-
1:伝統
:
2020/03/03 (Tue) 02:56:18
-
*伝統板・第二「現象無しとは」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6994730
現象を否定し、実相を肯定せよ
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より
しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。
人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。
否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。
いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。
おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。
これが否定の妙用である。
慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。
苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。
かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。
無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。
<感謝合掌 令和2年3月3日 頓首再拝>
-
2:伝統
:
2020/03/13 (Fri) 04:30:20
-
*『真理』第九巻生活篇(P261~262)より
健全にして、何らの欠陥なき肉体は、神の構想せられた設計そのままに、
その設計が現実化したものである。
その永遠にかわることなく健全な設計が現実化する過程に於いて、
肉体心(こころ)の想念が、神の本来の構想をゆがめることになり
不健康が現れる。
たとえば、自然の景色は非常に素晴らしいが、自働焦点式カメラで
その景色を撮影する場合、その時の撮影者の気持ちで、手がふるえたりして、
不完全な写真が出来るようなものである。
不完全な写真は現象界の不完全な場合(肉体の病気などをも含む)の
譬えである。
如何に写真に不完全さが現れていても、実物の景色は立派であるのと
同じように、如何に現象的に、不幸や災難や病気が現われていても、
その人の実相(じつのすがた)は完全である。
現象にあらわれた病気や不幸を《あり》と思う者は
下手に撮った写真を見て、実物は不完全だと
思いがちのようなものである。
<感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝>
-
3:伝統
:
2020/03/25 (Wed) 04:55:35
-
*『 生長の家 』(昭和40年3月25日)より
「 霊の世界 」に於ける「 神の想念 」による創造は、
純粋無雑に、ただ神によって創造せられているが故に、
それは至美(しび)至善(しぜん)妙楽(みょうらく)完全円満の世界である。
その完全の世界が「実相世界」である。
イエスが「 御心(みこころ)の天に成るが如く地にもならせ給え 」と祈ったときの
「 既に天に成る完全世界 」(神の国)である。
しかし、それは「天国」であり、「霊の世界」であるがゆえに、
肉眼には見えないので、恰(あたか)もテレビ装置に於いて肉眼に視(み)えない
放送電波をブラウン管という「認識のための形式」の面に於いて、
肉眼に視える形にあらわすのと同じように、
私たちの生命は時間空間という「 認識の形式 」を“ 心でつくって ”、
その形式面上に具象化して見るのである。
そのような「 認識の形式 」を通して見る其(そ)の途上に於いて、
あらわれる形に歪(ゆが)みがでて来たのが、色々の現象界にあらわれる
擾乱(じょうらん)であり、混乱であり、病気であり、災害である。
それは恰もテレビに故障を生ずると、画像が歪んで崩れてくるのと同じである。
心でつくった「認識の形式」であるから、
その画像(現象界の出来事)の歪みを直すには、
心を直して、神からの放送電波に波長を合わすほかはないのである。
受像のチャンネルを直さないで歪んだ画像を正しくしようと、
いくらテレビ・セットに祈ってみても、何の効果もないのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
<感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>
-
4:伝統
:
2020/04/09 (Thu) 01:58:41
-
*Web:かんながら(2020年02月01日)より
(前半略)
今日伝えたかったのは、睡眠中に見る夢から覚めるのと、
人生の中で起きる目覚めは、ほとんど同じだということ。
そして両方とも目覚める前は、夢を夢だと自覚できていないということ。
いまあなたが人生と呼んでいるもの、
そこに登場する家族やその他の人々、やっている仕事、
それらがうまくいっていようといまいと、目覚めてみれば何の違いもありません。
いい夢も、悪夢も、夢は夢だから。
人生がうまくいっていると感じている人は、まだ当分夢を見続けることでしょう。
その夢が終わってほしくないはずです。
もちろんいい夢の中でも、日々の心理的ストレスや、問題や悩みは尽きないはずです。
夢とはそういうものです。
でも自分が得たと思っているものに酔っているので、その夢を手放したくありません。
しかも皮肉なことに、この世の富を手に入れてからは、
次元を超えた富を得たいと願うので、目覚めを追求し始めます。
あれもこれも全部欲しいと言うわけです。
でも無理な話です。
目覚める夢を見ることはできても、それは目覚めではないからです。
一方、人生がうまくいっていないと感じている人はどうでしょう。
悪夢を見ている人です。
その悪夢が耐えられない所まで来た時、違う言い方をすれば完全に絶望した時、
突然にして夢から覚めることがあります。
そのような意味から言えば
「苦しむ者は幸いなり。天の王国は彼らのものだ」
となります。
あるいは死期を悟った時、夢を夢として見抜くこともあるようです。
豊臣秀吉の辞世の句
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
とことん辛い時は、これも夢だと思えば少し救いがありますね。
そしてそれは気休めではなく真実なのです。
上手くいっている人は、そのまま夢を見続ければよろしい。
いずれにせよ永遠には続かないのだから。
どっちだっていい。
しょせんは神の手のひらの中。
だから全部、お・ま・か・せ
南無阿弥陀仏
(https://abetoshiro.ti-da.net/e11427564.html)
<感謝合掌 令和2年4月9日 頓首再拝>
-
5:伝統
:
2020/04/22 (Wed) 04:32:08
-
*「真理」第9巻生活篇第3章(P85)より
すべての悪しき出来事は、恰(あたか)もあなたが幼い子供であって
左右の父母(ふぼ)に抱かれて安全に眠りながら、恐ろしい夢を見て
うなされているのと同じようなものであります。
実相(じつのすがた)はあなたは父母(ふぼ)に護られて安全である
のであって、何か恐ろしい不安なものと見えたのは、実際それが
《ある》のではなく、夢を見ていたのに過ぎないのであります。
現象界はありと見えるけれども念波投影ですから、映画の世界の
ようなもので、実際それがあるように見えながら本当に《ある》世界
ではないのです。
そんな移り変わる世界の変動に悲しんで見たとて何の甲斐がありましょう。
あなたが夢にうなされているとき、その夢から覚ましてあげるために、
父母(ふぼ)はあなたの本当の名を呼ぶでしょう。
するとあなたは目覚めて、今まで見ていた悲劇は夢であったと知り、
現実に父母(ふぼ)に護られている自分を知るのです。
あなたを夢から覚ましてあげるあなたの本当の名は「神の子さん」
と云う名なのです。
父母(ふぼ)は被仰(おっしゃ)います
「前は神の子だから何も心配いらないのですよ」と。
<感謝合掌 令和2年4月22日 頓首再拝>
-
6:伝統
:
2020/05/04 (Mon) 03:54:15
-
*Web:かんながら(2020年03月27日)より
もしいま、どうしようもないほどの不安に苛まれている人がいたとしたら、
次の言葉を自分に言い聞かせてください。
「これもまた過ぎ去る」
あらゆることは、現れた瞬間すでに後ろ姿です。
嬉しいことも悲しいことも、すべては過ぎ去っていきます。
いままでの人生でも、
袋小路にはまってしまった経験は何度もしてきたはずです。
そのときの経験はどこに行きましたか?
