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1:伝統
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2022/11/23 (Wed) 10:53:20
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「心はすべての造り主」
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月23日)より
人間の心の思いは動力であることを知らなければなりません。
心に描いたことが形にあらわれるのであります。
このことは何度繰り返しても繰り返しすぎるということはないくらい
重大な問題なのであります。
キリストは
「まず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。
その余(よ)のものは汝らに加えらるべし」
と教えられました。
具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先立って
まず心の世界に、神の国を描くことが必要なのであります。
「もし芥子種ほどの信だにあらば
この山に動いて海に入れと言うといえども必ず成らん」
とキリストが言われたのも、
実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、
神の国にあるいっさいのものがこの世に実現するということであります。
すべての地上の建造物は、
まず建築家の心の内に描かれたものが実現したのであります。
原子爆弾といえども
科学者の心の内に描かれたものが実現したのであります。
「心はすべての造り主」と言われている所以(ゆえん)であります。
物質はみずから自発的に動いて一定の形をとることはできません。
湯呑みが勝手に歩いたり、万年筆が勝手に動いて文章を書く
ということもありません。
ブランシェット(心霊現象の自働書記でお筆先を書く道具)が
自働して文字や絵を書くのは、その道具が勝手に動くからではなく、
それを動かす霊があるからです。
われわれの肉体細胞の成分が一定の姿に配列されて
健康になるのも病気になるのも皆心の働きです。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「心の力」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7089178
(2)伝統板・第二「心の力 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7773474
(3)伝統板・第二「心の力 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950841
(4)伝統板・第二「心の力 ④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8135312
<感謝合掌 令和4年11月23日 頓首再拝>
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2:伝統
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2022/11/24 (Thu) 06:47:38
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*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より
生命(せいめい)なき物質と、
生命ある有機体との間にはけざやかな相異があるのである。
それが等しく炭素と水素と酸素と窒素等の化合物であるにしても、
それに生命(いのち)が宿らない間は、その分解・結合の状態は
いつまでも無機物的な方向において行なわれる。
いったん、それに「生命(せいめい)」がやどるとき、
全然異なる分子の分解・結合が行なわれ、
一定の「理念」(または精神的原型)にしたがって
あるいは絢爛(けんらん)たるバラの花となり、
清楚(せいそ)なる百合(ゆり)の花となる。
イエスはその生命(せいめい)の力の不可思議さを見よという意味で
「野の百合はいかにして育つかを見よ」と言ったのである。
すべての生物は、野の百合にせよ、垣根のバラにせよ、
そこに「生命(せいめい)」が宿っているのである。
「生命(せいめい)」の一つの特徴は、物質の分子の配列を、
自己の「理念」または「精神的模型」の秩序にしたがって、
新しく再配置する力をもっていることである。
それは物質それ自身の性質を利用しつつ、新たに自己の理念または
精神的模型を造形しゆくこと、あたかも美術家が、
絵の具それ自身の性質を利用しつつ、
自己の内にある「美の精神的模型」の姿を造形してゆくようなものである。
宇宙精神の低次にして、受動的あらわれたる物質は、
宇宙精神の高次にして優位なるあらわれなるいわゆる
「生命(せいめい)」に対してはただ素材を提供するのみであって、
物質が生命(せいめい)を左右することはできないのである。
逆に生命(せいめい)は自己の「心の波」を道具として、
物質の分解・結合の状態を変化し、自己の理想を表現するのである。
野の百合のごとき比較的低き植物階級の生命(せいめい)にしても、
物質それ自身の配列状態を克服して自己の理念の姿を表現することが
できているのに、
人間という宇宙精神の最高顕現たる生物が物質の世界を克服して、
健康の上にも、経済の上にも発明の上にも自己の理念の姿を表現することが
できないということはありえないのである。
諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、
「人間」の天爾(てんに)の「神の子」たる「完全模型」を
みずから主張しないからであって、
それは『法華経』にある大通智勝如来が十劫の間(あいだ)道場に
坐してなおさとりを開かなかったのと同じである。
大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とを
そなえていながらみずから進んでそれを自覚しないから、
自分の実相の完全さがあらわれないにすぎないのである。
諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。
<感謝合掌 令和4年11月24日 頓首再拝>
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3:伝統
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2022/12/13 (Tue) 08:57:08
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*「生命の實相」幸福篇下巻(12月13日)より
唯一の成功とは価値あるものを実現するということである。
みずから省みよ。
なんじは今の生活において、今の行為において、今の思いにおいて、
価値あるものを実現しつつあるか。
価値あるもの以外のものを追求しつつあったならば、
即刻その生活を更(あらた)めなければならぬ。
では、実現とは何であるか。
物質状態に現われることのみを実現と観るときには、
人間は物質目的のみの追求者となって、
心的態度は一種の功利的手段となり、唯心論者でありながら、
いつの間にか唯物論者に堕(だ)していることがあるものである。
価値の実現とは《心の中にある》ことを知らねばならない。
オスカー・ワイルドの言ったように、
ロンドンの霧は詩人がこれを詩に表現したときに、
初めてその価値が実現したのである。
《それまでにも》ロンドンの霧は《物質としては》存在したのであるが、
心がそれを認めない間は、
ロンドンの霧は《価値》としては存在しなかったのである。
価値だけが価値であって、そのほかのものは価値がない。
このことが判明したならば、
物質そのものを追求することは愚かなことであることがわかるであろう。
われらは心の世界にさえ価値を実現すればよいのである。
価値は心の世界にのみある。
われらは愛と美と善と智慧と赦しと寛容と・・・
それらの心の中の価値を心の中に実現しさえすればよいのである。
それは主観的価値(こころだけのかち)のみであって、
客観的価値(ものそのもののかち)ではないと考える人もあろうが、
そうではない。
客観(もの)は主観(こころ)の投影(かげ)であるから、
主観(しゅかん)が成就したら必ず客観(きゃっかん)が
成就するのである。
主観(しゅかん)の価値が成就しないで、
客観(ものだけ)の成功を希(こいねが)うものは、
やがて土崩瓦解(どほうがかい)してしまうのである。
<感謝合掌 令和4年12月13日 頓首再拝>
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4:伝統
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2022/12/20 (Tue) 07:42:58
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*「生命の實相」幸福篇下巻(12月20日)より
