伝統板・第二 2979865

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賢者の一日一言(R6年12月)

1:夕刻版 :

2024/12/02 (Mon) 04:57:10

このスレッドでは、過去に紹介した次のスレッドから、
日々の言葉の数々を再度紹介してまいります。

(1)伝統板・第二「リーディング(エドガー・ケイシー)30(R4.12)」
   → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8303489

(2)伝統板・第二「安岡正篤・一日一言」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812217
  
(3)伝統板・第二「松下幸之助 一日一話」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7811995

(4)伝統板・第二「吉田松陰・一日一語」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7733095

(5)伝統板・第二「ひかりの一日一言93~
          病気不孝は斯うして消える・願望を成就するには」
   → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8303377

・・・

賢者の一日一言《1日》

(1)【 12月1日 】 

   人が経験で得てきたものをどのように活用するかということが、
   その人を成長させもすれば、退歩させるものにもなるのです。

   As to the manner in which an individual uses
   that it gains through any experience, makes for the development
   or retardment of an entity.

   (276-3)

・・・

(2)【 12月1日 】 始終訓

   一、人の生涯、何事によらず、もうお終いと思うなかれ。
     未だかって始めらしき始めを持たざるを思うべし。

   一、志業(しぎょう)は、その行きづまりを見せずして、
     一生を終るを真実の心得となす。

   一、成功は、一分の霊感と九分の流汗(りゅうかん)に由る。
     退屈は、死の予告と知るべし。

・・・

(3)【 12月1日 】 自分の最善を尽す

   太閤秀吉という人は、ぞうり取りになれば日本一のぞうり取りになったし、
   炭番になれば最高の能率を上げる炭番になった。

   そして馬回り役になったら、自分の月給をさいてニンジンを買い、
   馬にやったという。

   このため嫁さんが逃げてしまったということだが、そこに秀吉の偉大さがある。
   馬番になったが「オレはこんな仕事はいやだ」などと言わずに、
   日本一の馬番になろうと努力した。


   つまり、いかなる環境にあっても、自分の最善を尽し、
   一日一日を充実させ、それを積み重ねていく。

   それが役に立つ人間であり、
   そのようなことが人を成功に導いていく道だと思うのである。

・・・

(4)【 12月1日 】 節を全うする

   恬静淵黙、身を潔くし節を全うする者あり、
   生を偸みて苟活し時と俛仰する者あり。
   是れ皆真偽の晰かにし難く、疑似の弁へ難き者なり。   

            安政2年12月26日「居易堂集を読む」

   【訳】

   日頃よりおっとりして口数は少ないが、
   自分の身を潔白に保ち節操を守り続ける人がいる。

   無為の人生を送り一時的な安楽を貪り、
   時代の風潮に調子を合わせて生きる人がいる。

   これは全て何が正しくて何がまちがっているかを明らかにすることができない人、
   ホンモノと似ていて紛らわしいニセモノを見抜くことができない人である。

・・・

(5)《1日 神の国と、神そのものの完全さを心に描きなさい》

   そこで常に間断なく祈ると云うことは
   現象での御利益を見詰めて感謝する“より以上に”、
   神そのものの完全さを心に描き、

   神の創造り給うた実相の世界の罪なく、病なき、
   円満完全なる世界のみを心に描いて、それのみを有り難いと
   感謝するようにすれば好いのであります。

   そう云う円満完全な世界と人間のみを心に描いておりましたなら、
   何ら不完全な相(すがた)を心に描くことがないから、
   病気を恐れることもなく、不健康に不平や不安の念を起すこともなく、

   人々に対しても怒りや憎みや不快の念を起すこともなく、
   ただ神に対して「有りがとうございます」と
   感謝の念を絶えず起していることが出来るのであります。

   キリストは不完全な相に心を執われている弟子に対して、
   「我れ汝と何の係りあらんや、我れに従え。」と言っているのであります。

   イエスが「我れ」と云われたのは真理(即ち実相)の体現者として、
   「真理」そのものを指し示されたのであります。

   不幸や病気は迷いの結果でありますが、
   「迷い」と「真理」とは何の関係もない。

   そんなに「迷い」などを見詰めないで、
   唯、「実相」の方ばかり見詰めたら好いのではないか
   と言われたのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P366~367)より

           <感謝合掌 令和6年12月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2024/12/03 (Tue) 04:56:05


(1)【 12月2日 】 

   もし自分の願望を満足させるためであれば、
   病気のままでいたほうがましです。

   もし人々の人生に建設的な影響力を与えるためであれば、
   [治療を]始めることです。

   しかし、そのことを祈ることから始め、
   [治ったあかつきには人のためになることを]約束しなさい。

   そしてあなたの造り主に対するこの約束を守りなさい。

   If it is for the gratification of self, you'd better let it alone.
   If it is to be for constructive influences in the lives of others, begin.
   But begin by praying about it
   and making the promises - then do keep your promises to your Maker.

   (3433-1)

・・・

(2)【 12月2日 】黙養

   明の李二曲(りにきょく)は“黙養”の修行をした。
   べらべら口をきかない、
   ついには「三年軽々しく一語を発せざる」に至るという。

   黙するということは内に力を蓄えることだ。
   かくして発せられた言は人を信服させるに足る。
   自然においては静寂、人においては沈黙がよいものだ。

・・・

(3)【 12月2日 】 忍ぶべきを忍ぶ

   誠心誠意いいものをすすめたけれども用いてくれないというので憤慨し、
   これは相手が暗愚だからしようがないとやけになって、
   結局うちこわしになってしまうということが、ままあるようです。


   しかし、そういうことでは、私は大したことはできないだろうと思います。
   用いてくれなければ時をまとう。

   これだけ説明してもだめだというのは、これは時節がきていないのだ
   --そう考えてじっと忍耐していくところから、無言のうちに知らしめる、
   というような強い大きな誠意が生まれてきます。

   そしてそのうちに、相手がみずから悟ることにもなって、
   それが非常な成功に結びつくことにもなりましょう。

・・・

(4)【 12月2日 】 自ら断ずるに在るのみ

   古語にも「我が志(こころざし)先づ定(さだ)まりて、
   詢謀(じゅんぼう)するに皆同じ。
   鬼神(きしん)其れ倚(よ)り亀筮(きぜい)協(かな)ひ佑(たす)く」と。
   然れば志の定まると定まらぬと、自ら断するみ在るのみ。  
 
            安政2年11月11日「講孟剳記」

   【訳】

   昔の言葉にも、「志をまず決定し、その上で問いを諮ると、結論は皆同じである。
   神様も守ってくだされば、占いの結果も一致し、志を助けてくれる」とある。
   とすれば、志が定まるか定まらないかは、まず自分が決断するか否かにかかっている。

・・・

(5)《2日 人の欠点を心に描かぬようにしなさい》

   真理を生き、実相を生きるには、
   自他の欠点や欠陥の中を少しも覗き込む必要はないのであります。

   吾々は「悪」の存在を《みとめ》、且つそれに対抗して
   心をさわがす必要はないのであります。

   心が騒げばさわぐほど、実相完全の姿とは、
   波長が合わなくなるのであります。

   祈りと云うものは、心の底深く生命(せいめい)の底深く
   宣(の)ることなのでありますから、
   「悪」を心に描いて、それを強く念じていることは、
   恰(あたか)も「悪」を祈り出しているのと同じことなのであります。

   それよりも寧(むし)ろ、吾々がなさなければならないことは、
   「吾れに従え」とイエスの言われたとおりに
   「実相」の方へ吾々の心の注意を振向けることなのであります。

   それは実相世界の凡(あら)ゆるよき事物に対して
   波長を合わせることになりますと同時に、
   常に善きもの明るきものばかりを心に描いているのでありますから、
   常に心が愉快であって、人生に光明が輝き、祈るところの事物が
   一層完全にあらわれて出て来易くなるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P367~368)より

           <感謝合掌 令和6年12月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2024/12/04 (Wed) 05:02:07


(1)【 12月3日 】 

   自己が唯一の罪です。

   つまり、利己主義がそうです
   --そして、その他のすべての罪は、エゴという言葉を
   いろいろ修飾したものに過ぎません。

   Self is the only sin; that is,
   selfishness - and all the others are just a modification of that
   expression of the ego.

   (1362-1)

・・・

(2)【 12月3日 】古賀穀堂の「自警」①

   「屈辱、坎懍(かんらん…志を得ないこと)、
    薄命、数奇(ふしあわせ)、千辛万苦皆天命に任す。

    恬煕(てんき…世が太平無事)、楽易(らくい…安らかにたのし)、
    従容(しょうよう…ゆったりと落ち着いて)自得し、
    分に安んじて固窮(こきゅう…天命に安んじて他を求めぬ)し、

    心広く体胖(ゆた)かに、縲絏(るいせつ…牢屋、辞書より)
    鞭笞(べんち…鞭打つこと、辞書より)も辱と為すに足らず、
    絶食無衣も其の楽、余(あまり)有り(論語、君子固より窮す、
    小人窮すれば斯に濫す)、

    然りと雖も宇宙を包括し、天地を震動するの心未だ嘗って
    頃刻(しばらく)も忘れず」。

・・・

(3)【 12月3日 】 広い視野

   今日では、世界の一隅に起こったことも、
   それが瞬時に全世界に伝わり、さまざまな影響を及ぼす。

   そのような中で、自国の範囲だけ、自分の会社、団体の範囲だけの
   狭い視野で事を考え、行動していたのでは、往々にしてあやまちを〇す
   ことになってしまうと思う。

   *〇:犯

   いま、視野の広さというのは、
   指導者にとって、欠くことのできないものであろう。


   指導者はみずから世界全体、日本全体といったように広い範囲でものを見るよう
   常に心がけつつ、一国の運営、会社や団体の経営を考えなくてはならないし、
   また人びとにそうした広い視野を持つことの大切さを訴えて
   いかなくてはならないと思う。

・・・

(4)【 12月3日 】 確節の修行怠るべからず

   人の父母の存没妻子の有無等にて時々変革あるなり。
   確節(かくせつ)の修行怠るべからず。  

            安政6年正月10日
            「※佐世八十郎・岡部富太郎・入江杉蔵あての書翰」

   【訳】

   人間は、父母の生死や妻子の有無などによって、
   (志や気持ちなどが)その時々に変わるものである。
   だからこそ、志を確実なものとする修行を怠ってはならない。

   ※1 長州藩士 佐世八十郎一誠。後、前原一誠。松陰の高弟。

   ※2 長州藩士 岡部富太郎。松陰の友人来原良三の甥、松下村塾の門人。

   ※3 長州藩士の足軽入江杉蔵。松陰の高弟。野村和作は実弟。

・・・

(5)《3日 人を憎んでいたら懺悔しなさい》

   祈りの助行として必要なのは、
   自分の心を神の世界、実相の世界に波長を合わせる準備行動として
   自分の心を浄めると云うことが必要なのであります。

   喩(たと)えば善が流れ入るために、
   心の水垢(みずあか)がたまっているパイプを
   浄めなければならないのです。

   それは「悪(あく)」の否定的面でありまして、
   今まで心の黒板に描かれていた落書きをきれいに
   《すっきり》と消してしまうようなものであります。

   この否定のはたらきの最も有効なのは懺悔であります。

   喩えば「今迄、人を憎んでいたのは、ああ悪かった」と、
   過去の心を否定してしまうのであります。

   しかし否定が完成しましたならば、
   否定のままで放置してはならないのであります。

   「自然は真空を嫌う」と云う西洋の諺(ことわざ)がありますが、
   真空のままで置けば何かが入って来るのであります。

   或は「悪かった、悪かった」と云う自己悲観的な暗黒想念が
   そのまま停留(ていりゅう)していることがあるかも知れません。

   従って、「ああ悪かった」と云う懺悔の想念が起りましたならば、
   その想念を一回転して光明の想念に転入することが必要なのであります。

   心の中の垢(あか)が否定せられ、そこが空っぽになっていましたならば、
   すみやかに真理が受け入れられる受け入れ態勢が整った
   ところでありますから、実相に対して心を振向けさえするならば、
   必ずや実相円満の姿が流れ入って来てそれが実現するのであります。

   祈りが成就しないのは、結局、実相の円満な流れが、
   現象界に流入する門戸(もんこ)に扉がしまっているからであります。

   その扉が何であるにせよ、
   その扉を外してしまわなければならないのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P368~369)より

           <感謝合掌 令和6年12月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2024/12/05 (Thu) 05:01:36


(1)【 12月4日 】 

   知識や理解とは、あなたがいま手に持っているものを使うことです。

   Knowledge, understanding, is using, then, that thou hast in hand.