すべては過ぎ去って消えてしまいました。
「これもまた過ぎ去る」
この言葉はあらゆることへの救いです。
いまあなたの人生物語は苦境の中にあるのかもしれません。
昔の輝かしい物語を懐かしむこともあるでしょう。
苦境の中のあなたと、輝かしい中のあなたは何が違うと思いますか。
答えは
「何も違いません」
物語の内容が違うだけで、それを見ているあなたは同じです。
この感覚を思い出したら、どんなときでも平安がやってきます。
本当の自分は、物語の内容に一切影響されていないことを知るからです。
人生で起きるあらゆる問題の原因は一つです。
それは、観客である自分と物語の主人公である自分が合一してしまったこと。
観客のあなたが、いつのまにか物語の登場人物になってしまったことによります。
映画を見ている時とよく似ています。
主人公が絶体絶命のピンチになって、見ている自分も緊張の極致に達した時、
「あ、これは映画だ」
と思い出すことで、急に安堵感がよみがえってくるようなものです。
それまで物語の中で抱えていた問題が、一瞬のうちに消えて無くなります。
人生と呼ばれる一連の現象も同じことです。
あなたは「見ている人」であり、登場人物ではないのです。
この気づきが安らぎをもたらし、物語をスムーズにしていきます。
外に出て大空に向かって両手を広げ、大きく深呼吸してみましょう。
空は今日も空をやっています。
何億年もずっと同じままです。
この地上で何が起きても、空はいつも空をやってきました。
空から見れば、何も起きていないのと同じこと。
それは本当のあなたそのものです。
あなたは空です。
あなたは空(くう)なのです。
本当のあなたから見れば、この世は何も起きていません。
いまはまだ登場人物と同化しているので、
何を言われているのか分からないかもしれません。
でも大丈夫。
分かろうと、分かるまいと、真実は変わらないから。
断定的に言えることがあります。
あなた(空)は、永遠に安全だということ。
いまはまだ、もう少し夢(物語)を見ていたいんでしょ?
実際の話、あなたはまだ目覚めたくないのです。
OK,OK!
見たいだけ見ていたらいいです。
でも僕はこうしてちょくちょく邪魔に入ります。
「おーい! 目を覚ませ! それは夢だぞ~!!」
ってね。
だって苦しそうな夢を見ているみたいだから、起こしたくなるんですよ。
不安に苛まれている人に対しても、おせっかいを焼きたくなります。
趣味はこれしかないし(^^;)
(https://abetoshiro.ti-da.net/e11490597.html )
<感謝合掌 令和2年5月4日 頓首再拝>
-
7:伝統
:
2020/05/14 (Thu) 04:55:57
-
*「希望を叶える365章」(P208)より抜粋
現象の個々の「善き物」に心を捉えられて、それに執着していると、
現象は無常であるから、いつかは、捉(つか)まえているものが減少したり、
滅びたり、衰えたり、消えてしまったりするものである。
現象界は映画のような影であるからやがて「終(おわり)」が来る。
終(おわり)が来ても映画作者の創作力が衰えない限りは、
もっとよい映画が後(あと)に楽しめるように、消えた現象の「善き物」の
次には一層よき現象があらわれて来るから失望しないでよいのである。
<感謝合掌 令和2年5月14日 頓首再拝>
-
8:伝統
:
2020/07/15 (Wed) 04:43:21
-
(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6994730
2018/08/13 (Mon) 20:01:52
現象なしの自覚について ~その3 からの続き)
*「生命の實相」第24巻質疑篇(P96~97)より
「現象はない」とか「病気はない」とかいう言葉は、
語法が不穏当であるとかいって注意して下さるのはありがたいが、
毒性峻烈なヨードでもヨード剤として特殊の分子構造のうちに結合せしめて
ヨードを安定せしめたときには無害有効となるがごとく、
「無」の字の効果は峻烈であっても、わたしの書きまたは話す
特殊の文章組織の中に結合せしめたときに効力が最も卓絶した薬物となるのであります。
それで、『生命の實相』を読む人にはその人の心の中に、
こちらで処方した「無」の字の一定刺激を連続的に与える方が
効果がよいのであります。
それで、生長の家で説いている「無」の字や、「現象は《ない》」という語だけを
抽出してその「無」の内容や効能を理屈でいろいろ詮議しても「無」の字の効果は、
わたしの執筆全体にひろがっていて、はじめてヨード剤のように効果を現わします
のですから、単に「無」の字や「現象はない」の語句だけを抽出して語句の適否を
非難することは見当外れです。
ヨード剤でもその成分中のヨードだけを抽出して激毒性であると言って批評してみても、
ヨード剤全体が効果を現わせばその薬は優良であるではありませんか。
薬剤に併用禁忌の薬があります。
たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、
鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。
生長の家で「病気は《ない》、老死は《ない》、不幸は《ない》、
あるように見えても現象は《ない》」と言いきるところに飲み易い
(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、
その「《ない》」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、
その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、
そのタンニンがせっかくの「《ない》」という言葉の鉄剤と結合して
吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、
心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。
<感謝合掌 令和2年7月15日 頓首再拝>
-
9:伝統
:
2020/08/02 (Sun) 03:59:38
-
*「生命の實相」第24巻質疑篇(P97~99)より
近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、
その全体の思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、
一旗あげてみようとし、
かつあまり同じことを書いても受売りであると一見わかるので、
同じ意味を異なる文章で書き表わし、「何々会」等という別異の名称で
雑誌などを出される方がありますが、
そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、
わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。
茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので
『生長の家』を読んで万事好転していた人が、その種の雑誌を併用したために
「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。
そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、
心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように
仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、
ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。
「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。
キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。
生長の家と、それらの宗教とどこがちがうかと言いますと、
「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、
その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに
効果的に織り混ぜられていて、
古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、
病を即座になおすほどに心の解放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、
厭世的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。
むつかしい複雑な「無」の理論をお読みになりたければ
仏典にはいくらでも複雑なものがありますから、
『大乗起信論』でも、『大般若経』でもお読みになるとよいと思います。
この問題については「善き樹はよき果実を結ぶ、果実を見てその樹の良否を知れ」
というキリストの言葉でお答えしたいと思います。
理屈でその樹は悪い果を結ぶはずだという理論が通りましても、
実際その樹が善き果を結ぶ場合には理論の方にまだ気づかれない欠陥があるのです。
理論で宗教で病気が治るはずがないと結論されても、
実際に治る以上はその理論の気のつかないところに真理があるのです。
真理というものは多数決の理屈で定まるものではありません。
そういう論議を読むのに費やす時間がありますならば、
言葉をよく調合せしめたる
――「無」字を巧みに調剤してある聖典『生命の實相』を幾度でも繰り返し読んで、
少しでもいっそう深く悟りに入られるよう希望致します。
<感謝合掌 令和2年8月2日 頓首再拝>
