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1:伝統
:
2022/06/01 (Wed) 10:21:17
-
美と価値と生命
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より
柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。
「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」と
いちいち自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、
悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。
悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。
美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。
褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。
褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。
価値とは生命とも同じことである。
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「神の美」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898758
(2)伝統板・第二「神の美②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796615
<感謝合掌 令和4年6月1日 頓首再拝>
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2:伝統
:
2022/06/27 (Mon) 07:36:43
-
*「光明道中記」(6月27日)より
【高き理想、気高き感情、明るき心を持続するものには
老衰は近附いて来ないのである。 (『生命の實相』第十二巻)】
私たちの家は海岸にあった。
私は一人暁方(あけがた)、和(なご)んでいる春の海の夜明を見るために
渚の方へ歩いていったのである。
少しも風のない海の水は鏡のように静かであり透(す)きとおっているのであった。
その海浜(かいひん)の透きとおった水の中から何とも言えない紅(くれな)いの花が、
臙脂(えんじ)よりも深い紅の花が、ポッカリと咲き出でているのである。
それはほんとうに現実の世界では全く見ること出来ない清まった花の姿であった。
わたしはあまりに美しいので声をあげた。
その声でわたしは眼が覚めて了ったのである。
眼が覚めてからもその夢の美しい印象は消えなかった。
わたしはこれ迄色々のところへ招かれて色々の景色を見たけれども、
こんなに清まった美しい景色と、清まった花とを見たことがないのであった。
私に歌が久し振りで出来た。
丁度その日が光明寮の卒業式であったので道場に列(なら)んでいる寮生たちを見ると
その夢の中の花の一つ一つが寮生の魂のように清く美しく感じられた。
覚めてなお心に深くのこれるは海より咲ける紅いの花
<感謝合掌 令和4年6月27日 頓首再拝>
-
3:伝統
:
2022/07/02 (Sat) 07:09:46
-
*「光明法語」(7月2日)より
世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。
困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。
山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。
困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。
<感謝合掌 令和4年7月2日 頓首再拝>
-
4:伝統
:
2022/09/07 (Wed) 08:29:33
-
*「光明法語」(9月7日)より
個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが
個別者に現れない理由は本来あり得ないではないか。
大自然の美や荘厳さは美しい花や巨大なる瀑布(ばくふ)や、
渓谷や、滔々たる大河の流れや、落日などに表現されているのであるが、
万物の霊長であり、神が自意識をもって顕現したところの
「人間」なる神の表現に美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。
大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。
<感謝合掌 令和4年9月7日 頓首再拝>
-
5:伝統
:
2022/09/30 (Fri) 05:02:31
-
*「光明法語」(9月30日)より
個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。
そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが
互いに協力する事によってである。
例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。
天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、
しかも一つに渾然と調和する。
それが盆栽や生花(いけばな)の美である。
人間も一個人として無論美しいが
互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。
<感謝合掌 令和4年9月30日 頓首再拝>
-
6:伝統
:
2022/10/01 (Sat) 08:26:11
-
*「光明法語(10月1日)」より
異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。
その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。
それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。
<感謝合掌 平成25年10月1日 頓首再拝>
-
7:伝統
:
2022/12/03 (Sat) 07:42:30
-
*「光明法語」(12月3日)より
そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は
美しいようでも真の美しさに欠けている。
どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、
その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。
どんな人間の顔もそのままが全体として調和した
美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが
全体の顔の道具と調和しているのである。
若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、
その顔は全体の調和を失って了う。
<感謝合掌 令和4年12月3日 頓首再拝>
-
8:伝統
:
2022/12/04 (Sun) 07:39:07
-
*「光明法語」(12月4日)より
すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。
左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。
活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。
天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、
美しさなど見られない。
平等でないところに美があるのである。
<感謝合掌 令和4年12月4日 頓首再拝>
-
9:伝統
:
2022/12/05 (Mon) 07:44:44
-
*「光明法語」(12月5日)より
茶の湯の茶碗の美も、人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら
美しさなどはないであろう。
人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べると
その美しさは劣るのである。
大自然のもので、コンパスで書いたような、正円もなければ、
定規で引いた様な直線もないのである。
しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、
人間の眼の不揃いも美しいのである。
<感謝合掌 令和4年12月5日 頓首再拝>
-
10:伝統
:
2023/01/26 (Thu) 06:32:20
-
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より
どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。
《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。
《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。
罪悪があるといっても、「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。
《さび》と渋味の中には生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
五官的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」を
ツツミ蔽(おお)うばかりである。
<感謝合掌 令和5年1月26日 頓首再拝>
-
11:伝統
:
2023/02/24 (Fri) 11:00:09
-
*「光明道中記」(2月24日《心の眼ひらく日》)より
【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
(「生命の實相」第十九巻)】
美しく開く春の花を見るにつけても、そ
の美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。
天地自然がどんなに美しくとも、