   (262-89)

・・・

(2)【 12月4日 】 古賀穀堂の「自警」②

   人生航路に於て辱(はずかしめ)を受けたり、
   運命に恵まれなかったり、因果に支配されても、
   総て天命と受けとめよ。

   食う物、衣る物のない貧乏生活であっても、楽しみをその中に見出せ。
   宇宙を包み、天地を動かす壮志(そうし…勇ましく立派な志)だけは
   暫らくも忘れない。

・・・

(3)【 12月4日 】 事あるたびに

   私は、世の中というものは刻々と変化していき、
   進歩発展していくものだという見方を根本的に持っています。

   何か事あるたびに、この世の中はだんだんよくなっていくと思っているのです。


   あの誤った戦争をして、あれほどの痛手を被ったにもかかわらず、
   今日のように繁栄の姿になっているのは、どういう問題が起ころうとも、
   世の中は一刻一刻進歩発展していくものだということを表わしている
   一例ではないでしょうか。

   あの戦争があってよかったとは決して思いませんが、
   しかしどういう事があった場合でも、お互いのあり方次第で、
   それが進展に結びつく一つの素因になるのではないかと思います。

・・・

(4)【 12月4日 】 道は身の本尊にて 

   道(みち)は身の本尊にて、身の尊き所以は道(みち)にあり。 
  
            安政3年5月29日「講孟剳記」

   【訳】

   人として正しい道は身体の本尊である。
   人が尊い理由は、その身の中に本尊、
   つまり、人として正しい道を自覚しているからである。

・・・

(5)《4日 一切皆善の神の創造世界を心に描きなさい》

   この扉(とびら)を外して神と直接対面するには、
   神は宇宙の創造者であり、ただ善のみの創造者であり、
   如何なる悪も創造し給わないのであって、
   如何なる「善」も神は吾々に与えることを拒み給うものでない
   ことを知ることが第一であります。

   すべての「善」ならざるもの、、「不幸」なるもの、
   「病気」なるものは、如何に存在するが如く見えても、
   存在しないものであることを知り、
   それを無視してしまうことが必要なのであります。

   吾々が現在不幸に直面しているのは、
   現象の出来事に時々心を捉えられて、
   常に実相円満の相(すがた)を心で見つめなかったために、
   善悪混淆(こんこう)の有様が現在あらわれているに
   過ぎないのであります。

   神は決して不幸の状態を創造(つく)り給わなかったのであって、
   既に「我が欲する円満完全な状態」は与えられているのだ
   と云うことを常に心に描くことが大切であります。

   すべての「善ならざるもの」、「悲しみを齎(もたら)すもの」、
   「苦しみを齎すもの」が此の世の中に現れて来るのは、
   自分の心の向け方、心の照準の仕方を過ったに過ぎないのであります。

   そう云う時には次のように祈るのがよいのであります。

   「神よ、あなたの静かなる魂の平和をわれに与えたまいて、
    すべての心の悩みより我を解放したまえ。」

   苦しみのあらわれているとき、悩みのあらわれているとき、
   すべての善ならざるものがあらわれているとき、
   最も必要なのは、その苦しみ、悩み、不善を
   把(つか)まないことであります。

   それらは神の静かなる魂の平和が流れ入って来たならば
   自然に解消してしまうものなのであります。

   しかし神の静かな魂の平和が流れ入るためには、
   すべての「不善」を《あり》として把んでいる心の垢(あか)を
   きれいさっぱり流してしまわなければならぬのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P369~371)より

           <感謝合掌 令和6年12月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2024/12/06 (Fri) 05:01:10


(1)【 12月5日 】 

   社会生活の中では、家庭の調和を理想として堅持せよ。
   なぜなら人生の諸問題は家庭から生じるからである。

   In the social life, hold to the harmonies of home as the ideal.
   For out of these come the issues of life.

   (1205-1)

・・・

(2)【 12月5日 】 人生は心がけと努力

   人間はできるだけ早くから、
   良き師、良き友を持ち、良き書を読み、
   ひそかに自ら省み、自ら修めることである。

   人生は心がけと努力次第である。

・・・

(3)【 12月5日 】 恩を知る

   恩を知るということは、人の心を豊かにする無形の富だと思います。


   猫に小判ということがありますが、
   せっかくの小判も猫にとっては全く価値なきものにすぎません。

   恩を知ることはいわばその逆で鉄をもらってもそれを金ほどに感じる。
   つまり鉄を金にかえるほどのものだと思うのです。
   ですから今度は金にふさわしいものを返そうと考える。

   みんながそう考えれば、
   世の中は物心ともに非常に豊かなものになっていくでしょう。


   もっとも、この恩とか恩返しということは決して要求されたり、
   強制されるものでなく、自由な姿でお互いの間に理解され浸透することが
   望ましいと思います。

・・・

(4)【 12月5日 】 己を成して

   士を得るは最も良策。
   併し士をして吾れに得られしむるの愈れりと為すに如かず。
   己れを成して人自ら降参する様にせねば行けぬなり。
   (中略)人を結ぶも吾れより意ありては遂に長久せず。
   (中略)只だ自力を強くして自ら来る如くすべし。   

            安政5年6月28日「※久坂玄瑞あての書翰」

   【訳】

   心ある立派な武士を同志として得るのは最善の策である。
   しかし、そのような武士に、お前(高弟久坂玄瑞)のところに
   自らやってこようと感じさせる方が、より勝っている。

   自分を鍛えて立派な人物とし、
   人が自分から寄って来るようにしなければいけない。

   (中略)

   人と同志になるとしてもお前の意志からでは長続きしない。

   (中略)

   ただ、我が身の人間としての魅力を鍛え上げ、
   相手が自分から来るようにすべきである。

   ※1 長州藩医の子 久坂玄瑞。松陰が高杉晋作と共に最も期待した高弟の一人。
      吉田松陰の妹文が嫁いだ。

・・・

(5)《5日 祈りは何時、何処でもできるが、一定時の祈りは大切①》

   神は常に、すべての時に、すべての処に存在したまうのであるから、
   何時(いつ)、何処(どこ)で一定の時間に、一定の方式で
   祈らなければならないと云うことはないのであります。

   しかしこれは一般理想論でありまして、
   そのような理想論的心境になれた人なら問題はないのでありますが、
   そのような境地にはなかなかなれないのでありまして、

   孔子でさえも、年(とし)70歳を越えてはじめて
   「心の欲する処に随って距(のり)をこえず」と
   言っているのであります。

   だから、一般の人には一定の場所で、一定の時間に、一定の形式で
   神想観する必要はないなどというのは間違いなのであります。

   一定の時間を定(さだ)めて、祈り又は神想観なさることにしていますと、
   定(さだ)まらない時間に突然の用事や訪問によって妨げを受けることなく、
   他(ほか)の忙がしい時間にイライラすることなく、

   日常生活が神の智慧に導かれて、
   何事もスラスラと運ぶようになるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P371~372)より

           <感謝合掌 令和6年12月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/12/07 (Sat) 05:01:32


(1)【 12月6日 】 

   自分ではなく、主を信頼することだ
   ――そして他の人々を恐れるな、彼らがどんなことをしようと恐れるな!

   Trust in Him, not in self
   - and don't be afraid of the other fellow, or what they'll do!

   (5475-7)

・・・

(2)【 12月6日 】 自修自立

   理想精神を養い、信ずるところに従って生きようとしても、
   なかなか人は理解してくれないし、いわゆる下流だの凡庸だの
   という連中は往々にして反感を持ったり、軽蔑したりする。


   そういう環境の抵抗に対して、人間が出来ていないと、
   情けないほど自主性、自立性がなくって、外の力に支配される。


   けれども本当に学び、自ら修めれば、
   そうして自らに反(かえ)って、立つところ、養うところがあると、
   初めてそれを克服していくことができる。

・・・

(3)【 12月6日 】 適正な給与

   だれしも給与は多い方がよいと考えます。
   その考え方自体は決して悪いとは思いません。

   しかし、会社がかりに多くの給与を出したいと念願しても、
   会社の一存によって実現できるかというと必ずしもそうはいかないと思います。

   やはり、それだけの社会の公平な承認が得られて、
   はじめてそれが許され、恒久性を持つわけです。


   給与が適切であるか否かは、会社にも従業員にも、
   その安定と繁栄にかかわる重大な問題であり、
   同時に社会の繁栄の基礎ともなるものです。

   お互いに十分な配慮のもとに、絶えざる創意と工夫を加えて、
   その適正化をはかっていかなければならないと考えます。

・・・

(4)【 12月6日 】 僕は忠義をする積り

   僕(ぼく)は忠義をする積り、諸友は功業(こうぎょう)をなす積り。   

          安政6年正月11日「某あての書翰」

   【訳】

   僕は主君や国家に対し、まごころをもって仕えるつもりである。
   君たちは、手柄を立てようとしているだけである。

・・・

(5)《6日 祈りは何時、何処でもできるが、一定時の祈りは大切②》

   法然上人も一日念仏六万遍と言われまして、
   常住「仏(ほとけ)」を念ずる生活を推奨されましたが、
   「別時の念仏」と云って、特別に定めたる時間に
   一定の作法をもって仏を念ずることを推奨されたのであります。

   われ「神の子」なることを自覚して、
   常に緊密に神との一体感に入っておられるイエス・キリストでさえも、
   或る時間にはすべての現象界の喧噪を避けて、
   神との一体感に唯(ただ)耽(ふ)けることにせられたのであります。

   況(いわ)んや吾々普通人は、70歳の孔子や、法然上人や、
   イエス・キリストのように常住「神の子」の自覚を持続することが
   難かしいのでありますから、一定時に神想観の習慣をつけることは
   是非とも必要なのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P372)より

           <感謝合掌 令和6年12月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/12/08 (Sun) 05:00:22


(1)【 12月7日 】 

   仕事場で、家庭で、道ばたで、他人との関係において
   --同胞に出会うあらゆるところで--父の御心を行いなさい。

   But do ye the will of the Father in thy relationships to others,
   in the office, in the home, in the street,
    - wherever ye meet thy fellow man.

   (262-121)

・・・

(2)【 12月7日 】 人間の根本問題 ①

   「君子入るとして自得せざるなし」
    ―― 自得ということは自ら得る、自分で自分をつかむということだ。
   人間は自得から出発しなければならない。

   金が欲しいとか、地位が欲しいとか、そういうのはおよそ枝葉末節だ。
   根本的・本質的にいえば、人間はまず自己を得なければいけない。
   本当の自分というものをつかまなければならない。

・・・

(3)【 12月7日 】 抜擢人事には介添えを

   先輩が多くいるにもかかわらず、その後輩の若い人を抜擢して
   上のポストにつけるという場合があります。

   そういう場合には、単に辞令を渡して“今度A君が課長になった”と
   発表するだけでは具合が悪いと思います。

   そんな場合には社長が、その課の一番古い先輩に、課員を代表して
   「われわれは課長の命に従い頑張ります」というような宣誓をさせるなり
   なんなりして、はっきりけじめをつけさせることが必要です。

   それをしないでいると、変なわだかまりがくすぶり、
   課全体が困ることにもなります。


   抜擢人事には、そのように、社長が適切な介添えをすることが、
   非常に大事だと私は思います。

・・・

(4)【 12月7日 】 涓埃、国を益することあらば

   国家まさに多事、吾が生るるや辰(とき)ならざるに非ず。
   涓埃(けんあい)、国を益することあらば、敢へて身後の賓(ひん)を望まんや。   

          安政元年冬「幽囚録」

   【訳】

   今、まさに国家多難の時である。
   よくぞ男児としてこの好機に生まれたものである。
   (私ごときが)わずかでも国家のためになることが
   できるのであれば大満足である。

   どうして、死後の名誉などを望もうか。
   望みはしない。

・・・

(5)《7日 神想観又は祈りは、
    単なる要求や懇願の時間ではなく
    神様と父子対面、愛情交換の時間です》

   大体、神想観の時間、又は祈りの時間を、
   自分の要求を訴えるための時間だなどと
   利己主義のことを考えてはならないのであります。

   それは神様と相対面するための《とって置き》の時間だと
   考えなければならないのであります。

   吾々は神様から生命(いのち)をいただいた。
   神様は吾々の親様なのであります。

   親様に対面するのに常に乞食のように、放蕩息子のように、
   親様から無心を云うことばかり考えていてはならないのであります。

   それよりも寧(むし)ろ、
   「お父さま、貴方の御心は如何ですか。
    何か私に出来ますことで貴方をお喜ばせ申すことが
    出来ますならば、お教え下さい」と祈るべきであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P372~373)より

           <感謝合掌 令和6年12月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/12/09 (Mon) 05:03:07

(1)【 12月8日 】 

   疑いや不安を引き起こすものは、
   他の人を助けようとする熱意の内に溶かし込んでしまいなさい。


   Let that which causes doubt or fear be taken up
   in the willingness, the desire, to be of help to others.

