伝統板・第二

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歴史のひとコマ① - 夕刻版

2015/04/02 (Thu) 17:30:07

《天才 アラン・チューリング》


映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』の主人公
アラン・チューリングについて
(先日、この映画を観て、こんな天才がおったのかと驚きを感じました)


チューリングが現在のコンピューターの基礎をつくったという事実がある。
意外なことに、IT業界のなかでさえチューリングの業績を正確に理解している人は少ない。

1912年生まれのチューリングが子どものころは、量子力学や相対性理論が論じられ、
現代の科学が開花し始めていた時代だ。

数学と科学に目覚めた少年チューリングは、エドウィン・ブルースターの『すべての
子どもが知るべき自然の不思議(原題:Natural Wonders Every Child Should Know)』
という科学解説本を手にした。

そのなかで彼の心を捉えたのは、脳が神経線維で形づくられた組織で、
人間の心はそれらのネットワークの結びつきによって生まれているとする解説だった。

両親がインドに赴任しており、本国で知人の家にあずけられたままさびしく暮らしていた彼は、
次第に抽象的な目に見えない世界の秩序に思いを馳せるようになる


《イミテーション→シミュレーション》

ケンブリッジ大学のキングス・カレッジに入学して数学を専攻した彼は、
1936年に「計算可能な数について(原題:On computable numbers,
with an application to the Entscheidungsproblem)」という論文を書く。

これは現代数学の父とも呼ばれるダフィット・ヒルベルトが、
数学の問題は厳密な論理を機械的に積み上げていけばすべて証明できる、
と予言したことに刺激されて書かれたものだが、
結局はそれを完全に否定してしまう内容だった。

彼がその論文で使った手法は、人間の論理思考を機械に喩えることだった。
そのモデルは「チューリング・マシン」と呼ばれるようになり、
これは現在のコンピューターの基本的なアーキテクチャーを決める、
生物学でいうところのDNAの構造を確定するような理論だった。



もちろんこれは数学の論文で、チューリングはこの時点で
コンピューターを発明しようとしていたのではなかった。

けれども、この論理を実行するハードウェアをつくれば、
論理の手順(つまりソフトウェア)が書けるものを何でも真似して実行でき、
おまけにこのマシンは他のチューリング・マシンをも真似(イミテーション⇒
シミュレーション)できる万能マシンだった。

チューリングは戦争が始まると、ドイツ軍の暗号エニグマを解読するためのチームとして
ブレッチリー・パークで働くようになる。

この暗号はタイプライター型の機械にその日の「設定」を施してつくり、
受信側の機械を同じ設定にすれば、その暗号文の元の文が出てくる仕組みだが、
この設定は天文学的な数の組み合わせがある。


暗号を解く作業は、エニグマという暗号マシンを真似し、その動きを論理的に推測して、
その日の正しい設定を見つけ出すことにほかならない。

ところがその組み合わせをしらみつぶしに試すには、人手で計算すると、
何千万年もかかってしまう。

チューリングを筆頭に数学やパズルに強い暗号解読者が四苦八苦して解読作業を試みたが、
結局は人間の知恵だけでは限界があり、機械の手を借りざるをえないということになる。



《コロッサスとタニー》

この機械はチューリングのオリジナルではなく、ポーランドでエニグマを解くために
つくられた「ボンブ」という暗号解読専用の機械を改良したもので、
現在われわれがいうコンピューターではなかったが、

彼はこの機械を強化して、その後はさらに複雑になったエニグマを解読するための
手法(ソフトウェア)をいろいろ開発した。

実際にはドイツ軍から奪った暗号表なども使って、1941年にエニグマ暗号が
解読できるようになることで、ドイツ海軍のUボートの位置などを正確に把握することが
可能になり、イギリス軍や連合軍は情報戦に勝利し、
終戦を2年ほど早めることができたとされている。

このマシンの次には、1944年に「コロッサス」と呼ばれる真空管を使った
電子式の高速計算機がつくられ、さらに高度な「タニー」と呼ばれる暗号も
解読されるようになり、チューリングはそのソフトづくりを手伝った。


その後、イギリスではチューリングのボンブやコロッサスは軍事機密として処分され、
その存在が一般に知られるようになったのは半世紀後だった。



<参考Web>

(1)アラン・チューリングとは本当はどんな人だったのか?
    → https://www.bbcworldnews-japan.com/uk_topics/view/0000268

(2)映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』各界の著名人が語る、
   映画の魅力と想い
    → http://www.fashion-press.net/news/12758

(3)Who Killed Turing ? 誰がチューリングを殺したのか
    → http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/skondo/saibokogaku/Turing.html


            <感謝合掌 平成27年4月2日 頓首再拝>

名横綱双葉山と木鶏の話 - 伝統

2015/04/07 (Tue) 17:45:51

 
          *Web:人生朝露 より
           ~『相撲求道録(現在は『横綱の品格』として復刻)』より引用

わたくし(双葉山)が安岡正篤先生にお近づきになりましたのは、
神戸の友人中谷清一氏の引き合わせによるものでした。

中谷清一氏のお父さんは証券業者で、神戸の商工会議所の会頭までされた、
あちらではかなり著名な実業家でありましたが、かねて父子ともに安岡先生の熱心な傾倒者で、
そんなところから先生と私との御縁も結ばれたわけです。

東京で先生にはじめてお目にかかったのは、たしか私の大関時代であったかと思います。
先生にはそれからしばらくお会いする機会があり、そのたびごとにいろいろなお話を
承ったわけですが、

もともと学校らしい学校にもいっていないわたくしとしては、先生のようなすぐれた方に
親炙する機会に恵まれましたことは、このうえもなくありがたいことで、わたしくは
そういうさいには、含蓄のふかい先生のお話に耳を傾けるよう心がけてきました。

御自身がそれを意識していられたか、どうかはわかりませんが、先生もわたくしのために、
なにくれとなく、よいお話をしてくだされ、酒席のそれでも、なんとなく体にしみいるような
感じでありました。

先生のお話によって、人間として、力士としての心構えのうえに影響をこうむったことは
すくなくなく、こころの悩みもおのずから開けてゆく思いを禁じえなかったのです。


先生にうかがったお話の中に、中国の『荘子』や『列子』などいう古典にでてくる寓話
「木鶏の話」というのがあって、それは修行中のわたしの魂につよく印象づけられたもの
ですが、承ったその話というのは、だいたい次のような物語なのです。


「そのむかし、闘鶏飼いの名人に紀渻子という男があったが、
あるとき、さる王に頼まれてその鶏を飼うことになった。十日ほどして王が、

 “もう使えるか”
ときくと、彼は、 “空威張りの最中で駄目です” という。

さらに十日もたって督促すると、彼は、
 “まだ駄目です、敵の声や姿に昂奮します”
と答える。

それからまた十日すぎて、三たびめの催促をうけたが、彼は、
 “まだまだ駄目です。敵をみると何を此奴がと見下すところがあります”
といって、容易に頭をたてに振らない。

それからさらに十日たって彼はようやくつぎのように告げて、
王の鶏が闘鶏として完成の域に達したことを肯定したというのである。

 “どうにかよろしい。いかなる敵にも無心です。ちょっとみると、
木鶏(木で作った鶏)のようです。徳が充実しました。まさに天下無敵です。” 」


これはかねて勝負の世界に生きるわたくしにとっては実に得がたい教訓でありました。
わたくしも心ひそかに、この物語にある「木鶏」のようにありたい――その境地に
いくらかでも近づきたいと心がけましたが、

それはわたしどもにとって、実に容易なからぬことで、
ついに「木鶏」の域にいたることができず、まことにお恥ずかしいかぎりです。

 
安岡正篤先生から、わたくしの現役時代に、次のような御自作の漢詩二つを、
相前後して頂戴したことがあります。

過褒あたらず、衷心より恐縮にたえなかった次第ですが、これというのも偏に、
わたくしの志を鞭撻しようとの思召しから出ずるもので、
今日なお感激の念いを禁じえないところです。

  万千鑽仰独深沈  万千の鑽仰ひとり深沈 
  柳緑花紅未惹心  柳緑花紅いまだ心を惹かず 
  胸裏更無存他意  胸裏さらに他意の存するなし 
  一腔熱血報知音  一腔の熱血知音に報ず
  百戦勝来猶未奇  百戦勝ちて来つてなほ未だ奇とせず
  如今喜得木雞姿  如今喜び得たり木雞の姿
  誰知千喚万呼裡  誰か知らん千喚万呼の裡
  独想悠々濯足時  独り想ふ悠々足を濯ふの時

 
わたしが昭和十四年の一月場所で安芸ノ海に敗れましたとき、
酒井忠正氏と一夕をともにする機会にめぐまれ、北海道巡業中にとった
十六ミリ映画をお目にかけたりなどして、静かなひとときを過ごすことができました。

氏はその夜のわたくしを、「明鏡止水、淡々たる態度をみせた...」
(酒井忠正氏著『相撲随筆』)云々と形容しておられますけれども、
当のわたしにしてみれば、なかなかもってそれどころではありません。

「木鶏」たらんと努力してきたことは事実だとしても、
現実には容易に「木鶏」たりえない自分であることを、自証せざるを得なかったのです。

かねてわたしの友人であり、また安岡先生の門下である
神戸の中谷清一氏や四国の竹葉秀雄氏にあてて、

 「イマダ モッケイタリエズ フタバ」

 と打電しましたのは、当時のわたくしの偽りない心情の告白でありました。

わたくしのこの電報はただちに中谷氏によって取次がれたものとみえて、
外遊途上にあらわれた安岡先生のお手もとにもとどいた由、
船のボーイは電文の意味がよく呑みこめないので、

 「誤りがあるのではないだろうか」
と訝りながら、先生にお届けしたところ、先生は一読して、

 「いや、これでよい」
といって肯かれたということを、後になって伝えきいたような次第です。

(以上 双葉山定次著『相撲求道録』「交わりの世界」より≫

http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5136/


           <感謝合掌 平成27年4月7日 頓首再拝>

【大志を抱く日】~ウィリアム・S・クラーク博士 - 伝統

2015/04/16 (Thu) 18:41:48

1877年(明治10年)のこの日(4月16日)、
札幌農学校(現在の北海道大学)に赴任していた
ウィリアム・S・クラーク博士がアメリカへ帰国した。

日本での滞在期間は、わずか8ヵ月であった。

「BOYS, BE AMBITIOUS!(少年よ大志を抱け)」はあまりにも有名な言葉。

(ウィリアム・スミス・クラーク)

Boys, be ambitious.
Be ambitious not for money
or for selfish aggrandizement,
not for that evanescent thing
which men call fame.

Be ambitious for the attainment 
of all that a man ought to be.

少年よ 大志を抱け!
お金のためではなく
私欲のためでもなく
名声という空虚な志のためでもなく
人はいかにあるべきか、その道を全うするために、大志を抱け


(この後に、次の文面が続きます。)

「like a old man’ (老人のように)」



この最後のフレーズ「like a old man’ (老人のように)」には、
次のようなメッセージが込められていると言われております。


”人間はいつかみな必ず死ぬ”

命の期限があるからこその人生。

その命の期限を、間近に感じることができる老人のように、
日一日を大切に、確実に、刻むのだ。


・・・


「人生の師」
  

        *「一期一会 をどう生かすか」童門冬ニ・著より


ーーー人生最高の一期一会ーーー
  
・・・ほとばしる情熱、燃える使命感・・・

明治維新後、日本は大急ぎで欧米に追い付こうとした。
政治、経済、文化などのあらゆる面にわたってである。
新政府が最も力をいれたのが産業で、特に工業面への援助ぶりはすさまじかった。

並行して力をいれたのが農業で、新しい農業指導者を育てるために、
北海道の札幌に農学校を創った。いまの北海道大学だ。

教育主任にはアメリカから、農学者であるとと同時に科学者でもある
ウイリアム・スミス・クラーク博士が招かれた。

始めは承知しなかったが、日本側の熱意に負け、

「1年間なら行く」と言った。

1年では十分な教育ができないのではないかと危ぶむ日本側に、クラークは笑って、

「いや、私の教育は他人が2年かかるところを1年で実現する」

と自信たっぷりな態度で答えた。

明治9年7月、いったん東京に来たクラークは船で北海道に向かった。
第一期生になる学生10人が同じ船に乗っていた。
 
クラークは船の中で日本側の責任者にこう言った。

「私は農学校で農業の知識や技術を教えるが、それはニ義的なものだ。
第一に教えるのは、人間の道だ。どんなに知識や技術がすぐれても、
その人間が卑しければ、ろくな農作物ができない」

責任者は目をまるくしたが、結構ですとうなずいた。
 
船は小樽についた。ここから先は馬で札幌に向かう。
クラークはヒラリと馬にまたがると、学生たちを振り返り、

 「学生諸君!着いてきたまえ!」

 と大声で叫んで馬にムチを当てた。

そして、あざやかな手綱さばきで広大な原野に向かって走り出した。
馬に馴れない学生たちは、馬の首にしがみついたまま、死に物狂いでクラークについて行った。
クラークの教育は、先ず馬の疾走から始まった。
学生たちは度肝を抜かれた。


クラークは日本語がわからない。講義はすべて英語である。通訳なしだ。
だから学生たちは、チンプンカンプンで、必死にクラークの言葉をカナでメモする。

そして、夜になって自習の時間になると、メモの言葉を辞典の中から探し出した。
はじめのほうを書き留めて、あとのほうを書けなかった者もいる。
逆に、はじめのほうが書き留められずに、あとのほうだけ書き留められた者もいる。

それをみんなでつなぎ合わせて辞典と首っ引きをし、

 「きっとこれだぞ!」

と当てはまる英語を探すのだ。

 「このとおりだ」
 「これは違う」

と指摘してもらう。これは力がついた。アンチョコで勉強するのとは違う。

クラークはまた、

 「リーダーに必要なのは弁舌だ。
人の前で自分の意見を述べなれなければ、リーダーになれない」

と言った。そこで農業の勉学の合間に、英語で演説する訓練をした。

つまりクラークの教育は、「農作物作り」以前に「人づくり」だったのである。

午前中は講義、午後は実習というカリキュラムだったが、
学生が実習で作った農作物は全部学校で買い上げさせた。
これは学生を喜ばせた。

また農業以外の原野や山を歩かせた。もちろん自分が先頭に立つ。
とにかく丈夫で、若い学生たちのほうがふうふう息をついた。

山野跋渉は冬でも行われた。時に雪が深いとクラークは喜んだ。

明治10年の1月末、クラークは学生を連れて手稲山に登った。
この山の標高は、1024メートルである。

山頂近くなると、クラークは、

 「諸君、見たまえ」

と言ってあたりを指差した。高い木が全部雪に埋もれていた。

「夏場だとまったく手の届きようのない木が、雪に埋もれると、すぐ手が届く。
珍しい植物が採取できるぞ」

と相好を崩した。ある木の上方に珍しい苔があった。
が、さすがにそこまで手が届かない。

クラークは脇にいた学生に

 「私の肩に乗って、あの苔を取ってくれたまえ」

と言った。

「はい」と答えたが、学生が先生の肩に乗ることはできないので、

「自分が台になります」

と言った。クラークは笑った。

「悪いが、私のほうが背が高い。遠慮せずに乗りたまえ」

 しかたなくその学生はクラークの言うとおりにすることにして、今度は靴を脱ごうとした。
クラークは叱りつけた。

「この雪の中で靴など脱いだら凍傷になる! そのまま乗りたまえ! 」

「はい! 」

学生は緊張して、おずおずとクラークの肩に乗った。
ほかの学生たちは唖然として二人を見つめていた。

が、その学生が肩に乗って苔を取り終わるまで、
身じろぎもしないで雪の中に足を踏ん張り、学生の両脚をつかみながら、

 「君、落ちるなよ。気をつけたまえよ」

と声をかけるクラークの姿に、みんな感動した。

一様に、
(アメリカ人なのに、この人は素晴らしい先生だ!)
 と、肝胆したのである。

 ーー明日を確信する!--

クラークが発見した苔は、世界でも未発見のものだったので、
後に「クラーク苔」と名ずけられた。

そうこうするうちに、約束の1年近くがたった(実際は8ヶ月ほど)。
クラークは学校を去ると宣言した。

 「もっと日本にいてください」

と泣くようにして迫る学生たちに、クラークは、

「いや、君たちはもう立派な指導者だ。今度は君たちが後輩を教える番だ」

そう言って笑った。

学校を去る日、クラークはまた馬に乗った。
いまは馬に馴れた学生たちが送って行った。
14キロも走った。

峠で別れ道に来たとき、クラークは学生たちを振り返って叫んだ。

 「boys,be ambitipus!(少年よ、大志を抱け!)」

現在も残る有名な”人育て”の言葉である。

           <感謝合掌 平成27年4月16日 頓首再拝>

【家康忌】 - 伝統

2015/04/17 (Fri) 19:32:38


1616年のこの日(4月17日)、徳川家康が74歳(1542-1616)で没した。

家康は若いころ、秋には珍しい桃を贈られたが、時期はずれの果物は危険だ、といって捨てた。

また、老いてから少し病んで快方に向かった時、
その食がやや進んだのを見て侍医がめでたがると、

「命は食にあるとは、大喰いということではない。人は飲み食いが大事だ、という意味だ」
と諭(さと)した。また、鷹狩りはレジャーのためではなく健康のためだ。運動すれば筋骨を
鍛え、疲れれば快眠するから従って閨房のことにも遠ざかることのなる。といった。

この衛生学の大家の命とりになったのは、直接原因は食当りであった。

元和2年1月21日、放鷹から帰った彼は、榊原大内記から献上された鯛を、
茶屋四郎次郎が油であげて蒜(ひる)をかけた料理を、昼間の運動による空腹のせいで大食し、
その真夜中午前2時ごろから、腹痛、吐瀉(としゃ)など烈しい食中毒症状を起こした。

その症状はいったん去ったかに見えたが、
以後不調は一進一退し、4月17日午前10時ごろついに他界した。

しかし『寛政重修諸家譜』に「御腹中に塊(かたまり)あり」とあり、
もともと胃ガンにかかっていたのではないか、という説もある。

大阪城を片づけてから11ヵ月目であった。
逆にいえばその発病が1年早ければ大阪城の命脈はなおつづいていたに相違ない。

・・・

《世界的スケールの武人・徳川家康》

       *『世界に誇れる日本人』渡部昇一(著)より抜粋

大阪の陣(1614~15)の頃、日本にあった鉄砲の質と量は、世界一だった。
それを使えなくなるように仕向け、戦国時代から平和な時代への切り替えに
成功させたのが徳川家康である。

政治史的に見て、家康の成し遂げたことはおそらく世界ではほとんど類がない。

また、家康が作った徳川幕府はきわめて安定した体制だった。
もし黒船が来なかったら、1000年以上続いたであろうと思われるほどである。

さらにいえば、発展の乏しい貧しい社会で同じ体制が何百年続いても不思議はないが、
徳川体制は日本の国民が向上し続けたといっていいほどの豊かさをもたらした。

スーザン・ハンレイというアメリカの女性学者は江戸時代の生活をいろいろと調べて書いた
学位論文で、もし江戸時代の頃に庶民として生まれるならば日本、
貴族として生まれるならばイギリスが一番良い、といっている。

庶民の生活レベルは当時の世界で最も高かったというのである。

実際、日本では地方の隅々まで文化が行き渡り、今日、どこへ行っても名産品がある。
これは徳川時代の賜物である。また、問屋制度みたいなものも為替取引も自然発生したし、
商品取引所がイギリスよりも先にできている。

それから、学問も教育も、そしてわれわれがいう「日本的なる文化」のほとんどが
江戸時代にできた。

明治時代になって日本に来た西洋人は、
その日本の文化に酔い、世界的にジャパネスクが流行った。

わかりやすい例でいえば、ゴッホは江戸時代の浮世絵を写したりした。
西洋の絵画史はそこから変わるわけだが、それだけのものを江戸時代の日本は作っていた。

これらすべて、戦国時代とは異なる全く新しい原理に基づく体制へと切り替えた
徳川家康なくして生まれなかったのである。

世界的なスケールでの偉人といっていい。

http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20090830/1251579893

           <感謝合掌 平成27年4月17日 頓首再拝>

日本海海戦の日 - 伝統

2015/05/27 (Wed) 19:20:34

今日5月27日は「日本海海戦の日」


今日27日は、1904年(明治37年)2月8日から始まった日露戦争において、
1905年(明治38年)のこの日、三笠を旗艦とする日本の連合艦隊が、
ロシアの無敵といわれたロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊、
通称バルチック艦隊に勝利した「日本海海戦の日」。

連合艦隊司令長官東郷平八郎の指揮する日本海軍連合艦隊は、バルチック艦隊の大半を
失わせた(全38隻の内、無事ウラジオストクに到達できたのは3隻のみ)のに対し、
日本海軍連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみという、海戦史上まれな一方的勝利となりました。

この勝利の要因として、もちろん東郷司令長官の指揮能力の優秀さ、艦隊としての熟練度、
同盟国のイギリスから導入できた最新の軍事技術などが挙げられると思いますけど、
ロシアのバルチック艦隊が疲弊していたこともかなり大きいといわれております。

前年の10月にヨーロッパの港を出港し、半年以上の航海を続けて、
3万キロ以上も離れた日本海までやって来たバルチック艦隊。

乗組員はヘトヘトでしょうし、船も酷使されくたびれてました。


<参考Web:光明掲示板・第一【日本海海戦の日】 (8705)
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1629 >



日露戦争で、ロシアのバルッチク艦隊を壊滅させた海軍大将 東郷平八郎元帥は、
全艦隊を率いて横浜に向かう。

その途中、伊勢湾に停泊し、伊勢神宮に参拝する。
海戦の勝利は天の御中主の神に始まる天皇の祖先の御神霊と天皇陛下の御稜威(みいつ)
によるとしていた東郷は、皇祖天照大神に先ず拝礼をした。

皇居では明治天皇が「空前の偉業」と褒め称えられ、その労苦をあつく労われた。



「連合艦隊解散の辞」<現代訳>

連合艦隊解散の訓示 二十ヶ月にわたった戦いも、すでに過去のこととなり、
我が連合艦隊は今その任務を果たしてここに解散することになった。

しかし艦隊は解散しても、
そのために我が海軍軍人の務めや責任が軽減するということは決してない。

この戦争で収めた成果を永遠に生かし、さらに一層国運をさかんにするには平時戦時の別なく、
まずもって、外の守りに対し重要な役目を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、
ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。

ところで、戦力というものは、ただ艦船兵器等有形のものや数だけで定まるものではなく、
これを活用する能力すなわち無形の実力にも左右される。

百発百中の砲一門は百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当たらないような
砲の百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、
われわれ軍人は無形の実力の充実すなわち訓練に主点を置かなければならない。

この度、我が海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、
一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような戦果をもたらしたのである。

もし過去の事例をもって、将来を推測するならば、
たとえ戦いは終わったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。

考えるに、武人の一生は戦いの連続であって、その責任は平時であれ戦時であれ、
その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。

ことが起これば戦力を発揮するし、事がないときは戦力の涵養につとめ、
ひたすらにその本分を尽くすことにある。過去1年半、あの風波と戦い、寒暑に耐え、
たびたび強敵と相対して生死の間をさまよったことなどは、容易な業ではなかったけれども、

考えてみると、これもまた長期の一大演習であって、これに参加し多くの知識を啓発すること
ができたのは、武人としてこの上もない幸せであったというべきであり、
どうして戦争で苦労したなどといえようか。

もし武人が太平に安心して目の前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかにりっぱであっても、
それはあたかも砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえば
たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきである。

むかし神功皇后が三韓を征服されて後、韓国は四百余年間我が国の支配下にあったけれども、
ひとたび海軍が衰えるとたちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になり、
兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、
またロシアの軍艦が千島樺太をねらってもこれに立ち向かうことができなかった。

目を転じて西洋史をみると、十九世紀の初期、ナイル及びトラファルガー等に勝った
英国海軍は、祖国をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以降、後進が相次いで
よくその武力を維持し世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、
国威を伸張することができたのである。

考えるに、このような古今東西のいましめは、政治のあり方にもよるけれども、
そもそもは武人が平和なときにあっても、戦いを忘れないで備えを固くしているか
どうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。

われ等戦後の軍人は深くこれらの実例を省察し、これまでの練磨のうえに戦時の体験を加え、
さらに将来の進歩を図って時勢の発展におくれないように努めなければならない。

そして常に聖論を奉体して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、
時節の到来を待つならば、おそらく永遠に護国の大任を全うすることができるであろう。

神は平素ひたすら鍛練に努め、戦う前に既に戦勝を約束された者に勝利の栄冠を授ける
と同時に、一勝に満足し太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取り上げて
しまうであろう。

昔のことわざにも教えている「勝って、兜の緒を締めよ」と。

明治三十八年十二月二十一日

連合艦隊司令長官 東郷平八郎

    (http://blog.goo.ne.jp/ryuunokoe/e/96aa38b95716eeebaf89859b3f55b9c3

           <感謝合掌 平成27年5月27日 頓首再拝>

新説「本能寺の変」 - 伝統

2015/06/09 (Tue) 18:08:24

先日、人気予備校講師・タレントの林修氏が「本能寺の変」を例にし、
「歴史というのは基本的に権力を握った者が自分の都合のいいように書き換えるものです」
とお話をしておりました。


《林修先生が解説。知られざる「本能寺の変」の“真実”とは!?》

人気予備校講師・タレントの林修氏が、6月2日(火)放送の情報番組
『ゴゴスマ~GOGO!Smile!~』(CBCテレビ製作)内で「林修教室」を開講。

放送日が“裏切りの日”であることにちなみ、
「本能寺の変」の真実について熱弁をふるった。


「本能寺の変」といえば、織田信長が家臣である明智光秀の“裏切り”に遭い、
本能寺を急襲された後、最終的に自害をしたという有名な歴史的事件。

誰もが知るこの事件の真相について、
林氏は「当時は裏切ったり、裏切られたりは日常茶飯事だった」と解説しながらも、

明智光秀の子孫にあたる明智憲三郎氏が主張する
「本能寺の変後、光秀を討った豊臣秀吉が自身の行為を正当化するために作り上げた」
との新説を紹介。

「歴史というのは基本的に権力を握った者が自分の都合のいいように書き換えるものです」
と締めくくっていた。

https://www.atpress.ne.jp/news/62931

      ・・・

《信長、家康、光秀の「歴史」は、すべて秀吉の捏造だった!嘘だらけの「本能寺の変」》

          *Web:ビジネスジャーナル(2015年5月14日)


明智光秀の子孫が書いた『本能寺の変431年目の真実』(文芸社文庫)が、
発売から1年4カ月が経過してもなお売れ続け、27万部を突破する驚異的な売れ行きを見せている。

著者は明智憲三郎氏。もともとは三菱電機のシステムエンジニアで、
いわゆるプロの学者ではないが、

先祖の名誉回復を願う子孫が感情論で書いた本ではなく、
国内のみならず海外も含めた膨大な数の文献に当たり、
導き出した結論は、これまでの定説を根底から覆すものとなっている。


紙面の関係上、定説と異なる点をすべて網羅することはできないが、
大雑把にいえば「光秀の出自も違えば、謀叛の動機も怨恨ではないし、
徳川家康も謀叛と無関係どころか実は共犯で、秀吉も事前に謀叛の計画を知っていたから
中国大返しも実は神業でもなんでもなかった」というものだ。

定説は時の権力者・秀吉が、自分に都合の良いストーリーを組み立て、
それに合わせてさまざまな文献の書き換えも行われ、利害が一致した家康も
そのストーリーに乗り、後の時代に尾ひれがついて出来上がったものと考えられる。

そして後世の学者も、なぜかそこへ乗ってしまったというのである。

        (http://news.livedoor.com/article/detail/10109292/


<参考>

本能寺の変 新説 ~“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」

(1)信長による家康討ちが発端
    http://www.asagei.com/excerpt/26555

(2)長宗我部征伐で身の危険が…
    http://www.asagei.com/excerpt/26557

(3)明智姓を名乗ってるのはほぼいない
    http://www.asagei.com/excerpt/26559

           <感謝合掌 平成27年6月9日 頓首再拝>

終戦時の総理大臣「鈴木貫太郎」 - 伝統

2015/06/18 (Thu) 20:16:58


      *『聖断:昭和天皇と鈴木貫太郎』半藤一利・著から要点を紹介。


(1)昭和20年8月14日、正午。
   総理大臣・鈴木貫太郎元海軍大将は、すくっと立つと、
   原稿はおろかメモ一つなく、語り始めた。

   8月9日の第1回の聖断以来のすべての出来事をよどみなく報告するのである。
   そして最後にいった。

   「ここに重ねて、聖断をわずらわし奏るのは、罪軽からざるをお詫び申し上げます。
   しかし意見はついに一致いたしませんでした。
   重ねてなにぶんのご聖断を仰ぎたく存じます」


   不気味な静寂がしばし流れた。
   やがて天皇が静かに口をひらいた。


   「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。
   (中略)
   この際、先方の回答をそのまま、受諾してよろしい」


   鈴木首相をはじめいならんだ23人の男たちは、
   深く頭をたれ、嗚咽し、眼鏡をはずして目を拭った。


   「この際、自分たちにできることは何でもする。
   私が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ。

   ことに陸海軍将兵は非常に動揺するであろう。
   陸海軍大臣が必要だというのならば、
   自分はどこへでもいって親しく説きさとしてもよい。

   内閣では、至急に終戦に関する証書を用意してほしい」

   聖断はここに下った。


(2)鈴木貫太郎は、江戸時代の慶応3年(1867年)に生まれた。
   譜代大名・久世家の代官の家柄であった。

   貫太郎は、群馬中学、攻玉社を経て、海軍兵学校へ入学。
   薩摩出身者が仕切っていた海軍では、旧幕府側の貫太郎は苦労した。


(3)海軍に入った貫太郎は、勝負事もせず、大酒も飲めず、よく本を読んだ。
   歴史書や伝記を好み、さらに古今東西の兵学書を耽読した。
   のちに海軍大学校に入り、これらの膨大な読書が役立った。

(4)日清戦争に参加後、中佐になった貫太郎は、薩摩閥の優遇に怒っていた。
   「海軍を辞めよう。病気と称して帰国しよう」
   と荷物をまとめていた彼に、父から手紙が届いた。

   父は手紙に中で無心にわが子の中佐進級を喜び、
   しかも次第に迫り来る祖国の危機を真から憂え、

   「ロシアとの一戦は避けられないだろう。
   このときこそ大いに国家のために尽くさねばならぬ」
   と切々と訴えていた。

   それは疑いもなく鈴木の脳天に打ち落とされた痛棒だった。
   貫太郎はおのれの心を恥じた。

(5)鈴木貫太郎の部下への訓練指導は激しいものであった。
   そのため、彼は「鬼貫太郎」「鬼貫」の異名をとる。

   また日清、日露戦争での彼の戦いぶりも、激しく、注目を浴びた。
   平時は穏やかなこの男が、戦場にあっては
   誰よりも実戦型の闘将であることを示した。

(6)日露戦争後、鈴木は海軍大学校の教官となる。

  ①修身、修養、徳義と兵学は一体であり、
   むしろまず克己があり、その延長に兵学がある、と鈴木は身をもって示した。

   いかに戦略戦術が秀でていようと、
   克己という犠牲的精神がなければ、真の勝利はない。
   おれは勝ったと図に乗り、怠りや慢心がでるのが一番悪い。

   鈴木教官の指導はこの一点にかかっていた。

  ②学生達には、田舎の村長が袴をはいたような感じの教官と感じられ、
   ヨーロッパ流の近代兵学の理性や叡智とはおよそ無縁ともみえる指導だった。

   むしろ禅の匂いと香り、隠者の風格があり、その静かさや穏和さの底に、
   無限の沈勇大胆が包蔵されているのをかれらは感じさせられた。

(7)その後、鈴木は「明石」艦長、「宗谷」艦長、
   水雷学校校長、練習艦隊司令官、海軍兵学校校長、。
   戦艦「敷島」艦長、少将で海軍省人事局長、海軍次官を歴任。

(8)40歳を越えたころから、その風格と態度には重々しさと厚みを加えた。
   精神家とも映り、東洋的な大人(たいじん)という感じをみる人に与えた。

(9)そして、それからも順調に昇進を重ねた。
   第二艦隊司令長官、第三艦隊司令長官、聯合艦隊司令長官、軍事参議官だ。
   さらに大正14年、海軍軍令部長となる。

(10)鈴木はその後、侍従長などを経て、内閣総理大臣となる。
   そして、終戦へ導く。

   その彼が、執務室の机においていた唯一の本が「老子」であったという。

           <感謝合掌 平成27年6月18日 頓首再拝>

【明治憲法誕生秘話】 - 伝統

2015/07/22 (Wed) 19:25:52


         *『日本の偉人100人』より
          (致知出版社刊) 編著:株式会社寺子屋モデル

   ─────────────────────────

「明治憲法誕生秘話~近代国家建設の父・伊藤博文の苦心から学ぶ日本人の気概~」

  
 憲法草案は、総理大臣伊藤博文を中心に、若手の井上毅、伊東巳代治、
 金子堅太郎の3人が加わって作成されました。
 時には神奈川県横須賀沖の夏島にカンヅメとなって没頭しました。

 4人がそろうと議論を始め、
 昼食も食べずに晩まで続けることもあり、
 夜もおおむね12時頃まで議論を戦わせました。
 
 博文の案が激しい攻撃を受けることもあり、そんなとき博文は、

「伊藤の三百代言(いい加減なことをいうやつ)め!」、

「井上、おまえは腐儒だ!」

 と大きな声で叱ることもたびたびありました。
 ところが翌朝になると、

「昨日の問題は、まあ、君たちの言い分を認めよう」

 とあっさり折れたそうです。
 
 飾り気のない無邪気な博文の人柄がうかがえるとともに、
 4人が身分の違いを超えて、
 より良い憲法を目指して激しく議論に打ち込んでいた様子が伝わってきます。

 草案作成で最も苦心したのは、
 憲法に日本の歴史や文化伝統をどのように取り入れるか
 ということでした。
 
 欧米の憲法に基づく議会政治は、
 それぞれの国の伝統や歴史が背景にあり、
 キリスト教がそれを支える土台となっていることを、
 博文はヨーロッパでの憲法調査を通じて学んでいました。
 
