-
1:伝統
:
2024/09/27 (Fri) 07:13:51
-
(九月の神示)【大調和の神示】
汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の萬物何物も汝を害することは出來ぬ。
汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪靈に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解してゐない證據であるから省みて和解せよ。
われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教へたのはこの意味である。
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなはぬ。
天地萬物と和解せよとは、天地萬物に感謝せよとの意味である。
本當の和解は互ひに怺へ合つたり、我慢し合つたりするのでは得られぬ。
怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合つたとき本當の和解が成立する。
神に感謝しても天地萬物に感謝せぬものは天地萬物と和解が成立せぬ。
天地萬物との和解が成立せねば、神は助けたうても、
争ひの念波は神の救ひの念波を能(よ)う受けぬ。
皇恩に感謝せよ。
汝の父母に感謝せよ。汝の夫または妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。
天地の萬物(すべてのもの)に感謝せよ。
その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。
われは全ての總(すべ)てであるから
すべてと和解したものの中にのみわれはゐる。
われは此處に見よ、彼處(かしこ)に見よと云ふが如くにはゐないのである。
だからわれは靈媒には憑(かか)らぬ。
神を霊媒に招(よ)んでみて神が來ると思つてはならぬ。
われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。
われは愛であるから、
汝が天地すべてのものと和解したとき其處(そこ)にわれは顯れる。
(昭和六年九月二十七日夜神示)
・・・
『大調和の神示』谷口雅春先生ご朗読
生長の家大神(2017/03/02)
https://www.youtube.com/watch?v=r_2i4oxg5Bg
『大調和の神示』谷口雅春先生ご朗読
無礙光(2018/06/25)
https://www.youtube.com/watch?v=FxpVqKdc4jE
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「神示とは」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
(2)伝統板・第二「神示とは ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7789782
(3)伝統板・第二「神示とは ③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571
(4)伝統板・第二「神示とは ④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8171151
(5)伝統板・第二「神示とは ⑤」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8213395
(6)伝統板・第二「神示とは ⑥」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8239192
(7)伝統板・第二「神示とは ⑦」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8254025
(8)伝統板・第二「神示とは ⑧」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8267834
(9)伝統板・第二「神示とは ⑨」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8295640
(10)伝統板・第二「神示とは ⑩」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8306932
(11)伝統板・第二「神示とは ⑪」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8318474
(12)伝統板・第二「神示とは ⑫」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8344089
(13)伝統板・第二「神示とは ⑬」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8360493
(14)伝統板・第二「神示とは ⑭」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8374672
<感謝合掌 令和6年9月27日 頓首再拝>
-
2:伝統
:
2024/09/28 (Sat) 11:28:55
-
(九月の神示)【最後の審判に就いての神示】
キリスト再び臨(きた)りて審判(さば)くとは今のことである。
キリストとは肉體にあらず、『眞理』である。
キリストとは肉體にあらず、『光』である。
肉體のわれの臨るを待ち望むな。
吾れは既に此處に臨(きた)れるに非ずや、
吾れは道である、眞理である、光である。
『眞理(われ)』來つて虚妄(まよひ)を審判き、
『光(われ)』來つて暗黒(やみ)を審判き、
すべての虚妄(まよひ)と暗黒(くらき)とを
地獄の火に投げ入れてこれを燒き滅ぼす。
今こそ最後の審判(しんぱん)であると知れ。
されど恐るる勿れ、吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず。
虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き
暗黒(やみ)を燒かるる者は却つて光をあらはさん。
病ひは癒やされ、惱みは消えん。
燒かるる者は『汝』にあらずして、『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。
『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるにあらず、
神より出(い)でざる汝は實在にあらず、
實在に非(あらざ)る汝はその眞相(しんそう)を暴露して消滅せん。
わが臨れるは『眞』と『僞』と、
『實在』と『虚妄(こまう)』とを選(よ)り別けて、
『僞(ぎ)』と『虚妄(こまう)』とを永久(えいきゅう)に
非實在(ぢごく)の中に葬りて封印を施(ほどこ)さんがためである。
(昭和六年九月二十八日朝神示)
・・・
『最後の審判の神示』谷口雅春先生ご朗読
生長の家大神(2017/03/05)
https://www.youtube.com/watch?v=stCWaMvMKfY
<感謝合掌 令和6年9月28日 頓首再拝>
-
3:伝統
:
2024/09/29 (Sun) 11:22:17
-
「大調和の神示」講義①
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=VgizmeNHhD8
<感謝合掌 令和6年9月29日 頓首再拝>
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4:伝統
:
2024/09/30 (Mon) 13:59:31
-
「大調和の神示」講義②
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=UeFTAftYHbc
<感謝合掌 令和6年9月30日 頓首再拝>
-
5:伝統
:
2024/10/01 (Tue) 11:07:50
-
「大調和の神示」講義③
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=SDWU0hZ7YOY
<感謝合掌 令和6年10月1日 頓首再拝>
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6:伝統
:
2024/10/02 (Wed) 10:00:22
-
「大調和の神示」講義④
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=mxG98HO2c2k
<感謝合掌 令和6年10月2日 頓首再拝>
-
7:伝統
:
2024/10/03 (Thu) 11:56:37
-
「大調和の神示」講義⑤
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=mxG98HO2c2k
<感謝合掌 令和6年10月3日 頓首再拝>
-
8:伝統
:
2024/10/04 (Fri) 11:01:20
-
「大調和の神示」講義⑥
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=_tSa2pnc0_I
<感謝合掌 令和6年10月4日 頓首再拝>
-
9:伝統
:
2024/10/05 (Sat) 11:23:18
-
*Web:光の進軍(教えの基本に関する講演と論文)
仙頭 泰 氏(大調和について)
「生長の家」の教義の中心となる神示は、「大調和の神示」であります。
この神示の中で大切なところは
「天地一切のもと和解せよ」
「天地の万物に感謝せよ」
というところであります。
生長の家では、私達が、天地一切のものとの和解が成立する時は、
天地一切のものが私達の味方になると教えているのであります。
つまり敵と云うものは本来ないと云うことであります。
この事は大変大切な事であります。
ですから神示のなかには
「天地一切のものが汝の味方となるとき、
天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ」と断定して、
教えられているのであります。
敵を認めて、何とかしてその敵と和解しなくてはならない
と考えている人は、すでにその人は心の中に敵を認めているために
「認めたものは現れる」という心の法則によりまして、
その人の環境から敵と見えるものは、消えないのであります。
「生命の教育」を実施するにあたって注意すべきことは、
子供の不完全な状態を認めて、そのうえでこの子供を何とか良くしようと、
努力するのでは、子供はなかなか良くならないということであります。
教祖と云われる人達が、
すべての人間は神聖にして罪本来無しの真理を説きました。
ところがその弟子たちのことであります。
「神真理を告げ給う」という谷口雅春先生御著書の83頁に、
神はつぎのように示しておられます。
「人間を正しく導くためには、その欠点や悪いところを見つけだして、
それを指摘し自己反省せしめなければならないのだというような
間違った考えから、釈迦の弟子でもキリストの弟子でも、
人間を『罪の子』だとか『罪悪深重にして救いがたき者』として
説きはじめたのが間違いであったのである。
『救いがたき者』と言葉の力で説かれるならば、
その人は実際救いがたきものとなってしまうのである。
一切衆生も、"悉有(ことごとくあるもの)"も
皆罪なき仏性をもってその本体とすという真理を言葉で
説いて聞かせるところに実相の完全な相(すがた)が顕れ、
道が開かれ救われることになるのである。」
-神真理を告げ給う-
不完全な状態をしっかりと心の中に、握っていながら、
完全円満なる状態を現すことは出来ないのであります。
完全円満なる状態を、現象界に現すには、
不完全な状態を、自分の心の中で否定して、放つことが必要であります。
そして相手の実相を直視して、彼はすでに円満完全であると観じ、
具体的にも相手の美点を認め、和顔、愛語、讃嘆の行動に、
自分が移ることであります。
谷口雅春先生の次の御文章を読んでください。
「生命の実相と申候事は此世界が此儘神の國であり人間は其儘神の子なりと申すに候
観ずればそれが現るるものに候 観ぜざれば現るる事なし
さればこそ心を静めて実相を見よと申すに御座候 現象に如何なる悪顕れ候とも
何れも神の作り給える実在には無之候間 気にかけずに
唯実相円満完全なる相のみを観ずれば 結局は円満完全なる実相顕るるものに有之候」
常に人の、物の実相を直視して、その神性仏性を礼拝し続けて、
その円満完全なる状態を現象界まで引き出された菩薩が、常不軽菩薩と云われます。
私達も毎日の生活の中に、常不軽菩薩行を実行することが必要であります。
私達は相手を、尊い神の子であるとして、その神性仏性を、感謝と尊敬と愛情をもって
礼拝させていただくのであります。
敵を認めて、それを味方にする為に、赦す方法として、合掌礼拝するのではないのです。
敵は本来ないのであって、みんな生命の兄弟姉妹であったからこそ、
合掌礼拝し合い、讃嘆し合うのであります。
堂々たる合掌礼拝を実践いたしましょう。
釈迦が「山川草木国土悉皆成仏」と云われたように、