   (69-4)

・・・

(2)【 12月8日 】 人間の根本問題 ②

   ところが人間いろんなものを失うが、
   何が一番失いやすいかというと自己である。

   人は根本において自分をつかんでいない。
   空虚である。
   そこからあらゆる間違いが起こる。
 

   人間はまず根本的に自ら自己を徹見する、
   把握する。
   これがあらゆる哲学、宗教、道徳の根本問題である。

・・・

(3)【 12月8日 】 上位者に訴える

   自分が最善を尽してもなお、
   これがいい方策だという確信が生まれない場合は、
   ただちに上位者に訴える必要があります。


   もちろん、それぞれの人が会社の基本方針にのっとりつつ、
   責任をもって自主的に仕事を進めていくという姿はきわめて好ましいと思います。

   けれどもうまくいかない非常に困難な場合、自分だけで悩み、上位者に訴えない。
   上位者はうまくいっていると思って安心している。

   どうしてもいけなくなって、
   訴えたときにはすでに手遅れだということが往々にしてあります。


   具合の悪いときは瞬時も早く上位者に報告して指示を仰ぐ、
   それがほんとうの責任経営だと思うのです。

・・・

(4)【 12月8日 】 御勤政と御講学

   君徳(くんとく)の儀、
   恐れながら御勤政(ごきんせい)と御講学(ごこうがく)の
   二つに之れある儀と存じ奉り候。  
 
          安政5年7月10日「急務四条」

   【訳】

   君主としての立派な徳を身に付けられる方法は、
   政務と学問にお励みになることの二つであると考えます。

・・・

(5)《8日 「物質」にのみ執着している者は放蕩息子①》

   吾々は神から離れたとき放蕩息子になるのであります。

   時々、神を思い出して物質的な物乞いをするのは
   放蕩息子の特徴であります。

   神は霊でありますから、霊をもって相(あい)対すべきであります。

   それなのに「物質」を実在と観て、それに執着するのは
   土の塵(物質)の土に執して歩む蛇の智慧であり、
   蛇に教えられて五官の智慧の樹の実を食べた
   「アダムの智慧」であります。

   この放蕩息子たる人間は遥々(はるばる)遠く父(神)の家を
   離れていたことに気がつき、「いざや、是(これ)より父の家に還らん」と
   起ち上って「郷に還る」ためには、道元禅師の言われたように
   「空手にして郷に還る」ことが必要なのであります。

   今迄握っていたものをみんな放してしまわなければならないのであります。

   これは中々むつかしい事なのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P373~374)より

           <感謝合掌 令和6年12月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/12/10 (Tue) 04:38:15


(1)【 12月9日 】 

   汝は神の配慮の内にあり、神は汝に為すべき仕事を与えて下さる。

   God is mindful of thee and has work for thee to do.

   (1449-2)

・・・

(2)【 12月9日 】 貴 老

   人間は生ける限り、常にぼけないで、
   なるべく有意義なことに興味を持ち、道理を尋ね、
   情熱を抱き続けることが肝腎である。
 

   不老長生とは徒(いたずら)に年を取ることではない。
   いつまでも生きる限り、ぼけないで、人生に興味を持ち、
   情熱を抱き続けて勉強することである。
 

   老人に対して貴老と呼ぶ。好い語である。
   老人はいつまでも愚老になってはいけない。
   文字通り貴老でなければならぬのである。

・・・

(3)【 12月9日 】 世界に誇れる国民性

   同じ日本人でも細かくみれば、
   考え方や性格など実にいろいろな人がいるわけですが、
   しかしまた一面には、日本人には日本人としての共通の特性というか、
   日本人独特の民族性、国民性というものがやはりあるように思います。

   日本独特の気候や風土の中で長い間過ごしているうちに、
   たとえば日本人特有の繊細な情感というようなものが、
   しだいに養われてきたと言えるでしょう。


   日本人の国民性のなかにも、反省すべき点は少なくありませんが、
   とくに勤勉さとか、器用さとか、恵まれた気候風土と長い歴史伝統によって
   養われてきたこういう特性には、
   世界にも大いに誇り得るものがあるように思うのです。

・・・

(4)【 12月9日 】 時事を見てたまらぬから

   古(いにしえ)より忠臣義士誰(た)れが益の有無、
   功(こう)の有無を謀(はか)りて後(のち)忠義したか。
   時事を見てたまらぬから前後を顧みず忠義をするではなきか。  

          安政6年3月16日以後「※入江杉蔵あての書翰」

   【訳】

   昔から、忠義の武士や節義を堅く守る武士のうち、
   誰が自分の利益になるか否か、
   手柄となるか否かを考えて忠義しただろうか。してはいない。

   その時の時勢をみて、たまらないから、後先も考えずに忠義をするではないか。

    ※長州藩の足軽 入江杉蔵。松陰の高弟。野村和作は実弟。

・・・

(5)《9日 「物質」にのみ執着している者は放蕩息子②》

   「五官の心」は言う。
   (これを聖書は「サタン」と云う名称で書いています)

   「ひれ伏して吾れを拝せば、此の世の栄華の全てを与えん」と。

   これは実に巧みなるサタンのまどわしなのであります。

   イエスは厳然と是に対して「サタンよ、去れ」と
   言っているのであります。

   「五官の心」に支配されている間は、
   人間はこのサタンの言葉を信じてサタンに
   跪(ひざまずい)ている状態に過ぎないのであります。

   彼は自分の心の中に
   「物質」の塊(かたまり)ばかりを描いております。

   彼は、「霊(れい)」をもって「霊(れい)」に対せずして、
   五官の心をもって「物質」に対しているのみであります。

   その「心」の振り向くところは「神(かみ)」ではなくて、
   「物質」なのであります。

   時々、彼も「神(かみ)」の名を呼ぶかも知れませんけれども、
   それは「物質」を得んがための手段であって、
   銀30両を得んがためにイエスを売ったユダと大同小異なのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P374~375)より

           <感謝合掌 令和6年12月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/12/11 (Wed) 05:01:40

賢者の一日一言《10日》

(1)【 12月10日 】 

   生ける神に仕えた人で、日常の必需品に困窮した人は誰もいない。

   Never has he that served the living God WANTED for the necessities of life.

   (348-14)

・・・

(2)【 12月10日 】 終りを全うする

   宇宙が永遠であるように、人生も永遠でなければならん。
 

   永遠であるということは、その途中を受け継いでゆく人が
   よく終りを全うしてゆくということであります。
 
   終りを全うしなければ、次の者は始めることができません。
 
   従って終りを全うするということは、
   どこまでも続けてゆくということであり、
   よく永遠であるということに外ならない。

・・・

(3)【 12月10日 】 限度を越えない

   社会には、いわゆる常識というものがあります。
   そしてその常識に従って、ある一定の限度というものがあるはずで、
   たとえば、お金を貯めることも結構なら使うのも結構ですが、
   その限度を超えて吝嗇であったり、また金使いが荒く、借金だらけである
   ということでは、世間が承知しません。

   やはり、収入の範囲において、ある程度使うということが許されるわけで、
   これを越すと信用問題が起こってくることになります。


   何をするにも、その限度を越えないように、お互いに十分注意し合い、
   行き過ぎたことは遠慮なく忠言し合って、おのおの責任感を持って
   やっていくことが望ましいと思うのです。

・・・

(4)【 12月10日 】 至楽欺の中に在る 

   黄巻(こうかん)時々(ときどき)披(ひら)き且つ読めば、
   自ら忻(よろこ)ぶ至楽(しらく)欺(こ)の中に在るを。  

          弘化3年2月27日「早春、分ちて韻微(いんび)を得」

   【訳】

   書物を時々開き、そして、読めば、
   自ら書中に無上の楽しみがあることが嬉しい。

・・・

(5)《10日 「物質」にのみ執着している者は放蕩息子③》

   吾々が銀30両即ち「物質」を得んがために
   「神を売物にしたり、看板にしたりしてはならないのであります」

   だから吾々の本部道場や教化部道場には、他(ほか)の宗教の如くには、
   祭壇を設けて奉賽(ほうさい)金を神に献納さすような装置をして、
   あとから自分がその奉さい金を使うと云うような事はしていないのであります。

   祭壇のかわりに演壇があってその正面に「実相」の軸が
   掲げてあるばかりで賽銭箱などは置いてない。

   感謝箱は置いてあるところもあるが、教えを受けて、
   教化の人件費や道場の拡張修繕費なども要るであろうから、
   感謝金位おいて帰らないでは、二度と来にくいと
   云うような人のために置いてあるのであって、

   神様を《だし》に使って神様にあげる顔をしていて、
   自分が使うのではないのであります。

   すべて公明正大にできているのが生長の家であります。

   兎も角、「神様」に心を振り向けているつもりで、
   実は「物質」に心を振向けながら、それを「神信心」だ
   と誤解している人はずいぶん多いのであります。

   吾々に恐怖心が起ってきたり、取越苦労が起って来るのは、
   「神様」に心を集注していない証拠であります。

   神様に心を本当に集注し得ましたならば、
   物質の増減や、肉体の老病死などに心配や不安や取越苦労などは
   起らない筈であります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P375~376)より

           <感謝合掌 令和6年12月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/12/12 (Thu) 05:01:08

(1)【 12月11日 】 

   忍耐を失ってはなりません。

   主を愛し、主の戒めを守る者に対して、
   主は遅からざることを覚えておきなさい。

   Be not impatient,

   but know that He will not tarry - to those who love
   Him and keep His biddings.

   (262-51)

・・・

(2)【 12月11日 】 素心規

   一、禍が福か、福が禍か、人間の私心でわかるものではない。
     長い目で見て、正義を守り、陰徳を積もう。

   二、窮困に処するほど快活にしよう。
     窮すれば通ずる、又通ぜしめるのが、自然と人生の真理であり教である。

   三、乱世ほど余裕が大切である。余裕は心を養うより生ずる。
     風雅も却ってこの処に存する。

   四、世俗の交は心を傷めることが少くない。
     良き師友を得て、素心の交を心がけよう。

   五、世事に忙しい間にも、寸暇を偸んで、書を読み道を学び、心胸を開拓しよう。

   六、租国と同胞の為に相共に感激を以て微力を尽そう。


   *素心…利害や意見や年齢や地位身分など、
       そういう様々な世間の着色に染まぬ
       生地のままの純真な心を素心という。

・・・

(3)【 12月11日 】 持ち味を生かす

   家康は日本の歴史上最もすぐれた指導者の一人であり、
   その考え方なり、業績に学ぶべきものは多々ある。

   しかしだからと言って他の人が
   家康の通りにやったらうまくいくかというとそうではない。
   むしろ失敗する場合が多いと思う。

   と言うのは、家康のやり方は家康という人にして
   はじめて成功するのであって、
   家康とはいろいろな意味で持ち味の違う別の人がやっても、
   それはうまくいかないものである。


   人にはみなそれぞれに違った持ち味がある。
   一人として全く同じということはない。

   だから偉人のやり方をそのまま真似るというのでなく、
   それにヒントを得て自分の持ち味に合わせたあり方を
   生み出さねばならないと思う。

・・・

(4)【 12月11日 】 妄りに其の頑質を矯めば

   ※暢夫(ちょうふ)後(のち)必ず成るあり。
   今妄(みだ)りに其の頑質(がんしつ)を矯(た)めば、人と成らざらん。  
 
            安政6年2月25日「高杉晋作あての書翰」

   【訳】

   高杉晋作は将来必ずや立派な人物となる男子である。
   今、むやみにその頑固な性格を矯正しては、立派な男子にはなれない。

   ※長州藩士高杉晋作。暢夫は字。
    松陰が久坂玄瑞と共に最も期待した高弟の一人。

・・・

(5)《11日 病気を治そうと祈るよりも、心が神に一致するように祈りなさい①》

   吾々が病気を治そうと思って病気に精神を集注するのは、
   神を信じているのではなく、病気を信じているのであります。

   不幸から逃(のが)れようと思って、不幸に対して心を集注するのは、
   神を信ずるのではなくて、不幸を信じているのであります。

   すべて形は心が原因であり、形あるものは心の結果でありますから、
   結果を一応処理するのは応急的に必要でもありますが、

   原因を修正して置かなければ、雑草を刈り除っても、
   再び雑草の種子’たね)を蒔いて置くようなもので、
   結果は繰り返し現れて来るのであります。

   そこで吾々は神に対して「形」の不幸を除いて下さいと祈ることは、
   根源を除かないことになりますから無駄なことであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P376)より

           <感謝合掌 令和6年12月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/12/13 (Fri) 04:52:57


(1)【 12月12日 】 

   毎日、毎時を、そして、どのような人に対しても、
   いつかその日の行為を振り返った時に、
   それを恥じることなくあなたの造り主に示すことができるような
   生き方をしなさい。

   Rather, live each day, each hour, each association,
   in such a way and manner
   that thou canst EVER look upon the activities of that day
   and feel not ashamed to present them to thy Maker!

