://chan75.hatenablog.com/entry/2016/08/01/233722 >

         <感謝合掌 平成28年8月2日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成20年3月) - 伝統

2016/08/15 (Mon) 18:38:14



遺 書
陸軍歩兵伍長 福田誠一命

昭和十四年三月十日
支那江蘇省山後村附近にて戦死
広島県安芸郡倉橋島村出身 二十五歳



弟進へ

進よ、兄は戰争に行く二度と会ふ事は出来ぬ、

進よ、兄が戰死と聞いたなら内の責任は君の双肩にあり、
父母によく仕へ立派な人間になって呉れ、兄の墓を建てゝ呉れ、
兄が最後の願ひだ、

君は生活に苦しむと言ふ事は無いと思ふが立派に暮して呉れ、
何事も打勝つと言う事だ、

父母を頼む、
これから社会へ立つのだ、
一歩一歩進み行けよ。



妹富美子へ

富美子よ、君は勝氣なるが故に兄は心配をする、
女の道は只實直に進むのだ、
君の今の病氣に負けてはならぬ、
恋愛に落ちるので無い、

今君の責任は大である、
君故にお父さんは心痛して居る、
何事も父に打明けて相談せよ、わからぬ父では無い、

早く病氣を治して良い家に嫁いて呉れ、
君の顔を一目見たいが会はずに兄は征く、
君の花嫁姿は何処かの地下で手をたゝいて嬉んで見て居る。

http://ameblo.jp/nippon-kaigi-hiroshima/entry-12171280316.html

         <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝>

特別攻撃隊 - 伝統

2016/08/28 (Sun) 19:24:26


     *『特攻へのレクイエム』工藤雪枝・著より抜粋

(1)人間が生きているか、死んでいるかを区別するのは魂であり、精神である。

   私が真剣に特攻隊の遺書に対峙したとき、
   むしろ私は死んでおり、特攻隊員たちは生きているとも思った。


(2)過去、現在、未来と続く歴史軸の中に自分が生かされているのを感じて、
   礎を築いた人々に感謝すること、
   そして、今ある現在を価値ある未来へと繋げていくことを
   我々一人一人が真剣に考えて行動するべきである。

   特攻隊の資料にふれ取材するたびに、そう思う。

(3)特攻隊員達は、生と死との思いを日々感じながらも、
   明るく朗らかにいつも変わりなく規則正しい毎日を生きていた。

   「出撃の時は完全な体調で」

   と健康診断を受け食事に気を配った。
   書道、茶道、音楽を嗜む人もいた。

(4)研ぎ澄まされる感受性。
   隊員達は、残された時間の一瞬一瞬を大切に生き、
   食事をするときでもどんな時でも

   「これが最後かもしれない」

   という気持ちで、厳粛に「時間」に対峙していた。


(5)鹿児島県知覧の知覧特攻平和会館に残されている特攻隊員の遺影。
   そこには、まるで晩年の人物だけが待ちうるような穏やかで、
   満ち足りた充足感、悟りの境地にも似た澄み切った表情が数多く並んでいる。


(6)とりわけ真剣さと、凛とした気概が感じられるものは、
   出撃の際の出陣式、そして水盃を交わす光景だ。

   敬礼をしてまっすぐ前を見つめる眼差しの先にあるものは何か。
   一人一人が並々ならぬ決意を秘めた、引き締まった表情をしている。

   しかし、決して力んでなどいない。
   端正で清冽な表情だ。

(7)実際に特攻隊の出撃を見送った人々は皆、いかに彼らが立派で、
   「まるで神のようにみえた」かということを語る。

   出撃の際の白黒の、少々ぼやけた写真を見ていても、
   私にも何か普通では考えられないような感情を秘めた雰囲気が充分伝わってくる。

(8)彼らの直筆の書を読むと、
   はっきり日本が敗戦に向かっていることを自覚した上で、
   自分達の死が日本にとってどんな意味合いがあるのか、
   必死に見つけ出そうとしている軌跡が表現されている。

