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ひかりの一日一言90~実相と現象との関係

1:伝統 :

2022/09/01 (Thu) 04:49:26


真理第1巻入門篇 第21章(P291~309<16項>)から
の謹写です。


各項目については、「ひかりの一日一言」としては、
長文となるものがありますので、小項目に分けての紹介になります。

結果的に、30日分の構成を目指します。


ひかりの一日一言《1日》

《1日 眼に見えないでも「ある」ものはある①》

神さまは眼に見えないけれども、無いのではありません。
ガスでも蒸気でも電気でも眼に見えないけれども、
皆さんは「ある」ことを知っているでしょう。

ガスは眼に見えないけれども、それを燃やすとお湯がわくでしょう。
蒸気も眼に見えないけれども、その力によって汽車が走るのです
。電気も眼に見えないけれども、それが或る針金を通ると、
電熱となったり、電燈となったりいたします。

その眼に見える相(すがた)は、
眼に見えないもののあらわれに過ぎないのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P291)より

       <感謝合掌 令和4年9月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/09/02 (Fri) 02:06:19


《2日 眼に見えないでも「ある」ものはある②》

すべて形あるものは、その中にある形のないものの働きによって、
眼に見えるようにあらわれているのであります。

そして形あるものは、常に変るのであります。
すべてのものは変りつつあります。

これを、お釈迦さまは、すべての物は無常だと言われました。


        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P291~292)より

       <感謝合掌 令和4年9月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/09/03 (Sat) 05:04:35


《3日 眼に見えないでも「ある」ものはある③》

どんな立派な軍艦でも、石で造った建築でも
こわれる時が来るのであります。

そして形あるものが、一定の規則正しい形をしたり、
生きている美しい形をしているのは、
形のない「生命(せいめい)」又は「心」が、
物質を材料としてそのようにならべたのであります。

家でも、人間の身体(からだ)でも同じことであります。

そして、それを造っている間は、
その形は生き生きとして新しく見えましが、
「生命(せいめい)」や「心」が、もうそれを造らなくなりますと、

その時から、形には、「古(ふる)び」がはじまり、
物によって速いと遅いとの区別はありますが、
だんだんボロボロになって来るのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P292)より

       <感謝合掌 令和4年9月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/09/04 (Sun) 05:04:06


《4日 生命(いのち)は眼に見えないでも「ある」①》

それと同じように、人間の身体(からだ)も、
これを一定の形につくった、「生命(いのち)」とか「心」とか
言うものがその身体(からだ)からぬけてしまいますと、
所謂「死んだ」と言うことになりまして、
すぐ肉体は腐(くさ)りはじめ、ボロボロになるのです。

「生命(いのち)」が吾々にやどっていて、
その「生命(いのち)」の心で、肉体を動かして、
呼吸や、消化や、運動などをさせているのであります。

しかし、その「生命(いのち)」と言うものは眼には見えない
けれども実際にあって、吾々の肉体を動かしているのです。

その眼に見えない方の生命(いのち)の方が、
「本当のあなた」なのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P292~293)より

       <感謝合掌 令和4年9月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/09/05 (Mon) 04:55:12


《5日 生命(いのち)は眼に見えないでも「ある」②》

そして眼に見える肉体の方(ほう)は、
あなたの生命(いのち)が使う道具なのです。

道具は、使わない刃物や鋏(はさみ)が錆びて来るように、
あまり使わないと、あなたの肉体と言う道具も錆びついて、
却って病気になって来るのです。

だからなまけて身体(からだ)を楽にして、
働いたり、勉強しないでいると、却って身体は弱くなって、
病気になったり、老いぼれて来たりします。

老人で長生きしているような人は、皆、年寄ってからでも、
何か働く楽しみをもっている人であります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P293)より

       <感謝合掌 令和4年9月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/09/06 (Tue) 05:05:14


《6日 吾々の生命(いのち)は常に身体(からだ)を新しく造っている①》

皆さんにも「生命(いのち)」がありますが、
植物にも、動物にも「生命(いのち)」があります。
近頃は鉱物にさえ「生命(いのち)」があると言うことがわかってまいりました。