若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。
天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が
人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。
若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような
顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、
吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、
そんな美術品もただ空間(あき)だらけな分子の機械的な集りとして
観たであろう。
機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。
吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。
吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。
ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。
先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。
<感謝合掌 令和5年2月24日 頓首再拝>
-
12:伝統
:
2023/03/01 (Wed) 05:08:05
-
*「三月の光明道中記」より
人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。
人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。
人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。
経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。
道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。
美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。
「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。
<感謝合掌 令和5年3月1日 頓首再拝>
-
13:伝統
:
2023/06/01 (Thu) 11:41:00
-
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より
柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。
「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」と
いちいち自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、
悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。
悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。
美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。
褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。
褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。
価値とは生命とも同じことである。
<感謝合掌 令和5年6月1日 頓首再拝>
-
14:伝統
:
2023/06/27 (Tue) 05:03:22
-
*「光明道中記」(6月27日《美しき夢見る日》)より
【高き理想、気高き感情、明るき心を持続するものには
老衰は近附いて来ないのである。(『生命の實相』第十二巻)】
私たちの家は海岸にあった。
私は一人暁方(あけがた)、
和(なご)んでいる春の海の夜明を見るために
渚の方へ歩いていったのである。
少しも風のない海の水は
鏡のように静かであり透(す)きとおっているのであった。
その海浜(かいひん)の透きとおった水の中から
何とも言えない紅(くらな)いの花が、
臙脂(えんじ)よりも深い紅の花が、
ポッカリと咲き出でているのである。
それはほんとうに現実の世界では全く見ること出来ない
清まった花の姿であった。
わたしはあまりに美しいので声をあげた。
その声でわたしは眼が覚めて了ったのである。
眼が覚めてからもその夢の美しい印象は消えなかった。
わたしはこれ迄色々のところへ招かれて色々の景色を見たけれども、
こんなに清まった美しい景色と、清まった花とを見たことがない
のであった。
私に歌が久し振りで出来た。
丁度その日が光明寮の卒業式であったので
道場に列(なら)んでいる寮生たちを見ると
その夢の中の花の一つ一つが寮生の魂のように清く美しく感じられた。
覚めてなお心に深くのこれるは海より咲ける紅いの花
<感謝合掌 令和5年6月27日 頓首再拝>
-
15:伝統
:
2023/07/02 (Sun) 05:07:36
-
*「光明法語」(7月2日)より
世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。
困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。
山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。
困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。
<感謝合掌 令和5年7月2日 頓首再拝>
-
16:伝統
:
2023/09/07 (Thu) 13:18:35
-
*「光明法語」(9月7日)より)
個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが
個別者に現れない理由は本来あり得ないではないか。
大自然の美や荘厳さは美しい花や巨大なる瀑布(ばくふ)や、
渓谷や、滔々たる大河の流れや、落日などに表現されているのであるが、
万物の霊長であり、神が自意識をもって顕現したところの
「人間」なる神の表現に美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。
大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。
<感謝合掌 令和5年9月7日 頓首再拝>
-
17:伝統
:
2023/12/03 (Sun) 12:32:47
-
*「光明法語」(12月3日)より)
そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は
美しいようでも真の美しさに欠けている。
どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、
その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。
どんな人間の顔もそのままが全体として
調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが全体の顔の道具と
調和しているのである。
若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、
その顔は全体の調和を失って了う。
<感謝合掌 令和5年12月3日 頓首再拝>
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18:伝統
:
2023/12/04 (Mon) 10:37:40
-
*「光明法語」(12月4日)より)
すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。
左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。
活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。
天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、
美しさなど見られない。
平等でないところに美があるのである。
<感謝合掌 令和5年12月4日 頓首再拝>
-
19:伝統
:
2023/12/05 (Tue) 11:36:31
-
*「光明法語」(12月5日)より)
茶の湯の茶碗の美も、
人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら
美しさなどはないであろう。
人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べると
その美しさは劣るのである。
大自然のもので、コンパスで書いたような、
正円もなければ、定規で引いた様な直線もないのである。
しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、人間の眼の不揃いも美しいのである。
<感謝合掌 令和5年12月5日 頓首再拝>
-
20:伝統
:
2024/01/26 (Fri) 11:45:25
-
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より
どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。
《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。
《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。
罪悪があるといっても、
「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。
《さび》と渋味の中には
生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
五官的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」を
ツツミ蔽(おお)うばかりである。
<感謝合掌 令和6年1月26日 頓首再拝>