   いかに彼らが冷静に、しかしもがき苦しみながら、
   その葛藤の中にそれぞれの答えを見出そうとしていたのかが良くわかる。

(9)送別会において、10名を代表して畠山少尉が特攻教官へ、
   淡々と、悟りきったように、静かに、しかし力強く別れの言葉を述べた。

   「先輩を差し置いて、未熟な私達が栄えある特攻先陣を拝命して、
   責任の重大さを痛感しています。

   将校、准士官、下士官、兵と、出身と階級は異なっても、
   祖国を愛する愛国心に変わりはありません。

   戦争が終わったら、世界から尊敬される、
   平和で豊かな文化国家を建設して、
   人類の平和と繁栄に貢献する、日本を再建してください。

   部下の遺族のことを、よろしくお願いいたします」


(10)知覧特攻平和会館の来館者の多くが、特攻隊員達の遺書に接して、
   その筆跡の素晴らしさ、内容の立派さに感動し、
   いかに特攻隊員達が、自分達とは違うのだろうかという感嘆の気持ちを表現している。

(11)英国の戦史家であるバジル・ハートはいう。

   「もし平和を欲するならば、戦争を正しく理解しなければならない」

(12)日本という国に生まれ、日本という国を信じ、国への忠誠を果たす。
   戦争さえ終結すれば、今、ここで自分達が命を懸けてこの国を守れば、
   平和でかつ尊敬に値する国である日本は再生するという想いを、
   彼らは抱いていた。

(13)本当の意味で、特攻隊員達の死を無駄にするか、
   すなわち特攻隊員達を犠牲者とするかは、
   現代を生きる私たちにかかっている。

   彼らの精神、そして散華していった目的を現代に生かし、
   特攻隊員たちが望み、希求していたような祖国日本をつくりあげることで、
   彼らの遺志は達成される。

(14)特攻要員となった隊員達の宿舎を当時の軍の上層部が、
   励ましに訪れることもあった。

   しかし、実際に隊員達に接してみると、
   階級でも年齢でもずっと上の参謀達が、
   何もかける言葉がなくなってしまったという。

   むしろ、そんなときは特攻隊員達が、

   「私たちに任せてください。しっかりやりますから」

   と言い、どちらがどちらを励ましているのか解らなくなってしまったと、
   田形准尉は私にそう語った。

・・・

神風特攻隊員たちの遺書
Web:谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶ(2013年01月30日)
  →http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/22897598.html

・・・

特攻インタビュー(第8回)
http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=1013&forum=13&post_id=5158#5158

  ・その3
    海軍航空特攻 粕井貫次氏

 (公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会特攻ライブラリー取材スタッフ

http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=1013&forum=13&post_id=5160

・・・

《魂の飛翔》

(1)「復員の同胞を迎へて」~、『生長の家』昭和21年7月号(P16、19)より

   日本の国難をすくはんとして、献身を行じた特攻隊その他の兵士たちを、
   全て一概に侵略に協力したもの…として攻撃する人もあるけれども、
   その人々の功罪は『結果』ばかりによって論ずべきではないのである。

   (中略)

   戦争の動機はどうあらうとも【過ちは過ちとして深く懺悔しつつも】一粒の麦になって
   同胞愛のために生命を捨てんと挺身した兵隊たちを、十字架にかヽつたキリストのやうに
   傷ましくも仰ぎ見るのである。


(2)『精神科学』誌、昭和26年12月号より

   特攻隊の青年や殉教者を心から賛美する。

   (この項は、『真理』第四巻「青年篇」第十七章「献身の美徳について」に
    収録されております)
           (P385~389)

(3)生長の家誌昭和48年6月28日の法語
   ~「霊魂進化の一周期と肉体的欲望の離脱について」

   《二十八日の法語 国を護る激烈なる修行を了へて地上生活を卒業せる高級霊魂達》

   霊魂の高度の進化は、物質的な肉体的な現世的なものへの執着から離脱して、
   そのような欲望の繋縛(けいばく)---即ち煩悩から解脱することによって得られるのである。

   「人その友のために生命を損(す)つる是より大なる愛はなし」とイエスが言ったが、
   その「友のため」というところを「国を護るため」と書き換えることが出来るのである。

   国難来たって海外から攻めて来るとき、国を護る兵士は、敵軍の侵略下に
   曝(さら)されれば、非常な苦難に面する国民(吾らの最も近き友である)を護るために、
   と同時に国家理想を護るために、「肉体の生への執着心」から解脱する行為であるから、