私達の周囲に現れているものは、すべて私達を生かして下さる
神の生命の、佛の生命の現成であったのです。
この素晴らしい事実に気がつきました時には、
ますます心の底から天地万物に向かって合掌し、
ただただ感謝の言葉を出すより仕方がない感激に溢れるのであります。
この魂の高揚された感激こそ、私達の寶なのであります。
「神の國は汝の内に在り」とイエスは言っておられます。
私達にとって自分の「心の王国」を支配することは大切なことです。
如何なる時でも光明面のみを認めて人生を前進するのです。
私達のまわりには、感謝すべきこと、喜ぶべきことが、誰でも沢山あります。
「なんと輝かしい世界だろう」と、感謝し、讃嘆することです。
谷口雅春先生は
「あなたが合掌して感謝の言葉をとなえて人生の行路を進むとき、
どんな荊棘も切り開かれ、隘路は広い大道となり、
調和があなたを取り巻いてくれるのであります。
そこにはあなたを信頼する人があらわれ、
反感をもっていた人も、味方となり、
讃嘆者となり、協力者となって下さるのであります」
と、教えてくださっています。
イエスが病気を治された時
「お前の病気は重いから治してやるぞ」と云われたことはないのであります。
「汝の床をとり上げて、歩め」と云うように、
ただ一言「起きよ」と云われただけであります。
イエスは病気も見ず、死をも見ずただ実相を直視されたのであります。
生長の家では"現象なし"というのであります。
現れている象(かたち)をあると思ってはいけません。
本当にあるものは唯"実相"だけであって現れているのは仮の相(すがた)なのであります。
ですから谷口雅春先生は
「仮の相は(すがた)はニセモノで、ウソの相で本当にあるのではない。
本当にあるのでないものは、幾ら現れていても、絶対ないのだから、
無いものは唯"無い"で宜しいのだ。
それを遠回しに色々と説明せねばならぬことはない。
そんなものはない。
悪い病気も、放蕩の親爺も、いくらあるように見えてもそんなものは絶対ない、
本来無いものをアルと掴むからいかぬ」
と述べておられます。
谷口雅春先生は、ここで教えておられますことは、
心の世界で「現象」を"つかむ"ということは、
いろいろの悩みの種になると、云うことであります。
「放つものは生きる」と、生長の家では教えるのであります。
谷口雅春先生は、
現象にどんな悪い相(すがた)が現れていても、そんなものは「幻」であって
本当は「無い」のだと悟ることが大切であると教えておられます。
肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟った時に、
そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを発見することが出来る
と教えておられます。
この様に、観の転換が行われたとき、
私達は、神の國を見出すことができるのであります。
「大調和の神示」の中には、
「天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である」、
「感謝し合ったとき本当の和解が成立する」、
「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いをうけるであろう」
と、この様に示されているのであります。
実相を直視して、徹底感謝の生活をすることが、
大調和の世界を顕現する為には大変大切な事なのであります。
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/33daichouwa.htm
<感謝合掌 令和6年10月5日 頓首再拝>
-
10:伝統
:
2024/10/06 (Sun) 08:58:59
-
*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《最後の審判に就いての神示》」より
(1)この神示の特徴は漢字に特殊なフリ仮名が附してあることであります。
(2)(聖書には、キリストの再臨を種々示されているが)
ここに示されている神示は、キリストの再臨を
「イエスの再生」として見ずにキリストを「真理」そのものとして、
超越的な意義をお示しになっているのであります。
(3)「真理」は既に諸賢(みなさん)の内に宿っているのです。
しかし「虚妄(まよい)」の妄心(もうしん)によってくらまされていて、
自覚しないのであります。
超越的内在的に「キリストの再臨」ということを解釈しますと、
真理を告げるラッパの声によって皆さんの内に宿る真理(キリスト)が
目を覚まして顕現するのが「キリストの再臨」であります。
<感謝合掌 令和6年10月6日 頓首再拝>
-
11:伝統
:
2024/10/07 (Mon) 11:52:17
-
*「光明道中記」(10月7日《黙示を受くる日》)より
【神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで
「生命」の黙示そのままが精神に顕れて来る状態である。
(『生命の實相』第十一巻)】
「神は霊媒にはかからぬ」と云う意味は、民間市井の巫女的現象、口寄現象、
二重人格として出て来るのは、いずれも霊示であって、
その憑(かか)って来る霊魂の等級に応じて一(ピン)から十(キリ)まで
あって、悉くは信ずべからずと云うことである。
国家の大事に尊き方の上に神霊来格の実例は古書にも見えていることである。
と云って普通の場合に於ては高級神霊さえも霊媒には憑らないのであるから、
(『生命の實相』霊界篇参照)霊媒的現象によって高級霊又は神が
来(きた)ったと思って、思いあがってはいけないのである。
普通霊媒にかかるのは特殊の霊媒自身の守護霊か、
その辺に紆(う)路ついていた浮浪の霊の悪戯(いたずら)である。
斯くの如きものを神示だと思って有り難がっていたら必ず失敗する。
「神示」とは普通「霊示」の如く二重人格現象として、神寄せ式にはあらわれない。
それは「神格の内流」として直日霊(なおひのみたま)の啓示として、
”心が”純粋”になったとき”、内部から直接的に啓(ひら)かれて来る。
普通の人でも「良心」とはそれである。
「絶対」の直接把握だ。
私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、
直感された真理をその直後に書いたのだ。
<感謝合掌 令和6年10月7日 頓首再拝>
-
12:伝統
:
2024/10/08 (Tue) 11:00:21
-
*「光明道中記」(10月8日《神は善のみと知る日》)より
【神は「真如」であり此の真如より来生せし神人が「如来」である。
(『生命の實相』第一巻)】
「神は善である。至誠の善である」そう云うことは神示である。
その文章(かきかた)が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。
理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。
そう云うことは神想観中でなくとも普通の時にも、
パッと内部の光耀(こうよう)で判ることがある。
そこで普通の「直観」と「神示」とはどう区別すべきかなどど云うことを
色々考える人もあるらしい。
直観は純粋であれば神示だと思っても好い。併し要は純粋度の問題である。
利害関係に晦まされるに従って純粋度は減ずる。
物質ありと引っかかる程度に従って純粋度は減ずる。
五官に捉えられるに従って純粋度は減ずる。
そこで宇宙の絶対実在を悟るために、
仏教では般若波羅蜜多の行があり、五蘊皆空と観じ、
色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)なしと観じ、眼耳鼻舌身意なしと観じ、
色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)なしと観じ、
眼界耳界鼻界舌界身界意識界なしと観じ、
それらを”ある”かの如く思い間違えた「無明(まよい)」も無しと観じ、
「無明」もないから「悟る」と云うことも無しと観じ、
・・・斯くの如くして一切の引っかかりを無くして初めて、
「ここに彼岸あり」と悟る。
その内部的自覚は神示の一種である。
波羅蜜多とは到彼岸(はらみた)と訳されている。
<感謝合掌 令和6年10月8日 頓首再拝>
-
13:伝統
:
2024/10/09 (Wed) 10:15:56
-
*「光明道中記」(10月9日《ここに彼岸ありと悟る日》)より
【同じ真理も時に応じ場合に応じて相(すがた)が変る。
(『生命の實相』第十一巻)】
「ここに彼岸あり」と云う文字が眼に見えても、耳に聴かされても、
それが二重人格式に他から教えられるだけで、
一重式にその人の生命そのものの自覚となって来ないのは
真理の絶対把握でないから神示ではない。
それは霊示又は霊教として霊魂からの導きであることはあり得る。
併しそれは自己神格の内流ではない。
仏性の開示ではない。
波羅蜜多ではない。
「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である。
香厳和尚の撃竹(きょうちく)の公案は有名なものであるが、
師に教えられている間は、ただ師弟相対して相対的に教えられているだけで、
自己神格の内流的啓示(インスピレーション)とならなかったのである。
ところが或る日庭を清掃している時に瓦片(がへん)が飛んで竹の幹に衝突した。
その音を聴いた時に、内部からパッとその真理が啓示されて来たのである。
それは二重人格的な霊媒現象ではない。これが神格の内流である。
同じ真理でも”外”から来るのと
、”内”から来るのとはそんなにも相異するのである。
”内”からのは真理の直接把握である。
真理の直接把握を「神示」と言い、二重人格的に教えられるのを霊示と言い、
霊媒現象と言うのである。
「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。
<感謝合掌 令和6年10月9日 頓首再拝>
-
14:伝統
:
2024/10/10 (Thu) 12:40:53
-
*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《最後の審判に就いての神示》」より
(4)超越的内在的意味に於ける”キリストの再臨”による”最後の審判”は、
本来無いところの「虚妄(まよい)」の無を「無」として判決宣告して、
永遠に出て来られない世界に堕獄し、
本来人間の実相たる「完全人間」を実在なりと判決宣言して、
それを如実にあらわすところの審判でありますから、
「吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず、
虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き、
暗黒(やみ)を燒かるる者は却つて光をあらはさん。
病ひは癒やされ、惱みは消えん」とあるのであります。
「燒かるる者は『汝』にあらずして
『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。
『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるに非ず、
神より出(い)でざる汝は實在にあらず」と示されております通り、
「病んだり、悩んだりしている汝」は、真に実在するのではなく、
夢の中の人物のようなもので、「本来無い」のであります。
(5)「真理の光」に照らして、「汝らは、神より出でざるが故に、
如何に実在の仮面を被るとも実在にあらず」と、
最後の最高裁判所的裁決を下すのが、
真理(キリスト)の再臨による「最後の審判」なのであります。
<感謝合掌 令和6年10月10日 頓首再拝>
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15:伝統
:
2024/10/20 (Sun) 11:34:08
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多くの母親は子供のことを餘りに取越苦勞するために、
却つて子供に惡思念を放送して子供の健康や運命を害してゐる。
或る母親は一瞬間でも自分の眼の前にゐないと心配でたまらないのである。
彼は自分の想像の中(うち)で、躓いて轉んでゐる自分の子供の姿を思ひ浮べる。
自動車にひかれて死にかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。
水に陥(はま)つて溺れかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。
世の母親よ、何故(なぜ)あなたはこの反對をして可(い)けないのか。
こんな取越苦勞が起るのは、子供を神の子だと思はないで人間の子だと思ふからである。
神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。
人間の子だと思ふものは終世(しゅうせい)、取越苦勞をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思ふものは、子供を尊敬して出來るだけその世話をさせては頂くが、
神が守つてゐ給ふと信ずるが故に取越苦勞は必要はないのである。