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10:伝統
:
2020/08/23 (Sun) 04:26:22
-
*『人生の秘訣365章』第6篇(P150) より
神に常に心を振向け、その神の生命(せいめい)が自己に常に流れ入って、
自分の存在を支えているということの自覚を、神想観によって毎日新たにする者は、
毎日一層自分の能力を増し、健康を持続し、老衰をおくらせ、
事業遂行の新たなる計画と勇気とが湧いてくるのである。
若し、社会全般の不景気のために自分の事業も行き詰って来たと見える時にも、
常に“心の世界”に於いて神と連繋を保っているものは、
神の智慧を受けて、その不景気を切り抜けることができるのである。
神は単に病気治しの神ではなく、不景気直しの神でもあるのである。
否!! 神があらわるれば、病気なく、不景気本来存在しないのである。
それは聖經『甘露の法雨』に示されている通りである。
<感謝合掌 令和2年8月23日 頓首再拝>
-
11:伝統
:
2020/10/04 (Sun) 05:01:04
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月4日)より
多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて必ずしも実在(ほんとにある)ではない。
映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、それは実在(ほんとにある)では
なくてただ光の波にすぎないと同じように、病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。
それは心の波が「時間・空間」という「認識の形式」の上に投影されたる影である。
「認識の形式」というのは、人間の心の中につくられている映写機のようなものである。
見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければそんな姿はあらわれない。
<感謝合掌 令和2年10月4日 頓首再拝>
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12:伝統
:
2020/10/20 (Tue) 04:48:17
-
*『 生長の家 』(昭和40年3月13日の法語)より
神のみが唯一の力であり、神は善であり、神は無敵であるから、
神を信ずる限り、「 実相の完全さ 」を神想観で念ずる限り、
中共が核兵器をもとうとも、神の力に敵するものはないから、
それに対抗する日米安保態勢など不要ではないかというような議論が
往々行われるけれども、
それは実相と現象との区別をわすれて、
現象界に於ける適当の処置をなおざりにするものである。
「 実相の完全さ 」を念ずるとき、
その「 完全さ 」があらわれるための
現象的処置が自然に出来て来るのである。
インフルエンザ・ヴィールスが侵入して
身体(からだ)に熱があるときには、寒気(さむけ)がして、
自然に温かい衣料で身体を覆いたくなるように、
内部の「 神の力 」( 生命力 )が催して来るのである。
中共の核兵器が近くにあるのは
ヴィールスが皮膚面に迫って来つつあるのにも似ている。
何かそれに対して危険を感ずるのは、カゼ引きのとき、
悪寒(おかん)がするのに似ている。
「 温かい衣料で覆う 」ことは充分の軍備で自国を覆うか、
日米安保条約の外套(がいとう)で
自分の身体を包むのに似ているのである。
神は無敵であるということは、
何もしないで外敵に身をさらすということではない。
時と処と相手に応じて、神が適当な処置をとらせ給うて、
自然的過程を通じて敵と見えたものが害をしなくなるということである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
<感謝合掌 令和2年10月20日 頓首再拝>
-
13:伝統
:
2020/10/22 (Thu) 04:53:23
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*「光明道中記」(10月22日《現象無しと完全に知る日》)より
【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
『生命の實相』第十一巻)】
二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。
仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。
却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。
一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、
「空とは単に無しと云う意味ではない。
空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空である
と観ずるのが”真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。
非有非空と言えば中々偉そうだが、
「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。
一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では
食べる訳にも行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。
<感謝合掌 令和2年10月22日 頓首再拝>
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14:伝統
:
2020/11/07 (Sat) 04:50:46
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*「精神科学」(昭和45年7月号)
~昭和四十五年三月、生長の家記念日の講演会での講話の一部
幻師の所幻の映像の如く
だから『維摩経』には「菩薩ともなると、肉体人間を観るのに、
『幻師のあらはした幻の人間』と観る」とあるのです。
こうして人間の実相がわかり、肉体が単なる幻だとわかると、
幻が何を言っても腹を立てる必要はないという事になります。
これが悟りの効果であります。そして”心”が滞らねば、
心の滞りのあらわれとしての病気も消えてしまうのであります。
“彼奴けしからんことを吐かしやがって、腹が立つ”なんて言う人がある
けれども、幻の人間が何を言っとったって腹立てる必要はないのであります。
『維摩経解釈』の中で、私は次のように書いております。
「人間界の争ひなんかといふものは、大抵のことは
『あの人が斯う言った、ああ言った』がもとであります。
世界的な事となると、現在の事は言ひたくないが、歴史上のことで言ふと、
チェンバレンが斯う言った、ヒットラーが斯う言ったといって喧嘩が始まった。
吾々の小さい家庭では、妹が斯ういった、お母さんが斯ういった、
娘が斯ういったといって喧嘩してをるのです。」・・・・・
これは、この衆生を観、また物質を観るのに「幻」と観ないで、
実在として観るから、そのような争いが起って来るのである。
すべての争いは「ない」ものを「ある」と思って幻の人間を
実在の人間だと思っているから起ることになるのです。
『ない』ものを『ある、ある』と思って執着し、積み重ね、
奪い合って喧嘩をする。それが病気なのです。
もとが『ない』ものに引っかかって苦しんでいる。
そのもとが『ない』と知らぬから、いつまでも苦しむのです。
『ない』ものを『ない』と知り、それを単に『影』だと知れば
争いがなくなるのです。
現象は本来『ない』のであり、それは影なんですから、
“影の人間”が何を言ったとて、どうしたとて、そう引っかかる必要はない
のであります。
心が引っかかる結果、心の流れが渋滞して、その結果、その渋滞が
“影の人間”に映って肉体の病気や不幸災難ともなってあらわれるのです。
(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672)
<感謝合掌 令和2年11月7日 頓首再拝>
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15:伝統
:
2020/11/18 (Wed) 05:06:33
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*(谷口雅春師)『行』昭和16年5月号 より
相当悟ったような人で『物心一如』の程度に止まってゐるのは頗る残念なことだ。
物心一如であれば、心が迷えば物が乱れ、心が調えば物が調う
―― これは生長の家で説いている『横の真理』に当るものである。
『横の真理』は要するに唯心所現の法則である。
そして心は無自性であるから、何物も自性がない。
無論理想もない。『空』と称ばるる所以である。
一切自性なければ、日本の理念も、民族の理念も、皇位無窮の理念も、
国家はかくあるべし、個人はかくあるべしと云う当為も無くなる
―― 茲に『物心一如』『三界唯心、心外無別法』だけに
止まっているところの在来の宗教の欠陥があるのである。
現象界は物心一如の世界として心の転現する世界であるにしても、
その奥に久遠無窮の理想又は理念があり、
『心』に対して『それは信心、それは盲信』と分別するところの
規範とならなければならぬ。
その規範となるものは、一定の相(すがた)がなければ規範になり能(あた)わぬ。
その一定の相を實相と云い、縦の真理と云うのである。
實相は既に神の心の中に成れる完全の規範世界であって、
現象に対して『真』『妄』の批判を下して
その現象に対して正邪善悪真偽を判断するのである。