あらゆるものは「生命(いのち)」があり生きているのです。
そのすべての「生命(いのち)」の大元を「大生命」と言うのです。
「大生命」を「神」とも言います。

その大生命が心で想う力、すなわち「想い」の力、
コトバの力ですべてのものを造られたのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P293~294)より

       <感謝合掌 令和4年9月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/09/07 (Wed) 04:41:11


《7日 吾々の生命(いのち)は常に身体(からだ)を新しく造っている②》

大生命は「大」と名前がつくだけに、とても素晴らしく大きくて、
どこにでも充ち満ちていて、何でも造り出す力をもっていられるのです。

そして、すべての古いものがくだけても、
また新しく造る力をもっているのです。

冬になると、多くの木は葉を枯らし、野の草は姿を消してしまいますが、
翌年の春になると、すべて、新しく青々とした美しい葉を装い、
それぞれの美しい花をつけさせるのです。

この春になって、美しくも萌えでる草木の姿を見ておりますと、
神様の、すべてのものを新たならしめる力がはっきりわかるようです。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P294)より

       <感謝合掌 令和4年9月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/09/08 (Thu) 04:57:27


《8日 吾々の生命(いのち)は常に身体(からだ)を新しく造っている③》

草木(くさき)でさえこんなに新しく美しく蘇生(よみがえ)らせたもうのに、
万物の霊長が、古びたり、病気になったきりで、
また新しく蘇生(よみがえ)らないと言う筈はありません。

老人も心配はいらない。
生命(いのち)さえしっかり働かせておれば、新しくなり、若返るのです。

病人も恐れることはない。
流れている水は腐らないのです。
そのように本当に喜んで働いている人間は病気にならないのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P294~295)より

       <感謝合掌 令和4年9月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/09/09 (Fri) 05:05:02


《9日 吾々の生命(いのち)は常に身体(からだ)を新しく造っている④》

最近アメリカの精神身体医学でわかったところによりますと、
働くのがいやで、安楽にベッドで休みたい心の人が、
心の希望通りに病気になっているのが多いと云います。

病気で、肉体的にはつらいですが、
心の方は「ベッドに休みたい」と云う目的を達しているのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P295)より

       <感謝合掌 令和4年9月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/09/10 (Sat) 04:57:54


《10日 吾々の生命(いのち)は常に身体(からだ)を新しく造っている⑤》

大生命即ち神様は間断なく新しく元気に
肉体を造って下さっているのでありますが、

吾々に宿っている生命(せいめい)は大生命に対して小生命と言いますが、
吾々には自由がゆるされているので、
休みたい人には休めるように病気を造ることさえも許されているのです。

また、老人になって、若い人から同情されたい人は、
それも許されて老人になれるのです。

みんな自分の自由なのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P295)より

       <感謝合掌 令和4年9月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/09/11 (Sun) 05:02:21


《11日 何故人間は老い且つ病むか①》

考えて御覧なさい。

働いて消耗したり、くたびれたところは、
毎日食べた食物(たべもの)から取り入れられた新しい養分で、
新しく造られているのです。

だから貴方の内臓でも筋肉でも皮膚でも、
常に新しく若々しいのが当りまえなのです。

それなのにどうして、古びたり、元気がないような
筋肉や皮膚を造るのでしょうか。

それは新しく出来た筋肉や皮膚に、
自分の心の想(おも)いをスタンプするからです。

「病気の想い」でスタンプすれば、
新しく出来た肉体も「病気の肉体」としてあらわれます。

「もう私は老いた」と云う想いで判を押せば、
今日(きょう)出来た皮膚でも
老人の皺(しわ)くちゃの皮膚になってあらわれます。

人間は神様に生かされながら、尚その上に、自分の自由で、
「自分の心の想い」の判を押して、自分の心のままの姿を
この世にあらわす自由があたえられているのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P295~296)より

       <感謝合掌 令和4年9月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/09/12 (Mon) 04:06:47