   (531-3)

・・・

(2)【 12月12日 】 憂いが人物をつくる

   人間は憂えなければ人物が出来ない。
   何の心配もなく平々凡々幸福に暮らしたのでは、
   優という文字の真義からくる”優秀”とはいい難い。

   憂患を体験し、悩み抜いてきて初めて、人物も余裕も出来てくる。

・・・

(3)【 12月12日 】 呼びかける

   自分が商売をしていて“これは良い品物だ。
   使えばほんとうに便利だ”というものをみつけたら
   確固とした信念を持って、お客さんに力強く呼びかけ、
   訴えるということが大事です。

   そういう呼びかけをするならば、
   お客さんもおのずとその熱意にほだされ、
   一度使ってみようかということになる。

   その結果、非常に喜ばれ、
   “なかなか熱心だ”ということで信頼が集まり、
   自然商売も繁昌していくことになります。


   要はそういう呼びかけを喜びの気持を持って行なうこと、
   そこにこそお客さんにも喜ばれ、世のため人のためになる
   真の商売を成功させる一つの大きなカギがあるのではないでしょうか。

・・・

(4)【 12月12日 】 是れが気魄の源なり

   平時喋々たるは、事に臨んで必ず唖(あ)。
   平時炎々(えんえん)たるは事に臨んで必ず滅す。
   (中略)
   平時は大抵用事の外(ほか)一言(いちげん)せず、
   一言する時は必ず温然和気婦人好女(こうじょ)の如し。
   是(こ)れが気魄(きはく)の源(みなおもと)なり。
   慎言(しんげん)謹行(きんこう)卑言(ひげん)低声(ていせい)に
   なくては大気魄(だいきはく)は出るものに非ず。   

            安政6年2月下旬「諸友あての書翰」

   【訳】

   日ごろぺらぺらとしゃべっている男は、
   いざという段になると尻込みして、黙ってしまう。
   日ごろ勢いのいい男は、いざという段になると、
   その勢いが消えてしまう。
   (中略)
   日ごろは、だいたい用事がある時以外は、しゃべらない。

   しゃべる時には必ず、穏やかに、和やかに、
   まるで婦人やよき女性のようにする。
   これが気魄の根源である。

   言葉を慎み、行いを慎み、へりくだった言葉、小さな声でなければ、
   大きな気魄というものはでるものではない。

・・・

(5)《12日 病気を治そうと祈るよりも、心が神に一致するように祈りなさい②》

   若し吾々に病気や不幸があらわれてまいりましたならば、
   「病気や不幸を除いて下さい」とお祈りしないで

   「病気や不幸のもとの心を知らせて下さい。
    そしてその心が自然になくなりますように」

   と祈るべきであります。

   そうすると、自分の心の間違いがわかって来、
   再びそんな心を起さなくなるような決心が出来るのであります。

   吾々の運命と云うものは、現在意識に選択の自由が許されていて、
   自分の現在意識が潜在意識に注(つ)ぎ込んだものが、
   潜在意識の創化作用によって現実化することになっているのでありますから、

   若(も)し吾々の現在意識が心の振向ける焦点を、
   「不幸」や「病気」の方へ振向けず、
   本来の実相(神の子たる権利)の方へ振り向けさえするならば、

   本来神の子である実相の完全なる有様(ありさま)は、
   自然に吾々の現在意識と共感し、共鳴し、
   その完全な実相を顕わして来ることになるのであります。

   吾々の現在意識は「自分」と云う船の船長として、
   自分の注目するところの方向へ自分の運命の航路を
   舵(かじ)とって行くのでありますから、

   吾々は「不幸」や、「病気」に注目してはならないのであり、
   人間本来の生得(しょうとく)の権利である
   「神の子円満完全」の姿にのみ精神を集注して、
   それを悦び感謝して行けば好いのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P377)より

           <感謝合掌 令和6年12月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/12/14 (Sat) 05:00:11


(1)【 12月13日 】 

   若々しくありたいなら、愛に溢れていなさい。

   Keep loving, if ye would keep young.

   (3420-1)

・・・

(2)【 12月13日 】 東洋的虚無感

   小人の常として、財産・地位・名誉など何かしら有する所があると、
   自分自身が偉いような錯覚に陥る。
   しかし本質的には何ものをも加えてはいない。

   心あらばむしろ省みて自己の本質的な欠陥を覚る。
   この心を徹すれば、東洋的虚無感に通ずる。

・・・

(3)【 12月13日 】 命をかける

   「人多くして人なし」という言葉を、昔ある先輩から聞いたことがある。
   考えてみると、会社経営においても普通の状態では、間に合う人は大勢いる。

   ところがさて、大事に臨んで間に合う人はというと、きわめて少ないものである。


   では、どういう人が大事のとき役に立つか。
   その道の知識とか経験が大きな比重を持つことは当然だが、
   ただそれだけではダメのように思う。

   その上に何が必要かというと、「生命を賭す」気構えである。
   と言っても今日ではほんとうに命を捨てるということはきわめて少ないが、
   いざというときには「命をかけて」という気構えを、
   いつの場合でも持っている人が、ほんとうに大事に役立つ人だと思うのである。

・・・

(4)【 12月13日 】 吾が志一たび定まりて 

   吾が志(こころざし)一たび定(さだ)まりて、沈まず漂(ただよ)はざれば、
   其れ必ず来(きた)り助くる者あらん。
   而(しか)るを況(いわん)や吾れ往きて之れを求むる、
   其れ寧(いずく)んぞ応ぜざる者あらんや。
   人(ひと)帰(き)して天(てん)与(くみ)す、
   百人固(もと)より以て千万人を得べし、而(すなわ)ち何ぞ難(かた)からん。  
             安政5年7月11日以後「※杉蔵を送る序」

   【訳】

   自分の志が一旦決まって、やる気がなくなったり、迷ったりしなければ、
   必ず助けてくれるものが出てくる。
   そうでなくても、自分からそのような同志を求めているのである。

   どうして、志に感じて応じてくれないものがあろうか。ありはしない。
   人が同志となり、更に、天さえも仲間となってくれる。

   百人どころか、千人、万人の同志を得ることさえ可能となる。
   どうして、難しいことがあろうか。ありはしない。

    ※長州藩の足軽 入江杉蔵。松陰の高弟。野村和作は実弟。

・・・

(5)《13日 自己内在の神性を喚び出しなさい①》

   人間の潜在意識の中には善悪混淆(こんこう)して
   色々の観念が宿っておりますけれども、
   その奥にある超越意識(Super Consciousness)の中には
   唯(ただ)「神性」「仏性」が宿っているのみであります。

   この「神性」「仏性」を呼び出して来るのは
   人間現在意識の権利であります。

   吾々は自分の現在意識のなかに「神性」「仏性」を
   浸透せしめてくることが必要なのです。


   吾々の現在意識を完全に超越意識に浸透せしめるためには、
   常に「神性」「仏性」を心に描いて、
   それに精神を集注しなければなりません。

   1日のうち30分間だけ神想観して
   あとの23時間半はその反対の「不幸」や「病気」を思い出し、
   神想観中には円満完全なる実相世界を念じながら、
   日常の会話の中ではその反対の事を喋っていて、

   その言葉の力で、潜在意識内に「病気」や「不幸」を
   蓄積しているならば、「念ずることが《あらわれる》」と云う
   心の法則に従って、やはり「病気」や「不幸」が
   あらわれて来ることになるのであります。

   旧約聖書に
   「汝ら我が前に他(た)の如何なる神をも有(も)つべからず」と
   エホバ神(かみ)が宣言せられたと書いてありますが、
   これはエホバと云う固有名詞の神のみを有(も)つなかれと
   云う意味ではないのであって、

   唯一神(しん)以外に
   如何なる権威者も存在しないのだと云うことであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P378~379)より

           <感謝合掌 令和6年12月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/12/15 (Sun) 04:54:06


(1)【 12月14日 】 

あなたの人生を、他の人々への光のようにしなさい。

Let thy life, tho, be as a light to others.

(835-1)

・・・

(2)【 12月14日 】 六 然

自處超然(ちょうぜん)(自ら処すること超然)

 自分自身に関してはいっこう物に囚われないようにする。


處人藹然(あいぜん)(人に処すること藹然)

 人に接して相手を楽しませ心地良くさせる。


有事斬然(ざんぜん)(有事には斬然)

 事があるときはぐずぐずしないで活発にやる。


無事澄然(ちょうぜん)(無事には澄然)

 事なきときは水のように澄んだ気でおる。


得意澹然(たんぜん)(得意には澹然)

 得意なときは淡々とあっさりしておる。


失意泰然(たいぜん)(失意には泰然)

 失意のときは泰然自若(じじゃく)としておる。
 

私はこの”六然”を知って以来、
少しでもそうした境地に心身を置きたいものと考えて、
それとなく忘れぬように心がけてきたが、
実に良い言葉で、まことに平明、しかも我々の日常生活に即して活きている。

・・・

(3)【 12月14日 】 人生の妙味

雨が降ったり雷が鳴ったりという自然現象は
ある程度の予測はできるものの、正確にはつかみえない。


われわれの人生の姿も、この自然現象とよく似たものではないだろうか。
そこには、天災地変に匹敵する、予期できない多くの障害がある。

われわれはそれらの障害の中にありながら、
常に、自分の道をもとめ、仕事を進めてゆかねばならない。

そこに“一寸先は闇”とよく言われる人生のむずかしさがあるのであるが、
そういう障害を乗りこえ、道を切り拓いてゆくところに、
た人生の妙味があるのだとも思う。

予期できるものであれば、味わいも半減してしまうであろう。

・・・

(4)【 12月14日 】 雪中の松柏愈々青々たり① 

天の将(まさ)に大任を是の人に降(くだ)さんとするや、
必ず先づ其の心志(しんし)を苦しめ、其の筋骨を労(ろう)せしめ、
其の体膚(たいふ)を餓えしめ、其の身を空乏(くうぼう)にし、
行其の為す所に払乱(ふつらん)す。
心を動かし性(せい)を忍び、
其の能くせざる所を曾益(そうえき)せしむる所以(ゆえん)なり。 
 (孟子本文)

余野山獄に在る時、友人※土屋松如(しょうにょ)、
居易堂集<明の遺臣俟斎徐枋の著>を貸し示す。
其の中に「潘生次耕(はんせいじこう)に与ふる書」あり。
才を生じ才を成すと云ふことを論ず。
大意(たいい)謂(おも)へらく、天の才を生ずる多けれども、才をなすこと難し。
譬(たと)へば春夏の草木花葉(そうもつかしょう)鬱蒼(うっそう)たるが如き、
是れ才を生ずるなり。
然(しか)れども桃李の如きは、
秋冬(しゅうとう)の霜雪(そうせつ)に逢ひて
皆零落(れいらく)凋傷(ちょうしょう)す。
独(ひと)り松柏(しょうはく)は然(しか)らず、
雪中の松柏愈々(いよいよ)青々(せいせい)たり。是れ才を成すなり。

