伝統板・第二 3287398

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礼拝の教え ④

1:伝統 :

2023/04/16 (Sun) 05:01:40


どこにいても神を拝することはできる

          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。


・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「礼拝の教え ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6778863

(2)伝統板・第二「礼拝の教え ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7633219

(4)伝統板・第二「礼拝の教え ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7951804

           <感謝合掌 令和5年4月16日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/07/12 (Wed) 10:29:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月12日)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、
割合にお蔭が少ないものである。

なぜなら現象に捉われて、
生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも
呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに若(し)かずである。

すべての利益が与えられているのに、
あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。

幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、
そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた
本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 令和5年7月12日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/09/18 (Mon) 09:39:48


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。

「物質は無い」ということは、
「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは

「物質と見えているものも実は物質ではない、
 神の生命(せいめい)、仏の慈悲があらわれているのであるから、
 大切にそれを拝んで使わねばならぬ」

という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。

それは冥加(みょうが)にあまることであり
神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、
いったん用立ち終わったと見えるものも、
それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 令和5年9月18日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/10/21 (Sat) 11:06:53


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月21日)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、
蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、鉛筆も、茶碗も、大根も、
・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、
人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

       <感謝合掌 令和5年10月21日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/10/26 (Thu) 09:09:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月26日)より要約抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、
      鉱脈透視の霊能を得ており、
      出資者が欲しいとのことでの来訪であった)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
 この人なら君に協力してくれるという。」

(A氏は、自分は多くのことを知っており、
 上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「君は能力もあるし、学問もある。それでいて協力者がないというのは、
 君は君の能力に高慢になって人を見下すというところがある。

 君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、
 霊魂や心の波や、近代の新興物理学などのことは
 君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
 そのために大事なところを見のがしてしまう。

 そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
 すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
 君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」

(A氏は、部長は何を言っても信じない。
 こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。
 能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから拝めないのだけれども。
 人間に内在する神性を礼拝する。

 どんな人間にも、そのバックには尊いものがある。
 それを拝むようにすれば、部長も君を拝んで協力を
 求めてくるにちがいない」

「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、
 どんな人間でも、その仏性神性が顕われる。
 これは否定できない真理なんだ。
 君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

 君の地位をもっていて君の能力を持っていて
 協力者がないというのは、ただ君が相手を軽蔑する悪い癖があるから、
 ”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、
協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人もたくさんある。
人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。

ただ今を忠実に生きることにあるのである。
米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。 

奇跡に見とれている間に
大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2022-04-08)
どんな相手も礼拝する気持ちで居ることの大切さ
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/620fda2ed6e63dbe880c07aff3497294

         <感謝合掌 令和5年10月26日 頓首再拝>
6:伝統 :

2023/11/02 (Thu) 10:51:13


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

         <感謝合掌 令和5年11月2日 頓首再拝>
7:伝統 :

2023/11/09 (Thu) 09:56:45


     *「光明道中記」(11月9日《そのまま素直に有難い日》)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                         (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、
その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。
肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。
点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

           <感謝合掌 令和5年11月9日 頓首再拝>
8:伝統 :

2023/11/10 (Fri) 11:12:35


          *「光明道中記」(11月10日)より抜粋
           ~人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                        (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。

道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、
「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

        <感謝合掌 令和5年11月10日 頓首再拝>
9:伝統 :

2023/11/20 (Mon) 09:16:52


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。
拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、
「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、
その人自身がまた拝む心を失ったということになるだろう。

        <感謝合掌 令和5年11月20日 頓首再拝>
10:伝統 :

2023/12/07 (Thu) 11:27:59


       *「光明道中記」(12月7日《人々互いに拝みあう日》)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、どの生活でも
選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうち
どれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。

それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、
半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、
他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。

派閥を造り徒党を組むと云うようなことから
吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

        <感謝合掌 令和5年12月7日 頓首再拝>
11:伝統 :

2023/12/21 (Thu) 09:59:06


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。

よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。


「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、
 いろいろ奇跡のお蔭を受けております。

 昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、
 昨日(きのう)はどうも谷口先生にお礼を申さなければ
 ならないような気がしまして、朝一番で参りまして、
 昨日(きのう)お礼申し上げようと思いましたが、
 他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、
 遠慮いたしましてつい今日に延びました。