《12日 何故人間は老い且つ病むか②》

それでは、自分に与えられたその自由を、
そんな病気や、老衰をあらわすために
使わないようにしようではありませんか。

日に日に吾々の肉体が新しい成分で補われ、造られるように、
吾々の心も日に日に新しい気になり、
毎日、あらたに生れた元気な少年少女の気持になって、
活発に働いたり、元気にものを考えようではありませんか。

其処から常に若々しい、
新しい勇気と能力と健康とが湧き出て来るのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P296)より

       <感謝合掌 令和4年9月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/09/13 (Tue) 04:59:25


《13日 人間は神様の最高の自己実現①》

自分の「心の想い」と言うのは「心」の中で言っている言葉であります。
「想い」も「言葉」も結局同じものであることは既に申しました。

神は御自身の「想念(おもい)」又は「言葉」によって
一切のものをお造りになりました。

そして神の生命(せいめい)を人間にやどし、
形なく無限に大きい大生命が、
ある形になってあらわれて来たのが人間であります。

姿形なき神が最もすぐれた姿形ある相(すがた)をもって
現象界にあらわれて来たのが人間であります。

これを、人間は神様の最高の自己実現だと云うのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P297)より

       <感謝合掌 令和4年9月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/09/14 (Wed) 05:02:27


《14日 人間は神様の最高の自己実現②》

これを、人間は神様の最高の自己実現だと云うのであります。

だから神が一切のものの創造主(つくりぬし)であるように、
人間も亦、一切のものの創造主(つくりぬし)であるのであります。

動物までは被造物でありますが、
人間は創造主(つくりぬし)が地上に姿をあらわしたのであります。

神は御自身の「想念」(おもい)又は「言葉」によって
一切をお創りになりました。

だから、神の最高の自己実現である人間も
「想念(おもい)」の力、「言葉」の力によって
一切をつくることが出来るのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P297)より

       <感謝合掌 令和4年9月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/09/15 (Thu) 05:03:35


《15日 神様のおつくりになった完全な世界を現す現像液は想念と言葉である①》

人間は神様の創造(つくり)の御業(みわざ)が、
現象世界に映し出される役目を受持っているのであります。

写真ならば、謂わば現像の役目をするのであります。

現像液が悪かったならば、折角よく映っている写真フィルムでも
現像しそこないになってしまって、よき姿にあらわれて来ないでしょう。

それと同じく、神様が折角よき世界を造っておられましても、
それを形にあらわす現像液が、
人間の「想念(おもい)」や「コトバ」なのでありますから、
それを現象界にあらわす人間の想念(おもい)や言葉が悪かったら、
神様の造った通りに、善(よ)きようにあらわれて来ないのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P298)より

       <感謝合掌 令和4年9月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/09/16 (Fri) 04:55:53


《16日 神様のおつくりになった完全な世界を現す現像液は想念と言葉である②》

神様の創造(つくりのわざ)は「実相世界」の創造(そうぞう)で
ありまして、眼に見えないが確かにすのです ――
それは、ちょうど、まだ現像しない前のフィルムに映っている
景色みたいなものであります。

たしかに景色はフィルムにあるが、まだ現れていないのです。

この眼に見えない実相世界は神様の善にして全能なる力で
おつくりになったのですから、すべて善いのであります。

そこで、この実相世界に既にある相(すがた)を
現象世界にあらわして来るのが人間の役目でありまして、
それを現象世界にあらわすための現像液が、
人間の「想い」と「言葉」とであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P298~299)より

       <感謝合掌 令和4年9月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/09/17 (Sat) 05:01:23


《17日 自分のコトバで世界は善くも悪くもあらわれる①》

聖書には「アダムの名づけたるものはその名となれり」と書いてあります。
アダムとは人間の祖先であって、
人間全体の代りに一人の名前を出して来たのであります。

人間が名づけた通りにそのものが成る ―― と云うのは、
吾々が「言葉」と云う現像液で定着するように其の形があらわれる
と云うことであります。

「私は、もう60歳で、年が寄ったから駄目だ」と
コトバで云い、コトバで思いますと、その通り、
皺(しわ)が寄り、腰がかがんで、すっかり駄目になってしまうのであります。

