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1:夕刻版
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2017/07/07 (Fri) 20:36:06
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(このスレッドでは「迷い無し」に関する情報を集めてまいります)
*「光明道中記」(7月7日)より
【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。
(「生命の實相」第七巻)】
慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。
「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。
心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、
私に法を説いて下さい」
「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、
その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。
慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、見出すことが出来なかった。
「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」
「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」
慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。
罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。
迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、
「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、
《もの》そのものがあることではない。
三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。
<感謝合掌 平成29年7月7日 頓首再拝>
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2:伝統
:
2017/07/08 (Sat) 19:27:32
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*「光明道中記」(7月8日)より
【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。(「生命の實相」第七巻)】
心を滞らせた状態が「迷い」であるから、心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。
自分で勝手に肩に力を入れて「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。
肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。
病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。
二祖慧可は斯うして、悩む心もない、迷う心もないという第一義的真理を悟ったのであるが、
三祖僧璨(そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、僧璨(そうさん)は
風疾(ふうしつ)を患っていた。風疾とはリュウマチのことである。
慧可は僧璨(そうさん)を試みるために言った――
「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。病気の者は医者に行くが好い」
「身は病気でございましても、病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」
僧璨(そうさん)はこう言ったので、天分を認められて慧可の弟子となることが
出来たのである。
併し僧璨(そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。
<感謝合掌 平成29年7月8日 頓首再拝>
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3:伝統
:
2017/07/31 (Mon) 18:42:10
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*「光明法語」(7月31日)より
何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。
幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。
よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。
これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。
<感謝合掌 平成29年7月31日 頓首再拝>
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4:伝統
:
2017/08/09 (Wed) 19:02:51
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*「光明道中記」(8月9日)より
【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。(『生命の實相』第十巻)】
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。
心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。だから不幸や災厄を
吾々の眼に視える世界から駆逐するには、ただ心の眼を開けば好いのである。
では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。
しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの制限の感じを
取り去ることである。そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。
例えば次の如く ──
自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
自分の眼(まなこ)のとどく限り、
自分の影響される限りの、
すべての虚空にはただ神のみが
幸福のみが善のみが満ちている。
<感謝合掌 平成29年8月9日 頓首再拝>
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5:伝統
:
2017/08/27 (Sun) 19:54:37
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*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月27日>(P64)より
愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。
愛憎の心は妄心である。
妄心とは本来”ない”心である。
本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。
愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、
自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。
無敵流の兵法の極意はここにある。
<感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>
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6:伝統
:
2017/11/14 (Tue) 18:20:43
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*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 平成29年11月14日 頓首再拝>
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7:伝統
:
2018/07/10 (Tue) 19:08:48
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*「光明道中記」(7月10日 迷い本来無しと知る日)より
【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、
人間は本当の自由を得る。(『完成の聖書』)】
四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて三祖僧璨(そうさん)に見(まみ)えて
教えを乞うたとある。
僧?(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。
「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。
どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。
「お前解脱を求めるのか。
解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」
「誰も縛っている者はありませぬ」
「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」
「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」
十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧璨(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。
自分の空想で、自分を縛っているものが
『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。
<感謝合掌 平成30年7月10日 頓首再拝>
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8:伝統
:
2018/07/18 (Wed) 20:36:02
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*『光明道中記(7月18日 行届いた生活の出来る日)』より
【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】
「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、ひとり自室に