 実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、
 それから中耳炎と喘息はこれは親伝来の遺伝だというやつで、
 いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
 外出もしなかったのですが、

 昭和9年、谷口先生のお山に伺って、いろいろお話をうけたまわりましてからは、
 もうそのことは全然忘れてしもうて、冬でも、前橋で誌友会がありますので、
 そこへ行く時はどんな寒中でもいつも自転車を飛ばします。
 そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。

 あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが
 『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかもしれんけれども、
 もしものことがあったら、あなたを当てにして喜んであつまる人を
 困らせはしないか。そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、
 誌友会の日は自動車で来たらどうか』

 という忠告を受けたくらいでありますが、
 それでもかつて怪我というものをしたことがありません。

 ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、
 宅(たく)のつい近くまで来ますと、県道の岸が少し崖になっております。
 そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。

 そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、それを避けようと思って、
 避けようとした瞬間、どうしたものか、《ずーん》とその川縁(かわぶち)から
 中へ飛び込んでしまったのです。
 一丈ぐらいある所なんです。

 ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。

 普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、
 その考えが『ああ神の子だ』というようなありがたい気がしまして、
 ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。

 ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたように
 ズラリと尖っておって実に怖いようなのです。
 その中へ自転車でずっと落ち込んだ。

 その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと
 『ああ神の子だ! 』という気がして別に何とも慌てないで
 落ちついていましたが、子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』
 と言うので、見ますと、なるほど落ちています。

 荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。
 子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく上がって来ましたが、
 どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。

 此の服を着ておりましたが、
 どこも洋服屋さんの世話にならなければならないような所もなく
 帰ってきました。実に尊い。

 私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、

 《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』という感じがなしに、
 ただふわふわと『神の子だ! 』というような感じで、そこに落ちて行った。
 これがありがたいのです》。

 これは何であろうか、長く先生のお導きをいただいておりますことによって
 こういう気持になることができたんだろう、帰りましてさっそく神想観をし、
 私を最初に導いてくださいました福島博先生にお会いしまして、
 こういうわけで今日こそ実にありがたい体験をしました、
 ありがたくてしかたがないと言って私はお話をしたのであります。

 すると福島さんは『この間からあなたはいろいろとお蔭を受けていられる。
 早くから蚕をしても、人は外(はず)すというのに、あなたは安く桑を買って、
 誰も豊作したという人はない今年に、いつもより1割以上も成績をあげていながら、
 それで谷口先生にお礼に行かないから、谷口先生にお礼に行くように
 神様がそうさせたんじゃないか、早く行ってらっしゃい』と言うので、
 実はこの度(たび)上京して来たような始末であります。

 だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、
 今日(こんにち)まで50年間蚕に従事しておりますが、
 お導きをいただきましてから4、5年この方、蚕は必ずうまくゆくものである
 という確信を持たせていただいております。

 それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、
 いったい蚕(かいこ)というものは字で書いてみると、
 天の虫とか、天の日の虫とか書いてあります。

 それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
 あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。

 そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
 そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、こちらの神様とお詣りしてあるきます。

 それが本当の信心なら結構でありますが、あちらこちらと諸方の神仏を
 渡り歩く心持の中にはつまり確信が無い、確信を持っておらないから
 あちらの神様を拝みながらそれを信じきれずこちらの仏様を拝む、
 そういうふうに少しもそこに固い信念がないから常に動揺しておって、
 自分の『蚕は必ず豊作である』などという確信がございません。

 その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
 いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
 蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。

 ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、
 本当に『お蚕さん』として『あなたは立派なお蚕さん』として
 その仏性神性を拝むようにしていったところが、
 当たり外れがなくなってしまった。

 お蔭さまで、蚕の飼育については
 自分ほどの確信を持っている人は他(ほか)にあるまいというくらいの
 信念をもって働かせていただくようになりました。

 お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

 疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
 信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、
実際飼育上の成績であるから、それが尊いことだと思う。

            <感謝合掌 令和5年12月21日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/01/13 (Sat) 13:38:03