「人間は神の生命の最高の実現だから年が寄っても、
 いつも若く溌剌として元気である」と、
コトバで云い、コトバで思いますと、その通り、
いつまでも若く元気で楽しく仕事をつづけることが出来るのであります。
 
        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P299)より

       <感謝合掌 令和4年9月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/09/18 (Sun) 05:02:19


《18日 自分のコトバで世界は善くも悪くもあらわれる②》

若し何かの出来事が起って来ましても、
「これは善いことが来る始めだ」とコトバで思いますと、
しまいにそれが「善い事」になってあらわれてまいります。

何か起って来た時に「これは大変だ、悪い事が来る」と恐れて、
コトバで思いますと、それは悪い事になってあらわれてまいります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P299~300)より

       <感謝合掌 令和4年9月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/09/19 (Mon) 04:24:10


《19日 コトバを善くすれば運がよくなる》

神様は常にコトバによって、実相のフィルムの中に、眼に見えないが、
既にある完全な姿を造っておられるのであります。

形の世界にあるものは、その現われでないものはありません。

その善いところは、全て神様の賜物の善いところが顕れているのであります。

その悪いところは吾々のコトバと云う現像液が悪いために
現像ムラが出来ているに過ぎません。

あなたのコトバと、コトバで思う其の想念(おもい)とを善くすることです。

現象界の現像ムラは消えてしまって、神様のお造りになった其のままの
完全な相(すがた)があらわれてまいりましょう。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P300)より

       <感謝合掌 令和4年9月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/09/20 (Tue) 05:01:38


《20日 世の中に本当の失敗は決してない①》

悪い出来事が現れて来たときには、それを嘆いてはなりません。
それはもう起(おこ)り済みなのです。

現像に失敗した写真をいくら後から嘆いても何にもならないようなものです。
今迄の現像に失敗したなら、なおの事、これから現像に失敗しないように、
善い現像液をつくらねばなりません。

嘆きの濁った「想(おも)い」がまじった現像液を造っていたら、
また今度も現像に失敗するでしょう。

そこに何があったにせよ、過去のことは過ぎ去ったのです。
過ぎ去ったことにクヨクヨしてはなりません。
クヨクヨするほど、次の世界を定着し出す現像液が濁ることになるのです。

失敗を嘆くコトバを人に話してはなりません。
又みずから呟いてもなりません。

失敗を失敗として語ると、それは失敗になりますが、
コトバの力で、それを失敗でないように語りますと、
それが失敗でないようにあらわれるのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P301)より

       <感謝合掌 令和4年9月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/09/21 (Wed) 04:54:39


《21日 世の中に本当の失敗は決してない②》

電燈の発明者であったエジソンは、電力で電燈を点すことが出来るまでに
数百回、色々の工夫をしたが失敗しました。

そして他(た)の人が
「あなたはこの発明を完成なさるまでに、随分度々失敗なさったでしょう」と
云ってたづねましたら、

エジソンは「私は一回も失敗したことはありません。
人々がそれを失敗と見るときに私は、此の方法では電燈が点らないと云う
数百の法則を発見しました」と答えたと云います。

エジソンは、他(た)の人から見たら、「失敗」と見えるときに、
常に「善き物」を自己の魂の中に吸収して、
そしてそれを応用して幾他の発明を完成したのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P301~302)より

       <感謝合掌 令和4年9月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/09/22 (Thu) 04:58:07


《22日 過去の失敗を心に握るな》

多くの人は過去の経験を失敗する方へ使いがちなので、
益々失敗するのです。

過去も失敗したから、今度も失敗するであろうと、
積極的に進まなければならない時に尻込みして、
折角の機会を看過(みずご)してしまうのです。

神は二度と同じことをお創造(つく)りになりませんから、
一度、以前にそのようなことがあっても今度も必ず斯うだ
ということはありません。

あなたの心に思う「想(おも)い」が一変し、
あなたの口から出すコトバが一変し、

善い事ばかりを思い、善いコトバばかりを口から出すようにしますと、
これから後(あと)は、善い事ばかりが出て来るようになるのであります。


        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P302~303)より

       <感謝合掌 令和4年9月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/09/23 (Fri) 05:02:16