この世はままならぬと思う者には、
まことにこの世はままならぬ世界である。
これに反して、この世は思うとおりになる世界だと思う者には、
まことにこの世は思うとおりになる世界である。
環境は人間に支配されると思う者には、環境は人間に支配されるが、
人間は環境に支配されると思う者には、環境は頑として
その人の上に暴君的力を揮うであろう。
そのこと自身が環境は自分の思うとおりのものであること表している。
<感謝合掌 令和4年12月20日 頓首再拝>
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5:伝統
:
2022/12/30 (Fri) 08:46:07
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*「生命の實相」幸福篇下巻(12月30日)より
健康が心の中にあるのみではなく、財福もその人の心の中にあるのである。
親分の心になることが、自分自身の運命を親分にまで推し進める。
いつまでも子分の根性で功(こう)を同僚の間で争い、
眼を偸(ぬす)んで安らかさを
希(こいねが)っているようなことでは、
その人の運命はいつまでも子分であるのであろう。
親分の心の最大なるものは、神の心である。
すべてを赦し、すべてのものを太陽のごとく照り、温(あたた)め、
みずからは光線と温熱と生命(せいめい)を投げ出すのみで、
敢(あ)えてみずからは求めぬのが神心(かみごころ)。
太陽の心。太陽の心。これが親分の心である。
かくのごとき人はよく衆(しゅう)を率(ひき)い大いに伸びるのである。
<感謝合掌 令和4年12月30日 頓首再拝>
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6:伝統
:
2023/01/03 (Tue) 07:58:35
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*「光明法語」(1月3日)より
かくて人間は神の映像であるから、神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在すると考え出したのである。
これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。
この「悪」も存在すると云う考えが具象化して「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。
かくて人間は自からの心が描いた映像をみて怯え、悲しみ、心配をし、
みずから不快になり、痛み、悲しむことになったのである。
思いを変えよ。
<感謝合掌 令和5年1月3日 頓首再拝>
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7:伝統
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2023/02/15 (Wed) 05:06:13
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*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月15日)」より
どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。
人に嫌われるのは心に棘があるからである。
これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというような人は、
これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろうと、
みずから疑うバラの花のようなものである。
とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、
その一つ一つを抑えようとしてもなかなか直るものではない。
まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。
とげとげしい心を捨てるには「とげとげしい心」を
アリとして抑えてもなかなか直るものではない。
暗は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。
暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。
「自分は優しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、
その反対の念を自分自身にいって聞かせればよいのである。
<感謝合掌 令和5年2月15日 頓首再拝>
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8:伝統
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2023/02/16 (Thu) 07:30:57
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*「光明道中記」(2月15日《卑怯を捨てる日》)より
【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、
多くの人を病気にしている。 (『生命の實相』第四巻)】
同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。
みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。
それは既に病気の心であるが故に、
そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、
すべてに対抗するだけの強い自覚がある。
すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。
「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。
そんなに罪を押しつけられたら、
進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。
彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。
彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。
<感謝合掌 令和5年2月16日 頓首再拝>
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9:伝統
:
2023/02/19 (Sun) 04:56:50
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*「光明法語」(2月19日)より
吾々の人々に与うる影響は、意識的に与うる影響よりも、
無意識的に与えている影響の方が強いのである。
意識的に相手に好(よ)き影響を与えようとして
一所懸命相手に深切丁寧をつくしても、心の中に反感や、嫌悪の念や、
けむたがるような感じをもっている限りは、
相手は決してこちらに対して好感をもってくれるものではないのである。
世間によくある姑を恐れつつ、しかも形の上では丁寧慇懃をきわめながらも、
却ってギコチない感じを姑にあたえて、
姑からいじめられている嫁の如きはそれである。
<感謝合掌 令和5年2月19日 頓首再拝>
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10:伝統
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2023/02/26 (Sun) 07:02:56
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*メルマガ「成功への道しるべ」(2022年9月15日)より
経営資源といえるようなものは何もない起業家が、
わずか数年のうちに、注目されるような成長企業をつくる事例が
紹介され話題になることがあります。
大学で難しい経営理論を学んだわけではありません。
またそんな出来たばかりの会社に優秀な人材が集まってくるとは
考えられません。
ところが起業家の強い「思い」があると、
不思議なことにスタッフの中から誕生したり、
あるいは外部から引寄せる力が働いたりして、
事業の発展に欠かせないような人材に恵まれることになるものです。
必要なのは何としてもやりたいという強い思いです。
《稲盛和夫氏と第二電電の創設》
先日、お亡くなりになりました.京セラの創業者稲盛和夫氏は30数年前
第二電電を創立されました。
親方日の丸の電電公社一社では競争力が働かないので、
日本の電話料金は異常に高かったのです。
そこで、通信の自由化がなされました。
ところが、自由化はされたものの、巨大な電電公社に対抗し、
新しく電信事業に進出しようとする企業は現れません。
日本にはどうしても必要だという思いはあっても、