『病気無し』と云うのは現象界に病気が顕れていないと云うのではなく、
實相理念の規範からそれを照らして見て
『病気よ、汝はあるかの如く見えても偽象である』と云う宣言である。
https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/20890193.html?type=folderlist(消滅)
<感謝合掌 令和2年11月18日 頓首再拝>
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16:伝統
:
2020/12/18 (Fri) 02:17:18
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*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P284~285)より
此の世の中のすべての物は、うつり変るものばかりであります。
ひとつとして変化しないものはありません。
釈迦牟尼仏が発見せられました真理の一つは、
結局、此のすべてのものは遷(うつ)り易(かわ)る
と云うことでありました。
生れたものは死ぬ。
有(も)っているものもいつかは放さなければならない。
永遠のものと言ってはひとつもない。
何という淋しいことであろう。
そこに切実に「永遠のもの」「滅びないもの」「不壊のもの」を
求めずにはいられない切実なる感情が湧いて来るのであります。
花は咲いて萎(しぼ)む。
実がみのって地に墜ちる。
そこから嫩葉(わかば)が出(で)て花が咲く・・・常なく変化である。
是(これ)を無常と釈尊は仰せられました。
無常の深き体感から尊き宗教が生れて来るのです。
<感謝合掌 令和2年12月18日 頓首再拝>
-
17:伝統
:
2021/02/10 (Wed) 03:24:28
-
*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P290)より
原子爆弾が爆発すると大きな音(おと)がするかとたずねたら、
大抵の人は大きな音がすると答えるであろう。
そこに人がいなくても大きな音がするかとたずねると、
やはり大きな音がすると答える人が多いであろう。
併し、其処にその「音」を聴く「心」がなければ、
「音」はしないのである。
「音」は空気の振動だと考えられている。
しかし「音」は「空気の振動そのもの」ではないのである。
空気の振動に聴覚神経が刺激せられて、
その時、生きている人間の「心」の内部から「音」の感覚が
浮かび上って来るのである。
本当は「音」は吾々の「心」の内部にあるのである。
だから「心」のない死骸を原子爆弾の側(そば)においても
「音」は永久にないのである。
同じことが「色彩」についても言えるのである。
<感謝合掌 令和3年2月10日 頓首再拝>
-
18:伝統
:
2021/02/16 (Tue) 06:32:41
-
*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P290~291)より
吾々は「赤い色が其処にある」と言うけれども、
「赤い色」は外界には無いのであって自分の心の中にあるのである。
物理学者に言わせると、「赤い色」と言うのは
1万分の8ミリ程度のエーテルの波動であり、
1万分の3,7ミリ程度のエーテルの波動が「菫(すみれ)色」であると言う。
エーテルは無色であるから、その波長の寸法が幾らであっても無色である
―― これは誰でも分ることです。
その無色のエーテル波動が人間の視神経を刺激すると
「赤い色」や「紫の色」に感ずるのは、
エーテル自体の色ではないのであって、
人間の「心」の中から出て来た「色」なのである。
だから、その人の「心」の中に或る「色彩」の想念が
発達していない場合は、所謂「色盲」であって、
エーテル波動が幾ら1万分の8ミリの波長の振動をしても
「赤」の色は存在しない。
<感謝合掌 令和3年2月16日 頓首再拝>
-
19:伝統
:
2021/02/27 (Sat) 04:53:57
-
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より
合理性 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。
この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。
『般若心経』で幽霊が消えるのは、
それは高遠な哲理の表現であるからである。
病患部に対し神想観をして、
「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえないのだ」
と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して
「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。
(治病のための施念法の詳細は
拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)
通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方が
その人の心の中で優勢になるからである。
理責めのこの世界において、
われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。
多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在する
と理論体系「生命の実相」を自分の心のうちに蓄積する者は、
病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を征服して
光明の人生と化しうる。
・・・
<参照>
『生活応用 健全の真理』 講義(谷口雅春先生)
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/29ae211347039422d3ccd248a1089d82
(1)三界は“唯心の所現”である。
(2)人間が幸福に健全になり得る根拠
①物質は究極的な存在ではなく、エネルギーの一つの状態に過ぎない。
②ここに、この人間を創ったところの
不思議な知恵あるエネルギーが存在する。
③知恵あるエネルギーこそ神様。
この世界は、心を有っているところの驚くべきエネルギーによって
設計され、創造られているのであります。
④宇宙全体の動きを支配している知性と、人間に宿っている知性とが、
“本来一つのもの”であるから、
それで吾々の心が動けば全世界が動き出す、
互いに相感応して動き出すということになるのです。
<感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>
-
20:伝統
:
2021/03/03 (Wed) 04:39:05
-
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より
しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。
人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。
否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。
いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。
おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。
これが否定の妙用である。
慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。
苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。
かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。
無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。
<感謝合掌 令和3年3月3日 頓首再拝>
-
21:伝統
:
2021/04/15 (Thu) 02:16:48
-
*Web:大空からのメッセージ ∞ ハートがすべて
(2019-10-03)より
むかしむかし、インドに偉大な聖者と弟子の青年がおりました。
あるとき青年は聖者に
「師よ、わたしにこの世は幻影であることを教えてください!」
とお願いしました。
その後しばらくしてから、聖者は青年をつれて旅に出ました。
旅の途中休んでいるとき、聖者が青年に
「喉が渇いた。水を持ってきてくれないか?」
と頼みました。
青年は水を求めて、聖者のもとを去っていきました。
しばらく歩いていると青年は家を見つけて、家に向かって
「どなたかいませんか?水を分けてほしいのですが」と呼びかけました。
すると家の中からたいそう美しい女性が出てきて、
二人はその場で恋に落ちてしまいました。
青年は師のことなどすっかり忘れてしまい、
そのままその女性と結婚してしまいました。
青年はその女性との間に男女一人ずつ子供が生まれて
とても幸せな家庭生活を営み続けました。
子供が生まれてから何年も幸せな日々が過ぎていきました。
あるとき、その地方に大雨が降り続け、大洪水が襲ってきました。
洪水に襲われる中、青年は必死になって家族と手をつなぎ合っていたが
自分以外の家族は洪水に飲まれて、自分ひとりだけが助かりました。
青年が愛する家族を失って、絶望のどん底で号泣しているとき、
声が聞こえました。
「いったいお前はいつになったら水を持って来てくれるんだ?