人間力で子供を生かし得ると思ふなら終日終夜起きて子供の番をしてをれ。
それは出來なかろう。
出來ない間に子供を生かしているのは神の力である。
(日付不明)
<感謝合掌 令和6年10月20日 頓首再拝>
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16:伝統
:
2024/10/21 (Mon) 11:13:40
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*「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《児童教育に關する神示》」
より抜粋
(1)教育の根本は、
「人間神の子」は実は「人間の子」ではなくして
「神の子」であということであります。
(2)「神の子は神を育てる」のである。
(3)教育の根本は、人間を単なる肉体的存在だと思わず、
”神の自己実現”であると尊敬して、人のうちに内在する
神性・仏性な”無限の可能性”を拝み顕(いだ)すところに
あるのであります。
<感謝合掌 令和6年10月21日 頓首再拝>
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17:伝統
:
2024/10/26 (Sat) 10:18:36
-
*「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《児童教育に關する神示》」
より抜粋
(4)教育に最も大切なのは”観”をかえることであります。
人間を”無限の可能性”を内に蔵する”神の子”として観じ、
その”無限の可能性”を愛語と讃嘆の言葉の力にて
引き出すことが本当の教育なのであります。
(5)両親の心配は”精神波動”の放送となり、それを子供は受像して、
心配した通りの状態をテレビの受像機のように
眼に見える象(かたち)にあらわす事になるのであります。
だから子供を愛する親たるものは、「常に子供が”神の子”で
あって神に護られている」ということを念じて、平和と調和と
幸福の”精神波動”を子供に対して放送するようにしなければ
なりません。
(6)子供の姿は、親の心の姿の投影(かげ)なのであります。
<感謝合掌 令和6年10月26日 頓首再拝>
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18:伝統
:
2024/11/11 (Mon) 11:27:49
-
【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』)
聖書に吾らが祭壇に對して供物(そなえもの)を獻ずるに當つては、
先(ま)ず兄弟と仲直りしなければならないと云(い)ふことが書いてある。
吾らは食事をとるに當つても矢張り
これと同じことをしなければならないのである。
何故(なぜ)なら食事は
自己に宿る神に供へ物を獻ずる最も嚴肅な儀式であるからである。
一椀を手にしては
是れ今迄過ちて人に對して憎み怒りし自己の罪が神によって
許されんがための供物(そなえもの)であると念(おも)ひて食せよ。
二椀を手にしては
是れすべての人の罪が神によりて許されんがための供物(そなえもの)
であると念(おも)ひて食せよ。
三椀を手にしては
是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を
犯さざらんが為の供物であると念(おも)ひて食せよ。
而(しか)して一杯の飲料を手にしては
すべての人の罪をこの水の如く吾が心より洗ひ流して
心にとゞめざらんがための象徴(しるし)と思ひて飲め。
若(も)し病人にして醫藥を服用する者あらんには
それを四口(よくち)に分けて飲み、
この同じ想念をなして飲めば病(やまい)必ず速(すみやか)に癒えるのである。
すべての他の人の罪を恕(ゆる)すは、
吾らの過(あやまち)をも亦大生命なる神より
恕(ゆる)されんがためである。
若(も)し吾等(われら)が心を閉ぢて他(た)を恕(ゆる)さなければ、
大生命の癒能(いやすちから)もまた閉ざされて
吾等に流れ入ることは出來ないのである。
(昭和五年十一月四日神示)
<感謝合掌 令和6年11月11日 頓首再拝>
-
19:伝統
:
2024/11/12 (Tue) 09:22:31
-
『無病常楽の神示』朗読(谷口雅春先生))
https://www.youtube.com/watch?v=vjtRhhTeLOU
・・・
病んでゐると云う病は本來ない、苦しんでゐると云う苦しみは本來ない。
『これだけ自分は苦しんでゐる』と、その苦しみを自慢するやうな心は、
却つて病氣を招く心である。
キリストの受難に倣(なら)つて自分も亦苦しまうなどと云ふ心も
愚かな心である。
キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。
十字架も受難ではなく受苦ではなく法樂である。
神の子には『難』の受けやうがなく『苦』の受けやうがなく
任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、
すべてが惟神(かんながら)の法樂である。
斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭ふ心も
おのづから消え去つてしまひ、苦もなく、艱難もなく、
苦樂を超越した本當の樂想を生じ、吾れが一變し、天地が一變し、
人生はただ歡びの讃歌に滿たされるのである。
實相は苦樂を超越する法樂であって、
實相をもつて苦もなく樂もないと云ふのは謬見である。
汝らが『樂』と稱する『樂』は本当の『樂』ではないから、
『樂』を求むれば必ず苦を生ずるのである。
五官のうちに、感覚の惑はしのうちに
「樂」があるのとするのは謬見である。
五官の『樂しみ』は
その本性決して『樂』に非ざるが故に『苦』に變ずるのである。
實相はかくの如き假相の苦樂を超越すれども、眞相の『樂』そのものである。
法悦そのものであり法樂そのものである。
その『樂そのもの』が『常住の我』であつて、これが『神の子』である。
『神の子』が『人間そのもの』であつて、その外に『人間』はない。
人間とは常樂を言ひ、無病を言ひ、不苦を言ひ、不惱を言ひ、不懷を言ふ。
肉體は『人間』ではない。人間の心の痕跡(こんせき)であり、
足跡(あしあと)である。
破懷すべきものは人間ではない。
汝らよ、汝ら自身の不苦不惱無病の實相を見よ。
(昭和七年十一月十日神示)
・・・
無病常樂の神示
tmr0423(2020/07/03)
https://www.youtube.com/watch?v=Wqj-2ycXRaQ
<感謝合掌 令和6年11月12日 頓首再拝>
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20:伝統
:
2024/11/13 (Wed) 11:12:40
-
*『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《食事の神示》より
(1)現在は『生長の家の食事』ですが、
昭和24年4月の『生長の家』誌において
『和解の神示』として書かれてあります。
その点をふまえて谷口雅春先生の御講義をお読みください。
(2)食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるのです。
(3)大生命の癒能(ゆるすちから)を流れ入らしめるには、
すべての他の人の罪を恕(ゆる)すことが必要なのです。
(4)着衣喫飯みな仏法。
①生活の作法というものは其の儘精神に影響するものでありますから、
非常に大切な事なのであります。
②しかし、型から入りながら、型を行じながら型を超えて、
自然そのままになっている境地を目指すのです。
(5)食物は、その奥にある霊的生命を観て、
それに感謝して食物をいただくとき、
内在価値が展開してくるのであります。
<感謝合掌 令和6年11月13日 頓首再拝>
-
21:伝統
:
2024/11/14 (Thu) 11:48:14
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*『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《食事の神示》より
(6)人間は、「聖霊なる神の生命」の顕現であり、その「聖霊なる神の生命」に
供え物を献納するところの行事が、三度の食事であるというのであります。
(7)神示にある通りの神聖なる行事(罪を「洗い流す」象徴的行事)を通して、
「心の世界」に潜在化している罪を洗い流し、一層ハッキリと罪を消すことが
出来るのであります。
(8)肉体の病気なんか、たとい治っても、その肉体は十年先か二十年先か知らぬが、
やがて死んでしまう。
けれども、人を怨んだり憎んだりしておったら、其の人の肉体は死んでも、
魂が霊界に行ってからも、まだ怨んだり憎んだりしておって、それこそ、
其の人の霊魂は地縛の亡者になって彷徨(さまよ)わなければならんということに
なるのであります。
ですから、肉体の病気が治るということよりも、「人を憎む」という心の病気の
治ることの方がよっぽど素晴らしい功徳なのであります。
(9)眠りしなに心の重荷を卸(おろ)すための祈りの言葉
「私は今、神の無限の愛の御手に抱かれているのである。
神が全ての私の罪を恕し給うごとく、私も亦全ての人の罪を恕すのである。
私が全ての人の罪を恕すかの如く、神は吾が全ての罪を恕し給い、
愛の御手を以て、私を抱き給うのである。」
(10)私たちの怒り憎みというものを人類全体から無くする運動こそ
本当の平和運動だと言うことができるのであります。
<感謝合掌 令和6年11月14日 頓首再拝>
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22:伝統
:
2024/11/15 (Fri) 11:20:55
-
*「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《無病常樂の神示》」より抜粋
(1)神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく、
任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、
すべてが惟神(かむながら)の法楽である。
(2)「苦楽を超越した本当の法楽」でないと本物ではない。
(3)先ず自分がなくなることが必要である。
「自分」がなくなり、カラッポのパイプの中へ水が流れ入るように
「神」を流れ入らしめたら、「吾れが一変し、天地が一変し、
人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。
実相は苦楽を超越する法楽であって、
実相をもって苦もなく楽もないというのは謬見である。
<感謝合掌 令和6年11月15日 頓首再拝>
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23:伝統
:
2024/11/16 (Sat) 11:24:24
-
*「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《無病常樂の神示》」より抜粋
(4)実相というものは、相対の「楽」ではなくて、「絶対楽」であり、
その「楽」そのものが「本当の人間」だと言うのであります。
「本当の我」と「楽」とは一体てであるというので、
爰には涅槃経の"常楽我浄"の大乗仏教思想と同じものがあらわれているのです。
苦しんでいるのは「本当の我」ではないのであって、
「本当の人間」とは常楽即ち常に楽しいのであります。
「人間」とは本来無病のものなのです。
(5)本当の人間は「神の子」ですから、
絶対に病気もしないし苦しみもしないのであります。
だから神示には
「人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊を言う」
とあるのであります。
<感謝合掌 令和6年11月16日 頓首再拝>
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24:伝統
:
2024/11/17 (Sun) 12:01:32
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*「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《無病常樂の神示》」より抜粋
(6)肉体の現在の状態は心の足跡でありますから、
心がどこを歩むかということによって、
肉体の健、不健の状態の現れようが変って来るのであります。
肉体は人間じゃなくて「心の痕跡」であるとは巧みな形容であります。
だから、病気が現れておっても、それは「人間」が病気をしているのではなくて、
「心の足跡」がそんな姿にあらわれているのに過ぎないものですから、
「病気は無い!」とはっきり言えるのであります。
(7)生長の家の神様は罰を与えないけれども、
自分自身で自己処罰して罰を与えるのです。
(8)人間は「肉体」ではないのですから
霊であったら、普遍的の存在であり、自他一体でありますから、