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月13日)より抜粋

すべて宗教は生活を離れた時に概念の遊戯となる。
宗教が生活を離れるのは時代を離れるからである。
時代を離れるとき禅行も天魔の行となり、念仏も無間地獄の門となる。

禅行そのもの念仏そのものが、天魔地獄の行門(ぎょうもん)ではない。
時代を離れたところに禅行も念仏も死の行となる。
生かさぬものは宗教ではない。

隻手の拍手よく三千大千世界に響くといえども、
実生活を救いえない座禅もあり、
死骸に念仏することのみを知って、
生きた人間には念仏どころか同業を嫉妬し、
瞋恚(しんい)の炎を燃やす僧侶もあったが、
今はそれがだんだんなくなったのは喜ばしい。

われわれは生きた人間にお念仏申す心にならねばならぬ。

念仏とは、相手に合掌して
仏をその相手から拝み顕(だ<あらわ>)すことである。

常不軽菩薩の行である。

            <感謝合掌 令和6年1月13日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/01/19 (Fri) 10:58:22


         *「光明道中記」(1月19日)より

【そのままで既にその本来相が仏であり神の子である。
                  (『生命の實相』第六巻)】

そのまま有難いと拝むこころが仏である。
仏はどこに在るかと探して見ても判らないが、
有難いと汝が感謝している心がそのまま仏である。

感謝が仏であり、慈悲が仏である。
仏が隠れた相(すがた)が鬼である。
鬼と云うものが別にあるのではない。仏が隠れたのが鬼である。

死んだら鬼に成ると云うのは、
死ぬとは生命が其処から離れたと云うことに他ならぬ。
生命が現れたら鬼は自ら消えるのである。

お前は鬼のような心をしている ―― と言われたら、
大抵の人間は「そんな筈はない」と言って驚く。

併し「貴方はそれでは感謝と慈悲とに充たされているか」と訊くと
「そうではありません」と答える。

感謝に充たされていない者は鬼なのである。
慈悲に満たされていない者も鬼である。

今日から鬼である事を止め、今日から仏にならんとするのは大いなる進歩である。

         <感謝合掌 令和6年1月19日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/04/16 (Tue) 10:07:10


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

       <感謝合掌 令和6年4月16日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/05/02 (Thu) 11:52:33


   *「光明法語」(5月2日《愛深き峻厳が魂の進化せる特徴である》)より  

「汝の如く汝の隣人を愛せよ」とは
自分の実相を完全なる神の子であると信ずる如く、
汝の隣人をも完全なる神の子であると信じて敬することである。

敬のない惑溺(わくでき)は真の愛ではなくて肉欲の変形であったり、
自己憐憫の投影であったりするのである。

自己の苦痛を恐れる者のみが、他(ひと)の苦痛に同情するのである。
だから同情は、自己不完全の投影ですらある。

真の魂の生長せる者の特長は「愛深き峻厳」である。
愛深くして相手の実相の完全さを知るが故に猥(みだ)りに甘やかさず
峻厳であるのである。

            <感謝合掌 令和6年5月2日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/07/12 (Fri) 11:17:23


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月12日)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、
割合にお蔭が少ないものである。

なぜなら現象に捉われて、
生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも
呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに若(し)かずである。

すべての利益が与えられているのに、
あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。

幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、
そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた
本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 令和6年7月12日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/07/19 (Fri) 11:45:32

    *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月19日)より抜粋

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。
釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。

わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、
他は俗物だとも観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまで
コキ下ろす劣悪を知っている。

しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、
特定の人々のみを尊敬するが、他はことごとく
”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

         <感謝合掌 令和6年7月19日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/07/24 (Wed) 16:48:38

変装した天使があなたのそばにも潜んでいる
Web:宇宙の兄弟たちへ(2024年7月24日)
https://www.spacebrothers.jp/2019/12/blog-post_4.html

(以下は抜粋です)


奈良時代に聖武天皇の皇后で光明皇后という有名な方がいます

光明皇后は、奈良の大仏(盧舎那仏)の建造を進めたり、
全国に国分寺、国分尼寺を建立させたり、
現代の孤児院や病院にあたる施設をつくり、貧しい人たちに施された方です。


そんな光明皇后にはある逸話があります。

以前はらい病と呼ばれたハンセン病の患者がいて、痛くて苦しがっていました・

昔はうつる病と思われ、また見た目から、他の人は恐れて看病されずにいます。

光明皇后はこの患者を哀れに思って、口で膿を吸い出しました。

するとその患者が仏様に変身したというのです。

当時の人から忌避されていた患者が実は、仏様だったというのです。」」

これは誰の中にも仏性・神性が宿っている事を示す逸話だと思います。

(「光明法語」(3月13日)を参照願います)