招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒するその深く切なる心遣いが禅なのである。
慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、夜に慧能を訪れて法衣を
譲ると、夜のうちに姿を隠して落ちのびるように注意した其の深くこまやかな心遣いが
禅なのである。
茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、割烹と言えば、料理をする
手先の技巧だとのみ思い、禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。
行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、禅の悟りこそ生長の家の悟りである。
神秀上座の一句
「身は是菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡の台の如し」にはまだ「肉体の存在」を
みとめ、「迷う心の存在」を認めている。
五祖弘忍が法衣を譲らなかった理由である
「菩提(さとり)には樹(じゅ)無し 明鏡は台に非ず」と明耿々(めいこうこう)たる
実相心のみを悟った慧能はまさしく生長の家の悟(さとり)に到達していた。
<感謝合掌 平成30年7月18日 頓首再拝>
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9:伝統
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2018/07/31 (Tue) 19:50:58
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*「光明法語」(7月31日)より
何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。
幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。
よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。
これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。
<感謝合掌 平成30年7月31日 頓首再拝>
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10:伝統
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2018/08/09 (Thu) 18:34:52
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*「光明道中記」(8月9日 迷い消ゆる日)より
【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。(『生命の實相』第十巻)】
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。
心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを
「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。
だから不幸や災厄を吾々の眼に視える世界から駆逐するには、
ただ心の眼を開けば好いのである。
では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。
しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの制限の感じを
取り去ることである。そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。
例えば次の如く ──
自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
自分の眼(まなこ)のとどく限り、
自分の影響される限りの、
すべての虚空にはただ神のみが
幸福のみが善のみが満ちている。
<感謝合掌 平成30年8月9日 頓首再拝>
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11:伝統
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2018/11/14 (Wed) 17:30:14
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「迷い」は無い
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 平成30年11月14日 頓首再拝>
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12:伝統
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2019/07/07 (Sun) 19:39:11
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*「光明道中記」(7月7日《喜ぶ人に逢う日》)より
【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。
(「生命の實相」第七巻)】
慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。
「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。
心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、
私に法を説いて下さい」
「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、
その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。
慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、見出すことが出来なかった。
「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」
「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」
慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。
罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。
迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、
「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、
《もの》そのものがあることではない。
三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。
<感謝合掌 令和元年7月7日 頓首再拝>
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13:伝統
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2019/07/08 (Mon) 18:52:11
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*「光明道中記」(7月8日《心の滞(とどこお)り消える日》)より
【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。(「生命の實相」第七巻)】
心を滞らせた状態が「迷い」であるから、
心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。
自分で勝手に肩に力を入れて「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。
肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。
病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。
二祖慧可は斯うして、悩む心もない、迷う心もないという第一義的真理を悟ったのであるが、
三祖僧璨 (そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、僧璨 (そうさん)は
風疾(ふうしつ)を患っていた。風疾とはリュウマチのことである。
慧可は僧璨 (そうさん)を試みるために言った――
「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。病気の者は医者に行くが好い」
「身は病気でございましても、病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」
僧璨 (そうさん)はこう言ったので、天分を認められて慧可の弟子となることが
出来たのである。
併し僧璨 (そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。
<感謝合掌 令和元年7月8日 頓首再拝>
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14:伝統
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2019/07/10 (Wed) 18:40:32
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*「光明道中記」(7月10日 迷い本来無しと知る日)より
【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、人間は本当の自由を得る。
(『完成の聖書』)】
四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて三祖僧?(そうさん)に見(まみ)えて教えを
教えを乞うたとある。
僧?(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。
「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。
どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。
「お前解脱を求めるのか。解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」
「誰も縛っている者はありませぬ」
「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」
「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」