他を生かすようにしていれば、自分が生きて来るようになるのです。
<感謝合掌 令和6年11月17日 頓首再拝>
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25:伝統
:
2024/11/18 (Mon) 11:14:38
-
*「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《無病常樂の神示》」より抜粋
(9)「人間は神の子である」ということを本当に自覚したら、
自然に他の人にも、その真理を伝えたくなるのです。
他に伝えたくならないようだったら、
「人間・神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。
(10)人間は「全体」の中にいるところの「一人」であって、
全体とのつながりに於いて生かされているのであるということが、
神の子の自覚であるということを忘れてしまって、
自分だけの力で神様と直通だ! というような考えを起しているから、
そういう間違った考えを起すことになるのであります。
<感謝合掌 令和6年11月18日 頓首再拝>
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26:伝統
:
2024/11/28 (Thu) 12:03:29
-
物質の束縛に縛られざるものを人間と言ふのである。
眞の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉體ではない。
肉體ではないから物質の世界に出入(しゆつにふ)する事もない。
物質の世界に出入(しゆつにふ)する事がないから
物質の世界より見れば人間は不生(ふしやう)である。
不生であるから滅することも亦ないのである。
物質界は念に從つて生ずる念の映像なるが故に、從つてまた滅すれども、
『人間』は本來物質界に生ぜざるを以て又滅すると言ふ事もない。
人間は本來『生(しょう)』である。
『滅』に対する『生』ではなく本來『生(しやう)』であるから、
老なく、病なく、死なく、破壞がないのである。
老とは『生(しやう)』の衰耄(すいもう)を言へども、
人間は本來『生(しやう)』であるから衰耄せず老朽しないのである。
衰耄は『生(しやう)』にあらず、人間に非ず。
衰耄なきを『人間』と言ひ、老朽せざるを『人間』と言ふ。
病なきを『人間』と言ひ、死なきを『人間』と言ふ。
釋迦は『人間』の生老病死の四苦を見て出家したと言へども、
釋迦はそのときまだ『人間』を見てゐたのではない。
念の影を見て『人間』と思ひ違ひしていたに過ぎない。
釋迦が此の世を見て無常と觀じたのも『眞の人間』の世を觀たのではない。
それは無明の投影の世を觀て無常としたのである。
眞の人間は無常の中にあらず、肉體の中にあらず、
人間は永遠不死、金剛身、如來身、實相身、清浄身である。
人間は神の子なるが故に本來『淨(じやう)』にして不淨ではない。
人間を指して不生不滅不垢不淨(ふしやうふめつふくふじやう)と言ふのは
眞相ではない。
般若(はんにや)の思想は無常想から實有(じつう)想に到る過渡的思想であるから、
不生不滅不垢不淨を説きたれどもこれは物質に譬喩しての方便説である。
人間は不生不滅ではなく、本來生(しやう)にして不滅がその實相である。
また人間は不垢不淨ではなく眞清淨真無垢(しんしやうじやうしんむく)が
その實相である。
本來生(しやう)、不滅、本來清淨眞無垢なる人間の實相を知つたとき
汝らは歡びに滿されて手の舞ひ足の踏む所を知らないであらう。
(昭和七年十一月二十五日神示)
本来生、不滅の神示 谷口雅春
tmr0423(2020/07/01)
https://www.youtube.com/watch?v=lP5SW7txUzs
<感謝合掌 令和6年11月28日 頓首再拝>
-
27:伝統
:
2024/11/29 (Fri) 03:20:36
-
われは七つの燈臺に火を點ずる者である。
われは白髪の老翁である。
白髪とは久遠永劫よりつゞく無量壽の象徴である。
われは彦火火出見尊が魚釣(なつ)らす鈎(つりばり)を失ひ給ひて
憂い泣きたまふ海邊に來りて、尊を龍宮界に導きたる
鹽椎神(しほつちのかみ)である。
鹽椎神とは水火土之神(しほつちのかみ)の謂(いひ)である。
靈は水火土と顯れ、一切のものは水火土から生れたのである。
われは靈の海、創造の神である。
水即ち『おしめり』と火
即ち『ぬくもり』と『土(つち)』の働きとがあって
萬物は生ずるのである。
黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鍵を持てり』
と録(しる)されてゐるのがそれである。
われを單に海の神だと思うな。
龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、
龍宮無限供給の神のシンボルである。
われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無盡藏である。
日本の國が貧しくなつたとて嘆くことはない。
日本の國は不幸にして我れを容れなかつたのである。
キリストの教會を閉鎖せしめ、そのほか色々の壓迫を加へた。
『生命の實相』も不當に用紙を配給せぬやにして
その出版を閉鎖したのである。
われは愛の神であるから神罰を當てたのではない。
眞理に目を閉ぢ、『我』を突き貫(とほ)して
つひに自壞するときが來たのである。
日本の國民よ、嘆くな。
迷ひの自壞の後には必ず《住みよし》の世界が來るのである。
われを戰ひの神と思ふな。われは平和進駐の神である。
住吉とは平和の理想境と云ふことである。
わが行くところに平和は來り、
わが行くところに龍宮無限の供給は來るのである。
キリストはわれの別名であるから、
キリストを押し込めたのがいかぬのである。
陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、
鹽釜の神を傍(かたはら)に押し込めてある。
軍國主義の神を正座に置いて、
平和の神を別座に一段下におとしてあるのが
今までの日本の姿であつたのである。
このやうな状態では日本が負けたのも仕方がない。
折角今此處にある無限の供給を閉ぢ込めて置いて、
増産を高唱してもそれは空念佛である。
まだ日本の眞の姿はあらはれてゐない。
今は伊邪那岐神の禊祓のときである。
伊邪那岐神は日本の神、日本の象徴である。
これから八十禍津日神、大禍津日神など色々の禍(まが)が出て來るが、
それは、日本が『穢(きたな)き』心になつてゐたときの
汚れが落ちる働きであるから憂ふることはない。
この禊祓(みそぎはらひ)によつて日本國の業が消え、
眞に淨まつた日本國になるのである。
心を明るく持ち、すべてを神直日、大直日に見直して、
禍(わざはひ)を傳じて福となさねばならぬ。
かくて齋女(いづのめ)の神はあらはれ、
本當にこの世が齋(いつ)き清められて、
その後(のち)に住吉の神があらはれるのである。
住吉の神はまだ本當にあらはれていぬ。
併(しか)しもうあらはれるに間もないのである。
住吉の神があらはれたら、伊邪那岐神の左の眼が眞に清められて、
日本の實相莊嚴の姿があらはれるのである。
古事記の預言を廢(すた)れりと思ふな。
預言は成就しつゝあるのである。
たゞその預言を間違つて解釈する人が多いのである。
(昭和二十年十一月二十七日未明神示)
・・・
終戦後の神示 谷口雅春
tmr0423( 2020/06/14)
https://www.youtube.com/watch?v=HUbGrCN7Xcg
終戦後の神示 谷口雅春
tmr0423(2020/06/06)
https://www.youtube.com/watch?v=8FUGVqN7SXM
<感謝合掌 令和6年11月29日 頓首再拝>
-
28:伝統
:
2024/11/30 (Sat) 12:22:32
-
*「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《本來生、不滅の神示》」より抜粋
(1)「物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。
真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。
肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。
物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。
不生であるから滅することも亦ないのである。」
(2)「不生」とは「生れぬ」と書いてありますが、
人間は肉体がオギャーと生まれた時に生れたのではないのでありまして、
それ以前からおるのであります。
久遠不滅の神の「いのち」が
今此処に生きているのが人間ですから、人間は「不生」である。
不生であるから死ぬこともないというわけであります。
(3)吾々の五感による感覚には人間はオギャーと生れた時に
「生れたいのち」を知るのですけれども、
生れたものは亡びなければならない。
生じたものは滅しなければならない。
これは永久に変わることなき真理であります。
だからこの「生じたところの肉体」を
「自分」だと思っている限りに於いては、
人間は死ななければならないのであります。
「不生」を得るには、
その考えをクラリと換えることが必要なんであります。
(4)人間は物質に非ず、肉体に非ずと生長の家で教えられる。
今迄物質だと思っていた世界が、物質じゃないのであって、
霊であるということが判るわけであります。
即ち釈迦が悟られた時のように山川草木国土悉皆成仏
――みんな仏の「いのち」の「現れ」である
ということが判るのであります。
そして一切のものが「物質」ではなく、人間も「肉体」ではなく、
「物質」ではないということがわかります。
そうしますと、人間の"rebirth"即ち「新たに生れる」「生れ更り」
というものが成就するのであります。
その「生れ更り」が成就すれば、
世界そのものが変貌するのであります。
<感謝合掌 令和6年11月30日 頓首再拝>
-
29:伝統
:
2024/12/01 (Sun) 11:28:32
-
*「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《本來生、不滅の神示》」より抜粋
(5)本来『生』というところが注目すべき焦点であります。
人間は「不生」なんですけれども、本来『生』なんです。
つまり始めなき初めから"生きて"いるのです。
人間は生命"そのもの"なのです。
現象界に生れたり滅したりするのではなくて、永遠に「生」なのであります。
(6)肉体というのは念の影であって、
「人間ではない」というのが神様の教えであります。
そして「念」というものが形に現れる。
「念があらわれる」いうのは、私だけの念があらわれるのじゃなくて、
〇〇億の人類というものはみんな「肉体というものは老いるものである」
という念波を起しているのであります。
それでその人類の念が、誰の肉体にもあらわれるのであります。
それを人類の念(即ち人類意識)の具象化と申します。
その人類意識の具象化に逆らって、多少でも若いのは、
私の特殊の精神波動という面が形に現れて、
割合若く見えているというだけのものであって、
その若く見えている肉体が人間ではない。
それは人間の念の影で出来た皮袋であって、
「人間を見ない」ものであるということになるわけであります。
だから「老朽せざるを人間といい、病なきを人間といい、
死せざるを人間というのである」と神様は宣言せられた。
何という素晴らしい宣言ではありませんか。
これ一つを聴くだけでも、素晴らしい大真理を知らされたものだと
歓喜勇躍すべきものであります。
<感謝合掌 令和6年12月1日 頓首再拝>
-
30:伝統
:
2024/12/02 (Mon) 12:04:26
-
*「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《本來生、不滅の神示》」より抜粋
(7)私たちは常にこの久遠滅びざる人間を見ることが必要なのであります。
この久遠病まず、老いず、滅びざる人間を観るとき、
現象的には病気しておっても「病気していないのだ。病気なんて無いぞーッ!」
と言うことが出来るのです。
現象的には老人になっていても、
「老いるってことは無いぞーッ!」と言えるんです。
(8)人間を観れば、「人間<そのもの>」人間の実相を観ることが必要なのです。
実相を観るのです。実相です。
自分の実相というものは、神の「いのち」そのものであるのです。
(9)自己の中に「無常」でないところの、
本来「常恒不変」なる実在が自分に宿っておって、
その「常恒不変なるもの」が自分の本質であり、
本当の「いのち」であるから、
「無常」というものに満足出来なくなるのであります。
即ち私たちの「いのち」の本質は「本来常恒」
――常に在って滅びないところのものであるわけであります。
(10)本当の救いというものは、
「人間は神の子である。老朽せざるを人間という。
病まざるを人間という。死せざるを人間という。
真清浄真無垢なるところの神の『いのちそのもの』が人間だ」
ということを自覚させて、