わたしがお前に水を持って来てくれと頼んでから三十分もたっているのに。」
なつかしい師のやさしい声でした。
「さ、三十分だってぇ?!」
と青年は心の底から驚きました\(◎o◎)/!
師が
「師よ、わたしにこの世は幻影であることを教えてください!」
という弟子のお願いを叶えたお話でした。
~ インドに伝わっているお話 ~
(https://ameblo.jp/ooinarukuu/entry-12532051093.html)
<感謝合掌 令和3年4月15日 頓首再拝>
-
22:伝統
:
2021/05/03 (Mon) 02:25:41
-
*Web:愛と光のスピリチュアルメッセージ(2012年10月09日)より
あなた方は創造主の永遠の魂を心に宿す存在。
創造主の分身、分霊である。
しかしまだ幼く、自らの真実を知らないため、
無知に覆われ、この地上のマーヤー(幻影)を実在と
錯覚して生きているのだ。
あなた方の心の声に耳を傾けよ。
真実はいつも常に自らの心の内にあると心得よ。
何故ならば、この世はマーヤー(幻影)であり、
あなた方の意識、思いが投影される鏡のような世界であるから。
あなた方の意識がこの世を創造している。
あなた方の思いがあなた方の生きる世界を創造している。
あなた方の意識が、あなた方の思いが、
あなた方が体験する現実世界を創造しているのである。
この真実に目覚めるとき、
あなた方は全ての源が自らにあることを知り、
あらゆる可能性を開くことができるであろう。
あなた方の人生が、素晴らしく実りあるものとなることを祈っている。
(2012,9,12 クリシュナ)
https://fortune-alice.at.webry.info/201210/article_3.html
・・・
<参照>
伊勢ー白山 道(2021-04-24)
「いっさい みな くう」という真理
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/16f32e3848d495074991b1224ebc686d
伊勢ー白山 道(2021-04-29)
「一切皆色」(いっさい みな しき)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/229de4ed6573ea5502eb95a609381465
<感謝合掌 令和3年5月3日 頓首再拝>
-
23:伝統
:
2021/06/16 (Wed) 02:43:43
-
*「人生の秘訣を語る」より
~昭和45年3月2日午後、
『人生を見つめて』をテキストとしての講義
現象時間は存在しない、
従って非存在の現象時間の中にある事物も存在しない
その説明を『人生を見つめて』には次のように書いてあるので、
ここは重大な真理を含んでいるので、先の説明と重複にはなりますけれども、
百三十頁の三行目からその説明の部分を朗読しながら話す事に致します。
「『過去』は過ぎ去って今はもう無い。
『現在』はそれを捉えた瞬間に過去となってしまって、
『現在』というものはもうないのである。
『未来』はまだ来ていない」
からないのである。
だから、過去、現在、未来、ともすべてないんだ。
“そんなら、どの過去に食べるのか、
どの現在に食べるのか、
どの未来に食べるのか”
というと、そんなもんは無いのだから食べようがない
その事は何を根本に意味しているかというと、この現象界の一切のもの
―― 即ち、過去、現在、未来の時の流れの中にあるものは、
すべてないんだということである。
“現象はない”ということです。
「生長の家で、いくら現象は“ない”と言ったって、“ある”じゃないか」
と反撥する人があるかも知れないが、
現象はあるかのように現われているだけであって、それはないのであります。
このことを維摩経には、
「幻術師(幻術師というのは妖術を使う魔法使い)が
現わした魔法の人間みたいなものがこの現象の人間であって、
そんなものは本当はないのである」
と書いているのです。
本当に”ある”のは、現象の奥にあるところの
”永遠に壊けないところの人間“そのものなのであります。
これが人間の実相であって、吾々はその実相を自覚しなければならない
と維摩経は説いているのであります。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7993594
道産子さま投稿記事
2020/08/31 (Mon) 08:21:14
~2020/09/01 (Tue) 08:11:33
<感謝合掌 令和3年5月3日 頓首再拝>
-
24:伝統
:
2021/07/06 (Tue) 04:00:29
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月6日)より抜粋
罪と病と死とは、
畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。
われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。
しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、
やはり金殿玉楼に錦秋を纏うて眠っているということの事実を
否定することはできないのである。
それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、
万(よろず)のよきものが充満している世界であるのだということに
まちがいはないのである。
人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは
肉体の眼をもって見るからである。
<感謝合掌 令和3年7月6日 頓首再拝>
-
25:伝統
:
2021/10/03 (Sun) 04:50:30
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月3日)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、過去の波動をつかんで、それを実在のごとく
見るのはちょうど映画において過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、
ずっと後(あと)になって映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 令和3年10月3日 頓首再拝>
-
26:伝統
:
2021/10/04 (Mon) 04:13:54
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月4日)より
多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて
必ずしも実在(ほんとにある)ではない。
映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、
それは実在(ほんとにある)ではなくてただ光の波にすぎない
と同じように、病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。
それは心の波が「時間・空間」という
「認識の形式」の上に投影されたる影である。
「認識の形式」というのは、
人間の心の中につくられている映写機のようなものである。
見えるということと、
「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動を
ロケーションしなければそんな姿はあらわれない。
<感謝合掌 令和3年10月4日 頓首再拝>
-
27:伝統
:
2021/10/20 (Wed) 04:49:15
-
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月20日)より
善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。
悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは本来が虚であるから”ある”ように見えても存在せぬ。
そういう現象を偽象または虚象と言う。
善き言葉であらわれた現象は、実在の延長であるから真象と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、神の嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。
真象は神の表現であり、神の発展であり、み心の天になるがごとく地に成ることである。
真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。
現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。
「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。
<感謝合掌 令和3年10月20日 頓首再拝>
-
28:伝統
:
2022/03/03 (Thu) 04:43:37
-
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より
しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。
人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。
否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。
いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。
おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。
これが否定の妙用である。
慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。
苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。
かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。
無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。
<感謝合掌 令和4年3月3日 頓首再拝>
-
29:伝統
:
2022/07/04 (Mon) 07:25:10
-
*「光明道中記」(7月4日)より
【外の権威に頼って救われると誤信した時代は過ぎ去った。(「生命の實相」第六巻)】
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と云う達磨の一喝を受けた梁(りょう)の武帝は
それが大肯定のために否定だと云うことが判らない。
悟りの真理とは「一定のこんな形だ」と考えている人には、
そんな「一定のこんな形」の真理を否定する必要があったのである。
真理はそれを「形」だと思ったら躓(つまず)くのである。
功徳と言えば「形」であると思い、真理と言えば「形」であると思う。
そう思い込んでいる際(はな)に、
曰く「無功徳」曰く「真理無し」と否定(うちけ)されて了ったのだから、
梁の武帝は、自分の眼の前にいる真理を悟ったと伝えて聴いている大先輩なる
達磨大師は一体何者で、何を悟ったと言うのだろう。
一つそれを聴こうと思ったのだ。
そこで梁の武帝は、
「朕に対するものは誰(た)ぞ」と問うた。
如何にも一定の形をした達磨と云う人間が、
一定の形をした真理と云うものを食べて生きているではないかと云うような問である。
形を見、肉体を見ている者には真理は見えないのである。
そこで、
「識(し)らず」
と達磨は答えて、サッサとその場を引上げて行って了ったのである。
<感謝合掌 令和4年7月4日 頓首再拝>
-
30:伝統
:
2022/10/04 (Tue) 06:40:28
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月4日)より
多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて必ずしも実在(ほんとにある)ではない。