   「一旦緩急ありて公に奉ずる」ところの実践は、霊魂進化が一層急速に行われる
   ”魂の霊的修行”なのである。

   幾百万の日本兵は大東亜戦争に於いてそのような理想のために、
   自分の肉体への執着を離脱して生命を損(す)てたのであった。

   それは実に彼らの霊魂の急速なる浄化の過程となったのであって
   特に「特攻隊」の如きは一層はげしい霊魂の修行であった。

   彼らはこれらの修行を経て、地球という天体に生を享けて為すべき最高の修行を完了して、
   その霊魂は一層高き天体に昇天移行転生したのである。

   尊きかな、称(ほ)むべきかな。

           (http://blogs.yahoo.co.jp/indianphilosophy2005/29348790.html


           <感謝合掌 平成28年8月28日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年9月) - 伝統

2016/09/01 (Thu) 18:57:35


遺言

陸軍伍長 久保 繁夫 命 

昭和十九年九月十三日
東部ニューギニア・バラムにて戦死
和歌山県有田郡湯浅町出身 三十五歳


御父上様

三十有余年の間、色々とお世話になり何一つ孝行をした事もなく
お別れするのは、心苦しゆう思ひます。

併(しか)し大君の御為に捧げた命です。
皇国の御為に死んで行く繁夫です。
これがせめてもの孝行だと自ら慰めてゐます。

喜んで下さい。

御父上には、お年を召してをられる故、余り無理をなさらないで下さい。
ハナヱの事は学文路(かむろ)と相談して、ハナヱの思ふ様にしてやつて下さい。

他に何も言ひ遺す事は御座いません。

最後に御父上の健康をお祈り致します。

天皇陛下万歳


昭和十六年七月二十七日


           <感謝合掌 平成28年9月1日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年11月) - 伝統

2016/11/03 (Thu) 17:44:39


出動命令下る

陸軍兵長 山口 隆 命 

昭和二十年二月二十六日
ビルマ・カズンにて戦傷死

福岡県朝倉郡三輪村出身 
二十五歳



恵美子、順子  兄は常夏の国の戦場へ行く。
内地にては最後の手紙だ。
兄は男児として、此れほど喜ばしいことはない。

一月三日会つたのが最後になつたかも知れない。
生きて帰るとは思はぬ。

ただ、千人針にあふれる銃後の人々の貴い力と
御守札の力を頼んで、大いに張り切つて働いてくるよ。

今までは何もせず不孝であつた。


 兄は今、死にに行くよ

 大日本帝国 天皇陛下万歳


留守中、兄に代わつて満兄と共に御両親様に孝行をしてくれ。
そして、兄妹仲良くしてくれ。

では、左様なら。皆様の健康と多幸を祈る。

隆より

           <感謝合掌 平成28年11月3日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成28年12月) - 伝統

2016/12/04 (Sun) 17:54:39

姉上様


海軍少佐  服部 照親 命

昭和十六年十二月十七日
ボルネオ島バラム岬沖にて戦死

愛知県中島郡明治村出身 
二十九歳


日露戦争直後よりの宿命的な戦いの幕は、何時切らるるか知らず。

〇〇に在りて命令一下直ちに出撃、
お国の為に日本民族発展の為に戦ふべき物心技の準備は成つた。

如何なる順調なる戦なりとも、最後の敵を破る迄は心を弛めず、
如何なる苦戦に遭遇しても日本海軍の勝利を期して、
生命あらん限り日頃の腕を発揮して戦ひ進まん。

笑つて死に(生かも知れません。死生命あり論ずるに足らず、死生歸一)つき得る
弟の幸福を欣んで下さい。

さらば御機嫌宜しう。
                                                 照親
姉上様

           <感謝合掌 平成28年12月4日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成29年1月) - 伝統