永遠に朽ちざる生命の自覚を与える宗教が一番素晴らしい宗教であり、
この最も高い救いを与えるのが、生長の家であるのであります。
そういう真理がこの神示には示されているのであります。
すなわち、
「本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき
汝らは歓びに満たされて、手の舞い足の踏む所を知らないであろう」
と示されている所以であります。
<感謝合掌 令和6年12月2日 頓首再拝>
-
31:伝統
:
2024/12/03 (Tue) 11:05:20
-
*『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《終戦後の神示》より抜粋
(1)水火土之神(しほつちのかみ)は創造の本源の神であるから
「無にして無尽蔵の神である」から この神の御意(みこころ)の
ままに波長を合して実践すれば、其処には龍宮無限の供給が
現実にあらわれ来るのだと教えていられるのであります。
(2)敗戦や敗戦後の日本は、それまでの自壊作用が具象化したのであります。
併し自壊作用として病気のような状態があらわれた後(あと)には
必ず恢復期が来るのであります。
何故なら現象界に事物があらわれるのは、内部にある想念感情又は
業の蓄積が象(かたち)にあらわれることによってそのエネルギーが
消滅するのですから、屹度その次には良き事が来るのであります。
<感謝合掌 令和6年12月3日 頓首再拝>
-
32:伝統
:
2024/12/04 (Wed) 11:20:13
-
*『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《終戦後の神示》より抜粋
(3)作者不明の年代不詳の古代から伝わっておりますお伽話(とぎばなし)
というものは、一種の神話でありまして、真理の童話の形をもって
表現されているのであります。
「桃の実」というのは、桃は「生命の樹(き)」の象徴であります。
「生命の河」を流れ下る「桃の実」は、生命の河の両岸に茂っている
”生命の樹(き)の実」(略して生命の実)であります。
「その樹(き)の葉は諸国の民を医(いや)すなり」というのは、
「生命(せいめい)の実(じつ)の相(すがた)を語る”言の葉”」
は諸国の民を医(いや)すということであります。
(4)まだ住吉大神の本当の宇宙浄化のおはたらきは
あらわれていないのであります。
住吉大神の みおしえ は既にあらわれているけれど
宇宙浄化の御働きがあらわれていない。
或いは今後キリストの最後の審判としてあらわれるかも知れないので
ありますが、愈々住吉大神(キリスト)宇宙浄化(最後の審判)の
おはたらきが顕れて来て、
伊邪那岐(日本国の象徴)の左の眼が真に浄(きよ)められると、
天照大御神(日本の実相)がその左眼からお生まれになる、
即ち「左」は日足りで、光輝く日本の実相荘厳の姿があらわれるので
あります。
<感謝合掌 令和6年12月4日 頓首再拝>
-
33:伝統
:
2024/12/05 (Thu) 10:46:26
-
【信仰生活の神示】 (昭和六年十二月五日神示)
信仰生活とは、無用意の生活ではない。
すべてに於て完全に用意されてゐる生活である。
凡そ信仰生活ほど完全に用意されてゐる生活はない。
それは心が完全に用意されてゐるだけでなく、
物質にも完全に用意されてゐる生活である。
物質は心の影であるから心が完全に用意されてゐるとき
物質も必要に應じて完全に與へられるのである。
家庭は一つの有機體であるから、
良人が明日の用意をしないときには妻が明日の用意をするやうになる。
妻が明日の用意をしないときには良人が明日の用意をする。
右の手が利かなくなつたら左の手が利くやうに成るのも同じことだ。
それは自然の代償作用でさう成るやうに計らひがあるのである。
それは有難い自然の計らひであるから、夫婦互いに感謝するが好い。
信仰生活とは明日の用意をしない生活だと思つて、
明日の用意をする配偶(つれあひ)を信仰がないと思つて
夫婦が爭ふ信仰深い家庭があれどもみんな誤つた信仰である。
『明日のことを思い煩うな』と云ふ意味は、
『明日の用意をするな』と云ふことではない。
信仰生活とは冬が來てから綿入を縫へと云ふやうな生活ではない。
秋から冬に要る綿入を縫うて置いても、それは『取越苦勞』ではない。
心が整へば秋から冬に要るものがちゃんと判つて、
自然法爾(ひとりで)に其の要る物を用意したくなるのである。
自然法爾(ひとりで)と云ふものは、外から自然に與へられることばかりではない、
内から自然に催して來るこころの中にも自然法爾(ひとりで)がある。
心が亂れて病氣になつたとき心が調へば
その病氣を治すに適當な食物が欲しくなるのも自然法爾(ひとりで)である。
野の鳥も卵を産む前に自然に巣を作りたくなる。
卵を産む前に巣を造つても小鳥は取越苦労をしてゐるのではない。
『生長の家』の生活は物質に捉はれない生活だと言っても、
物質をきたながる生活ではない。
金銭を穢いもののやうに思つてそれを捨てねば氣が安まらぬやうな心も
物質に捉はれてゐるのである。
物質は影であるから綺麗も穢いもない。
卵を産む前に小鳥が巣を造りたくなるやうに自然に用意をしたくなる時には
内からの囁きに導かれて好い、心が調へばその心の展開として用意すべきものは
適當の時に用意したくなる。
すべて用意するものを信仰浅きものと思ふな。
用意しないで取越苦勞をしてゐる生活もあれば、
取越苦勞をしないで自然に用意している生活もある。
(昭和六年十二月五日神示)
信仰生活の神示(朗読)
tmr0423( 2020/06/27)
https://www.youtube.com/watch?v=iJMSHLsC-lo
<感謝合掌 令和6年12月5日 頓首再拝>
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34:伝統
:
2024/12/06 (Fri) 11:00:36
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*『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《信仰生活の神示》」より抜粋
(1)受験勉強
入学試験に際してでも、
「神まかせ」といって勉強しないのがよいのではなくて、
神に導かれながら勉強するのがよいのであります。
(2)夫婦補完の作用
夫婦は互いに一体でありますから、
妻が明日の用意をしないときには夫が明日の用意をします。
右の手が利かなくなったら左の手が利くように成るのも同じことであります。
それは自然の代償作用でそう成るように計らいがあるのであります。
それは有難い自然の計らいであるから、夫婦互いに反対の性質をもっていて、
足らぬ所を補ってくれるのを感謝するが好いのであります。
<感謝合掌 令和6年12月6日 頓首再拝>
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35:伝統
:
2024/12/07 (Sat) 08:58:30
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*『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《信仰生活の神示》」より抜粋
(3)「取越苦労するなかれ」とは
「取越苦労するなかれ」ということが
『生命の實相』の生活篇に教えられていますが、
「取越苦労しない」ということを、将来のことについて
「何もしない」ということになってはならないのであります。
信仰生活を送っているものは、神様の智慧に導かれ、内からの催しに動かされて
自然に準備が出来て来るようになるのであって、
夏のうちに冬の用意をちゃんとして置いても、
それは取越苦労の生活ではなく、信仰ある者の正しい準備の生活であります。
(4)自然法爾
①心が整えば自然の摂理で、先見の明がひらいて来て、
何でもあらかじめ自然に準備されることになるのであります。
小鳥が卵を産む前に、巣を造りたくなるように、自然に用意したくなる時には、
内からの囁きに人間も導かれるようになると、失敗がないのであります。
②心が整えば、その心の展開として、
用意すべきものは適当な時に用意したくなるのであります。
だからすべて用意すべきものを適時に用意する者を、
信仰浅きものと思ってはならないのであります。
用意しないで物が乏しくなって、取越し苦労をしている生活もあれば、
取越し苦労をしないで、自然にゆたかに用意している生活もあるのであります。
<感謝合掌 令和6年12月7日 頓首再拝>
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36:伝統
:
2024/12/08 (Sun) 11:49:57
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*『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《信仰生活の神示》」より抜粋
(5)捉われない生活
①物質を用意しても、必ずしも物質に執着しているとは限らないのであります。
物質でもお金でも、物質そのもの、お金そのものがきたないのではありません。
②物質やお金を利己的目的のために執着するのがいかんのであります。
財というものは、それ自体は綺麗も穢いもないのです。
それを何に対して如何なる心境で使うかという事によって、
それが綺麗にも穢くもなるのであります。
③だから生長の家の生活は物質に捉われない生活だと言っても、
物質を穢ながる生活じゃない。
物質に執着しないが、却って自由自在につかえるのであります。
④物質というものは影であるから、綺麗も穢いもない。
心が調うたら、影が自然と整うようになるのであります。
⑤併し、また宗教に対する献金は清浄なものですから、
苟(いやしく)も無駄に使ってはならないのであります。
清らかな心で出された献金は清らかであります。
清らかな心で使う金は清らかであります。
清らかな献金を利己的目的に使ってはならないから、
私は出来るだけ本部の経費もきりつめて、
自動車なども整理したのであります。
これが信仰生活であります。
無限供給であっても傲(おご)ってはならないのです。
<感謝合掌 令和6年12月8日 頓首再拝>
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37:伝統
:
2024/12/09 (Mon) 11:01:03
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*『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《信仰生活の神示》」より抜粋
(6)無限供給とは
①「一千万円もらったら何に使おうか」と考えて、
自分の家を建てて、立派な着物を着て、
楽をして酒をのんで、遊び女を買ってなどと思うような人は、
中々一千万円は集まらないのであります。
もし一千万円が出来たときに、それを何に使おうという立派な使い道があり、
それにふさわしい能力がチャンと出来たときに、
「神よ、この目的のために、一千万円を与えたまえ」と念じたら、
一千万円集まって来ます。
②だから、人類のために或いは神様のために、
この世を光明化するためにという目標が定まって、
しかも、それを無駄なく有効に使う力が出来てこそ、
初めて富を祈れば、富が来るということになるのであります。
若し集まって来た富を使いこなす事が出来ない人に、
偶然多額の富が集まって来たら、
小人はそれに振り廻され、その富に翻弄されて、
自分が危険な所に放り込まれるという事になるのであります。
③先ず自分自身の魂が清らかになること、
自分の心が利己的にケチでなく豊かになること、
そして心にそれを何に使うかという完全な理想が描かれること、
その上その理想を実現する能力が研(みが)かれたならば、
その理想実現に必要なものは、自ずから集まってくるのであります。
<感謝合掌 令和6年12月9日 頓首再拝>
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38:伝統
:
2024/12/27 (Fri) 08:53:56
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國は人間生命の外延である。それは身體が人間生命の外延であるが如くである。
人間生命が神より生れたる神聖なるものであるといふ自覺が、
その外延であるところの國をも神より生れたる國であるとの神聖性を要求するのである。
この要求が神によつてその國が造られたのであるとの神話を創造するのである。
しかも人は自己が無にして絶對であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者
である(民主)との自覺を、生命の外延の世界においても持つことを要請するのである。
觀られる世界は觀る人の心の世界であるからである。
身體も國も共に觀る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。
觀る心の要請が身體においては脳髄の存在となり、國に於(おい)ては永遠の元首なる、