京セラは通信とは全く無縁の企業で、技術の蓄積も技術者もいません。
しかしどこかが手を挙げなければと、無謀は承知で
第二電電の設立に手を挙げられたのです。
その間「動機善なりや、私心なかりしか」と
何度も何度も繰り返し熟慮されたとのことです。
千本倖生氏は、電電公社では技術面のことも詳しい
エリート中のエリートでした。
そんな地位を投げうって、
競争相手にとなる第二電電創設に参画したことが
大きく道を拓くことになります。
稲盛氏の強い思いが引き付けたのではないでしょうか。
設立後千本氏は初代の社長に就任されます。
《海の向こうの甲子園》
戦前、日本の統治下にあった台湾の嘉義(かぎ)農林高校に
松山商業高校野球野球部で活躍したことのある近藤平太郎が赴任します。
草野球レベルの野球部に指導など全く考えていませんでしたが、
再三の依頼に、断り切れず結局監督を引き受けることになります。
近藤は、やるからには甲子園に行くんだと宣言します。
そして毎日のランニングは運動場でなく嘉義市の街中を走ります。
その際全員でコ─シエン、コ─シエン、コ─シエン、コ─シエン・・・・
・・・と大声で反復しながら走るのです。
街の人達は皆嘲笑しています。
ところが彼らの、コ─シエン!、コ─シエン!・・・・・・を
毎日、毎日耳にしていると、ひょっとしたら彼らは、
やるかもしれないと思い始めます。
嘲笑が次第に期待に変っていきます。
選手達も、ひょっとしたらいけるのではと思いが、高まり
猛練習に励みます。
思いは波動です。同じ思いは共振します。
もう街全体が狂ったような状態です。
そんな状況下で、呉明捷という素晴らしい投手が育ちます。
そして最期台北高校を破り1931年夏の甲子園出場を果たすのです。
それだけではありません、
あれよあれよと勝ち進み決勝戦まで進みます。
決勝戦は強豪中京商業にを相手に、
後半までゼロゼロの接戦だったのですが、
連日の連投に呉明捷の指のまめがつぶれ出血し、
コントロールが定まらず敗退しますが準優勝を果たします。
台湾で数年前「海の向こうの甲子園」というタイトルで映画化され、
その年、台湾で一番のヒット作品になりました。
強い「思い」は必要なものを引寄せます。
ただ「思い」は、自ら醸成しなければならにものです。
意識的に湧き起こるような努力が必要です。
そのため繰り返し、繰り返し自分に言い聞かせることが必須です。
編集後記
◆マハトマ・ガンジーは、1着の服を買うお金も、
1人の兵士も、なかったけれど「インド独立」という強い思い、
ゆるぎない信念が、2億を超える人々の心を
揺り動かし独立を勝ち取ることができました。
これを成し遂げたのは
「思いの力」 「信念の力」の凄さを思わざるを得ません。
<感謝合掌 令和5年2月26日 頓首再拝>
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11:伝統
:
2023/02/27 (Mon) 12:52:28
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*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.1.18)より
(筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…>
こんなことを言うと驚く人もいるかもしれませんが、
じつは私たちの体というものは、老化しても遺伝子そのものは
基本的に歳をとりません。
歳をとると体が弱って病気がちになると言われますが、
それは遺伝子が老化したからではないのです。
そもそも、私たちの体では、
遺伝子情報に書かれていないことは起こりません。
つまり、病気という現象も遺伝子が引き起こしているのです。
もちろん、そこには環境因子も関係していますが、
99・5%同じ遺伝子を持っている人間同士でも、
同じ環境にいて病気になる人とならない人がいます。
それは、病気を引き起こす遺伝子が
オンになっているか、オフになっているかの違いなのです。
遺伝子のオン/オフは、
その人の生き方、考え方が大きく影響していると考えられています。
日本人の死因の上位を占める「がん」も、
ステージが末期に進んでからでも、
生きる力を取り戻せる人とそうでない人がいます。
そこでは「気の持ち方」を含めた生き方や考え方によって、
遺伝子のオン/オフが どのように働くかが大事になってくるわけです。
つまり「病は気から」という言葉は、まさに真実なのです。
このことに関して、象徴的な例を紹介しましょう。
ある不眠症の男性が、医師から睡眠薬を処方されました。
そこで医師から、
「この薬は一回に5錠までです。
それ以上一度に服用すると、体の調子を崩します」
という指示を受けました。
しかし、この男性はあるとき50錠もの
睡眠薬を一度に飲んでしまったのです。
すると、やはり体調をくずし、
あまりの苦しさで意識朦朧としながら
救急車を呼び、通院していた病院に運ばれました。
そして、手当を受けていると、担当医がやってきてこう言ったのです。
「○○さん、じつは、あの薬の指示は私の間違いでした。
あれは何錠飲んでも体には負担になりません」
その言葉を聞いた男性は、びっくりして、
とたんに元気を取り戻し、そのまま歩いて帰ったというのです。
自分はもうダメだ、と思ったら本当にその通りに具合が悪くなる。
自分は大丈夫だと思ったら、なぜか具合がよくなる。
「病は気から」というのは“気のせい”ではありません。
実際に自分が事実をどう受け取るか、どう感じるかによって、
病気の遺伝子をオン/オフしているのです。
また、日頃から何かにつけて「自分はダメだ」と自分に対して
否定的な生き方、考え方をしていると、
いい働きをする遺伝子がオフになり、
病気の遺伝子がオンになってしまいます。
それは本当にもったいないことです。
思い込みでもいいので、
「自分は大丈夫」「生きているだけで丸儲け」と
バカになって信じてみてください。
それだけでも、きっと自分の内側から
元気になっていくのを感じられるはずです。
<『どうせ生きるなら「バカ」がいい』水王舎>
・・・
アメリカの有名なジャーナリストの
ノーマン・カズンズ氏の興味深い話がある。
『あるパーキンソン病患者は薬だと言って
プラシーボを与えられたが、この結果ふるえが著しく減った。
そのプラシーボ効果が薄れてきた時、
今度は同じ物質をこっそり牛乳に入れて飲ませたが、
ふるえは再発したという。
また、ある患者の集団に抗ヒスタミンの代わりに
プラシーボを与えたところ、
その77.4パーセントは抗ヒスタミン剤の特徴である眠気を訴えた。
何年か前、アフリカのシュヴァイツァー病院の晩餐の席で、
私は何気なしに、現地の住民たちはシュヴァイツァー病院があるお陰で、
呪術医(じゅじゅつい)の超自然信仰に頼らずとも済む、
幸運なことだと口走った。
するとその翌日、シュヴァイツァー博士は
わたしを近所のジャングルの中の空き地へ連れて行って、
「私の同業者の一人」と言って、年老いた呪術医を私に紹介した。
「私の常得意の中には呪術医がよこしてくれた人たちがいるんでね。
だから私は呪術医の悪口は決して言わないことにしている」と言った。
そして、さらにこう言った。
「アフリカの呪術医が治療に成功するのは、
同業のわたしたちすべてが成功するのと同じ理由によるのですよ。
どの患者も自分の中に自分自身の医者を持っている。
患者たちはその真実を知らずに私たちのところにやって来る。
わたしたちがその各人の中に住んでいる医者を
首尾よく働かせることができたら、めでたし、めでたしなんです」』
(笑いと治癒力/岩波現代文庫)より
ノーマン・カズンズは不治に近い難病を文字どおり
「笑い」によって克服した人だ。
人間の自然治癒力の可能性を取材し、
笑いとユーモア、生への意欲が奇蹟をおこすことを実証した。
その不思議な自然治癒力の中に、プラシーボがある。
プラシーボは偽薬(ぎやく)のことだが、
治療薬と外見は同じになっているが、薬の薬効成分は全く入っていない。
これは、有名なソムリエが、
「これは高級なワインで、とても美味しい」
というと、ほとんどの人は、美味しいと感じるのと同じだ。
目隠しテストをしたら、高級ワインを
当てられる人は少ないという現実もある。
ことほどさように、人間の感覚はあてにならない。
権威ある人のひと言で、ころっとだまされてしまうからだ。
だからこそ、自分の自信ある肯定的な言葉が大事になってくる。
たとえば…
「私は優秀なリーダーだ」
「私は多くの人の声に耳を傾け、まわりから尊敬される」
「私はビジネスで大成功し、一生理想を実現するための資金は十分にある」
「私はとてつもなく健康な体を持っている」
「病は気から」という言葉を胸に刻みたい。
<感謝合掌 令和5年2月27日 頓首再拝>
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12:伝統
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2023/02/28 (Tue) 05:08:24
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*「光明法語」(2月28日)より
人の一挙一動は無論のこと、その心持ちは必ず周囲に影響を与えるものである。
社員を充分働かせるのも、働くのが興味がなくなって怠けるのも、