 そこで博文は、天皇が国民の精神的支柱と仰がれてきた
 わが国の伝統を踏まえて、皇室を憲法の土台にすえて
 草案を作成することにしたのです。
 
 練りに練って作成された憲法草案は、
 明治天皇のご臨席のもとで開かれた枢密院で議論され、
 ついに明治22年2月11日、大日本帝国憲法として公布されます。

 翌23年には衆議院議員選挙が行われ、第一回帝国議会が開かれました。
 
 欧米以外の国では無理だと思われていた立憲政治(憲法に基づく議会政治)が
 アジアで初めてスタートしたのです。

 第二次世界大戦後、アジアや
 アフリカ諸国が次々に独立して民主的憲法を持ちましたが、
 多くの国がうまく運用できず、
 独裁国家に逆戻りしたことを考えれば、

 明治憲法と議会が一度も停止されることなく、立憲政治が続いたことは
 
 その土台を築いたのが伊藤博文だったのです。


(伊藤の死後)松下村塾でともに学んだ友であり、
 明治の政界において良きライバルであった山県有朋は、
 伊藤の死を悼んで次のような歌を詠んでいます。


 かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

(現代語訳:一緒に真剣に語り合い、国のために尽くしてきた友は
 先だってしまった。今から後の日本の世の中を一体どうしたらよいのだろうか)

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 

【亡くなる7年ほど前、伊藤博文が大磯でつくった漢詩】

 酔中(すいちゅう)天地闊(ひろ)し
 世事しばらく相忘る
 滄浪水(そうろうすい)を問わず
 功名は夢一場

(現代語:酒に酔えば、天地は広々と感じられて、
 世の中の煩わしいことをしばらく忘れる。
 行手が青くきれいな水かどうかは問うまい。
 現世の功名は夢の一場面に過ぎないのだから)

   (http://wakayamamokkei.ikora.tv/e1125522.html

           <感謝合掌 平成27年7月22日 頓首再拝>

外見を若く見せることで自らを奮い立たせた老将 - 伝統

2015/08/01 (Sat) 20:14:01

【若く見せるのがおしゃれの目的ではない】

           *メルマガ「日本一元気(2015年07月31日 )」より


源平が争っていた時代のお話です。
斎藤実盛という老将がいました。


寿永2年(1183)、
挙兵した木曽義仲軍討伐のため北国へ出陣した平家軍は、
倶利伽羅峠(くりからとうげ)で木曽義仲の奇襲を受け敗走、
加賀国篠原で源氏軍の追撃をうけました。


その際なぜか、
一人踏みとどまって討ち死にした武者がありました。


赤地の錦の直垂(ひたたれ)に
萌黄威(もえぎおどし)の鎧を着した華やかな姿は、

若く名のある武将と見えましたが、
名乗りかけても答えず、
誰とも知れぬまま手塚太郎光盛に討たれました。


義仲がその首を見ると、
幼少の頃見知っていた、

斎藤実盛であった

ので、

髪が黒々しているのを不思議に思い
実盛と親しかった樋口次郎を召して問いただしたところ、


「白髪頭の老武者が若武者と先陣を争うわけにもいかないし、
 侮られるのも口惜しいと話していたので
 髪を染めたに違いない」


と言います。

そこで実盛の髪を洗わせてみたところ、
墨が流れて年相応の白髪頭が現れたのでした。


この出陣にあたり、
一戦も交えず敗退した富士川の合戦の責任を感じていた実盛は、
討ち死を覚悟で「故郷に錦を飾る」という言葉どおり
錦の直垂を着し、髪を染めて出陣していたのでした。


名を名乗らなかったのも、
もし実盛とわかれば、

義仲が昔の恩とその老齢を考えて
助命することを予想したからだろうといわれています。



ここから何が言えるかというと、

なぜ老将、斎藤実盛が白髪染めをして
最後の戦いに臨んだのかということです。


単に自らを、

「若く見せたかった」

というわけではないのではないかと思います。


最後の戦いに、
武士として恥じない戦いをするために、

自らを鼓舞するために、
外見を整えたのでしょう。


戦いは孤独です。
自らの心が奮い立たなければ、
勝負をすることすらできません。

最後の気力を振り絞って戦った斎藤実盛は、
外見を整えることで、
若さを取り戻し、心を奮い立たせたのだろうと思います。


現在でも俗に「勝負服」とか、
「勝負スーツ」という衣装があるように、

外見をしっかりと調えることによって、
内面を磨き上げることも重要なことだろうと思います。


              <感謝合掌 平成27年8月1日 頓首再拝>

老中・土井利勝の「捨て身の術」 - 伝統

2015/08/05 (Wed) 20:00:24

江戸前期、老中・土井利勝の「捨て身の術」

          *「リーダーの決断 参謀の決断」童門冬二・著より

土井利勝という人物がいます。

なんでも、徳川家康に顔がよく似ていたそうです。
だからなのでしょうか。
家康・秀忠・家光の3代にわたって老中を務めていました。

土井が仕えていた徳川秀忠は、タバコが嫌いでした。
だから、江戸城内では禁煙を守らせる規則を作っていました。

今の世の中もそうなのですが、
この時代でもこの規則が守れない人がいるものなのです。

それを知った秀忠は、土井に対して厳重に取り締まるように命じました。

さて、どうしよう・・・と思案して、どこで隠れて吸っているのかを調べてみました。
土井がその場所に行くと、タバコを吸っていた武士たちはびっくりしています。
老中に見つかってはどんなばつが下るのか・・・全員青くなっています。


ところが土井はニヤリと笑ってこんなことを言ったそうです。

「わしにも一服くれ」

「はぁ? 」

全員驚愕しました。

取り締まらなければならない人間がそんなことを言ったら、
誰もが目が点になってしまいます。

呆気にとられているさなか、さらに、

「だから、わしにも飲ませろよぉ」

とせがんできます。

仕方なく武士の一人がキセルにたばこを詰めて土井に差し出すと、
土井は深々と吸い込んで、ふーぅっ・・・と煙を吐いて一言。

「あゝ、うまい。やっぱりタバコは隠れ飲みに限るなぁ・・・」

そういってみんなの顔を見渡すと、もう一度ニヤリと笑って部屋から出ました。

そして出がけに、

「気をつけろよ」

と言いました。

そう、それだけだったのです。


やがて、江戸城内に

「土井ご老中がたばこの隠れ飲みをして、上様(秀忠)からこっぴどく叱られた」

という噂が流れたのでした。

これを聞いた武士たちは、土井がやった対処方法に対して感動し、

「土井様に済まない。これからは、隠れ飲みだけは辞めよう」

と申し合わせたのでした。

これ以後、江戸城内でのタバコの隠れ飲みはパタッとなくなりました。


その後、土井は秀忠のところに出向きます。
そこでこう頼みました。

「タバコの隠れ飲みはあまり好ましいことではございませんが、
今はすでになくなりました。飲んでいた連中が自粛したのでございます。

先日、わたくしが上様からお叱りをこうむったことが伝わり、
彼らに反省を促したのでございましょう。

そこでいかがでございましょうか。
時間を限って、ある部屋を彼らに与え、おおっぴらに喫煙を認める、
という方法をおとりになっては・・・」

秀忠は黙ってしばらく土井の顔を見つめてから、

「そうせよ」

と許諾したのでした。

何かを取り締まるには、頭ごなしに縛り付け、
何かあったら厳罰にする、という方法があります。

しかし、それでは逆に反発を招いで逆効果になってしまいます。

自ら大いに叱られて部下にやってはいけないことをやめさせる・・・という
自ら泥をかぶる「捨て身の術」によって問題を解決させたのです。

いわば

「当たって砕けろ」

という武士としての勇気を奮い起こした行動だったのです。

              <感謝合掌 平成27年8月5日 頓首再拝>

老中、水野忠之の智慧 - 伝統

2015/08/06 (Thu) 18:06:10


          *「リーダーの決断 参謀の決断」童門冬二・著より

水野忠之は、享保の改革を展開した8代将軍徳川吉宗に登用された老中です。

享保の改革の大きなトピックは、
・水野の老中登用
・山田奉行であった大岡忠相(ただすけ)の江戸町奉行の登用
この2つの人事異動だけなのです。

それ以外は、現行の組織と人事をそのまま活用していったのです。


このころ、吉宗の耳には勘定書役人について2つの黒い噂が入っていました。

ひとつは、勘定書役人が出入りの商人から、
しきりに物品や金子(きんす)を受け取っていること。

もう一つは、米蔵保存の米を担保にして、商人から金を借り出していること。


これに対して、吉宗は水野に対して取り締まるように命じました。

水野は、吉宗の命令を受け取るとすぐに勘定所に出向きました。

勘定所の慣習では、新しい勝手掛老中がすぐに挨拶に来ることはありません。
逆に、役人の勘定所の方から老中のところに挨拶に出向く、というのが習わしでした。

ところがそうではなく、老中である水野の方から出向いてきたわけです。
役人たちはびっくりして、その中の一人は
思わず鮭を裃(かみしも)の背に突っ込んで隠したそうです。

それを見た水野は思わず笑い出しました。
平伏した勘定所役人たちと一緒に、背中の鮭も頭を下げていたからです。

「新しく勝手掛になった水野だ。素人でなんもわからん。
よろしく頼むぞ。お前たちだけが頼りだからな」

水野がそう挨拶したものだから、役人たちはいよいよ恐縮しました。
さらに鮭も恐縮しました。


水野は、帰りがけに勘定所の責任者を読んで、こうささやきました。

「おい、今後勘定所の役人は裃をやめて、羽織にしろ」

「は? 」

「勘定所は、江戸城内でも権威のある役所です。
裃を羽織に変えたのでは、その権威が廃ります」

「そうかなぁ。わしは、勘定所はカタい役所と聞いているので、
他の部署から親しみやすい職場にしたいのだ。裃よりも羽織の方がぐっとくだけでよいぞ」

責任者は水野の意図がわからずに問い返した。

「御老中、どうしても勘定所役人は裃を羽織に変えなければいけませんか? 」

と聞いた。水野は振り向いて笑いながらこう答えたそうです。

「そうだのぅ。羽織の方が鮭を隠しやすかろう」

「・・・」

責任者は一瞬呆気にとられました。
しかし、ハッとしてそうだったのかと気が付きました。
水野の温情を感じました。

役人と商人がやってはいけないのは、役人たちが商人に対して便宜を図ることです。

ここに出てきた「鮭の贈り物」というのは、
商人から役人に対しての「礼物(れいもつ)」にすぎないのです。

そういうものも禁じてしまっては、これから行おうとする改革が
うまくいかなくなってしまう可能性が大きくなってしまうのです。

これによって、一つ目の問題は解決できました。


さて、もう一つ。

水野は自分で蔵前に行きました。
そして、それぞれの倉庫に保管されている米俵の山を見て、

「ほう。きちんとそろっているではないか」

とうなずきました。

そのはずなのである。

「新しく勝手掛老中になった水野様が、直接蔵前のコメ倉庫を検分なさる」

この噂が事前に流されていたのです。

この噂を流した人間こそ、水野その人だったのです。

これによって、蔵前から米を持ち出してお金にしていた役人たちでも、
あわてて倉庫に米を返したのです。

そして、水の自身が帳簿と現物を確認して、こんなことを言い出しました。

「見事な管理ぶりだ。
過不足ない。官米は帳簿通りに保管されている。
褒めてやる。

すぐに倉庫を鍵づけにして鍵をかけろ」

これで青くなったのは役人たちです。

老中直々に倉庫の調査をするために、商人たちから米を借りてきたのです。
それをどう返せばいいのか・・・。

農民たちから徴収した大事な米を役人の私腹のために使っていたのです。

いわば、

「身から出た錆」

なのです。

              <感謝合掌 平成27年8月7日 頓首再拝>

極限の戦場の総指揮官・栗林忠道中将 - 伝統

2015/08/08 (Sat) 17:51:15

         *『散るぞ悲しき:硫黄島総指揮官・栗林忠道』梯久美子・著より

(1)訣別電報の最後には、栗林忠道の辞世が添えられている。

   「国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

  ①その電報のことに話が及ぶと、それまで饒舌だった彼がしばし沈黙した。
   そして、つと姿勢を正し目を閉じて、85歳とは思えぬ張りのある声で誦したのである。

   「戦局、最後の関頭に直面せり、
   敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり・・・」

   「この電文は私にとって、お経のようなものなんです。
   うちの閣下が、最後に遺した言葉です。
   今もこうして、口をついて出てきます。
   一言一句、忘れることができんのです」

   彼、貞岡信喜が「うちの閣下」と呼ぶのは、
   太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島の総指揮官として2万余の兵を率い、
   かつてない出血持久戦を展開した陸軍中将(のち大将)、栗林忠道である。

  ②周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、
   最後はゲリラ戦に転じ、「5日で落ちる」と言われた硫黄島を、
   36日間にわたって持ちこたえた。

   貞岡が誦したのは、その栗林中将が玉砕を目前にした昭和20年3月16日、
   大本営に宛てて発した訣別電報の冒頭である。

  ③米軍の中でも命知らずの荒くれ揃いで知られる海兵隊の兵士たちをして、
   「史上最悪の戦闘」「地獄の中の地獄」と震え上がらせた凄惨な戦場。

   東京から南へ1250キロ、故郷から遠く離れた絶海の孤島で死んでいった
   男たちの戦いぶりを伝えんと、みずからも死を目前とした指揮官は、
   生涯最後の言葉を連ねたのだった。


(2)硫黄島は、はじめから絶望的な戦場であった。
   陸上戦力においても、日本軍約2万に対し、
   上陸してきた米軍は約6万。しかも後方には10万ともいわれる支援部隊がいた。

   日本軍の玉砕は自明のことであり、
   少しでも長く持ちこたえて米軍の本土侵攻を遅らせることが、
   たったひとつの使命だった。


(3)階級社会の最たるものである軍隊にあって、
   目下の者に気さくに接する栗林は異色の将官だった。

   南支那派遣軍時代、入院した兵がいれば、自ら車を運転し、
   果物などをもって軍病院に見舞った。
   マラリアにかかった兵には氷を届けた。


(4)硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、
   米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。

  ①最終的には敗北する防御側が、
   攻撃側にここまで大きなダメージを与えたのは稀有なことであり、
   米海兵隊は史上最大の苦戦を強いられた。

  ②米軍側の死傷者数は2万8686名に対して、
   日本軍側は2万1152名。

   戦死者だけを見れば、米軍6821名、日本軍2万129名と日本側が多いが、
   圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである。


(5)硫黄島の戦略価値

   硫黄島というちっぽけな島に飛行場が3つあった。
   つまりここは、洋上に浮かぶ不沈空母たりえる島だったのである。

   航空戦が勝敗を決する太平洋の戦いにあって、
   それは日米双方にとってももっとも必要なものだった。

(6)栗林の断固たる統率

  ①日本軍が各地で敗退を続ける中、
   乏しい装備と寄せ集めともいえる兵隊たちを率い、
   これだけの戦いができたのは、栗林の断固たる統率があったからである。

  ②敵将からの評価も高く、硫黄島上陸作戦を指揮した
   米軍海兵隊の指揮官ホーランド・M・スミス中将は、
   その著書の中で次のように述べている。

   「栗林の地上配置は著者が第一次世界大戦中にフランスで見たいずれの
   配備よりも遥かに優れていた。
   また観戦者の話によれば、第二次世界大戦におけるドイツ軍の配備を凌いでいた」

(6)栗林中将の作戦

  ①栗林の師団司令部は、補給にすぐれた父島に置く案もあった。
   しかし栗林は、敵はかならず飛行場のある硫黄島を奪りにくると確信していた。
   そして「指揮官はつねに最前線に立つべし」
   という信念に基づき、断固として司令部を硫黄島に置いたのである。

   そして着任から玉砕まで9ヶ月を兵士たちとともに過ごし、
   一歩も島を出ることはなかった。

  ②着任後の栗林がまず行ったのは、島の隅々まで見て周り、
   地形と自然条件を頭に叩き込むことだった。

   どこにどんな陣地を作り、どう米軍に立ち向かうか。
   それを決めるには、島を知り尽くさなければならない。
   副官の藤田中尉とともに、栗林はとにかく歩いた。

  ③栗林が硫黄島に着任してちょうど1ヵ月後、
   昭和19年7月7日にサイパンが陥落した。
   この日は栗林の53歳の誕生日だった。

   このころ彼はすでに、米軍の来攻にどう備え、
   いざ上陸してきたときにどう戦うかについて考えを固めていた。

  ④熟慮の末に採用したのは、日本陸軍の伝統にまったく反する方法であった。
   当初は誰もが無謀だと謗り非常識だと反発した栗林の決断によって、
   硫黄島はその名を日米の歴史に深く刻み込むことになったのである。

  ⑤彼は、硫黄島が「勇敢に戦って潔く散る」などという
   贅沢の許されない戦場だということを肝に銘じていた。

   「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、
   「勝つ」ことを目的としていないことである。
   なるべく長い間「負けないこと」。

   そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。
   それが硫黄島の戦いのすべてだった。


(7)1日でも長く島を維持するために栗林が立案した作戦の内容は、
   以下の2点に集約される。

  ①水際作戦を捨て、主陣地を海岸から離れた後方に下げたこと。

  ②その陣地を地下に作り、全将兵を地下に潜って戦わせたこと。


   →しかしこれは、日本軍の伝統的な作戦を否定するものだった。
    そのため、実行するには断固たる決意と実行力を必要とした。


(8)米軍の評価

  ①米軍側の資料に、捕虜となった日本兵の多くが、
   栗林の顔を直接見たことがあると主張したことに驚いたという記述がある。

   2万を超える兵士のほとんどが最高指揮官に会ったことのある戦場など
   考えられないというのだ。

  ②硫黄島のような生活条件が劣悪な地では特に、
   上官との接触が少ないと兵士の士気は衰える。

   たとえ直接顔を見ることはなくても、
   雲の上の存在である最高指揮官が毎日陣地を見回っているという話は、
   すぐに伝わり、兵士たちを元気づけたに違いない。

  ③ジェイムズ・ブラッドリーは、
   「酒も娯楽もなく一人の女性もいない島で、
   兵士たちが8ヶ月もストレスに耐え得たのは奇跡である」
   と語った。

  ④硫黄島上陸作戦の指揮官であるアメリカ海兵隊のホーランド・M・スミス中将は、
   栗林が作り上げた硫黄島の陣地を「ウジ虫」に例えた。

   それは、40年間ひたすら第一線の戦場に立ち続けてきた闘将が、
   人生の中で口にしたうちでも最大級の褒め言葉であった。

  ⑤62歳という高齢で叩き上げの軍人であり、
   口の悪さで知られ、回想録の中でミニッツ大将を「日和見主義者」
   と呼んでいるスミス中将だか、栗林については賞賛を惜しんでいない。

   「太平洋で相手とした敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった。
   島嶼の指導者の中には単に名目だけの者もあり、
   敵戦死者の中に名も知られずに消え失せる者もあった。
   栗林の性格は彼が残した地下防備に深く記録されていた」

  ⑥将軍に対する評価は、敵将によるものがもっとも信用がおける。
   顔を合わせることはなくとも、
   極限の戦場において相手がどう戦うかを見れば、
   その力量だけでなく、性格や人間性までが知れるのである。

   スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。
   それは名誉に逃げず、美学に生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって、
   戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。

  ⑦地下陣地は、戦闘が始まる前からその価値を大いに発揮した。
   上陸の前哨戦として島に加えられた圧倒的な砲爆撃から将兵たちを守ったのである。


(9)米軍海兵隊と星条旗

  ①擂鉢山の頂上に最初の星条旗が立てられた直後、
   数人の男たちがモーターボートで硫黄島に上陸した。

   グレーのセーターをはおった男が、横に立つ男にこう話しかけた。

   「ホーランド、これで海兵隊は今後500年間安泰だな」

   ホーランドとは、スミス海兵隊中将のファースト・ネームである。

   これが最後の戦闘指揮となる老いた将軍は、
   「マイ・マリーンズ」が成し遂げた快挙と、
   そこに至るまでの犠牲を思って目を潤ませた。

   セーター姿の男はジェームズ・V・フォレスタル。
   米国海軍長官である。

   彼は海兵隊の硫黄島上陸作戦を自分の目で見ようと、
   はるばる太平洋までやってきていた。

  ②フォレスタル長官がスミス中将に、
   「これで500年間安泰」と言ったのには理由がある。

   海兵隊は海軍の付け足しのように扱われ、創設以来、
   不要論が持ち上がることもしばしばだったのである。

  ③フォレスタル長官も、星条旗掲揚の写真に熱狂したアメリカ国民も
   知る由もなかったが、
   硫黄島を完全に占領するまでに、海兵隊はさらに30日を要することになる。

   それはまさに血みどろの30日間となった。

  ④栗林は全将兵に対して、死を急ぐことを許さなかった。
   潔い死を死ぬのではなく、もっとも苦しい生を生きよ。

   そう兵士たちに命じることが、
   極限の戦場の総指揮官たる栗林の役割であった。

(10)平成6年2月、初めて硫黄島の土を踏んだ天皇陛下はこう詠われた。

   「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」

   見捨てられた島で、それでも何とかして任務を全うしようと、
   懸命に戦った栗林以下2万余の将兵たち。

   彼らは、その一人一人がまさに「精根を込め戦ひし人」であった。
   この御製は、訣別電報に添えられた栗林の辞世と
   同じ「悲しき」という語で結ばれている。


   (あらためて栗林忠道の辞世

   「国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」)


<参考Web:光明掲示板・第三「英霊の言乃葉Ⅱ」内記事
       栗林忠道陸軍中将の遺言NEW (972)日時:2014年10月11日
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=28

       スレッド「人の上に立つ者に求められること」
            内記事「栗林忠道(散るぞ悲しき)」
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456974
       (2015/05/11 (Mon) 19:40:45)            >

              <感謝合掌 平成27年8月8日 頓首再拝>

肥後熊本藩6代目藩主・細川重賢(しげかた) - 伝統

2015/08/10 (Mon) 17:34:53


          *「リーダーの決断 参謀の決断」童門冬二・著より

当時の藩は財政が火の車で、これを解決するためには
厳しいともいえる改革を行わなければならなくなりました。

この改革を実行するにふさわしい人間は、
「休まず遅れず働かず」といった普通の人間では、
うまく円滑にやっていくことがままなりません。

この時にこそ、非常な人物が必要になってくるのです。
あれこれと探し回った挙句、堀平太左衛門という変わった人間に目をつけます。

周りのものからは「欠点だらけだからやめよう」、という意見が出たのですが、
重賢はもっと欠点を挙げて周りの者の「ぐぅ」という音(ね)すらも上げさせずに
登用させたのでした。


その堀平太左衛門。

改革の総奉行に就任してからは、自ら試してみて改革を実行していったそうです。

まずは
「民の年貢が重すぎる」
と聞けば、自分の屋敷の庭を耕して実際に稲を作ってみました。

そしてこれくらいの面積だったらこれくらいの米が収穫できる、
というのを体験してから年貢の額を決めました。

また、同時の熊本藩では、罪人を罰するときには
「死刑」と「追放」の2種類しかありませんでした。

「これではいたずらに藩の大切な生命を失うだけだ」
という思いで、新たに鞭で打つ刑を設けました。

しかも、この時も実際に自分の体を部下に鞭で打たせて
「鞭で打たれる我慢の限界」を体験し、どれくらい打たせるかを決めたのでした。

さらには、身分の低い者の給与を全額支給させ、
その財源を年貢などの税金からではなく、重役の給与から工面するようにしました。
当然ながら重役からは不満が出たのですが、この非常事態なので有無を言わさず実行しました。


この改革の中で、目を見張るものがあります。
それは、「時習館」と呼ばれる学校を作ったことです。

「学校など『金食い虫』の最たるものです。大反対です」
という声が大多数だったのですが、重賢はこう反論したそうです。

「藩が貧しい時こそ教育が大切だ」

初代の学長には秋山玉山(あきやま・ぎょくざん)という学者を登用しました。

その玉山に対して重賢はこう告げました。

「秋山先生、あなたは国家の大工さんです。安心して住める丈夫な家を作るように、
人を育てていただきたい。『人材』というように、人は大切な国家の『資材』なのですから」

さらに重賢はこう続けます。

「教育というのは、子供を川の向こう岸、すなわち社会へ渡すことです。
しかし、子供は上流にいたり中流にいたり下流にもいたりします。
いる場所に応じた渡し方を考えていただきたい。
『橋を架けること』だけが教育者の脳ではありません」

玉山は当時相当有名な学者でした。

そんな玉山が若い重賢にそう諭されて、
「学者のわしよりも、よほど正しい教育方法を殿は御存じだ」
と感心したそうです。

この世の中は不景気の真っただ中にあります。
道路や橋や建物などを作る、ということで雇用を安定させることができるのかもしれません。

しかし、この道路や橋や建物ができた後、どうなるのでしょうか。
これを活かしていく方法は何なのか・・・このことを考えなければなりません。

その「答え」を見つけていく手段を見つけ出す・・・それことが
「知恵」
であり
「知識」
であり
「学習」
なのではないでしょうか。

              <感謝合掌 平成27年8月10日 頓首再拝>

小野篁 ~ 冥界の閻魔庁の役人 - 伝統

2015/08/25 (Tue) 18:12:31

           *Web:産経WEST(上ー2015.8.12、下ー2015.8.25)より

遣隋使・小野妹子に始まる小野氏は、さまざまな実務をもって朝廷に仕える貴族だった。
小野篁も法律家で文人、外交官などの顔を持っている。
当時の最高権力者、嵯峨上皇から信頼される一方で、だれをも恐れぬ「奇人」でもあった。


《「六道の辻」の支配者》 

京都市東山区にある六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)。
8月中旬ともなると、朝早くからお盆参りの人々が詰めかけている。
京都の人々にとって、ここは祖先と出会う大切な場所「六道の辻」なのだ。

古刹(こさつ)、六波羅蜜寺の東北にあって、建仁寺派に属する禅宗寺院だが、
お盆にはここで祖先の霊を迎える「迎え鐘(かね)」をつく風習がある。

寺の内外にある花屋で高野槙(こうやまき)を買い求め、まずは迎えの梵鐘(ぼんしょう)をつく。
そして、本堂で経木(きょうぎ)に祖先の戒名を書き記し、
石地蔵の前に置かれた水盤にひたして水回向(えこう)をするのである。

こうした人々を静かに見守るのが、篁堂に安置された小野篁の木像だ。
平安時代の貴族の正装である束帯姿で、右手に笏(しゃく)を持つ等身像。

傍らには、閻魔(えんま)大王らもいる。

 《昼間は朝廷に。そして夜は、冥界(めいかい)の閻魔庁の役人として出仕した》

小野篁には、平安末期から、こんなウワサがまことしやかに流されてきた。
どうして、そんな伝承ができあがったのだろう。
それを知るためにも、まずは彼の出自と、その生涯を見ていくこととしよう。


《道を外れかけたエリート》

篁が産声をあげたのは、平安遷都から間もない延暦21(802)年のことである。
父親は参議(閣僚)で、勅撰漢詩集「凌雲集」(りょううんしゅう)の選者
としても知られる小野岑守(みねもり)。つまり、生まれながらのエリートだった。

ところが、青少年時代の篁には、よからぬ風聞が立っている。
父の跡を継いで高級官僚になるべく勉学に励むべきところが、
一向に学業を顧みず、趣味の乗馬に明け暮れていたというのだ。


 「岑守の息男は、父に似ず、弓馬の士となるのか…」

岑守の才を高く評価していた嵯峨天皇が、このように嘆いたと
「文徳(もんとく)実録」にはある。

「弓馬の士」とは、つまり兵士。
当時は、貴族がやる仕事ではなかったのだ。

しかし、もともと利発な若者だったのだろう。
篁は嵯峨帝の嘆息に自らを大いに恥じ、以後、学問に打ち込んだという。

篁の終生の理解者となる嵯峨上皇との、
「魂の出会い」といってもいい興味深いエピソードである。

 
勉学の成果があがって、弘仁(こうにん)13(822)年には
文章生(もんじょうしょう)の試験にパスし、官僚としてのスタートを切った。

そしてキャリアを積み、承和(じょうわ)元(834)年には、
約30年ぶりに派遣される遣唐使の副使に任じられた。
大使に次ぐ2番目の重職である。


《乗船を「拒否」し流罪に》

遣唐使は中国・唐から、最新の文化を輸入する重要な役目だった。
ところが、このころになると、朝鮮・新羅(しらぎ)の商人の活躍などもあり、
役割は小さくなっていた。

家祖・小野妹子以来の中国使節という名誉はあったものの、篁の目は醒(さ)めていた。

しかも、不運が重なった。
承和3(836)年に出航した船団は、暴風雨に遭い難破してしまったのである。
さらに、翌年に出た船も航行不能となった。

同5(838)年、ようやく3度目の出航となったが、今度は船中に篁の姿はなかった。
乗船を拒否したのだ。

表向きの理由は「病気」だったが、遣唐大使である藤原常嗣(つねつぐ)と
諍(いさか)いを起こしたのが真相だった。
長い遣唐使の歴史でも、こんな例はない。

当時、日本の造船技術や航海技術は低下していた。
その理由には、新羅商船など民間の航海が多くなり、
「官の技術」は必要なくなっていたことが挙げられる。

常嗣は大使船の安全性に不安を感じ、篁の乗る副使船を横取りしたのだった。

どのような理由であっても、「乗船拒否」は天皇の命にそむくこととなる。
承和6(839)年正月、篁は貴族の身分を剥奪されて庶人(平民)に落とされ、
隠岐島(島根県)に流罪となった。

本来は死罪となるべきところを、嵯峨上皇によって罪一等を減じられたのだ。

篁はこのとき、得意の漢詩を作って自らの心境を訴えた。
詩は現在に伝わらないが傑作で、多くの人が感嘆したという。

遣唐使の外交的な意義は薄れ、もはや無意味であること。
文化の輸入という点でも、切実さがなくなっている現実を訴えたとみることができる。

篁の反骨精神を、まざまざとみせつけられる思いだ。
あるいは常嗣との諍いも、こうしたことを訴えるためのカムフラージュだったのかもしれない。

隠岐島では、さすがの篁も少なからぬ後悔の日々を送ったことだろう。
だが嵯峨上皇は、彼のような逸材が僻遠(へきえん)の地で朽ち果てることを望まなかった。 

     (<上>http://www.sankei.com/west/news/150812/wst1508120039-n1.html


《流罪を許されカムバック》

 《わたのはら八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人(あま)の釣舟》

「百人一首」にも入っているこの有名な歌は、承和6(839)年、
篁が隠岐に配流されたおりに詠んだものだ。

私のことを問われたなら、(自らの信じるところに従って)大海原をめざして、
漕ぎだしたと伝えてほしい…と胸を張るのだ。

のちに「承久の乱」(1221年)の責めによって隠岐に流された後鳥羽上皇の、
「われこそは新島守(にいじまもり)よ 隠岐の海の荒き波風心して吹け」と通じあう
「強烈な自負」を感じてしまう。

自分が乗るはずの遣唐使船を、常嗣に横取りされたうえ島流しに遭ってしまった悲運すらも、
名歌として昇華させてしまった篁の才能は、非凡というしかない。

そんな篁を惜しんだのだろう、1年半の後、嵯峨上皇は都へ召し返した。
そして、かつて務めたこともある刑部大輔(ぎょうぶたいふ、裁判や罪人の処罰を担当する
役所の長官)のポストに就けたのだった。

 
それだけではなかった。
上皇は篁に、孫の道康親王(のちの文徳=もんとく=天皇)の教育係(学士)も委ねた。

詩歌や儒学に優れ、廉直(れんちょく)な性格の篁こそ、
律令国家の理想的なあり方を体現する人物と評価したのだろう。
事実、名官僚としての篁の名は、日ましに高まっていった。


《「冥官伝説」が生まれたわけ》

12世紀に成立したとされる説話集「今昔物語集」には、
篁に関する不思議な逸話が収録されている。

大臣・藤原良相(よしみ、813~867年)が重病に陥り、
亡くなってしまったおりの話である。

良相が閻魔(えんま)大王のもとに赴くと、大王の隣には篁がおり、
「この人は心根のまっすぐな人です。自分に免じて助けてあげてください」
と取りなしてくれたのだ。

死の淵(ふち)から帰還できた良相は後日、参議として閣議に出席した篁に、
あのときのやりとりをただした。

それに対し、篁は自分が若い官僚だったころ、失敗を犯したのに良相がかばってくれた恩を
返したと説明し、「しかし、決して他言はしないよう」とも言い添えたという。

これが、小野篁は昼間は朝廷に、夜は閻魔庁に出仕したとする「冥官伝説」である。
篁の死後、それほどたたないうちに、この伝説はできあがっていた。なぜだろうか。

 「平安時代の人々にとって、現世と来世を行き来し、亡き親族と再会するのは夢だった。
  権力に逆らって配流されたものの、よみがえって大臣にまで出世した篁は、
  冥界の役人にもふさわしい存在と受け止められたのではないか」

平安人の精神生活を研究している中村修也・文教大教授は、このように考えている。


《「野狂」と呼ばれるパッション》

京都市東山区にある六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)には、
篁が冥界との行き来に使ったという井戸が残されている。
そして北区紫野には、「篁の墓」が存在する。

小野氏本貫(ほんがん)の地の小野郷(滋賀県大津市小野)には「小野篁神社」があり、
本殿は国の重要文化財に指定されている。
篁に対する人々の篤い信仰が伝わってくるようだ。


篁は、当時の日本人としては珍しい6尺2寸(約186センチ)もの長身だったという。
堂々とした体躯(たいく)は、見る人を圧倒したのではないか。

刑罰を所管する刑部大輔を二度にわたってつとめたことも、
「冥界の裁判官」像の形成につながったと見ることができる。

承和14(847)年、篁は長年の功績を評価され、参議(閣僚)に列した。
「野相公(やしょうこう)」「野宰相」などと自称したとされるが、
それは「野人の大臣」という意味である。