-
21:伝統
:
2024/02/24 (Sat) 13:11:46
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*「光明道中記」(2月24日《心の眼ひらく日》)より
【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
(「生命の實相」第十九巻)】
美しく開く春の花を見るにつけても、そ
の美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。
天地自然がどんなに美しくとも、
若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。
天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が
人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。
若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような
顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、
吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、
そんな美術品もただ空間(あき)だらけな分子の機械的な集りとして
観たであろう。
機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。
吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。
吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。
ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。
先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。
<感謝合掌 令和6年2月24日 頓首再拝>
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22:伝統
:
2024/03/01 (Fri) 09:02:51
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*「光明道中記」(3月はじめの言葉)より
人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。
人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。
人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。
経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。
道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。
美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。
「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。
<感謝合掌 令和6年3月1日 頓首再拝>
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23:伝統
:
2024/06/01 (Sat) 11:13:53
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*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より
柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。
「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」と
いちいち自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、
悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。
悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。
美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。
褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。
褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。
価値とは生命とも同じことである。
<感謝合掌 令和6年6月1日 頓首再拝>
-
24:伝統
:
2024/09/07 (Sat) 09:29:56
-
*「光明法語」(9月7日)より
個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが個別者に現れない理由は
本来あり得ないではないか。
大自然の美や荘厳さは美しい花や巨大なる瀑布(ばくふ)や、渓谷や、
滔々たる大河の流れや、落日などに表現されているのであるが、
万物の霊長であり、神が自意識をもって顕現したところの「人間」なる
神の表現に美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。
大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。
<感謝合掌 令和6年9月7日 頓首再拝>
-
25:伝統
:
2024/09/30 (Mon) 11:10:00
-
*「光明法語」(9月30日)より
個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。
そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが
互いに協力する事によってである。
例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。
天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、
しかも一つに渾然と調和する。
それが盆栽や生花(いけばな)の美である。
人間も一個人として無論美しいが
互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。
<感謝合掌 令和6年9月30日 頓首再拝>
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26:伝統
:
2024/12/03 (Tue) 11:00:49
-
*「光明法語」(12月3日)より)
そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は
美しいようでも真の美しさに欠けている。
どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、
その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。
どんな人間の顔もそのままが全体として
調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが全体の顔の道具と
調和しているのである。
若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、
その顔は全体の調和を失って了う。
<感謝合掌 令和6年12月3日 頓首再拝>
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27:伝統
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2024/12/04 (Wed) 11:10:59
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*「光明法語」(12月4日)より)
すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。
左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。
活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。
天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、
美しさなど見られない。
平等でないところに美があるのである。
<感謝合掌 令和6年12月4日 頓首再拝>
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28:伝統
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2024/12/05 (Thu) 10:27:58
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*「光明法語」(12月5日)より)
茶の湯の茶碗の美も、
人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら
美しさなどはないであろう。
人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べると
その美しさは劣るのである。
大自然のもので、コンパスで書いたような、
正円もなければ、定規で引いた様な直線もないのである。
しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、人間の眼の不揃いも美しいのである。
<感謝合掌 令和6年12月5日 頓首再拝>
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29:伝統
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2025/01/10 (Fri) 11:04:42