【訳】

天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、
其の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏にし、行其の為す所に払乱す。

心を動かし性を忍び、其の能くせざる所を曾益せしむる所以なり

(天が重要な任務をある人に与えようとする時には、必ずまずその人の心や志を苦しめ、
その体を疲れさせ、その肉体を餓え苦しませ、その衣食を乏しくして困らせ、また、
こうしようという意図とは違うようにするものである。
これは、天がその人の心を発憤させ、性格を辛抱強くして、
これまでできなかったこともできるようにしようとするための試練である) 

(孟子本文)


私が野山獄にいる時、友人である土屋松如が、
『居易堂集』<明の遺臣俟斎徐枋の著>を貸してくれた。
その中に、「潘生次耕に与ふる書」というものがあった。

それには、才能を生じ、才能をなすということが論じられていた。
その大体の意味は、次のようであった。

天が才能を人に与えることは多いが、
その才能を自分のものとして、完成させることは難しい。

才能を与えるとは、
例えていえば、春や夏に草木の花や葉が青々と盛んに茂るようなもので、
これが桃や李などは、秋や冬の霜や雪にあえば、みな枯れ落ちてしまう。

ただ、松や柏だけはそうでなく、雪の中でも益々青々とそのみどりを保っている。
これが才能を完成させるということである。

※長州藩士佐世氏の家来、土屋矢之助蕭海。松如は字。松陰の友人、同志。
 生涯松陰を助けた。

・・・

(5)《14日 自己内在の神性を喚び出しなさい②》

吾々が神想観をして、唯一神(しん)とのみの対面を志しているとき、
叢雲(むらくも)の如くその存在を主張して浮び上って来る
ところの雑念はすべて、唯一神以外に「吾れ《あり》」と呼号する
雑神(ざつしん)のようなものです。

吾々はそれを《あり》として
心をそれに捉えられしめてはならないのであります。

イエスが汝ら祈るとき、
「汝の内なる室(へや)に入れ、
 而して汝の扉(とびら)を閉(と)ざして汝の父に祈れ」と
云っているのは、

在来「密室の祈り」と云われていたのであって、
形の部屋の中にとじこもる事だと思われていたのでありますが、
実はそうではないのであります。

「汝の内なる室(へや)に入(い)る」とは
「汝の内部実相に深く精神を集注する」ことであり

「汝の扉を閉ざして」とは、他(た)の神ならざる者の入らないように、
自分の心の扉を閉めてしまうことであります。

内部実相には、ただ「善」のほか何物もないのに、
祈りの最中に、色々「病気」や「不幸」を考えるのは可(い)けません。

そのような「病気」や「不幸」を考える想念を、
心の扉を閉ざして拒絶してしまって、ただ、只管(ひたすら)、
神のみ、善のみを、心の内室(ないしつ)に思い浮べるが好いのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第25章(P379~380)より

           <感謝合掌 令和6年12月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/12/16 (Mon) 05:00:44


(1)【 12月15日 】 

汝の同胞に為すことは、
それは汝の神、汝自身に為すことに等しい。

As ye do it unto thy fellow man,
ye do it unto thy God, to thyself.

(294-185)

・・・

(2)【 12月15日 】 身心摂養法 ①

身心摂養法の第一着手は心を養うことです。
心を養うには「無欲」が一番善いと古人が教えて居ります。

これを誤って我われが何にも欲しないことと
寒巖枯木的に解しては、とんでもないことです。

それならば死んでしまうのが一番手っ取早い。
《ぼけて》しまうのも好いことになる、
そういうことを無心とか無欲とかと云うのではない。

それは我われの精神が向上の一路を精進する純一無雑の状態を言うので、
平たく言えばつまらぬことに気を散らさぬことです。

・・・

(3)【 12月15日 】 正しい競争を

私どもが会社を経営していくときに、同業会社と非常な競争になります。
競争はしなければならない。
しかしそれは正しい形においてなさなければなりません。

卑怯な競争はしてはならない、まして相手を倒すとか、
相手に損害を加えるというような競争の仕方であってはならない、
というのが、事業をはじめて以来一貫した私の指導精神です。

競争会社があってこそわれわれのはげみになるのだ、
そういうように競争会社を発展的に見なければならないと考え、
また社員の人にも言ってきました。


われわれは実業人であると同時に、やはり紳士でなければならない、
正しい商売を遂行していかなければならないと思うのです。

・・・

(4)【 12月15日 】 雪中の松柏愈々青々たり

人才(じんさい)も亦(また)然(しか)り。
少年軽鋭(けいえい)、鬱蒼(うっそう)喜ぶべき者甚だ衆(おお)し。

然れども艱難辛苦を経るに従ひ、英気頽敗して一俗物となる者少なからず。

唯だ真の志士は此の処に於て愈々激昂して、遂に才を成すなり。
故に霜雪(そうせつ)は桃李(とうり)の凋(しぼ)む所以(ゆえん)なり。
艱苦(かんく)は軽鋭(けいえい)の頽(すた)るる所以、
即ち志士の激する所以なりとあり。

是(これ)亦全文を諳(そらん)せず、大意斯くの如し。

今吾れ不才(ふさい)と云へども象山の徒(と)にして、亦徐氏の文を読む。
豈(あ)に桃李に伍(ご)して松柏に咲(わら)はれんや。
当(まさ)に琢磨淬励(さいれい)して連城・干将(かんしょう)となるべきのみ。 

            安政3年4月15日「講孟剳記」

【訳】

人間の才能もまた同じことである。
少年の中には、すばしっこくて強く、気も満ちており、喜ぶべきものは大変多い。

しかしながら、辛いことや困難なことを経験するにつれ、
そのようなすばらしさがなくなってしまい、
全くだめな人間になってしまうのも少なくない。

ただ、本当に大きな志をもっている人は、このような状態になったら、
ますます気持ちを奮い立たせ、ついにはもって生まれた才能を完成させるのである。

とすれば、霜雪は桃李が枯れる原因であり、また、松柏が完成する原因である。

また、艱苦は人の鋭い気性がだめにある原因であり、
同時に志のある人が激しく奮い立つ原因なのである、と。

全文を覚えているわけではないが、大体の意味は以上のようであった。

今、私は才能のないものではあるが、
佐久間象山先生の教えをいただいたものであり、
また、徐氏の文章を読むものである。

どうして、桃李などの仲間になって、松柏に笑われてよかろうか。
そんなことではいけない。

まさに我が身を磨き、鍛え上げて、
名玉の「連城」や名剣である「干将」のようにならねばならない。

・・・

(5)《15日 神様は人間に完全な自由を与えた》

『祈りの科学』の本の中にこういう話が書いてあります。

アメリカの或るところに若夫婦がありました。
その奥さんは自分の叔母さんにあたる人に
非常なお金持があったのであります。

その叔母さんは身寄りが少なくて
この若夫婦がその叔母さんのただ一人の親類だったのです。

ほかに身寄の者が一人もいないのですから、
その叔母さんが死んだら全財産はその姪である
若い奥さんに転げこんできて自分がお金持ちになれるのだ
と思っておりました。

ところがその叔母さんに最近愛人ができました。
男の愛人ができたのです。

そうしてしげしげと逢引きするらしい。
散歩しておったのを見た人もある。
近いうちに結婚するらしいと云う噂もあるのです。

「その男と叔母さんが結婚したら、叔母さんが若し死んでも
 其の夫たるあの男に全財産が行ってしまうだろう。
 そうすると自分は一文も貰えなくなる。これはたいへんだ」

というので、テリル・マンというアメリカの
生長の家のような教えの教師のところへやってきて、

「実はこういうわけだから叔母さんの心境が変って、
 あの男と結婚するまでに財産の半分ぐらいを私にわけてやりたい、
 そういう気持になってくれるように祈って下さいませんか」

といって来ました。

そうしたらテリル・マン先生がいわれるのに、

「そんなに他の人の心を変えるように祈るということは邪道である。
 そういうことは民主主義にかなわぬ。神様の心にかなわぬのだ」

とおっしゃった。


「神様は人間に完全な自由を与えられておるのですから、
 その叔母さんがあなたに財産を与えようという気を起そうと、起すまいと、
 それは叔母さんの自由に任せてあるのです。

 叔母さんは自分の財産をたれに与えようと、
 自分で有っておろうと勝手なのです。

 神様は人間の心を矯正して善にしか向かないようにすることは
 できるにしても、決してそれはなさらない。

 それが実現すれば人生のいろいろな悩みがなくなるのであろうけれども、
 神様がそういう強制力を実行したまわないのは
 人間に完全なる自由を与えておられるからであり、
 自由を奪うことは他の如何なることよりも悪であるからです。」


このマン先生の答えのように祈りによって
或る人の心を善いように向けていってください、
という祈りもきかれないのです。

ある人の祈りによって人の心を善にねじまげられるのでしたら、
何々の国の政治家の心が戦争を計画しませぬようにと祈ったり、
世界の元首が悉く武装を撤廃いたしますようにと祈ったら、
直に世界に平和が来そうなものであるが、それもきかれないのです。

そういうように人の心の自由を、祈りによって縛るのは邪道であります。

そこでマン先生は言葉を続けました。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P381~383)より

           <感謝合掌 令和6年12月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/12/17 (Tue) 04:58:38


(1)【 12月16日 】 

あなたのことを貶(けな)したり、意地悪なことを言ったり、
策略を巡らしてあなたに悪事を働く者達をも、許しなさい。

なぜなら、これらの人々を許さずして、
いったいあなたは天の父にどのように許してもらうつもりなのですか。

FORGIVE those that speak lightly or unkindly,
or who even in premeditated manner do thee evil.

For if ye forgive not these,
how can thy heavenly Father forgive thee?

(792-1)

・・・

(2)【 12月16日 】 身心摂養法 ②

我われの精神は宇宙の一部分であり、宇宙は大きな韻律です。

随って我われの精神もやはり撥剌として躍動して居らなければなりません。

・・・

(3)【 12月16日 】 大義名分

古来名将と言われるような人は、合戦に当たっては必ず
「この戦いは決して私的な意欲のためにやるのではない。
世のため人のため、こういう大きな目的でやるのだ」
というような大義名分を明らかにしたと言われる。

いかに大軍を擁しても、正義なき戦いは人びとの支持を得られず、
長きにわたる成果は得られないからであろう。


これは決して戦の場合だけでない。
事業の経営にしても、政治におけるもろもろの施策にしても、
何をめざし、何のためにやるのかということをみずからはっきり持って、
それを人びとに明らかにしていかなくてはならない。

それが指導者としての大切な勤めだと思う。

・・・

(4)【 12月16日 】 畏るべきかな書や

読書最も能く人を移す。畏(おそ)るべきかな書(しょ)や。 
 
            安政6年4月14日「※野村和作あての書翰」

【訳】

読書というものは、最もよく人の心をかえるものである。
書というものは、何と恐るべきものだなあ。

※野村和作。入江杉蔵の実弟であり、松陰の高弟。後の子爵野村靖

・・・

(5)《16日 与えれば与えられる心の法則》

「あなたは叔母さんから与えられたかったならば、
 心の法則を応用すれば与えられるのです。

 あなたの方から叔母さんに与えれば、
 叔母さんもあなたに与えます。
 与えれば与えられるのが法則ですから。」

「先生それは無理です。」と彼女は答えました。

「叔母さんはお金持ちだし、
 私は素寒貧だから与えるものはないじゃありませんか。」

「いいえ、あなたは与えられるのですよ。
 今話を聴いていると、あなたはあの叔母さんの
 唯一の肉親のものだと言われた。

 叔母さんは今、或る男の人と往き来をしておるか知らぬが、
 それは肉親の愛情に飢えているからです。

 肉親の者の深切というものは、
 肉親のあなたから《だけ》受けることができるのです。

 肉親のものの心からなる深切の、愛情のこまやかさというものは、
 その叔母さんに対してはあなただけが与え得る特権をもっている。

 そのあなたが叔母さんに与えるには一文の金も要る問題ではない。
 ただ深切にしてあげればよい。
 叔母さんをよくいたわってあげれば好い。

 与えよ、さらば与えられんというのは、金(かね)ばかりではない。
 深切を与えればよいのです。
 優しい言葉を与えればよいのです。

 それを与えたら何かくれるだろうと思うのでは、
 ほんとうの愛でも深切でもありません。
 それは一種の取引であります。

 深切をしてやれば与えられるというような報いを求める心を捨てて、
 無我になって深切をつくして、
 その結果は神様に任すのがよいのです。

 こんなに深切をしてやったのに、何もくれない。
 こんなに助けてやっても何もくれない、ということで、
 憤慨する人があるけれども、それは間違いです。

 ですから、ただ無条件に叔母さんにあなたが与えればいいのです。
 すると、おのずからお礼というものは、はいってくるものである。」

こうマン先生は言われました。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P383~385)より

           <感謝合掌 令和6年12月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/12/18 (Wed) 05:01:33


(1)【 12月17日 】 

あらゆる問題に対する答え、あらゆる疑問に対する答えは、
あなた自身の内にあります。

Know that the answer to every problem, to every question,
is within self.