・・・

仏教の法華経には、常不軽菩薩という
お釈迦様の前世のお姿とされる菩薩様の事が書かれています。

この菩薩は、会う人すべてに頭を下げて礼拝したといいます。

人々は彼を気味悪がり、嫌っていきます。

しかし菩薩は人々に言いました
「私は深くあなたたちを敬って、軽んじたりしません。
 なぜならば、あなたちはみんな菩薩の修行を行って、
 ついには御仏となられるからです」

これを聞いた人々は、菩薩を罵り、
棒で叩いたり、石を投げつけて追い払いました。

それでも菩薩は「私はあなたたちを軽んじたりしません。
なぜならいつか御仏になるのですから」

常不軽菩薩そのようにすべての人を軽んじることなく、
いずれは偉大なものとなれると信じていました。

あの『雨にも負けず』で有名な宮沢賢治は、
不軽菩薩について詩を書いています。

不軽菩薩

あらめの衣身にまとひ
城より城をへめぐりつ
上慢四衆の人ごとに
菩薩は礼をなしたまふ
 (われは不軽ぞかれは慢
  こは無明なりしかもあれ
  いましも展く法性と
  菩薩は礼をなし給ふ)

われ汝等を尊敬す
敢て軽賤なさざるは
汝等作仏せん故と
菩薩は礼をなし給ふ
 (こゝにわれなくかれもなし
  たゞ一乗の法界ぞ
  法界をこそ拝すれと
  菩薩は礼をなし給ふ)

・・・

私たちの身の回りにも、天使は潜んでいます。

あるいはすべての人の中に、仏性や神性と呼ばれる、
神仏の子としての素質は存在しているという事でもあります。

         <感謝合掌 令和6年7月24日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/08/31 (Sat) 13:44:26


           *「光明法語」(8月31日)より

文殊菩薩が維摩居士を訪ねたときに、 維摩は

『あなたは色々の佛の国土へ神通力で自在においでになりましたが
好上妙(こうじょうみょう)の功徳を成就せる佛国土は何処(どこ)ですか』

と問うた。


文殊菩薩は答えて

「東方に須彌相国(すみそうこく)というのがあり、その国の佛を
 須彌燈王(すみとうおう)如来と言い、
 身長(みのたけ)八萬四千由旬(ゆじゅん)あり、
 その獅子座は高さ八萬四千由旬で実に素晴しいものです」

と言った。

維摩はこの時、自分の室に、この広大なる獅子座を来入せしめた。

維摩の方丈(一丈四方)の室中に八萬四千由旬(一由旬は九哩<マイル>)の
獅子座が入る事が出来たのは、自己の中に一切世界が存在する真理の象徴である。

         <感謝合掌 令和6年8月31日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/09/18 (Wed) 10:20:04


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは「物質と見えているものも実は物質ではない、神の生命(せいめい)、
仏の慈悲があらわれているのであるから、大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。それは冥加(みょうが)にあまる
ことであり神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、いったん用立ち終わった
と見えるものも、それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 令和6年9月18日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/10/21 (Mon) 11:08:07


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月21日)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、
蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、鉛筆も、茶碗も、大根も、
・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、
人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

       <感謝合掌 令和6年10月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/10/22 (Tue) 11:12:15


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月22日)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、
きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは
天地一切のものが、すべて覚体であるという前提があってのことである。

覚体でなければ、和解のしようがない。

ただその機械的暴力に従うか、それを利用するか、
征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 令和6年10月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/10/26 (Sat) 10:16:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月26日)より要約抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、
      鉱脈透視の霊能を得ており、
      出資者が欲しいとのことでの来訪であった)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
 この人なら君に協力してくれるという。」

(A氏は、自分は多くのことを知っており、
 上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「君は能力もあるし、学問もある。それでいて協力者がないというのは、
 君は君の能力に高慢になって人を見下すというところがある。

 君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、
 霊魂や心の波や、近代の新興物理学などのことは
 君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
 そのために大事なところを見のがしてしまう。

 そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
 すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
 君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」

(A氏は、部長は何を言っても信じない。
 こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。
 能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから拝めないのだけれども。
 人間に内在する神性を礼拝する。

 どんな人間にも、そのバックには尊いものがある。
 それを拝むようにすれば、部長も君を拝んで協力を
 求めてくるにちがいない」

「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、
 どんな人間でも、その仏性神性が顕われる。
 これは否定できない真理なんだ。
 君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