2017/01/01 (Sun) 19:32:02


母上様

陸軍伍長 舩 一義 命 

昭和二十年三月三十日
ソロモン諸島ブーゲンビル島バインにて戦死
熊本県天草郡深海町出身 
二十七歳



お母上様、二十余年間何一つの孝行もできず随分と永らくお世話になりました。

もとより、この身は天皇陛下に捧げしもの
毛頭生還を期せず。

一義は笑つて如来様やお父上の浄土に参ります。
白木の箱が届いたら、良くやつたと褒めてやつて下さい。

村長様始め村の皆々様に厄介になつたと、呉れぐれも宜しく伝へてくださいませ。

お父上に別れ、又兄に別れる妹弟を立派に養育してやつて下さい。

ではお母上様、何卒老後は一層健康に注意されて随分と達者でお過ごしくださいませ。

さやうなら。
                       一義
お母上様


           <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成29年2月) - 伝統

2017/02/02 (Thu) 18:24:21


豆まきの絵ありがたう


海軍大尉 高橋 武男 命 

昭和二十年五月八日
フイリピンルソン島にて戦病死
千葉県香取郡神代村出身 
四十四歳


佐衛子 お手紙と豆まきの絵ありがたう よくかけて居ります
みんなげんきでやつて居るところが よく分るやうです
お父さんはよろこんで居ります

たてやまはまだたいへんさむいさうですね それでもだれもかぜを
ひいた人もなく みんなげんきでよいです
お父さんもげんきではたらいて居ります

せつぶんの豆は お父さんにおくつてくれなくてもよいです
お父さんは おふねでせつぶんの豆をたべました
ぐんかんには お豆もお正月のおもちもあります

みんなおりこうさんなので 
お父さんほんとにうれしくおもつて居ります 

これからもよくおべんきゃうをして 
よくおべんきゃうができるやうになりなさい

お母さんのいふことをよくきくと 
ふゆやすみにいなかへつれてゆくさうです 
よくおべんきゃうをして みんないなかへつれていつてもらひなさい

さむくなるから かぜをひかないやうにきをつけなさい

お父さんもピンピンして げんきではたらいて居ります

                         お父さんより
佐衛子へ


           <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成29年3月) - 伝統

2017/03/03 (Fri) 18:14:41



遺言


陸軍少尉 戸倉 勝人 命 

昭和二十四年十月二十三日
ソ連ハバロフスクにて戦病死
山口県下関市豊浦出身 
四十五歳

皇國の御為この身を捧ぐること、予てよりの願望なるも
召されて軍人として戦陣に死所を得るは、
本懐これに過ぎたるものなし。


 母上

今よりは靖国の杜に参り候。
御健勝祈り上候、生前の御恩今こそ御礼申し上候。


 緑子 勝禮 純子へ

父は皇國の為、戦争に征く。
汝等は母様や祖母様の訓へを守って強い立派な日本人となり、御國の為に尽しなさい。
父は何時でもお前達の成長を見て居ります。


 春子へ

母上によく仕へ子供達を私の気持ちのやうに伸び伸びと育てて貰ひたい。

(中略)

その後、困難なことがある場合は、何事によらず勝馬に相談すること。
                                                    
以上

 昭和十八年八月十三日

 勝人 誌

           <感謝合掌 平成29年3月3日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成29年4月) - 伝統

2017/04/03 (Mon) 20:42:45


元気で征きます


陸軍大尉 小林 克己 命 

昭和二十年四月十三日
千葉県上空で敵機と交戦被弾し戦死
新潟県新潟市鳥屋野出身 
二十三歳


漸く出発となりました。

今更もう何も申し上げる事もありません。

今私は己が幸福に感激しつつ、何等後顧(こうこ)の憂(うれ)ひなく
欣喜雀躍(きんきじゃくやく)征途(せいと)に就かむとして居ります。

何卒、健康に御留意の上、御長生あらむ事を御祈り申し上げます。

では元気で征きます。 

                        克己拝

御両親様

   膝下

           <感謝合掌 平成29年4月3日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成29年5月) - 伝統

2017/05/02 (Tue) 20:20:53


愛する成子よさらば


陸軍少尉 齋藤 良雄 命

昭和二十年五月二日
中華民国湖南省にて戦死
青森県北津軽郡嘉瀬村出身 
三十六歳


明日出征にあたり一言す。

皇国未曾有の難局に処し、父は明日出征す。
もとより男子の本懐
平素の覚悟なり。

(中略)

成子よ、父がなくとも決して悲観をするな。他人を羨むな。
父は必ずお前たちの側に居るのだ。お前たちを守ってゐるのだ。

もし淋しかつたら父の名を呼べ、必ず父はお前の心に答へるであらう。
もし父と会ひたくば、靖国神社の社前に来たれ。父は必ず生きてゐる。

決して淋しがつてはならぬ。
強く正しく清く、而(しか)も女は優しく生きてゆくことだ。
父はお前達の成長をどこかで守つてゐるのだ。決して心配するな。

(中略)

たとへ貧しくとも明朗に幸福に生活せよ。
母に良く仕へ、祖母に父に代はり孝養を尽くせ。

(中略)