彼はまた、「野狂(やきょう)」とも呼ばれた。
反骨精神にあふれ、過激なパッション(情熱)を持つ人物らしい通称ではないか。

篁は文徳天皇治世の仁寿2(852)年12月22日、病気のため亡くなった。
51歳の生涯だった。

「文徳実録」は彼の事績を書き記し、
「家は貧しかったが、母親に孝養を尽くし、友人を大切にした」とその人柄をたたえている。
奇人ではあったが、情に厚い人物でもあったということだろう。

     (<下>http://www.sankei.com/west/news/150825/wst1508250057-n1.html

・・・

<参考Web:平安時代の闇のヒーロー「小野篁」の華麗なる地獄めぐり
       http://matome.naver.jp/odai/2136909827563985801   >

              <感謝合掌 平成27年8月26日 頓首再拝>

渋沢家三代 - 伝統

2015/09/01 (Tue) 17:54:42


        *『渋沢家三代』佐野眞一・著からの要点の紹介です。


(1)私は『旅する巨人』という作品を発表した。
   特異な民俗学者として知られる宮本常一を主人公とした評伝だった。
   宮本の生涯を追ううち、もう一人の巨人が現れた。

   それが渋沢栄一の孫で、脇役となった渋沢敬三だった。


(2)渋沢敬三は戦時中に日銀総裁、戦後は大蔵大臣を歴任した経済人でもあった。
   しかし敬三はなによりも、民俗学をはじめとする我が国の学問発展に
   陰徳を重ねつづけた類稀なるパトロネージュだった。

   もし彼の物心両面にわたる援助がなかったら、
   民俗学者宮本常一は絶対に生まれていなかった。


(3)渋沢敬三の魅力は私にとってそれほど決定的なものだった。
   これほど格が大きく、懐の深い人物が日本人の中にもいたことを、
   私はひそかに誇りに思った。


(4)渋沢栄一は7歳のときから私塾に通い、
   四書五経、論語の漢学や知行合一の陽明学の手ほどきをうけた。


(5)栄一は近代的企業の創設に命を燃やした。

   長男の篤二は廃嫡すら覚悟して放蕩の世界に耽溺した。

   そして孫の敬三は学問発展に尽瘁して、ついに家までつぶした。


(6)事業にしろ遊芸にしろ学問にしろ、
   自分の信ずる世界にこれほど真摯に没入していさぎよく没落していった一族が、
   ほかにいただろうか。

   渋沢家三代のおおぶりな健全さとなにもかも心得た懐の深さは、
   日本人の精神からことごとく消え去ってしまった。


(7)渋沢一族が残した最大の遺産。
   それは、第一銀行や国立民俗学博物館などの有形なものではなく、

   われわれが忘れてしまった見事な日本人の、
   三代にわたる物語だったのではないだろうか。


(8)渋沢栄一は武蔵国の深谷にある藍玉生産を事業とする裕福な家に生まれた。
   その後、倒幕を目指し志士となる。

   しかし、ふとしたきっかけで徳川御三卿である一橋家に仕官する。
   そこで一橋(徳川)慶喜に仕える。


(9)一橋家に仕官した時代、栄一は新撰組の近藤勇や土方歳三、西郷隆盛など、
   幕末維新期を彩った錚々たる人物たちの謦咳に接し、大きな感化を受けている。


(10)栄一は徳川慶喜の弟である昭武に同行して、パリに行く。
   そこで西欧文明に接し、株式会社や銀行制度、産業事情について学んだ。
   その後、大蔵省に入る。


(11)栄一はのちの超人的な女性関係にもみられるように、生来マメでタフな男だった。
   自分のやるべき仕事は、2日でも3日でも徹夜してやり遂げる。


(12)身は実業の世界にあって近代化に尽くしながら、
   精神においてはあくまで幕臣でありたい。

   渋沢栄一という男の面白さと決してゆるがない安定感は実はここにある。
   そして多くの人々から尊敬を集めた理由も、またそこにあった。


(13)25年の歳月をかけた『徳川慶喜公伝』全八巻が世に出ようとしていた1917年、
   栄一は折からの夏休みで仙台から東京に戻っていた孫の敬三を、
   湯河原の天野屋旅館に呼んだ。

  ①静養かたがた天野屋で『徳川慶喜公伝』の序文を書いていた栄一は、
   その原稿を敬三に渡し、声をあげて読んでほしいと頼んだ。

  ②栄一はその序文で、自分がどうして慶喜公の知遇を得るに至ったか、
   なぜこのような伝記の編纂を思い立ち、
   どういう経緯で今日に至ったかをありのままに心をこめて書いていた。

  ③敬三は栄一にいわれるままにその序文を読み始めた。
   はじめは退屈に思えたが、やがてその序文にこもる栄一という人物の気迫と、
   幕末から維新の激動の歴史とともに歩んできたその人生のスケールの大きさが、
   若い敬三の心にぐいぐいと迫り、魂をゆさぶった。

  ④そこには日本の国の生きた歴史が躍動し、日本人の心が渦巻いていた。
   そして行間には、七十歳を越えてなお火のように燃える栄一の、
   国を思い、世を思い、主君を思いやる、正直で真摯な熱情がみなぎっていた。

   敬三はついに圧倒され、突然、嗚咽とともに泣き伏してしまった。

  ⑤これ以後、栄一の敬三を見る目が変わった。

   廃嫡となった長男篤二にかわり、
   孫の敬三を渋沢家の当主として育てあげるという意志が、
   栄一のなかで本当に固まったのはこのときだった。


(14)栄一が開設に尽力した学校の一つに、
   1875年創立の商法講習所(一橋大学)がある。

   この学校で大きな学生騒動が起きたとき、栄一が出かけていったことがある。

   殺気だった学生を前に、栄一はいつもの温顔のまま口を開いた。

   「さて、おのおのがた・・・」

   いきなり大時代がかったサムライ言葉を聞いて、
   血気にはやる学生たちもさすがに静まり返った。

   そして栄一の武士的信念にうたれて、最後はすっかり兜をぬがされてしまった。

   栄一の言葉が学生に限らず類稀なる説得力をもったのは、
   幕末維新をくぐり抜けてきた男しか発しえない「気魂」が、
   そこにこもっていたためだろう。


(15)敬三が栄一の看病と葬式の心労と多忙などから急性の糖尿病にかかり、
   その療養のため、昭和7年の春を伊豆の三津浜で過ごした。

  ①療養中、敬三は滞在していた浜に隣りあった「内浦」という集落の古老から、
   思いもかけない貴重な古文書をみせられた。
   この地方屈指の旧家である大川家秘蔵の古文書だった。

  ②そこには、同家に伝わる戦国時代から明治にいたる二千数百点もの民俗資料が収録され、
   これまで一度も発見されたことのない一つの村の400年にわたる歴史と、
   海に暮らす人々の生活が克明に記されていた。

  ③驚喜した敬三は、一部ずつ風呂敷につつんで宿に持ち帰り、
   貪り読んでは一心不乱に筆写した。

   それからの敬三は、銀行業務をそこそこにこなしながら、
   ほとんどこの作業に没頭した。

   資料発見から最終巻の刊行にいたるまで約7年という膨大な作業だった。
   敬三と仲間たちの手によってまとめられたこの総計3,000ページにもおよぶ
   『豆州内浦漁民資料』の大著によって、民俗学者渋沢敬三の名は不動のものとなった。


(16)渋沢家三代の歴史をそれぞれ一言でいい表せば、
   家父長制、放蕩、そして学問への没頭という言葉に集約することができるだろう。
   渋沢家三代の女たちにとって、それはそのまま隠忍自重の歴史となった。

              <感謝合掌 平成27年9月1日 頓首再拝>

立見尚文、東洋一の用兵家 - 伝統

2015/09/04 (Fri) 18:04:45


           *『闘将伝:立見尚文、東洋一の用兵家』中村彰彦・著からの要点の紹介です。


(1)立見尚文は、幕末の戊辰戦争で佐幕派の桑名藩・雷神隊に所属し、
   西軍の山縣有朋を翻弄した。

   明治維新後に新政府に出仕すると、その「戦上手」を買われ、
   西南の役、日清・日露と、近代日本の命運を左右した戦場を稲妻のごとく疾駆した。

   日露戦争後は、陸軍大将へと上り詰め、
   その巧みな戦術から「東洋一の用兵家」と称された。


(2)立見は、柳生新陰流の剣と風伝流の槍術とを併せ修め、
   15歳からは甲州流の軍学も学んでいた。


(3)彼は国許の藩校立教館の学生としても
   『春秋左子伝』の素読に11歳で合格する非凡さがあった。
   抜群の学力と、弓術、馬術の稽古にも励んで文武両道に磨きをかけた。


(4)桑名藩出身の立見尚文は、
   日本史はもとより世界史でも不敗の将軍として知る人ぞ知る人だ。

   一個の武人として勇敢であり、指揮官としても胆力と判断力にすぐれ、
   軍人政治家としては大局観に恵まれていた。

   立見の戦上手は、職人芸とか天賦の才に加えて、
   実戦で鍛えられた経験と持ち前の思慮深さによるところが大きい。


(5)戊辰戦争における朝日山の戦いでは、
   奇兵隊出身の山縣有朋の盟友たる参謀・時山直八を討ち取り殊勲を挙げる。

   この戦いで、立見の状況把握能力が敵よりもすぐれ、
   戦闘における管制高地や要地を早く確保し、
   敵よりも優位に布陣する立見の才を発揮する機会となった。


(6)新政府への降伏後、立見はやがて司法省に出仕、
   下級判事などを務め司法官や行政官としても有能ぶりを発揮した。

   明治時代は面白い時代であり、軍人になるべき人間が文官になったり、
   反対の現象が起きたりもした。


(7)各地で不平士族の反乱が相次ぐと、立見も乞われ陸軍に入った。
   陸軍ですぐに少佐になり新撰旅団一個大隊を指揮した立見は、
   西郷軍最後の拠点、城山の攻略戦でも第一級の功労を立て錦絵にまでなった。


(8)日清戦争でも陸軍少将として歩兵第10旅団長に任じられた立見は、
   際立った統率力を発揮した。

   平壌作戦を立案した第5師団長の野津道貫中将の計画を見てすぐに、
   戊辰戦争における官軍の白河攻撃策と瓜二つと見抜く戦史的知識をもっていた。


(9)日清戦争においても、敵の数が断然優勢な状況に顔が士気色になった副官に向かって、
   こんなことに腰を抜かしていたら、あれは22歳で討ち死にしておったよ、
   と軽く応じる余裕はさすがである。


(10)野津中将は、薩摩出身だったにもかかわらず、
   藩閥外の立見を「東洋一の用兵家」と高く評価した。

   幕末に江戸でフランス人教官から近代軍事学を修めた立見は、
   「ナポレオン時代のフランスに生まれていたなら。30歳になる前に将軍になっただろう」
   と称賛されている。


(11)苦境を打開するには、強襲につぐ強襲あるのみと
   22歳のときからあまたの戦場を疾駆してきた立見の心理であった。

   日露戦争においては、師団の総力を挙げて夜襲する決意をした。
   これは世界戦史に類例の無い作戦である。
   当時でも2万人の夜襲とは破格のものであった。


(12)零下40度の厳寒で高齢の将軍が戦地に立つのもつらいのに、
   先頭で指揮を執り続けた粘り強さには驚くほかない。

   戦後大将となった立見がいくばくもなく没したのは、児玉源太郎と同じく日露戦争に
   精神とエネルギーのすべてを捧げた代償であった。



<参考Web>

(1)桑名史上の人たち(7) -立見尚文(たつみ なおふみ)-
   → http://www.city.kuwana.lg.jp/index.cfm/24,11198,234,407,html

(2)歴史上屈指! 無敵の将軍・立見尚文
   → http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/03/post-4723.html 

              <感謝合掌 平成27年9月4日 頓首再拝>

東條英機 - 夕刻版

2015/09/10 (Thu) 18:29:51


      *『東條英機・天皇を守り通した男』福冨健一・著からの要点の紹介です。

・・・
 
結論を言えば、東條英機が東京裁判でいかに日本は侵略国家ではないと言う事を主張し、
米英を始めとする連合国とりわけマッカーサーをたじろかせ、日本の無実を証明しようとしたが、
不当な裁判の結果、絞首刑となった。

だが東條を知る事で、今の日本と当時の日本を見つめ直そうというのが本書の趣旨である。

東條が首相就任時、陸相と内相を兼務したのは、
昭和天皇のご意志である戦争回避を実現するため、軍(陸軍)と治安組織(内務省)を押さえ、
開戦に沸く世論を憂慮し、万が一の事態(暴動)を押さえるためだった。

ところが、当時の日本には、国際感覚のある知識人・文化人が存在せず、
マスコミも開戦を煽るばかりで、優れた外交官もいなかった事が最後まで災いし
(日露戦争のころからその傾向があった)、米英の良いようにあしらわれ、
開戦に至ってしまった。

最後まで戦争回避に奔走した東條は世論だけでなく、陸軍からも批判された。
でも開戦すると、世論は熱狂的に東條を支持した。

また日本は開戦する(その以前からも)と作戦は重視するが情報(諜報)を
全く大事にしなかったので、暗号は解読される、スパイには騙される、
外交は全く上手くいかないと良い事がまるでない。

中野学校などは存在したが、予算・規模共に外国と比べても大幅に見劣りした。

科学よりも精神主義が軍だけでなく、国内に蔓延していたのだ。
それは今日でも同じ事で、ありもしない南京大虐殺を真実とされ、
事実である済南事件や通州事件のような日本人が多数被害にあった
悲惨な事件は語られる事はない。

また敗戦後の日本人は、その責任を東條一人に転嫁することで、
過去(歴史)と向き合う事はなくなった。

ただ東條だけは、それを守った。

最後に東條の人間性について少し、東條は幼年学校時代は成績が落第に近く、
ものすごい努力の末、カミソリ東條と言われるくらい優秀になった。

また、謹厳な反面、涙もろい人情家で、部下の金の事でよく面倒を見たそうだ。
そのおかげで夫人は苦労したようである。

   (http://kingomigi.seesaa.net/article/393990032.html

・・・


(1)戦争は、その国の育んできた歴史を凝縮する。
   その国のインテリジェンスの総体であり、ヒューマニズムの総体でもある。

(2)事実、大東亜戦争を戦った東條、ルーズベルト、チャーチルは、
   それぞれの国の最高の教育を受けて育った。

   いいかえれば、東條と向き合うことは、日本の国柄と向き合うことでもある。

   そして東條と向き合うことは、今の日本の素晴らしさを知ると同時に、
   日本の抱える課題解決に向けての示唆を得る手段でもあるのだ。

(3)東京裁判での、静かに証言台に立つ国民服の東條の姿は、
   語らずとも連合国の判事たちを圧倒する迫力を持っていた。
   しかも、その表情には武人のみが到達できる穏やかさと威厳があった。

(4)マッカーサーは、東條証言によって世論が東條に味方し、
   東京裁判が中止に追いやられることを恐れた。

   東條の迫力、器量は、マッカーサーさえも小さく見せたのだった。
   東條の器量は戦いのときは敵を圧する迫力になり、
   しかし、普段は人を包み込む包容力になる。

(5)東條夫妻のように戦犯裁判に立ち向かった人々を調べると、
   そこには日本人の夫婦の原風景があるように思えてならない。

   たとえば、マニラ裁判に立ち向かった本間雅晴中将の妻、富士子も、
   東條かつ子と同じように「Love&Serve」に生きた。

(6)夫を救うため法廷に立つ和服姿の富士子は、
   法廷にいる判事や弁護人、新聞記者に感銘を与えた。

   法廷で弁護人のコーダー大尉が、富士子に尋ねる。

   「あなたの目に映る本間中将とは、どのような男性でありますか」

   髪を後ろ手に結い、凛とした富士子の姿は、
   女性としての品格さと強さを感じさせた。

   富士子の静かな証言は聞く人に、
   夫を信じ動じることのない信念を感じさせた。

   「わたくしの主人は、米国では人にして人に非ず、
   と申されているそうでありますが、
   わたくしは今もなお、本間雅晴の妻であることを誇りに思っております」

   「わたくしに2人の子どもがおります。
   娘は今19になりますが、いずれは家庭を持つことになりましょう。
   そのときは本間雅晴のような男性とめぐり合い、
   結婚することを心から望んでおります。
   本間雅晴とはそのような人でございます」

   富士子の証言は1時間余り続けられたが、傍聴席からすすり泣く声が聞こえた。
   そのときの写真を見ると、
   本間中将は白いハンカチをくしゃくしゃにして、目を覆っている。

(7)東條は首相になるや、
   日米交渉妥結に向け天皇のご意志に沿うよう、全霊を傾け邁進した。
   東條は「真摯に平和の道を探求」し、
   これを「陛下も十分お認めになっていた」という。

(8)第二次世界大戦はインテリジェンス戦争でもあり、
   イギリスは大戦中、暗号解読のために3万人もの人員を投入し、
   ドイツの暗号「エニグマ」を解読している。

  ①国家情報にたずさわる人々は、
   欧米では「ベスト・アンド・ブライテスト」として尊敬される。

  ②20世紀の戦争史は暗号戦争の歴史でもあり、
   インテリジェンス活動こそが外交史、戦争史の核心なのである。

(9)日本のマスコミは、課題が多い。
   そこには、イギリスのBBC放送のように、
   世界的な視野を持ったニュースキャスターによる
   落ち着いた内容や分析は存在しない。

   日本の報道は、日本国民のみが見ているのではなく、
   世界の人々も見たり読んだりして日本を評価しているのである。

(10)私は、歴史博物館のようなロンドンの街並みを眺めるたびに、
   何世紀ものあいだ変わらずにある、
   冷厳な質感のある街並みに鳥肌の立つような魔性を感じる。

   イギリスの強さは、公式、非公式の国際会議をいつでも開いている
   魔性を秘めた、このロンドンの街そのものにあるのではないかとさえ思う。

   このロンドンで行われている非公式の国際会議こそが、外交の前哨戦なのである。


(11)東條は国家の命運を背負い、3度の戦いをしている。

   最初の戦いは、「戦争は外交の延長」といわれるように、
   和平のための日米交渉という外交の戦いである。

   次は、大東亜戦争。

   最後に、東京裁判での戦いである。

(12)アメリカから武器や資金の援助を受ける蒋介石、中国におけるコミンテルンも、
   日米交渉の成立は断固反対であり日米開戦を望んでいた。

   すぐれた諜報組織を持つイギリスのチャーチルは、
   日本が開戦に踏み切ることを事前に知っていた。

   チャーチルは情報官が手を加えた諜報情報ではなく、
   側近のデズモンド・モートン少佐が選んだ、重要文書を原文のまま読んでいた。

(13)特攻隊戦隊長の村岡英夫少佐は、次のように記している。

   「戦中、戦後にかけて、特攻隊員へのいささかあやまった観察は多い。
   特攻隊員とても、すべて生身の人間であり、
   悟りの境地にたったような透徹した死生観は、持ちあわせていなかった。

   死を恐れないなどという者もいなかった。ただ、あったものは、
   祖国が未曾有の危機に直面している現実と、われわれ若者が、
   この祖国と民族の危難を救わなければならないという義務感であったろう」

(14)敗れはしたものの、日本はよく戦ったのである。
   この敗戦の教訓は、本来であれば正当に評価されるべきであろう。

   米英中ソという大国を敵にして3年8ヶ月ものあいだ戦い、
   そして、ドイツのような「無条件降伏」ではなく、
   ポツダム宣言による「条件降伏」で戦争を終えるのである。

(15)古典的名著『大東亜戦争全史』を執筆し、
   陸軍作戦課長を務めた服部卓四郎は、

   「この大東亜戦争は、もとより深刻な反省と教訓を残している。
   朝野をあげて真剣に検討し、日本再建の方途を誤りなかりしむことが、
   またもって戦争犠牲者に対する供養でもある」

(16)東條の姿を巣鴨プリズンのなかから見ていた笹川良一は、
   「東條尋問のためにキーナン君は馬脚を露し、東條を英雄にした」
   と東條を絶賛している。

(17)また大本営情報参謀で元陸自幕僚長の杉田一次は、

   「東京裁判で最後まで堂々と日本の立場を主張したのは、
   東條元総理ひとりではないか」

   と笹川と同じく東條を賞賛する。

(18)在日イギリス代表部のガスコインは、本国のベヴィン外相に、
   キーナンの東條尋問は失敗であったと報告している。

   「主席検事キーナンの尋問は、最初からまごついていた。
   東條がキーナンを軽蔑しているのは、誰の目からも明らかだった。
   東條は日本の自衛を強調し、戦争を犯罪として裁くことに真っ向から反対した。
   東條は日本人の尊厳を取り戻した」

(19)東京裁判を把握するうえで最初に理解すべきは、
   木を見て森をみずとならないように、
   東京裁判全体の流れを理解することである。

   4万8000ページの記録の細かなことを知ることも必要かもしれないが、
   その前に裁判全体の流れを知ることが大切なのである。

(20)判決の多数意見に対する反対意見が出されている。
   そのため、裁判記録はあまりにも膨大であり、
   その全容を把握するには気の遠くなるような作業が必要となる。
   筆者は仕事柄、全10巻の東京裁判速記録を通読している。

(21)結局のところ日本が共同謀議によって侵略戦争や
   残虐行為を行ったという検察側の主張と、

   日本の戦争は自衛の戦争であり、
   共同謀議や組織的な残虐行為などなかったという、
   弁護側の意見の対立なのである。

(22)清貧のダンディズム、清瀬一郎弁護人。
   東條にとって幸運だったことは、清瀬一郎との出会いである。

   清瀬は、東條の弁護を引き受けようと申し出る弁護人がなかなか現れないため、
   陸軍省からの要請もあり、最終的に東條の弁護人となる。

(23)東條は、次のように明快に述べている。

   「自分には法廷で述べたいことが3つある。
   一つは、大東亜戦争は自衛のための戦争であったこと。

   二つは、日本の天皇陛下には、戦争についての責任がないということ。

   三つは、大東亜戦争は東洋民族解放のための戦争であったということである」

(24)清瀬は日本人弁護団副団長、東條の主任弁護人として活躍する。
   当時、すでに60歳を過ぎ、白髪を無造作にうしろに撫でつけた小柄な外見である。

   しかし、裁判にあける清瀬はこの枯淡とした外見とは別人のように、
   東京裁判の矛盾を次々と明らかにしている。
   この清瀬の功績は、今なお日本人として共有すべき貴重な財産といえよう。

(25)嶋田海軍大将の補佐弁護人であった瀧川政次郎は、
   清瀬の活躍を法廷で眺め、

   「清瀬弁護人の冒頭陳述は、
   まことに名優松本幸四郎の弁慶が安宅の関で勧進帳を読み上げたようなもので、
   東京裁判のもっとも華やかな一場面であった」

   と清瀬の法廷での陳述を「弁慶の勧進帳」のようだった手放しで褒めている。

(26)東京裁判当時の清瀬の生活は、極端な貧乏生活であった。
   清瀬は長い裁判の日々を古びて擦り切れた背広と、
   古い大きな兵隊靴で市ヶ谷法廷に通い続けた。

   当時の清瀬の写真を見ると、擦り切れた背広の襟から、内布がはみ出している。

   しかし、どこか遠くを見つめるその姿には、凛とした男の生き様があふれている。
   貧しさのなかにも明らかにダンディズムがあることを確信させられる。

   白洲次郎が英国流のダンディズムであるなら、
   清瀬は日本流のダンディズムといえよう。

(27)死をためらうことなく受け入れる国民服の東條、擦り切れた背広の清瀬、
   すでに戦争は過去のものとなった日本で、
   2人は東京裁判という徹底的に不利な戦場で新たな戦いを続けるのである。

   2人の写真や映像には、
   自分ではなく誰かのために生きるという日本人としての男の生き様、
   時代を超えたダンディズムがある。

(28)東條証言の翌日、イギリス駐日代表部長ガスコインはマッカーサーに、

   「東條の証言は、キーナンに完全に勝っています。
   東京裁判に対する世論が心配です」

   と伝える。

   「その通り。極めて心配である」

   東條はキーナンだけでなく、マッカーサーさえも窮地に追いやってしまったのである。

   東條を追い詰めようとするキーナンの姿は、
   法廷にいるすべての人の目に東條の引き立て役、単なる脇役と映った。

   キーナンが焦るほどに東條は悠然と答弁し、
   死を覚悟した東條は神々しく輝いていた。

(29)東京裁判の7人の死刑囚に立ち会った花山信勝教誨師は、
   死刑のときの受刑者たちの安らかな心を、
   後年、教え子たちに次のように語っている。

   「死を与えられたとしても、最期の瞬間まで、命を惜しんで、
   与えられた限りの時間を利用して、いうべきことをいい、書くべきことを書いて、
   そして大往生をとげることこそ、すなわち永遠に生きる道である」

   また花山は、巣鴨での最初の法話で次のように説いている。

   「人生は、順境だけで終わった人が幸福というわけではない。
   逆境に落ちてはじめて、
   人生の真の意義をつかんだ人のほうがどれほど幸福か知れぬ。

   人生は有限であるが、未来は無限である。
   無限の未来のために、有限の一生を有意義ならしめることこそ大切である」

・・・

<参考>

        *致知(2011.10月号)~渡部昇一

…日本を占領したマッカーサーは、日本を侵略のために戦争をした悪の権化と思っていた。
そして、東京裁判で日本を悪辣な侵略国家として徹底的に糾弾させ、日本の骨抜きを図った。
東京裁判はマッカーサーの対日観を如実に示す舞台装置だったと言っていい。
そして、この舞台装置は成功した。

日本人の多くは自国の歴史を恥じ、罪悪感にまみれて自分の国をとらえる心情と態度に染められた。
この言葉は私がおそらく最初に使い、浸透させたという意味で、私が元祖と言ってもいいものだが、
いわゆる東京裁判史観である。

ところが、東京裁判史観の発信源であるマッカーサーは、
日本を占領統治する中で日本の実像を知り、考え方を変えていったのだ。

それがthereforeの前提として語ったことなのである。

(※マッカーサーの証言とは、ヒッケンルーバー上院議員の質問に対しての、マッカーサーの答弁。
  「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security」
  「したがって、彼ら(日本および日本人)が戦争に入っていった目的は、
  主として安全保障のため余儀なくされたのです」)

  昭和26年(1951年)5月3日、アメリカ議会にて。

  「日本人は、もし原材料の輸入が断たれたら、
  一千万人から一千二百万人が失業するのではないかと恐れていた。
  日本が世界大戦に突入した理由は、そのほとんどが安全保障のためであった」

  マッカーサーは、日本の「原材料輸入が断たれた」から、
  つまりアメリカやイギリスなどの行った経済封鎖によって日本は戦争を決意したのであって、
  日本は安全保障のため、侵略戦争ではなく自衛のためやむなく戦争を決意したのである
  と証言。



そしてこれは、東京裁判で東條英機が宣誓口述書として述べたこととまったく同じなのだ。
日本が戦争をしたのは侵略のためではなく、securityのためだった。

東條英機とマッカーサーの一致したこの考えを、
東京裁判史観に対して、私は東條・マッカーサー史観と呼びたい。

東京裁判史観が戦後の日本をいかにスポイルしてきたかは、
本欄でもさまざまな角度から述べてきた。

私は東京裁判史観を克服しなければ日本は駄目になる、
と虚仮(こけ)の一心のように言い続けてきた、と言っていい。

東京裁判史観を乗り越える分水嶺となるのは、
昭和26年の米上院におけるマッカーサーの証言である。
分水嶺としてそびえ立つのは、東條・マッカーサー史観である。

日本人はこの地点に立たなければならない。
だからこそ、日本現代史でもっとも重要なマッカーサー証言を、
「事実」として育鵬社の歴史教科書に載せることを進言したのである。

(本流宣言掲示板:2011年10月11日 (火) by”がんばれ日本 さま”記事より転写)

              ・・・

東条英機宣誓供述書(全文)(ここでは要点のみ)
昭和二十二年十二月二十六日提出

極東軍事裁判所
 亜米利加合衆国 其他
     対
 荒木貞夫 其他

宣誓供述書 
 供述者 東條英機

自分儀我国ニ行ハルル方式ニ従ヒ宣誓ヲ為シタル上次ノ如ク供述致シマス
右ハ当時立会人ノ面前ニテ宣誓シ且署名捺印シタルコトヲ証明シマス
同日 同所
 立会人  清瀬一郎


宣誓書

良心ニ従ヒ真実を述ベ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓
 署名捺印 東條英機

昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於 東京 市ヶ谷 
 供述者東條英機


「終わりに臨み、恐らくこれが当法廷で述べることのできる最後の機会であろうが、
私は重ねて申し上げる。われわれとしては、国家自衛のために起つということが、
ただ一つ残された道であった。われわれは、国家の運命を賭した。しかし、敗れた。
戦争が国際法上、正しき戦争であったかどうかと、
敗戦の責任とは二つの明白に異なった問題である」

「第一の問題については、私は最後までこの戦争は自衛戦であり、
国際法には違反せぬ戦争であると主張する」

「第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である。
私はこれを受諾するのみならず、衷心よりすすんで負荷せんことを希望するものであります」

東條は、日本の戦争は自衛戦争であり国際法に違反しないと述べる。
しかし、敗戦の責任はすすんで受け入れるという。



詳細の一部については、
光明掲示板・第一「東條英機・宣誓供述書」にて確認できます。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=547


<参考Web>

(1)Web:読書は心の栄養(2015-08-05 )
       → http://ameblo.jp/yoshma/entry-12054309384.html

(2)Web:ScrapBook(2010-08-07)
       → http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10613107843.html

              <感謝合掌 平成27年9月10日 頓首再拝>

中国の海洋進出 - 伝統

2015/09/14 (Mon) 17:58:13


       *『南シナ海紛争:なぜ習近平はアメリカと近隣諸国を敵に回すのか』
        ~奥山真司:著 からの要点の紹介です。

         (奥山氏は、戦略学博士であり地政学の専門家です)


(1)中国の海洋進出

  ①中国の海洋進出は軍事的プレゼンスの拡大とか、海洋権益の確保などという
   今日風な目的以前に、19世紀から20世紀前半にかけて、
   日本を含む列強に奪われた「青い領土」を取り返すという感覚が強いのです。

  ②一言でいえば、「レコンキスタ(失地回復)」。

   もともと自分たちのものなのだから、それを奪い返すのは
   彼らにとって「侵略」に当たらない。
   その振る舞いが近隣諸国には高圧的に映るのです。

  ③中国は、南シナ海をあくまで「失地回復」であり、国内問題だと考えているのです。


(2)地政学では、富を求めて海に張り出そうとするランドパワー(陸上勢力)と、
   それを抑え込もうとするシーパワー(海上勢力)の相克が人類の歴史と考えています。

   ランドパワーの雄である中国が失地回復を目指して、
   海に張り出してきたのが今の局面といえるでしょう。


(3)歴史的にみると、世界に覇を唱えた大国は、常に支配海域を内海化してきました。

   同様に覇権の拡張期にある今の中国も、東シナ海と南シナ海の内海化を目指しています。


(4)東シナ海の要は台湾で、中国政府は台湾だけは何としても、
   手に入れたいと考えています。

   戦争してでも獲りにいく腹を固める一方で、台湾との経済的、文化的な交流を深めて、
   事実上の同一経済圏や文化圏に巻き込んでいく同化政策も視野に入れています。


(5)中国は第一列島線(沖縄、台湾、フィリピン、ボルネオ島に至るライン)
   を自国の防衛線と考えていて、海軍を展開しています。

  ①台湾を獲って第一列島線をシーレーン(海上交通路)とした場合、
   中国にとって次の懸案は沖縄の存在です。

  ②沖縄を獲れば東シナ海は完全に内海化できますが、
   米軍が居座っている現状では武力で獲るわけにいかない。

   しかし、沖縄と日本政府の対立状況に、北京はほくそ笑んでいることでしょう。


(6)地政学的な観点から中国の海洋進出について説明してきたが、
   そこに統一的な意思や戦略思想があるのかといえば、
   実はないのではないかと私は考えています。


(7)要するに戦略ベースではなく、能力ベースで「できることは全部やる」ということ。

   AIIBも主導するし、インフラ投資や裏金で地域の国々を買収する。
   人工島を造れば、空母も建造する。

   「カネがあるのだから、やれることは全部やってしまえ」という戦略なき戦略です。


(8)中国のもうひとつの行動原理が「抵抗最弱部位」。
   中国は相手が弱くなった箇所に攻め込むのを大得意にしています。

   空白地帯を中国は突いています。

   在日米軍が沖縄から撤退することにもなれば、
   一気に中国の攻勢が強まるのは間違いありません。

              <感謝合掌 平成27年9月14日 頓首再拝>

為政者に日本の国柄を説いた明恵上人 - 夕刻版

2015/09/19 (Sat) 19:54:56

           *Web:日本の心<君と民>(2005.5.1)より

承久の乱(1221)の2年後、北条義時が亡くなり、その子・泰時が三代執権となりました。

泰時は、人に与えること多く、自らおごることのない誠実な人間でした。
善政に努め、厳正な裁判を行い、高位高官を望むこともありませんでした。
この泰時によって、頼朝以来の武家政治は基礎を確立したのです。

泰時には、明恵(みょうえ)という人生の師がいました。
承久の乱の時、後鳥羽上皇方の兵が、京都栂尾(とがのお)の高山寺に逃れてきました。
寺の僧・明恵は、彼らをかくまいました。そのため北条側にとらえられます。

この時、明恵は泰時に対し、

「救いを求める者は、今後も助けたい。それがいけないというのなら、私の首をはねよ」

と言いました。

その態度の情け深く、また毅然(きぜん)としていることに、泰時は感心しました。
そして、後日、明恵のもとを訪れました。


すると明恵は、承久の乱の処置について、泰時を諫(いさ)めました。

「わが国においては、万物ことごとく天皇のものであり、たとえ○ねと言われても、
天皇の命令には決して逆らってはいけない。それなのに、武威によって官軍を亡ぼし、
太上天皇を遠島に遷(うつ)すとは、理に背く振る舞いである」と。