 君の地位をもっていて君の能力を持っていて
 協力者がないというのは、ただ君が相手を軽蔑する悪い癖があるから、
 ”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、
協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人もたくさんある。
人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。

ただ今を忠実に生きることにあるのである。
米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。 

奇跡に見とれている間に
大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

           <感謝合掌 令和6年10月26日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/11/02 (Sat) 11:49:41


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

           <感謝合掌 令和6年11月2日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/11/10 (Sun) 11:27:36


          *「光明道中記」(11月10日)より抜粋
           ~人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                        (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。

道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、
「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

        <感謝合掌 令和6年11月10日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/11/20 (Wed) 11:01:50


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。
拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、
「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、
その人自身がまた拝む心を失ったということになるだろう。

        <感謝合掌 令和6年11月20日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/12/07 (Sat) 08:52:33


           *「光明道中記」(12月7日)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうちどれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。
それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。
派閥を造り徒党を組むと云うようなことから吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

           <感謝合掌 令和6年12月7日 頓首再拝> 
28:伝統 :

2024/12/21 (Sat) 09:56:38


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より抜粋

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。

よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。

「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、
 いろいろ奇跡のお蔭を受けております。

(中略)

 だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、
 今日(こんにち)まで50年間蚕に従事しておりますが、
 お導きをいただきましてから4、5年この方、蚕は必ずうまくゆくものである
 という確信を持たせていただいております。

 それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、
 いったい蚕(かいこ)というものは字で書いてみると、
 天の虫とか、天の日の虫とか書いてあります。

 それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
 あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。

 そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
 そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、こちらの神様とお詣りしてあるきます。

 それが本当の信心なら結構でありますが、あちらこちらと諸方の神仏を
 渡り歩く心持の中にはつまり確信が無い、確信を持っておらないから
 あちらの神様を拝みながらそれを信じきれずこちらの仏様を拝む、
 そういうふうに少しもそこに固い信念がないから常に動揺しておって、
 自分の『蚕は必ず豊作である』などという確信がございません。

 その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
 いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
 蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。

 ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、
 本当に『お蚕さん』として『あなたは立派なお蚕さん』として
 その仏性神性を拝むようにしていったところが、
 当たり外れがなくなってしまった。

 お蔭さまで、蚕の飼育については
 自分ほどの確信を持っている人は他(ほか)にあるまいというくらいの
 信念をもって働かせていただくようになりました。

 お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

 疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
 信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、
実際飼育上の成績であるから、それが尊いことだと思う。

           <感謝合掌 令和6年12月21日 頓首再拝> 
29:伝統 :

2025/01/19 (Sun) 11:15:44


          *「光明道中記」(1月19日)より

【そのままで既にその本来相が仏であり神の子である。(『生命の實相』第六巻)】

そのまま有難いと拝むこころが仏である。
仏はどこに在るかと探して見ても判らないが、
有難いと汝が感謝している心がそのまま仏である。

感謝が仏であり、慈悲が仏である。
仏が隠れた相(すがた)が鬼である。
鬼と云うものが別にあるのではない。仏が隠れたのが鬼である。

死んだら鬼に成ると云うのは、死ぬとは生命が其処から離れたと云うことに他ならぬ。
生命が現れたら鬼は自ら消えるのである。

お前は鬼のような心をしている ―― と言われたら、
大抵の人間は「そんな筈はない」と言って驚く。

併し「貴方はそれでは感謝と慈悲とに充たされているか」と訊くと
「そうではありません」と答える。

感謝に充たされていない者は鬼なのである。
慈悲に満たされていない者も鬼である。

今日から鬼である事を止め、今日から仏にならんとするのは大いなる進歩である。

         <感謝合掌 令和7年1月19日 頓首再拝>
30:伝統 :

2025/04/16 (Wed) 11:09:41


      *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

       <感謝合掌 令和7年4月16日 頓首再拝>
31:伝統 :

2025/07/12 (Sat) 11:34:06


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月12日)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、
割合にお蔭が少ないものである。

なぜなら現象に捉われて、
生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも
呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに若(し)かずである。

すべての利益が与えられているのに、
あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。

幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、
そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた
本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 令和7年7月12日 頓首再拝>

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