別れるにあたり、言ひたいことは沢山あるが、要は立派に生きてゆくことだ。
決して父のないことを悲観するな。

愛する成子よさらば。

健康と幸福を祈る。


昭和十九年七月十六日
                        
父 良雄

成子殿

           <感謝合掌 平成29年5月2日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成29年6月) - 伝統

2017/06/01 (Thu) 20:17:59


孝行はこれからで


陸軍伍長 西川 正一 命 

昭和十九年六月十三日
中華民国湖南省長沙県にて戦死
岐阜県本巣郡北方町出身 
二十四歳


興国の為に第一線に出て十二分に働く時が今来たのだ。
海山の如く大恩受けし父母様にお別れする時が来ました。

孝行はこれからです。
どうか今少しお待ちください。
ではお体を大切に。
                                

                    正一より
御父母様



親愛なる弟等よ。

兄亡き後は兄に代つて孝行すべし。

此れは兄の最後の願ひだぞ。
                                

                    兄より
弟一同へ

           <感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成29年7月) - 伝統

2017/07/01 (Sat) 18:17:07


遺書

陸軍伍長  杉山 清 命

昭和十九年七月十八日
サイパン島にて戦死
静岡県静岡市西草深町出身 
二十四歳


小生、大命より任務に就く。
生還は期せぬものなり。

ただ想ひ残す事は一つとなく只々
長らくの間、身に余る御世話になり
厚くゝ御礼を申し上げます。

かヘり見れば誠に感慨無量なり。
小生、死して亡き後よろしく両親の
佛祭滞りなく行事し戴きたく。

之が小生の望みなり。

兄姉上様末々まで御健勝、御多幸の程を
はるか何処より祈るものなり。

ではさらば。
                 清

兄姉上様
丸山御一同様

           <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年8月 - 伝統

2017/08/01 (Tue) 18:35:24


永へに皇国を護らむ


陸軍中尉  青木 輝雄 命
昭和十九年八月二十一日
トラック諸島夏島にて戦死
長野県下高井郡中野町出身 
二十四歳



大君の命(みこと)かしこみ大船の
  行きのまにまに仇撃ち征かむ


大命にもとづき勇躍征途に就く
男子の本懐、是に過ぐるものなし

生死、勿論戦場の常
生くべきは生き、死すべきは死す
何ぞ恐るるに足らむ

若し万一の事あるも、我靖國の杜にありて
永へに皇国を護らむ

墓標は、つとめて小たるべし
書籍なども一般に不必要のもの多かるべし
よく暹(のり)殿と相談の上、これ等は国民学校に寄贈

以て我が志を国民教育の上に生かされたし
皇国の弥栄を祈りて擱筆(かくひつ)す

紀元二千六百四年四月大吉日
              輝雄

父上様

           <感謝合掌 平成29年8月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年9月 - 伝統

2017/09/01 (Fri) 17:42:20


涙かくした母に応へむ


陸軍技手 安藤 武夫 命 

昭和二十年七月七日
フィリピンルソン島カバヤン地区にて戦病死
愛知県北設楽郡稲武町出身 
四十歳



無理なのが昔から戦である。

我が子はこの無理を
天皇陛下の為に勇ましく引き受けて征く。

母をして日本の母にしたと思つて征く。

強く生きて下さい。

母上の安座は俺が作つて置く。

       先立つ不孝者 安藤武夫
               征く日に書く

  
  子は征きて還らぬものと知りながら
       涙かくした母に応へむ

母上様

           <感謝合掌 平成29年9月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年10月 - 伝統

2017/10/01 (Sun) 19:51:19


陸軍軍曹 西島 觀空 命 

昭和十九年十月二十日
ビルマ国モーライク県カレワ付近にて戦死

滋賀県長浜市宮司町出身 
二十四歳


御両親様


今まで長らく二十幾星霜、御厄介、御迷惑ばかりかけた觀空を御許し下さい。
又、何と言つて御礼を申したら良いやら、その言葉を知りません。
唯、私は感余つて言ふことを知りません。
早く去る觀空の不孝は御許し下さい。

しかし今まで受けた御恩の万分の一にでも報いられればこの上ない幸福です。
又、男子の本懐であり、名誉であります。
この決戦下にまはり合したからこそ孝道も盡せたのです。
又、御奉公も出来たのです。

