伝統板・第二 3280387

本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。


実相を観よ(Look into the reality) ⑥

1:伝統 :

2023/11/14 (Tue) 09:58:13


実相を観じて衆罪を自消せしめる祈り

         *「光の泉」(昭和54年12月号・日々読誦毎月真理経)より

神はすべての渾(すべ)てであり給う。
すべてのものの中(うち)に、一つの神の智慧が宿り給うて一切を計画し、
一切のものの動きを総攬してい給うのである。

そこには矛盾も衝突もあり得ないのである。
全体を調和した相(すがた)に於いて運営してい給うのである。

太陽の周囲を旋回する遊星が1分1秒の誤差もなく
毎年同一速度で旋回している神秘に私は今驚嘆しているのである。

この遊星をして太陽の周囲を旋回せしめてい給うと
同じ力がわれわれ人間の内部にも働いていて、
常に完全な生理作用を営ましめてい給うのである。

わたし達が現象の不完全さを見て起こしたところの私見の迷い心を棄て、
実相の宇宙の相(すがた)を見るならば

大宇宙の星辰の動きから、小はすべての生きとし生けるものの行動に
至るまで、われ等の日常生活の細目を含めて、今も過去も、そして未来も、
神の叡智がそれを支配し給うていることを知ることが出来るのである。

この神の叡智は単に智のみすぐれているのではなく、
常に無限の愛を伴うて、万物を祝福し給う形でわれわれの生活を
愛をもって導き、且つ護り給うているのである。

万物の動きには、
常に調和と生長と繁栄と進歩とが約束されているのである。

祝福されたる大宇宙、祝福されたるこの地球、祝福されたるわが日本、
祝福されたるわが団体、祝福されたるわが家庭、祝福されたるわが生活。

われのみならず世界のすべての人々が神の智慧と愛とによって
常に祝福されているのである。

衆生、劫尽きてこの世が破壊し去ると見える時にも、
その見える現象の姿は妄想であって本来無いのである。

わが浄土は毀(やぶ)れざるに、
衆は焼け尽きて諸々の苦悩、憂怖、充満せりと、
自己の妄想の具象化を見て途惑うのである。

併し、無量の勝れたる叡智の充満せるこの世界の実相を見よ。
一切の不調和も業障も本来存在しないのである。
それは仮相に過ぎないのである。

『甘露の法雨』には「仮相に対しては実相を以て相対せよ」と
示されているのである。

『観普賢菩薩行法経』には「一切の業障は皆妄想より生ず」とあり、
「懺悔せんと欲せば実相を観ぜよ、衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」と
示されているのである。

「懺悔する」とは過去の仮相を「私はこんなことを為したり」と
コトバで悪を言いあらわすことではないのである。
「洗い浄める」ことなのである。

悪を言いあらわせば悪は益々蔓(はびこ)ることになるのである。
悪の本来存在しない実相の「円満完全相」を観ずれば、
本来非存在なる悪が自消自滅してしまうのである。

この大真理を悟らしめ給いし神に感謝いたします。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「実相を観よ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6922622

(2)伝統板・第二「実相を観よ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7669466

(3)伝統板・第二「実相を観よ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7910498

(4)伝統板・第二「実相を観よ(Look into the reality) ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8021479

(5)伝統板・第二「実相を観よ(Look into the reality) ⑤」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264347

         <感謝合掌 令和5年11月14日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/11/25 (Sat) 12:11:02


       *「光明法語」(11月25日の法語)より

イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。

その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。

人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。

今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。

その時ラザロは復活した。

         <感謝合掌 令和5年11月25日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/11/27 (Mon) 10:00:07


   *「光明道中記」(11月27日《現象の奥に実相を見る日》)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。
                     (『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、
それを顕し、礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。
少くも好い。

実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

        <感謝合掌 令和5年11月27日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/12/03 (Sun) 12:50:28


     *「光明道中記」(12月3日《すべて自己の責任と知る日》)より

【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、
 其の人の心境は朗(ほがら)かである。(『生命の實相』第十巻)】