映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、
それは実在(ほんとにある)ではなくてただ光の波にすぎないと同じように、
病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。
それは心の波が「時間・空間」という
「認識の形式」の上に投影されたる影である。
「認識の形式」というのは、
人間の心の中につくられている映写機のようなものである。
見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければ
そんな姿はあらわれない。
<感謝合掌 令和4年10月4日 頓首再拝>
-
31:伝統
:
2022/10/22 (Sat) 07:56:22
-
*「光明道中記」(10月22日《現象無しと完全に知る日》)より
【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
『生命の實相』第十一巻)】
二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。
仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。
却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。
一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、
「空とは単に無しと云う意味ではない。
空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空である
と観ずるのが”真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。
非有非空と言えば中々偉そうだが、
「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。
一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では
食べる訳にも行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。
<感謝合掌 令和4年10月22日 頓首再拝>
-
32:伝統
:
2023/03/03 (Fri) 05:08:46
-
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より
しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。
人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。
否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。
いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、
「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。
おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、
と思い直すだけでも、この苦しみにちぢかまっていた
《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。
これが否定の妙用である。
慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。
苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。
かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。
無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、
いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。
<感謝合掌 令和5年3月3日 頓首再拝>
-
33:伝統
:
2023/05/10 (Wed) 06:44:18
-
*Web:かんながら(2023年05月07日)より
こうして日々が流れていく中で、
起きている出来事に巻き込まれるのではなく、
出来事をまるでスクリーンに映った映画のように見つめている、
それが瞑想的な生き方です。
すると出来事に対する一喜一憂が減っていき、
安心した気持ちで全てを見通せるようになります。
そのためには映画の背後にあるスクリーンを知っていること。
スクリーンの存在を知っていれば
物語(出来事)の内容に埋没することがなくなります。
反対にスクリーンを忘れれば、
映画の中の出演者としての自分と同化し、
それは迷いと不安と苦悩をもたらすことになります。
https://abetoshiro.ti-da.net/e12503253.html
<感謝合掌 令和5年5月10日 頓首再拝>
-
34:伝統
:
2023/07/04 (Tue) 05:03:25
-
*「光明道中記」(7月4日《真理を知る日》)より
【外の権威に頼って救われると誤信した時代は過ぎ去った。
(「生命の實相」第六巻)】
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と云う達磨の一喝を受けた
梁(りょう)の武帝はそれが大肯定のために否定だ
と云うことが判らない。
悟りの真理とは「一定のこんな形だ」と考えている人には、
そんな「一定のこんな形」の真理を否定する必要があったのである。
真理はそれを「形」だと思ったら躓(つまず)くのである。
功徳と言えば「形」であると思い、真理と言えば「形」であると思う。
そう思い込んでいる際(はな)に、曰く「無功徳」曰く「真理無し」と
否定(うちけ)されて了ったのだから、梁の武帝は、自分の眼の前にいる
真理を悟ったと伝えて聴いている大先輩なる達磨大師は一体何者で、
何を悟ったと言うのだろう。一つそれを聴こうと思ったのだ。
そこで梁の武帝は、
「朕に対するものは誰(た)ぞ」と問うた。
如何にも一定の形をした達磨と云う人間が、
一定の形をした真理と云うものを食べて生きているではないか
と云うような問である。
形を見、肉体を見ている者には真理は見えないのである。
そこで、
「識(し)らず」
と達磨は答えて、サッサとその場を引上げて行って了ったのである。
・・・
*「光明道中記」(7月5日《臭味を脱却する日》)より
【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】
「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。
「朕は寺院に仏像に僧侶にこれだけの供養をしました。
功徳はどれだけありましょうか」
と云う武帝の方は「識(し)る」方の側である。
「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。
まだ病気が治りませぬ」と言うのも「識(し)る」方の側である。
まことに鼻持(なはもち)がならぬ。
「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。
功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、
従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。
人を救っても無心にして救うようでなければならない。
『生命の實相』を読んで色々の病気が治ったと言って
礼状を寄越される人があるが、私はまだひとりの病人も救ったことはない。
では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても
『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。
識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。
目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。
<感謝合掌 令和5年7月4日 頓首再拝>
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35:伝統
:
2023/09/03 (Sun) 08:30:58
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*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.5.11)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
講演会が終わってから、このように言ってくる方がいます。
「正観さんと会ってから、良いことばかりが起きるようになりました。
ありがとうをたくさん言っていたら、良いことがたくさん起きました」
でも、その言葉を聞いて 私はあまり楽しくありません。
実は宇宙的には、良いことが起こるわけではないからです。
その人が、心地よく楽しいと思うことを、
神さまは一対一の関係でその人に起こします。
楽しいと思う心ができあがった人に、
その人が楽しいと思うことを起こすのです。
「正観さんと会って、
どんなことがあっても動じなくなりました」
と言われることが、とても嬉しいことです。
良いことというのが起きているわけではない。
起きていることは全部ゼロなのです。
「それを、自分が楽しく感じるようになりました。逆に、
何が起きても怒鳴るようなことがなくなり、
どんなことが起きても動じなくなりました。
一喜一憂しなくなりました」
というのが、本当に現象がとらえられてきたということです。
現象が変わっているのではないということを、
基本的な話として覚えていてください。
だから、
「話を聞いた結果、
喜びのアンテナが大きくなって、喜びが大きくなりました」
というのが、宇宙の本質的な説明のような気がします。
微妙にわかりにくいかもしれませんが、
根源的な話をします。
私の話を聞いて、
「正観さんの話は要するに、プラス思考ということですよね」
と言った人がいました。
小林正観はプラス思考という言葉は一度も使ったことはありません。
「マイナスをプラスに変えなさい」と言ったこともありません。
「ピンチをチャンスに変える」という言い方もしたことがありません。
ピンチという現象そのものが宇宙には存在していない。
だから、
「ピンチと認識する自分の認識力の低さをやめなさい」
と言っています。
現象はゼロなので、
ピンチをチャンスに変えるとか、
マイナスの現象をプラスに置き換えたり、
とらえなおすための提案をしているのではありません。
そういう言い方はしていません。
宇宙にはピンチやマイナスの現象があるのではない。
現象は全部ゼロなのです。
それを自分がどう思っているかだけなので、
もともとピンチという現象はない。
ピンチと認識すること自体が、
まだきちんと宇宙の認識をしていないということです。
私の考え方は、「プラス思考」とは微妙に違うということを
覚えていてください。
<『心がなごむ秘密の話』宝来社>
・・・
よく、自分の「苦労」を売り物にする人がいる。
曰(いわ)く、
「苦労をしなければ一人前ではない」、
「苦労をしない者は成功しない」、
「苦労しないと人の気持ちがわからない」
等々。
そして、苦労してこなかった人を、
「めぐまれすぎた」とか
「ボンボンだった」、
「極楽とんぼ!」と言ったりする。
小林正観さんのいう通り、「現象はすべてゼロ」。
幸福という現象があるわけでもなく、
不幸という現象があるわけでもない。
その現象を、幸福だと思う人がいて、逆に、
不幸だと思う人がいるだけの話。
苦労もまた同じで、
その経験を苦労だと思うか、
苦労なんかしたことがない、
と思うのかだけの違いだ。
人生をどうとらえるか、
「楽しい」「面白い」「ワクワクする」「幸せ」と思うのか、
「苦しい」「つまらない」「がっかりする」「不幸」と思うのか。
「現象は全部ゼロ」という言葉を胸に刻みたい。