觀空も喜んで散り行きます。七生報国の精神を以て大東亜の礎となります。
靖国の宮居に神として御祭祀下さる陛下の御仁慈には、感泣するのみです。

 臣としてこれ以上の名栄・名誉がありませうか。
自分一身のみでなく、一家の名誉です。喜んで下さい。

長らく御育て下さつたこと有難うございました。
では御両親様どうか老境のこととて、御身おいとひの程祈り上げます。
妹も達者で暮らせ。


                     ではさやうなら 觀空
 御父母上様
 妹

           <感謝合掌 平成29年10月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年11月 - 伝統

2017/11/01 (Wed) 19:18:52


遺言


陸軍曹長 笹 榮藏 命 

昭和十九年十一月二十八日
中華民国雲南省遮放陣地にて戦死
和歌山県日高郡竜神村出身 
三十三歳
   

大命に依り勇躍征途に就く
男子の本懐之に過ぐるものなし

心に掛る事はなし
一人の親一人の子供を大切にして幸福に暮らされよ
近親一同に宜しく頼む

    空晴れて 心にかかる 雲もなし
                      榮藏
 笹 春枝殿



幼くて何事も不明だらう
やがて分かる時は来る
良く母の教へを守り立派な人間となれ
父は其れのみ祈る

    忠 孝 一 致

 昭和十九年六月十五日
                      父
 幸代へ


           <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年12月 - 伝統

2017/12/02 (Sat) 17:39:33



遺言

陸軍中尉 吉川 泰 命 

昭和十九年十二月八日
フィリピンレイテ島
ブラウエン飛行場にて戦死
熊本県飽託郡託麻村出身 

二十二歳

  
       天皇陛下萬歳

         魁

       七生報國


 御両親様へ

   永らく御世話になりました
   天皇陛下の為に死にます


 姉上様

   永年の御指導有難うございました
      

 弟へ

   天皇陛下の御為に勉強せよ
   父母に孝なるべし


 妹へ
   しっかり勉強せよ

               昭和十九年七月十六日

                     陸軍少尉 吉 川  泰 

           <感謝合掌 平成29年12月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年1月 - 伝統

2018/01/02 (Tue) 19:12:52


思ひ出の日

陸軍曹長 川本 重俊 命

昭和二十年三月八日 
ビルマ、チャウピュー県カンゴー付近にて戦死
兵庫県武庫郡御影町出身 
二十八歳


御無沙汰致しました。

相変はらず御両親始め皆元気の事と思つてゐますが、
随分寒さもきつい事でせう。俊征も寒さに負けず大きくなつてゐますか。

こちらは相変はらずの暑さで、皆は特にむしむししてゐて一日中汗が滲んで、
毎日洗濯と水浴に追はれている様です。

然し皆元気で頑張つてゐるから安心して下さい。

こちらで正月元旦に写した写真が出来上がつたので、
郵便で今日送りますが、この葉書よりは大分遅れる事でせう。

一枚は松の代はりに椰子(やし)の葉で飾つた門松を背景に
日章旗(にっしょうき)を中に立てて、隊長殿、森川大尉殿を中心にして。

別の一枚は、裸で餅つきの風景を撮つたのですが、
残念ながら臼(うす)が下にきれて見えなくなりました。
後ろに写つてゐるマンゴの樹が、今を盛りと香りを放つてゐます。

来月あたりには、実が熟して来て兵隊を喜ばせる事でせう。

(中略)

俊征も近く満一年、可愛い姿を偲んでゐます。
昨年の今日の寒さを思ふにつけても皆さんの健康を案じてゐます。

呉々も御自愛、俊征の養育にも充分注意して間違ひの無い様。

三月七日 思ひ出の日


           <感謝合掌 平成30年1月2日 頓首再拝>

感動する話「遺書」 - 伝統

2018/01/29 (Mon) 19:32:30


              *Web:勢蔵の世界(2007/2/1)より


 ここに三通の遺書を掲げます。私は読むたびに涙が滲みます。

 平和な時代に戦争を非難することは簡単である。
 反戦を唱えていれば世に支持される。

 しかし時代の巡り合わせで戦争に出会い、国のためを思い、
 死に赴かんとする若者を賛美こそすれ、誰が非難出来ようか。

 今からまさに生を断たんとする時、若者の胸に去来するものは、
 海よりも深い母の愛だったのだと痛感するものである。

          ・・・       


僕はもうお母さんの顔を見られなくなるかもしれない。

お母さん、よく顔を見せてください。

しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。

十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。

お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。


     茂木三郎少尉 神風特別攻撃隊第5神剣隊
     昭和20年5月4日沖縄周辺にて特攻戦死 19歳

          ・・・   

お父さんへ、いうことなし。お母さんへ、ご教訓身にしみます。

お母さん、ご安心下さい。決して僕は卑怯な死に方をしないです。
お母さんの子ですもの。・・・それだけで僕は幸福なのです。

日本万歳、万歳、こう叫びつつ死んで征った幾多の先輩達のことを考へます。

お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!!
こう叫びたい気持ちで一杯です。何か言って下さい。一言で充分です。