      *○:死

乱の後、北条氏は、天皇を代え、三上皇を島流しにしました。
国家権力を掌中にした北条氏に対し、ものを言うことのできる者はいませんでした。

しかし、明恵は畏れず、為政者の泰時を叱(しか)り、
日本の国柄を説いて武士のあるべき姿を諭したのです。

泰時も、乱の際の父・義時との問答(註 1)に見られるように、
もともと尊皇の心をもっていたので、明恵の言葉は痛く響くものがあったのでしょう。

以来、泰時は明恵を人生の師と仰ぐようになったのです。

 
明恵は建永元年(1206)、34歳の時、後鳥羽上皇から栂尾山をたまわり、高山寺を建てて、
華厳宗の復興のために尽くしました。その功績により、華厳宗中興の祖といわれます。 
  
いったい仏教の僧侶である明恵がなぜ、わが国は天皇のものであり、
泰時らの行為は理に背く振る舞いである、と諭したのでしょうか。

 
明恵は両親を幼くして亡くし、天涯孤独の身でした。
仏教の道に入り、修行を重ね、徳の高い名僧となりました。

「山のはに われもいりなむ 月もいれ よなよなごとに またともとせむ」
ーーこれは月を友として明恵が詠んだ歌の一つです。

月を友とするというように、明恵は、自然の風物、身に触れるすべてのものに、
深い情をもって接しました。

明恵は刈藻島(かるもじま)という島で行をしたことがありました。

島から帰った後に、自然の豊かなその島が恋しくなって、手紙を書きました。
宛名は「島殿」となっていました。

使いの者が「いったい誰に、手紙を届ければよろしいのでしょうか」とたずねたところ、
「『栂尾の明恵房のもとよりの文にて候』と島の真ん中で読み上げてきなさい」
と答えたといいます。

こうして自然と一つとなって暮らした明恵は、自然のままであることを大切にしました。

仏教には、王権を認め、国家の鎮護を祈るという教えがあります。
また明恵が修めた華厳経には、すべてをあるがままに肯定するという思想があります。

こうした考え方は、「人はあるべきやうはと云、七文字を保つべきなり」という
明恵の遺訓に表れています。

弟子の喜海が記したと伝えられるこの言葉は、『明恵上人伝記』や『沙石集』では、
「王は王らしく、臣は臣らしく、民は民らしくふるまうべきだ」と解釈されています。

つまり、王とは天皇であり、臣とは天皇に仕える者、
貴族や官僚や武士であり、民とは一般の庶民です。

明恵は、天皇と臣下と庶民、それぞれが分を守って振る舞うことが、自然な姿だというのです。

この考え方は、明恵の独創ではありません。
古代から我が国に受け継がれてきた考え方でもあります。
鎌倉時代にもそれが当然のこととして、人々に定着していたのです。

それは、日本の国は、天照大神の子孫である皇室が治めることが、
在るべき姿であると思われていたことが前提となっています。

皇室の権威は神話に根ざしたものであり、文字が使用される前の時代から伝わっている
神的かつ伝統的な権威なのです。

日本人は、この国は皇室が治める国であり、
各自が在るべきように振舞うことを、自然な姿として受け止め続けてきたのです。

明恵は、このような我が国の国柄と、日本人の在るべき姿を、泰時に説いて聞かせわけです。

強大な武力を持つ権力者に、説教をするということは、並みの度胸ではできません。

そこに明恵の精神力の強さや人格の高潔さがうかがわれます。

明恵は、泰時に対し、
「天下を治める立場の者一人が無欲になれば、世の中は治まる」という教訓を与えました。

泰時はこれを肝に銘じて、実際の政治に生かしました。

泰時自身、「自分が天下を治めえたことは、ひとえに明恵上人の御恩である」
と常々人に語っていました。

自分の家の板塀が壊れて内部が見えるほどになっても気にせず、
御家人たちが修理を申し出ても、泰時は無用の出費だと断りました。

裁判の処理も道理に適って明らかでしたので、武士の信望を集めました。

承久の乱では朝廷から実質的に権力を奪った泰時でしたが、
我が国の国柄の根本を損なわぬよう、朝廷の権威を侵さずに、
武家政治を行うことに努めたのでした。


<参考Web>

(1)本流宣言掲示板「明恵上人 (6200)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1403

(2)光明掲示板・第一「日本茶 (3031)」~「茶の十徳(明恵上人)「茶は是れ長寿の友」 (3141)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=605

              <感謝合掌 平成27年9月19日 頓首再拝>

山岡鉄舟 - 伝統

2015/09/26 (Sat) 19:09:41

          *『山岡鉄舟、幕末維新の仕事人』佐藤寛・著からの要点の紹介です。


(1)山岡鉄舟と聞いて、どのようなイメージを持つだろうか。
   一般的には、禅と書と剣の達人だろう。

   また、徳川幕府の幕臣出身でありながら、明治天皇の教育係であり、侍従であった。

   江戸城無血開城における勝海舟と西郷隆盛会談に先立ち、
   彼が幕府特使として官軍に派遣されたことも思い出すだろうか。

   同時に、彼は優れた交渉人、行政マン、経営者であり、危機管理の達人であった。


(2)心の奥で理解したことが書となって表現される。
   したがって見る者の心に響く。


(3)鉄舟は生涯を通じ、人の話を熱心に聞くことによって、相手を引き付けている。
   決して人より新しい思想や考え方、人より卓越した論理的戦略を口にして
   相手を引き付けているわけではない。

   なぜか人は鉄舟の周囲に集まる。
   相手の話を熱心に心で受け止める姿勢に、人は鉄舟の虜になるのである。


(4)「武士は胆力を練らなければ、いざという時にうろたえる。
   胆力を練るためには剣と禅が一番だ」
   鉄舟の父がよく言っていた言葉だ。


(5)鉄舟は、仲間内の加わる余地のない勢いの議論を、ひたすら教えを乞う姿勢で聞いていた。
   幕臣でありながら反論することなく、真剣に議論に耳を傾ける彼に対して
   彼らの誰もが好意を持った。

   彼らは好意を持っただけでなく、鉄舟の約束を守るという実行力にも驚かされた。


(6)「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山、元の姿は変わらざりけり」
   と超越した心境に云った男が、山岡鉄舟である。


(7)西郷隆盛は、鉄舟のことを、次のように評している。

   「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、どうにも始末におえない。
   しかし、あのような始末におえぬ人でなければ、天下の大事はかたれないものです」

   西郷は鉄舟と出会い、のちに彼を若き明治天皇の教育係に推挙する。

   鉄舟は、十年の期限をつけて引き受け、明治天皇の教育に腐心し、
   それが成ると、十年後に約束通り辞めている。


(8)鉄舟は、幼い頃より、四書の素読、書道、剣術をみっちり学ぶ。
   素読は苦手だったようだが、書道は、得意だったようだ。

・・・

<参考Web>

(1)山岡鉄舟という人物
   → http://www.ne.jp/asahi/home/haruka/zen/zuihitu/zuihitu-page/m8-yamaokatesyuu.htm


(2)江戸無血開城までの山岡鉄舟の動き

   《明治維新の功労者山岡鉄舟の危機を救った藤屋・望嶽亭》
   → http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/tesshu/fujiyabogakutei/



・・・

以下は、先代の掲示板からの転写です。
  (本流宣言掲示板  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=970 )

(1)西郷隆盛と山岡鉄舟

  ①慶応4年(1868)徳川慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に
   追討軍が江戸に到着し、慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。

   そんな背景の中で勝海舟は山岡鉄舟を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に
   派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当たらせた。

   官軍が埋めつくされる東海道の駿府へ、山岡の肝をすえた気迫に慶喜の件は何とか
   西郷預かりになった。

   この山岡の働きによってようやく総督府との具体的な交渉の手がかりがつかめ、
   後の「海舟・西郷会談」の成約を向けてのレールが敷かれたと言われている。

   江戸での西郷と勝の会見が、後に大きく取り上げられるが、
   実質的な交渉は静岡会見での山岡に負う所が大きく、
   江戸での会見は単にセレモニーとも思える。


  ②山岡鉄舟はそんな経過を踏まえ西郷隆盛から人物評価されており、
   特別な推薦もあって、明治5年、明治政府から天皇陛下の側近侍従長として
   教養及び剣術の御指南まですることになった。

   平安朝以来、女官たちに囲まれた天皇の生活に、
   無骨な男子の空気に一変させようと言う
   西郷の官中改革に協力したものであった。

  ③西郷隆盛は、次のごとく山岡鉄舟を評しております。

   「さすがは徳川公だけあって、えらいお宝をおもちです。
   山岡さんという人は、どうのこうのと言葉では言い尽くせませんが、
   何分にも腑の抜けた人です。

   命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、というような始末に困る人ですが、
   あんな始末に困る人でなくては、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を
   誓い合うわけにはいきません。

   本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんのような人でしょう」

   と賞賛し、山岡鉄舟に感銘を受けた西郷は、
   その後自らも無欲を貫いたと言われています。



(2)青年 明治天皇と山岡鉄舟

   侍従鉄舟のエピソードに彼が青年明治天皇に相撲の相手をし、
   畏れ多くも天皇を投げたおし、辞職を願い出たという話がある。
   弟子はこれを否定している。

   鉄舟は天皇の青年らしい、多少度の過ぎた奔放な行跡を改めていただくよう、
   相撲の機会に諌言(かんげん)し、聞き入れなかったら辞職すると言って
   自ら謹慎したというのである。

   山岡鉄舟は、明治天皇の教育係として10年間仕え、高く評価されております。


(3)山岡鉄舟の『修身二十則』

  ①嘘を言うべからず。

  ②君の御恩忘れるべからず。
  ③父母の御恩忘れるべからず。
  ④師の御恩忘れるべからず。

  ⑤人の御恩忘れるべからず。

  ⑥神仏ならびに長者を粗末にすべからず。
  ⑦幼者を侮るべからず。

  ⑧己に心よからず事 他人に求めるべからず。
  ⑨腹をたつるは道にあらず。
  ⑩何事も不幸を喜ぶべからず 。

  ⑪力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし。
  ⑫他を顧して自分の善ばかりするべからず。

  ⑬食する度に農業の艱難をおもうべし 草木土石にても粗末にすべからず。
  ⑭殊更に着物を飾りあるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得べし。

  ⑮礼儀をみだるべからず。
  ⑯何時何人に接するも客人に接するよう心得べし。

  ⑰己の知らざることは何人にてもならうべし。
  ⑱名利のため学問技芸すべからず。

  ⑲人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず。
  ⑳己の善行を誇り人に知らしむべからず すべて我心に努むるべし。


(4)(山岡 鉄舟の詩)

   人生は心一つの置き所
      晴れてよし、曇りてよし富士の山
           もとの姿は変わらざりけり


  <参考Web①:明治天皇と山岡鉄舟>
   http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-4fd3.html


  <参考Web②:子供たちに教えたい維新の偉人『山岡 鉄舟』>
   http://www.geocities.jp/ikiiki49/page006.html

 

(5)明治天皇と山岡鉄舟

   明治維新によって、天皇さまの周囲、つまり宮中・朝廷にも変化がみられた。
   明治4年の宮中大改革である。

   今までは、天皇さまはふだんはほとんど女官にとりかこまれていた。
   しかし、そういうことでは、この民族の先頭に立つ、と決然として宣言された
   天皇さまのご成長がのぞめない。

   岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通といった人々はそう考えた。
   そこで女官総免職、といっていい大英断のナタをふるった。

   だから宮中は、女性的な雰囲気から男性的、男臭い世界とかわった。
   侍従という制度がこれで、旧各藩から剛直な人物が
   天皇さまのおそばにつとめるようになった。

   鹿児島から村田新八、熊本から米田虎雄、佐賀から島義勇、
   そして山岡鉄太郎(鉄舟)など9人。

   山岡が侍従となるのは明治5年6月、そして10月には侍従番長となった。
   山岡37歳、明治天皇21歳。

   明治天皇さまは背も高く体重75キロぐらいおありだった。
   お若い、力が余っていらっしゃる。周囲も荒武者ばかりである。お酒も強い。
   といったこともあって徹夜のお酒、それに相撲をおそばのものに
   いどまれることがずいぶんあった。


   (お元気はいいが、いきすぎはいけない)
   山岡は一度お諌めしようと思っていた。その日がきた。

   「山岡の撃剣(剣道)は有名である。相撲もつよいであろう」
   私と立ち合ってみぬかと仰せだ。

   しかし山岡は、
   「剣と相撲の道はまた別でございます。それがし、一向に相撲はわきまえません」
   おことわりした。

   そのときである。陛下はヤッと声もろとも山岡ねがけて体当たりを敢行された。
   山岡は坐ってお答えしていたから、瞬間、爪先立ち、
   左膝を軸にからだを右にひらいた。
   だから陛下は対象をうしなって前のめりとなってたおれる。

   そこを、
   「ご免ッ」
   山岡がおさえこんだ。

   アッと近侍の人々が叫んだ。口々に、
   「無礼だ山岡、不敬なり・・・」
   大騒ぎとなった。

   山岡はかねてから機会があればと思っていた。そこへ陛下のこの突進。
   が、「しめた」もなにもない。身体(からだ)がそうなってしまったのである。

   「不敬は万々承知である」
   ぎろり、と一同をにらみ、そっと陛下をお放しし、そして言った。

   「おかみ(天皇)は三千数百万国民のあるじにまします。
   おん力業(ちからわざ)のおためしは結構なれどほかにいくらでも方法は
   ござるはず。また、夜おそくまでのご酒をふくめ、そのようにおん行跡が
   改まらぬにおいては鉄太郎今日かぎり出仕つかまつりませぬ」

   ごめん、とばかりにさっさと退出してしまった。

   翌日、山岡の家に陛下のお使いがみえた。おことばをおつたえします、といい、
   「以後、相撲と酒はやめる。これまでどおり出勤するように」
   と伝えた。

   山岡は、畏まってききながら、
   (よくおききいれくださった・・・)
   涙を、ホロリと手のうえに落とした。

   すぐに皇居にゆき、おとがめもなく有難いことにございます、
   と失礼をおわびするのだった。

   以降、陛下はご酒と相撲をやめられた。
   ただし、酒のほうは、山岡がぶどう酒を1ダース献上したことから解禁になった。

   しかし、それまでのように、お若さにまかせて夜通し侍従たちと盃を重ねられる
   ようなことはなくなる。


   翌、明治6年5月5日、皇居が炎上した。
   山岡の家は当時淀橋区内今の新宿区である。
   皇居が火事ときくと寝着の上に、袴をつけて駆けだした。
   山岡の足は早い。(他の誰よりも足は早かったようです)

   こんな山岡だからたちまち皇居にとびこんだ。
   火は表御座所から奥へと迫っていた。
   奥の入口、その杉戸には錠がかたくかかっている。

   押しても引いてもあかばこそ。
   エエイッ、山岡は杉戸に体当たりをくれた。
   煙りとともに山岡はそこへころげこんだ。

   駈けた。駈けた、陛下のお部屋だ。
   「お上ッ」
   叫んだ。

   おお、とご返事をかえされた陛下のおそばには、なんと唯一人まだいない。
   「鉄太郎、はやばやと参ってくれて有難い」
   悠然とお立ちになった。

   立ちのかれる陛下と山岡の背が熱い。
   火はもうすぐそこだったのである。
   危いことであった。

    *「エピソードで綴る 天皇さま」杉田幸三・著、日本教文社・刊 より


              <感謝合掌 平成27年9月26日 頓首再拝>

鞴祭(ふいごまつり) - 伝統

2015/11/08 (Sun) 19:40:00


鞴祭の起源には諸説ありますが、「鍛冶職由来縁起」という古文書には、こう記されています。

神武天皇が筑紫国日向の高千穂の峰に登り、東の方をご覧になると夷敵が多く、
これを平定しようと思われ、日天に向かって五百串を立て御祈りされると、
天空から八頭の烏飛び来たり、先導すると東方へ飛立った。

此れに従って出陣されると、国々から御味方に馳せ参じる陪臣が多く、
備前の福岡まで軍を進めて着陣された。

そしてこの里に鍛冶氏は居ないかと尋ねられ、味眞冶命、道臣命、椎根津彦命、
天富命の軍勢に詮議されたところ、天津麻羅という鍛冶氏が居るということで
彼を召出され、剣一千振、斧一千振を作るよう下命された。

この時、又八頭の烏が丸鎖を銜えて飛び着たり、これを天津麻羅に与え、
同時に天から鞴や金敷が降って来た。

丁度この日が冬11月8日であり、天皇はしばらくこの地に行宮を設けて滞留された。
       
この時、天皇は、46歳の御年であり、未だ即位される前のことである。

天津麻羅は、鍛冶場を設け、剣、斧矛などの全ての物を作り献上したのである。
天皇は、天津麻羅を鍛冶の庄として、天国の名を与えられた。
       
以後、11月8日を鍛冶職の鞴祭として祝祭するようになったという。

注) この中に出てくる烏とは、黒っぽい装束を着て、烏帽子を被った
   鍛冶屋や製鉄関係の技術者を指したと思われます。
              
   当時、製鉄や冶金技術は最先端の技術であり、武器の製作ばかりでは無く、
   鍬や鋤などの農耕具の生産も国を富ます上でとても重要であったと思われます。

   (http://www.eonet.ne.jp/~katanakaji/fuigomaturi.html

・・・

◇鞴(ふいご)って?

 鞴は、炭などの燃料を高温で燃焼させるために空気を送り込むための道具です。
 主に金属を加工するために1000℃を越すような高温を作り出すために使われた送風装置です。
 今では見る機会はほとんど無くなってしまった道具です。

 → Web:ふいご(吹子、鞴)
   http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020611.htm

   http://www.geocities.jp/e_kamasai/kanren/kan5-3.html

・・・

◇鞴祭と神様

 鞴祭は、吹革祭、鍛冶祭、蹈鞴(たたら)祭とも呼ばれます。
 この日は、金属を扱う職人さん達は仕事を休んで、仕事道具である鞴を清めて、
 注連縄を張り、御神酒や蜜柑、スルメや赤飯などを供えて祀ります。

 鞴祭に祀られる神様は鍛冶の守護神である金山彦命(かなやまびこのみこと)、
 迦具土神(かぐつちのかみ)、稲荷大神です。


 砂鉄から鉄を作る蹈鞴師たちは特に金山彦命を「金山様」と呼んで、
 普段から信仰しており、鞴祭のことも「金山講」と呼んだそうです。

 鞴祭では、お供えの蜜柑をまきます。
 この蜜柑を食べると風邪をひかないのだとか。

 鞴祭りと蜜柑の関係は、十一月八日の卯の刻に蹈鞴が天から降ってきて
 蜜柑の木に引っかかっていたという伝承からだとか。

 (http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/201312100.htm

・・・

鞴祭(ふいごまつり)とミカン

鞴祭りのミカンを食べると、風邪や麻疹にかからないと信じられていたため、
鞴祭りにミカンは欠かせぬものでした。

紀伊国屋文左衛門が、紀州から 嵐をおして船でミカンを運んだのは貞享4年(1687)で、
鞴祭りにミカンを間に合わせるためだったそうです。

→ http://hosomichi.roudokus.com/Entry/125/

              <感謝合掌 平成27年11月8日 頓首再拝>

幕末維新のひとコマ - 伝統

2015/11/10 (Tue) 20:13:32


          *『幕末維新に学ぶ現在』山内昌之(著)からの要点の抜粋です。

(1)歴史の神クリオは時にいたずらをする。
   地味な人物を一度だけ表舞台に登場させ、一大事を処理させる。
   そして、その役者は2度と華やかな場面にはもどらない。


   薩摩の重野厚之丞は、一度だけ幕末政治でスター級の役割を果たした。
   薩英戦争後の外交交渉で、大英帝国を相手に談判を堂々と繰り広げた。

   重野らは進んで講和を求めるのを潔しとせず、
   会談冒頭から英国の非ばかりを一方的に責め立てた。
   交渉の主導権を握った感さえある。


(2)真木和泉の真骨頂は、いつも生命の危険と背中合わせの冒険から逃げないことである。
   その本領は禁門の変でも遺憾なく発揮された。

   天皇の御座所の近くをためらわず砲撃したのは、
   久坂玄瑞や入江九一といった20代の血気盛んな若者ではなく、
   むしろ最年長52歳の真木や48歳の来島又兵衛あたりであった。

   この修羅場を見ても真木のすごいのは、
   全然たじろがないことなのだ。

   尊攘や倒幕という大革命が成就するのに、
   このくらいの犠牲は何だと割り切っている。

   そこで真木が発した有名な言葉が、

   「形は足利尊氏でも、心が楠木正成ならばよい」

   というものだ。


(3)土佐の前藩主、山内容堂は、若い頃から酒を愛し、
   「鯨海酔候」と称し、一日3升ともいう酒量を誇った。

  ①幕末政治史に目を転じれば、世紀の大失言は、あまりの酒癖の悪さから生まれている。
   この失言は1867年12月の小御所会議の席で起こった。

             ・・・

     山内容堂の怒りは頂点に達しました。

     「徳川300年の泰平は徳川の功績だ。その徳川家が将軍職をなげうち政権を奉還された。
     その忠誠は感嘆にたえない。きょうの暴挙を企てたのは3、4の公卿で
     幼冲(ようちゅう)の天子を擁し奉って権力を盗もうというものだ」

     と断じました。
 
     幼冲の天子とは、まだいとけなくて幼い天皇という意味。
     いくらなんでも天皇の御前です。
 

     岩倉具視は

     「聖上は不世出の英主であらせられる。きょうの挙はみな天皇の聖断である。
     それを幼冲の天子を擁してとはなんたる無礼か」

     となじり、山内容堂もぐっと詰まって失言を謝罪せざるをえませんでした。


     (→ http://blog.livedoor.jp/golden__cadillac__/archives/1208748.html

             ・・・


  ②山内容堂は、維新後も両国や柳橋などで連日豪遊し、家産が傾きかけても、
   「昔から大名が倒産した例はない。俺が先鞭をつけてやる」
   と豪語したというから根っからの遊興好きだったのだろう。


(4)岩倉具視は貧乏下級公家の出身ながら、
   小賢しく立ちまわるので「岩吉」と蔑称されたが、
   少しも気にしなかった。

   薩摩藩と気脈を通じながら、ひそかに時節の到来を待った。

   岩倉が政治家として優秀なのは、待つことができた点であり、
   沈黙を守る忍耐力に恵まれていたことである。
   しかも機を見るに敏であった。

   政治家に必要なのは何事かをなさんという迫力であり、
   みめ麗しい容貌ではありえない。


(5)松平容保の毅然とした清々しさは、
   その気品あふれる容貌にも自ずから表れている。

   容保の独特な勇気と使命感は、その悲劇性とあいまって、
   会津の美名を日本政治史に残した。

   容保のように決意と責任感にあふれた政治家は、
   これからも歴史と国民の記憶に刻み込まれるだろう。


(6)土方歳三を好きな人は、剣に生きた新撰組のなかでも、
   江戸、京都、奥州、函館と各地を転戦して、一介の剣術使いから
   優秀な指揮官や政治家に成長していくあたりにロマンを感じるであろう。

   年を重ねるほどに、土方は成熟した幕府軍事官僚としての風格を見せるようになった。

   理由の一つは交友関係だ。
   会津藩の預かりから出発した浪士集団の幹部として、
   会津藩公用方との折衝や、砲術家の林権助のように古武士然とした
   会津サムライとの交友は、土方にも武士とは何かという自覚を持たせた。

              <感謝合掌 平成27年11月10日 頓首再拝>

田中角栄の資源外交 - 伝統

2015/11/24 (Tue) 19:22:52


      *『田中角栄、封じられた資源戦略』山岡淳一郎・著より


(1)アメリカの傘下を離れ独自に資源供給ルートを確保する・・・。
   70年代に宰相・田中角栄は自ら世界を駆け回って直接交渉する
   「資源外交」を大々的に展開した。

   石油ではメジャー支配を振り切ってインドネシアやソ連と交渉し、
   原子力ではフランス、オーストラリアなどと独自に手を結ぼうとした。

   角栄の失脚はこの資源外交の報復だとも言われている。
   実際のところどうだったのだろうか。

(2)「わたしが総理のときには、資源外交に最大の力を入れたよ」と角栄は述懐している。
   資源を目指した深い動機とは、いったい何だったのか。

(3)東京の中央工学校を卒業した田中は、19歳で神田錦町に「共栄建築事務所」を開く。
   郷里のつながりがあった理化学研究所の所長・大河内正敏から、
   「理研関係会社に籍をおかなくともよいから、建設計画について勉強しなさい」と
   声をかけられ、理研の工場建設の第一線に立つようになった。


(4)田中は、設計についてもっぱら配下の技術者に任せ、営業や各方面との折衝に飛び回った。
   大河内は田中の頭の回転の速さと行動力を見込んで、群馬県沼田の工場買収を命じている。

(5)田中は日満マグネシウムの工場建設にもかかわった。
   後年、こう振り返っている。

   「あらゆる工場の事業計画と工場設置計画に参画させてもらったので、
   今でもそれらの工場の中に配置された主要機械の配置まで覚えている。
   この時代は私の頭脳もはっきりしていたし、知識欲も旺盛であったので、
   何もかもが、珍しくおもしろく、そして貴重なものであった」
   この時から、田中のなかで資源への関心が養われていった。

(6)経済分野も血こそ流さないが力と力がぶつかりあう戦場である。
   各国が曲りなりにも民主主義的体制を敷き、自由な市場経済活動を行う以上、
   政治の同盟関係と経済のライバル関係が並存するのは避けられない。

(7)角栄は、1973年、欧州やソ連歴訪「資源外交」を開始した。
   それまで首相が相手国の首相と膝詰めで資源について話し合い、
   トップダウンで具体化した例はなかった。

   日本の資源獲得手法は、商社やブローカーが情報をつかみ、先乗りして話の筋をつけて、
   官僚に上げ、官僚が下から積み上げて政府の承認を得て、ゴーというパターンだった。

   こうした積み上げ方式は、時間がかかり、タイミングを逸するケースがある。
   そもそもビジネスレベルに転がっているのは「勝負がついた話」が多く、
   大筋が決まっている。

   エネルギー資源は、単なる経済商品ではなく、政治や軍事がからむ戦略商品だ。
   国際資本を擁する先進国や資源産出国の権力の「奥の院」で、
   あいまいな状況で大胆な決定が行われる。

(8)欧米の資源経営は、50年、100年のスパンで構想が立てられる。
   いったん開発区域を定め、膨大な資金を投入したら、
   何十年も動かず、じっくり稼ぎ続けようとする。

   かたや日本の十八番である製造業は単年度の収益がベースになる。
   労働コストの安い場所を求めて、短期間に移動する。

(9)外交は、えげつなさの競争である。
   フランスは、武器輸出と資源確保をリンクさせていた。

(10)角栄の資源外交のターゲットは、石油だけではない。
   ウランも重要な標的だった。

(11)石油にしろ、ウランにしろ、
   資源の後ろには軍事を軸とした国際戦略が横たわっている。

              <感謝合掌 平成27年11月24日 頓首再拝>

重光葵の外交交渉 - 伝統

2015/11/28 (Sat) 18:36:55

重光葵の直談判がなければ日本はGHQに植民地化されていた

           *Web:NEWSポストセブン(2015年11月26日)より

戦後日本を占領したGHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、
行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。公用語も英語にするとした。

それを受け入れることは「日本国家の消滅」を意味する。

外務省官僚として、そして外相として戦中戦後の外交を担った重光葵(まもる)は、
マッカーサーを相手に一歩も引かずその方針を覆させ、日本を救った。

重光は1945年9月2日、東京湾に停泊するミズーリ艦上で連合国の降伏文書に調印した。
「明治以降で最も偉大な外交官のひとり」とされる重光の交渉術について、
作家で歴史資料収集家の福冨健一氏が解説する。

 * * *
 
敗戦直後、東久邇宮内閣の外相となった重光は
冒頭のように日本政府全権として降伏文書に調印しました。

ホテルに戻り、義足(※注)を外し一息ついていると重大な話が舞い込みました。
連合国総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが日本に軍政を敷くとの急な知らせでした。

【(※注)1932年に上海で行なわれた天長節記念式典の席上、駐華公使として出席した重光は
朝鮮人の独立運動家が投げた爆弾で右脚を切断する大怪我を負った】

 
占領軍の布告第一号は、

「行政、司法、立法の三権を含む日本帝国政府の一切の権能は、
本官(マッカーサー)の権力下に行使せらるるものとす。英語を公用語とす」

という強硬なものでした。

日本政府は直ちに臨時閣議を開き、布告が中止されるよう働きかけることを確認。
これを受け、重光は岡崎勝男・終戦連絡中央事務局長官と直接、マッカーサーのもとを訪れます。

GHQの最高司令官に対峙した重光は、

「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」
「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」

と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求します。

「連合国の意図は日本を破壊し奴隷化することではない」と説明するマッカーサー相手に
一歩も引かず、ポツダム宣言の忠実な履行を決意し平和を望まれる天皇陛下のご意思を伝え、
怯むことなく交渉を続けました。

粘り強い説得に、マッカーサーもついに
「貴下の主張は了解せり」と布告を取り下げる約束をします。
その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となりました。

重光の直談判がなければ日本はGHQによって植民地化され、
日本政府は機能を失い、皇室など日本の文化は破壊されていたはずです。
命懸けの交渉が日本を破滅から救ったのです。

敵にすればこれほど厄介な外相はいません。
GHQは東京裁判で重光をA級戦犯として起訴しました。
無罪を予想する大方の予想に反し、下ったのは禁固7年の有罪判決。
まさに彼は「連合軍に最も恐れられた男」だったのです。

4年7か月に及ぶ服役後、仮釈放された重光は鳩山一郎内閣で4度目の外相を務め、
ダレス米国務長官と会談して日米安全保障条約改正交渉のさきがけとなり、
軽武装・経済重視の吉田ドクトリンに対抗して再武装を主張し、
国家として当然の安全保障体制を追い求めました。

※SAPIO2015年12月号

http://news.infoseek.co.jp/article/postseven_361534/

・・・


アジアで親日国多い背景 重光葵が構想した大東亜宣言も影響か

           *Web:NEWSポストセブン(2015年11月23日)より

1945年9月2日、東京湾に停泊するミズーリ艦上。
シルクハットにステッキ姿で連合国の降伏文書に調印した男こそ、
明治以降で最も偉大な外交官のひとり、重光葵(まもる)その人でした。

漢学者を父に持つ重光は少年時代、井戸の水で身を清めて教育勅語を朗読する毎日を送り、
外務省入省後はドイツ、英国、米国、中国、ソ連など各国に赴任し外交官として
幅広い教養を習得しました。

惨劇に見舞われたのは1932年に上海で行なわれた天長節記念式典の席上でした。
駐華公使として出席した重光は朝鮮人の独立運動家が投げた爆弾で
右脚を切断する大怪我を負います。

その瞬間、君が代を斉唱中だった重光は爆弾が投げ込まれたことを知りつつ、
「国歌斉唱中に動くのは不敬だ」と微動だにしませんでした。

「大御心を体した外交官」と呼ばれる由縁です。

爆弾事件以降、重光は義足をつけて「隻脚の外交官」として活躍します。
三国同盟や日米開戦には反対でしたが、意に反して戦端が開かれると傍観者の座に甘んじず、
「戦時外交とは勝つための外交だ」として最善を尽くしました。

駐華大使時代の1942年には「対支新政策」を打ち出し、
戦争に勝つため日本と中国の関係を対等にする政策を提唱しています。

東條内閣で外相となった重光の重要な功績が1943年の「大東亜共同宣言」の採択でした。

当時、ルーズベルトとチャーチルが署名した「大西洋憲章」(1941年)は人種平等を謳い、
民族自決の原則を掲げながら、植民地の有色人種には適用されませんでした。

 
人種平等を目指した重光は「敵側の弱点の重大なるものはアジアに対する差別概念である」として、
「アジアの解放」という理念を日本の戦争目的に掲げたのです

当初、重光は現在の国際連合のような国際機構のアジア版を構想しましたが、
壮大すぎて理解されませんでした。

しかし、その後1943年11月5日にアジア各国の指導者を東京の帝国議事堂(現国会議事堂)に集め、
「大東亜会議」を開催しました。

会議には大日本帝国のほか、中華民国、タイ、満州国、フィリピン、ビルマが参加し、
オブザーバーとして自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースが出席。

大東亜の共存共栄、各国の自主独立、各国の伝統の尊重、大東亜各国の提携による大東亜の繁栄、
人種差別の撤廃という五原則を謳った「大東亜共同宣言」を採択しました。

 
人類史上初の人種平等宣言は大西洋憲章の欺瞞性を暴き、欧米諸国に大きな衝撃を与えました。
これ以降、アジア、アフリカでの欧米の植民地政策を批判する欧米メディアまで登場したのです。

一方でアジアの多くの国には列強支配を打ち破る勇気を与えました。

戦後の1955年にインドネシアで開かれたアジア・アフリカ会議に参加した
加瀬俊一氏(初代国連大使)はアジア・アフリカ各国の代表から
「日本のおかげで我々は独立できた」と握手責めにあいました。

敗戦後の日本にはあの戦争を侵略戦争と断じる東京裁判史観が浸透しましたが、
重光が構想した大東亜宣言とアジアの解放こそが日本における外交の考え方であり、
だからこそ今でもアジアには親日的な国が多いのです。

●文/福冨健一(作家・歴史資料収集家)