<感謝合掌 令和5年9月3日 頓首再拝>
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36:伝統
:
2023/10/20 (Fri) 11:39:03
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*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月20日)より
善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。
悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは本来が虚であるから
”ある”ように見えても存在せぬ。
そういう現象を偽象または虚象と言う。
善き言葉であらわれた現象は、
実在の延長であるから真象と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、
神の嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。
真象は神の表現であり、神の発展であり、
み心の天になるがごとく地に成ることである。
真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。
現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。
「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。
<感謝合掌 令和5年10月20日 頓首再拝>
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37:伝統
:
2023/10/22 (Sun) 12:21:29
-
*「光明道中記」(10月22日《現象無しと完全に知る日》)より
【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
『生命の實相』第十一巻)】
二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。
仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。
却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。
一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、
「空とは単に無しと云う意味ではない。
空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空である
と観ずるのが”真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。
非有非空と言えば中々偉そうだが、
「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。
一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では
食べる訳にも行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。
<感謝合掌 令和5年10月22日 頓首再拝>
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38:伝統
:
2024/02/27 (Tue) 12:02:34
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*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より
合理性 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。
この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。
『般若心経』で幽霊が消えるのは、
それは高遠な哲理の表現であるからである。
病患部に対し神想観をして、
「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえないのだ」
と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して
「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。
(治病のための施念法の詳細は
拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)
通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方が
その人の心の中で優勢になるからである。
理責めのこの世界において、
われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。
多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在する
と理論体系「生命の実相」を自分の心のうちに蓄積する者は、
病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を征服して
光明の人生と化しうる。
・・・
<参照>
『生活応用 健全の真理』 講義(谷口雅春先生)
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/29ae211347039422d3ccd248a1089d82
(1)三界は“唯心の所現”である。
(2)人間が幸福に健全になり得る根拠
①物質は究極的な存在ではなく、エネルギーの一つの状態に過ぎない。
②ここに、この人間を創ったところの
不思議な知恵あるエネルギーが存在する。
③知恵あるエネルギーこそ神様。
この世界は、心を有っているところの驚くべきエネルギーによって
設計され、創造られているのであります。
④宇宙全体の動きを支配している知性と、人間に宿っている知性とが、
“本来一つのもの”であるから、
それで吾々の心が動けば全世界が動き出す、
互いに相感応して動き出すということになるのです。
<感謝合掌 令和6年2月27日 頓首再拝>
-
39:伝統
:
2024/03/03 (Sun) 10:08:42
-
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より
しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。
人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。
《無い人間が無い苦しみ》を苦しんでいるごとく
今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。
否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。
いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、
「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。
おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と
思い直すだけでも、この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が
「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。
これが否定の妙用である。
慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。
苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。
かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。
無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、
いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。
<感謝合掌 令和6年3月3日 頓首再拝>
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40:伝統
:
2024/04/22 (Mon) 12:39:53
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「無事」(ぶじ)の真の意味とは
伊勢ー白山 道(2024-04-22)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/e2d2ac393ab617b65ff58f26199d6b70
<感謝合掌 令和6年4月22日 頓首再拝>
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41:伝統
:
2024/07/04 (Thu) 11:11:47
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*「光明道中記」(7月4日《真理を知る日》)より
【外の権威に頼って救われると誤信した時代は過ぎ去った。
(「生命の實相」第六巻)】
「廓然無聖(かくねんむしょう)」
と云う達磨の一喝を受けた梁(りょう)の武帝は
それが大肯定のために否定だと云うことが判らない。
悟りの真理とは「一定のこんな形だ」と考えている人には、
そんな「一定のこんな形」の真理を否定する必要があったのである。
真理はそれを「形」だと思ったら躓(つまず)くのである。
功徳と言えば「形」であると思い、真理と言えば「形」であると思う。
そう思い込んでいる際(はな)に、
曰く「無功徳」曰く「真理無し」と否定(うちけ)されて了ったのだから、
梁の武帝は、自分の眼の前にいる真理を悟ったと伝えて聴いている大先輩なる
達磨大師は一体何者で、何を悟ったと言うのだろう。
一つそれを聴こうと思ったのだ。
そこで梁の武帝は、
「朕に対するものは誰(た)ぞ」と問うた。
如何にも一定の形をした達磨と云う人間が、
一定の形をした真理と云うものを食べて生きているではないか
と云うような問である。
形を見、肉体を見ている者には真理は見えないのである。
そこで、
「識(し)らず」
と達磨は答えて、サッサとその場を引上げて行って了ったのである。
<感謝合掌 令和6年7月4日 頓首再拝>
-
42:伝統
:
2024/09/04 (Wed) 11:32:11
-
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月4日)より
誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。
実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。
どこにも自分を害した者もないのである。
いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)は
まず心の世界で克服しなければならないのである。
心の世界でそれを消滅するとき、損をかけた人も、
損をかけられた状態もなくなるのである。
<感謝合掌 令和6年9月4日 頓首再拝>
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43:伝統
:
2024/10/20 (Sun) 11:25:53
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*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月20日)より