(2438-1)

・・・

(2)【 12月17日 】 時 務

事務のほうは基礎さえあれば、多分に機械的に済むことであるが、
時務のほうは、時という文字が示す通り、
その時・その場・その問題に対して、
その人間がいかに為すべきかという活きた問題だから、
どうしてもその根本にその人の教養・信念、識見、器量
というものが大切になってくる。

教養や識見がなければ真実は見抜けない。
それには多くの学問を学ばなくてはならない。

・・・

(3)【 12月17日 】 昭和維新の志士として

いまから百年ほど前に明治維新というものがあり、
そしてその後、日本の姿が世界各国から認識され、
評価されるようにまでなりました。

しかし今日に至って、日本はまた大きな転換期を迎えていると思います。
また日本ばかりでなく、目を転じて世界をみてみると、
世界の情勢も必ずしも安定しているとは言えません。


そういう情勢を考えるとき、私はいまは“昭和維新”のときである
と考えねばならないのではないかと思います。

明治維新は日本の開化であった、
昭和維新は世界の開化に努力する時期であると思うのです。

そしてわれわれ日本人が、
昭和維新の志士を買ってでなくてはならないのではないかと思うのです。

・・・

(4)【 12月17日 】 治世から乱世なしに

治世(ちせい)から乱世(らんせい)なしに
直(ただち)に亡国(ぼうこく)になるべし。

            安政六年四月四日「野村和作あて書翰」

【訳】

国家というものは、太平の世から、秩序の乱れた世の中とはならずに、
いきなり滅亡するものである。
(何と恐るべきことではないか。)

・・・

(5)《17日 今与えられているどんな小事にも感謝せよ》

そして次にはマン先生はこう云われました。

「与えられるためには今すでに与えられているものを
 よく消化して吸収するということが必要です。

 今与えられておってもそれを消化吸収することが
 できなかったならば、不消化病にかかった胃袋みたいなもので
 いかに与えられてもはいらない、受けられないのです。

 だから今与えられておるものに対してほんとうに感謝なさい。

 今与えられているものがどんなに小さいものでありましても、
 それをしみじみ咬みしめて消化吸収するとき、
 次に与えられることになるのです。

 あなたは既に日光を与えられておるではないか、
 あなたは既に太陽の光線を与えられているではないか、
 あなたは既に空気を与えられておるではないか。

 あなたは既に水を与えられておるではないか、
 着物を与えられておるではないか、
 住居を与えられておるではないか、
 衣服を与えられておるではないか、

 食物を与えられているではないか、
 数えあげれば無数にいろいろなものを与えられているではないか。

 その有り難さをしみじみと味わうことなしに
 あなたは何にも私は与えられておりませんというが、
 それは実は与えられていないではない、
 与えられているものを消化して、その滋味を吸収していないに過ぎない。

 本当は沢山与えられているのです。

 だからすでに与えられているのに感謝して、
 “ありがとうございます”と事々物々に感謝し、
 魂の中にその滋味を吸収してこそ、
 次のものを与えられる資格が出来るのですよ。

 ここが大切なところです。

 朝起きたら洗面するときには水に感謝し、
 洗面器に感謝し、歯ブラシに感謝し、歯磨粉に感謝し、
 日光に当ったら日光に感謝し、空気に感謝し、
 暇がある毎に、すべてのものに感謝するのでなければなりません。」

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P385~387)より

           <感謝合掌 令和6年12月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/12/19 (Thu) 04:58:30


(1)【 12月18日 】 

夢を通して、人生の諸問題はより良く理解され、
肉体的にも、精神的にも、道徳的にも、霊的にも、
自分の人生に夢をもっと活用できるようになるからだ。

For through dreams the issues of life may be understood
and the entity more able to apply same in its life,
physically, mentally, morally, spiritually.

(538-15)

・・・

(2)【 12月18日 】 多岐亡羊

多岐亡羊ということがある。
これは羊を飼っておった人が羊を逃がした。
そこで慌てて追いかけた。

隣り近所の人も一緒になって追っかけてくれたが、あんまり岐路が多い。
いわゆる多岐である。

岐路が多くって、あっちへ行ったこっちへ行ったと言っているうちに、
どっかに行っちまってわからなくなった。

人間もそういうもので、あんまり仕事が多くなると、
肝腎なものがどこに行ってしまったかわからないようになる。

人間というものの本質、人間の使命、人間の幸福、
そういったものがわからなくなってしまうのである。

・・・

(3)【 12月18日 】 利害を一にしよう

おとなと青年、あるいは子供との間に断絶があるとすれば、
それはわれわれの言う商売的な利害を共にしていない、
さらにもっと高い意味の利害を一にしていないからだと思います。


親は子のために、子は親のために、
ほんとうに何を考え、何をなすべきかということに徹しているかどうか、
また先生は生徒のためをほんとうに考えているかどうか、
生徒は先生に対してどういう考え方を持っているのか。

そういう意識がきわめて薄いために、そこに溝ができ、それが断絶となり、
大いなる紛争になってくるのではないでしょうか。

時代が時代だから断絶があるのが当然だと考えるところに
根本の錯覚、過ちがあると思うのです。

・・・

(4)【 12月18日 】 国家を治むるの要

国家を治(おさ)むるの要(よう)、
民心(みんしん)を得(え)るに在(あ)り。
民心を得るの要、文徳(ぶんとく)を修(おさ)むるに在(あ)り。

              嘉永二年五月「講義存稿三篇」

【訳】

国家を治める際の要点は、国民の考えや気持ちを得ることにある。
それを得る要点は、学問を修めることによって備わる人格を身に付けることである。

・・・

(5)《18日 愛は円環である、次に廻せ》

「それから、愛は円環です。
 この世界は次から次へとまわすと生きて来るのが原則です。
 今自分に与えられているものを次にまわす。

 次にまわさなかったらそれは死んだ与え方になります。
 だから与えられたものを次にまわすということは
 生きる世界、生命の世界、愛の世界の原則です。

 すでに与えられた何ものかがあるならば、
 それは次にまわすべきものです。
 そうしたら多くの物が与えられる。

 そういうことでもあなたは能力が与えられているのです。

 ミシンの裁縫の能力があるならば、
 そのミシン裁縫の能力を次にまわすことです。

 その裁縫を教えてもらいたいという人があれば、
 それを教えてあげるのもよい。

 あるいは、その裁縫の能力によって裁縫を知らない人のために
 シャツやパンツを縫ってあげるのもよい。
 洋服を縫ってあげるのもよい。

 そういうことはすべて自分の与えられている能力を
 次へ渡すということである。
 次へ次へと自分の与えられているところの能力をまわす。

 そのときに自分はまた次から次へと与えられることになるのです。」

テリル・マン先生にこう言われた。それからその若い奥さんは
テリル・マン先生に言われたようにその通り実行したのであります。

そうして叔母さんのところを訪問しては叔母さんに深切をつくし、
優しくしてあげ、いたわってあげるようにしたので、
大へん喜ばれました。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P387~388)より

           <感謝合掌 令和6年12月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/12/20 (Fri) 05:00:28


(1)【 12月19日 】 

あなたの日々の仕事の中で神をパートナーとしなさい
--そうすれば、それはバラのように成長して花を咲かせるでしょう。

Take GOD, then, in partnership with thy daily service
- and it will blossom as the rose!

(257-181)

・・・

(2)【 12月19日 】 悠久無限

天地は悠久である。
造化は無限である。

したがって、人間も久しくなければいけない。
物を成してゆかねばならない。

それは仁であり、忠であり、愛であるが、
それを達成してゆくものは、忍である。

・・・

(3)【 12月19日 】 寿命を知る

人間に寿命があるように、われわれの仕事にも、
それがいつのことかわからないにしても、
やはり一つの寿命があると言えるのではないかと思う。

しかし、だからといって、努力してもつまらない、と放棄してしまうようでは、
人間で言うところの天寿を全うせしめることはできない。

これはいわば人間はやがて死ぬのだからと、
不摂生、不養生の限りを尽すのと同じであろう。


それよりもむしろ、いっさいのものには寿命がある、と知った上で、
寿命に達するその瞬間までは、お互いがそこに全精神を打ち込んでゆく。

そういう姿から、大きな安心感というか、
おおらかな人生が開けるのではないかと思う。

・・・

(4)【 12月19日 】 「人の至情なり」

知る所ありて、言はざること能(あた)はざるは、人の至情(しじょう)なり。 
 
              安政2年3月「士規七則」

【訳】

(よき教えを)知って、
それを他にいわないではおられないのは、人のまごころである。

・・・

(5)《19日 相手の心はこちらの心の反映①》

そのうちにその婦人の夫が云うのに、

「お前は今までは叔母さんの悪口を、寄るとさわると言っておったが、
 このごろでは話をすると、叔母さんを褒めてばかりいるね。」

「だって、あの叔母さんはつきあってみると実にいい人なんです。」
こう云う会話がかわされるようになったのです。

本当に立ち向う人の心は鏡なのです。

こちらが無条件に深切をつくすのだから
向うからも深切をするということになって、
無条件に好い叔母さんに変ってしまったのです。

つまり自分が深切を与えると向うからも深切を与える
―― 「与えれば与えられる」であります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P388~389)より

           <感謝合掌 令和6年12月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/12/21 (Sat) 03:52:46


(1)【 12月20日 】 

怒りを一度も表したことのない者は気の毒な人である。

しかし、自分の中で怒りを抑えられない者はなお悪い。
ほとんどの人はそこでしくじる。

Poor indeed is he who does not ever show anger,

but worse indeed is he who cannot control it in himself.
And there most fail.

(3645-1)

・・・

(2)【 12月20日 】 俗を楽しむ

人間は俗生活をしておればおるほど、
その中に俗に動ぜざるもの、
俗に汚れざるものがなければならない。

それで初めて俗を楽しむこともできる。

・・・

(3)【 12月20日 】 日に十転す

古人は“君子は日に三転す”と言ったという。
君子は時勢の進展というものを刻々と見て、それによく処しているから、
一日に三回も意見が変わっても不思議ではないというのであろう。


今日はおそろしくテンポの早い時代である。
そうした時代に、十年一日のごとき通念で、
ものを見たり考えておれば判断をあやまることも多いだろう。

昔ですら君子たるものは一日に三転しなければならなかった。
テンポの早い今日では、日に十転も二十転もするほどの
識見と判断の素早さを持たねばなるまい。


人間の本性は変わらぬものだが、その上に立って、
変わりゆく時勢の進展に刻々と処していくことが大事だと思う。

・・・

(4)【 12月20日 】 人情に原づかずんば

凡(おおよ)そ事(こと)人情(にんじょう)に原(もと)づかずんば
何(なん)ぞ成(あ)るあらん。

              安政六年五月上旬カ「某あて書翰」

【訳】

だいたい、何事であっても、
人に対する思いやりや慈しみの心を動機としないのであれば、
どうしてなし遂げることができようか。
できはしない。

・・・

(5)《20日 相手の心はこちらの心の反映②》

しかし叔母さんはまだ財産をくれなかった。

しかしながら、もう其の叔母さんの財産をあてにしないでも、
その若夫婦は毎日、水に感謝し、空気に感謝し、日光に感謝し、
食物(しょくもつ)に感謝し、着物に感謝し、

ありとあらゆるものに感謝して、
自分のできる限りの能力をもって周囲の人に奉仕しておりますと、

夫の仕事も栄えてまいりまして、自然に収入が殖えてきまして、
自分の住居(すまい)の一軒ぐらいは自分の独力で
建てられるようになりました。

その新居に移りますと、その叔母さんは、

「あの姪も自分の独力で自分の住居ぐらい買うだけの力が
 でてきたから、あれに財産をわけてやってもいいだろう」

ということになり、若夫婦の間に生んだ子供を
自分の孫のように愛して、その子供と一緒に
若夫婦の家に住むことになりましたので、
結局、その叔母さんの遺産はその若夫婦がつぐ
と云うことになったと云う話であります。

この話のとおり、与えれば与えるほど与えられるのです。

与える場合、報いられるために与えようと思う人は多い。

しかし、こうしておいたら何か与えられるだろうと思って
与えるくらいなら、与えていないことと同じことです。

それは「与えている」という仮面をかぶった
「求め」にすぎないのです。

われわれが無条件に他(た)に与えたときこそ、
その行いが神聖で、それが循環してきて、
また自分へと帰ってくるのでありますが、

それを予期(よき)しては汚く(きたなく)なります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P389~390)より

           <感謝合掌 令和6年12月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/12/22 (Sun) 04:57:32


(1)【 12月21日 】 

憎しみ、妬み、絶望、闇を帯びる一切は、闇の子です。

あなた方はこれらを退けなさい。

Hate, jealousy, despair, ANY that take hold of darkness,
are the children of Darkness.