十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧?(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。
自分の空想で、自分を縛っているものが『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。
<感謝合掌 令和元年7月10日 頓首再拝>
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15:伝統
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2019/07/17 (Wed) 19:35:27
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*『人生の秘訣365章』第12篇(P295) より
~《完全な感謝は明るいカメラ・レンズである》
“善”の顕現を抑制したり、歪めたりして、
そこに“悪”と称する虚像をつくり出すところの“迷いの心”とは、
神の心に波長の合わない心なのである。
それは“怒り”“憎しみ”“嫉妬”“排斥”“悲しみ”“争い”“貪欲”
“利己心”“恐怖”“憂鬱”-----等の暗い、相互に衝突したり
対立したりする場合に起る想念が、それは対立であるが故に、衝突し、抑制し、
屈折せしめて、本来の完全な相(すがた)を顕すことをできなくさせるのである。
このような心を“迷いの心”というのである。
“迷いの心”を去るには、そのような対立闘争の心を抛棄して、
すべてを感謝してそのまま天地の恵みを完全に受けとる心になればよいのです。
それをカメラに喩えればすべての光を抑制無しに受け入れる
良質の明るいカメラ・レンズを備えるのと同じことです。
これによって、どんな微細な“神の恵み”のすがたでも
現象界に写し出すことができるのである。
「天地一切のものに感謝せよ」の神示はこの真理を示すのである。
<感謝合掌 令和元年7月17日 頓首再拝>
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16:伝統
:
2019/07/31 (Wed) 18:41:00
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*「光明法語」(7月31日)より
何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。
幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。
よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。
これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。
<感謝合掌 令和元年7月31日 頓首再拝>
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17:伝統
:
2019/08/09 (Fri) 20:03:09
-
*「光明道中記」(8月9日《迷い消ゆる日》)より
【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。
(『生命の實相』第十巻)】
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。
心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを
「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。
だから不幸や災厄を
吾々の眼に視える世界から駆逐するには、ただ心の眼を開けば好いのである。
では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。
しずかに五官の眼を閉じ、
五官によって仮りに見えているところの制限の感じを取り去ることである。
そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。
例えば次の如く ──
自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
自分の眼(まなこ)のとどく限り、
自分の影響される限りの、
すべての虚空にはただ神のみが
幸福のみが善のみが満ちている。
<感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>
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18:伝統
:
2019/08/14 (Wed) 19:09:58
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*「光明道中記」(8月14日《過ちの消ゆる日》)より
【欠点に勝つには神想観(念仏)して欠点を神に預けよ。
(『生命の実相』第九巻)】
(歎異抄第二条)
各々十余箇国のさかひをこえて、
身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ
御(おん)こころざし、
ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、
また法文等をもしりたるらんと、
こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、
おほきなるあやまりなり。
もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生(がくしょう)たち、
おほく座(おわ)せられてさふらふなれば、
かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要(よう)
よくよくきかるべきなり。
『歎異抄』のこの一節で、親鸞聖人の許(もと)に、どんな多くの人たちが、
往生極楽のみちを問い訊かんがために集って来たかがうかがわれる。
各々十余箇国と云うのは関東から京都へ上るあいだの
常陸、下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、山城を指す。
それらの人々が、何か特別に極楽往生の秘密秘伝でもあるかの如く
参集して下さったのは有難いが、念仏のほかに何の秘密秘伝もなければ、
何か素晴らしいほかの経文の功徳によって極楽往生するのでもない。
そんな「学」や、法文の功徳で極楽往生するなら、
南都(奈良)北嶺(比叡)などの学者たちに御相談せられる好いと、
親鸞は正面から迷いを破られたのである。
<感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>
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19:伝統
:
2019/08/27 (Tue) 19:05:19
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*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月27日)より
愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。
愛憎の心は妄心である。
妄心とは本来”ない”心である。
本心は愛憎を離れた心である。
平等の心である。
愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、
自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。
無敵流の兵法の極意はここにある。
<感謝合掌 令和元年8月27日 頓首再拝>
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20:伝統
:
2019/11/14 (Thu) 18:14:02
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*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>
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21:伝統
:
2020/04/06 (Mon) 23:49:08
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*『白鳩』(昭和40年4月6日の法語)より
人間は神の最高の自己実現であるから、本来健康であるのである。
虚弱とか病気とかいうものは、“迷いの心”のあらわれにすぎないのである。
ではその“迷いの心”は何処から来たのかというと、
“迷いの心”という‘もの’があって、それが何処かの国から旅行して
此処へやって来たというようなものではないのである。
それは自己が“神の子”であり、“神の最高の自己実現”である
という霊的実相を自覚しない‘あらわれ’である。
それは心が半覚半睡の状態に於いて夢を見るようなものである。
その夢の中に於いて“病気”を現実として見、
不幸を現実として見。災害を現実として見る。
そして夢が醒めない限り、夢中の人にとってはたしかに
病気その他の一切の悪も不幸も現実であって、
いくら非存在だといわれても、非存在だとわかる筈はないのである。
『無門關』の第九則に
「大智勝如来は十劫の間道場に坐禅して尚悟りをひらかなかったのは何故であるか」
の公案があり、「‘彼が’悟りをひらかざるなり」ということが
その公案の解決となっているが、
人間は全能全智〈大通智勝〉の“本源仏”または、“神の”自己顕現であっても、
みずからがその瞼を開かないで実在を見ないでいる間は、
非存在の“夢中事実”を実在だと見るほかはないのである。
〈※参照 谷口雅春先生著 『無門關解釋』〉
( http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243 )
<感謝合掌 令和2年4月6日 頓首再拝>
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22:伝統
:
2020/07/08 (Wed) 23:04:12
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*「光明道中記」(7月7日《喜ぶ人に逢う日》)より
【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。(「生命の實相」第七巻)】
慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。
「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、私に法を説いて下さい」
「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。
慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、見出すことが出来なかった。
「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」
「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」
慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。
罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。
迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、
《もの》そのものがあることではない。
三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。
<感謝合掌 令和2年7月8日 頓首再拝>
-
23:伝統
:
2020/07/31 (Fri) 21:04:04
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*「光明法語」(7月31日)より
何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。
幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。
よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。
これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。
<感謝合掌 令和2年7月31日 頓首再拝>
-
24:伝統
:
2020/08/09 (Sun) 22:35:24
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*「光明道中記」(8月9日《迷い消ゆる日》)より
【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。
(『生命の實相』第十巻)】
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。
心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。だから不幸や災厄を
吾々の眼に視える世界から駆逐するには、ただ心の眼を開けば好いのである。
では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。
しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの制限の感じを
取り去ることである。そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。
例えば次の如く ──
自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
自分の眼(まなこ)のとどく限り、
自分の影響される限りの、
すべての虚空にはただ神のみが
幸福のみが善のみが満ちている。
<感謝合掌 令和2年8月9日 頓首再拝>
-
25:伝統
:
2020/10/07 (Wed) 18:43:51
-
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月7日)より
われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。
それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。
しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。
神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、
その後に起こる事件の処理中には(病気ならば回復の過程において)
悪化と見える出来事が起こってくるかも知れないのである。
これを迷いの自壊作用と名づける。
このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに
「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」
と念ずるがよいのである。
<感謝合掌 令和2年10月7日 頓首再拝>
-
26:伝統
:
2020/11/14 (Sat) 23:44:03
-
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 令和2年11月14日 頓首再拝>
-
27:伝統
:
2021/07/08 (Thu) 02:48:50
-
*「光明道中記」(7月7日《喜ぶ人に逢う日》)より
【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。
(「生命の實相」第七巻)】
慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。
「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。
心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、
私に法を説いて下さい」
「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、
その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。
慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、見出すことが出来なかった。
「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」
「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」
慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。
罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。
迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、
「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、
《もの》そのものがあることではない。
三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。
<感謝合掌 令和3年7月7日 頓首再拝>
-
28:伝統
:
2021/07/11 (Sun) 02:28:35
-
*「光明道中記」(7月10日 迷い本来無しと知る日)より
【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、人間は本当の自由を得る。
(『完成の聖書』)】
四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて三祖僧?(そうさん)に見(まみ)えて
教えを乞うたとある。
僧?(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。
「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。
どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。
「お前解脱を求めるのか。
解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」
「誰も縛っている者はありませぬ」
「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」
「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」
十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧?(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。
自分の空想で、自分を縛っているものが
『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。
<感謝合掌 令和3年7月10日 頓首再拝>
-
29:伝統
:
2021/08/02 (Mon) 01:00:02
-
*「光明法語」(7月31日)より
何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。
幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。
よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。
これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。
<感謝合掌 令和3年8月1日 頓首再拝>
-
30:伝統
:
2021/11/14 (Sun) 13:27:19
-
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 令和3年11月14日 頓首再拝>
-
31:伝統
:
2022/07/07 (Thu) 15:26:55
-
*「光明道中記」(7月7日《喜ぶ人に逢う日》)より
【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。
(「生命の實相」第七巻)】
慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。
「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。
心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、
私に法を説いて下さい」
「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、
その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。
慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、
見出すことが出来なかった。
「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」
「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」
慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。
罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。
迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、
「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、
《もの》そのものがあることではない。
三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。
<感謝合掌 令和4年7月7日 頓首再拝>
-
32:伝統