《23日 「苦しみ」や「失敗」を明日まで持ち越すな①》

昨日(きのう)の苦しみは、昨日だけよいのであります。

昨日、失敗したから、今も失敗するかも知れないなどと
恐怖心を起してはなりません。

昨日までは病気だったのだから、
今日(きょう)も健康が悪いだろうと考えてはなりません。

日に日に新しく生きるのが
神の「生命(せいめい)」を生きる人間の生き方なのです。
生命(せいめい)は常に新しいのです。

昨日まで冬であっても、葉を枯らしていても、
春はその翌日にも訪れて来るのです。

過去の失敗や病気の状態を心で捉えていてはなりません。

流るる水の如く過去を流し去るのです。
流るる水は腐りません。
それは過去を把まないからであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P303)より

       <感謝合掌 令和4年9月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/09/24 (Sat) 04:23:12


《24日 「苦しみ」や「失敗」を明日まで持ち越すな②》

若し過去又は現在に悪しき状態がありましたならば、
毎朝起きたときに次の如く十数分間念じ、又眠りしなに
十数分間念ずるがよいのであります。

「過去及現在のすべての悪しき状態は流れ去る水の如く流れ去って
 最早跡(あと)を止(とど)めないのである。

 わたしは神の新生する生命(せいめい)を頂いて、
 健康も事業も溌剌たる力をもって蘇生(よみがえ)るのである」

こう云う「思い」が、あなたの心の工場の中へはいってまいりますと、
あなたの心の工場では過去の不幸をつくり出していた
過去の「想い」が流るる水のように流れ去ってしまうのです。

そして神様の常に間断なく、あたらしく噴出する生命(いのち)が
湧き出て来て、健康もよくなり事業も発展するようになってまいります。

もっとも今朝(けさ)一遍となえたからとて、
一遍にすっかりよくなる訳ではありません。

コトバは種でありますから、毎日それを念じているうちに
芽が出て花が咲き実を結ぶことになるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P303~304)より

       <感謝合掌 令和4年9月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/09/25 (Sun) 04:56:22


《25日 他(ひと)を「悪い奴」だと思ってはならぬ》

すべての事は、心の中の「想い」即ち、心に思うコトバによって
起るのですから、あなたは心の中に「あいつは悪い奴だ」などと
思ってはなりません。

怒(おこ)ることは「あいつは悪い」と思うことですから、
心の中に「悪い言葉」を思うことになるので感心しません。

「悪く」おもえば、その波長に合う「悪いもの」が
沢山集まって来ることになるのであります。

すべて此の世の中の争いも、戦いも「あいつは悪い」
と云う思いから起って来るのであります。

他(た)の人の間違った想いや、行いに対して腹を立ててはなりません。
間違いは「気の毒」なのですから「あの人は気の毒だ」と
愛してあげなければなりません。

間違った思いや行いに対して、《しかえし》をすることは、
自分がまた間違いを繰返すことになるのでありまして、
自分も間違いをしかえす位なら、
えらそうに人を責める資格がないではありませんか。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P304~305)より

       <感謝合掌 令和4年9月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/09/26 (Mon) 05:03:08


《26日 「腹立ち」は心の火事①》

腹立ちの感情は、あたかも心の中に起った火事のようなものであります。

ひとたび、腹立ちの感情がおこりますと、
自分の心の中にある善き性質を全部焼きほろぼしてしまいます。

自分の家に火事が起りますと、すぐあわてて貴方は消すでしょう。

それでは心の中の火事を消さないで置くのは
全く愚かなことだと云わなければなりません。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P305~306)より

       <感謝合掌 令和4年9月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/09/27 (Tue) 05:01:11