社長または上役の一つの励ましの言葉や、
冷酷な尊大ぶりなどによって、それが変わって来る。
やさしい言葉、やさしい態度、それがどんなに周囲に影響するか。
私に議論を吹きかけようとして演壇近くやって来た聴衆が私が演壇に立って
ただ「皆様ありがとうございます」とお辞儀をしただけで理屈がなくなり、
生長の家が好きになった人もある。
<感謝合掌 令和5年2月28日 頓首再拝>
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13:伝統
:
2023/04/09 (Sun) 05:05:21
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*「光明道中記」(4月9日)より
【心そのものは吾らの本体にして病気になることはない。
(『生命の實相』第四巻)】
心に描くことが第一の創造である。
心に描いた通り形にあらわれるのは第二の創造である。
家は建ち上ったとき初めて建ったのではなく、
それは設計家の心に出来上がったとき既に立ち上がったのである。
それよりも更に遡(さかのぼ)れば、
漠然たる建築主の心の中に何となく家を建てたくなったとき、
既にその家は建っているのだとも言えるのであろう。
或る地方では食事のときにする遊戯に「茶柱が建つ」と云って、
湯呑(ゆのみ)に注(つ)いだ茶の茎(くき)が
縦になって浮き上るのを楽しんで、左手で箸で拾い上げて
袂(たもと)の中に祝福しながら入れる風習がある。
盛んに茶柱が立つときには、
その人の運勢は盛んであり、家なども盛んに建つ。
昭和10年どこへ往っても私の茶碗に注がれる茶には
不思議に「茶柱」が立ったと言っていると、
本部の改築が出来上る、光明思想普及会の新社屋が出来上がる、
原宿の学生寮が新築される、家庭光明寮の第三寄宿舎「愛泉寮」が
新築される、研究室の新設等・・・建つ、建つ、建つ・・・
形あるものは、その奥にその形に相応する
心の波動(アイディア)が動いているのであるから、
自分の心の世界に「すべて立つ」アイディアが動き出すと、
現象界の事々物々にそのアイディアが映し出されて具象化するのである。
<感謝合掌 令和5年4月9日 頓首再拝>
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14:伝統
:
2023/04/11 (Tue) 04:58:19
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*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月11日)」より
『天地の言葉』の中に書いてあるイタリアの大医ロンブロゾー博士の取り扱った患者が、
感覚の転移を起こして眼球以外の器官をもって物体を見たということについて、
その事実の出所を知らしてくれという詩友からの手紙が来た。
これは1919年フランス学士院賞を受けた
セブラユー博士の『死後の運命』という本の中に、
ロンブロゾーの言葉が引用してあるのである。
「1891年のこと、予は医学上の経験においてまったく思いがけない患者に遭遇した。
予は一日郷里に住む一高官の令嬢を往診することになった。
この娘は時おり激烈なヒステリーが発作し、しかもその症状は
病理学上よりも、生理学上よりも、説明し難いものであった。
すなわちその発作に臨んではまったく視覚を失うと
同時に耳をもって物を見ることができ、
目には目隠しを施しているにもかかわらず、
耳の前にかざした数行の印刷物を読みうるのである。
試みに拡大鏡をもって耳腔内に日光を反射せしむると、さも眩しげにしながら
『目が潰れてしまう』と叫び、なおこの発作中には自分の周囲に起こるべき
いっさいの事件を予言し、しかもその予断は極めて数理的に正確なものがあった。
なお、この感覚の転移はいたるところに起こったのである。
この事実はむろん現在のことではないが、実に奇怪の症状といわざるをえない。
予は当時心中に思えらく、今日の生理学や病理学ではとうていこの説明はむつかしい。
将来心霊学の発達によって、真理の開発される折を待つの外あるまい。」
ロンブロゾー博士は言っているのである。
ある人はそういう異常現象をもって人間全体に類推してゆくのはいけない
と抗議する場合もあるが、かかる異常現象は常人の域を超えて
心的能力がいっそう強く発現した場合であるから、
しかもやはり人間において発現した実例であるから、
人間を鼓舞して、常人を超ゆる域に達すべき鼓舞鞭撻の言葉として用いる場合には、
人間の成しえたるかぎりの能力の最高限度の実例を挙げて、
われらの能力をできるだけ強き程度に発現する機会を与えることが肝要なのである。
<感謝合掌 令和5年4月11日 頓首再拝>
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15:伝統
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2023/05/15 (Mon) 12:55:47
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未来と、「知る」ことの大切さ
伊勢ー白山 道(2023-05-15)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/9a39abe236207c4db40b1d107e96d615
<感謝合掌 令和5年5月15日 頓首再拝>
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16:伝統
:
2023/06/22 (Thu) 05:01:47
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*「光明法語」(6月22日)より
「断じて行えば鬼神も避く」と諺(ことわざ)は言う。
道は、決然たる意志の前にはその扉を開く。
道がなければ自分が道を造れば好い。
キリストは「我は道なり」と言った。
八方が塞がっても上方はあいているのだ。
上方は神に通ずる道である。道なき時には神に頼れである。
不可能を可能にかえ得るものは決意である。
「意志の教育こそは吾人存在の目的である。
断乎たる決意ある者の前には常に時と機会とが待っている」と
エマーソンは言っている。
世界を動かす梃子(てこ)は意志の力である。
<感謝合掌 令和5年6月22日 頓首再拝>
-
17:伝統
:
2023/07/18 (Tue) 05:07:00
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月18日)より
写真を写すにも、絞りを調整することによって、
その写真が上手に写ったり下手に写ったりするのである。
それと同じく現世をよくするには心の「絞り」を調整することが必要である。
内部が整うて、外界が整うのである。
何か外界に悪しきことが起こったら、まず内部を調整すべきである。
<感謝合掌 令和5年7月18日 頓首再拝>
-
18:伝統
:
2023/07/25 (Tue) 05:04:43
-
*「光明法語」(7月25日)より
~ 適時、適所、適人
生長の家は毒物を食しながら、心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と
思念しながら食べたら、毒が変じて栄養となると云うのではない。
心が完全に働けば、本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。
そして食物の分量や質の配置なども適当となり、すべてが《ある》べきところに
《ある》ように適当におかれると云うのである。
神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。
<感謝合掌 令和5年7月25日 頓首再拝>
-
19:伝統
:
2023/08/02 (Wed) 05:05:44
-
*「光明法語」(8月2日)より
原因あって結果来る。精神科学も物質科学も同様である。
物質科学は物質にのみ原因をもとめるが、
吾らは、その物質は如何にして生じたるかを追求し、
それがエネルギーの波動であることを明らかにし、
そのエネルギーの波動は、智慧あり秩序ある
エネルギーの波動であることを明らかにし、
智慧あり秩序あるエネルギーとは、
物質的なるものではなく、心的なるものであることを
明らかにし、心によって物質の変化することを明らかにし、
心によって健康と運命をと支配するのである。
<感謝合掌 令和5年8月2日 頓首再拝>
-
20:伝統
:
2023/08/12 (Sat) 13:00:18
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月12日)より
列車に乗ってその列車が転覆したからといって、
その列車に乗せた駅員が悪いのではない。
転覆するような列車に乗るのは、乗ったその人自身にそ
の列車に乗るようになっている「心」があったからである。
「心」が万事に先行するとういうことを知る人は不幸に逢っても、
他を憎んだり恨んだりするものではない。
自分の「心」がそれを造ったということを知っているからだ。
列車に乗って不慮の災難に逢うことも、