※SAPIO2015年12月号

http://www.news-postseven.com/archives/20151123_361517.html

              <感謝合掌 平成27年11月28日 頓首再拝>

なにが家康を天下人にしたか~失敗の教訓 - 伝統

2015/12/29 (Tue) 19:58:43


            *「光に向かって100の花束」高森顕徹・著(第32話)より

生涯にただ一度の敗戦「三方ヶ原の合戦」が、家康を天下人にしたといえば意外かもしれぬ。

三方ヶ原は浜松市の南西に広がる、東西八キロ、南北十二キロの台地である。
元亀三年十二月二十二日。家康(三十一歳)の一万一千が、武田軍二万五千と激突し惨敗した。

当代随一の名将・武田信玄の遠江侵攻に、どう対処すべきか。

籠城持久戦を主張した信長にたいし、家康は積極作戦を考えた。

長期の今川氏からの解放感と、浅井、朝倉を撃破した自信から、
〝信玄恐るるに足らず〟の思いあがりが家康にはあった。

一方、浜松城の堅塁を知っていた信玄は、大胆な欺瞞作戦で、
家康を三方ヶ原へと誘いだし、武田騎馬隊の勇名をほしいままにした。

信玄が投げたエサに食いついた家康は、若気のいたりといわれても、しかたがなかろう。
命からがら、彼は浜松城へ逃げ帰っている。

「彼を知りて己を知らば、百戦してあやうからず。
彼を知らず己を知らざれば、戦うごとにあやうし」

孫子の言を三方ヶ原で、家康は証明させられた。

ただし家康の偉大さは、敗因が慢心にあったことを深く反省し、
信玄を師とあおいで、彼の戦術戦略を学びとったところにある。

三方ヶ原の敗戦から二十八年たった慶長五年。
石田三成と天下を争ったとき、みごとに彼は、この失敗の教訓を生かした。

まず、石田三成ら反徳川勢に挙兵させるため、みずから上杉討伐に出かけてスキをつくる。
 
決戦前日には〝三成の本拠、佐和山城を突く〟との偽情報を流して、
大垣城に拠る西軍を関ヶ原へ誘いだすことに成功し、殲滅している。
 
信玄が自分にとった戦法を、そっくりまねたのだ。

失敗を成功のもとにするのは、心構え一つである。

              <感謝合掌 平成27年12月29日 頓首再拝>

最初から負けていた~勝利のカギ - 伝統

2016/01/01 (Fri) 19:13:18


            *「光に向かって100の花束」高森顕徹・著(第74話)より


数が勝利をもたらすことが多い。
だがその数よりも勝利の要素がある。
団結である。

天下分けめの関ヶ原の合戦が、雄弁にそれを物語っている。

徳川家康ひきいる東軍と、石田三成の西軍とでは、東軍が明らかに劣勢だった。

明治時代、日本陸軍の指導にきていたドイツ軍の参謀が、関ヶ原の配置図を見て、
「西軍が負けたとは、信じられない」
と語ったエピソードがあるほどだ。

両軍あわせて2万5千挺の鉄砲を集中した、当時としては、世界最大の戦闘である。

その火力においても西軍が勝っていた。

にもかかわらず、西軍が、なぜ敗れたのか。

戦争の勝敗に決定的要素となる団結が、東軍に劣っていたからである。

統率者の石田三成に人望がなく、
加藤清正、福島正則といった秀吉子飼いの猛将たちに造反されてしまった。

加えて淀君と、秀吉の正室である北政所の確執が、
関ヶ原における西軍の小早川秀秋の裏切りを呼んだ。

こんな状況では、最初から西軍は負けていたのと同じである。

 
第二次大戦で独裁者ヒットラーのドイツが敗れたのも、同じことがいえる。

1944年、ヒットラーは国防軍のしかけた爆弾で、あわや暗殺のピンチに立った。

カナリス軍情報部長や、空軍大臣のゲーリングさえ、アメリカと通じあっていたのである。

人望がなかったのは、ヒットラーばかりではなかった。

戦争中、ナチスドイツの幹部が、女の問題でケンカをしていたという。

原因が女であれなんであれ、最も団結を要する戦いに、
幹部が不統一だということは、戦わずして負けたも同然だ。

関ヶ原の西軍も、ナチスドイツも、団結という勝利のカギを失っていたのである。

              <感謝合掌 平成28年1月1日 頓首再拝>

ミッドウェーで優勢であった日本艦隊が、なぜ敗れたのか~勝者を滅ぼすもの - 伝統

2016/01/06 (Wed) 20:08:45


            *「光に向かって100の花束」高森顕徹・著(第36話)より

太平洋戦争の劇的なターニング・ポイントとなったミッドウェー海戦。

戦力も戦局も、歴然と優勢であった日本艦隊が、なぜ大敗を喫したのか。

開戦から6ヵ月後の昭和17年6月5日のことである。

ミッドウェー海戦に投入した日本の戦力は、
「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の正規空母4隻と、戦艦2隻をはじめとして、
重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻を随伴するバランスのとれた陣容だった。

対する米機動部隊は、空母3隻のうち、
まともな航空部隊を擁していたのは「エンタープライズ」だけ。
「ホーネット」の飛行隊は新編成ホヤホヤ。
「ヨークタウン」などは、1ヵ月前に被弾大破し、突貫修理での再出撃だった。

随伴する艦隊にしても重巡7隻、軽巡1隻、駆逐艦17隻と、数はそろっていても
戦艦がふくまれていなかったし、共同作戦行動をした経験もなかった。

航空機をくらべても、日本側が285機に対し米側は233機。
性能の優劣も判然としている。

にもかかわらず日本は、主力空母4隻と搭載機285機のすべてを喪失し、
戦局を逆転させることになったのだ。

 
アメリカの戦史作家ウォルター・ロードは、ミッドウェー海戦記に
「信じられぬ勝利」というタイトルをつけたほどである。

なぜ、日本が敗れたのか。

山本五十六大将の連合艦隊は、ハワイ攻撃以来、
インド洋、ジャワ、オーストラリアへの連戦連勝で、
無敵と自負するまでになっていた。

開戦劈頭のハワイ作戦やフィリピン作戦までは、
慎重に慎重を重ねて作戦をねり、訓練も徹底的にやった。

常勝がついつい、その緊張感を弛緩させたのである。

〝勝者を滅ぼすものは外敵にあらず、内なる慢心である〟

歴史の教訓を忘れた日本海軍は、慢心の落とし穴に、はまってしまったのである。

              <感謝合掌 平成28年1月6日 頓首再拝>

真田三代 - 伝統

2016/01/08 (Fri) 19:40:38


1月10日(日)、いよいよ大河ドラマ「真田丸」がスタートします。

真田幸村の活躍がどのように描かれていくのか、楽しみです。


ここでは、背景を理解するため、『真田三代・完全版』から
その要点を紹介いたします。

          *『真田三代・完全版』火坂雅志・著より

(1)戦国時代、舟運は我が国における流通の大動脈であり、
   その幹線は太平洋側ではなく、早くから北国船が発達した日本海側にあった。

   すなわち、日本海の舟運を押さえれば、京への道がおのずとひらけることになる。
   武田信玄が川中島へ出兵を繰り返し、
   上杉謙信との激闘を演じた最大の理由は、そこにこそあった。

(2)真田家を生んだ滋野一門は、古くより呪術に通じた一族であった。
   実際、真田幸隆は歩き巫女、山伏を通じて諸大名の動きをいち早くつかみ、
   みずからの戦いに役立てている。

(3)幸隆の孫、真田幸村が、「不思議な弓取り」と言われ、
   変幻自在の働きをした理由も、
   合戦にこうした山伏たちの力を駆使したからと考えれば納得がいく。

(4)武田信玄は、合戦と策略に明け暮れた戦国武将の典型といっていい人物である。
   だがその一方、若年のころから禅に深く傾倒し、風雅をこよなく愛して、
   情感あふれる幾多の漢詩を残すという文化人の側面を持っていた。

(5)詩人の繊細さと、武将としての勇猛さ、さらに政治家としての怜悧な頭脳を
   併せ持つところが、信玄という人物の面白さかもしれない。

(6)真田幸隆の仲間である、禰津の巫女頭の千代女は、
   蜘蛛の巣のごとく地下に張り巡らした人脈と情報網を握っていた。

(7)武田信玄がかくも水軍を重視したのは、駿河湾一帯の制海権を握り、
   上方と北条氏の海上交通を遮断するためである。
   また、いざとなったときの兵站の補給基地として、
   太平洋岸の主要な港を押さえておく必要があった。

(8)上野国の沼田城は、越後と上州を結ぶ軍事上の要地であると同時に、
   日本海側と太平洋側の物流の結節点でもある。

   当時、最大の輸送能力を誇った交通機関は、「舟運」であった。
   一度に多くの荷が積載可能な船は、馬を使った陸上交通に比べて、
   はるかに輸送効率がいい。

(9)上方と、加賀、能登、越中、越後など北陸の湊々のあいだには、
   古くより北国船の舟運によって海の道がひらけている。

   このうち、越後の新潟湊で下ろされた荷は、
   川船に積み替えられ、信濃川、さらには魚野川をさかのぼって上流へ運ばれる。

   その舟運の終着点が、魚沼郡の六日町である。
   そこから荷は、沼田をかならず通り、越後と関東を往来する。

(10)日本海側と太平洋側を結ぶ流通の道は、ほかにもある。
   信濃川、松代あるいは上田、吾妻郡中之条、利根川の舟運に通じるルートである。

   吾妻郡に進出した真田幸隆は、この信濃と上野を結ぶ流通路を押さえ、
   今日の真田氏発展の経済的な原動力とした。
   これに加え、沼田を押さえれば、
   真田氏は上信越国境の物流の道を完全に掌握することなる。

(11)武田家は攻めに強いが、守りには慣れていない。
   外へ外へと、積極的に領国を拡大してきたのが武田の流儀である。
   ゆえに、守備ということには意外と無頓着であった。

(12)「風向きによって、たやすく筋をたがえるのは、小物のすることだ。
   尻軽なやつよと敵からも味方からも見くびられ、人の信を失うことにもなろう」
   真田昌幸はそう思案した。


   昌幸は底光りする目で、息子たちに諭した。

   「たしかに信義の二文字は、上辺だけのきれいごとに過ぎぬ。
   人は信義ではなく、利欲によって動くというのがこの世の真実だ。

   しかし、目先の小さな利に踊らされ、右往左往していては、
   われらは心根の卑しい弱小勢力と侮られるだけだ。
   ときに小利を捨て、真田ここにありと気骨をしめさねばならぬときもある」

(13)上杉家には、先代謙信以来の、「義」の家風がある。

   相手の弱みに付け込み、やみくもに領土拡大に走るなど、
   「もっての外なり」
   と考えるような、頑ななまでの義の信奉者が上杉景勝という男であった。

(14)理不尽な要求に屈していては、誇りまで捨てることになる。
   相手が徳川であろうが、上杉であろうが、北条であろうが同じことだ。

   誇りを捨てたとき、それがわが一族が、この世から滅び去るときと心得よ。
                           (真田昌幸)

(15)北国街道は信濃と越後を結ぶ物流の道でもあった。
   越後側からは米や塩、信濃からは油、絹、大豆、蕎麦などを積んだ
   荷馬、荷車が、道をしきりに行き来している。

   信濃から上野にいたる交易路を握る真田氏と、
   日本海舟運によって富み栄える上杉氏が手を結べば、
   商いはますます盛んになろう。

(16)真田幸村の身のうちには、祖父幸隆、父昌幸から受け継いだ
   真田一族の血が脈々と流れている。

   大きな敵にも臆さず、屈しない、「反骨」の血である。

(17)幸村の生まれ育った真田家には、「義」という思想はない。

   義とは、儒教でいうところの仁義礼智信、すなわち五常のひとつである。
   私利私欲を捨て去り、人と人との信義に重きをおき、
   おおやけのために何ができるかということを行動原理の中心にすえる。
   それが、義の思想にほかならない。

(18)外交、軍事での策略家としての貌とは対照的に、
   真田昌幸は若い頃から領内に仁政をしいている。

   昌幸にはひとつの信条があった。

   「戦いにおいては策略を用い、非情の決断もする。
   だが、おのが領民と交わした約束は、信義をもってこれを守り、
   情けをかけて味方につけねばならぬ」

(19)壮心の夢を抱く若き幸村に、
   越後で出会った上杉家の直江兼続はひとつの指針を与えた。
   それは、義の精神である。

(20)信州上田にいる真田昌幸のもとへは、諸方に散っている
   四阿山の山伏やノノウを通じて、上方の情報が刻々と寄せられてくる。

(21)上杉謙信と武田信玄がこの血の領有をめぐって争ったことからもわかるとおり、
   川中島は日本海側と太平洋側の物流が交わる経済の要地であった。

(22)「常在戦場」

  ①越後長岡藩の牧野家は、三河以来の徳川譜代である。
   その牧野家には、ひとつの家訓があった。

   広く知られた、「常在戦場」 の言葉である。

  ②常在戦場はつねに戦場に在るような気構えでことに臨め、
   という理解するむきが多いが、
   実際の意味はそうではない、別の解釈もあるとのこと。

   たとえ戦場で華々しい手柄を挙げられずとも、意気消沈することはない。
   その後の政治力や策謀、すなわち知恵の使いようによって、
   戦場での武勲以上に実績を残すことができる。

   そして、それこそが真の子孫繁栄につながるという意味だ。

  ③天下分け目の関ヶ原の戦いのとき、中山道を進む徳川秀忠の軍勢は、
   真田の上田城で足止めを受けた。

   1585年の第一次上田合戦につづく、徳川方の二度目の大敗北であった。

   軍監の本田正信は、
   「このたびの敗戦のもとは、牧野康成の突出した行動にあり。
   牧野こそ、最大の戦犯なり」
   として、責任を牧野康成に押し付けた。

   ために康成は、「不名誉」 の烙印を押され、蟄居に追い込まれた。
   牧野家はこの不名誉のため、暇を取る家臣が続出した。

   だが、康成の子・忠成は、この汚名を政治力によって返上。
   さまざまな裏工作や陰の奔走により、功績が認められ、
   長岡藩7万石の大名にまでのぼりつめた。

  ④手柄を挙げる場所は合戦場のみにあらず人生のどこにでも存在するという
   「常在戦場」の言葉は、まさしく牧野家のしぶとい生き残り術をあらわすものと言える。

(23)たとえ泥水を嘗めても、生きてさえおれば、機会は必ずめぐって来る。
   そう。何はともあれ、生きることだ。
   生きてさえおれば、必ず潮目の変わる日はめぐってくる。
                          (真田昌幸)

(24)子孫を増やすということは、それだけ信用できる味方を増やすことでもある。
   一族の固い団結のもと、過酷な戦国を生き残ってきたのが真田家にほかならない。


(25)大坂の陣における上杉軍の水原親憲は70歳をこえる老将であったが、
   その采配ぶりは陣中の諸将もおもわず見惚れるほどのあざやかなものであった。

   水原は、
   「謙信以来、弓矢のぬくもりを持った男」
   と家康から称賛され、感状をたまわっている。

   それに対して水原は、
   「わしは、関東や北陸で生きるか死ぬかの合戦をいくたびも経験している。
   それにくらぶれば、このたびのいくさなど花見に来たようなものじゃ」
   と磊落に笑ったという。


(26)「表裏比興の者」と言われながら、真田氏を一地方の土豪から大名に成長させた昌幸。
   それとは対照的に「義の人」と言われる幸村。
   おのれの筋を貫いたという一点で、じつは似た者どうしの父子であるのかもしれない。

・・・・

大河ドラマ「真田丸」
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

              <感謝合掌 平成28年1月8日 頓首再拝>

渡辺崋山の『商家の銘』 - 伝統

2016/01/13 (Wed) 19:12:29

渡辺 崋山(わたなべ かざん)、
寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、
江戸時代後期の武士、文人、画家。

画は白川芝山・谷文晁に学び、種々の画法を研究しながら風俗写生に才をみせ、
洋画描法をも摂取して特に肖像画に洞察の深さと筆鋒の鋭さを発揮した。
蛮社の獄に連坐した蟄居中、天保12年(1841)歿、49才。

<年譜>
1793年(寛政5)江戸田原藩邸で生まれる
1800年(寛政12)お伽役(おとぎやく)(若君の手習いや遊びの相手)として藩に出仕
1811年(文化8)画家の谷文晁(たにぶんちょう)に師事
1818年(文政1)「一掃百態」を描く
1832年(天保3)田原藩家老となる
1839年(天保10)蛮社の獄で処罰される
1841年(天保12)自刃 49歳で没

http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/kazan1.html

            ・・・

《親切は決して他人のためならず、相手を満足に生かせ 「渡辺崋山の『商家の銘』」》

            *「光に向かって100の花束」高森顕徹・著(第28話)より


出入りの商人が、あるとき、渡辺崋山に商売の秘訣をたずねた。

快く崋山は『商家の銘』を書き与えている。

(一)召使より、早く起きよ。

(一)10両の客より、100文の客を大切にせよ。

(一)買人が、気にいらぬ品を返しにきたならば、売るときよりも丁寧に受けよ。

(一)繁盛にしたがって、ますます倹約せよ。

(一)小遣いは、1文より記せ。

(一)店を開きたるときのことを忘るな。

(一)同商売が近所にできたらば、懇意を厚くし互いに励めよ。

(一)出商を開いたら、3カ年食料を送れ。

 
(1)いつの時代でも、早寝早起きは健康にもよし、成功の秘訣である。

(2)ややもすると金持ちを大事にし、貧乏人をおろそかにしがちであるが、
   貧しい人たちを大切に、その味方になってあげなければならない。

(3)どんなに自分の都合が悪くとも、
   常に相手の立場に同情し、丁寧に応対することが大切である。
   大勢の人々から尊敬されればされるほど、身の言行をつつしまなければならない。

(4)どんな1枚の紙きれでも、人生の目的を果たすためのものだから、
   粗末にするのは禁物である。

(5)小遣いの始末をしっかりやれ。
 
(6)いくら恵まれ成功しても、常に初心を思い出し、懈怠横着になってはならない。

(7)ライバルが現れたら、もっと努力精進せよと、
   自己を磨いてくれる菩薩と拝んでゆくことが肝要である。

(8)親切は決して他人のためならず、相手を満足に生かすまで、
   できうるかぎりの努力を惜しんではならない。


<参考Web>

(1)Web:江戸しぐさ(崋山の八訓)
       → http://www.edoshigusa.org/about/genealogy2/20/

(2)Web:『商人八訓』~渡辺崋山
       → http://plaza.rakuten.co.jp/kenkenppa/diary/201008180000/

              <感謝合掌 平成28年1月13日 頓首再拝>

工夫とねばりが大切。~ 何事も早く見切りをつけてはならない - 伝統

2016/01/14 (Thu) 19:18:51


            *「光に向かって100の花束」高森顕徹・著(第55話)より

京都の大橋宗桂は、生来、将棋に堪能だった。

江戸に下って、将軍家の御前で、本因坊算砂を撃ち破り、
当代一の栄冠を勝ちとったときのことである。

一手また一手、指し進むうちに、次々とくりだす算砂の妙手に、
宗桂の敗色は、だれの目にも歴然と思われた。

〝いつ宗桂が駒を投げるか〟

家康も、かたずをのんで見守っている。

宗桂はしかし、そのまま、じっと考えに沈んでしまった。

一刻、二刻たっても、まだ彼は、黙然と腕組みをして動かない。

退屈になって家康は、一時席を立ち、入浴などして帰ってみても、
いぜんとして宗桂は不動だった。

「あとは明日、指しついだらよかろう」

たまりかねた家康は、こう命じて、立ちあがろうとする。

「おそれながら、いましばらく」

盤面を注視したまま宗桂は、泰然と引きとめた。

やがてそしてスラスラと、30手ほど指し進めた絶妙手に、
さすがの本因坊算砂も、無念の涙をのまざるをえなかったのである。

「天下のことも同じこと。何事も早く、見切りをつけてはならぬということだ。
工夫とねばりの大切さ。よいことを教えてくれたぞ」

感嘆した家康は、こう宗桂を称賛し、
50石五人扶持を与え、幕府の将棋所をつかさどらせている。

「もう一息が乗りきれず、立派な仕事をメチャメチャにする者が、いかに多いことか」



アメリカの鉄道王、ハリマンも嘆いている。

一塊の石炭も、永年地中に辛抱したればこそ、ついにダイヤモンドと輝くのだ。
いわんや人生究極の、本懐成就をもくろむ者に、2、30年の辛抱がなんだろう。

何事にしろ、真の栄光を獲得するには、
永年の工夫と、執念と忍耐が、必須条件なのである。

          <感謝合掌 平成28年1月14日 頓首再拝>

青年、新井白石 - 伝統

2016/01/16 (Sat) 19:07:08

だから青年白石は3千両を拒否した~信念は未来を開拓する

            *「光に向かって100の花束」高森顕徹・著(第76話)より

徳川6代将軍・家宣に仕えて、敏腕をふるった政治家・新井白石が、
まだ無名の一学徒であったときである。

当時の碩学・木下順庵のもとで、昼夜勉学にいそしんでいたころ、
友人に河村瑞賢という富豪の息子がいた。

白石が貧困と戦いながら勉学に励んでいるのをきいた瑞賢は、
白石の学才の優れていることを知り、将来を強く嘱望して、
経済的援助を、息子を通して申しでた。

「あなたはよく貧困と戦って勉強していられるが、私の父も、深く同情しております。
ついては父が、あなたに3千両を提供して、学資の一助にしてもらいたいと言っていますが、
いかがでしょうか」

白石は心から、その厚意を感謝してから、毅然として拒絶した。

「昔話にもあるように、小蛇のとき受けた、ほんの小さなきずが、
大蛇となったときには、一尺あまりの大きずになっていたということがあります。

今、私が貧しさのあまり、ご厚意を受けて、3千両の金子をいただいたとしたら、
それは今でこそ小さいことではありましょうが、後に思いもよらぬ、
学者の大きずになるかもしれません。

そうなればいかにも残念です。
それを思うと、いかに小さいきずでも、今は受けたくありません。
この旨をお父上に、よろしく申し上げてくださるようお願いいたします」

目前の金子などには目もくれない、大理想に生きていた青年学徒にしてはじめて、
あれほどの大政治家になったのである。

未来ある者は、すべからく白石のごとき信念をもって、
どんな小さなきずも恐れて、広大の天地を開拓する基礎をかためてゆかねばならない。

          <感謝合掌 平成28年1月16日 頓首再拝>

伊藤博文と高島嘉右衛門 - 伝統

2016/01/31 (Sun) 18:29:29


        *Web:天にお任せ(2015年11月23日)より


高島嘉右衛門さんのことですけどね。

彼は、明治の易聖といわれたほどのお人で、大正三年に83歳でなくなるまで
事業家ととして、主に横浜を地元として活躍したのですね。

その易占の凄さによって、
時の要人との広い人脈が出来ていったのです。

とくに、伊藤博文とは、仲が深く、
嘉右衛門の長女たま子は伊藤の養子博邦と結婚して、
両家は姻戚関係にあったんですね。


彼は、その易占をもって、明治元勲たちに、
陰ながら幾多の適切なアドバイスをしていたようです。


晩年、病床に在った嘉右衛門を 伊藤博文が見舞ったのは、
伊藤が満州のハルピンに外遊する直前のことでした。

少し感じることがあったのでしょう。

嘉右衛門は、伊藤のためにそのハルピン外遊の是非を易占に問うたのですね。


得た卦は、

 ― 艮為山(ごんいざん)

というものでした。

これは、山が二つ重なっているという象なのですね。
で、別名を「重艮」ともいうのです。

易では、4大難卦の一つといわれるほどの、大凶卦ですね。


この卦を示して、この旅行を思いとどまるように、必死に説得をしたのですが、

 ― 「自身の命より日本の国が大事」

とする伊藤の決心を変えることは出来なかったのですね。



その結果は、

嘉右衛門の易占どおり、
伊藤博文は、ハルピン駅頭において、 
安重根という男のピストルによって暗殺されるのですね。


嘉右衛門の易卦が、

艮為山(重艮)。 

伊藤を暗殺した犯人の名が、

安重根。

易占の不思議さの一端を垣間見るようなお話ですね。



嘉右衛門の易占の凄味はどこから来るのかといえば、

彼の天与の才もさることながら、

わたしが思い当たるのは、やはりその習得時の異常な環境、
小伝馬町の牢獄、というところです。


江戸時代末期。

嘉右衛門は、
まだ20代でありながら、親の家業の材木商を引き継いで、
すでに一人前の商売人であったのです。


彼は、商売の行きがかりで
外国人相手にご禁制の小判の密売に手をそめ逮捕され投獄されるのですね。

1860年(万延元年)、小伝馬町の牢に入れられ、1865年(慶応元年)に釈免。


嘉右衛門の易占は、

入牢中のある日
安政の大獄で入牢した水戸浪士が残していったと思われる
易経二巻を見つけ、それを独学した事に端を発しているのです。

つまり、それは命がけの真剣さであったのでしょうね。



ところで、高島嘉右衛門の晩年の言葉にこういうのがあります。

    ―  自分の方で十分に骨を折っておいて(誠実に働いておいて)、

        そして頭を下げておれば、人間は決して間違いは無いものだ。


易の達人がその晩年にこう言うのであれば、

それが、「易経」の真髄 といっても過言ではないのかもしれませんね。


ありがとうございます


         (http://zacky.hamazo.tv/e6494605.html

・・・

<参考Web>

(1)横浜の父・高島嘉右衛門
    → http://hamarepo.com/story.php?story_id=3222 

(2)嘉右衛門と易
    → http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=3222

(3)実録・高島嘉右衛門伝(八回連載)
    → http://www.kumokiri.net/koudan/koudanT1.html

(4)高島嘉右衛門と「高島易断」
    → http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_466/yurin4.html

          <感謝合掌 平成28年1月31日 頓首再拝>

甚五郎のネズミはうまかった~技量と智恵 - 伝統

2016/02/05 (Fri) 18:39:32


            *「光に向かって100の花束」高森顕徹・著(第77話)より


名工といえば左甚五郎。

日光東照宮の“眠り猫”、上野寛永寺の“昇り龍”など、あまりにも有名である。

  (“眠り猫” → http://toshogu.jp/shaden/photo/back_img12.html )
  (“昇り龍” → http://www.ryuss2.pvsa.mmrs.jp/ryu-iware/ueno-toshogu-2014.htm


江戸初期、播磨国(兵庫県南部)に生まれた。

本名は、伊丹利勝。生まれつき左ききで、
左手一本で仕事をしたので、左甚五郎と呼ばれる。
彼も「左」を自分の姓にしたという。

 
菊池藤五郎は、甚五郎と並んで、当時、彫刻界の双璧といわれた。

碁、将棋、野球、相撲、剣道、プロレスなど、
何事も他人は、競争させ、応援したがるものである。

ひいき筋はそれぞれ、日本一の名工と誇り、時にはエスカレートして、
血なまぐさい争いまで起きる始末。

“だいたい、日本一が二人いるのがおかしい。決着つけてほしい”の要望が、世間に満ちていた。

耳に入った将軍は、両人を呼んで、こう命じた。

「どちらが日本一か。その場で、ネズミを彫刻してみよ」

両者は必死で、ノミをふるう。

チョロチョロと、今にも動き出すような2匹のネズミを一見して、将軍は驚いた。

まったく甲乙つけがたい、みごとなできばえであったからだ。

困惑の将軍に、側近の智恵者がささやく。

「ネズミのことなら猫が専門家。猫に鑑定させたらいかが」

大きくうなずいた将軍は、さっそく広場に2匹のネズミを、離して置かせ、猫に狙わせる。

放たれた猫はまず、藤五郎の彫ったネズミに直進した。

“藤五郎が日本一か”と思った瞬間、どうしたことか、パッと吐き捨て、
甚五郎のネズミに突進、ガブリとくわえて、飛んで逃げ去ったのである。

 
万雷の拍手と歓声が、甚五郎にあがった。
藤五郎のネズミは、木で彫ってあったが、甚五郎のは、鰹節で作ってあったのだ。

技量だけでは、真の名人とはいわれない。臨機応変の智恵が必要なのである。

          <感謝合掌 平成28年2月5日 頓首再拝>

大石内蔵助の13年間~ 先見と熟慮 - 伝統

2016/02/14 (Sun) 20:11:44


            *「光に向かって100の花束」高森顕徹・著(第73話)より

かの大石内蔵助が、播州(兵庫県)赤穂藩の家老をつとめていたころである。

城下の町人の中に、赤穂で塩を造ったら、おおいに藩の財政を潤すだろうと考えた者がいた。

そこで同志を帯同して、家老大石に面会し、“赤穂藩のためにぜひ”ご許可を〟と懇願した。
こまかい彼らの申請を、つぶさに聞いていた大石は、やがてこう答えている。

「なるほど、その方らの考えは大変おもしろい。よく検討したうえ、沙汰しよう」

おそくとも3カ月か半年中には、認可されるだろうと、町人らは鶴首して待っていた。
が、1年たっても2年たっても、なんの音さたもない。

光陰矢のごとし、はや5年の歳月が流れた。
「大石さまも、わかったような顔をしていても、なにもわからないものだ」

一同あきらめて、忘れかけていた13年目、ようやく呼び出しがかかった。

「13年前、その方らが、製塩の許可を願い出たことを覚えているか。
あの話を聞いたときから、よい発想とは思ったが、
よくよく考慮したところ、問題があったのだ。
 
まず、塩を煮るには薪がいる。薪をたくには木を切らねばならぬ。
多くの樹木を切ると山がはだかになる。はだかの山に大雨が降ってみよ。
たちまち洪水だ。大洪水になれば田畑はメチャメチャ。農業の荒廃は一藩の荒廃じゃ。
 
そう気がついたので、あれから13年、植林に尽力してきた。
もうそろそろ木を切り出しても、山がはだかになる心配はなくなった。
よって、その方らの製塩事業を許可する。おおいに城下が潤うよう、つとめてもらいたい」

 
後日、四十六士を結集し、いくたの困難を乗り越えて、みごと、主君の恨みを晴らす、
大石内蔵助の智慮の周到さを、ここでも、かいま見ることができるようだ。

          <感謝合掌 平成28年2月14日 頓首再拝>

弱者は強者と同じ戦い方をしてはいけない~ハンニバルの戦略思考 - 伝統

2016/04/18 (Mon) 17:48:36

弱者は強者と同じ戦い方をしてはいけない
~不利な状況を覆すハンニバルの戦略思考


       *Web:ダイヤモンド・オンライン( 2016年3月25日)より

【法則1】勝者が予想できないところを突く

   なぜハンニバルは、10倍のローマ軍を壊滅に追い込めたのか?
   イタリア半島で勢力を拡大したローマは、植民地を広げて地中海への影響力を強める。
   そこで海運国カルタゴと衝突。

   カルタゴのハンニバルは、後年「戦略の父」とまで呼ばれる天才戦略家。
   巨大なローマ帝国を震撼させたハンニバルの戦略とは、どのようなものか?