:
2022/07/08 (Fri) 19:16:39
-
*「光明道中記」(7月8日)より
【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。(「生命の實相」第七巻)】
心を滞らせた状態が「迷い」であるから、
心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。
自分で勝手に肩に力を入れて「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。
肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。
病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。
二祖慧可は斯うして、悩む心もない、迷う心もないという
第一義的真理を悟ったのであるが、
三祖僧?(そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、僧?(そうさん)は
風疾(ふうしつ)を患っていた。風疾とはリュウマチのことである。
慧可は僧?(そうさん)を試みるために言った――
「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。病気の者は医者に行くが好い」
「身は病気でございましても、病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」
僧?(そうさん)はこう言ったので、天分を認められて慧可の弟子となることが
出来たのである。
併し僧?(そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。
<感謝合掌 令和4年7月8日 頓首再拝>
-
33:伝統
:
2022/07/31 (Sun) 12:04:49
-
*「光明法語」(7月31日)より
何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。
幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。
よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。
これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。
<感謝合掌 令和4年7月31日 頓首再拝>
-
34:伝統
:
2022/08/10 (Wed) 02:05:57
-
*「光明道中記」(8月9日《迷い消ゆる日》)より抜粋
【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。
(『生命の實相』第十巻)】
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。
心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを
「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。
<感謝合掌 令和4年8月9日 頓首再拝>
-
35:伝統
:
2022/09/16 (Fri) 15:06:06
-
*Web:かんながら(2022年09月16日)より
人は無意識に自分を向上させようとしています。
でもそれはただ、「させようとしている」のであって、
向上するわけではありません。
向上させようとして用いるのが、
何かを裁いたり拒絶したりという態度です。
もし敏感に自分の内側を観察することができたら、
無数の批判が去来していることが分かるでしょう、
しかしそのような態度がもたらしてくれるのは、不幸と不満のムードだけです。
そんなムードから逃れたくて、また拒絶や批判の繰り返しを続け、
そうやって毎日が過ぎていきます。
もし人が敏感になることができたら、
覆われた不満の雲の背後に、何の問題もない満たされた青空が
純粋に存在しているのが分かることでしょう。
雲をどうコントロールしても、決して青空にはなりません。
青空は雲が消えた時にだけ現れます。
雲は変えるべき何かがあると主張し、実際にそれと取り組もうとします。
これが自我の何たるかです。
自我は解決すべき問題があるとすることで、人生というドラマを作り出すのです。
でもドラマは実際には存在していません。
ドラマは思考が作り出す幻想だからです。
この理解を携えながらドラマ(人生)を生きることが、
この世における最高の生き方だと言えるでしょう。
そうなると生きることが圧倒的に気楽になります。
そして不思議なことに必要なものは速やかに満たされ、
何をやっても上手くいくようになります。
と言うより、上手くいっていないことまで上手くいっていると感じるようになります。
この生き方はそんなに難しいことではありませんが、
問題解決が何より好きな人は、この平安の道を歩もうとしません。
平安の道さえも難癖をつけて批判しようとします。
そんな態度が悪いわけではないのですが、
本人はそれを幸せになりたくてやっているのだから、
完全な勘違いだということになります。
ある種のカルマのようなものです。
でも僕に言わせれば、そんな生き方も好きなだけやったらいいのです。
その間は苦しいですが、その苦しみは誤解であり、
どんな時も絶対安心の境地に守られているから同じです。
だから人生に失敗はあり得ません。
そもそもどこにも向かっていないし、究極から見れば何もしていないからです。
いまも誰一人例外なく、絶対安心の次元の中にいます。
そしてその中で、多くの人は不安と不満という夢を見ているのです。
力を抜いて、自分を批判するのをやめて、いまここに寛いでみましょう。
https://abetoshiro.ti-da.net/e12329886.html
<感謝合掌 令和4年9月16日 頓首再拝>
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36:伝統
:
2022/11/14 (Mon) 15:30:16
-
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 令和4年11月14日 頓首再拝>
-
37:伝統
:
2023/07/07 (Fri) 10:40:14
-
*「光明道中記」(7月7日《喜ぶ人に逢う日》)より
【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。
(「生命の實相」第七巻)】
慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。
「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。
心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、
私に法を説いて下さい」
「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、
その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。
慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、
見出すことが出来なかった。
「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」
「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」
慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。
罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。
迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、
「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、
《もの》そのものがあることではない。
三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。
<感謝合掌 令和5年7月7日 頓首再拝>
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38:伝統
:
2023/07/10 (Mon) 05:00:37
-
*「光明道中記」(7月10日)より
【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、人間は本当の自由を得る。
(『完成の聖書』)】
四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて三祖僧?(そうさん)に見(まみ)えて
教えを乞うたとある。
僧?(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。
「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。
どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。
「お前解脱を求めるのか。
解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」
「誰も縛っている者はありませぬ」
「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」
「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」
十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧?(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。
自分の空想で、自分を縛っているものが
『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。
<感謝合掌 令和5年7月9日 頓首再拝>
-
39:伝統
:
2023/07/31 (Mon) 12:16:15
-
*「光明法語」(7月31日)より)
何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。
幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。
よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。
これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。
<感謝合掌 令和5年7月31日 頓首再拝>
-
40:伝統
:
2023/08/09 (Wed) 13:14:54
-
*「光明道中記」(8月9日)より
【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。
(『生命の實相』第十巻)】
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。
心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを
「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。
だから不幸や災厄を吾々の眼に視える世界から駆逐するには、
ただ心の眼を開けば好いのである。
では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。
しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの
制限の感じを取り去ることである。
そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。
例えば次の如く ──
自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
自分の眼(まなこ)のとどく限り、
自分の影響される限りの、
すべての虚空にはただ神のみが
幸福のみが善のみが満ちている。
<感謝合掌 令和5年8月9日 頓首再拝>
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41:伝統
:
2023/11/14 (Tue) 14:42:25
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*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば
罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 令和5年11月14日 頓首再拝>
-
42:伝統
:
2024/07/07 (Sun) 17:11:38
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*「光明道中記」(7月7日《喜ぶ人に逢う日》)より
【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。
(「生命の實相」第七巻)】
慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。
「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。
心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、
私に法を説いて下さい」
「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、
その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。
慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、
見出すことが出来なかった。
「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」
「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」
慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。
罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。
迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、
「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、
《もの》そのものがあることではない。
三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。
<感謝合掌 令和6年7月7日 頓首再拝>
-
43:伝統
:
2024/07/10 (Wed) 13:17:43
-
*「光明道中記」(7月10日)より
【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、人間は本当の自由を得る。
(『完成の聖書』)】
四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて
三祖僧?(そうさん)に見(まみ)えて教えを教えを乞うたとある。
僧?(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。
「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。
どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。
「お前解脱を求めるのか。
解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」
「誰も縛っている者はありませぬ」
「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」
「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」
十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧?(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。
自分の空想で、自分を縛っているものが
『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。
<感謝合掌 令和6年7月10日 頓首再拝>
-
44:伝統
:
2024/08/09 (Fri) 14:41:28
-
*「光明道中記」(8月9日)より
【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。
(『生命の實相』第十巻)】
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。
心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを
「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。
だから不幸や災厄を吾々の眼に視える世界から駆逐するには、
ただ心の眼を開けば好いのである。
では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。
しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの
制限の感じを取り去ることである。
そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。
例えば次の如く ──
自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
自分の眼(まなこ)のとどく限り、
自分の影響される限りの、
すべての虚空にはただ神のみが
幸福のみが善のみが満ちている。
<感謝合掌 令和6年8月9日 頓首再拝>
-
45:伝統
:
2024/11/14 (Thu) 14:56:44
-
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば
罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 令和6年11月14日 頓首再拝>
-
46:伝統
:
2025/07/07 (Mon) 12:46:40
-
*「光明道中記」(7月7日《喜ぶ人に逢う日》)より
【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。
(「生命の實相」第七巻)】
慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。
「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。
心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、
私に法を説いて下さい」
「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、
その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。
慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、
見出すことが出来なかった。
「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」
「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」
慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。
罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。
迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、
「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、
《もの》そのものがあることではない。
三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。
<感謝合掌 令和7年7月7日 頓首再拝>
-
47:伝統
:
2025/07/10 (Thu) 11:32:15
-
*「光明道中記」(7月10日)より
【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、人間は本当の自由を得る。
(『完成の聖書』)】
四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて
三祖僧?(そうさん)に見(まみ)えて教えを教えを乞うたとある。
僧?(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。
「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。
どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。
「お前解脱を求めるのか。
解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」
「誰も縛っている者はありませぬ」
「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」
「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」
十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧?(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。
自分の空想で、自分を縛っているものが
『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。
<感謝合掌 令和7年7月10日 頓首再拝>