人の口車に乗って不幸に陥ったり物事が失敗に終わるということも、
「乗る」のは、自分がその乗物に引きつけられて乗ったのだから、
自分自身の「心」の中に原因があるのである。
他(ひと)が「悪い、悪い」と思っている人は、
要するに責任を他(た)に転嫁する卑怯者のことである。
人間は強くなるにしたがって、
いっさいの原因を自分自身に帰するようになる。
そして聖者と言われるほどの人になると、
衆生の一人でもまだ苦しんでいる者があると
自分自身の責任だと感ずるものである。
世界のすべての人類が「光明思想」を知らず、また知っても十分実践せず、
不幸に沈淪(ちんりん)している者があるのは、
わたしの宣伝が足りないからなのである。
皆わたしの罪なのである。
<感謝合掌 令和5年8月12日 頓首再拝>
-
21:伝統
:
2023/08/14 (Mon) 12:45:05
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月14日)より
世界を征服することは偉大であるが、
まず自分の心の王国を征服することはいっそう偉大である。
ます自分の心の王国を征服し、自分の心に真理を実現すれば、
一家に平和は来たり、一家に平和来たれば近隣相和す。
近隣相和せば、一町一村に平和来たり、
一町一村に平和来たれば、一群一県に真理来たる。
一群一県に真理来たれば、国家はじめて正法に立脚し、
国家正法に立脚すれば四隣の国おのずから相和し、
四隣の国おのずから相和せば、もって世界の平和を招くに足るのである。
<感謝合掌 令和5年8月14日 頓首再拝>
-
22:伝統
:
2023/08/23 (Wed) 04:43:03
-
*「光明法語」(8月23日)より)
ロック〇ェラー研究所の外科医長カレル博士は言う、
「容貌の特徴は、皮膚の下の脂肪の中で動く筋肉の状態で定まる。
是等(これら)の筋肉の状態は吾々の思想感情の状態によって定まる。
人は各々望み通りの顔附(かおつき)表情をする事が出来る。
けれども其の顔附、表情をば
永久に被(かぶ)っているわけには行かない。
併し、吾々の知らない間に吾々の顔附は
心の状態によって少しずつ作られて行くのであり、
年をとるにつれて益々はっきりと人間全体の
感情や欲望や希望一切の看板の様になる」
と。
<感謝合掌 令和5年8月23日 頓首再拝>
-
23:伝統
:
2023/08/24 (Thu) 04:50:50
-
*「光明法語」(8月24日)より
誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。
顔は吾々の心の鏡である。
白粉(おしろい)でいくら塗っても、
その精神の下劣さは隠すことは出来ない。
「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。
人間の顔には、その人間の悪徳や、美徳や、理性や、知識や、
愚かさや、感情や、最も隠された性癖や、
さらにその上の全肉体の構造や、
質や、生理的、心理的病気の傾向まで現れる」
とカレル博士は更に言っている。
誰も隠すことは出来ないのである。
天知る、地知る、自分知るである。
<感謝合掌 令和5年8月24日 頓首再拝>
-
24:伝統
:
2023/10/01 (Sun) 09:58:25
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月1日)より
すべての事物は、心の想うことによって存在に入ったのである。
神が心に星辰を想い、天体を想うことによって、
諸々の星辰天体が生じたようにである。
われわれの周囲の事物は
われわれが心に想うことによって存在に入ったのである。
そうすれば自分の好まない事物を心に想わないようにしなければならない。
「想うもの」が出て来るのであるから、敵を想えば敵が出て来る。
戦争を想えば戦争が出て来る。
病気を恐れて、心に警戒すればするほど病気にかかるのである。
ということは予防的なことをいっさいするなという意味ではない。
戸締りをしないで徹夜で泥棒を恐れているよりも、
戸締りをして泥棒を思わないで眠る方がよい。
<感謝合掌 令和5年10月1日 頓首再拝>
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25:伝統
:
2023/10/18 (Wed) 11:38:36
-
*「光明法語(10月18日)」より
眠っている子供の枕元で数学の公式を幾度も唱えて聞かせて、
覚めてからその数学の公式を思い出させると完全に暗誦し得たと云う実例もある。
リーテル・ブルバンクは自分の妹に会いたいと思うとき手紙を書かないで、
思念で「今日はお前に会いたいんだが」と念じたら必ずその次の列車で
その妹はブルバンクのところへやって来たと伝えられている。
夫婦の思いが互いに感応した実例は沢山ある。
妻があやまる気になったとき、夫が妻に済まぬと思うようになった例も多い。
<感謝合掌 令和5年10月18日 頓首再拝>
-
26:伝統
:
2023/11/04 (Sat) 09:55:55
-
*「光明法語」(11月4日の法語)より
ヘンリー・ヴィクトリー・モルガン氏が指摘したように
、或る夫人は自分の少数の白髪(しらが)が出来かかったのを
「白髪は無くなる、白髪は無くなる」と毎日思念し続けた結果、
1ヵ月後には全頭が真白(まっしろ)になって
「思念の力もクソもあるか」と大いに憤慨したそうであるが、
「白髪がなくなる」と念ずる事は
「白髪は今ある」と念ずる事を言換えたもので、
毎日「白髪」を思い起こさせる事になるのである。
総(すべ)て、病気の形や状態について、それを論議し、
思い浮かべる必要はないのである。
<感謝合掌 令和5年11月4日 頓首再拝>
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27:伝統
:
2023/11/07 (Tue) 09:41:40
-
これから「想像力」が現実を変えて行きます
伊勢ー白山 道(2023-11-06)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/641ed8476b4b7815f75c893dbfaa5d6d
<感謝合掌 令和5年11月7日 頓首再拝>
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28:伝統
:
2023/11/23 (Thu) 10:21:41
-
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月23日)より
人間の心の思いは動力であることを知らなければなりません。
心に描いたことが形にあらわれるのであります。
このことは何度繰り返しても繰り返しすぎるということはないくらい
重大な問題なのであります。
キリストは
「まず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。
その余(よ)のものは汝らに加えらるべし」
と教えられました。
具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先立って
まず心の世界に、神の国を描くことが必要なのであります。
「もし芥子種ほどの信だにあらば
この山に動いて海に入れと言うといえども必ず成らん」
とキリストが言われたのも、
実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、
神の国にあるいっさいのものがこの世に実現するということであります。
すべての地上の建造物は、
まず建築家の心の内に描かれたものが実現したのであります。
原子爆弾といえども
科学者の心の内に描かれたものが実現したのであります。
「心はすべての造り主」と言われている所以(ゆえん)であります。
物質はみずから自発的に動いて一定の形をとることはできません。
湯呑みが勝手に歩いたり、万年筆が勝手に動いて文章を書く
ということもありません。
ブランシェット(心霊現象の自働書記でお筆先を書く道具)が
自働して文字や絵を書くのは、その道具が勝手に動くからではなく、
それを動かす霊があるからです。
われわれの肉体細胞の成分が一定の姿に配列されて
健康になるのも病気になるのも皆心の働きです。
<感謝合掌 令和5年11月23日 頓首再拝>
-
29:伝統
:
2023/12/15 (Fri) 09:55:04
-
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より
決意、心の世界における素描(そびょう)、その素描の上に絵の具を塗る実行、
それは絵師(えかき)だけのことではない。
人生の画布(カンパス)の上に実生活の絵を描くところの人間の一生もそれである。
真に富者(ふうじゃ)となるには、「われすでに富めり」の素描を心の中に描き、
それを実践に移さなければならぬ。しかし富とははたして何であるか。
富とは決して物質の所有ではないのである。
多くの人たちは富とは物質の所有であり、
物質を所有することによって生活の安全感と優越感とを
確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、生活の安全感は失われるのである。
いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。
さればキリストは、
「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に
入(い)ことの難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」
と言ったのである。
真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。
山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ・・・
挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに
満ちているのである。
それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき
有限なる狭き美しさではないのである。
何よりも富とは外界の物質そのものではなく、
そこから引き出し来(く)る悦びの豊富、美の感受能力、
鑑賞力の豊富さであることを知らねばならないのである。
猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、
山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、樹々(きぎ)緑したたる美しさは
わからない。
彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、無限に豊富なる美の宝庫の
中に入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを知らず、
ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。
しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、
腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、
ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、それは人間として与えられたる
至高の特権を放棄せるものと言わなければならないのである。
しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。
精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。
これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。
真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。
決意、素描、実行
―― これは心が形の世界に顕(あら)われる3つの要素である。
<感謝合掌 令和5年12月15日 頓首再拝>
-
30:伝統
:
2023/12/23 (Sat) 09:05:44
-
*「光明道中記」(12月23日《明朗歓喜の日》)より
【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。
(『生命の實相』第四巻)】
人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。
心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても
精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。
心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで
肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。
失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて
新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、
調和の心と、強さの心とである。
では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、
吾々は神と調和することが出来るのである。
神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、
押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。
<感謝合掌 令和5年12月23日 頓首再拝>
-
31:伝統
:
2024/02/19 (Mon) 11:07:21
-
*「光明法語」(2月19日)より
吾々の人々に与うる影響は、意識的に与うる影響よりも、
無意識的に与えている影響の方が強いのである。
意識的に相手に好(よ)き影響を与えようとして
一所懸命相手に深切丁寧をつくしても、心の中に反感や、嫌悪の念や、
けむたがるような感じをもっている限りは、
相手は決してこちらに対して好感をもってくれるものではないのである。
世間によくある姑を恐れつつ、しかも形の上では丁寧慇懃をきわめながらも、
却ってギコチない感じを姑にあたえて、
姑からいじめられている嫁の如きはそれである。
<感謝合掌 令和6年2月19日 頓首再拝>
-
32:伝統
:
2024/02/28 (Wed) 09:50:55
-
*「光明法語」(2月28日)より
人の一挙一動は無論のこと、その心持ちは必ず周囲に影響を与えるものである。
社員を充分働かせるのも、働くのが興味がなくなって怠けるのも、
社長または上役の一つの励ましの言葉や、
冷酷な尊大ぶりなどによって、それが変わって来る。
やさしい言葉、やさしい態度、それがどんなに周囲に影響するか。
私に議論を吹きかけようとして演壇近くやって来た聴衆が私が演壇に立って
ただ「皆様ありがとうございます」とお辞儀をしただけで理屈がなくなり、
生長の家が好きになった人もある。
<感謝合掌 令和6年2月28日 頓首再拝>
-
33:伝統
:
2024/04/07 (Sun) 09:47:54
-
*「光明道中記」(4月7日《必ず知人一人を光明化する日》)より
【五官に顕れる状態で喜悲(きひ)する者は
五官を信じているので神を信じていない。(『生命の實相』第十一巻)】
眼は物を視(み)ない、耳は音を聴かない、脳髄は《もの》を考えない。
視るのは心であり、聴くのは心であり、考えるのは心である。
心は自分の便宜のために眼を創造し、耳を創造し、脳髄を創造したのである。
ここに言う「心」とは脳髄から出る作用ではない。
脳髄を設計したところの「心」である。
それは脳髄以前の「心」であるから「生命」と同意義に解しても可(よ)い。
「生命」は《常に》ある。
併し脳髄は破壊する。眼球も破壊する。聴官も破壊する。
併し、破壊するものは《常にある》ものではない。
途中から造られたもの、暫定的なもの、ただの機関に過ぎないもので、
「生命」そのものではない、「人間」そのものではない。
人間は死なないものである。
常に破壊しつつある機関の中にあってそれを操縦しながら、
永遠に死なないところの機関手が「人間」なのである。
その機関の材質は、「固定的な物質」で出来ているものならば、
それが摩滅し、摩損したときに取換に不便であるかも知れぬが、
それは「エーテル」と一時科学者が名付けたところの
「無」を材質として、それを心の波でどんな形にでも造構したものであるから、
どんな破損でも摩滅でも「心」でそれを修繕し得るのである。
<感謝合掌 令和6年4月7日 頓首再拝>
-
34:伝統
:
2024/04/09 (Tue) 12:13:31
-
*「光明道中記」(4月9日《善事のみ心に描く日》)より抜粋
心に描くことが第一の創造である。
心に描いた通り形にあらわれるのは第二の創造である。
家は建ち上ったとき初めて建ったのではなく、
それは設計家の心に出来上がったとき既に立ち上がったのである。
それよりも更に遡(さかのぼ)れば、
漠然たる建築主の心の中に何となく家を建てたくなったとき、
既にその家は建っているのだとも言えるのであろう。
或る地方では食事のときにする遊戯に「茶柱が建つ」と云って、
湯呑(ゆのみ)に注(つ)いだ茶の茎(くき)が縦になって
浮き上るのを楽しんで、左手で箸で拾い上げて袂(たもと)の中に
祝福しながら入れる風習がある。
盛んに茶柱が立つときには、
その人の運勢は盛んであり、家なども盛んに建つ。
昭和10年どこへ往っても私の茶碗に注がれる茶には
不思議に「茶柱」が立ったと言っていると、
本部の改築が出来上る、光明思想普及会の新社屋が出来上がる、
原宿の学生寮が新築される、家庭光明寮の第三寄宿舎「愛泉寮」が
新築される、研究室の新設等・・・建つ、建つ、建つ・・・
形あるものは、その奥にその形に相応する
心の波動(アイディア)が動いているのであるから、
自分の心の世界に「すべて立つ」アイディアが動き出すと、
現象界の事々物々にそのアイディアが映し出されて具象化するのである。
<感謝合掌 令和6年4月9日 頓首再拝>
-
35:伝統