《27日 「腹立ち」は心の火事②》

朝御飯をたべているときに、一寸した言葉の間違いから
腹が立つこともあるかも知れまえん。

それはほんの一寸した火事に過ぎません。

すぐその時、「ああ、済みませんでした。御免なさい」と、
あやまって置きさえすれば、すぐお互いの腹立ちの気持ちは
消えてしまうのです。

腹立ちの火事を消すには、自分が「間違った」と思ったら、
直ぐ素直に「済みません」とあやまることです。

そして他(た)の人が、「間違った」と思ったら、
「自分だって間違うことがあるのだから、無理もないね」と
「愛」と「ゆるし」の感情の水をそそぐことであります。

キリストは「七十たびを七十倍たび赦せ」とペテロに教えました。

神様は、吾々が何万回あやまったことをしていましても、
少しもとがめることなく、太陽の光を、雨の水分のお恵みを、
誰にも一様に与えて下さっているのであります。

そんなに、自分が神様から愛され、赦されていることを考えましたら、
あなたも、すべての人を無限に赦してあげても好(よ)いでしょう。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P306)より

       <感謝合掌 令和4年9月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/09/28 (Wed) 04:52:26


《28日 愛は心の中の火事を消す》

「愛する」とは欠点を見ないことです。
「愛する」とは尊敬することです。

どんなに外側がよごれて見えましょうとも、その奥に
立派な「神の生命(いのち)」である彼の「本当の自分」がある
と云うことを見て尊敬してあげることです。

愛するとは、表面の顔や形の「美しさ」や「可愛らしさ」を
好きになると云うことではありません。

表面の顔や形がどうあろうとも、その奥に、その人の
「本当の自分」である「神の生命(いのち)」があることを知って、
その人の為になることをしてあげることです。

どんなに悪く見えている人でも、その人の欠点を見ないで、
その奥にある「本当の彼の自分」を尊敬し、
一心(いっしん)にその人の為になるように尽してあげますと、
屹度、立派な人になってあらわれて来るのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P307)より

       <感謝合掌 令和4年9月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/09/29 (Thu) 04:55:36


《29日 失敗と云うものは本当にはない》

どんなに失敗があっても、間違いがあっても
腹を立てたり、失望したりしてはなりません。

エジソンは電燈を作るのに数百回失敗しても、
それを失敗と思わず「こうした時には、こうなる」と云うことを、
その度毎(たびごと)に知ることが出来たと云って喜んだのです。

こう云う人には失敗はありません。

こう云う人には、普通の人が失敗と見、不成功と見、
失望するときにも何物かを知って、
一層えらくなり一層前進しているのであります。

あなたは、お金を損したら失敗だと考えますか。
「こうしたらお金が損になる」と知っただけでも
貴方はえらくなったのであります。

お金の損得だけで、失敗と成功を区別するのは間違いであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第21章(P307~308)より

       <感謝合掌 令和4年9月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/09/30 (Fri) 04:57:00


《30日 余った富は天の倉に貯えよ》

人間の幸福をお金の多い少ないで定(き)めるのは、
御馳走が沢山ならんでいるのは健康の証拠だと云うのと同じことです。

お食事が沢山ならんでいても
其の人の身体(からだ)は健康でないかも知れないと同じように、

お金が沢山列(なら)んでいても、
其の人の魂は幸福でないかも知れないのです。

お食事が肉体の健康を維持するのに必要なように、
お金は、あなたの物質的欲求を満足させるに必要にはちがいありません。

しかし、人は「肉体」ばかりの塊(かたまり)ではありません。
「人はパンのみにて生きるに非ず」とキリストは言いました。

魂の幸福は、物質的満足よりもまだまだ必要なものなのであります。

必要以上の御馳走をならべられても、
食べられないか、食べたらお腹を壊してしまいます。

必要以上の財産や、自分の使う以上の富と云うものも、
ありすぎれば、魂(たましい)のお腹をこわしてしまいます。

世の中には、金(かね)が出来たために
魂を随分こわして堕落した人が沢山あります。

だから、あらゆる御馳走をみんな食卓にならべて食べられないほど
無理にお腹につめこんではなりません。
残りは腐らない冷蔵庫に入れて置く方がよいのです。

それと同じく「富」も必要以上に使わないで、
神さまの腐らない天の倉に貯えて置くのがよいのであります。

       *「眞理」第1巻入門篇第21章(P308~309)より

       <感謝合掌 令和4年9月30日 頓首再拝>

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