無にして絶對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。
天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る。
即ち觀る主體(民)が神聖であるから、觀らるる客體である天皇が神聖なのである。
觀る主体(民)の神聖性が包まれ蔽(おほ)はわれて混濁するとき、
天皇の神聖性は蔽(おほ)はわれて發現しなくなるのは其のためである。
今の状態がそれである。
人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造して
その歴史の中に住む自己を觀るのである。
天孫降臨とは人間自身すなはち民(たみ)自身が天孫であり、
神の子である自覺の反映にほかならない。
かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。
されば民が主であり君(きみ)は客(かく)である。
是(これ)を主客合一の立場に於(おい)て把握すれば主客一體であり、
君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む。
民を拝みたまう治(ぢ)は、君を拝むところの事(じ)と一體である。
治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。
天皇は絶對者にましますとは、觀る主體たる人間(民<たみ>)の絶對性より來る。
民が自身の絶對性の把握が破れるとき、その反映として國の絶對性と天皇の絶對性と
は破れるのである。
打ち續く敗戰により、民(たみ)自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、
天皇大權の一時中斷の形をもつて現れたのである。
(一二・二八 午後一二時)
<感謝合掌 令和6年12月27日 頓首再拝>
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39:伝統
:
2024/12/28 (Sat) 13:00:21
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敗戰の原因は多々あれども戰爭を始めたから敗けたのである。
これは過去現在未來永劫に變ることなき眞理である。
戰爭を始めねば敗戰もない。
當り前のことが當り前なのである。
眞理というものは簡單で直截明瞭である。
當り前のことがなかなか解らぬ人が多いからこの世界が亂れるのである。
神が戰(たたかひ)をさせているのではない、
迷ひと迷ひと打合つて自壞するのだと教へてある。
迷ひの軍隊を皇軍だなどと思つたのが間違だつたのである。
この神の教へは『自給他足・他給自足』と教へてあるのに
独逸(ドイツ)にならつて經済自給圏を確立しよう
と思ったりしたのが既に相対の心である。
心に相對があらはれ、彼我對立する心は既に戰ひの心、
分裂抗爭を予想しての心であるから、戰爭準備の心である。
世界は一圓相であると云ふうことを知らねばならぬ。
世界一環互に手と手を繋(つな)ぎ合つて、
しつかりと和する心になつてゐたらば戰爭もなく敗戰もなく、
實相無限の圓滿調和世界が實現する筈(はず)であつたのに、
當時の日本人は氣が狭くて島國根性であり、排他的精神で、
我慢自慢独善精神に陥り、それを日本精神だと誤解して、
一人よがりにいい加減な気持になつて、
遂に世界を敵として戰ふやうになつたのである。
排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、
切る心は切られる心と教へてある通りに
自分が切られる事になつのである。
切る心は三日月の心であり、利鎌(とがま)のやうに氣が細く、
角だつていて、空にあらはれてゐる時間も少く、
その光も弱く、直(じき)に地平線下に沈んでしまふ心である。
心の通りに日本の國が沈んでしまっても、
それは日本人の心みづからの反映であるから、
徒(いたず)らに失望、落膽、放心してしまつてはならない。
『見よ、われすべてのものを新たにするなり』と教へてある。
現象の三日月は沈んでも實相の圓滿玲瓏一圓相の滿月は
依然として虚空に輝いている。
それと同じく、心狭くとがりたる排他的な
軍國主義の似非日本の國は沈んでしまつても、
實相圓滿の日章旗のやうにまんまるい日本の國は
無くなつてはゐないのである。
有るもの、有りしものは永遠に滅びることなく、
必ずそれは日本人全體の心が圓滿になり、
實相の波動に日本人全體の心の波動がぴつたりと合ふやうになれば、
現象界にもその不滅圓相のすがたをあらはすのである。
汝等嘆くことはない、
滅びしものは本來無きもののみが滅びたのである。
無きものは滅びるほかはない。
軍國日本の如きは本來無き國であるから滅びたのである。
神州日本は不滅であり、永遠に滅びることはない。
滅びたやうに見えてゐるのは實相が蔽ひ隠されてゐるだけである。
實相を蔽ふ心が眼鏡(めがね)をかけている心である。
すべて此の世の中の事物は象徴であるから、
その象(かたち)をよく見てゐれば、
世界に何が起りつゝあるかを知ることが出來るのである。
(昭和二十年十二月二十八日未明神示)
<感謝合掌 令和6年12月28日 頓首再拝>
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40:伝統
:
2024/12/29 (Sun) 13:39:21
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*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《君民同治の神示》」
より抜粋
(1)この神示は、先ず、国とは如何なるものか
という解明から始まっているのである。
「国は人間生命の外延である。
それは身體が人間生命の外延であるが如くである」
としめされている。
人間の生命は、神より来たり、
神の自己実現として地上に「生」を保つのである。
その「生命の波動」が外部に具象化したものが「肉体」である。
その「生命の波動」は、
人間に於いては想念感情となってあらわれるのであるが、
想念感情の変化にしたがって、肉体に健・不健の状態があらわれるのは、
生長の家誌友に無数の実例があるのであって、
それは既に読者諸君が充分知悉していられるところである。
肉体が「人間生命の外延」として想念感情の変動を
容易にその健・不健にあらわすとするならば、
國家が「人間生命の外延」である限りに於いて、
国民自身の想念感情が、国家の状態に具象化することは
当然の事だと言わねばならないのであります。
国家の事を述べるに先立って順序として
「環境」について考えて見るならば、
「心が変われば環境が変わる」という事実は随分沢山あるのであります。
それを先ず述べて理解の基礎を築いて置きたいと思います。
(2)自己の心が「神より生れたる神聖なもの」だという自覚が得られると、
その「外延である肉体」が、
神らしく健康なものとなる実例は沢山ありますし、
また心が一変すれば、
上記のように環境が一変するという実例も沢山あるのであります。
「生命の外延」というものを、
生命を包む一種の「肉体」としてみとめるならば、
環境や境遇は広い意味に於いて、人間の「肉体」であり、
国家というものは、「多くの国民の心」の外延として
多くの国民の心を反映している全国民の「肉体」みたいなもので、
国民大多数の心の状態が国家の状態を決定するのであります。
だから、その国の人民が、自分が「神の子」であり、
“ミコト”であるという自覚がある場合には、
その人民の生命の外延(肉体)としての国家は、
「神の国」だという国民自覚を生ずるのであります。
<感謝合掌 令和6年12月29日 頓首再拝>
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41:伝統
:
2025/01/06 (Mon) 11:42:27
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梅の花の開く時節が來たのである。
去年の春に聖典『生命の實相』の一部を或る人に讀ませて、讀むに從つて、
一頁毎に、まだ時期來らぬ固き白梅の蕾を一輪づつ開かせて、
その開く毎にポンと《音を立てさせて》あつたのは、
彌々(いよいよ)《ひらく年》の型を見せてあつたのである。
今年が彌々開く年である。
昭和八年は彌(や)の年、彌々(いよいよ)の年、
《八》の年、《ハ》ナの年、《ハ》リ伸びる年、
《ハ》ジメに開く年である。
《ハ》は開き伸びると云ふ意味であつて、
春、原、腹、晴、遥等皆この語源から來るのである。
コト《バ》の『ハ』も開くと云ふ意味から來たのである。
スメラミコト(命<みこと> ― 神)が開き展(の)びるとき音をたてるのであるから、
固き梅の蕾の花を開かせてその一輪毎にポンポンと音をたてさせて
型が示してあつたのである。
『萬づのもの言葉にて生み出される』と云ふことが象徴化して示してあつたのである。
梅の花とは、《生みの花》 ―― 創造(うみ)の始動(はな)のことである。
『生みの花』はまた『海の原』のことである。
『梅の花』の五瓣は五大洋に象(かた)どる。
五大洋にスメラミコトの花が開く始まりが今年である。
一つ開く毎にポンと音がさせてあるのは何の象徴であるか考へれば判るであらう。
何事もなしにはスメラミコトの花は開かぬのである。
一つ一つ開く毎にポンポンと音を立ててつひに五大洋に梅の花がひろがるのである。
開くまでには嚴寒の冷たい日が續くが、
嚴寒の冷たい日があるので一陽來復の日が來るのである。
無明(まよい)の自壞作用がないのに光明遍萬の樂土が來るなどと甘いことを思ふな。
昨年十二月十一日にも『戦ひの時は來たのだ』と知らせてある。
ヒノモトの軍(いくさ)が嚴かに進むのは、
無明(まよひ)の世界を照らす唯一の光が進むのである。
甘い平和論に耳を傾ける勿(な)。
膏薬貼りで此の世が幸福になるなどと思ふな。
世界には《唯一の》光しかないのだ。唯一の光であるからヒノモトと呼ぶのである。
ほかの光は皆僞(いつわり)の光ばかりである。
梅の花には中心が一つしかないではないか。
世界に中心が幾つもあつて爭つてゐて人類が幸福になれるなどと思ふな。
太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、
人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。
極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。
この事實を見て宇宙の意志を窺へよ。
地上の國々だけが中心が幾つもあつて好いと思ふな。
複數の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。
一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいたのである。
現在無中心主義を標榜する者は皆現在の中心を貶黜(へんちゅつ)して
自分が中心を僣稱したいからである。
スターリンなど、無明(まよひ)の塊の人物を中心として
世界が幸福になれると思ふものは愚か者である。
世界を一つに統一する運動は二つある。
一つは露西亜(ロシア)から始まつてゐる運動で、
世界を物で支配する運動である。
もう一つは靈の本(ヒノモト)から始まつてゐる運動で、
世界を靈で支配し、一つの光明に統一する運動である。
この二つの運動の衝突は避けられぬ。
時機は迫つてゐるのに、まだヒノモトの使命を知らぬ者があるのは歯痒い。
本當の愛は甘えかす愛ではない。戦ひの愛である。
(昭和八年一月六日神示)
<感謝合掌 令和7年1月6日 頓首再拝>
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42:伝統
:
2025/01/06 (Mon) 13:45:30
-
われ再び大日本天津日嗣天皇(だいにつぽんあまつひつぎすめらみこと)
と云ふ意味について語らん。
天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、
天(あめ)が下(した)ことごとくが一つの光の世界になり、
大和(だいわ)、平和の世界があらはれると云ふ意味の象徴的表現である。
日本民族が世界を治めるのではなく、
『天孫(てんそん)』すなわち
『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。
これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。
それが眞(まこと)の大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)である。
大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)ということを狭い意味に解して、
日本民族の國だなどと考えるから誤解(まちがひ)を生ずるのである。
そんなものは小日本であり、本當の大日本國(ひかりのくに)ではない。
天(あめ)の下(した)ことごとくが
『天のみこころ』で滿ちひろがる世界が來ることを、