私は第二次世界大戦が欧州に勃発した時の日記に次のように書いている。

「すべて私の責任なのである。私はみずから顧みて恥じるほかない。
 考えて見れば欧州の天地で、
 ヒットラーが英仏を向うに廻して戦っている姿も私の心の影である。

 私が『ヒットラーよ、もう戦争を止めてくれ』と言ったら、
 ヒットラーが『ハイ』と答えて戦争を止めてくれるほどになれないのは、
 まだ私の力が足りないからなのである。

 力が足りないのは偉さの徴候ではない。
 私がまだそれほど偉くなれないのは私が悪いからである」

私はそんなにまだ偉くなれていないのである。
まだまだこれからだと思う。
光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。

光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、
「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが
私のところへ時々来るのは悲しいことである。

併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、
また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。

実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。

            <感謝合掌 令和5年12月3日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/12/04 (Mon) 10:45:30


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、自由思想家、
むしろ無宗教家と言われている人の側に真の宗教を体得した人々がある
ということができるのである。
真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、
みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実現し、
神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。

ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、ある人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって一緒に同情の涙をかき垂れて
号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、
同情の涙を流したことが聖書に書かれている。

しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ
「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。

「ああかわいそうに! 」と言って、
一緒に倒れふし泣き濡れて動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。

「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

            <感謝合掌 令和5年12月4日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/01/22 (Mon) 11:51:32


       *「光明道中記」(1月22日)より
         ~《九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日》

【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】

金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。

凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。

仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると
道元は『正法眼蔵』で喝破している。

たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。

発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、
人間はその仏なる実相を露呈する。

そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、
打てばそれがあらわれる。

打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 
生長の家は

「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。
 励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」

と言って打つ。

どちらが効果があるかは既に実証済である。

         <感謝合掌 令和6年1月22日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/01/28 (Sun) 09:35:26


       *「光明法語」(1月28日)より

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。

もしその人がよき人と現れなかったならば、
それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、
すべての人間が神の子であり、佛の子であることを
自覚する時どこにも悪しき人はいないのである。

         <感謝合掌 令和6年1月28日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/03/13 (Wed) 12:57:58


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

        <感謝合掌 令和6年3月13日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/03/27 (Wed) 11:59:58


           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば
全身は明るくなり、健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、
豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。

        <感謝合掌 令和6年3月27日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/04/23 (Tue) 11:08:05


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、

なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 令和6年4月23日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/06/01 (Sat) 13:11:25


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。

「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」
と云う『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、
既に肉眼では見えないが波長を合わしさえしたならば
現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように
今此処に既にあるのである。

現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから不調和なものばかりが現れて来るのである。

           <感謝合掌 令和6年6月1日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/06/24 (Mon) 11:53:39


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは
同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、
未だかつて憤(いきどお)ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
本来円満完全なる仏身なり」    (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、
円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

            <感謝合掌 令和6年6月24日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/07/06 (Sat) 12:02:26


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月6日)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、
やはり金殿玉楼に錦秋を纏うて眠っているということの事実を
否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、
万(よろず)のよきものが充満している世界であるのだ
ということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは
肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に
「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
 安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり
 ・・・わが浄土は壊せざるに、衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」

とあるのを、たいていの仏教者は、

「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
 心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、
 立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝がいっぱい飾ってあるのも
 同じようなものだ。

 この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
 釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、
 いつも花降るような心境にいられるのだ」

というような意味に解釈しているのであるが、
これはすこぶる浅い解釈だと言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。


厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、
その実相円満完全の表面に、心頭を滅却したり、心境を一変したり、
向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。

三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 令和6年7月6日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/07/17 (Wed) 11:30:23


        *『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より

【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。
                     (『生命の實相』第七巻)】


五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。

或る時その弟子達を集めて、
「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 
と言った。

千人の弟子のなかでは
神秀上座(じんしゅうじょうざ)が押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。


   身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 
   心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
      
   時に払拭(ふっしょく)して
   塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。


「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、
神秀上座をひそかに招(よ)んで、
尚その本来塵埃なく、本来罪なき人間の本性を徹見すべきことを
諭したと云うことである。


米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと
神秀上座の句をもじって、次の如く落首した。――


   菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
       本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。


その落首が評判になった。

師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとづれ、
汝こそ第六代の祖師となる資格があると、法衣を譲って、
夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。

            <感謝合掌 令和6年7月17日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/07/18 (Thu) 11:18:39


      *『光明道中記(7月18日)』より抜粋

【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
  光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】

神秀上座の一句

(身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
 時に払拭(ふっしょく)して塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること
 莫(なか)れ。)


「身は是菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡の台の如し」には
まだ「肉体の存在」をみとめ、「迷う心の存在」を認めている。

五祖弘忍が法衣を譲らなかった理由である.