いかに冷静になって考へても、何時も何時も浮かんで来るのはご両親様の顔です。

父ちゃん! 母ちゃん! 僕はこう何度もよびます。

「お母さん、決して泣かないで下さい」

修が日本の飛行軍人であつたことに就いて大きな誇りを持って下さい。
勇ましい爆音をたてて先輩が飛んで征きます。では僕も出撃です。


     海軍中尉 富田 修 二十三歳
     昭和19年9月25日台湾高雄西海上にて戦死

          ・・・   

母上お元気ですか
永い間本当に有難うございました

我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有り難い母 尊い母

俺は幸福だった

遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい

さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと


     相花信夫 海軍少尉 第七十七振武隊
     昭和二十年五月四日出撃戦死 十八歳

   (https://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/12871156.html

           <感謝合掌 平成30年1月29日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年2月 - 伝統

2018/02/01 (Thu) 18:03:10


遺書

陸軍歩兵軍曹 相本 友輔 命

昭和十三年四月二十三日     
北支・山東省黄塾付近にて戦死
山口県都濃郡下松町出身 
二十九歳
 

母上様、三十歳の今日まで長い間養育下さいまして、
何の御恩に報ゆる事も出来ず残念です。

天皇陛下の為に戦死します。
かねてより覚悟はしてをります。

卑怯な真似は決して致しません。
母上の日頃よりの教訓は守ります。

笑つて死にます。勝史や妻の事、母上の後援なくては立たぬものです。
祖父母は、もはや年老いてをります。
一家円満に暮らされますやうに。

私亡き後は勝史や妻は頼りなき者です。
今まで通り懇切な御愛顧を願ひます。

(中略)

末永く祖父母と仲良く暮らされるやうにと、靖国神社より神となつて護ります。

                     陸軍歩兵伍長 相本友輔

 母上様

           <感謝合掌 平成30年2月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年3月 - 伝統

2018/03/01 (Thu) 19:55:51



遺書

陸軍伍長 西川 久治 命

昭和二十年三月十六日  
台湾台北市方面にて戦死

東京都下谷区入谷町出身 
二十歳
 

   
拝啓

 父上様、母上様、永い間お世話様になりました。

十九歳の今日まで何一つ孝行をできず、本当に申し訳ございません。

 自分もいよいよ、待ちに待った南方の第一線へ行く事ができる様になりました。
 もとより生還を期せず、一死君国に報ゆる覚悟です。
 今度こそはきっと立派な孝行を致します。

大君の為にきっとやります。

 では父上様、母上様には、自分の事には御懸念無く、
 お元気にて末永く御繁栄の事を祈ります。

 (中略)

では最後に、御一統様の御健康を祈ります。


遺歌(自作)