These ye would put away.

(2205-2)

・・・

(2)【 12月21日 】 六 験

一、之を喜ばしめて以て其の守を験す

  人間は嬉しくなると羽目を外す。
  しかし、人間には守らねばならない分とか節がある。
  それを喜ばされたくらいで外してしまうようでは人間として落第です。


一、之を楽しましめて以て其の僻を験す

  喜びの本能に理性が伴うと、これを楽という。
  人間は楽しむと、どうしても僻する。かたよる。
  すると公正を失って物事がうまくいかない。


一、之を怒らしめて以て其の節を験す

  人間はどんなに怒っても、締まるところは締まり
  抑えるところは抑えなければいけません。


一、之を懼れしめて以てその特(独)を験す

  人間、恐れると何かに頼りたくなって一本立ちができなくなる。


一、之を哀しましめて以て其の人を験す

  人間は悲しいときにその人のすべてがあらわれる。
  人物をみるのは哀しませるのが一番です。


一、之を苦しましめて以て其の志を験す

  苦しいことにぶつかると、ついへこたれがちになる。
  志とは千辛万苦に耐えて自分の理想を追求してゆくことである。
  よく苦しみに耐えて理想を追求してゆく人間なら間違いはない。

・・・

(3)【 12月21日 】 信用は得難く失いやすい

われわれが何か事を成していく場合、信用というものはきわめて大事である。
いわば無形の力、無形の富と言うことができよう。


けれどもそれは一朝一夕で得られるものではない。
長年にわたるあやまりのない、誠実な行ないの積み重ねがあってはじめて、
しだいしだいに養われていくものであろう。


しかしそうして得られた信用も失われるときは早いものである。
昔であれば、少々のあやまちがあっても、過去に培われた信用によって、
ただちに信用の失墜とはならなかったかも知れない。

しかしちょっとした失敗でも致命的になりかねないのが、
情報が一瞬にして世界のすみずみまで届く今日という時代である。

・・・

(4)【 12月21日 】 積徳積善でなくては

積徳(せきとく)積善(せきぜん)でなくては大事は出来ず。  

           安政6年4月頃「※野村和作あての書翰」

【訳】

人としての徳を積み、よきことを積み重ねなければ、
大きな仕事というものはできいないものである。

※野村和作。入江杉蔵の実弟であり、松陰の高弟。後の子爵野村靖。

・・・

(5)《21日 言葉に出せば現れる》

それから、言葉に現したものは形に現れるという法則があります。
コトバはつくり主であるからです。

「噂をすれば影とやら」と云う諺(ことわざ)もそれです。

或る所に生長の家の誌友で戦災で焼け出されたので
何をしようかと考えて下駄屋を始めた人がありました。

つまり大勢の人たちのためになることをするのが富になると
生長の家で教えられて下駄屋を始めたのです。

戦災で履き物が大抵皆焼けてしまったから補充がたくさんいるだろう。
だからたくさん買ってきてその下駄を供給することは多くの人に便利を与え、
それだけためになるということで始めたのですが、
その人は焼け出されてあまり資本がない。

資本がないから商品をたくさん仕込むことができない。
そこで十足の下駄と十足の草履を仕入れて店にならべ、
「生長の家の教え通りにひとつやってみよう」と考えたのであります。

まず看板に「履物卸小売商。業界の王」と書いた。
下駄十足しかない卸小売店です。
が、これが言葉の力です。

こうしたら一人の奥さんが買いに来た。
その時分は戦災で焼けた直後であって、
インフレ時代ではないから、下駄は安かったのです。

その下駄は3円60銭で仕入れたのでありますけれども、
よそでは5円ぐらいで売っていました。

「いくらです」とたずねられるから仕入れ値段そのままでは人件費が出ないので、
「3円80銭でございます」と答えた。

一足でたった20銭しかもうけない。
十足みな売れればそれだけ人のためになると思っておったのです。

そうしたら奥さんが駆け引きのつもりで、

「これと同じ下駄をあそこの下駄屋さんで3円60銭で買って来た人がある」

と言いました。

そこで新米の下駄屋さんはだまされてしまったのです。

「ああそうですか。よそで3円60銭で売るなら、
 うちでは3円50銭にしときましょう」

と云って10銭損して売ることにしたのです。

そうするとよそではそれと同じものを、一足4円も5円もするというので
大勢買いにきて、またたくうちに10足売れてしまいました。

そこで、いくら売れても儲からない。
元金がない、借金をしてまた買ってくる、すぐ売れてしまう。
それはその筈です。

小売のくせに卸(おろし)値段より10銭安いのですから。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P390~392)より

           <感謝合掌 令和6年12月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/12/23 (Mon) 04:44:19


(1)【 12月22日 】 

人がどこまで達成できるかは、
目の前の機会をどのように用いるかにかかっている。

That to which the entity attains is governed according
to the use of the opportunities presented.

(2283-1)

・・・

(2)【 12月22日 】 誠は天の道 ①

宇宙人生は天の自慊(けん)的創造である。
自己を実現しつつある努力である。
 

この絶対自慊にして、
何等他に俟つ所を求めない生々化育の努力を「誠」と謂う。

誠は天の道である。誠に由って萬物があり、誠がなければ物もない。
人は、此の誠に由って生き、禽獣と異って自覚を生じ、
誠の誠なる所以を体認して之を発揮するようになる。
 

これを「誠之」といい、所当然の道とも謂う。

・・・

(3)【 12月22日 】 小事を大切に

ふつう大きな失敗は厳しく叱り、小さな失敗は軽く注意する。
しかし、考えてみると、大きな失敗というものは
たいがい本人も十分に考え、一生懸命やった上でするものである。

だからそういう場合には、むしろ「君、そんなことで心配したらあかん」と、
一面励ましつつ、失敗の原因をともども研究し、
今後に生かしていくことが大事ではないかと思う。


一方、小さな失敗や過ちは、おおむね本人の不注意や気のゆるみから起こり、
本人もそれに気がつかない場合が多い。

小事にとらわれるあまり大事を忘れてはならないが、
小事を大切にし、小さな失敗に対して厳しく叱るということも一面必要ではないか。

・・・

(4)【 12月22日 】 「いつもでも生くべし」

死して不朽の見込あればいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込あらばいつもでも生くべし。 
  
           安政6年7月中旬「※高杉晋作あての書翰」

【訳】

死んでも朽ちることはない、という見込みがあれば、
いつでも(国家社会のために)身を投げ出すべきである。

生きて大きな仕事をなし遂げる見込みがあれば、
いつまでも生き永らえるべきである。

※長州藩士高杉晋作。暢夫は字。松陰が久坂玄瑞と共に最も期待した高弟の一人。

・・・

(5)《22日 夫婦一つになれ》

そうするとその人の奥さんが心配し出した。

「お父さん、そんなことをしていいのですか、
 あなたそれじゃ損するじゃありませんか。」

「だって生長の家では与えれば与えるほど殖えるというから、
 今与えている最中なんだ。
 大体お前が夫のすることに口出しすることはけしからぬ。

 生長の家では夫の言うことはどんなことでも素直にハイと従うという教え邪ないか、
 わしはもう焼け出されて素寒貧になって、まる裸なのだから、
 損しても大したことはない。

 あらゆる生活を生長の家の教えのとおりやるつもりだ。
 与えれば与えるほど与えられると云うからな。

 大体妻というものは夫に無条件に従って夫のする事は間違いない。
 悪く見えていても神様の教えのとおりするから間違いない。
 きっとよくなる。

 それを信ずるのが生長の家の信徒の生活じゃないか。
 お前も、そうしてくれ」

といって、
アンデルセンの「お爺さんのすることに間違いがない」と
何でも夫のすることを褒めていると大地主になった寓話の話をして、

「生長の家はこの童話の通りに、
 夫は途中では損をするように見えても後にはきっとよくなる。
 きっとよくなるのだから、お前黙って見ておってくれ。
 夫のすることは間違いないと思って黙っておってくれ。」

と云いました。

それは此の値段では売れるほど損するのですから、
卸屋からも買いに来るのです。

10銭ずつ卸屋より安いのですから、小売商も他の卸屋で買わなくなり、
皆この人の店へ買いに来ることになったのです。

どの下駄屋も皆この人のところで、下駄を卸して貰うことになったので、
最初に「履物卸小売商」と看板に書いたとおりになってしまいました。

そうなると、その辺り一帯の下駄はほとんど皆
この人の店から卸売をされるということになりました。

それで製造所に交渉しますと、そんなに総卸商になって下さるなら、
又別に値引きして履物を卸しましょうといった。

そこで、今度は愈々儲かることになったのであります。


こうなることができたのには、三つの要素があります。

それは第一に言葉の力です。「履物卸小売商」と書いたことです。

その次は「与えれば与えるほど殖える」法則を実行なさったから
富がおのずから与えられるようになったことです。
これは富の第二の原則です。

その次には絶対無条件に素直に奥さんが良人の冒険を疑わずに
拝んでいたことです。

第三には、その取扱うものが大勢の為になるものだと云うことです。
下駄は割合に多勢の人に使われるものであります。
そして下駄は消耗品である。

いくらでもちびるから、一度でもう買う必要はないと云うものではない。

こう云う富を得る根本法則に従って実行したしましたならば、
何商売をやりましても、必ず富が得られるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P392~394)より

           <感謝合掌 令和6年12月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/12/24 (Tue) 05:03:43


(1)【 12月23日 】 

「経済的に」という考え方をやめなさい。

経済は、あなたが正直で誠実な生き方を心がけ、
他の人々があの道を知ることができるような人物になろう
とすることの結果としなさい。

そうすれば神が増し加えてくださいます。

Leave off "financially."
Let the financial be the result of honest,
sincere desire to be and to live so that OTHERS may know the way also.
GOD giveth the increase.