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*「光明道中記」(1月10日《自在を得る日》)より
【空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず。
・・・空間の上に投影されたる生命の放射せる観念の紋(あや)。
これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)】
「維摩経」に「心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず」と
説かれているが、空間は心が認識作用を投影する印画幕として
外界に仮に展開せしめたる面である。
画家の心の中にある「美」は空間的存在であるか。
空間的存在であるならばそれは何尺何寸であるか。
画家の心の中にある美は超空間的な存在であるから、
それは寸法を超えたものである。
1号のカンヴァスに描けば1号のカンヴァスの大きさに現れ、
3号のカンヴァスに描けば3号のカンヴァスの大きさに現れるが如く、
その美が投影される「面」の寸法に準(したが)って無限に
多種多様の寸法に現れ出(いで)得るが故に、
それ自身は大いさなきものである。
無寸法にして無限寸法のものであり、
無空間にして無限相のものが生命であり、その美である。
生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、
此の肉体の何処にも自分の「生命」は無く、無空間の世界から、
空間面に肉体と云う反影(リフレクション)を
投げかけているものが生命だと知れるのである。
だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。
<感謝合掌 令和7年1月10日 頓首再拝>
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30:伝統
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2025/01/26 (Sun) 11:32:02
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*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より
どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。
《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。
《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。
罪悪があるといっても、
「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。
《さび》と渋味の中には
生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
五官的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」を
ツツミ蔽(おお)うばかりである。
<感謝合掌 令和7年1月26日 頓首再拝>
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31:伝統
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2025/02/24 (Mon) 11:46:12
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*「光明道中記」(2月24日《心の眼ひらく日》)より
【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
(「生命の實相」第十九巻)】
美しく開く春の花を見るにつけても、そ
の美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。
天地自然がどんなに美しくとも、
若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。
天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が
人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。
若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような
顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、
吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、
そんな美術品もただ空間(あき)だらけな分子の機械的な集りとして
観たであろう。
機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。
吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。
吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。
ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。
先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。
<感謝合掌 令和7年2月24日 頓首再拝>
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32:伝統
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2025/03/01 (Sat) 10:30:26
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*「光明道中記」(3月はじめの言葉)より
人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。
人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。
人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。
経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。
道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。
美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。
「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。
・・・
(以下は続きの部分を「美しき生活」(P1~P3)より)
【美的価値と行】その2(「美しき生活」序文)
人が若し物質の世界にのみ住んでいるものであるならば、
彼は物質的に幸福な時には幸福であるし、物質的に不幸な
時には不幸であるし、その他(た)のことは全くあり得ない。
それは偶然であるし、機械的であるし、
人間の自由は全くないのである。
ところが茲(ここ)に自由人と云う人間がある。
彼は不幸に見える時にもそれを展開することを知っているし、
如何なる困難でも切り開くことができる力を有(も)って
いる。
彼は人間は『心(こころ)』であることを知っているし
その『心(こころ)』によって無限の源泉であるところの
『神(かみ)』とつながることを知っている。
彼はこの世界の実質を物質であると観ないで、
心であると観るのである。
心を遡(さかのぼ)って無限の智慧、無限の愛、無限の生命、
無限の供給の源泉である神として知るのである。
そして不幸とか、災難とか、病気とか、貧乏とか云う
吾等にとって不快なものを悉く人生から駆逐するのである。
美的価値を行(ぎょう)にまで移すのである。
汚(けが)れたる行為によって積まれ到達されたる富も地位も
やがて時(とき)来(きた)らば必ず土崩壊(どほうかい)
するのである。
真の美しき生活を通して高く積まれたる富と地位のみが
永続するのである。
<感謝合掌 令和7年3月1日 頓首再拝>
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33:伝統
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2025/06/01 (Sun) 11:35:09
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*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より抜粋
柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。
(中略)
美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。
褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。
褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。
価値とは生命とも同じことである。
<感謝合掌 令和7年6月1日 頓首再拝>
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34:伝統
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2025/07/02 (Wed) 11:45:42
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*「光明法語」(7月2日)より
世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。
困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。
山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。
困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。
<感謝合掌 令和7年7月2日 頓首再拝>