:
2024/04/11 (Thu) 10:20:55
-
『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月11日)」より
『天地の言葉』の中に書いてある
イタリアの大医ロンブロゾー博士の取り扱った患者が、感覚の転移を
起こして眼球以外の器官をもって物体を見たということについて、
その事実の出所を知らしてくれという詩友からの手紙が来た。
これは1919年フランス学士院賞を受けた
セブラユー博士の『死後の運命』という本の中に、
ロンブロゾーの言葉が引用してあるのである。
「1891年のこと、
予は医学上の経験においてまったく思いがけない患者に遭遇した。
予は一日郷里に住む一高官の令嬢を往診することになった。
この娘は時おり激烈なヒステリーが発作し、しかもその症状は
病理学上よりも、生理学上よりも、説明し難いものであった。
すなわちその発作に臨んではまったく視覚を失うと
同時に耳をもって物を見ることができ、
目には目隠しを施しているにもかかわらず、
耳の前にかざした数行の印刷物を読みうるのである。
試みに拡大鏡をもって耳腔内に日光を反射せしむると、さも眩しげにしながら
『目が潰れてしまう』と叫び、なおこの発作中には自分の周囲に起こるべき
いっさいの事件を予言し、しかもその予断は極めて数理的に正確なものがあった。
なお、この感覚の転移はいたるところに起こったのである。
この事実はむろん現在のことではないが、実に奇怪の症状といわざるをえない。
予は当時心中に思えらく、
今日の生理学や病理学ではとうていこの説明はむつかしい。
将来心霊学の発達によって、真理の開発される折を待つの外あるまい。」
ロンブロゾー博士は言っているのである。
ある人はそういう異常現象をもって人間全体に類推してゆくのはいけない
と抗議する場合もあるが、かかる異常現象は常人の域を超えて
心的能力がいっそう強く発現した場合であるから、
しかもやはり人間において発現した実例であるから、
人間を鼓舞して、常人を超ゆる域に達すべき鼓舞鞭撻の言葉として
用いる場合には、人間の成しえたるかぎりの能力の最高限度の実例を
挙げて、われらの能力をできるだけ強き程度に発現する機会を与えることが
肝要なのである。
<感謝合掌 令和6年4月11日 頓首再拝>
-
36:伝統
:
2024/06/22 (Sat) 11:18:50
-
*「光明法語」(6月22日)より
「断じて行えば鬼神も避く」と諺(ことわざ)は言う。
道は、決然たる意志の前にはその扉を開く。
道がなければ自分が道を造れば好い。
キリストは「我は道なり」と言った。
八方が塞がっても上方はあいているのだ。
上方は神に通ずる道である。
道なき時には神に頼れである。
不可能を可能にかえ得るものは決意である。
「意志の教育こそは吾人存在の目的である。
断乎たる決意ある者の前には常に時と機会とが待っている」
とエマーソンは言っている。
世界を動かす梃子(てこ)は意志の力である。
<感謝合掌 令和6年6月22日 頓首再拝>
-
37:伝統
:
2024/07/09 (Tue) 10:54:05
-
*「光明法語」(7月9日)より
~全身は霊的エネルギーの層である。
ロック〇ェラー研究所の外科医長故アレキシス・カレル博士は言っている。
「吾々の意識のすべての状態は脳髄の化学的変化に相互連関をもっている。
脳髄は全身に相互連関をもち、吾等の全身は恰(あたか)も
心的及び霊的エネルギーの層をなしているのである。
意識のすべての状態は人体に一定の化学的又は生理的状態を引起こす。
されば人間は或る動作によって自分の肉体を調整し得ると同様に、
瞑想により心を整えることによっても肉体を調整し得るのである。」
是が凡(あら)ゆる方面から人間の肉体を解剖した世界一の大医の言である。
<感謝合掌 令和6年7月9日 頓首再拝>
-
38:伝統
:
2024/07/18 (Thu) 11:10:02
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月18日)より
写真を写すにも、絞りを調整することによって、
その写真が上手に写ったり下手に写ったりするのである。
それと同じく現世をよくするには心の「絞り」を調整することが必要である。
内部が整うて、外界が整うのである。
何か外界に悪しきことが起こったら、まず内部を調整すべきである。
<感謝合掌 令和6年7月18日 頓首再拝>
-
39:伝統
:
2024/07/25 (Thu) 12:26:17
-
*「光明法語」(7月25日)より
~ 適時、適所、適人
生長の家は毒物を食しながら、
心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と思念しながら食べたら、
毒が変じて栄養となると云うのではない。
心が完全に働けば、
本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。
そして食物の分量や質の配置なども適当となり、
すべてが《ある》べきところに《ある》ように
適当におかれると云うのである。
神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。
<感謝合掌 令和6年7月25日 頓首再拝>
-
40:伝統
:
2024/08/02 (Fri) 11:41:50
-
*「光明法語」(8月2日)より
原因あって結果来る。精神科学も物質科学も同様である。
物質科学は物質にのみ原因をもとめるが、
吾らは、その物質は如何にして生じたるかを追求し、
それがエネルギーの波動であることを明らかにし、
そのエネルギーの波動は、
智慧あり秩序あるエネルギーの波動であることを明らかにし、
智慧あり秩序あるエネルギーとは、物質的なるものではなく、
心的なるものであることを明らかにし、
心によって物質の変化することを明らかにし、
心によって健康と運命をと支配するのである。
<感謝合掌 令和6年8月2日 頓首再拝>
-
41:伝統
:
2024/08/03 (Sat) 12:21:51
-
*「光明法語」(8月3日)より
精神科学の研究家は、病気の大部分は殆どすべて心に根源を発し、
心によって病み、心によって癒される事を知る。
併しながら、それは決して、「病気になる」と思ったから病気になり、
単に「病気は無い」と想ったから治ると云う様な単純なものではない。
病気なんて一切考えないのに病気になった人もあり、
心はその儘で一時治る人もある。
人間の心の内部にはもっと
複雑な混輻輳(コンプレックス)があるのである。
この混雑輻輳(ふくそう)極まりなき心の解剖と
その浄化こそ真に癒す道である。
<感謝合掌 令和6年8月3日 頓首再拝>
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42:伝統
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2024/08/12 (Mon) 11:42:20
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*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月12日)より
列車に乗ってその列車が転覆したからといって、
その列車に乗せた駅員が悪いのではない。
転覆するような列車に乗るのは、乗ったその人自身にそ
の列車に乗るようになっている「心」があったからである。
「心」が万事に先行するとういうことを知る人は不幸に逢っても、
他を憎んだり恨んだりするものではない。
自分の「心」がそれを造ったということを知っているからだ。
列車に乗って不慮の災難に逢うことも、
人の口車に乗って不幸に陥ったり物事が失敗に終わるということも、
「乗る」のは、自分がその乗物に引きつけられて乗ったのだから、
自分自身の「心」の中に原因があるのである。
他(ひと)が「悪い、悪い」と思っている人は、
要するに責任を他(た)に転嫁する卑怯者のことである。
人間は強くなるにしたがって、
いっさいの原因を自分自身に帰するようになる。
そして聖者と言われるほどの人になると、
衆生の一人でもまだ苦しんでいる者があると
自分自身の責任だと感ずるものである。
世界のすべての人類が「光明思想」を知らず、また知っても十分実践せず、
不幸に沈淪(ちんりん)している者があるのは、
わたしの宣伝が足りないからなのである。
皆わたしの罪なのである。
<感謝合掌 令和6年8月12日 頓首再拝>
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43:伝統
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2024/08/14 (Wed) 09:51:12
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*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月14日)より
世界を征服することは偉大であるが、
まず自分の心の王国を征服することはいっそう偉大である。
ます自分の心の王国を征服し、自分の心に真理を実現すれば、