  身はたとひ砕け散るとも君が代を
    思ふ心の一すじに

  今日の日待ちて惜しみし我が命
    愛機と共に今ぞ咲くらん


昭和十九年十二月三日 
                     西川久治


           <感謝合掌 平成30年3月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年4月 - 伝統

2018/04/01 (Sun) 19:26:58


遺書

海軍少尉 上田 兵二 命

昭和二十年四月十六日  
沖縄県近海にて戦死
兵庫県揖保郡余部村出身 
二十三歳
 

絶筆 出撃寸前
謹呈

小生いよいよ 出撃突入す

遺品送り方頼みし故
すぐ着く事と存じます

電替も送り返す様お頼み致しました
遺品喜んでお受け取り下さい

公電が有れば赤飯で祝つてくれ

乱筆にて

    昭和二十年四月二日
       
               海軍一等飛行兵曹
                 上田 兵二

           <感謝合掌 平成30年4月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年5月 - 伝統

2018/05/01 (Tue) 19:53:28


遺言書

陸軍伍長 宮井 倞一 命
昭和二十年九月二十四日

中国牡丹江省寧安県にて戦死
大阪府岸和田市土生滝町出身 
二十四歳


   皇國の為に死するとも
       軍人の本懐なり
     
   我行かん
       靖國社頭の若櫻
     
   七生報國

   敵の為に死するとも
       再度生まれて敵を倒さん


 遺言としても自分には心残りは無し
唯、御両親にこれといふ孝行も致さず
先立つ不孝を御許し下さい。

   生母の愛を
       我天に聞く

   昭和二十年一月十四日

      陸軍一等兵 宮 井 倞 一

           <感謝合掌 平成30年5月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年6月 - 伝統

2018/06/02 (Sat) 19:16:07


遺書

陸軍兵長 庄子 勇 命

昭和十九年十二月二十三日  
フィリピンにて戦死
宮城県仙台市荒町出身 
二十二歳


この世に生を享けて二十有二年、
何一つ孝行もせず散つて行く勇をどうぞお許しください。
今更何も想ひ残すこともありません。
温かい膝下に育つた自分は幸福者でした。

ばたばたと軍装を整へる間は、何か実習にでも行くやうな気持ちでしたが、
さて遺書なんて改まると一瞬悲壮な感じが致します。

皆様のご健康をお祈り致します。
母上様、特にご自愛のほどお願ひします。

勝美もまつしぐら頑張るやう、妙子も年頃、お幸せをお祈りする。
英子は勉強と身体並行して、しつかりやるやう。
幸男ももう分かる時分、兄ちやん兄ちやんと言つた声がこびりついて離れません。

想ひ出せば繰返せば、きりのないことばかり。
唯、懐かしさで一杯です。

では元気で征きます。皆様もお元気で。
                   
敬白

勇拝

  家中
   御一同様 


           <感謝合掌 平成30年6月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~昭和53年7月 - 伝統

2018/07/01 (Sun) 21:11:03


部下と共に散らん

陸軍少佐 市川 清義 命

歩兵第二一五聯隊
昭和二十一年七月十五日
ビルマ・ラングーンにて法務死
福島県二本松市北杉田出身 二十七歳

 
前略 不肖戦犯者としてラングーンの獄に投ぜられしより早や半年を過ぎ
連日枕辺に雨ダレの音を聞く雨期の候と相成候。

其の間ラングーン初頭の裁判に絞首刑の宣告を受け、
中隊長(部下)三名と今は其の執行を待ちをる次第に御座候。

朝に咲き夕に散るは世の慣ひ今南国の獄に死すとも自己の過去を貫く誠の心は、
信念に生きた足跡は、自らの心を静かならしめ、
亡ぶる肉体のさだめは敗戦の犠牲として唯運命として、武人の諦めの裡に有り、

父上母上、兄上、弟よ悲しみ給はざる可く候。
多数の部下達の戦死せし戦場に当然散るべき身なりと諦め被下度候。

元より我々の行動たる死生を超越し自らを捨て戦争目的達成の為に
邁進したる事に有之、何等恥づる所無之候。

親子の愛情も交はさず疎き事八年に至り候へ共国家の為一身を捨てたる事、
孝の最大なるものと自認致し居り候。

亦連日不肖の武運長久を祈り給へる父母の恩に対しては
深謝措く能はざる次第に御座候。

 先づは此の世の別れに一筆心境御報らせまで如斯に御座候。

敬具


           <感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年7月 - 伝統

2018/07/04 (Wed) 17:41:52


遺書

陸軍兵長 小川平吉 命

昭和18年11月21日
中華民国安び省にて戦死
東京都本所区小梅出身
22歳


人生僅か20年、時の流れの激しさに、
吾は思はず涙出る。

あゝ 然れども日本人なるぞ。
吾は国の為、家の為、社会の為に盡す秋(とき)。
吾が尊き人間を捧(ささ)ぐる秋。

吾が日の本の孫の子等(こら)が喜び勇む
生活に、幸福なる姿、目に浮かぶ。

あゝ 吾は逝(ゆ)く、尊き犠牲の一人として
悠久の大義に生きん。

http://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

           <感謝合掌 平成30年7月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年7月 - 伝統

2018/07/05 (Thu) 19:24:57


遺 書

陸軍軍曹 服部 清命

昭和十九年七月十八日
マリアナ島方面にて戦死
愛知県幡豆郡一色町出身
二十四歳


御父様元気でお暮しの事と拝察致します。
清も元気で毎日張り切って居ますれば他事ながら御安心下さい。

典範令等を送りますが、
此れは清市又は勘市が入隊の時使用してくれる様言って下さい。

清もやっと念願がかなって愈々出征する事になりました。
けれど、何も心配なく、清は益々元気で行きます。
南方へ、此の事だけは隣りの人にも親類の人にも言ってはなりません。
此れが最後の手紙になるかも知れません。

今迄の御無沙汰、又不孝の罪、お許し下さい。
御父様、御母様の事は死しても忘れる事は有りません。
死んでもきっと孝行するつもりです。

最後に御父様、御母様、清市、勘市、とし子、ひさ子、孝一、君枝等の
御健康と御幸福を御祈りして筆を置きます。


御父さま
御母さま

           <感謝合掌 平成30年7月5日 頓首再拝>

Re: 英霊の言乃葉 - xefdwvfvMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:17

伝統板・第二
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