《3度の戦争とハンニバル父子の活躍》

カルタゴは紀元前8世紀頃、地中海に面する現在のチュニジア共和国周辺で建国され、
次第に勢力を拡大し、紀元前6~5世紀には西地中海の商業地として栄えます。
紀元前4世紀頃にシチリア島の西側を支配しますが、イタリア半島で勢力を拡大した
ローマも影響力を強めながら、やがて両国は衝突していきます。

紀元前264年、シチリア島でスパルタ系国家のシュラクサイが都市国家メッシナを侵略します。
メッシナが、3キロの海峡を隔てたローマに助けを求めたことで、島の西側を支配する
カルタゴとローマの、3次(100年以上)にわたるポエニ戦争が始まります。


ハンニバルの父、ハミルカル・バルカは第一次の戦争で、
戦略の天才として有名な息子ハンニバルは第2次ポエニ戦争で
カルタゴ軍を指揮しました(バルカは雷光の意味)。

紀元前247年に父ハミルカルがシチリア島の指揮官となり、
陸海でゲリラ戦を展開、ローマ軍を大いに悩ませました。

海運国カルタゴは操船術が巧みで、ローマは市民兵による陸軍が強かったのですが、
地中海を挟んだこの戦争でローマは海戦の重要性を見抜き、新戦術を開発します。
船に大きな梯子を据え付け、敵の戦艦にその梯子を打ち込み、歩兵が乗り移って戦う方法です。

これでローマ軍は、海上で陸戦を戦うようにしてカルタゴ海軍に逆転勝利します。
カルタゴ海軍が大敗したことでハミルカルはローマと講和を結びます。
膨大な賠償金を課されたうえにカルタゴはシチリア島を失い、第1次ポエニ戦争が終結します。


《巨大すぎる敵を倒すには、どう戦えばいいのか》

父ハミルカルは雪辱のため、99歳の息子ハンニバルも連れてスペインに移住。
スペインで諸部族に勝ち、領土と富を得ながらも父ハミルカルは戦死。

バルカ家がスペインを支配してハンニバルが将軍に選ばれたとき、
彼は父の宿願を果たしたいと強く願いながらも、
ローマの強大さとカルタゴ側の劣勢を冷静に見抜いていました。


■ローマ軍の強大さとカルタゴの圧倒的な不利

・第1次ポエニ戦争でローマに制海権を奪われたこと
・ローマが動員できる総数は約30万人(イタリア半島の全支配都市から)
・ローマの正規軍に対して、ハンニバルが動員できる兵数は傭兵が5万人程度


ハンニバルがローマ軍との戦争で計画したのは「敵の意表を突いた勝利」でした。
彼は約5万人と戦闘象37頭でスペインから隠密に東進、北イタリアから侵入します。


「ローマ側は戦争はスペインとシチリア島で行われるものとばかり思っていたので、
アルプスを越えてハンニバルが侵攻してきたとき、彼らは驚愕し恐怖を覚え、
侵攻を食い止めようと大軍を北イタリアに送った」
      (ジョン・プレヴァス『ハンニバル?アルプス越えの謎を解く』より)


途中のローヌ河を渡る際には、対岸に敵となるケルト人部隊が控えていました。
ハンニバルは部下の一隊に密かに上流で渡河をさせ、ケルト人の背後に回らせます。
味方の狼煙の合図で、ハンニバルの本隊は渡河を開始。

ケルト人部隊は目の前のカルタゴ軍本隊に襲い掛かりますが、
その瞬間ハンニバルの別働部隊がケルト人の陣営に火を放ち、
ケルト人は自分たちの背後で突然、火の手が上がり大混乱に陥ります。

北イタリアのトレビア河では、ハンニバルは少数の騎兵で敵を誘い、
ローマ軍の前衛が冷たい冬の河をこちら側に渡り切ったところで急に反転、
対岸に渡った味方の全滅を防ぐために、

ローマの全部隊が冬の河を慌てて渡り救援に向かいますが、ずぶぬれで疲労困憊の状態となり、
前日夜から南方に隠れていたハンニバルの弟マゴが指揮する軍勢に後ろからも襲われ、
壊滅状態となり敗北しました。


史上名高いカンネーの戦いでは、ハンニバルは最初に敵の突撃型の将軍にわざと負け、
守備的な将軍には勝つ偽装をくり返してローマ軍に「突撃型の将軍」の指揮が有利と思わせます。

8万人の敵ローマ軍に対して、ハンニバル側は5万の兵。
しかし決戦では猛進するローマ軍を巧みに引き込みながら、
騎兵で背後に回り込み包囲して殲滅しました。

ローマ軍の戦死7万人、捕虜1万人、元老院80人の戦死にローマは驚愕します。


《ビジネスの「敵の意表を突く勝利」を実現する戦略とは》

ビジネスにおいても少数側が勝つには、意表を突く勝利を目指すことが効果的です。
では敵の意表を突くことは、どのようにすれば実現できるのか。


世界最大のスーパーマーケットチェーンである米ウォルマート。
同社は1969年にサム・ウォルトンによって創業された後発企業でした。
しかし同社は世界一となり、一歩早く規模を拡大させていたKマートは2002年に破産しています。

ウォルマート勝利の最大の理由は、これまでと違う同社の出店形態にありました。
スーパーマーケットの出店には10万人以上の人口が必要とされていました。

ところが、ウォルマートは1万人規模の都市に、業界の常識を無視して小型店を出したのです。
彼らは小型店をネットワーク化して、150店舗で100万人の人口をカバーするという
別の勝算を持っていたからです。

ウォルマートは業界の常識を打ち破り、新しい成功の定義を見つけていたのです。
常識にばかり目を向けたライバル企業は、ウォルマートがなぜ
「市場がないはず」の場所に出店するのかわかりませんでした。

この出店システム変更から、ウォルマートの優位は10年以上続きます。



日本一社員が幸せな会社と呼ばれる、岐阜県の未来工業は年間休日140日、
全員が正社員という驚きの制度を持っています。

同社は多くの会社と逆の目標をあえて掲げることで、
極めてユニークかつ収益性の高い経営を実現しています。


   ☆一般的な企業と違う目標で勝負する
    ・お客さんにウケる製品づくりにはコストをかけろ
    ・赤字製品でもお客さんが喜ぶならつくる
                  (山田昭男『働き方バイブル』より)

未来工業は、電気工事に使われるスライドボックスで、
顧客の使い勝手が良くなる工夫にあえてコストをかけた結果8割もの市場シェアを獲得。
また、ケーブル滑車という部品では利益の出る売れ筋の3製品だけでなく、
お客様側にとって必要な残りの赤字122製品をあえて生産。

市場シェア9割を独占し、製品全体としての黒字を達成しています。

ライバル企業も含めて全員が目を向ける場所で戦い、同じポイントで勝負を仕掛ければ、
数の理論で大手企業に少数勢力が逆襲することは、ほとんど不可能になります。

ウォルマートや未来工業のように、成功の定義を変えて戦うことが重要なのです。


ローマの大軍が全滅したカンネーの戦いでは、
ローマ側は「中央の突破」が勝負の鍵だと考えましたが、
ハンニバルは「敵の完全包囲」こそが勝利の鍵だと考えていました。


どれほど勇猛な兵士でも、突撃する予定の正面ではなく、予想外の方角から
思ってもみない相手に攻撃されることにはスキがあり、弱いものだからです。


相手が「攻めてくるだろう」と思わない場所を戦場とすること。

そしてライバルとは違う点を勝利の鍵として設計すること。

この2点が敵の意表を突く勝利を生み出すのです。

          <感謝合掌 平成28年4月18日 頓首再拝>

【大津事件記念日】 - 伝統

2016/05/11 (Wed) 20:05:40


今日5月11日は、大津事件記念日です。

1891年(明治24年)5月11日、
滋賀県大津市で来日中のロシアのニコライ皇太子が、
沿道警備中の巡査津田三蔵に切りつけられる「大津事件」が発生した。
  
政府は、日露関係悪化を恐れ「大逆罪」を適用し死刑にしようしたが、
大審院の児島惟謙院長は、「刑法に外国皇族に関する規定はない」とし、
普通人に対する謀殺未遂罪を適用して無期徒刑の判決を下した。

            ・・・

軍艦7隻を率いて日本を訪れていたロシア皇太子。

その警護に当たっていた日本の警官が、
ロシア皇太子に切りつけて負傷させました。

当時は、何かの事件を口実に侵略するような時代でしたから、
ロシアが報復のため宣戦布告も考えられました。

この日本の一大事に、もっともすばやく手を打たれたのが、明治天皇でした。
さっそくロシア皇太子のいる京都の旅館に見舞いに出向かわれ、
全国民に代わり謝罪されました。

その後、皇太子はロシア軍艦に帰りますが、
天皇は皇太子に送別の挨拶をされるために
周囲の反対を押し切って、自ら軍艦に乗り込んで行かれました。

大臣たちは天皇を拉致してロシア軍艦が出港するのでは、と心配したようですが、
明治天皇は、御自分の身命をかえりみられず、
日本の大難を先頭に立たれて見事解決されました。

               ・・・

詳細については、次のWebで、当時の日本のおかれた状況や、国際状況を確認できます。
 
 「山ちゃん 1952」(2015年11月07日)
      ~大津事件と畠山 勇子
      → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/47192790.html

          <感謝合掌 平成28年5月11日 頓首再拝>

第一次世界大戦、ドイツの戦略 - 伝統

2016/07/13 (Wed) 19:24:33



なぜベンチャーは優位性を保てなくなるのか?
世界大戦から学ぶ不毛な消耗戦の回避法

       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年4月18日)より

競争戦略では常に「棲み分け」か「共生」かが論点となる。
各国入り乱れて戦う人類初の世界大戦で、ドイツはなぜ競争優位を保てなくなり、
消耗戦へとなだれ込んだのか?


   【法則12】優位性のない棲み分けはいずれ消耗戦となる

   なぜ、第一次世界大戦は悲惨な消耗戦になったのか?
   ビスマルクとモルトケの有能な二人が世を去ると、政治感覚のないリーダーを持った
   ドイツ帝国は国際社会で失策を犯し始める。

   世界各国が1ヵ月で戦争状態に入る悲惨な第一次世界大戦で、
   なぜ英仏は塹壕に隠れたドイツ軍に勝てたのか?


《名宰相と名参謀が去り、失策を始めるドイツ帝国》

普仏戦争に勝ったプロイセンは、ヴィルヘルム一世を皇帝としてドイツ統一を成し遂げましたが、
次の皇帝ヴィルヘルム二世は、名宰相ビスマルクを失脚させて親政を開始。

フランス封じ込め政策を軽視し、仏露が軍事同盟(1894年)を結ぶことを許します
(ビスマルクはロシア対策としてオーストリアとも軍事同盟を結んでいた)。

普仏戦争で活躍した名将モルトケも一八九一年に世を去り、
ドイツの外交と軍事は軽率な失策を重ねながら、
次の3点が第一次世界大戦への伏線となっていきます。

(1)ドイツは仏露に挟まれたことで、1905年に参謀総長シュリーフェンが
  「シュリーフェン・プラン」を作成。フランスを一気に攻略して次にロシアへの対抗を計画。

(2)フランスは孤立からの脱却を図り、ロシアとの軍事同盟をさらに強化。
   どちらかが攻撃を受けた場合、もう一方の国は速やかに宣戦布告をすることにした

(3)イギリスはドイツの軍備拡大(特に海軍)を強く警戒し、
   100年以上の国是であるフランス敵視を捨て、
   1904年に英仏協商、1907年に英露協商を締結した


複雑な同盟関係と意図は、主要五ヵ国だけで約1574万人の死者を出す地獄のような戦場、
第一次世界大戦の導火線となります
(山室信一他・編『現代の起点?第一次世界大戦2 総力戦』より)。


《バルカン半島の民族独立に、ロシアとオーストリアが干渉して戦火が拡大》

1914年6月、オーストリア皇太子夫妻がセルビア人の民族運動員に殺害され、
同年7月にオーストリアがセルビアに宣戦布告。

セルビアの独立を支持していたロシアは、
オーストリアの宣戦布告に対して軍に動員令を発令します。

ロシアの動員令に驚いたのが、オーストリアと同盟関係だったドイツです。

シュリーフェン・プランは、フランスに電撃的に進軍し、
勝利ののちにロシアと対峙する計画でしたが、シュリーフェンのあとに参謀総長となった
小モルトケ(あのモルトケの甥)は、ロシアに先手を許せば作戦の前提が消失すると判断。

8月1日にドイツ軍に動員命令を下し、同日にロシアへ、3日にはフランスへ宣戦布告します。

ドイツ軍はフランス侵攻のため8月4日に中立国ベルギーへ侵入。
この侵犯を理由に同日、イギリスがフランス側でドイツへ宣戦布告。
事態は混迷を深めていきます。

ビスマルクとモルトケが存命ならば、絶対に防いだ最悪の事態をドイツは招きます。
二大国に挟まれて戦闘を開始し、中立国を侵犯して国際社会で大義名分を失ったのです。


《フランスが西部戦線で反撃するも、ドイツの塹壕の前に膠着状態に》

第一次世界大戦は、機関銃や戦車などの新兵器で死者の桁数が一つ上がった戦争でした。

「(イギリス軍に向けて)銃撃を開始したが、ただ繰り返し弾丸を装填するだけでよかった。
彼らは何百人という数で倒れていった。狙う必要はなかった。
ただ彼らに向かって弾丸を撃ち込むだけでよかった」(前出書より)

ドイツは8月後半にはフランスに侵入する快進撃を続けます。
しかし小モルトケが西部戦線の部隊を計画よりも削減したことで、
パリから70キロのマルヌ河畔で敵に包囲されてしまい、
続くマルヌの会戦でドイツ軍の進撃は阻止されます。

ドイツ軍はマルヌの北40キロのエーヌ川まで後退、
塹壕を築き仏軍の側面に回り込んで反撃の機会を窺います。

仏軍もドイツの側面に回り込むため陣地を構築し、双方が南北に塹壕を掘り続けて
なんと英仏海峡からスイスまでに達します。

1916年2月にドイツが仏軍のヴェルダン要塞を攻撃。
両軍で70万人以上の死者を出して戦況は変わらず。

同年夏のソンムの戦いでは、初日で英軍は戦死者2万人を含めて6万の兵士が戦闘不能になり
(ジャン=ジャック・ベッケール他『仏独共同通史?第一次世界大戦(上)』より)、
両軍で100万人以上の死者を出して、仏英側がわずかな地域を占領したに過ぎませんでした。

5月はユトランド沖海戦で、英独の大艦隊が激突するも、一方的な勝利は実現せず。
西部戦線は3年近く膠着状態となり、被害を拡大しながら予想外の長期戦となります。



《あなたの打つ手は競争優位があるか、不利な消耗戦か? 》

真正面からの競争が、消耗戦になってしまうことはビジネスでもよく起こります。
前出の『競争しない競争戦略』では、競争するデメリットが3つあげられています。

(1)顧客志向から競争志向に
(2)価格の必要以上の下落
(3)組織の疲弊


小モルトケは作戦失敗を悟り辞任、後任のファルケンファインは西部戦線の膠着をみて
全面勝利を捨て、長期戦で相手国に厭戦空気を蔓延させることを狙います。

これはビジネスで先行者の立場を固め、追従する企業へ「同質化戦略」を取ることに似ています。
一点突破させずにライバル企業を消耗させ、撤退させることが狙いなのです。

ドイツは敵国の領内で塹壕をつくり西部戦線を構築したので、
戦線を突破させず両軍が消耗すれば、先行者利益を守り切れると考えました。
逆に仏英連合軍は、先行者が築いた塹壕を突破する優位性をどこかでつくり出さなければなりません。


『競争しない競争戦略』では、競争を避ける競争戦略を3つ提示しています。

(1)棲み分け(A:ニッチ戦略か、B:不協和戦略)
(2)共生(C:協調戦略)

ビジネスで「棲み分け」を狙うことは多いものです。
しかし西部戦線は興味深いことを私たちに教えています。
「棲み分け」の均衡も、有利な場合と不利な場合があることです。


・棲み分けできても大企業が優位な均衡は、挑戦する下位企業には「消耗戦」となる
・下位企業が大手に侵食されない形で均衡を保つとき「健全な棲み分け」となる


ドイツは先行者優位によりフランスを押し切ろうとして完遂できず、
均衡状態からの「消耗戦」を狙いました。

しかしフランスには英米の援護があり、ドイツは一時的に均衡を保ったつもりでも、
相手の優位が増すと、消耗戦を仕掛けられる立場になり敗北したのです。


これはベンチャー企業が新規性の高い技術やサービスで先行しても、
後発の大企業が連合することで、一時的に保持できた均衡を潰されることに似ています。

現代ビジネスでも
(1)優位な消耗戦か、
(2)不利な棲み分けか、
(3)逆転に導く健全な棲み分けか、

の判断ができなければ危機が訪れます。


ドイツが自らを(2)と見抜いたなら、膠着した戦線で、
勝機はフランスを孤立させることにあると見抜けたはずなのです。

あるいは棲み分けが消耗戦に陥るのを防ぐため、コスト削減などの効率化を目指す、
さらに新たな棲み分け分野を開拓強化するなどの策が必要だったのです。

「コスト削減と効率化」とは、自軍の損耗率が低い戦闘を指します。
東部戦線のタンネンベルクの戦いでは、
ロシア軍の損害が21万5000人に対してドイツ軍は1万5000人程度、

マズール湖の戦闘でもロシア軍の12万5000人に対してドイツ軍は約1万人の犠牲者でした
(強大な国力を誇るロシア軍も、この損耗で東部戦線は崩壊します)。


ところが西部戦線ではドイツ軍と仏英軍は、一つの会戦で同程度の戦死者を出しています。
両軍が共に出血する戦闘では、規模の大きい軍団を持つ側が相手に「消耗戦」を
仕掛けていることになり、均衡はやがて仏英米の連合軍に有利に傾いていきます。

  (http://diamond.jp/articles/-/89623

          <感謝合掌 平成28年7月13日 頓首再拝>

先の大戦の敗戦から学ぶこれからの戦い方 - 伝統

2016/07/25 (Mon) 19:25:58


日本人はなぜ目的と手段を混同するのか?
太平洋戦争の敗戦から学ぶこれからの戦い方

       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年4月22日)より

日本はなぜ戦争に負けたのか?
国力の差やリーダーの誤判断で片づけずに、戦略の失敗として考えたとき、
日米間では戦略の捉え方に対する大きな違いがあることがわかる。

日本軍は新たな戦略を生み出す一方で、
効果の消えた古い戦略を新たな戦略に差し替えることが苦手。

米軍は日本軍の戦略を破壊するイノベーションを狙い続けて戦局を急速に転換させていった。



   【法則13】手段ではなく、目的を正しく追い続けた組織が勝つ

   なぜ米軍は、太平洋戦争で加速的に日本に勝利を収めたのか?
   第一次世界大戦でドイツの太平洋権益を奪取した日本は、
   やがて中国大陸の権益でアメリカと対立する。

   開戦初期に快進撃を続けた日本は、
   米軍に逆転を許したのちは転げ落ちるように敗戦を迎える。
   なぜ米軍は、加速的に勝利を手にしたのか?


《英米との対立を怖れた日本の背中を押したもの》


日本は1931年の満州事変ののち、戦艦・空母の保有数を各国と定めた
ワシントン海軍軍縮条約を破棄。中国への侵略と武力による威嚇を強め、
1937年7月、中国北部の盧溝橋で国民党軍と日本軍が武力衝突して日中戦争に発展。

1939年5月にはソ連との国境紛争「ノモンハン事件」が起きます。

翌1940年のドイツによるフランス侵略成功は、日本の方針にも影響を与えます。

「ドイツ大勝利の報に、日本では日独同盟を強化すべきだという声が高まった。
すでにフランスは倒れ、イギリスも敗れようとしている。
ここでドイツの味方になっておけば、フランス・イギリスがア
ジアに持っている植民地を労せずして手に入れることができると考えたのである」
           (NHK取材班『ヒトラーと第三帝国』より)


1940年9月、日独伊三国同盟が結ばれます。
これによりアメリカは態度を完全に硬化させ、
ルーズベルト大統領は鉄鋼やくず鉄など軍需物資の日本輸出を禁止します。

日本の松岡洋右は、三国同盟の前提に日独伊にソ連を加えた四ヵ国の同盟を構想していました。
四ヵ国なら中国の権益で対立する米国を牽制できると考えたのです。

しかしヒトラーにソ連との仲介を断られ、翌年4月に単独で日ソ中立条約を締結。
ドイツでも外務大臣のリッベントロップが四ヵ国でイギリス解体を狙う構想を持ちますが、
同年6月にドイツが不可侵条約を破棄してソ連に進軍、すべてが水泡に帰してしまいます。

フランス侵攻でのドイツ圧勝を見て、ソ連がルーマニアに侵攻。
ヒトラーからの誘いを断り続けていたイタリアのムッソリーニも方針を転換して、
北アフリカに侵攻します。

しかしイタリア軍は敗退を続け、ロンメル指揮のもとドイツの装甲師団が
救援に駆けつけようやく英軍を撃退、ドイツは一時的にリビア・エジプト国境を席巻します。


《日本の南方進出で、アメリカが対日石油の完全禁輸へ》

日独伊ソの四ヵ国でアメリカの脅威に抵抗する思惑が外れ、
進路を迷う日本に「ドイツがソ連領内で快進撃」の報が届きます。

日本は三国同盟と日ソ中立条約の板挟みで悩みますが、独ソの事態は静観して、
南方へ進出することを決定します。

1941年7月、日本軍はフランス領インドシナ南部に進駐を開始。
アメリカはフィリピンを植民地としており、この進出は許容できず
日本への石油の全面輸出禁止を発動。

この措置に驚いたのが日本海軍です。石油備蓄はわずか1年しかなく、
備蓄が尽きたときにアメリカから戦争を仕掛けられることを怖れて
早期開戦論が浮上します。

日本政府は開戦を避けるためアメリカと交渉を続けましたが、
日本軍がインドシナ南部の撤兵を一貫して拒否したため、
11月26日には日本側が受け入れにくい条件のハル・ノートが提示され、
数日後には外交交渉も打ち切られます。

1941年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃。
この報告でイギリスのチャーチルは戦争の勝利を確信します。
日本がアメリカに宣戦布告したため、同盟国の独伊もほぼ自動的にアメリカに宣戦布告。
この結果、アメリカは欧州戦線に連合国側で参戦を開始します。


1941年12月8日から翌年の6月5日までの半年間は、日本が快進撃を続けます。
開戦後、日本は香港からマレーシア・シンガポールなど油田地帯、
オランダ領インドネシアとアメリカの植民地フィリピンの周辺海域、
豪州南部のラバウルやニューギニアなどを制圧。

1942年5月にビルマを占領、同年7月に占領地区は最大版図を記録します。

マレー沖海戦では、英軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズを航空機で撃沈。

しかし、初期の戦勝で見落とされた教訓に、
敵の位置を先に(そして正確に)発見することの決定的優位がありました。

英軍の戦艦のレーダー性能がまだ低く、日本軍は潜水艦と偵察機、哨戒機で
敵部隊の位置を比較的早く発見できていました。

相手より早くか同じタイミングで敵を認識できれば、
日本軍の精度の高い射撃が効果を発揮します。

しかし「敵を早く発見すること」は勝因として追求されず
「攻撃(特に航空機)の効果」を日本軍が過剰に認識したことが、
太平洋の大惨敗につながります。

レーダーと通信傍受で米軍が完全に待ち構えた状態に何度も決戦を挑んだからです。

米軍は開戦時には日本の外務省暗号を、4ヵ月後には海軍の暗号を解読していました。
1942年6月のミッドウェー海戦は、作戦計画が筒抜けで大敗北。

同盟国ドイツが暗号解読の懸念を伝えるも、
日本軍は根拠なくそれを否定してさらに大きな敗因となります。


《日本軍の戦略を破壊する、米軍のイノベーション思考》

日米軍の戦略と行動の段階は、主に3つに分類できます。

(1)新たな戦略をつくる

(2)効果の消えた自軍の戦略を別の戦略に差し替える

(3)敵の戦略の破壊を狙うイノベーションを行う


日本軍は戦艦を航空機で撃沈するなど、新たな戦略を生み出す一方で、
効果の消えた古い戦略を新たな戦略に差し替えることが苦手でした。

米軍は、敵である日本軍の戦略を破壊するイノベーションを狙い続けて
戦局を急速に転換させたのです。


太平洋における日米の主な戦闘には、次のようなものがあります。

・ 珊瑚海海戦(1942年5月)日本軍の熟練パイロットが多数戦死も敵空母撃沈
・ ミッドウェー海戦(1942年6月)正規空母四隻を失う大敗北
・ ガダルカナル島作戦(ソロモン海戦)段階的に日米軍の均衡が破れていく
・ マリアナ沖海戦(1944年6月)レーダーと対空砲火で日本軍が一方的に敗北
・ レイテ沖海戦(1944年10月)日本海軍は壊滅、組織戦闘力を完全に失う


戦局が米軍有利に大きく傾いた、3つの要因をあげてみます。

(1)悲観的なトップを交替させて、組織の戦略転換をすばやく実施した。

   米軍はガダルカナル島作戦で、日本の戦闘機を怖れて空母で逃げ続ける
   ゴームレー中将を解任。勇猛果敢なウィリアム・ハルゼー中将に指揮官を交替させます。

   日本軍は肩書が上位の人物を敗北でも更迭できず、彼らの指揮でさらに失敗を重ねます。


(2)レーダーの発達により、日本軍の奇襲効果はゼロ以下になった。

   珊瑚海海戦から米軍はレーダーを配備。
   夕闇の日本軍航空機の“奇襲”に逆に大きな損害を与えます。

   ミッドウェー海戦では米軍機はあらかじめ基地から退避しており、
   日本軍の奇襲攻撃は米軍のレーダーで完膚なきまでに撃退されました。


(3)当たらなくとも撃墜できるVT信管で、一方的な勝利が加速した。

   射撃の精度を徹底追求した日本軍。
   一方の米軍は砲弾が敵機に近づくだけで炸裂するVT信管を開発。
   マリアナ沖海戦以降の対空防禦に使用され、撃墜率の飛躍的な向上に成功。

   射撃精度にこだわることが意味を失い、日本軍の航空優位はさらに低下します。
   米軍は戦略を差し替えるため人事を断行し、日本軍はずるずると敗北を続けたのです。

 
《目的を上手く概念化することで、古い手段を効果的に棄却できる》

ビジネスでも、経験則で物事を判断すると既成概念に進化を阻まれることがあります。
このような壁を取り払うためJTBD(Jobs to be Done)という概念があります。

「ほとんどの企業は(中略)市場をセグメントし、
提供する製品やサービスに特徴や機能を加えて差別化している。
しかし、顧客は市場について異なる見方をしている。

顧客にはただ片づけるべきジョブがあり、それを行うのに最も良い製品やサービスを
『雇おう』としているだけなのだ」(デヴィッド・シルバースタイン他
『発想を事業化するイノベーション・ツールキット』より)


同書に紹介されている、JTBDを利用した解決策の新旧の対比を紹介しておきます。

例1?薬を投与する=解決策(旧:錠剤と注射、新:皮膚用パッチ剤)
例2?夜間に敵を発見する=解決策(旧:照明弾、新:暗視装置)
例3?窓をきれいに保つ=解決策(旧:窓掃除をする、新:自己洗浄ガラス)
例4?情報を探す=解決策(旧:図書館、新:インターネット)


片づけるべきジョブが本当は何であるかを考察することで、
既存の手段から上手く離れて目標達成への発想を飛躍させることが可能になります。


「JTBDについて何か覚えておくとすれば(中略)
JTBDは、特定のソリューション(製品やサービス)にはまったくこだわらない。
顧客のJTBDは時間がたってもあまり変わらないが、
製品やサービスは、つねに提供する価値を高めながら戦略的な周期で変わっていくべきだ」
(前出書より)


窓の清掃業者にとって、自己洗浄ガラスは仕事を消滅させかねないソリューションです。

同様に、戦艦や戦闘機の乗組員や操縦者にとって、レーダーは勝利を近づけるが、
自分の技能や価値を否定する可能性のある存在だったのです。

日本軍内でもレーダーの研究は行われており、他国をリードする技術もありましたが、
海軍軍人は見えない敵を発見するなど、ありえない戦い方だと一蹴しました。

そのため戦艦や空母、航空機への配備が日本軍は大幅に遅れて劣勢に追い込まれます。


日本軍は熟練パイロットの養成と戦闘機による攻撃が、勝利につながると信じ続けました。

しかし敵の戦闘機を撃墜するために、あらゆる他の選択肢も検討すべきだったのです。

製品やサービスなどの手段と、顧客の叶えたい目標を同一だと考えるのは危険です。
消費者にとってのJTBDを深く考察した他社が、やがて私たちのソリューションを
不必要にする新たな飛躍に成功するかもしれないからです。

http://diamond.jp/articles/-/89629

          <感謝合掌 平成28年7月25日 頓首再拝>

昭和天皇と鈴木貫太郎 - 伝統

2016/08/14 (Sun) 18:27:38


       *『聖断:昭和天皇と鈴木貫太郎』半藤一利・著より要点の紹介

(1)昭和20年8月14日、正午。
   総理大臣・鈴木貫太郎元海軍大将は、すくっと立つと、
   原稿はおろかメモ一つなく、語り始めた。

   8月9日の第一回の聖断いらいのすべての出来事をよどみなく報告するのである。
   そして最後にいった。

   「ここに重ねて、聖断をわずらわし奏るのは、罪軽からざるをお詫び申し上げます。
   しかし意見はついに一致いたしませんでした。
   重ねてなにぶんのご聖断を仰ぎたく存じます」

(2)不気味な静寂がしばし流れた。

   やがて天皇が静かに口をひらいた。


   「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。
    (中略)
   この際、先方の回答をそのまま、受諾してよろしい」

   鈴木首相をはじめいならんだ23人の男たちは、
   深く頭をたれ、嗚咽し、眼鏡をはずして目を拭った。


   「この際、自分にできることは何でもする。
   私が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ。
   ことに陸海軍将兵は非常に動揺するであろう。

   陸海軍大臣が必要だというのならば、
   自分はどこへでもいって親しく説きさとしてもよい。
   内閣では、至急に終戦に関する証書を用意してほしい」


   聖断はここに下った。


(3)鈴木貫太郎は、江戸時代の慶応3年(1867年)に生まれた。
   譜代大名・久世家の代官の家柄であった。

   貫太郎は、群馬中学、攻玉社を経て、海軍兵学校へ入学。
   薩摩出身者が仕切っていた海軍では、旧幕府側の貫太郎は苦労した。


(4)海軍に入った貫太郎は、勝負事もせず、大酒も飲めず、よく本を読んだ。
   歴史書や伝記を好み、さらに古今東西の兵学書を耽読した。
   のちに海軍大学校に入り、これらの膨大な読書が役立った。


(5)日清戦争に参加後、中佐になった貫太郎は、薩摩閥の優遇に怒っていた。
   「海軍を辞めよう。病気と称して帰国しよう」
   と荷物をまとめていた彼に、父から手紙が届いた。

   父は手紙に中で無心にわが子の中佐進級を喜び、
   しかも次第に迫り来る祖国の危機を真から憂え、

   「ロシアとの一戦は避けられないだろう。
   このときこそ大いに国家のために尽くさねばならぬ」
   と切々と訴えていた。

   それは疑いもなく鈴木の脳天に打ち落とされた痛棒だった。
   貫太郎はおのれの心を恥じた。


(6)鈴木貫太郎の部下への訓練指導は激しいものであった。

  ①そのため、彼は「鬼貫太郎」「鬼貫」の異名をとる。

   また日清、日露戦争での彼の戦いぶりも、激しく、注目を浴びた。
   平時は穏やかなこの男が、戦場にあっては誰よりも
   実戦型の闘将であることを示した。

  ②日露戦争後、鈴木は海軍大学校の教官となる。
   修身、修養、徳義と兵学は一体であり、
   むしろまず克己があり、その延長に兵学がある、と鈴木は身をもって示した。

   いかに戦略戦術が秀でていようと、
   克己という犠牲的精神がなければ、真の勝利はない。
   おれは勝ったと図に乗り、怠りや慢心がでるのが一番悪い。

   鈴木教官の指導はこの一点にかかっていた。

  ③学生達には、田舎の村長が袴をはいたような感じの教官と感じられ、
   ヨーロッパ流の近代兵学の理性や叡智とはおよそ無縁ともみえる指導だった。

   むしろ禅の匂いと香り、隠者の風格があり、その静かさや穏和さの底に、
   無限の沈勇大胆が包蔵されているのをかれらは感じさせられた。


(7)その後、鈴木は「明石」艦長、「宗谷」艦長、
   水雷学校校長、練習艦隊司令官、海軍兵学校校長、。
   戦艦「敷島」艦長、少将で海軍省人事局長、海軍次官を歴任。


(8)40歳を越えたころから、その風格と態度には重々しさと厚みを加えた。
   精神家とも映り、東洋的な大人(たいじん)という感じをみる人に与えた。


(9)そして、それからも順調に昇進を重ねた。
   第二艦隊司令長官、第三艦隊司令長官、聯合艦隊司令長官、軍事参議官だ。
   さらに大正14年、海軍軍令部長となる。


(10)鈴木はその後、侍従長などを経て、内閣総理大臣となる。
   そして、終戦へ導く。

          <感謝合掌 平成28年8月14日 頓首再拝>

日本海軍の敗戦 - 伝統

2016/08/15 (Mon) 18:36:14


     *『日本海軍400時間の証言:軍令部・参謀たちが語った敗戦』
       NHK取材班・著 からの要点の紹介です。


(1)戸高一成氏と出会ってから2年近くたったその日、居酒屋に私たちはいた。
   そこで彼がそれまで一度も口にしなかった「軍令部」中枢の海軍士官などによって、
   秘密に戦後行なわれていた「海軍反省会」とその録音テープの存在を明らかにした。

  ①戸高氏が明かした「海軍反省会」とは何か。
   1980年から1991年まで、分かっているだけで131回にわたって、ほぼ毎月、
   海軍士官のOB組織である「水交会」で開かれた、秘密の会議である。

   メンバーの多くが、太平洋戦争当時、軍令部や海軍省に所属していた
   エリート軍人だった。

  ②戸高氏は千葉市の自宅の近くに、一軒家を改築した書庫を設けている。
   そこに毎週通う古本市などで入手した、膨大な量の資料や書籍を収納している。

(2)海軍は、陸軍に比べ、士官の絶対数が少ない。
   しかも、狭い艦艇に皆が同乗して戦うため、士官同士の人間関係が非常に重要視される。
   その基礎となるのが、海軍兵学校の同期、先輩後輩の関係だというのである。

(3)海軍が行う作戦の計画・立案を担うトップエリート集団、軍令部。
   なかでも「作戦課」と呼ばれる軍令部一部一課を統括する一部長は、
   作戦に関する絶大な権力を持っていた。

(4)「海軍は、オープンな組織だったにもかかわらず、大きな組織(海軍)の方針について、
   思ったことをすべて言えなかったところがあった。

   反省会では言うべきことを言ったが、
   戦時中、トップの方針に対しても言うべきだったのに言えなかった」(鳥巣建之助中佐)

(5)豊田隈雄大佐は、海軍兵学校卒業後、艦隊勤務、海軍大学校を経て、
   昭和15年から終戦まで同盟国ドイツに駐在、大使館付武官補として
   ドイツとの折衝役という大任を担っていた。

  ①豊田氏は、「反省会」でこう発言している。

   「およそ(東京裁判の)2年半の審理を通じ最も残念に思ったことは、
   海軍は常に精巧な考えを持ちながら、その信念を国策に反省させる勇を欠き、
   ついに戦争・敗戦へと国を誤るに至ったことである。

   陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。
   いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。
   敗戦の責任は五分五分であると」

  ②東京裁判の結果、「陸軍悪玉・海軍善玉」イメージを、戦後長らく、今に続くまで、
   われわれ一般国民の間にひろく浸透させたといわれている。

   本当に陸軍だけが「悪」で海軍は「善」だったのか。
   別の言い方をするならば、海軍が結果的に免責とされたのはなぜだったのか。

  ③戦後長い間、海軍による組織的な裁判工作は、歴史の空白となっていたともいえる。
   それが判決にどう影響を与え、海軍の善玉イメージがどのように作られていったのか。
   その空白を埋めるような反省会における豊田大佐の発言は、
   メガトン級の破壊力を持っていた。

  ④豊田大佐は、終戦後、ドイツから帰国直後、軍令部第三部(情報部門)の竹内少将から、
   本格化する戦犯裁判に対応するために力を貸してほしいと懇願された。

   豊田大佐自身も駐在武官として太平洋戦争の戦場に一度も立つことが
   出来なかったことを、心から悔いていた。

  ⑤「祖国の興廃のかかる戦争になんらお役に立てなかった武運誠に残念で相済まないこと。
   与えられた戦争裁判事務、これこそが私の戦場であり、これからが私の戦争である」
                                 (豊田隈雄手記より)

(6)海軍の裁判対策で鍵を握っていたのも、やはり軍令部だった。
   軍令部は敗戦直後に解体されたが、その実態は消滅していなかった。

  ①昭和20年11月30日、GHQの指令により海軍省は解体され、
   後継として「第二復員省」が発足した。

   軍令部は解体されたが、実態は厳然と残り、第二復員省が水面下で進める
   裁判対策において、その「能力」を発揮することになる。

  ②海軍省はそもそも日本の中央省庁の一つであるため、連合国によって実施される
   戦犯裁判に対し、政府の一員として協力する側であり、海軍関係の戦犯容疑者の
   弁護などはGHQによって一切が禁じられた。