一家に平和は来たり、一家に平和来たれば近隣相和す。
近隣相和せば、一町一村に平和来たり、
一町一村に平和来たれば、一群一県に真理来たる。
一群一県に真理来たれば、国家はじめて正法に立脚し、
国家正法に立脚すれば四隣の国おのずから相和し、
四隣の国おのずから相和せば、もって世界の平和を招くに足るのである。
<感謝合掌 令和6年8月14日 頓首再拝>
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44:伝統
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2024/08/15 (Thu) 11:37:46
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*「光明法語」(8月15日)より
近頃、柴田酵素や渡辺酵素で肥料を速成して、
その施肥効果により二倍増産三倍増産を得る事が可能であると説くものがある。
実際試みて何等効果がなかったと言うものもあり、効果著しかりしと言うものあり、
批評まちまちであって一定の結果を得ない。
農事試験場では実際上効果なしとして一旦否定したるも、
此の種民間の評判高き故、もう一度実験して見ると云うことである。
酵素は微生物の生産物である。
微生物は人間の念に感応し易い。
念によって効果を異(こと)にするは当然である。
<感謝合掌 令和6年8月15日 頓首再拝>
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45:伝統
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2024/08/16 (Fri) 11:36:44
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*「光明法語」(8月16日)より
嘗て、千葉大医科と、慶応大医科とで、
チフス菌は鼠の腸内にて殺菌消化されて形を止めなくなると言い、
一方は然らずと言い、両大学にて各々実験を行い、
両方とも自己の主張する通りの実験の結果を得、
孰(いず)れにも勝敗決せずして物別れになった事があった。
同一程度の重症の結核患者で、一方は暗く悲哀と絶望の精神をもち、
他方は明るく楽天的なる精神をもったとせよ。
明るき楽天的なる精神の者は快方に向かい、
悲哀と絶望に沈みたる者の結核菌は益々繁殖して病は増悪する。
<感謝合掌 令和6年8月16日 頓首再拝>
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46:伝統
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2024/10/01 (Tue) 11:03:23
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*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(P92)より
すべての事物は、心の想うことによって存在に入ったのである。
神が心に星辰を想い、天体を想うことによって、
諸々の星辰天体が生じたようにである。
われわれの周囲の事物はわれわれが心に想うことによって存在に入ったのである。
そうすれば自分の好まない事物を心に想わないようにしなければならない。
「想うもの」が出て来るのであるから、敵を想えば敵が出て来る。
戦争を想えば戦争が出て来る。
病気を恐れて、心に警戒すればするほど病気にかかるのである。
ということは予防的なことをいっさいするなという意味ではない。
戸締りをしないで徹夜で泥棒を恐れているよりも、
戸締りをして泥棒を思わないで眠る方がよい。
<感謝合掌 令和6年10月1日 頓首再拝>
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47:伝統
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2024/10/18 (Fri) 11:16:31
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*「光明法語(10月18日)」より
眠っている子供の枕元で数学の公式を幾度も唱えて聞かせて、
覚めてからその数学の公式を思い出させると完全に暗誦し得たと云う実例もある。
リーテル・ブルバンクは自分の妹に会いたいと思うとき手紙を書かないで、
思念で「今日はお前に会いたいんだが」と念じたら必ずその次の列車で
その妹はブルバンクのところへやって来たと伝えられている。
夫婦の思いが互いに感応した実例は沢山ある。
妻があやまる気になったとき、夫が妻に済まぬと思うようになった例も多い。
<感謝合掌 令和6年10月18日 頓首再拝>
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48:伝統
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2024/11/07 (Thu) 10:47:41
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*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月7日)より
物質はわれわれを傷つけることはできぬ。
愛なき心がわれらを傷つけるのである
―― そしてあたかも物質がわれわれを傷つけたるがごとく錯覚せしめるのである。
物質に傷つけられたるがごとく見えている時に、反省してみると、
物質によるよりも先ず自分の心が恐れていたか、憎んでいたか、怒っていたか ――
ともかく傷ついていたことを発見するであろう。
<感謝合掌 令和6年11月7日 頓首再拝>
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49:伝統
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2024/11/08 (Fri) 11:44:48
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*「光明法語」(11月8日の法語)より
「我みずからにては何事もなし得ず、
天の父われに在(いま)してみ業をなさしめ給うのである」
とイエスは言った。
癒すのは「天の父」即ち神であり、われではないのである。
われは、心の照準を定めて引金を引くだけである。
心だけ正しい方向にむけて神の力の自働するのに任せて置けば好いのである。
みわざは内在の爆発力がなし給うのである。
内在の爆発力とは、神である。
照準を定めるのは現在意識であり、
現在意識の志向を潜在意識の中まで落すのが、
「引金を引く」ということである。
<感謝合掌 令和6年11月8日 頓首再拝>
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50:伝統
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2024/11/23 (Sat) 11:12:33
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*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月23日)より
人間の心の思いは動力であることを知らなければなりません。
心に描いたことが形にあらわれるのであります。
このことは何度繰り返しても繰り返しすぎるということはないくらい
重大な問題なのであります。
キリストは
「まず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。
その余(よ)のものは汝らに加えらるべし」
と教えられました。
具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先立って
まず心の世界に、神の国を描くことが必要なのであります。
「もし芥子種ほどの信だにあらば
この山に動いて海に入れと言うといえども必ず成らん」
とキリストが言われたのも、
実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、
神の国にあるいっさいのものがこの世に実現するということであります。
すべての地上の建造物は、
まず建築家の心の内に描かれたものが実現したのであります。
原子爆弾といえども
科学者の心の内に描かれたものが実現したのであります。
「心はすべての造り主」と言われている所以(ゆえん)であります。
物質はみずから自発的に動いて一定の形をとることはできません。
湯呑みが勝手に歩いたり、万年筆が勝手に動いて文章を書く
ということもありません。
ブランシェット(心霊現象の自働書記でお筆先を書く道具)が
自働して文字や絵を書くのは、その道具が勝手に動くからではなく、
それを動かす霊があるからです。
われわれの肉体細胞の成分が一定の姿に配列されて
健康になるのも病気になるのも皆心の働きです。
<感謝合掌 令和6年11月23日 頓首再拝>