(2409-1)

・・・

(2)【 12月23日 】 誠は天の道 ②

然し我々は次第に天地人間から分隔して(これも実は偉大な創造分化なのであるが)
己私に執着して誠に叛き易い。
その為に折角の性を傷(そこな)って天と断つの不明に陥った。
 
そこに諸々の悪が蔓(はびこ)る。
「唯天下の至誠のみ能く性を尽すことを為す」である。

・・・

(3)【 12月23日 】 運命に従う

人には人に与えられた道があります。
それを運命と呼ぶかどうかは別にして、自分に与えられた特質なり境遇の多くが、
自分の意志や力を越えたものであることは認めざるを得ないでしょう。

そういう運命的なものをどのように受けとめ、生かしていくかということです。


自分はこのような運命に生まれてきたのだ、
だから、これに素直に従ってやっていこう、というように、
自分の運命をいわば積極的に考え、それを前向きに生かしてこそ、
一つの道が開けてくるのではないでしょうか。

そこに喜びと安心が得られ、次にはほんとうの意味の生きがいというものも
湧いてくるのではないかと思うのです。

・・・

(4)【 12月23日 】 国の宝なり

進みて名を求めず、退きて罪を避けず、
唯(た)だ民(たみ)を是(こ)れ保(やす)んじて、
主(しゅ)に利(り)あるは、国の宝なり。

             安政四年以降「孫子評註」

【訳】

出仕昇進しても名誉を求めず、役職を退いても責任を回避しない。

ただ国民の幸せと平和な生活だけを考え、
その指導者である殿様のお役に立つことだけを考えるような武士は、国家の宝である。

・・・

(5)《23日 素直に神に呼びかけよ①》

祈りが成就するためには、もっとザックバランに素直に、
肉親の子が肉親の親の膝にすがるように、
神様に素直に縋(すが)りつくことが必要なのであります。

日本でも妙好人と称(い)って浄土真宗などの信者で、
ただ「南無阿弥陀仏」と《みほとけ》の御名(みな)だけを、
暇があればとなえていた。

否、暇どころか仕事をしながらでも唱えていた感心な人が沢山ありますが、

ガードナー・ハンチング氏の書いたものの中には、
アメリカにもそう云う妙好人があったそうであります。

その人は、朝、目が覚めると、それから眠りにつくまで間断なく
「ねえ、神様」(Now Lord)と唱えていたと云うのであります。

時には、その「ねえ、神様」と云う呼び声を、大声で云う時もあり、
時には唇(くちびる)の中で呟くように唱えることもあり、
或は心の中で唱えることもありましたが、

いずれにせよ、この人は、幼な児が「母(かあ)ちゃん」と
母親を呼ばずにいられないように、
「ねえ、神様」と呼ばずにはいられなかったのであります。

此の人は自分の魂を神様の御手の中にスッポリとまかせていて、
何事も神様が御存知である。

だから特別に自分の心に或る願いが起こってきたにしても、
その一つ一つを取り上げて神様に、「これをかなえて下さい」と云う
必要を感じなかったらしいのであります。

そしてただ、「ねえ、神様」と云えば、
ピッタリ自分の心が神様に通ずると信じられる心境でいたのです。

吾々、祈るとき、多くの事を云う必要はないのであります。

神が愛であり、神の護(まも)りが全(まった)いと云うことを
本当に信ずることが出来ましたならば、

ただ「神様」ととなえるだけで、
「すべてはきかれた!」と云う大安心の境地に達するのであります。

併(しか)しながら、自分の心がそれでは落着けないと云う人のためには、
やはり、自分自身の「落着けない心」を説服するために、
論理的な祈りや、懇願的な祈りも必要になるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P394~396)より

           <感謝合掌 令和6年12月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/12/25 (Wed) 03:01:49


(1)【 12月24日 】 

あなたが望んでいるものが、
神があなたに為すことを望んでおられるものと一致するように、
あなたの望みを変えなさい!

Change that ye want to be in keeping with THAT He would have thee do!

(1472-6)

・・・

(2)【 12月24日 】 挨 拶

「好い年をして、挨拶も《ろく》に出来ん」と昔の人はよく言ったが、
今日は若い者に限らず、年寄りまでが一向にその挨拶が出来なくなってしまった。
それでいて、やれ思想がどうの、平和がどうのと偉そうな口をきく。
そういうことでは駄目だ、というのが儒教や禅の根本精神であります。

・・・

(3)【 12月24日 】 時を尊ぶ心

以前、ある床屋さんに行ったとき、
サービスだということで、いつもなら1時間で終わるサンパツを、
その日は1時間十分かけてやってくれた。

つまり、床屋さんはサービスだということで
10分間多く手間をかけてくれたというわけである。

そこで私は、サンパツが仕上がってから冗談まじりにこう言った。

「君がサービスしようという気持ちは非常に結構だと思う。
しかし、念入りにやるから19分間余分にかかるということであっては、
忙しい人にとって困るようなことになりはしないか。

もし君が、念入りに、しかも時間も50分でやるというのであれば、
これはほんとうに立派なサービスだと思うのだが……」

・・・

(4)【 12月24日 】 第だ事業を勉めよ

昔賢(せつけん)一語(いちご)あり、曰く、
「昔過(せつか)を思ふなかれ、第(た)だ事業を勉(つと)めよ」と。  

             安政6年5月4日「※野村和作あての書翰」

【訳】

昔の偉い人が次のような言葉を残している。
「過ぎ去った過ちを思い悩むな。今なすべきことに全力を注げ」と。

※野村和作。入江杉蔵の実弟であり、松陰の高弟。後の子爵野村靖。

・・・

(5)《24日 素直に神に呼びかけよ②》

ハンナー・ホイットール・スミスの
『幸福生活のキリスト教徒的秘密』と云う本の中に、
何か問題が起ったら、「しかし神様がいらっしゃる」(But there is God)と
ただ四語だけで祈る婦人があったと云うことが書かれています。

どんな疑いや、恐怖心や、迷い心が起っているときでも、
この婦人の「しかし神様がいらっしゃる」と云う語(ことば)をきくと、
皆の心が落着くのでした。

この言葉はこの婦人自身の心に「平和」を持ち来たし、
この婦人の心の平和が皆の心に感応して、
皆の者の心も自然と平和になって来たのに相違ありません。

幼いうちに、こう簡単な言葉で神様に呼びかけて、
心の平和を得るような幼児を訓練して置くことは必要なことであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P396~397)より

           <感謝合掌 令和6年12月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/12/26 (Thu) 05:01:11


(1)【 12月25日 】 

問題に日々取り組みなさい。
しかし、人を助けようとする時は、それらを脇に置いておきなさい。

Meet the problems each day.
But lay them down when ye attempt to aid others.

(1204-3)

・・・

(2)【 12月25日 】 内 訟 

内訟とは自分の煩悩を自分の良心に訟えることである。

・・・

(3)【 12月25日 】 経営者次第

昔の日本の言葉に「頭がまわらなければ尾もまわらない」
というのがあるが、私は、経営者が100人なら100人の人を緊張させて、
大いに成果を上げようと思えば、その人の活動が、端の人がみて
「気の毒な」と思うくらいにならないといけないと思う。

「うちのおやじ、もう一生懸命にやっとる。気の毒や」という感じが起これば、
全部が一致団結して働くだろう。

けれどもそうでない限りは、経営者の活動の程度に応じてみな働くだろうと思う。


人間というのはそんなものである。
決してぼろいことはない。

自分はタバコをくわえて遊んでいながら「働け」と言っても、それは働かない。
私はそういうふうに考えてやってきた。

・・・

(4)【 12月25日 】 一時の屈は万世の伸なり

※家君(かくん)欣然(きんぜん)として曰く、
「一時(いちじ)の屈(くつ)は万世の伸(しん)なり、
庸詎(いずくん)ぞ傷(いた)まん」と。  

            安政6年5月4日「投獄紀事」

【訳】

父上がにっこりとしていわれた。
「一時的に(志をくじかれ)屈することは、将来、永遠に伸びるための元となる。
どうして、悲しむことがあろうか。ありはしない」と。

※実父杉百合之助。安政5年(1858)、
 松陰、野山獄への再入獄に際して送った激励の言葉。

・・・

(5)《25日 危急の場合に神を呼ぶのは既に自己の内に神があるから①》

実は吾々の魂の奥底には、神様がいらっしゃるのでありまして、
何か人間力ではとてもかなわないと云うような出来事が起って来たときには、
自然に「神様!」と呼ばずにはいられなくなるのであります。

それが吾々の本能と云うものであります。

本能と云うものは、理屈や、理論や、外から這入(はい)った知識によるのではなく、、
生命(せいめい)の中から、持って生れて来たところの智慧であります。

誰に教えられないでも、赤ん坊は母親の乳房にすがりつくような、
もって生れた智慧が本能であります。

本能には間違いがないのであります。
それは理屈をこえています。

人間が、「イザ危ないッ」と云うときになると、
「神様」と呼びたくなるのも理屈をこえています。

それだけ、其処に「本物」があるのであります。

人間の魂の奥底は、神を知っている。
人間の魂の奥底には神が宿っている。

だから、どうしても神を呼ばない限り、
本当に魂の安心が得られないのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P397~398)より

           <感謝合掌 令和6年12月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/12/27 (Fri) 04:50:00


(1)【 12月26日 】 

自分の兄弟に対して、自分の隣人に対して、
そして--なによりも--自分自身に対して、忍耐を失ってはなりません。

Be not impatient with thine brother, with thine neighbor,
and - most of all - with thine self.

(262-44)

・・・

(2)【 12月26日 】 三 宝

老子にいわゆる「老子三宝の章」という有名な一章があります。


我に三宝あり。(持して之を保つ。)
一に曰く慈。
二に曰く倹。
三に曰く敢(あえ)て天下の先とならず。

慈なり、故に能く勇。
倹なり、故に能く広し。
敢て天下の先とならず、故に能く器の長と成る。

今慈を舎てて且(かつ)勇に、
倹を舎てて且広く、
後(おく)るを舎てて先んぜば、死せん。
 

我に三宝あり。
第一に慈。
第二に倹。
第三に人を先にやる。

世間の人間は先頭になろうとして争うが、そういうことをしない。
慈愛があるから勇気が出る。
 
倹、つまりくだらぬ私心私欲に関心がないから心が広い。
愚人俗人と競争などしないから自然に大物になる。

今これに反して、慈愛を捨てて勇に、倹約におかまいなく、
あれもこれもとなり、人を先にやることを捨てて己が先に立てば、
生を失ってしまう。その通りですね。

今日のような到るところ矛盾・衝突・混乱の社会になったというのも、
要するに人間が慈を捨て倹を捨て省を捨てて功利に走ったからでありまして、
こういう社会に生きておると、本当に肉体的にも生命的にも
だんだん病的になってまいります。

・・・

(3)【 12月26日 】 うまくて、早くて、親切

私がでっち奉公をしていたころ、楽しみの一つはうどんを食べることだった。
その当時は、子ども心にも「あのお店のうどんはおいしいし、
すうどん一杯のお客でも大切にしてくれる」と感じ、
ある一軒の店ばかりに通ったものである。

そのうどん屋は、うまくて、親切で、そして早く作ってくれた。


現代における商売、企業のコツも
このうどん屋さんのやっていたことと何一つ変わらない。

りっぱな商品を早くお届けし、親切丁寧に使用法を説明する
--こうした心がけで商売をするならば、私は必ずそのお店は成功すると思う。

またそういうお店が成功しなかったら不思議である。

・・・

(4)【 12月26日 】 一日を弛めば

足下(そっか)誠に才あり、才あれども(つと)勤めずんば、何を以て才を成さんや。
今、歳将に除(じょ)せんとす、学(がく)弛(ゆる)むべからず、
一日を弛(ゆる)めば、将(まさ)に大機(たいき)を失せんとす。 
 
            安政4年12月20日「※馬島生に与ふ」

【訳】

お前は本当に才能がある。
才能はあるけれども日々努力をしなければ、
どうして才能が開花させ、自分のものとできようか。できはしない。

今年もまさに暮れようとしている。
学問をする気持ちをゆるめてはいけない。
一日でもゆるめれば、学問の大切な機会を失ってしまうぞ。

※長州藩医の子馬島光昭。松下村塾の門人。

・・・

(5)《26日 危急の場合に神を呼ぶのは既に自己の内に神があるから②》

人間の肉体には色々の腺(せん)があります。

涙腺と云って涙を出す腺もあります。
唾液腺と云って唾液を出す腺もあります。
副腎と云ってアドリナリンを出す腺もあります。

悲しい時には生理的にその悲しみを物質的液体にかえて
放出する必要があります。

若しそれを何らかの形で放出しなかったならば、
身体(からだ)に害があるので涙として
悲しみを放出するのであります。

食物(たべもの)を見れば唾液を分泌します。
若し唾液が出なかったら、食物(たべもの)を嚥(の)み下すのに困難であり、
また澱粉の消化を完全に営むことが出来ないでしょう。

腹が立ったり、敵があらわれたりしますと、
副腎からアドリナリンを沢山分泌します。

これによって、皮膚や筋肉を引き締めて、
外敵と戦う力の準備が出来るのであります。

これらは、いずれも必要に応じて生理作用が
本能的に必要なものを用意するのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇 第26章(P398)より

           <感謝合掌 令和6年12月26日 頓首再拝>

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