(米搗き男慧能の一句

 菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
 本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。)


「菩提(さとり)には樹(じゅ)無し 明鏡は台に非ず」と
明耿々(めいこうこう)たる実相心のみを悟った慧能は
まさしく生長の家の悟(さとり)に到達していた。

         <感謝合掌 令和6年7月18日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/07/29 (Mon) 11:52:17


      *『光明道中記(7月29日 日々是れ好日と知る日)』より

【漂える雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが姿なり。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


雪峰(せっぽう)の法嗣(あとつぎ)に雲門和尚と云う人がある。
その雲門がある日公案を出して

「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、
 十五日已後一句を道(い)い将(も)ち来れ」

と言った。

その問は十五日に提出されたものであるから、
「十五日已前」と云うのは過去を指し、
「十五日已後」と云うのは、
これからの現在どう生きて行くかと云うことである。

師の意を揣(はか)りかねて
誰もこれに門下の者は答えることが出来なかったので、
雲門和尚は「日々是れ好日(こうにち)」と自分の問に自分で答えた。


生長の家で言うならば、

「そのまま素直に難有(ありがた)い」であり、
「今を生かせ」であり、
「今の中に久遠があり」である。

日々を難有いとしてその日の行事に励むのが「日々是れ好日」である。

烈日燬(や)きつくすようでも、
それは好いお旱(ひでり)を頂いたのであって、ただ難有いのである。

風が吹いたからとて、風があるので害虫が育たず、
雨が降るので植物が育つ。

若し雨が降り過ぎて家が流れ、田畑に損害があるならば、
それは業(ごう)の自浄作用としてただ難有いのである。

 
動き流れる雲の彼方に

「今」実相の円満そのままの姿を見る者は幸いなるかな。

         <感謝合掌 令和6年7月29日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/07/30 (Tue) 08:59:06


        *「光明法語」(7月29日~30日)より

七月ニ十九日の法語 超個人的精神上の観念

バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。

併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。

そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。

・・・

七月三十日の法語 實相円満の相(すがた)を見よ

この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。

神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。

併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。

一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。

            <感謝合掌 令和6年7月30日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/10/02 (Wed) 09:58:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月2日)より

過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。

ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。

過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。

生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに
新たなる創造を成しつつあるのである。

過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。

端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。

神想観を励め。

           <感謝合掌 令和6年10月2日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/10/11 (Fri) 11:00:45


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月11日)より

実相は最大の力である。
それは「実」であるから、
いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。
一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えて
そこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。
暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。

           <感謝合掌 令和6年10月11日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/10/25 (Fri) 10:46:34


    *「光明道中記」(10月25日《月一回の恩を返す日》)より 

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、
   現象肉体の人間よりも、尚一層具体的であり、尚一層金剛不壊であり、
   真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
   病気が頓(とみ)に癒えるのである。


(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは
   現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。

   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、
   「妙有の世界」は現象世界が破壊すると見ゆるときにも
   「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と
   釈迦が「法華経」に於て説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が
   「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」
   と言った如き、風の如きエーテルの如きものであるから、
   斬っても斬れないと云うような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、
    諸天天鼓を打ち伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして
    大衆(だいしゅ)に散ず」

   と「法華経」の自我偈にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 令和6年10月25日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/11/25 (Mon) 11:23:32


       *「光明法語」(11月25日の法語)より

イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。

その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。

人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。

今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。

その時ラザロは復活した。

         <感謝合掌 令和6年11月25日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/11/27 (Wed) 11:07:47


          *「光明道中記」(11月27日)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。
               (『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、
現象の奥に実相を見出し、それを顕し、礼拝するための行事が
自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。
眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。

少くも好い。実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

       <感謝合掌 令和6年11月27日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/12/04 (Wed) 11:15:28


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、自由思想家、
むしろ無宗教家と言われている人の側に真の宗教を体得した人々がある
ということができるのである。
真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、
みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実現し、
神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。

ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、ある人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって一緒に同情の涙をかき垂れて
号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、
同情の涙を流したことが聖書に書かれている。

しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ
「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。

「ああかわいそうに! 」と言って、
一緒に倒れふし泣き濡れて動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。

「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

            <感謝合掌 令和6年12月4日 頓首再拝>
24:伝統 :

2025/01/08 (Wed) 11:11:23


       *「光明法語」(1月8日)より

神の完全なる実相が、
吾を通じて時々刻々尚(なお)一層完全に実現しつつあるのである。

われは神の子であり、
神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、
日々に一層あらゆる点に於いて
神の完全さを顕わし来(きた)るのである。

肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、
言葉に於いて無礙であり、交友に於いて愛にめぐまれ、
ありとあらゆる点に於いて完全なのである。

若(も)し汝が何事か不調和な事を経験するなら
数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。

念を感謝に転ぜば一切は変化する。

         <感謝合掌 令和7年1月8日 頓首再拝>
25:伝統 :

2025/01/22 (Wed) 12:55:54


       *「光明道中記」(1月22日)より
         ~《九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日》

【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】

金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。

凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。

仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると
道元は『正法眼蔵』で喝破している。

たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。

発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、
人間はその仏なる実相を露呈する。

そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、
打てばそれがあらわれる。

打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 
生長の家は

「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。
 励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」

と言って打つ。

どちらが効果があるかは既に実証済である。

         <感謝合掌 令和7年1月22日 頓首再拝>
26:伝統 :

2025/01/28 (Tue) 11:12:55


      *「光明法語」(1月28日《常に己の心を清むべし》)より

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。

もしその人がよき人と現れなかったならば、
それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、
すべての人間が神の子であり、佛の子であることを
自覚する時どこにも悪しき人はいないのである。

         <感謝合掌 令和7年1月28日 頓首再拝>
27:伝統 :

2025/02/09 (Sun) 11:10:20


       *「光明道中記」(2月9日《陰を見ぬ日》)より

【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。
                  (『生命の實相』十一巻)】


現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。

現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。

人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。

太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。

心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。

子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。

            <感謝合掌 令和7年2月9日 頓首再拝>
28:伝統 :

2025/03/13 (Thu) 11:03:09


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

        <感謝合掌 令和7年3月13日 頓首再拝>
29:伝統 :

2025/03/27 (Thu) 11:21:52


           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)

とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば
全身は明るくなり、健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、
豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて

「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
 然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」

と教え給うたのである。

        <感謝合掌 令和7年3月27日 頓首再拝>
30:伝統 :

2025/04/23 (Wed) 11:05:04


      *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、

なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 令和7年4月23日 頓首再拝>
31:伝統 :

2025/05/14 (Wed) 11:18:47


    *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者が
かえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。

それは「雲の法則」であり、
それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、
雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。

もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

        <感謝合掌 令和7年5月14日 頓首再拝>
32:伝統 :

2025/06/01 (Sun) 11:41:09


    *『光明法語』(6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。

「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」
と云う『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、
既に肉眼では見えないが波長を合わしさえしたならば
現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように今此処に既にあるのである。

現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから
不調和なものばかりが現れて来るのである。

     <感謝合掌 令和7年6月1日 頓首再拝>
33:伝統 :

2025/06/24 (Tue) 11:35:11


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは
同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、
未だかつて憤(いきどお)ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
本来円満完全なる仏身なり」    (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、
円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

            <感謝合掌 令和7年6月24日 頓首再拝>
34:伝統 :

2025/07/06 (Sun) 11:10:17


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月6日)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、やはり金殿玉楼に
錦秋を纏うて眠っているということの事実を否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、万(よろず)の
よきものが充満している世界であるのだということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり・・・わが浄土は壊せざるに、
衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」とあるのを、

たいていの仏教者は、「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝
がいっぱい飾ってあるのも同じようなものだ。

この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、いつも花降るような心境に
いられるのだ」というような意味に解釈しているのであるが、これはすこぶる浅い解釈だと
言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、その実相円満完全の表面に、
心頭を滅却したり、心境を一変したり、向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。
三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 令和7年7月6日 頓首再拝>

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.