   しかし実際には、GHQの目をかいくぐっり、
   海軍関係者の擁護、裁判対策に組織をあげて取り組んでいたのである。

  ③海軍省の後継組織である「二復」が行った水面下の裁判対策。
   その知られざる実態の一端を明らかにしたのが、反省会における豊田大佐の発言だった。

   実際には一人の極刑者も出さなかった東京裁判において、
   当初、極刑必至と目されていた人物がいたことを打ち明けている。

   その人物とは、嶋田繁太郎海軍大将。
   開戦時の海軍大臣にして、後に軍令部総長も兼務した。

   真珠湾奇襲を決行した際の海軍大臣であり、
   日米開戦にゴーサインを出した国家首脳の一人であったからである。

   「海軍の象徴」である嶋田の極刑を回避することは、
   「戦後の海軍」にとっては極めて重要であり、
   裁判対策の主眼もここに置かれることになった。

   豊田大佐たちは、先行して開廷していたナチスドイツを裁く
   ニュルンベルク裁判を徹底的に研究していた。

  ④海軍において中央を守るために、
   現場指揮官にのみ責任を押し付けた案件が多くあった。

  ⑤終戦から6年後の昭和26年。すべての海軍関係者の戦犯裁判が終わった。
   東京裁判で極刑判決を受けた海軍関係者はゼロだったが、一方で、
   通例の戦争犯罪を裁いたBC級裁判ではおよそ200人の海軍将兵が絞首台へと消えた。

(7)裁判が終わっても、豊田大佐と戦犯裁判との関わりは途切れることはなかった。

  ①豊田氏は、その後、第二復員省から法務省に移り、嘱託職員として、
   全国を回って戦犯裁判に関わった被告や弁護人、遺族の聞き取り調査を実施。
   その記録をまとめ、関連資料の収集を続けた。

  ②18年かけて集め、綴った資料は5000点以上。
   その中には、組織を守るために行った裁判対策や弁護研究の詳細、
   あるいは証拠隠蔽に関わる内部資料など、第二復員省内部の機密資料を含め、
   ありとあらゆる資料が項目ごとにまとめられていた。

  ③「このままでは重要な歴史が欠落してしまう」
   豊田大佐がそう思い、覚悟の上でまとめたとしか考えられないほど、
   海軍にとって都合の良いことも悪いことも包み隠さず残されていた。

(8)歴史資料は、識者によって加工された書籍などの二次資料ではなく、
   原典に目を通すことで、初めて自分なりの発見がある。

   本当に大切なことは記録には残らないし残さない。
   残された記録や資料には残した人間の意図が必ずある。

   残っている資料だけに捉われてはだめだ。   

          <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝>

大東亜戦争開戦前の日米の国力比較 - 伝統

2016/08/17 (Wed) 18:02:40


        *『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』岩瀬昇・著より

(1)一次エネルギー資源の供給を海外に求めなくてはならない日本にとって、
   世界貿易が妨げられない状態、つまりは世界が平和であることが極めて重要だ。

(2)外交政策はこの認識に基づいて、
   国民の総意として立案のうえ実行されるべきである。

   それこそが国策である。

(3)そうはいっても、
   世界はいつも平和であるという楽観論に立つことはできない。

   やはり、時に「非常時」が起こることを前提に織り込んで考えるべきである。

(4)石油開発が「ハイリスク・ハイリターン」であり、
   ビジネスサイクルが非常に長い点は、現在も変わりはない。

(5)石油、いやエネルギーに関しては、太平洋戦争当時の日本を取り巻く基本骨格が、
   現代もなお変わっていないという事実に驚かされる。

(6)日本は、昔も今も、
   石油を始めとする一次エネルギー資源をほぼ持たない「持たざる国」なのだ。

   そしてまた、非常時がいつ来るか、わからない。

(7)昭和16年4月、米国との経済と戦力の比較調査が行われた。

   新庄健吉陸軍主計大佐は、陸軍省軍事課長の岩畔豪雄大佐と同じ船で渡米し、
   三井物産ニューヨーク支店内に事務所を構えて米国の経済力調査を行った。

  ①新庄は、陸軍経理学校、東京帝国大学経済学部で学んだ経歴だった。
   新庄は公に入手可能な資料、統計などを駆使して、米国経済力を分析し、
   およそ3ヶ月後の7月中旬、報告書をまとめあげた。

  ②新庄は報告書の最後のまとめに次のように記した。

   「日米両国の工業力の比率は、重工業において1対20。
   化学工業において1対3である。

   戦争がどのように進展するとしても、この差を縮めることが不可能とすれば、
   少なくともこの比率は常時維持されなければならない」

   「そのためには、戦争の全期間を通じて、米国の損害を100%として、
   日本側の損害は常に5%以内に留めなければならない。

   日本側の損害が若しそれ以上に達すれば、
   1対20ないし1対3の比率をもってする戦力の差は絶望的に拡大する」

  ③ワシントンの日本大使館にいた岩畔は新庄報告を読んで、
   直ちに帰国して関係部署に説明することを約した。

   岩畔は7月31日にワシントンを立ち、8月15日に横浜に上陸した。

  ④岩畔の『速記録』によると、説得してまわったのは、
   陸軍参謀本部の部員以上全員、海軍省および軍令部の主要な局部長以上、
   宮内省首脳部、外務、大蔵の各大臣、
   企画院総裁、陸海軍大臣、そして近衛総理などだった。

  ⑤だが、岩畔自身の言葉によれば、
   「ドイツ便乗論」「精神力の過大評価」「天佑神助の空頼み」によって、
   戦争突入の決意を固めていた政府、軍首脳の考えを変えることはできなかった。

(8)陸軍省が秘かに行った「秋丸機関」による敵味方の経済抗戦力調査でも、
   参謀本部の指示に基づいて新庄大佐がアメリカで行った経済力調査でも、
   内閣直属の総力戦研究所によるシュミレーション結果でも、

   戦争をしたら日本に勝ち目がないことは歴然としていた。
   統帥権を握る陸海軍と、軍事以外の行政すべてに責任を持つ政府からなる
   大本営政府連絡会議のメンバーたちも、その事実は知っていた。

          <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>

江戸時代の豪商・淀屋常安の才覚 - 伝統

2016/08/19 (Fri) 19:19:40


        *『淀屋考千夜一夜:豪商波乱の三代記』新山通江・著より

(1)江戸時代、大坂の陣で、関東方勝因の第一は
   淀川筋の豪商豪農をいち早く制したことだといわれる。

(2)大坂の陣で徳川方に味方した淀屋親子が、
   家康や秀忠両将に本陣を献上した話はよく知られる。

(3)寸刻も惜しまれる突貫工事である。
   資材も機動力も設計施工など一切、
   現代のプレハブ住宅式に完備させたものだといわれる。
   まったく驚くべき神技だ。

(4)淀屋常安は、徳川家康、秀忠という最高司令官の目の前で、
   工程の始終から完成までの功績を余すことなく、
   じきじきに大将に認めさせ、
   その心を掴むにはもっとも有効な方法と場所を独占した。

(5)御陣献上の功績は、やがて淀屋を満足させる御褒美になった。
   まず、八幡の山林田地300石の永代所領安堵御墨付きを拝領して、
   「岡本」の苗字と帯刀を許され、八幡侍格を仰せ付けられた。

   ついで当時、大坂・堺に来る干鰯の運上銀を得られることになった。

(6)大坂城落城後は、散乱していた鎧、兜や刀剣その他の武具、馬具の
   後始末を願い出て巨富を得たという。

(7)さらに、全国規模で大坂に集まってくる米相場の標準を建てたい
   と願って許され、その独占権を与えられたのである。
   これこそが、淀屋のもっとも欲しかった恩賞だったのである。

(8)遠からず天下の台所といわれる大坂の中心部に店舗を構えていた淀屋は、
   諸国の米を一手にさばくという天下の心臓部的役割を果たすことになる。

(9)智と才がみなぎる頭の中には、つねに現在を踏まえた未来の緻密な設計図が描かれ、
   細心にして豪放、一時一時に命がけの情熱を注ぎつくして、
   寸刻を惜しむ淀屋常安が、これらの逸話の中にうかがえる。

(10)常安は中之島が水運に恵まれていることを見逃さなかった。
   そこで、願い出てこれを常安請地として開発をすすめた。
   これが、常安の生涯の総仕上げの仕事になった。

<参考Web:総資産100兆円!? 豪商「淀屋常安」驚きの商売術
       → http://ceo9019.jp/790.html          >

          <感謝合掌 平成28年8月19日 頓首再拝>

朝鮮戦争からゲリラ戦の極意を学べ - 伝統

2016/08/22 (Mon) 18:54:53

小が大に勝つには?
朝鮮戦争からゲリラ戦の極意を学べ

       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年4月26日)より


朝鮮戦争で、アメリカを中心とする国連軍を相手に徹底的なゲリラ戦を繰り広げた中国義勇軍。
その戦い方は、大手相手に局所優位で戦う中小企業にとっても多くの学びがある。

独自の品質、市場で大手企業に負けずに勝利をつかむにはどうすればいいのか?
ニッチで戦うゲリラ戦の極意とは?


   【法則14】ニッチで戦うなら徹底的にゲリラ戦を効率化する

    圧倒的な勝者の米軍を、なぜ中国軍は追い詰めることができたのか?
    第二次世界大戦の終了から5年後、南北に分断された朝鮮半島で新たな紛争が起こる。
    米軍が一時半島を北上するも、中国軍の参戦で戦局は大逆転。

    なぜ中国軍は、最新装備と圧倒的火力を持つ米軍を大きく押し戻すことができたのか。

    米ソ二大国により、38度線に境界が設定される


1945年6月に日本軍の沖縄での組織的な抵抗が消滅。
8月上旬には広島、長崎で原爆が炸裂。
ソ連が日本に宣戦布告し、150万人が満州、4万人が北朝鮮に攻め込みます。

米軍は沖縄上陸作戦に疲弊し、米国務省・陸海空軍調整委員会は対策を協議します。
日本本土の上陸・占領に大兵力が必要と考える米軍部に対して、
国務省はソ連の進出を抑えるため、米軍ができるだけ北上して日本軍の降服を
受諾すべきと考えます。


「議論が続いたが、最後に朝鮮の一部で日本軍の降服を受け入れることで、
アジア大陸の一部に足がかりを残す、ということで妥協した」
(饗庭孝典『NHKスペシャル~朝鮮戦争』より)

38度線の南をアメリカ、北をソ連が日本軍の武装解除を担当する案をソ連側も了承。
当初38度線に障害物などはなく、米ソの兵士が一緒に食事をしたり、
トランプをする光景も見られましたが、統治方針の違いが次第に明確になり、
半島内も政治勢力の対立が激化。

米国はソ連の反対を押し切って朝鮮独立問題を国連に提訴します。

1948年5月に南朝鮮の選挙で李承晩を大統領とする大韓民国が成立。
北朝鮮も8月に選挙を行い、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国の樹立を宣言。
ソ連は同年10月に撤退を開始、米軍も軍事顧問以外は翌年六月に撤兵を完了します。

1950年6月25日、3年にわたる朝鮮戦争が始まる

38度線で分断された南北の、微妙な均衡が崩れたのが1950年6月25日です。
朝鮮戦争は3年間続きますが、最初の半年で劇的な展開が何度もあり、
以降の2年近くは中国義勇軍VSアメリカを中心とした国連軍の一進一退が
38度線付近で続きました。

・北朝鮮の奇襲で、韓国軍は開戦1ヵ月で半島南端(釜山)まで追い詰められた
・マッカーサーの仁川上陸で形勢が逆転、10月末に米軍は中国との国境に迫る
・米軍が国境線に近づいたことで中国軍が参戦、初期だけで60万人の兵員を動員
・一時中国軍が38度線を越えて南進するも一進一退で2年が経過し休戦

韓国軍は、開戦以前は警察組織程度の武装しか米軍から供与されていませんでした。

「北朝鮮は飛行機の援護があったが、韓国軍には高射砲中隊さえなかった。
また韓国軍は、戦車の進撃を阻止することのできるいかなる種類の火器も所有していなかった」
(マシュウ・B・リッジウェイ『朝鮮戦争』より)

リッジウェイは、第2次世界大戦では欧州のノルマンディー作戦にも参加した米陸軍の軍人で、
マッカーサーが朝鮮戦争の最高司令官を解任されると、後任として指揮を執り、
中華人民義勇軍の攻勢を跳ね返して、戦局を再逆転させた人物です。

北朝鮮の奇襲に、国連の安全保障理事会は非難決議を行います。
7月には占領軍として日本に駐留していた米スミス支隊が半島に到着。
しかしソ連製の強力なT-34戦車を持つ北朝鮮軍に対抗できず、部隊は壊滅寸前で撤退。

8月には16ヵ国が朝鮮半島に軍を派遣します。
米・韓軍は7月末には釜山を中心にわずか南北144キロ、東西96キロの地域だけを保持しており、
朝鮮半島のほぼ全域が北朝鮮軍に占領される窮地に追い込まれます。


潮目が変わったのは9月15日、米軍の仁川上陸作戦からです。
朝鮮半島の中西部(ソウルから西に約40キロ)の仁川港に、
米海兵隊を中心に5万人が奇襲上陸します。

毛沢東と参謀たちは予想していた米軍の仁川上陸が現実になり、参戦検討に入ります。
北への退路を断たれる恐れが出た北朝鮮軍は、撤退を開始。
撤退する敵を追いかけて米軍と国連軍は38度線を回復しますが、
さらに北進すべきか否かで議論は分かれます。

しかし同年10月には韓国軍、次いで米軍と国連軍が38度線を越えて北進を開始。
北朝鮮が中華人民共和国に支援を要請する一方で、米軍のマッカーサー元帥は、
中国参戦の可能性はないと判断。東西に軍を二分してさらに北進しました。

米軍と国連軍は10月下旬には中国の国境線の鴨緑江まで、あと50キロまで進軍。
毛沢東は参戦を決断。

第一陣の参加兵力は約26万人、東西で分進した米軍が通らない山脈地帯に一部は潜伏して、
攻撃と同時にまず西側の米韓軍に包囲戦闘を仕掛けます。
11月には東海岸から北進した米韓軍も中国軍と遭遇して包囲されて窮地に陥り、
12月には撤退を開始します。


「圧倒的な火力があった。それにも関わらず国連軍は押された。
中国軍は夜と山を利用し、国連軍の弱い地点に数倍の兵力を集中して奇襲攻撃をかける、
それも人海戦術として知られた犠牲をものともしない攻撃で局面を掌握した」
(前出『NHKスペシャル?朝鮮戦争』より)


山に立てこもって、ゲリラ戦をやる心がまえはあるかね

9月に朝鮮戦争の調査をした中国共産党の林彪は
「あの人たち(朝鮮労働党)は山にたてこもってゲリラ戦をやる心がまえはあるかね」
と聞いています(前出書より)。

険しい山岳地帯は近代装備の米・国連の大軍が苦手として、あえて進軍したがらない地域です。
見通しが利かず、大軍の優位性が消え、敵が地理に精通しているからです。



これは先に紹介した『競争しない競争戦略』のニッチ戦略の定義に似ています。
ニッチ戦略は相手と戦わない(相手が攻めてこない)戦場を選ぶことであり、
差別化戦略は、相手と違う形で競うことを意味していました。

大手が求める合理化とは逆に、独自の高品質で参入しにくくすること。
市場規模を一定に留めることで、大量販売が必要な大手に魅力のない市場にすることなどです。

ニッチに根拠地を置き続けて大手企業の脅威を避けながら、
ここぞという一点で集中できる勝機を見つけて大手の売上を局所的に奪う戦闘を仕掛ける。
まさにゲリラです。

また、ゲリラ戦で生き延びた企業がよく犯す間違いも朝鮮戦争で指摘されています。

「われわれの同志の中に外国の正規戦術に束縛され、
大通りを正々堂々としか進軍できない者がいる(中略)。
制空権のないまま、われわれの夜戦に強い長所を発揮できず、砲兵も上手に使用できない」
(前出書より)

ゲリラであるにもかかわらず、大手の得意とする白昼の大通りで戦闘を行おうとする。
生き延びてきた理由を忘れて、大手に相応しい戦略・戦術、大手に意味がある
効率化を追求すれば、ゲリラには命とりになることさえあります。


ゲリラ部隊にとっての効率化とは、例えば次のようなことです。

①販売量を限定できる製品をもう一つ出す
②「ひと手間かけて魅力を引き出す」を継続できる体制づくり
③いたずらに新規市場に飛び込まない(むしろ残存者利益を狙う)


個性的な美味しさで繁盛していたレストランが、
人気に応えるため床面積を広くしたり、建物を新しく大改装したとたん
味が急に落ちて、廃業に追い込まれることがあります。

店舗が古いままで固定費が安く、損益分岐点が低いことで
味と素材にこだわることができていたのに、自らのゲリラの強みを捨て
間違った効率化で敗れたのです。



中国共産党の指揮する義勇軍は、30万の軍勢でも、ゲリラの自覚を崩しませんでした。
米・国連軍の強力な火力、大軍という敵の優位から目をそらさなかったのです。

一時劣勢に立たされて、米トルーマン大統領は核兵器使用の可能性を示唆。
マッカーサー元帥は中国領土の爆撃など戦線拡大を主張しますが、
1951年4月に解任されます。

南北合わせて約200万人の犠牲を出したと言われる朝鮮戦争は、
1953年に休戦協定が結ばれて、ようやく停戦を迎えました。

http://diamond.jp/articles/-/89630

          <感謝合掌 平成28年8月22日 頓首再拝>

第二次世界大戦時、知られざる国際情報戦 - 伝統

2016/09/22 (Thu) 18:39:26


    *『インテリジェンス1941─日米開戦への道、知られざる国際情報戦』
      山崎啓明・著 からの要点の紹介

(1)ロンドン郊外にあるイギリス国立公文書館。
   二重三重のロックに守られた機密文書室は、特別な許可を得ない限り、
   中に立ち入ることが厳しく禁じられている。

   そこは、かつて7つの海と5つの大陸を制覇した大英帝国が、
   世界中で収集した、ありとあらゆる「秘密」が詰まった特異な空間である。

(2)「トップシークレット、ウルトラ」
   血のような赤いアルファベットで刻まれたタイトルが、
   最高機密にランクされた文書の証だった。

   ウルトラ文書は、首相や外務大臣、情報機関の長官をはじめ、
   ごく限られた人物しか閲覧が許されていなかった。

   そこには、第二次世界大戦の帰趨を左右しかねない
   決定的な極秘情報が綴られていたからだ。

(3)かつて諜報戦争は、「グレート・ゲーム」と呼ばれていた。
   それは、命がけのゲームだった。

(4)1940年10月、ワシントン中央駅にひとりの日本人が降り立った。
   横山一郎海軍大佐、40歳。

   仕立てのよい3つ揃いの背広をスマートに着こなし、
   豊かな黒髪をポマードでなでつけたその姿は、軍人のイメージとはほど遠い。

   しかし、この男こそが、
   日本海軍のアメリカ諜報網を指揮するスパイマスターだった。


   横山は、若き日、アメリカの名門エール大学に留学した経験があった。
   流暢な英語を話し、ユーモアを交えたスピーチで場を沸かせるのが得意だった。
   物腰はあくまで柔らかく、身のこなしも洗練されていて、社交術にもたけていた。


   社交もまた、スパイマスターにとっては、アメリカ社会に溶け込み、
   情報源を築くための手段のひとつだった。

   華やかな日々の裏側で、非合法なスパイ活動を指揮し、
   心を許した相手から極秘情報を奪うことも辞さない。

   非情さと冷徹さを必要とするのが、武官の仕事だった。

(5)最大最強の仮想敵国だったアメリカの内情を探り、対抗戦略を練り上げるため、
   日本海軍は常に最高の人材を、ワシントンの武官室にあてていた。

   そのことは、日米開戦にかかわる海軍首脳部がことごとく、
   アメリカの駐在武官を経験していることからも明らかである。
   嶋田繁太郎、永野修身、山本五十六、野村吉三郎。

   いずれもが、ワシントンで情報将校として研鑽を積み、
   戦略のなんたるかを学んだあと、
   出世の階段を駆け上がって、日本の行く末を決する地位を得た。

(6)イントレピットの本名は、サー・ウィリアム・スティーブンソンという。
   1897年、カナダで生まれた。

  ①スティーブンソンは、いくつもの顔と肩書をもっていた。
   あるときは、機械や通信技術に精通したエンジニア。
   あるときはラジオの製造や航空機ビジネスで巨万の富を築いた実業家。

   サーの称号をもつ紳士の裏の顔は、
   チャーチル直属のもっとも有能で、もっとも危険なスパイマスターだった。


  ②第二次世界大戦の勃発後、チャーチルの命を受け、アメリカに渡った
   イントレピットは、ニューヨークに拠点を構え、秘密組織BSCを創設。

   多数のスパイを抱えたBSCは、MI5やMI6といった
   情報機関のアメリカ支局として機能した。


(7)イントレピットが渡米した1940年当時、
   諜報大国イギリスの情報活動は、危機に瀕していた。
   ヨーロッパの拠点は、ナチスドイツの攻勢によって、壊滅状態に陥っていた。

   イントレピットは、ひとりの男に白羽の矢を立てる。
   「ワイルド・ビル」こと、ウィリアム・ドノバン。
   のちに、CIAの母体となる情報機関の生みの親となる男である。

   ドノバンは、あだ名の通り、獰猛な野獣のような男だった。

  ①ドノバンには、強力なコネと諜報指揮官としての経験もあった。
   コロンビア大学のロースクールで、ルーズベルトと同級生だったのである。

   大統領となったルーズベルトは、ドノバンをスパイマスターに抜擢し、
   内戦の渦中にあったスペインへと派遣した。

  ②イントレピットはロビイストとしても非凡な才能を発揮した。
   米陸海軍からホワイトハウスまで、英米の諜報機関の連携がいかに重要で、
   ドノバンをおいてその職責を果たす人材がいないということを訴えてまわった。

  ③1940年6月、ルーズベルトは、ドノバンを情報調整官に任命する。
   以後、その権力は拡大の一途をたどり、1942年には、スパイ工作や
   プロパガンダを一手に引き受ける戦略事務局(OSS)を創設。
   のちのCIAにつながる。

(8)ヒトラーが総統大本営「狼の巣」を建設し、ソ連攻撃の準備を着々と進めていたころ。
   ドイツの動きをいちはやく察知したスパイが日本にいた。

   暗号名「ラムゼイ」。
   本名リヒャルト・ゾルゲ。

   東京を基点として強大な情報網を築き上げ、日本史上最大のスパイ事件
   「ゾルゲ事件」を起こしたソ連の秘密諜報工作員である。

  ①ゾルゲは南コーカサス(現在のアゼルバイジャン)で、
   ドイツ人石油技師の父とロシア人の母の間に生まれた。

   ベルリン大学やハンブルク大学で学んだ後、国際共産主義の理想に共鳴し、
   コミンテルン本部の諜報機関を経て、ソ連軍参謀本部の諜報総局に移籍した。

  ②ファシズムと戦うため、ゾルゲが武器としたのは、情報だった。
   その情報収集力は、比類ないものだった。
   高性能の無線機を使って、ソ連に送られた暗号電報の数は、800通以上にのぼる。

   そこには、日本の最高機密であるはずの御前会議の情報までが含まれる。
   しかも、ただ情報を集めるだけではない。

   機密情報というのは、本来、断片的なものである。
   ピースが常に足りないパズルのようなものだ。
   だからこそ、的確な分析と深い洞察があって、初めて武器となる。

  ③ドイツの高級紙「フランクフルター・ツァイトゥンク」の特派員だったゾルゲは、
   一流の日本研究者でもあった。
   家には、1000冊を超える日本関連書籍があったという。

   そこには、「古事記」や「源氏物語」などの古典文学まで含まれていた。

   ゾルゲ諜報団がキャッチした情報は、日本の政治経済の仕組みから、
   日本の思考様式までを研究し尽くしたゾルゲによって吟味され、欠損部分が補われ、
   日本が今後とるであろう政策を的確にあぶりだすことになった。


(9)チャーチルは、葉巻の煙をくゆらせながら、地図に目をやり、
   世界情勢について思考を巡らせ、国民を鼓舞する演説の原稿を
   執筆するのを日課としていた。

  ①チャーチルは、後にノーベル文学賞を受賞するほどの文才の持ち主であり、
   演説の名手だった。

  ②絶体絶命の窮地に追い詰められていたチャーチルが、
   起死回生をかけたのが「秘密情報」だった。

   地下の閣議室でチャーチルが座っていた席の前には、赤い箱が置かれていた。
   鍵のかかった箱の中には、外務省直属の暗号解読機関ブレッチリー・パークから
   届けられた最重要の機密文書が収められていた。

   この箱こそが、大英帝国にとっての最後の希望だった。

  ③1941年6月4日、チャーチルの赤い箱に、決定的な情報が投げ込まれた。
   それはドイツに駐在していた日本の大島大使が外務省に送った
   極秘の暗号電報の解読記録だった。

   大島は、ドイツのリッベントロップ外相から、
   「独ソ戦がもはや避けられない状況にある」ことを直々に聞き出したというのだ。
   わずか数語に過ぎない解読文。

   しかし、世界情勢を一変させる価値を秘めた情報だった。

  ④チャーチルの対応は、迅速だった。
   ブレッチリー・パークから情報が寄せられた後、ホワイトホールで、
   「合同情報委員会(JIC)」の秘密会議が開かれた。

   そこに集まったのは、海外での秘密工作を担当するMI6、
   敵のスパイ摘発を任務とするMI5など、
   大英帝国のインテリジェンスの根幹をつかさどる組織の最高幹部たち。

   そして、内閣府や、外務省や内務省などの責任者たちである。

  ⑤情報は、ただ集めるだけでは意味がない。
   重要なのは、時に相反する雑多な情報から真の情報を選り分けること。

   断片的な情報のピースを組み合わせ、空白部分を推理し、
   隠された敵の戦略を読み取ること。
   分析があって初めて、情報は意味と価値をもつ。

   そうした機能をうけもつ合同情報委員会は、諜報大国イギリスの心臓部であるとともに、
   インテリジェンス戦争において圧倒的な優位をもたらす源泉だった。

          <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

日比友好の物語~独立の英雄・ホセ・リサールとおせいさん - 伝統

2016/10/08 (Sat) 19:45:34



『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』

フィリピン独立の影に日本あり。今も語り継がれる涙の友好物語

        *Web:MAG2NEWS国際(2016.10.06) より


独立を求めるフィリピン人と、それに共鳴する日本人の間に、
幾多の友情の物語が生まれた~独立の英雄・ホセ・リサールとおせいさん



マニラ空港から外に出ると、夏のような強い陽光と暑い空気、
そして群衆と車の喧噪が押し寄せてきた。

うっかり日本の冬支度で来てしまった私は、コートとマフラーと上着を抱えた
ワイシャツ姿というなんとも場違いな恰好である。

迎えの車が混雑したマニラの町を走り出すと、
独立の英雄・ホセ・リサールの肖像を描いたポスターを見つけた。

運転手にリサールの事を聞くと、今も独立の英雄として尊敬されており、
またリサールの日本での恋人「おせいさん」の事も知っていた。

1時間ほど北上して、マニラの郊外に出ると、美しい広大な水田が広がっていた。
所々に広がる木立は熱帯らしい椰子や棕櫚(しゅろ)は目立たず、
むしろ温帯の森林に近い感じである。

遠くの山並みと水田と木立という風景は、九州や台湾を思わせる。
確かに地理的に考えれば、日本列島から台湾、フィリピンと、
アジア大陸の太平洋側を囲む島々として一続きになっている。

フィリピンは我々の意識の中では遠い国だが、
東南アジア諸国の中では地理的に日本にもっとも近く、
それだけに歴史の中では多くの絆があった。

ホセ・リサールとおせいさんの物語もそのひとつである。


《リサールとおせいさん》

ホセ・リサールは1888(明治21)年2月29日、
ヨーロッパに向かう亡命の旅の途中、日本に立ち寄った。

リサールはその前年、マドリード大学で医学を学ぶかたわら、
スペインとカトリック教会を批判した小説をヨーロッパで発表し、
スペイン政府から反逆の書として激しく非難された。

フィリピンに帰ったリサールを待っていたのは、
小説の発禁と国外追放の命令だった。

日本にはごく短期間、逗留する予定だったが、
2、3日ですっかり日本の魅力に取りつかれ、出発を先延ばしする。

そこに出会ったのが「おせいさん」臼井勢似子である。
維新で没落したとはいえ、江戸旗本の武家育ちで、
つつましく、編み物と絵画を得意とし、英語とフランス語を学んでいた。

22カ国語に精通していたという語学の天才・リサールは、
たちまち日本語を覚え、彼女に早春の東京や日光、箱根などを案内して貰ったりした。

「日本人は温順、平和、勤勉で将来ある国民である」
「日本とフィリピンとは緊密な交渉を持たねばならないだろう」などと、
本国の家族や友人への手紙や日記に書き残している。

また歌舞伎で見た忠臣蔵には感動を覚えた。
身を捨てても、主君のために尽くす浪士たちの行動に、
わが身をおきかえて共感したのであろう。

またおせいさんの方も、兄が彰義隊に加わり、上野で戦死しているだけに、
独立の志士として不遇な状況にあるリサールに深い同情の念を抱いた。

こうして27歳のフィリピン青年は日本とおせいさんにすっかり魅了されてしまう。

「おせいさんよ、さようなら、さようなら」

リサールはスペイン公使館から、日本に開業医として残って欲しいという要請も受けた。
心の通うおせいさんとともに、この国に留まりたいという気持ちが湧いたのも当然だろう。

しかし、故郷や世界各地にはフィリピン独立のために、
自分を待っている同志がたくさんいる。
断腸の思いで、彼は当初の計画どおりヨーロッパに向かう決心をする。

4月12日、横浜港からの出発を明日に控えて、
リサールはおせいさんとの別れの一時を、目黒のあるお寺で過ごした。
おせいさんも武士の娘、リサールの志を察して、別れの覚悟は固めていた。

おせいさんと分かれた晩、リサールは次のような手記を残した。


   日本は私を魅了してしまった。
   美しい風景と、花と、樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ!
   おせいさんよ、さようなら、さようなら。


   思えば私はこの生活をあとにして、
   不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。
   この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。


   私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。
   どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。
   どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。


   もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。
   さようなら。さようなら。


《「最後の訣別」》

ヨーロッパに渡ったリサールは、2冊目の小説「反逆者」を発表し、
フィリピンでの独立活動家の機関誌にも投稿を続けた。

1892年には家族や友人の反対を押し切って祖国に戻るが、
逮捕され、ミンダナオ島に流刑される。

4年間の流刑を終えてマニラに戻った彼を待ち受けていたのは、
そのころ激化していた独立勢力の武装蜂起を教唆したとして、
名ばかりの裁判を受け、銃殺刑に処せられるという運命だった。

処刑当日、別れに来た妹に形見として渡したアルコールランプの中には、
「最後の訣別」と題した14節ものスペイン語の詩が隠されていた。


   さようなら、なつかしい祖国よ
   太陽に抱かれた地よ
   東の海の真珠、失われたエデンの園よ!
 