「全世界五大洲の國土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が來る」
と教へたのである。
天孫とは肉體のことではない。
「肉體は無い」と云ふことをあれほど教へてあるのに、
やはり肉體のことだと思つて
執着が強いから大(だい)それた間違(まちがひ)をして
取返しがつかぬことになるのである。
神からみればすべての人間は神の子であるから、
特に日本民族のみを愛すると云ふことはない。
あまり自惚れるから間違ふのである。
大日本天津日嗣(だいにつぽんあまつひつぎ)スメラミコトとは
固有名詞ではない。
理念の表現である。
「大日本(だいにつぽん)」すなわち「ひかりあまねき」、
「天津(あまつ)」すなわち「天の父の」、
「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまえる」、
「スメラミコト」すなわち
「天降(あも)りましたる帝王(ていおう)」という意味であるから、
總じて譯せば「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる
天降(あも)りましたる帝王」と云ふことである。
天の父のみこころが全世界に光被(くわうひ)して
あまねく平和になる世界になれば、
それが本當の大和(だいわ)の國である。
それが本當の大日本天津日嗣(だいにつぽんあまつひつぎ)すめらみことの
治(しろ)しめし給ふ世界である。
肉體のことではない。
(昭和二一年一月六日朝の啓示による)
<感謝合掌 令和7年1月6日 頓首再拝>
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43:伝統
:
2025/01/07 (Tue) 10:57:22
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*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《君民同治の神示》」
より抜粋
(3)では、神とは何であるかというと、
「無にして絶対であり、一切の主であり、
永遠者であり、久遠の主宰者である」
とあります。
従って神の生命を分かち有つところの「神の子・人間」も
「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者」
でなければならない。
その「久遠の主宰者」たる自覚を
「生命の外延の世界(社会及び国家)に於いても
持つことを要請する」主義が民主主義なのであります。
そこで、その民主主義なるものは天皇制と背反するものであるかの如く
説く人もありますが、
天皇制そのものが、「久遠の中心者」又は「久遠の主宰者」を
要請する「人民の心」の反映として、
日本民族の「生命の外延」として存在することを
此の神示には次の如く示されているのであります。
「身體も國も共に、観る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。
観る心の要請が身體に於いては脳髄の存在となり、
國に於いては永遠の元首なる、無にして絶對であり、
一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。
天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る……」
この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、
その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、
対象をそのように感ずるのでありますから、
吾々が国家に於いても、「変わらざる永遠の中心者」を要請するのは、
人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がある
からであります。
人間自身の生命に、
「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がやどっているのは、
人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、
「変わらざる永遠の中心者」を要請する根本要求があるためであって、
そのためにすべての造られたる物には
「変わらざる永遠の中心」が備わっているのであります。
だから、
「観る心の要請が、身体に於いては脳髄の存在となり、
国に於いては永遠の元首なる、無にして絶対であり、
一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである」
と示されているのであります。
<感謝合掌 令和7年1月7日 頓首再拝>
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44:伝統
:
2025/01/08 (Wed) 11:14:32
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*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《君民同治の神示》」
より抜粋
(4)この神示に於いて注目すべき点は
「無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇」
とあることであります。
天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、
「無にして絶対」なのであります。
(5)しかし、そのような天皇の神聖性は、人民自身が「無」になって
謙虚に天皇に対して回帰しない限りはあらわれない。
傲慢に天皇を批判している者にとって、
天皇の神聖性が理解されないのは当然のことである。
だから、
「観る主體(民)の神聖性が包まれて蔽はれて混濁するとき、
天皇の神聖性は蔽はれて撥現しなくなるのは其のためである。
今の状態がそれである」
と示されているのである。
自己に内在する「神聖性」が包まれ蔽われて混濁している場合には、
天皇の神聖性は蔽われて発現しない。
自己の内に「神聖性」が発現し、その「神聖性」を観る眼をもって、
国家を観、天皇を観るとき、其処に、自己の神聖自覚の投影としての、
神聖国家及び神聖天皇を観ることができるのであります。
(6)神示には、
「人間は自己自身の神聖性のゆゑに
神造の國家に神聖降臨の神話を
創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。
天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が、
天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。
かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。
されば民が主であり、君は客である」
と時代に適応したところの民主主義に背反することなき、
天皇神聖論をお諭しになっていられるのであります。
(7)神示は更にこれを綜合的立場から説明を加えて、
「是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一體であり、
君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む」
と説かれ、
天皇の「治」を民を拝みたまう行事として、
次のように示されているのである。
「民は君を拝み、君は民を拝む。
民を拝みたまふ“治”は君を拝むところの“事”と一體である。
治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、
君民同治である。……」
(8)神示によれば、
政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、
「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」
ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。
(9)併し現在の日本の状態は、天皇の神聖性などを観ることが出来る者は
残念ながらきわめて少ないのであります。
それは人民自身が自己の神聖性をみとめないで、
自己をただの「物質なる肉塊だ」と観じている。
そしてこの肉体なる化学物質の反応の如き本能満足の要求を
「基本人権」だなどと信じているのですから、
「人民自身の絶対性の把握」など殆どない。
そして、“観られる世界”は“観る心”の反映であるから、
天皇の絶対性など観得る人も殆ど無いのであります。
そのことを此の神示には、
「天皇は絶對者にましますとは、
観る主體たる人間(民)の絶對性より來る。
民が自身の絶對性の把握が破れるとき、
その反映として國の絶對性と天皇の絶對性とは破れるのである。
打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが
國家大權天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである」
という風に諭されているのであります。
<感謝合掌 令和7年1月8日 頓首再拝>
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45:伝統
:
2025/01/09 (Thu) 11:06:30
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*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《日本の實相顯現の神示》」より抜粋
(1)神が戦(たたかい)をさせているのではない、
迷いと迷いと打合って自壊するのだと教えてある。
迷いの軍隊を皇軍だなどと思ったが間違だったのである。
(2)業の自壊・自己解除の”巻き戻し”の過程として
あの戦争は起こったのである。
英米の業と、日本国の業との衝突となってあらわれて来たのである。
(3)「排他精神は切り分ける心であるから」結局、自分も切られて
三日月のように「直(じき)に地平線下に沈んでしまふ」
ということを教えているのである。
(4)世界に平和を来らすのは、「結び合わす」働きがなければならない。
私たちは今後余程、
言語、行動に慎み深くならなければならないのであります。
(5)軍国日本は本来無いのであります。
本来無いから消える。
消えても本来あるところの
円相の大和(だいわ)の日本は消えやしない。
実相の大和(だいわ)日本のみが独在であるから、
それをあらわすようにすればよい。
それが”日本国の実相顕現”だと教えられているのであります。
(6)神州日本が滅びたように見えているのは、
「実相が覆い隠されている」だけのことである。
実相不敗の日本国は永遠に滅びることはないのである。
<感謝合掌 令和7年1月9日 頓首再拝>
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46:伝統
:
2025/01/10 (Fri) 11:16:19
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*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《梅の花の神示》」(P36~54)より抜粋
(1)現象界に起こる事物は、”カゲ”即ち心の世界に既にあることの
”象徴”であるから、それを”象徴”として観察するとき、やがて
何が起こるかの兆候としてそれを判断することも出来るのであります。
(2)この神示において、
日本国力の伸展には「ポンポンと音をたてる」とあります。
既に心の世界に於いては、ポンポンと音をたてる大東亜戦争は
その「国力の伸展」の中(うち)に、その現象化のための
「心のフィルム」がつくられつつあったと見ることができるのです。
(3)「ヒノモトの軍(いくさ)」とは、「実相実現の内部的動力としての
ヒカリの摂理の進軍」であります。
形の上での物質の軍隊のことではないのであります。
(4)「摂理としての内部的動力」が動き出すと、現象界には「迷いと
迷いとが相打って自壊するという形」があらわれて、その自壊作用を
通して平和と光明とのみ充満する理想世界が実現するに至るのであります。
(5)物質によって世界を支配する運動に対して、霊によって世界を
統一する運動の中心をなすのが日本の使命であります。
東洋の使命、その代表者としての日本国の使命は「霊の使命」であり、
霊は分割し得べからざるものである。
分割したる世界を一つにまとめるのが日本の使命であります。
(6)実相に於いては「みんな”神の子”であり、兄弟である」という
霊的実相を知らしめるための戦いがヒノモトの戦いなのであります。
(7)世界政府に統一された世界連邦のような理想世界が実現する前に、
釈尊やキリストが揚言したような世界終末の大破壊が来る、という
ことを暗示した言葉が、この神示の最後の言葉にあります。
「本當の愛は甘えかす愛ではない。戦ひの愛である。」