善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。
悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは本来が虚であるから
”ある”ように見えても存在せぬ。
そういう現象を偽象または虚象と言う。
善き言葉であらわれた現象は、
実在の延長であるから真象と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、
神の嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。
真象は神の表現であり、神の発展であり、
み心の天になるがごとく地に成ることである。
真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。
現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。
「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。
<感謝合掌 令和6年10月20日 頓首再拝>
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44:伝統
:
2024/10/22 (Tue) 11:09:38
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*「光明道中記」(10月22日《現象無しと完全に知る日》)より
【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
『生命の實相』第十一巻)】
二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。
仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。
却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。
一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、
「空とは単に無しと云う意味ではない。
空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空である
と観ずるのが”真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。
非有非空と言えば中々偉そうだが、
「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。
一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では
食べる訳にも行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。
<感謝合掌 令和6年10月22日 頓首再拝>
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45:伝統
:
2024/11/09 (Sat) 11:43:42
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*「光明道中記」(11月9日)より
【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
(『生命の實相』第二巻)】
或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、
その夜の大講演会にも出て講演したのであった。
生長の家の講師ともある者が
どうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。
成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。
そう批評して来た投書家も
心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。
肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは
治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は
何と批評せらるべきものか。
すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと
『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しい
と云うような投書も来ている。
そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。
点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。
<感謝合掌 令和6年11月9日 頓首再拝>
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46:伝統
:
2025/02/27 (Thu) 11:45:20
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*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より
合理性
―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。
この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。
『般若心経』で幽霊が消えるのは、
それは高遠な哲理の表現であるからである。
病患部に対し神想観をして、
「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえないのだ」
と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して
「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。
(治病のための施念法の詳細は
拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)
通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方が
その人の心の中で優勢になるからである。
理責めのこの世界において、
われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。
多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在する
と理論体系「生命の実相」を自分の心のうちに蓄積する者は、
病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を征服して
光明の人生と化しうる。
・・・
<参照>
『生活応用 健全の真理』 講義(谷口雅春先生)
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/29ae211347039422d3ccd248a1089d82
(1)三界は“唯心の所現”である。
(2)人間が幸福に健全になり得る根拠
①物質は究極的な存在ではなく、エネルギーの一つの状態に過ぎない。
②ここに、この人間を創ったところの
不思議な知恵あるエネルギーが存在する。
③知恵あるエネルギーこそ神様。
この世界は、心を有っているところの驚くべきエネルギーによって
設計され、創造られているのであります。
④宇宙全体の動きを支配している知性と、人間に宿っている知性とが、
“本来一つのもの”であるから、
それで吾々の心が動けば全世界が動き出す、
互いに相感応して動き出すということになるのです。
<感謝合掌 令和7年2月27日 頓首再拝>
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47:伝統
:
2025/03/03 (Mon) 11:40:34
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*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より
しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。
人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。
《無い人間が無い苦しみ》を苦しんでいるごとく
今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。
否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。
いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、
「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。
おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と
思い直すだけでも、この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が
「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。
これが否定の妙用である。
慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。
苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。
かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。
無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、
いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。
<感謝合掌 令和7年3月3日 頓首再拝>
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48:伝統
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2025/07/04 (Fri) 11:01:35
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*「光明道中記」(7月4日)より
【外の権威に頼って救われると誤信した時代は過ぎ去った。(「生命の實相」第六巻)】
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と云う達磨の一喝を受けた梁(りょう)の武帝は
それが大肯定のために否定だと云うことが判らない。
悟りの真理とは「一定のこんな形だ」と考えている人には、
そんな「一定のこんな形」の真理を否定する必要があったのである。
真理はそれを「形」だと思ったら躓(つまず)くのである。
功徳と言えば「形」であると思い、真理と言えば「形」であると思う。
そう思い込んでいる際(はな)に、
曰く「無功徳」曰く「真理無し」と否定(うちけ)されて了ったのだから、
梁の武帝は、自分の眼の前にいる真理を悟ったと伝えて聴いている大先輩なる
達磨大師は一体何者で、何を悟ったと言うのだろう。
一つそれを聴こうと思ったのだ。
そこで梁の武帝は、
「朕に対するものは誰(た)ぞ」と問うた。
如何にも一定の形をした達磨と云う人間が、
一定の形をした真理と云うものを食べて生きているではないかと云うような問である。
形を見、肉体を見ている者には真理は見えないのである。
そこで、
「識(し)らず」
と達磨は答えて、サッサとその場を引上げて行って了ったのである。
<感謝合掌 令和7年7月4日 頓首再拝>