   いまわたしは喜んできみにささげよう
   この衰えた生命の最もよいもの「最後の訣別」を
   いや、生命そのものを捧げよう

   さらに栄光と生気と祝福が待っているなら、
   何を惜しむことがあろう。(第一節)


1896年12月30日の朝、35歳のホセ・リサールはスペイン兵士の放った銃弾に倒れた。
「最後の訣別」は、フィリピン独立に挺身する人々に永く愛唱され続けた。
この12月30日は、独立の英雄であり、国父であるリサールの死を悼む日として、
今も国家による儀式が行われている。

リサールが処刑までの最期の日々を過ごした要塞イントラムロスには、
現在、リサール記念館が建てられ、
気品のあるおせいさんの大きな肖像画も掲げられている。

       (http://www.mag2.com/p/news/222396

          <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

平安時代「絶世の美女」にまつわる、京都・恋塚寺の悲しすぎる物語 - 伝統

2016/10/10 (Mon) 17:05:30



        *Web:まぐまぐニュース!(2016年10月10日)より

《袈裟御前と神護寺 ~歴史を変えた男女の仲~》

平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて文覚(もんかく)という僧がいました。
平清盛率いる平氏に流刑にされ、挙兵する気のなかった源頼朝を
配流先の伊豆に出向いて説得した話は有名です。


文覚は遠藤盛遠(えんどうもりとお)という北面の武士でした。

この時代は歴史上初めて武士が台頭してきた頃で、鳥羽上皇を守護する
北面の武士はエリートとされていました。

同僚には平清盛や源渡(わたる)がいました。

盛遠はこの渡の新妻に恋い焦がれていました。それが袈裟御前です。
袈裟は気品があり桔梗の花のように美しい人だったと伝わっています。

盛遠は袈裟が独身の身で、鳥羽上皇の皇女に仕えていた頃から
想いを募らせていましたが、渡に嫁いでしまいました。
2人は他人から羨ましがられるぐらい仲の良い幸せな夫婦でした。

しかし、盛遠は袈裟への思いを諦め切れませんでした。

言い寄ってくる盛遠に袈裟はきっぱりと断りました。
しかし、盛遠は「ならば、そなたの母を殺し、我も腹を切る」と
恐ろしいことを言い出すのです。

すると困り果てた袈裟は
「わたくしは夫のある身でございます。いっそのこと夫を亡きものに」
と言い放ってしまうのです。

そうすれば、「あなた様の御心に沿えましょう程に」と泣きながら言いました。
袈裟への想いに溺れていた盛遠には理性などありませんでした。
袈裟は盛遠に自分の夫の寝どころを教え、夫・渡の首を討つことを告げるのでした。

盛遠は袈裟の言葉通り実行に移します。


《悲しすぎる恋の結末とは》

首を斬り落とした盛遠はそれを抱いて屋敷から走り出し、
月明かりの中でその首を見て仰天しました。
それは、なんと渡ではなく愛しい袈裟の首だったのでした。

一途に自分を想ってくれる盛遠と愛する夫・渡との板挟みになって
悩んだ末の悲しい決断でした。

盛遠は袈裟の首を抱いて鞍馬の山奥をさまよった果てに出家しました。
武士を捨て名前も文覚と改名し様々な場所で荒行に励んだといいます。

京都に戻ってきた文覚は荒れ果てた神護寺の再建を果たそうと試みます。
後白河法皇に何度も強訴を繰り返したことで伊豆に流されますが、
次第に親しくなっていきました。

そして、神護寺再建の院宣(上皇からの命令文)まで入手して
頼朝に挙兵を説得するまでになるのです。

頼朝は文覚の勧めで挙兵し鎌倉幕府を設立し征夷大将軍となるのです。

袈裟御前は「平家物語」の中でしか出てこないような人物ですが、
盛遠を生まれ変わらせた歴史上重要な人物です。

もし、袈裟がいなければ源頼朝は鎌倉幕府を開いていなかったでしょう。

そう考えると袈裟御前は日本史上、実に大きな存在であったと思わざるを得ません。
このようなことを知ると今の世の中はいかに偶然の上に成り立っているのかが分かります。

そして、このように袈裟よりももっと無名な人物が
歴史を変えてしまっていた可能性も多くあったことを伺わせます。

京都駅の南、高速の京都南インターチェンジから国道1号を南に少し進んだ場所に
赤沼の交差点があります。そこから600mほど南に進んだところを西側に入った
住宅地の中に恋塚寺という小さいお寺があります。

遠藤盛遠と袈裟御前の物語に由来する浄土宗のお寺です。
自らの行為を恥じた盛遠は、出家して文覚と名のり、
袈裟を弔うためにこの寺を建てたと伝わります。

本堂には、袈裟御前、文覚、袈裟の夫・源渡の像がひっそりと安置されています。

私が訪れたときに目印にしていた赤沼という交差点の地名には恐ろしい由来がありました。
それは以前ここにあった池で盛遠が袈裟の首を洗ったら水が赤く染まり、
赤沼と呼ばれるようになったと伝わっているのです。

http://news.infoseek.co.jp/article/mag2news_222785/

・・・

<参考Web:「平家物語」を訪ね~文覚(遠藤盛遠)
  → http://achikochitazusaete.web.fc2.com/heikemonogatari/mongaku/morito.html >


          <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

女流作家「清少納言」の教養と知識の高さ - 伝統

2016/10/14 (Fri) 18:51:50


        *Web:MAG2NEWS(2016年10月14日)より

《女流作家「清少納言」の教養と知識の高さ》

平安時代を代表する文化人に清少納言という女性がいます。
彼女が書いた『枕草子』は、『徒然草』『方丈記』と並んで
三代随筆のひとつに数えられていますね。

清少納言は、宮中で一条天皇の中宮・定子(ていし)に仕えた女性です。
彼女は宮中に仕えていたということから贅沢な暮らしをしていたと
伝えられていたりもします。

そして才色兼備で、その賢さをひけらかすような面があって、
嫌味な女性だったという噂があります。

実際に清少納言が贅沢をしていたのか、嫌味な女性だったのかわかりませんが、
彼女の晩年はあまり派手ではなかったようです。

清少納言は、中宮・定子が第2子を出産した後に亡くなったことを機に
宮仕えをやめています。定子の亡骸は、東山の鳥辺野(とりべの)に埋葬されたので
清少納言はその近くの東山月輪に隠棲しました。

晩年の清少納言は、出家して庵に住み定子の冥福を祈り続けたそうです。
このような彼女の晩年の暮らしは清少納言が派手好きであったり、
嫌味な女性だったとは思えません。

さて、そんな彼女が残した有名な一句があります。
百人一首にも撰ばれているものなので皆さんもかるたなどで聞いたことが
あるかもしれません。


   夜をこめて 鳥の空音(そらね)は 謀(はか)るとも 
   よに逢坂(あふさか)の 関は許(ゆる)さじ


この句には彼女の溢れんばかりの才気が現れています。
技法のひとつである語呂合わせが沢山含まれているのです。

現代語訳はこんな感じになります。

   夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、
   函谷関ならともかくこの逢坂の関は決して許しませんよ
   (色々とだまそうとしても、私はあなたに決して逢いませんよ)。

という意味です。詳しく見ていきましょう。


「夜をこめて」は、(夜がまだ明けないうちに)という意味になります。
「鳥の空音(そらね)は」鳥はにわとりで、「空音」は(鳴き真似)のことです。
「謀(はか)るとも」の「はかる」は(だます)という意味です。

「とも」は(~しても)。

「鶏の鳴き真似の謀ごと」とは、古代中国の史記の中のエピソードを指しています。
これは後で説明しますが、この辺りの歴史もきちんと勉強して知った上で
このような歌を詠んでいるところに教養の深さを感じます。

「よに逢坂(あふさか)の関は許(ゆる)さじ」

「よに」は(決して)です。
「逢坂の関」は男女が夜に逢って過ごす「逢ふ」とを掛けた掛詞です。

「逢坂の関を通るのは許さない」という意味と
「あなたが自分に逢いに来るのは許さない」という意味を掛けています。

清少納言の深い教養と頭の良さが分かる一句です。


状況を説明しますと…。

ある夜、清少納言のもとへやって来ていた大納言・藤原行成(ゆきなり)は、
宮中に用があると言って早々と帰ってしまいました。
いわゆる逢瀬を重ねていたのです。

この藤原行成という人物は時の権力者としても有名ですが同時に相当な文化人です。
平安時代の三蹟(さんせき)の1人です。
三蹟というのは能書家で、筆が達筆な代表的な3人のうちの1人です。

当時までは漢字が主流だったのですがこのころから仮名文字がもちいられるようになり、
彼はとても美しい仮名文字を残しています。
現存するものは本能寺に残されています(本能寺切)。

実際に見るととても柔らかくて「書」を芸術の域に引き上げた人物は
まさに行成ではないかと思うぐらいです。

その意味でも彼は大納言まで上り詰めたと言うことだけでなく
書家として、文化人としても大変有名だということです。


話をもとに戻します。

清少納言の元に出向いて楽しく話をしていた行成は早々と帰ってしまいました。
翌朝、「鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳の文を送りました。

受け取った清少納言は「うそおっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような
鶏の空鳴きでしょう」と答えているのです。

この「函谷関の故事」というのは、中国の史記にある孟嘗君(もうしょうくん)の話です。

孟嘗君は古代中国の秦の国に入って捕まってしまいました。
そこから逃げるとき、朝一の鶏の鳴き声がするまで開かない
函谷関の関所を部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせたという話です。

この歴史的な史実を知らないとこの2人のやり取りは理解出来ないのです。
逆に言うとそのぐらいこの2人は高い教養を持った者同士だったということです。

ちなみにカンの良い方だったらお気づきだと思いますが、
この函谷関の話はまさに祇園祭の函谷鉾の由来でもあります。


話がそれましたが、清少納言は「どうせあなたの言い訳でしょう」と言いたかったのです。
それに対して行成は「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」と弁解します。

清少納言のこの一句はその行成の歌に対して返した歌だったのです。
「鶏の鳴き真似でごまかそうとも、この逢坂の関は絶対開きませんよ
(あなたには絶対逢ってあげませんよ)」という意味です。

前の夜に話の途中で宮中の用事を言い訳に途中で清少納言を置いて帰ってしまった
行成に対してちょっと怒っているのかも知れません。

即座にこれだけの教養を盛り込んだ歌を返すとは、さすが清少納言といったところです。

このほんの一句からずば抜けた知性を感じさせますが、
男の立場から言えばさすがの時の大納言もタジタジではないでしょうか。


一条天皇の時代は藤原道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権力が最盛期に達し、
摂関政治の栄華の極みに到達した時代です。

この藤原道隆こそが一条天皇の中宮・定子の父であり、
影の実力者であり当時の最高権力者です。

そのような宮廷が最高に華やかなりしころにその中心に一番近いところで生きた清少納言。
彼女ほどの教養と女性としての自信がなければ時の大納言・行成に
あのような一句を詠むようなことはなかったでしょう。

最後に逢坂関は、東海道で京都への東からの入り口とされ古くから交通の要所だったそうです。
8世紀の終わりにはすでに関所が置かれていたと伝わっています。

現在、逢坂の関の跡は滋賀県大津市にあり、
京阪電車京津線大谷駅下車2分ほどのところにあります。

清少納言が詠んだこの有名な歌は歌碑に刻まれていて
彼女が静かに眠る近くにある泉涌寺(せんにゅうじ)に建てられています。


《泉涌寺》

泉涌寺は、境内の一角に清泉が湧き出たことに由来しています。
1242年、四条天皇の御陵が作られてから江戸時代初期の後水尾天皇など
歴代天皇の御陵(月輪陵・後月輪陵)が築かれています。

このように泉涌寺は皇室の菩提寺であることから御寺(みてら)とも呼ばれています。

泉涌寺の大門からすぐ右へ進むと日本最古の写経道場・雲龍院があります。
大門をくぐって正面に見える仏殿を見下ろしながらそのまま真っ直ぐ下っていく感覚は
他にない新鮮な感じを受けます。

大門のすぐ左脇の楊貴妃観音堂には、恋愛にご利益がある楊貴妃観音像が祀られていて
女性に人気があります。
毎年3月14日~3月16日には日本最大の涅槃図が一般公開される涅槃会が行われます。

http://www.mag2.com/p/news/223418

          <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

なぜ平城京は短命だったのか? 枕詞「あをによし」から読み解く - 伝統

2016/10/24 (Mon) 19:23:42


        *Web:MAG2NEWS(2016年10月13日)より

「あをによし 奈良の都は咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり」。
奈良時代の都、平城京の美しさと繁栄を歌った、万葉集の中の有名な和歌ですが、
あなたはこの「あをによし」という枕詞の意味をご存知でしょうか?

メルマガ『8人ばなし』の著者・山崎勝義さんは、その意外な意味を説明するとともに、
奈良時代に遷都が繰り返されたこととの知られざる因果関係を明かしてくれています。


《あをによし 奈良の都のこと》

「あをによし」と来れば「奈良の都」である。

この奈良平城京への遷都(710)から平安京遷都(794)までの
84年間が奈良時代である。

奈良時代と言えば政変と仏教の時代であった。

まず、その政変を挙げると、

  長屋王の変(729)
  藤原四子の病死(737)
  藤原広嗣の乱(740)
  橘諸兄の失脚(756)

  橘奈良麻呂の変(757)
  恵美押勝(藤原仲麻呂)の変(764)
  宇佐八幡宮神託事件(769)

という具合に上代日本史の有名事件ばかりが並ぶ。

こういった政変や疫病を逃れるために、繰り返し遷都が行われたのもこの時代の特徴である。

  平城京(710)
  山背恭仁京(740)
  難波宮(744)

  近江紫香楽宮(744)
  平城京(745)
  長岡京(784)

  平安京(794)

平城京に始まり、結局は平城京に戻ることになるこの一連の遷都を行ったのは、
この時代を代表する天皇、聖武天皇(在位724-749)である。

この天皇の周囲に起こった不幸と、彼が望んだ仏教による鎮護国家というものを、
奈良の都という地理的条件の下に結び付けて考えると興味深い推論が立つ。


最初に述べたように、奈良時代はまた仏教の時代であった。
平城京遷都に伴い旧都より、興福寺、薬師寺、元興寺、大安寺などの
大寺院がまず移転して来た。

さらに聖武天皇・光明皇后期に東大寺、法華寺、新薬師寺と続けざまに建立され、
後には唐招提寺や西大寺が建立された。

いずれの寺も創建当初は巨大伽藍であった
。平城京の規模が大体4.5キロメートル四方だから、
それを考えれば巨大寺院の都と言っても過言ではない。

勿論、このような都市と寺院の規模のバランスについては
飛鳥の諸宮や平安京においても、或いは同じようなことが言えるのかもしれない。


しかし、決定的に違うのは水利環境である。
飛鳥京は飛鳥川、平安京は鴨川、桂川の水利があった。

平城京に流れる佐保川も飛鳥京に流れる飛鳥川も、
河川の規模としては小川程度のものだが、
この二つの都には圧倒的な水利技術の違いがあった。


近年の発掘事業により飛鳥京が水の都であったという事実が分かってきたのである。
さらに驚くべきことに、そこには河川だけでなく地下水脈をも取り込んだ
壮大な水利施設があったようなのである。


一方、平城京のような水利が悪い所においての
大伽藍建立ラッシュは致命的な健康被害をもたらす。


ここで「あをによし」である。

「青(あを)」は寺院建築などにおいて連子窓等を彩る緑青を、
「丹(に)」は柱梁を朱色に染める鉛丹や本朱を指す。

緑青は酸化銅であり弱毒性がある
(因みに一昔前までは猛毒とされてきたが、科学的根拠はない)。

鉛丹は酸化鉛であり鉛中毒の原因となる。
本朱は硫化水銀であり水銀の強い毒性は知られる通りである。

これだけでも健康を害するには十分だが、
仏像における金銅像の制作過程には極め付けの作業がある。
鍍金(めっき)である。

当時のめっきの方法は実に乱暴であった。
まず、熱した水銀に金を溶かし込んで銅像にかける。
それを火であぶって水銀だけを蒸発させ金を定着させる。
水銀は高温で気化した時が最も毒性が高い。

それが水利の悪い狭い盆地で行われていたとすれば健康に対する被害は計り知れない。

この時代の伝染病蔓延の原因には、人口増加に伴う都への人口集中とともに、
重金属中毒に伴う免疫力の低下を挙げることができるのではないだろうか。

さらに重金属中毒は重度の神経・精神症状を招くから、
不可解な事件や凶暴な事件が起こっても不思議ではない。

中でも特に、水銀中毒はそれ自体が死亡原因となり得る重大疾患である。
体の小さい乳幼児にとっては尚更である。

とすれば、不思議なことだが、聖武天皇が平城京を離れ、
都を転々と遷したのは公衆衛生の観点から言えば正しかったということになる。

しかし同様の観点から、国家の安寧と民衆の平安を願って
一念発起した大仏造立は大間違いだったと言わざるを得ないのである。
一応断っておくが、奈良の大仏は金銅像である。

「青丹よし 奈良の都」は美しかったに違いない。
しかし盛りは短かった。

現代に伝えられる天平仏の数々が、今猶我々の心を打つのは、
その美に信仰と狂気の危うい線を見るからかもしれない。
それは、祈りであり同時に叫びでもあるからだ。

後に平安京遷都に当たり、桓武天皇が奈良の大寺院の移転を固く禁じたのは、
その歴史的背景が物語ること以外の意味においても或いは英断だったのかもしれない。

   (http://www.mag2.com/p/news/223363?l=ciu003d3c9 )

          <感謝合掌 平成28年10月24日 頓首再拝>

日本とブルネイの絆を結んだ一人の日本人 - 伝統

2016/10/29 (Sat) 19:17:21



「世界一貧しい国」を「世界一裕福な国」に変えた伝説の日本人 
日本とブルネイの「歴史的な絆」そして親日国となった…【感動実話】

  → youtube ~ https://www.youtube.com/watch?v=Pmzv0EX3Gp8

             ・・・

敵対する部族の首を狩り、権力の象徴や呪術などに用いていた首狩り族
第二次世界大戦の時期に、首狩りの習慣が途絶えたという。

1942年、第二次世界大戦当時、日本はブルネイを3年間 統治していた
その間、ブルネイ県と呼ばれ、国民は日本語教育を課せられたていた。

日本が統治する以前、1800年からブルネイはイギリスが占領していた。
当時のイギリスはジャングルに覆われたブルネイに
植民地の魅力を感じておらず、開発作業などを行わなかった。

そんな中、日本はイギリスを追い出しブルネイを占領
日本軍には埋蔵資源が豊富なブルネイを軍港として利用する狙いがあった。

1942年、ブルネイ県知事に就任したのは、
日本軍とは全く違う考えを持った軍人:木村強。

就任直後、木村は当時のブルネイ国王の下へ
国王から「何か希望はありますか?」との問いに
「現地のブルネイ人を1人私につけてくれませんか?」

木村は、日本の国益だけを考えて占領するのではなく
ブルネイの発展に力を注ぎたいと考えていた
それを実現するためにブルネイ人を側に置き、
共に行動することが最善と考えた。

国王が木村の部下に推薦したのは20代の若いブルネイ人青年
木村は占領国である立場にもかかわらず日本の国益だけを考えず、
ブルネイの発展を第一に政策を進めていった。

秘書として雇ったブルネイ人青年はとても優秀で木村を大きく助けた。

そんな木村が行った政策が、
例えば、ブルネイで天然ゴムが採れる事に注目し、
現地に工場を建て雇用を生み出したり、
道路、電気、通信などのインフラ整備を進めるなど
当時、ジャングルに覆われていたブルネイの発展に大きく尽力した。

しかしブルネイを利用したい日本軍からすると、
木村の政策はブルネイ人に甘く無駄なモノに映っていた。

「私は他国の人間を奴隷のように扱う事を日本人として恥ずべき事だと考えている。
彼らの独立につながる手助けができれば今後彼らも我々を助けてくれるだろう」

木村は目先の利益を求めず、日本人としての品格や誇りを持って接し、
助ける事こそが後の日本の国益につながると考えていた。

さらに木村は首狩り族:イバン族の生活整備も進めようとしていた。
当時、首狩りを行っていたイバン族は、同じブルネイ人からも敬遠。

木村はそんなイバン族もブルネイ人が一丸となり
発展を目指す事こそが国益につながると考えた。

当時、イバン族にとって日本軍は侵略者であり、殺し合いを繰り広げた敵。

そんな状況の中でも木村は、
危険を顧みず何度もイバン族の下へ足を運んだという。

木村はイバン族に信用してもらうため
ジャングルに水道や電気を通し、インフラを整備
さらに木村は国王に掛け合い、
ブルネイにおけるイバン族の地位向上を訴え続けた。

こうして木村は70年以上経った今でもイバン族から尊敬される存在になった。

ブルネイに発展に大きく貢献した木村は、県知事に就任してから
わずか1年で転勤が決まりブルネイを離れることになった。

そしてその別れの場では、現地の官僚は人目をはばからず男泣きしたという。

さらに苦楽を共にし、一緒に働いてきたブルネイ人秘書も泣きながら、
「あなたから学んだようにこの国を立派な国へと成長させます」と誓った。


1964年、木村は地元の宮城県に戻り検事の職に就いていた。
ある日のこと、東南アジアを飛び回る商社マンが木村の下に
「ブルネイ県知事をつとめていらっしゃった…木村さんですか?」
「はい」「ブルネイの国王があなたを探しています」

木村は22年ぶりにブルネイに渡り、新しい国王の下へ向かった。

その新国王こそ、22年前、あの秘書をしていたブルネイ人青年だった。
ブルネイ県知事に就任した当時、国王は木村の秘書に自分の弟を推薦。

現在の国王の父親にあたる。

「私はあなたから多くのことを学びました。
そのおかげで日本にはまだ及びませんが、ブルネイも発展しつつあります」

「木村さんブルネイで働いて頂けませんか?」
「もう一度ブルネイの為に力を貸して頂けませんか?」

対し木村は「私もずいぶん年を取りました。
ですからこれからは遠くからブルネイ国の発展を見守っています」

「分かりました。またお会いできるといいですね」

今も多くのブルネイ人は親日家であるという

「彼らの独立につながる手助けをできれば…きっと今後彼らも我々を助けてくれるだろう」
木村の言葉通り、日本とブルネイの関係は良好、
約9割ものの天然ガスが日本へ輸出されている。


<参考Web:ブルネイ王に招かれて~元ブルネイ県知事  木村 強
       → http://kansai.me/tdym/ww2nd/brn-hudoki05.htm  >

           <感謝合掌 平成28年10月29日 頓首再拝>

海の武士道 - 伝統

2016/11/07 (Mon) 17:52:39

        *メルマガ「JOG」(H28.11.06)より
         ~海の武士道 ~ 伊東祐亨と丁汝昌

連合艦隊司令長官・伊東祐亨の清国北洋艦隊提督・丁汝昌への思いやりは世界を驚かせた。

1.「日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように」

 明治27(1894)年9月17日の日清戦争における黄海海戦は、
 1866年にオーストリアとイタリアが戦ったリッサ海戦以来、およそ30年ぶりの
 艦隊同士の決戦であった。

 その間にそれまでの木造艦に替わって、鉄や鋼で防備を固めた装甲艦が中心となっていた。

 装甲艦どうしの艦隊決戦がどのようなものか、世界の注目を浴びて、
 イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア各国の軍艦が、
 観戦のために黄海に集まっていた。

 勝利は清国7割、日本3割というのが世界の大方の予想だった。
 なにしろ清国艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」は排水量7335トン、世界最大級、
 最新鋭の巨艦であった。

 一方の日本の主力艦「松島」「厳島」「橋立」は4278トンと半分近くの大きさでしかない。

 しかし日本艦隊は高速性を生かして二手に分かれて清国艦隊を挟撃し、
 小口径ながら速射砲で砲弾を雨あられと浴びせかけた。

 「鎮遠」に乗っていた米国顧問マクギフィン海軍少佐は次のように記している。


    日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように、
    ・・・有利な形で攻撃を反復したのには、驚嘆するほかなかった。
    清国艦隊は守勢にたち、混乱した陣型で応戦するだけだった。
        [神川武利『士魂の提督 伊東祐亨─明治海軍の屋台骨を支えた男』, p448]


 4時間余りの海戦で、清国艦隊は4隻が撃沈され、1隻が擱座(座礁)自沈したのに対し、
 日本艦隊は2隻大破、2隻中破と損害は大きかったものの1隻も失わなかった。
 日本艦隊の完勝だった。


2.「長官、ご無事でありましたか」

 兵員の志気においても格段の違いがあった。
 旗艦「松島」は「鎮遠」の30センチ砲弾が左舷に命中し、鋼鉄の舷板が
 10メートル余り吹き飛ばされて、艦骨が露わになった。

 28人が戦死、68人が重軽傷を負った。死屍累々として、鮮血が甲板に溢れた。

 連合艦隊司令長官・伊東祐亨(ゆうこう/すけゆき)は破損状況を見聞するため、
 艦橋から甲板に降りた。負傷者収容所の横を通りすぎようとした時、
 顔面が火傷で紫色に腫れ上がった水兵が伊東を認めると、力を振り絞って足元に這い寄り、
 「長官、ご無事でありましたか」とかすれた声を出した。

 伊東は、その気持を察し、その水兵の手をしっかりと握り、
 「伊東はこのとおり大丈夫じゃ、安心せよ」と、二、三度足踏みをしてみせた。

 それを見た水兵は、さも安心したように「長官がご無事なら戦いは勝ちです。万歳!」と、
 かすかに言い終えると、頭を垂れて息絶えた。

 伊東は頬に涙を伝わらせながら、しばらくはじっと水兵の手を離さずにいた。

 一方、清国艦隊の最左翼にいた「済遠」は、日本艦隊から砲撃を受けると
 艦首を巡らせて、逃走を図った。「鎮遠」の艦長・林泰曾は憤って、
 逃げる「済遠」をめがけて砲を放ったが、「済遠」は脇目もふらず遁走した。

 海戦が終わって敗残の北洋艦隊が翌朝、旅順口に入港すると、
 「済遠」は無傷で安閑とこれを迎えた。

 怒った丁汝昌提督は、「済遠」艦長を軍法会議にかけて、即日銃殺刑に処した。


3.「日本武士道精神の精華」

 黄海の制海権を得た日本軍は、朝鮮半島の付け根から西側に伸びた遼東半島の先端部、
 旅順口をわずか一日で落とした。
 北洋艦隊はその対岸に伸びた山東半島の威海衛に逃げ込んだ。

 この北洋艦隊の根拠地、威海衛を、伊東はそれまでに2度、訪ねたことがあり、
 丁とは肝胆照らす仲だった。

 8年前の明治20(1887)年に、伊東が小艦隊を率いて威海衛を訪問した際に、
 丁は非常な歓迎をしてくれた。

 その後、丁が2度、北洋艦隊とともに日本を訪問した際には、伊東が歓迎した。
 2年前の明治26(1893)年にも、伊東は「松島」以下3艦とともに、威海衛を訪問している。
 この時も、丁は心を尽くして日本艦隊を歓迎した。

 伊東と丁の間もうちとけて、まるで兄弟のようになって、写真の交換までしたほどであった。

 伊東も丁も東洋的武士道の体現者であり、しかも日清それぞれの海軍の育ての親でもあった。
 言わば、二人の心中は「海の武士道」によって深く結ばれていたのである。

 伊東はなんとか丁の生命を救いたいと思い、降伏を勧める文書を送った。


    謹んで一書を丁提督閣下に呈す。
    時局の変遷は、不幸にも僕と閣下をして相敵たらしむるに至れり。
    しかれども今世の戦争は、国と国との戦いなり、一人と一人との反目に非ず。
    すなわち僕と閣下との友情は、依然として昔日の温を保てり。
                 [中村彰彦『侍たちの海─小説 伊東祐亨』, p289]


 と、互いの友情を確認した上で、日本が明治維新を通じて近代化に成功したように、
 清国も近代化が必要であることを説き、丁にしばらく日本でその時節を待ってはどうか、
 と勧めたのである。

 その際は、天皇陛下が閣下を厚くもてなすことは僕が誓う、とまで言った。

 各国はこの書を「日本武士道精神の精華として、最も鑽仰(さんぎょう)すべきことであり、
 世界の海軍礼節として、大いに範とすべき快事である」と評した。

 丁汝昌は書信を呼んで、深い感動を覚えたらしく、文書を幾度も読み直してから、
 眼をとじたまま、しばらくは一語も発しなかった。

 そして各艦長を呼んで、この書信の内容を説明し、
 「伊東中将の友誼は感ずるに余りある。しかし、われわれ軍人の胸にあるのは
 尽忠報国の大義のみである。一死をもって臣たる者の道を全うしようではないか」と語った。

 その言葉を聞いた諸将はみな感服し、提督と生死をともにすることを誓い合った。


4.「君国のために、どうぞ一命をなげうって成功して下さい」

 やむなく伊東は、水雷艇による港内への夜襲を決心した。
 2月3日、水雷艇の司令たちを旗艦「松島」に招いて訓示を与えた。


    敵の港内に侵入して攻撃することは、水雷艇が出来て以来、
    世界の戦史に例を見ないことであるから、まさに至難の難事である。
    死を覚悟すべきは無論である。

    貴官らにそれを命ずることは、伊東としては辛いことであるが、
    君国のために、どうぞ一命をなげうって成功して下さい。
         [神川武利『士魂の提督 伊東祐亨─明治海軍の屋台骨を支えた男』,p465]


 伊東の人柄をにじませた丁重な訓示であった。
 司令たちは、顔色ひとつ変えずに答えた。

 「承知いたしました。われわれは黄海の海戦では、ただ指をくわえて眺めていました。
 いま死場所を与えて下さったことをありがたく思います」


5.「三勇士の遺体を手厚く葬るように」

 北洋艦隊は、水雷艇の夜襲に気がつくと、サーチライトで狂ったように海面を照らし、
 機関砲を打ちまくった。水雷艇の一隻は「定遠」に300メートルまで接近し、
 魚雷を発射して旋回しようとした瞬間に、銃弾を機関に浴びて、白い水蒸気が闇の中に上がった。

 「定遠」の兵員は快哉を叫んだが、それと同時に艦底に轟音が轟き、凄まじい震動が伝わった。
 魚雷が命中した箇所から海水が激流となって入り込み、艦体は傾き始めた。

 丁は、艦を付近の浅瀬に乗り上げさせて、乗員を退艦させ、「定遠」は打ち捨てられた。

 翌朝、銃撃された水雷艇が発見された。
 なかには日本兵の死体が三体見つかった。
 いずれも洗濯した下着に、折り目のついた軍服を着て、
 微笑んでいるような満足な死に顔をしていた。

 丁は遺体に対してうやうやしく敬礼し、三勇士の遺体を手厚く葬るように命じた。

 水雷艇の夜襲攻撃で「定遠」を含め4隻が失われ、北洋艦隊は大きな打撃を受けた。

 さらに伊東は全艦隊を威海衛湾口に集結させて艦砲射撃を行い、
 ここに北洋艦隊は戦闘力をほとんど失った。


6.「深く生霊(生き残った兵員)のために感激す」

 2月12日朝、メインマストに白旗を掲げた砲艦「鎮北号」が威海衛から出て、
 「松島」に近づいてきた。

 やってきた軍使は、丁からの「乞降書(降伏を乞う書)」をうやうやしく伊東に捧げた。

 それには「すべての艦船と港内の砲台を献ずるので、兵員の命を助けて欲しい。
 承諾いただけるなら、英国司令長官を証人としたい」とあった。

 伊東はこれを了承し、しかも丁と諸将を捕虜とはせずに、
 清国の適当な地まで送り届けること、丁の名誉に信を措くので
 保証人は不要であることを返書に述べた。

 翌日、再び丁からの使者が来て、
 「深く生霊(生き残った兵員)のために感激す」との返答書を持ってきた。
 使者はこう伝えた。


    提督は昨日私が返書をお届けしますと、
    伊東閣下の仁慈のお心を知って感泣なさいました。

    そしてこの返答書をしたためられるや、「いまは思い残すところなし」とおっしゃり、
    はるか北京の空を拝してから毒杯を呷(あお)って自殺なされたのです。
                 [中村彰彦『侍たちの海─小説 伊東祐亨』, p303]


 伊東は息を呑んだ。いま読み終えたばかりの返答書が丁の遺書だったとは。


7.「国難に殉じたその亡骸が粗悪なジャンクに載せられるとは」

 その日の夕刻から、清国代表との降伏手続きについての協議が深夜12時まで続いた。
 あとは明日午後2時に再開と決まって、葡萄酒で労(ねぎら)ううちに、

 島村速雄参謀が
 「ところで失礼ですが、丁提督の亡骸(なきがら)はどうなされるおつもりか」と訊ねた。

 清国代表はこう答えた。
 「威海衛構内の艦船はすべて貴国のものですから、提督の柩(ひつぎ)を運ぶ船はありません。
 いずれ、ほかの死体と一緒にジャンクかなにかに乗せて、
 芝罘(チーフー、山東半島北部の港湾都市)へ送ることになるでしょう」 

 ジャンクとは平底の木造帆船である。

 翌日2時から再開された協議が大方終わって、一息入れた時、
 それまで細部の詰めを島村に任せていた伊東が、
 やおら上体をテーブルの上に乗り出すようにして、「参謀、通訳せよ」と言った。


    昨夜代表は、丁提督の柩はジャンクででも運ぶといわれた。
    しかし丁提督はまことに忠義の士であって、もしも北洋水師が健在ならば、
    その柩をゆだねられるべきは「定遠」か「鎮遠」でありましょう。

    それがいかに敗軍の将となったためとはいえ、国難に殉じたその亡骸が
    粗悪なジャンクに載せられるとは、智・仁・勇を重んずる大和武士のはしくれとして
    看過いたすには偲びざるものがあります。
          [中村彰彦『侍たちの海─小説 伊東祐亨』,p308]

 話すうちに眼を潤ませ、口ひげを振るわせていた伊東は一気に続けた。

    ここにおいて・・・本官は提案したい。
    わが方は、貴方所有の運送船のうち「康済号」のみは収容せず、貴方に交付します。
    ですからこれに丁提督の御遺体と遺品とを乗せ、なお余裕あらば将士も運ぶことにする、
    と。


 宣戦講和・条約締結は天皇の大権に属し、いかに司令官とはいえ、
 戦利品の一部を勝手に敵国に返還することは許されない。
 伊東は自分に確かめるように言った。


    本官は、おそれながら大御心もかくあらせられると信じております。
    お咎めがありましたら、本官も丁提督のように一死をもってお詫びいたすだけのこと。


 清国代表は肩を震わせて、深く頭を下げた。


8.「伊東よ、もうよい」

 2月17日朝、連合艦隊が威海衛に入港した。
 かつて軍艦22隻、総排水量5万トン強を誇った北洋艦隊は、
 すでに10隻1万5千トンしか残っておらず、それらがすべて連合艦隊に引き渡される。

 その日の夕刻、これら残存艦の間から、大型輸送船が抜け出した。
 丁提督の柩を乗せた「康済号」であった。
 連合艦隊の全将士が舷側に並んで敬礼をする登舷礼式で「康済号」を見送った。

 「松島」後方の主砲が弔砲を撃った。
 ゆっくり前を進む「康済号」にむかって、伊東も荘重な敬礼を送った。

 一夜明けて、清国は休戦会議の開催を申し入れてきた。
 ここに日清戦争はようやく幕を下ろそうとしていた。

 2月27日、伊東は帰朝を命ぜられ、3月3日に広島宇品港に着くと、
 すぐに「広島大本営」に向かった。

 「大本営」とは言っても、粗末な木造2階建てで、
 明治天皇は前線将兵の労苦を偲ばれて、その一室に起居されていた。

 伊東は天皇に対し、戦闘経過を伝える軍令状を淡々と読み上げ、それが終わると、
 自分個人の判断で「康済号」を交付した事に触れた。

 天皇は、よく分かっているというように、「伊東よ、もうよい」と言われた。
 伊東の処置に十分満足されているようだった。

 すでに2月22日付け『東京日日新聞』には、
 伊東と丁の間に交わされた計4通の文書が全文掲載されていた。

 天皇と海軍首脳は、伊東の処置を日本武士道に適ったものとして高く評価し、
 公表に踏み切っていたのである。

 伊東の丁汝昌への礼節はタイムズ紙にも報道され、世界を驚かせた。
(文責:伊勢雅臣)

   (http://archives.mag2.com/0000000699/20161106080000000.html?l=ciu003d3c9 )

          <感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>

Re: 歴史のひとコマ① - fqhzoiodMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:52:04

伝統板・第二
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