これを緩和するようにするために、「世界平和を祈る会」に
参加して頂きたいのであります。
(8)世界平和の祈り
神の無限の愛われにに流れ入(い)り給(たま)いて、
愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給(たま)う
その光 愈々(いよいよ)輝きを増(ま)して
全地上を覆(おお)い、
すべての人々の心に愛と平和の思いを満(み)たしたまうのである。
<感謝合掌 令和7年1月10日 頓首再拝>
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47:伝統
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2025/01/11 (Sat) 12:02:04
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吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の實相」と云ふ。
完成(ななつ)の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顯現には
周期的波動があるからである。七つが事物の顯現の周期律になつてゐる。
吾れに神殿は不要であると嘗(かつ)て示したことがあらう。
吾れは道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。
吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。
『生命の實相』は吾が本體であり、無形の「生命の實相」を形にあらはしたのが
『生命の實相』の《本》である。
『言葉』を載せた書物を「本(ほん)」と云ふのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、
本質であり、本體であり、本物であるからである。
『言葉の宇宙』が先ず出來て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。
今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐたから、
宇宙の萬物の運行が亂れて生活苦や、病氣や、天災や戰爭など色いろ不調和なことばかり
起つたのである。
『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿な調和した言葉の
『本(もと)』が調(ととの)うたのであるから今後何事も急轉直下する。
『生命の實相』を披くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々たゞ自己の生命の
實相(ほんとのすがた)を知り、歡喜踊躍(かんきようやく)して
手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。
その歡びの相(すがた)こそ人間の生命の實相である。
吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本(ほん)の形にして、
披(ひら)いて讀むものにさせたのも象徴的因縁あることである。
『生命の實相』が展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。
今は過渡時代であるから、假相(かりのすがた)の自壊作用として
色々の出來事が突発する。
日支の戰ひはその序幕である。神が戰ひをさせてゐるのではない。
迷ひと迷ひと相摶(あいう)つて自壞するのだ。
まだまだ烈しいことが今後起るであらうとも
それは迷ひのケミカラィゼーションであるから
生命の實相をしつかり握つて神に委(まか)せてゐるものは何も恐るる所はない。
(昭和七年一月十一日神示)
<感謝合掌 令和7年1月11日 頓首再拝>
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48:伝統
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2025/01/12 (Sun) 12:22:34
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*「大和の国 日本」(P25~41)
(第一部『大和の國の神示』講義)より抜粋
(1)「天津日嗣」
①〝天津〟とは、天津神すなわち「実相の神」のことでありますが、
本源の神としては天之御中主神様を申し上げ、
これが陰陽二つの働きに分れて見れば
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)様と神産巣日神(かみむすびのかみ)様の
二柱の神様のことを申し上げているのであります。
②〝日嗣〟(ひつぎ)というのは〝日〟は即ち〝霊〟(ひ)であって
「霊的理念」のことであります。
③従って「天津日嗣」とは、天之御中主神の中心帰一の原理であるところの
「中」(みなか)の理念を承け継ぐということであります。
(2)「天孫降臨」
①〝天孫〟の〝孫〟とは子のつぎの三代目になる孫といった意味ではなく、
「天の御心」(理念)の真子(まこ)即ち「真実の子」(真実の具体化)
という意味であります。
②天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、天の下ことごとくが
一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらはれると云ふ意味の
象徴的表現である。
③「天の父のみこころ」を受けた真(まこと)の子すなわち、
皇孫尊(すめみまのみこと)によって全世界を治める時期が来る
ということであります。
(3)「大日本世界国」(ひかりあまねきせかいのくに)
①〝大日本〟とはひかりあまねき国であって、
日本列島の如き小日本ではない。
〝ひかりあまねきせかいのくに〟
これが「大日本世界国」であるのであります。
②本当の大日本国とはひかりの国であり、
「ひかりあまねき」日本の国こそ大日本国である。
それはすなわち
「天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来る」
ことだということであります。
(4)大日本天津日嗣スメラミコト
①大日本天津日嗣スメラミコトとは固有名詞ではない。
理念の表現である。
②「大日本」すなわち「ひかりあまねき」、「天津」すなわち「天の父の」、
「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまへる」、
「スメラミコト」すなはち「天降りましたる帝王」と云ふ意味であるから、
総じて譯せば
「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる天降りましたる帝王」
と云ふことである。
天の父のみこころが全世界に光被してあまねく平和になる世界になれば、
それが本當の大和の國である。
それが本當の大日本天津日嗣すめらみことの治しめし給世界である。
肉體のことではない。
<感謝合掌 令和7年1月12日 頓首再拝>
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49:伝統
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2025/01/13 (Mon) 11:20:16
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*「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《聲字即實相の神示》」
(P121~141)より抜粋
(1)聖書には、万物の最初の創造 ―― 光の創造は「言ひたまひければ」即ち、
”言葉”によって行なわれているのであります。
弘法大師も「聲字即實相」と仰せられており、
「聲」即ちコトバ及び「字」即ちコトバが形象化したものは、
事物の「實相」即ち「本質」であると説いていられるのであります。
(2)第一原因、第一にあるものがコトバであって、
それが創造力をもっていて、第二、第三と、
次々に現象が生まれて来るのであります。
①宇宙創造の本体にまします神はコトバであり、
万物はコトバの創化力によって出現したのであります。
だから事物の「成就」することを「成る」(鳴る)と言います。
②コトバは事物の本質でありますから、
コトバを載せた書物を「本(ほん)」と言うのであり、
コトバが世界を左右することにもなるのであります。
(3)生長の家はコトバの宗教でありまして
コトバの力によって人類の心を浄め、地上に起る事件を浄化し、
この世から一切の不幸を除去し
地上に天国浄土を建設しようという運動であります。
①日本の国をよくしようと思ったならば、
是非とも日本人の行為の基準を定めたところの憲法の
コトバを改正しなければならないのであります。
②神様は、『生命の實相』の初版の本が出たとき
(昭和7年1月に製本が完成)に、
「吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の實相」と云ふ。」と、
宣言せられたのであります。
『生命の實相』の本は、
ただの人間たる「私(谷口雅春)」が書きおろした本ではなく、
「私」を媒介として、或る神秘なる力が書いたればこそ、
病が治ったり、死刑囚が死刑から免除されたり
というような神秘的力を発揮するのだと考えられるのであります。
(4)『コトバの宇宙』即ち「神の想念による宇宙」が先ず出来て、
それが『形の宇宙』即ち「現象の宇宙」として時間的序列を通して
出現するときには、”数霊(すうれい)”による
周期率を以て展開して行くのであります。
大体、生命の発展周期は3と5と7の倍数で展開していくのであります。
<感謝合掌 令和7年1月13日 頓首再拝>
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50:伝統
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2025/01/14 (Tue) 12:27:42
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*「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《聲字即實相の神示》」
(P121~141)より抜粋
(5)「『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐる」というのは、
人間の想念及び言語が實相の円満さを
そのまま讃美し感嘆するようなコトバを内容とせず、
対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で
濁っていることなのです。
現象世界に不調和な事象が頻繁に起こっているのは、
「實相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於いて、
人間の「心のレンズ」が曇っていて、實相を同調しない濁った
想念(コトバ)を発しているからなのであります。
(6)すべて現象世界の善きものは、
「實相世界」にあるものの展開でありますから、
「實相」を心で観ずることによって展(ひら)いたら、
現象世界にも實相界の円満完全な有様が投影されて
実現することになるのであります。
その象徴として『生命の實相』の本を披(ひら)くことによって、
現象界にも家庭調和や病気の治癒や色々の功徳が
実現するようになっているので、
そのことをこの神示で示しているのであります。
(7)この神示は、日支事変中に示されたものでありあります。
實相世界には「戦争」そのものが無いのでありますから、
戦って敵を傷つける神軍というものは存在しないのであります。
すべて戦って互いに相傷つくもの「迷い」と「迷い」との衝突であります。
一時戦争としてあらわれて人類の過去の「迷い」(憎みや、民族的嫉妬、憎悪等)が
消えるのをケミカライゼーションと言ったのであります。
日支事変や大東亜戦争も「迷い」と「迷い」とが衝突して消えるための
自壊作用であったのは言うまでもありません。
併し私(谷口雅春)は、大東亜戦争中、日本軍が勝つように努力協力致しました。
当時、日本国内は言葉の力をきわめて「死」を讃美しており、
”言葉の力”を知る者として、黙ってはおれませんでした。
到る処の講習会場で、「皇軍必勝、必勝生還」の標語をつくり、
その”言葉の力”を強力に日本全土にひろめなければならない
と講演したのであります。
しかし、5万枚の「皇軍必勝」の短冊のコトバの力は、
数千万人の「水漬く屍」のコトバの力に対しては
まことに衆寡敵せずでありました。
こうして、「迷い」と「迷い」とは相博って自壊しましたが、
「生命の實相をしっかり握って神に委せているもの」は
その恐るべき自壊作用の中に於いても、何等傷つくことなく、
原子爆弾の放射を近距離に於いて受けても、
少しも傷つくことがなかったのであります。
<感謝合掌 令和7年1月14日 頓首再拝>